交易都市

大陸で一番の交易都市と言えば、恐らく多くの者がイルバを挙げるだろう。

北の大国レノア、その首都から南に街道を辿っていくと現れる巨大都市。広さは主都ほどではないが、行き交う人々の数は首都のそれとは比較にならぬほど多い。レノアの東西と南北の街道が交差するこの街には、円屋根の建物が立ち並び、それらの中では多くの市場が立てられている。戸外の市場も多くあり、一日に取引される物品は到底数えきれるものではないと言う。

だがイルバがこのような形態で名を馳せるようになったのはここ十数年のことである。それ以前はそれほど大きな都市でもなく、交易は行われていたものの、今ほどには栄えていなかった。現在の繁栄は、一人の男の手腕によってもたらされたものである。

イルバを含む大きな領地の持ち主の次男だった男は、若くしてイルバの領主となった。商人たちのやり方に一定の体系を作りだした事が彼の功績である。それによって、それまでは各自が勝手にやっていた商売が、誰にでも分かりやすく、安心なものになったのである。そして、もう一つ。こちらの方が大きな功績と言えるかも知れないが、彼は口入屋という商売を体系立てたのだった。今日、一般に「奴隷」と言われる人々の多くが、市場で仕事を見つけた者たちである。職を求める人間と、人手を求める者とが、互いに情報をやり取りできるようになり、需要と供給の均衡が成り立つようになる。イルバ領主は非道な人身売買とは一線を画すやり方を徹底させ、イルバでの奴隷市を確立させたのだった。

領主の屋敷は街の中心部からは離れたところにあった。殊のほか裕福な人々の家が集まる地域である。閑静な一角の中でも一際目立つ立派な門構え。道端からは屋敷の屋根の一部くらいしか見えないほど、庭には豊かな緑が生い茂っている。真白な石を敷き詰めた道路を進むと、緑の向こうに壮麗な屋敷が見えてくるのだった。

屋敷の一階にある執務室で、ダルケスは執事を待っていた。手元の紐を引くと、壁を伝い、控えの間へ通じる仕組みになっていた。

屋敷の執事はもう長年ダルケスの下で働いている男だった。老年と言ってもいい年頃だが、動きは機敏で、屋敷の中の事ならすべて把握している。若い勤め人は怖くて直視も出来ないほどの威圧感を持っていた。ある意味それは主人ダルケス以上のものであったかもしれない。

執務室からの呼び出しを確認するや、執事はすぐに仕事を中断し、執務室へと向かった。使用人専用の通路は、どの部屋へも近道になっている。この通路のおかげで、主人やその客などより早く行動することが可能なのだった。執務室の奥の扉をあけ、主人に一礼する。

「お待たせを致しました」

「いつもに増して早いとも。今日の手紙は来ているかな?」

「いえ、まだ届いておりません。届き次第、こちらにお持ちいたします」

「そうか。先日のカーサ地区の取引の件で連絡を待っているのだが。昨日も届かなかったな」

「はい。三日ほど前に取引は終了したとの報告を受けました。その結果報告を届けると、サリオラ様からのご伝達でしたが」

「うむ。困ったものだな。あれが来ないと、こっちの話が進まん」

ダルケスは書きかけの手紙を執事に示し、肩をすくめる。執事は頷いて同意を示した。

「まあいい。苛々しても始まらん。茶でも飲むか」

「すぐにお持ちします」

「他の誰かにやらせろ。お前はここで話し相手になってくれ」

執事とおしゃべりをする主人というのは珍しいものかもしれない。だが彼らは少年時代からの付き合いであり、ある意味では戦友とも言える間柄だった。主人は執事に絶対の信頼を寄せているし、執事は主人に忠誠を誓っている。二人はよくこうして談笑するのだった。

執事は呼び鈴を鳴らし、現れた小間使いに茶を運ぶよう申しつけた。主人は手紙の道具を片付け、執事を椅子へ導く。

「座れ。……遠慮するな。ほら、いいから座れ。なあ、お前がここで働き始めて、何年になる?」

「この町へ越してきてから、としますと、十五年、いえ十六年になりましょうか」

「そうか。その前に色々あったものな」

執事は黙って頷く。主人は懐かしむような、苦笑するような、複雑な表情を浮かべた。

「あの事件のおかげでコルト家を継ぐ羽目になったわけだが、兄貴には可哀想な事をしたな。まあ親父は相当に疑心暗鬼だったからな。実際に兄貴は親父の椅子を狙っていたようだし」

「元より、あのお二人は相性が良くございませんでした。僭越ながら、私の目からは奥方様の愛を取り合っておられたように思います。でもまさか、ゲラン様が暗殺されるとまでは思いませんでしたね」

