Legend of The Last Dragon −第六章−

冬空は、穏やかな町並を象徴するかのようにすっきりと晴れ渡っていた。

シンジゴ山脈の峰々に囲まれた町、デュレー。南北を行き来する旅人たちで賑わう他は、目立って特徴のある町ではない。平野の大きな町のように堅固な城壁があるわけでもなく、特産物もこれと言ってない。宿場町としては有名だが、それ以外はいたって平凡な町であった。

時を告げる鐘が長く、二度、鳴る。家々の屋根から朝食の準備の煙が立ち上り、町の中心部では市場が賑わっている。

旅人たちが行き来する周辺、特に多く宿屋が集まる一角にティレルの宿はある。古びた木の看板には「食事と布団と素晴らしき調べ」と彫りつけてある。ティレルの母親が宿をやっていた頃に作られたもののようだ。木造の二階建て。周囲の宿屋に比べて少々大きい事を除けば、他となんら変わりない、素朴な建物だ。二階の窓のいくつかが開けられ、中から少女らしい声が聞こえてくる。

「何度言ったら分かるのよ!」

鼻息も荒く、両腰に拳をあてる。睨みつけるのは目の前にいる少年である。少年は巻き毛をかきあげ、わざとらしく両手で耳を塞いだ。

「うるさいなあ。分かっていると言っているじゃないか」

「分かってないから言ってるんじゃないのっ!」

「そんな大声を出すと、シキの怪我が悪化するぞ」

「なんですってぇ!」

火に油とはまさにこのこと。言ってから「しまった」と思ったが、エイルは大仰に肩をすくめるだけに留めた。なんと言えばいいか分からなかったからだ。

――クリフはまだかな。

喧嘩の仲裁役はいつもクリフの役目だ。エイルもクレオも、お互いにちょっとやりすぎたかと思う事はあるのだが、どう納めればいいか分からなくなる。その気があるわけではないが加熱していく喧嘩。クリフがいれば「二人とも落ち着いてよ」と中に入ってくれるのだ。だがそのクリフは、早朝訓練に出たきり、まだ帰らない。

エイルは、クレオと二人きりでいるのが少々気詰まりだった。また喧嘩になりそうな予感がした。何も、喧嘩したくてしているわけではない。けれど、何故かいつも言い合いになり、最後にはクレオが顔を真っ赤にして怒る。今日もまたそういう事になりそうな気がして、エイルはお茶でも飲もうと二階へ上がったのだ。だが、シキの部屋へ入ろうとしたところで、クレオに声をかけられた。シキを起こしてはいけない、というのがクレオの配慮だったのだが、腕をひっつかまれて隣の部屋へ押し込まれたエイルにしてみれば、乱暴されたとしか思えない。そうしてまた、いつもの言い合いが始まってしまったのだった。

「シキはあんたのお茶入れ係じゃないんだから」

「だから、それはもう分かっていると……」

「じゃあなんでシキの部屋に行くのよ。シキはさっきようやく寝たばっかりで、それでも傷が痛んで、寝付けないでいるっていうのに」

「だから! お前に言われんでも分かっている。茶を入れるくらい、私は自分で……」

「あんたがそばでがちゃがちゃしてたら起きちゃうわよ。そしたらシキは手伝おうとして立ち上がっちゃうでしょ」

「……」

シキの足の怪我を思い、足が痛んでも自分のためにお茶を入れようとするであろうシキを思う。苦虫を噛み潰したような顔のままだが、エイルは黙っていた。口答えしないエイルを見て、クレオは満足そうに吐息する。そうして冷静になると、ふと思った。

――急に腕を引いたのは、強すぎたかしら。

「まだ痛い?」

「別に……」

「あの、ごめんね」

「ふん。珍しい事もあるものだ」

照れ隠しに、エイルはそっぽを向いた。

「人が謝ってるのに、そういう態度はないでしょ」

「悪いと思うなら、最後までその態度を崩すな」

「大きなお世話よ、ほっといて」

「何を! お前、私を……」

「『誰だと思っているんだ』、でしょ。もう聞き飽きたわよ。それよりそこの箱を下へ運んでってティレルに言われているの。頼んだわよ」

「な、なんで私が……」

エイルは目をむいたが、クレオは既に姿を消している。階段を下りて行くクレオの後頭部に向かって舌を突き出し、反抗の意を表す。と、はしばみ色の髪が見えた。クレオが戻ってきたのかと慌てたが、階段を上ってきたのはクリフだった。

「なんだ、びっくりした」

「何が?」

「いや別に、何でも。……そうだ、クレオがこの箱を下へ運べと言っていた」

「衣装箱か。結構重いんじゃないの、これ」

「そうだ。だから……」

「うーん、これは確かに重いけど、エイルでも一人で運べると思うな」

エイルが口を尖らせると、クリフは爽やかな笑顔を浮かべた。

「大丈夫、エイルには出来るよ」

手伝え、と言うつもりだった。もちろん、シキなら手伝うどころか、何も言わずにやってくれる。けれど、クリフには手伝うつもりすらないようだ。反論しようとしたエイルは、クリフの目の中に意地悪そうな光を見つけた。

「出来るだろ?」

さきほどのクレオと同じ格好。両手を腰に当て、クリフは楽しそうだ。

「このくらい、私には簡単な事だ」

エイルは肩をいからせた。

『私たちはあなたの家来でもないし、小間使いでもないんだからね』

ティレルの宿に移ってすぐ、クレオが口にした言葉だ。エイルは面食らったが、間違っているわけではない。確かに、クリフもクレオも、自分の身の回りの世話をする用人ではないのだった。シキが怪我で起き上がれないなら、エイルは自分で自分の世話を焼かねばならなかった。だがそれは、エイルにとって、考えもつかない事だった。

エイルは生まれてこの方、着替え一つにしても一人でやった事はない。良いも悪いもなく、それが当たり前だった。一度、五歳くらいの頃だったろうか。廊下で侍従の一人が物を散乱させて拾っていたのを見た事がある。たまたま一人だったエイルは、ごく自然にそれを手伝おうとした。だが、侍従は顔をひきつらせて断った。

「わたくしが叱られます。おやめ下さい」

後になって、シキが言った。

「侍従の仕事を取ってはなりません」

教育係を務めていたジルクは、こうも言った。

「エイル様は人の上に立つ方です。その優しいお気持ちは、きっとその者に伝わったでしょう。けれど、皆が同じ仕事をするのではないのですから……。その者にはその者のやるべき事があり、殿下には殿下のやるべき事があるのです」

王族には王族の立場があり、臣下には臣下の立場がある。お互いに、それを越えてはならない。エイルにとって、着替えや食事は「自分でやってはならない事」だったのである。それに慣れていたエイルは、自分のことは自分でやれ、と言われること自体が理解しづらかった。

だが、今は違う。小間使いはいない。何でもやってくれたシキは怪我で動けない。何でも自分でやらねばならない。戸惑い、またやろうとしても、上手くはいかない。不満が募る。だが、シキの怪我を思えば胸が痛む。いつも頼ってばかりいたのだから、たまには安心させてやらねば、とも思うのだった。

そして何より、「何も出来ない足手まといだ」と思われる事が、エイルには我慢ならなかった。自分でも、妙だと思う。以前は気にならなかったからだ。自分は「やらない」だけだった。それが今は、「出来ない」と思うようになった。自分は非力だ。そう思うことが、エイルの誇りを傷つける。

「大丈夫。出来るよ」

クリフの言葉が、そんなエイルの気持ちを救っていた。獣に追いつめられた時、あれだけ怖がっていても、火をつける事が出来たじゃないか。クリフはエイルにそう言った。大丈夫。エイルはその言葉に勇気づけられていた。

「こういう箱はさ、斜めにすると下に手が入るから、そしたらこうやってさ……」

クリフが箱の持ち上げ方を説明してくれている。

「ほらやってみなよ。重いと思うけど、腰に力を入れて……そうそう、そうやって持てば大丈夫」

ようやく箱を持ち上げ、エイルはよろよろと歩き出した。

「足元に気をつけて。階段あるからね」

「わ、分かっている。大丈夫だ」

首だけ振り返り、こくりと頷く。一歩一歩、確かめるように前進し、エイルは階段を下りていった。それを見送り、クリフは汗でよれよれになった服を見下ろした。洋服の枚数はそう多くない。すぐに洗わなくちゃ。そう思って脱ぐ。だが、どうにも脱ぎにくい。

――なんでこんなきついのかなあ。

服の下から、しっかりと腹筋のついた腹が現れる。肩幅も広くなり、首にも、腕にも、きちんと筋肉がついている。

――そっか。服が小さいんじゃなくて、俺が大きくなっちゃったんだな。お金もないけど、大きな服を買わないとなあ、と思った時、腹が空腹を訴えた。訓練前に朝食を食べ、帰ってきてからすぐに食事をしたにも関わらず、である。

――今日の昼食は何かな。

着替えに腕を通していると、階下から声がかかった。

「クリーフ! 買い物に行くの、一緒に行かない?」

「食事してからなら付き合うよ。今、降りて行くから待ってて」

靴に足を突っ込みつつ、妹の声に快く答える。着替えを終えて部屋を出て、階段を勢いよく駆け下りた。だが、靴紐を結び忘れた事に気づいていない。ふとした拍子に右足が左の靴紐を踏み、足がもつれ、体が前にのめり……そして彼は駆け出した時より勢いよく、階段を転がり落ちる羽目になった。幸いにして階段の途中で止まったが、手すりにぶつけた額が赤くなっている。

「いってぇ……」

クリフは苦笑しながら額をさすった。

ティレルの部屋は一階、階段のすぐ脇にあった。その隣が弟ナールの部屋で、さらにその向こうが厨房である。厨房には、宿泊している客の食事を作るための立派な設備が揃っている。大きな鍋では、今夜のためのスープが煮込まれていた。浮かんだり沈んだりする鶏の匂いが、たまらなく食欲をそそる。ティレルはそれをかき混ぜながらクレオを振り返った。クレオは山盛りになった芋の皮をむいているところである。

「手伝ってもらって助かるわ。下ごしらえは時間かかるから」

「良かった。お料理は好きだし、手伝うのも楽しいの。それに、こっちこそ助かってるわ。宿代と食事代をまけてもらってるんだもの」

「彼の怪我が治るまではまだまだかかりそうだしね」

「……そう、うん。でも、宿代って意外とかかるのね。知らなかった。今まではシキが全部払ってくれてたし……」

「大変だったでしょうね」

「まあ、うん、そうだと思う。ラマカサの闘技場でいっぱい稼げたからいいけど」

「でもそのせいでメイソンに狙われちゃったわけだ。あいつも懲りないね」

「懲りない、って……前にもあったの?」

「そう。証拠があがってないから、ヘッジさんも捕まえられないでいたみたいだけど、どう考えてもあいつの仕業だろうって事が、何度かあって。初めてデュレーに来た旅人は事情を知らないからね。かなりの人が被害に遭っているはずよ」