「ああ、私もあの時はさすがに驚いた。兄貴が食堂で血を吐いた時の、親父のあの顔は今でも忘れられないよ。長男を殺したってのに、してやったり、とでも言いそうだった」

「大旦那様が暗殺なさったという証拠はございませんが」

執事は冷静に意見を述べたが、ダルケスは手を振って即座にそれを却下した。

「あれは親父の差し金だったさ。私も、お前がいなかったら殺されていただろうし」

「そんな……」

「本当だよ。お前の忠告通り、家を出て、領土内の町の領主になって良かった。仕事も成功した今は本当に良かったと思っている。お前には感謝してもしきれないな」

「私は当然の務めを果たしただけです」

控え目に謙遜する執事に、ダルケスは微笑んでみせる。運ばれてきた茶を口にし、二人はしばし沈黙を楽しんだ。

「一昨日は市場の視察においででしたね。成果はいかがでしたか」

執事が尋ねると、ダルケスは首を振った。

「問題は何も。平和なものだ。多少の小競り合いはいつもの事だし、物品の流れは通常通りで何も言う事はなし。数日前に馬車の積み荷が崩れて怪我人が出たようだったが、それもまあ無事に収拾されたしな」

「それは良うございました」

「嫌な事が一つあった」

「と言うと」

ダルケスは茶碗を置き、首を横に振る。

「大した事じゃないがな。誰だかに、『このような大きな都市の領主ともなれば、さぞかし華麗な毎日を送っているのでしょう』と言われたんだ。実際にはこうして書類に埋もれ、外に出るのは視察の見回りくらいのもの。仕事に忙殺される毎日だと言うのに」

「身なりや屋敷などしか見えないのですから、そういう言葉が出ても仕方のないことでしょう」

「分かっているよ」

そうは言いながら、ダルケスの表情は曇っている。執事は重ねて言った。

「晩餐会などの事を言っているのでは?」

「打ち解けた仲間との食事じゃあるまいし……。後で誰が何を言うかも分からんから気を遣う。にこにこ笑って愛想をふりまいて。誰に会っても『ごきげんよう』ばかりで実がない」

「まあ、それは……」

執事は言葉に詰まってしまった。主人のこういった愚痴はあまり聞く事がない。だが、誰かに言われた一言が、溜まった疲れや愚痴を吐き出すきっかけになったのだろうか。凝り固まった肩を揉みほぐしながら、ダルケスは嘆息している。

「忙しくて、女と遊ぶ時間もない」

「昔は浮名を流したものですよね」

「まあな。だが最近はお見限りだ。女はまめに連絡を取らんと……」

「私のような者には面倒に思われてなりませんがね」

「そうだな……言ってみれば、うさぎ狩りと同じなんだよ。野に放たれているうさぎを追い詰め、仕留めるのは面白い。貴族の男ならみなうさぎ狩りをするだろう。きつねでもいいが。慣習でもあるし、運動でもあるし、教養の一つでもあるが、結局のところ、みな面白いからやるのだ。だが、かごに閉じ込めたうさぎに剣を突き立てる競技があったとしよう。誰が面白がってやるか? また、捕まえたうさぎを飼うのも手間がかかる。やはり、うさぎは狩る経緯が楽しいのだよ。だから俺は結婚しないのだ」

「世界中の女性を敵に回しそうなご発言ですね」

「そうか? だが俺は女というものが好きだ。女は美しい。柔らかく、奇麗だ。見た目もいいが、声もいい。もちろん、中身も良ければ言う事はないな。金を費やし、時間をかけ、その魅力をより磨かせる。俺はそれが楽しい。それにな、女もまた狩りをしているのだよ。いつでも虎視眈々と狙っているのさ」

「なるほど」

「お前たち夫婦は仲睦まじいな。お前は狩りをしたくはならないのか?」

執事は静かに笑った。

「私はまだ女房を捕まえておりませんで。これからもずっと捕まえられないでしょう」

「なるほどな。面白い。俺もそういう女を見つけたいものだ。だが、何より仕事が先だ。やれやれ……」

「そうは仰いますが、案外楽しそうにしていらっしゃるように見えますよ」

「そうかもしれん。俺は結局、仕事が好きなのだな。我が街イルバ。この交易都市を管理するのが楽しくて仕方ないのだ。女にうつつを抜かしている暇はない。よし、仕事を再開するとしよう。サリオラに催促の手紙を書いてやる」

「出来次第、すぐお届けしましょう」

「仕事のできる執事を持って、俺は幸せだな」

皮肉な笑みを浮かべながら、ダルケスは再び机に向かった。執事は黙って茶の道具を片付けている。何気なく過ぎゆくこの時間が、自分にとって大切なものであると感じながら、ダルケスは仕事に没頭していった。

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