「ひどい話ね」

「あんたたちを助けられて良かったわ。でも彼が稼いだお金をうちで使い続けたんじゃ、勿体ないもの。宿の仕事を手伝ってもらえれば私も助かるし、一石二鳥って奴よ」

「……なるべく早く治るといいけど」

クレオは、溜息とともに言った。そしてふと思い出したように首をひねる。

――クリフはどうしたのかな。

買い物に行こうと言ったのに、と思いながら、台所の扉を開ける。階段を黒い影が勢い良く転がってきて、大きな音とともに手すりにぶつかった。

「いってぇ……」

「ちょ、ちょっと大丈夫?」

物音に驚いたティレルが、クレオの後ろから顔をのぞかせる。

「いつもの事なの。クリフったらそそっかしいんだから」

「最近、転ぶのも上手くなってきちゃってさ、怪我なんてほとんどしないんだ」

服をはたいていたクリフはそう言って笑い、残りの数段を軽やかに降りた。

「食事は帰ってきてからにしてね。パンを買いに行くの。果物や野菜も買わなきゃ」

クレオはクリフに説明しながら、外套を手に取った。

ゆっくり目を開けると、天井が目に映る。屋根の形そのままに傾斜している天井。薄暗い部屋。感覚では昼ごろだろうか。起き抜けの体は軽く麻痺している。体を起こそうとしたが、長時間横になっていたためか、思ったように動けない。それでもなんとか両腕をついて上体を起こす。寝台の上に座り直そうとした時、右足の腿に激痛が走ってシキはうめいた。

「つぅ……!」

何気なく動かそうとしたのだったが、足は思うように動かず、シキはしばらくその痛みに耐えた。部屋の左手にある扉が静かに開き、一人の女性が姿を現した事にも気づく余裕がない。

「ちょ、ちょっと!」

彼女は慌てて走り寄り、シキが再び体を横たえるのに手を貸した。

「何やってるの、まだとてもじゃないけど起きられないわ」

「……いや、つい」

凛々しいその顔を苦しげに歪め、シキは苦笑して見せた。

「窓を開ける?」

頼む、と頷いたシキに応えて、ティレルは寝台の脇にある窓を開けた。ガラス窓というのは高価かつ希少である。ガラスを板状に加工するには高度な技術が必要だからだ。ゆえに、ティレルの宿のガラス窓はごく小さなものだった。その窓を手前に開け、向こう側の木窓を外へ開く。完全に開け放つと、山独特の、冷気を含んだ風が入ってきた。

「涼しいな」

「そうね、もう冬だもの。山が初めての人には寒いでしょう」

「まあな。だが、目が覚める」

「あはは、そうかもね。慣れると、この冷たさが気持ちいいのよ」

窓枠に両手をつき、上体を外へ乗り出す。風がティレルの黒髪をなびかせ、彼女は嬉しそうな顔で目を閉じた。深い緑の目に、雄大な山の景色とティレルの横顔が映る。まるで一枚の絵のようだ。シキはその風景に何かを思い出しかけたが、軽く頭を振ると、ティレルに向かって尋ねた。

「みんなはどうしている?」

「クリフとクレオは買い物に行っているわ」

「エイル様は?」

寝起きだったことが影響したのか、シキはついうっかり、敬称をつけたままエイルを呼んだ。普段は本人にもよく言い含め、「エイル」と呼び捨てにしているのである。親戚の子ということになっていた。そしてその事にもみんながようやく慣れてきたというのに……。自分がした事に気づき、シキは慌てて取り繕おうとした。が、単語にならない言葉を発してしまい、頭を抱える。

「嘘のつけない性格ね」

ティレルは、その大人びた容貌とはそぐわないほどに可愛らしい笑い声を立てた。

「いや、その」

「何か事情があるのね。そうだと思ったわ。最初にあの子を見た時ね、殺されかかっていたのに、凛としていた。もちろん怖がって取り乱していたけれど、でも気品ってもんを感じたわ。上流貴族か……少なくとも私のような庶民じゃないと思った」

「……」

「ああいいのよ、言わせようっていうんじゃないわ」

ティレルは笑って手を振る。

「旅人にはみなそれぞれ事情があるわ。私が知っても仕方のないことよ。……ねえ、それよりあの子ってよく寝るのね」

エイルの寝起きの悪さを思い起こし、ティレルは笑みを浮かべた。

「いつだって最後まで寝てるのよ。食事の時間だって起こすまでね」

「すまん」

「あらいいのよ。あなたが謝ることじゃないでしょ?」

シキは、自分が謝った理由について説明することなく、黙って微笑んだ。

「貼り薬を交換しましょうか。……痛みはどう?」

普段はクレオがやっているのだが、今は買い物を頼んでしまったから、と、ティレルはシキの太腿の貼り薬を手際よく交換した。

「大きく動かさなければどうという事もないが……」

「仕方ないわ。手を貸せば起きあがれそうね。食事は? 何か食べたいものがあれば作るけど」

「あまり食欲がないんだ」

「体を動かしてないからかしら」

「だろうな。しかし食べないというわけにもいかん」

「パンと、野菜のスープぐらい?」

「充分だ。ありがとう」

シキは優しい笑顔で頷いた。

――この人は自分の魅力を分かっているのかしら。

この笑顔で顔を赤らめない娘はまずいないだろう。だが、シキが自覚をもってやっているとは思えなかった。

――罪作りな人ね。

そう思ったことを気取られぬよう、ティレルは髪を直す振りをして部屋を出た。

なだらかな峰に囲まれた山間(やまあい)に、デュレーはある。町の中心部からでも山の岩肌が見え、眼下には細い山道が続く。のどかで、夜の山とは比べ物にならぬほどの平穏。すぐ近くの山々に恐ろしい獣が住んでいることすら忘れさせる。

建物は、二階建てのものが多い。がたついた石畳の細い道が、建物の合間を縫うように入り組んでいる。ティレルの宿を出て北を向けば、坂を下ったその向こうにラマカサへの山道があった。

陽が高くなってきた。雑踏が通りの賑わいを作り、人々の話し声がそれを彩っている。そこかしこで、買い物をする人々や、その荷物を乗せて運ぶヤーマの姿が見られた。道に面した店が、軒先にも品を並べて売っている。山越えに欠かせない毛布や敷物を売る店、雨避けにするための油をしみこませた外套などを売る店、旅行用の鞄や袋を売る店。保存食料の専門店もある。旅人向けの商品が多いのはデュレーならではというところだ。店の集まる通りを抜けてしばらく行くと、中央市場に出る。こちらは生活必需品が主な売り物で、八百屋、肉屋などが軒を連ねている。双子は、その店同士がひしめきあう中でパン屋を見つけて買い物を済ませた。

季節は冬。月光の月といえば、凍夜の月を除いて一年で一番寒い時期である。特に、このあたりは標高が高い。朝の内は、息が凍りそうなほど寒かった。昼を示す鐘が聞こえる今も、外套は手放せない。冷たく澄んだ山の空気を胸いっぱいに吸い込み、クリフは気分よく深呼吸をした。

「今日もいい天気だねえ、クレオ」

相槌がない。少し後ろを歩いている妹を振り返ると、クレオはうつむいて暗い表情だ。

「クレオ? どうしたのさ」

「あ、ええ、うん、何でも……」

「何か、考え事?」

のんきそうに尋ねるクリフに、クレオは軽く嘆息する。

「クリフって……悩み、ないの?」

想像以上に深刻そうな口ぶりである。クリフは思わず言葉に詰まった。

「ないこともないけどさ……。クレオは、何か悩んでるんだね?」

「うん……」

「俺にも言えないような事?」

「そういうわけじゃないけど」

どうも歯切れが悪い。何か、怒らせるような事でもしただろうか。クリフは思い当たる節があるかどうか、考えを巡らせた。そんなクリフに構わず、クレオは重い口を開いた。

「あのね、さっき台所でティレルと話していた時……」

朝食の後片付けの時だった。

「クレオ、悪いんだけど、後で買い物に行ってくれない?」

水場で大量の食器と格闘していたティレルが、クレオを振り返った。洗われた食器を片端から拭いていたクレオは、快く答える。

「ええ、もちろん」

「さっき食事してた団体さんがいるでしょ? あの商人の」

「ものすごい勢いで食べてた人たちね」

その様子を思い出しながら、クレオは苦笑した。

「彼らがもう一泊していくっていうの。嬉しいんだけど、突然言われると困るのよね。七人も増えたら、夕食が間に合わなくなっちゃうわ」

ぼやくティレルの後ろから、弟であるナールが無言で台所に入ってきた。両腕に抱えた食器を置くと、ナールは無言のまま台所を出て行く。再び積み上げられた皿にティレルはぞっとした顔をして、クレオにむかって肩をすくめた。クレオは布巾を絞って干す。暖かな湯気が立ち上る鍋を覗く。昨晩の鶏料理で残った骨から出汁(だし)を取っている寸胴の大鍋が二つ。

「これで足りない?」

「スープはいいんだけどね。パンがないの。あと野菜も買ってこなくっちゃ」

「そっか。何がどれだけいるの?」

「えーっとそうね、黒パンと白パンを二十ずつ。野菜はウィッタ芋と、ソーフルを一袋ずつお願い。重いだろうから、クリフに手伝ってもらったらいいかもね。さっき帰ってきたみたいだし。あ、そうだ、あとキャラカ入りの麦パンがいるわ。あれの小さいのを二、三個ってところかな。シキはキャラカが好きだから」

「……なんで知ってるの?」

「え? この前シキにそう聞いたんだけど」

「そ、そう」

キャラカは小さな木の実で、少々苦味があり、焼くと香ばしい匂いがする。そのまま食べるというよりは、パンなどに練りこむ事が多い木の実だ。シキはこのキャラカが好きで、麦パンに練りこんであるものを特に好んで食べる。パン屋でシキと買い物をしている時に、嬉しそうに手に取っていたので、その後よく気をつけていると、選んで食べている、と気づいたのだった。シキは好き嫌いなく何でも食べるし、食の好みを口に出す事はなかったので、エイルもクリフも気づいていないだろう。シキのキャラカ好きは、料理担当のクレオだけが知っているはずだったのである。

なんだか複雑な気持ちになった、と、クレオは話し終えた。

「そっかぁ。知らなかったなあ、シキがキャラカ好きだったなんて」

「もう、クリフったら。問題はそこじゃないでしょ。なんでティレルが知ってたかって事よ」

「シキに聞いたって言ったんだろ?」

「だから、そうじゃなくて……」

じれったそうな顔と、訳が分からないといった顔がお互いを見合う。

「それにティレルったら、シキの事を『彼』って呼んだのよ」

「え? それが何か」

「もう! クリフの分からず屋! 『彼』なんて、馴れ馴れしいじゃない!」

ついに爆発したクレオは、顔を真っ赤にして大声を出した。すれ違う人が思わず振り向いていく。クリフは思わず、かぶっていた帽子のつばを下げた。

「なあ、パンも野菜も買ったし、宿に戻ろうよ」

クレオはキャラカの麦パンが入った袋を持ち直すと、肩をいからせた。

「果物も買うって言ったでしょ。もうちょっと付き合って」

頬を膨らませ、早足で歩き出しながら、クリフはまったく分かっていない、とクレオは思った。話の流れが分かっていないし、自分の気持ちが通じていない。今までこんなことはなかった。

――どうして分かってくれないのかな。「宿に戻ろう」だなんて、まるで上の空みたい。大体すぐに分かるじゃない。ティレルはまだ知り合って間もないのに、馴れ馴れしいわ。もちろん助けてくれたわけだし、感謝はしているけど……。

クリフに理解されないことに対して怒っていたはずだったが、文句の矛先は段々にティレルへ向かっていくようだ。

ティレルは優しく、友好的である。余計な詮索はしないし、色々と面倒も見てくれる。エイルもすっかり懐いてしまったようだ。クレオも、彼女が嫌いなのではなかった。そう、決して嫌いではない。だが、何故か苛立ちや腹立たしさを隠すことが出来ない。

今朝も、クレオが買い物に行くから自分がシキの様子を見に行くと言っていた。自分が出かけている間、彼女はシキの部屋にいる。看病してくれているわけだし、何も悪いことはない。だが、クレオはそれがどうしても、嫌で仕方ないのだ。

――私、なんでこんなに苛々してるのかな。

ふと、疑問に駆られる。

――優しくしてくれるんだし、いいのに。……でも。ううん、何でかしら。

今朝のやり取りや、シキの部屋にいるティレルを見た時の事を思い出してみると、胸が痛む。なんだか、息苦しいような気がする。

――もしかして……。

クレオの頬が紅く染まる。

――そんな、そんなことないわ、だって……でも……ううん、でも……。

八百屋の前で立ち止まったクリフにも気づかず、クレオは歩みを止めない。クリフは、さっぱり分からないといった顔でクレオを呼び止めた。

「ちょっと、クレオ」

「……え?」

「果物も買うんじゃなかったの?」

親指で店を指し示すクリフに、クレオは慌てて戻ってきた。

「あ、うん、ごめん。考え事してたから……」

果物屋は八百屋と一緒の店が多かったが、ここは果物ばかりを扱う、割と大きな店だった。軒先には緑で不恰好なクナートや、大きくて丸いヤッカなど、色とりどりの果物が山積みになっている。若者が一人で店番をしていたらしく、クレオたちを見て、外へ出てきた。

「いらっしゃい。何かお入用で?」

「ええ、これとこれを……あ、このクナートは食べごろ? あと、シナックも欲しいのだけど」

いくつかの果物を袋に入れてもらってから、クレオは店内へ入っていく。支払いを済ませて出てくると、クリフが空を示した。

「見て。雨雲だ」

「本当だ。でも、こっちはこんなに晴れているのにね」

すっきりと晴れ渡っている空は、まるで雨など知らぬかのような顔で澄ましている。が、北の空には確かに黒い雲が流れていた。

「レーヴェの機嫌が悪いのさ。それに、山の天気は変わりやすいって言うもんな。さ、早く帰ろう。お腹ぺこぺこだよ」

そのクリフの言葉どおり、彼らが急ぎ足で歩き始めてすぐに、小さな滴が落ちてきた。道行く人々の中に、まさか、と顔を上げる者がいる。雨の女神レーヴェは泣き虫なので、すぐに泣き出すという。宿に着く頃には本格的に降り出すだろう。双子は人々の間をすり抜け、宿へと向かって走り出した。

  *

ラマカサの領事であるフォマーは怒りを鎮めることが出来ず、追手にシキを探させていた。デュレーにいるようだ、との報告を受け、やってきたのはザッツだった。フォマーの部下の中では一番有能で、フォマーの右腕を務める男である。

ザッツは宿屋ギルドの長、つまりヘッジにシキたちがどの宿に泊まっているか探すように指示した。ヘッジはすぐに各宿を回り、メイソンの宿へもやってきた。クリフたちが着いてすぐ、食事の後にもうしばらく食堂にいたら、ザッツを連れたヘッジに遭遇したはずである。

メイソンは黙っていた。怪我をしたシキを含めた四人が自分の宿に泊まっている事も、金品をこっそり盗むために彼らの食事に眠り草を混ぜた事も。メイソンはヘッジが嫌いだった。幼馴染のヘッジがギルド長にのし上がるのを、メイソンは指をくわえて見ていた。自分の能力不足とは思いたくない。

その夜、眠っていたはずのエイルに騒がれ、メイソンは大恥をかいた。宿屋ギルドの裁判にかけられ、想像以上の大金を払う事になったメイソンを見て、ヘッジはせせら笑った。何しろメイソンに課せられた罰金はすべてギルド、つまりはヘッジの懐に入るのである。

「残念だったなあ、メイソン。お前とは長い付き合いだが、こんな事になるとは思わなかった」

嬉しそうな顔でメイソンをいたぶる。メイソンは唇を噛むばかりだ。ヘッジが悦に入っていると、ザッツが姿を現した。メイソンの宿に泊まっていたのである。

「騒がしいぞ」

「あ、ザッツさん。すみません。いやあ困ったもんだなあ、と。メイソンの宿にあいつらがいたとは、私も知らなかったんですよ」

ザッツはうんざりした様子で嘆息した。

「こいつはね、もう本当に頭が悪くて、私が何度言っても……」

「そいつの頭の悪さなど知ったことではない」

その冷淡な声にヘッジもメイソンも思わず黙る。

「奴らはティレルという女がやっている宿に移動したんだな」

「仰る通りで。どう致しましょうか?」

「……しばらく考える。静かにしてろ。俺が動くまで、勝手な事をするな」

ザッツは溜息と共に吐き出し、席を立った。

――手はずを整えなければ。

簡単に済むはずだった仕事だが、思った以上に時間がかかってしまうかも知れない。小さく舌打ちをし、ザッツはフォマーへの報告書を書くために再び部屋へと戻った。

  *

最近、不思議に思う事がある。ティレルが、部屋に長居しないのだ。怪我の様子を見たり、食事を運んだり、部屋へ来る回数は多かったが、目を合わせまいとしているような気がする。今日も食事を持ってきてくれたが、空気の入れ替えをすると、そそくさと出て行ってしまった。宿に来た当初は食事が終わるまでいたものだが、とシキは訝(いぶか)しんだ。

――エイル様のことで、何か気にしているのだろうか。

この間エイルの素姓の話をして以来のような気がしてそう思ったが、どうやらそういうことでもないらしい。聞くと、「何でもないのよ。忙しいから」と、はぐらかすような口調である。ティレルとの会話が減ることは、想像以上にシキを悩ませていた。

「食事は終わった?」

声と共に扉が開く。ティレルかと思ったのだが、クレオだった。

「やあクレオか」

そういえばクレオとしゃべるのも久し振りかも知れない。シキが微笑むと、クレオはまるで硬直したようになった。口を半開きにしたままこちらを凝視している。シキはきょとんとし、それに気づいたクレオは慌てて、首を横に振った。

「あ、いえ、ちょっと……ううん、何でもない。気にしないで。食事が終わったんだったら、お皿を下げてもいい?」

「あ、ああ」

クレオが皿を片付けているのを眺めながら、シキは優しく声をかけた。

「美味かったとティレルに伝えてくれ」

気持ちをほぐそうと笑顔で言ったのだが、クレオの顔は再び引きつった。

「クレオ? 俺の顔に何かついてでもいるのか?」

「いいえ、そうじゃなくて……。あの、伝えておきます」

そう言い残し、クレオは皿類をすべて持つと、そそくさと立ち上がった。一度、素早く振り返ったが、シキはそれに気づかず、考えに耽っている。クレオは静かに扉を閉めた。

皿を台所に運ぶと、ひとまずする事がないと見て取り、自室に戻る。クリフとエイルの姿は見えない。一人になりたかったクレオはほっとし、寝台に腰掛けて大きく息を吐いた。

――「美味しかった」って? 「ティレルに」だって……? 

忙しそうに立ち働くティレルに一声もかけられぬまま、クレオは背を向けてしまった。台所を出る時、ティレルの弟ナールとすれ違い、唇をかんでいるのを見られた。頭をぽんと優しく叩かれたが、ナールはいつもの通り何も言わなかった。部屋に戻り、今こうして座るまで、呼吸もしなかったような気がする。

――シキ……。

頭の中で、シキの笑顔がぐるぐると回る。息苦しくて、もう一度大きく深呼吸をしたが、胸の痛みは治まらなかった。怪我をしているシキ。寝台に横たわっているシキ。食事をしているシキ。「上半身だけでも鈍らないように」と、剣を振って鍛えているシキ。思い浮かぶのはシキばかりである。どうすればいいのだろうか。どうすれば、苦しくなくなるだろうか。

――シキの怪我が早く治りますように……。

怪我が治ればこの宿を出られる。いや、私たちは旅人だ。いずれはここを旅立つ。優しいティレルとナール。デュレーを離れれば、この気持ちのいい姉弟とは二度と会わないだろう。そう思うのは、何とも言えず淋しかった。だが、そうなればシキとティレルも、もう二度と会わない……。

膝を抱え、斜め天井を見上げる。

――何を考えているんだろう、私。

  *

レノア城は今なお使われている城だが、その古色蒼然とした風情から、古城と言っても差し支えないだろう。つたや苔が城壁を覆い、補修はしているものの、ところどころ石が欠けている部分も見られる。城下町から城を見るには、首を傾けて見上げなければならない。高い丘の上にそびえるようにして立つ多くの塔が、人々を威圧的に見下ろしていた。町の北端に城の南門があり、そこから続くなだらかな坂道を登った先に城はある。古色蒼然とした外観には、長い歴史による貫禄が刻み込まれていた。

城の内部は広く、さながら巨大な迷路のようだ。大きな窓はほとんどなく、壁に取り付けられた小さな灯りは絶やされることがない。全体として薄暗く、どこかかび臭い。大広間や、王の謁見の間、また貴族たちが集まる晩餐の続き間などは明るく、高い天井が広々とした空間を演出しているが、城の奥へ行けば行くほど、古い城であることを思い知らされる。

その城の奥。細かい模様が刻まれた深みのある色の絨毯が敷かれた廊下を、一人の男が歩いていた。ゆったりと、長いローブの裾を引いている。男は勝手知ったると言わんばかりにいくつもの角を曲がり、階段を登ったり降りたりしながら、音もなく歩いていった。あたりに人の気配はない。表には多くの人間が出入りしているが、このような城の奥深くには誰もいるはずがない。

廊下の途中で男はその歩みを止める。身動きをとらぬ男はまるで一体の彫刻のようだ。均整の取れた長身で、明るみのない紫のローブがその肩にかかっている。魔性の者ですら魅入られそうなほどに美しい顔(かんばせ)。表情を見せぬ暗い瞳。流れるような黒髪は長く真っ直ぐに背中から腰へと伸びている。

きつい切れ長の目を左右に走らせ、何事かを確認すると、男は音もなく動いた。壁をさぐり、石を一つ取り外すと、中から古びた取っ手が現れる。それを引くと壁が大きく開き、細い通路が姿を現した。見たところ、火は灯っていない。だが、石造りの通路は何故かぼんやりと明るかった。

細い通路の先、辿り着いた部屋は薄暗く、湿った空気が満ちていた。どうやら礼拝堂のようだ。建物の内部に造られた礼拝堂というのは珍しい。人々が信仰しているのはハーディスやメルィーズなど、天空の神だからだ。そのことからするに、この部屋は相当古い時代に造られたもののようだ。装飾もほとんどなく、偶像も飾られていない。どのような神に祈りをささげるために造られたのか、定かではなかった。

部屋の最奥へ行くと、更に隠された扉を開ける。暗闇が口を開ける。足元に、ひんやりとした空気が流れ出した。躊躇うことなく足を踏み出し、男は奥へと進む。通路は二手に別れている。男は道を知っているのか、迷うことなく一方を選んだ。軽い角度のついた坂は、徐々に下っていく。それにつれて、温度も下がっていくようだった。

長い道は、少々あっけなく、唐突に終わった。男の目の前にいきなり現れたのは大きな広間、否、洞窟だった。広々として、かなり寒く、床は平らな石が重なるようにして連なっている。何本もの石柱が立ち並び、右手には石から染み出す水が透明な泉を作っている。広間の中央、少し奥まったあたりは少々高くなっており、玉座があった。灯がともっている。ここはレノア城の真下にある、王族専用の避難窟であった。有事の際には護衛の兵とともに籠城し、難を逃れる。出口はレノア城の北、立ち入り禁止になっている沼地に隠されていた。

広間中央の玉座を取り囲むように、黒い影が大きく横たわっている。男は危ぶむこともなく、それに近づいていった。

「お待たせいたしました」

声をかけると、影がいた。長い首を持ち上げ、こちらに向ける。黒々とした顔に、真っ赤な筋がひかれ、それが徐々に広がる。完全に目を開けると、竜は唸り声を上げた。

――遅かったな。

その唸り声が意味のある言葉なのだと理解するには、長い年月がかかった。そしてその意味を汲み取るために、またどれだけの時間をかけただろうか。その、血の滲むような研究をみじんも感じさせず、いとも簡単にやってのけたかのように、男は答えを返した。

「申し訳ない。少々手間取っておりました」

――下らぬ。

「この国を、いえ大陸全土を掌握するには色々と面倒な作業もございます。私のような卑小な者には手がかかる仕事ですので……」

――人間の都合はよく分からぬ。先日のマイオセール襲撃も、あの程度で良かったのか? 連れの兵士がふんぞり返っておっただけに見えるが。

「偉そうな口を利かせて申し訳ない。所詮、貴殿の言葉も分からぬ愚か者、どうかお許し願いたい。貴方ほどの強大な力をも操れるというように見せるため、私が申し付けたもので」

不機嫌そうに鼻を鳴らすと、熱気を帯びた息が男にかかる。男はほんの一瞬、煩わしそうに眉を動かしたが、声音は変えなかった。

「次に行っていただきたい場所なのですが……」

――私はお前の僕(しもべ)ではない。いいように使われるのは、もう勘弁願いたいものだ。

男は慇懃に頭を下げた。

洞窟内の淀んだ空気はひんやりとしている。洞窟の一端では流れ落ちる水の音が静かに続いていた。

  *

冷たい冬の月光が部屋に差し込んでいる。月光の月はメルィーズが一番美しく見える季節でもある。

階下の喧騒を遠くに聞きながら、エイルは優雅に本をめくっていた。食堂兼酒場の客が増え、宿屋に泊まっている客も帰ってきて、忙しい時分である。邪魔をしないのが一番であろう、との判断に基づき、エイルは自室でゆったりとした時間を過ごしていた。シキの様子を見に行こうかとも思ったが、寝ているようなので、やめておいた。クリフもクレオも手伝いに借り出されている。エイルは一人、長椅子に腰掛けていた。出窓の縁に肘をつき、夜空を眺める。こういうとき、考える事はいつも同じだった。

この町に逗留して、かなり長くなる。シキの怪我の事もあるので、仕方ない。だが旅を始めてから、一箇所にこれだけ長く止まるのは初めてではないだろうか。ここは居心地がいいが、かと言って、いつまでも逗留するというわけにはいかない。

大陸の南へ? 大陸一と言われる魔術師を見つける? 元の世界へ戻る――? 

本当に出来るのだろうか。第一、不確定な要素が多すぎる。不安が、常に付きまとう。だが、何としてもエイルは自分の世界へ戻りたかった。どんな目に遭おうと、どれだけ苦労しようと。自分の生まれ育ったレノアの地を踏み、悪人に蹂躙されているなら、それを取り戻したかった。

――もう十日か。シキの怪我も、大分良くなったと思うのだが。

木を叩く固い音がし、「開けていい」とも言わぬ内に扉が開く。

「ごめん、エイル、ちょっと手伝って」

慌てた様子で顔を覗かせたのはクリフだった。

「お客さんが多くて、てんてこまいなんだ。エイルにも手伝ってもらわなきゃ」

「私に客の相手をせよと言うのか?」

「いや、ただその、ナールが皿や杯を洗うのが間に合わないって……」

「皿洗い!」

一言そう言うと、エイルは絶句した。

「ま、まあまあ……ティレルとナールには世話になってるし、宿代も安くしてもらってるんだ。少しくらい手伝っても罰は当たらないよ。とにかく頼む!」

そう言うと、呆れ果てた顔のエイルを残し、クリフは部屋を出て行った。これ以上説得する手間も時間も惜しい、といった様子である。

「信じられんな、まったく! レノアの王子が、宿の皿洗いか」

憤慨して首を振る。それから、大きな溜息とともにがくりと肩が落ちた。

エイルにとって有り得ない事が、次々と起こる。少しは慣れたつもりでいたが、それでも毎日のように思いつきもしない事が起こるのだ。城にいた頃が懐かしく思い出される。あの頃に戻りたい。だが、どうしようもない。

「ここでは、私は王子ではないということか」

諦めたように呟くと、意を決して上着の袖をまくりあげた。

「ふん! 私ほどの者になるとだな、皿洗いくらい、何てことはないのだ」

勇ましく言うと、階段へ向かった。階段を下りて行くと、二階の廊下では小さかった階下の喧騒がぐっと大きくなった。食堂は旅人や町の人々で埋まり、顔が赤くなるほど暑い。料理と酒の匂い、それに煙草の煙が階段近くまで充満している。空気が白いほどだ。エイルは思わず顔をしかめた。

階段の踊り場で立ち止まり、双子の姿を探す。二人は皿の積みあがった盆や盃を手に、店中を飛び回っていた。がやがやと騒がしい店内のあちこちから彼らを呼ぶ声が上がる。客の注文を受け、料理を運び、また空いた皿や杯を片付ける。客たちは彼らの忙しさに構いもせず、それぞれの話に花を咲かせていた。

カウンターの内側には酒の瓶が重なり合うように並べられ、ナールが注文された酒を注いでいる。客はそれぞれの席からふらりとやってきては酒を注文し、金を払って、杯を持っていく。ナールは客の世話をしながら洗い物をしていた。到底手が足りない。それはエイルも見て分かった。エイルがカウンターに入ると、ナールは無言のまま、だがほっとしたような顔をして見せる。

「クリフに手伝えと言われて来たのだが、私はどうすればいいのだ」

「洗って」

元来、口数が少ないナールは、愛想もない。簡潔にして明瞭な答えが返ってくる。指先で示された先には、数えるのも嫌になるほど杯が重ねられている。どうやらそれらを全て洗わねばならないらしい。やり方を丁寧に教えてもらえるような状況でもなさそうだ。

――まずは、水をかけるんだろうな……? 

エイルが慣れない手つきで杯を洗っている間も、客が途切れることはなかった。それはもちろん、宿が繁盛しているということに他ならなかったが、エイルにはそんなことを考える暇もない。次から次へと運び込まれる杯を洗うのに必死である。

客は目まぐるしく入れ替わり、酒を注文して待つ間もしゃべっていた。杯を酒で満たしてもそのまましゃべり続け、何度も注ぎ直すように言う客もいた。クリフとクレオが汚れた食器を持ってきては、また新しい料理の皿を持って出て行く。暖房もろくになく、凍えるほど寒いはずの冬の食堂で、彼らの額には汗が浮いていた。

しばらくの間、一生懸命に洗ったおかげで、エイルの目の前に積まれた洗い物はだいぶ減ってきた。もちろん、すぐにまた増える。それは分かっていたが、とにもかくにもエイルは少しの余裕が出来た。ナールとエイルのいるカウンターの向こうでは荒くれ男たちが酒を煽っている。彼らは席に戻らず、立ったまま噂話を始める。その中の一人、鬚面の中年男が口にした言葉に、エイルは思わずのけぞった。

「じゃあ本当なんだな、レノアが世界征服に乗り出したってのは」

少し若い男が口早に答える。周りの男たちも興味深そうに身を乗り出している。

「そうらしいぜ。何しろマイオセールが滅ぼされたって言うんだからな」

「俺が聞いた奴らの話だと、竜が現れたって言うぜ」

「笑わせるなよ、おとぎ話だろ」

「いやいや、それが本当なんだってよ。俺も最初は疑ったが、その場にいた商人が言うんだから本当さ。空を飛ぶ竜を見たって言うんだ」

「嘘だ嘘だ、いるはずがねえ」

嘘ではないだろう。ラマカサで見た、飛び去っていく禍々しいものは、間違いなく「おとぎ話に出てくる竜」だった。長い尾と大きな翼を持ち、黒々として……。思い出してもぞっとする。

「竜かどうかはおいといてよ、マイオセールはどうなったんだ?」

「かなり死んじまったみたいだな。城も半分くらいは壊れたって聞いたぜ。王族は誰一人生きていないっていうし」

「おいおい、じゃあルセールは滅亡か」

「さあ……マイオセール以外の町は何ともないらしいが、レノアから役人が来るらしいぜ。実質的支配ってやつだな」

「恐ろしいねえ。レノアって国はいつからそんな風になっちまったんだ。王様は確かグリッド様だろ? 温情深い賢王って評判だったじゃねえか」

「いや、俺の聞いた話じゃ、最近代わったらしいぜ」

剣士らしい大柄な男が言うと、男たちは一様に驚きの表情を見せた。どういうことだと急かされ、剣士は続ける。

「ほら、レノアは首都が封鎖になってたろ? あれ、疫病が流行ってたんだってよ。それが広まっちゃいけねえってんで封鎖してたらしい。だが、どうやら王様も病で死んだんだと。次の王様はなんだか聞いたこともねえ人がなったって話よ」

「じゃあその新しい王様が急になんかやりだしたんか」

「おりゃあ知らねえけど、そうなんじゃねえか? レノアは王様次第だからなあ」

――ああ、私の生きていた時代もそうだった。今も血統主義が変わっていないと見える。

エイルは深く嘆息した。

――父王や兄上であれば善政を行って下さったろう。だが……。私はどうだろうか。いや、今の私には何の力もない。

怒りは悔しさに、そして哀しみに変わっていく。エイルは己の身の上を嘆いた。

過去に戻り、そこから三百年の時が流れたら、レノアは、大陸はどうなっていくのだろう。自分が何をどうしても、歴史は繰り返し、同じ事が起こるのだろうか。それとも、過去へ戻った自分が為す事で、その後の歴史を変える事も出来るのか。エイルは単調な仕事を続けながら、深い想いに沈んでいった。

一般的な宿は一階が食堂兼酒場になっていることが多く、食事時、特に夕食時は大いに賑わう。だがそれも時刻が遅くなるにつれて静まり、定められた時間を過ぎれば明かりを消す。それが町の平和と秩序を守るための決まりだった。だが、中には営業許可を取って遅くまで店を開けているところもある。ティレルの宿も月に数回、そういう日を設けていた。客の男たちが楽しみにしているのはこの宿の看板の文言――食事と布団と素晴らしき調べ――である。

店の中央にある丸い大きな机は、屋根を支える大きな柱を取り巻くように作られていた。大胆なにもその机に乗った女が、太い柱に寄りかかって歌っている。丸い果物を縦に割ったような形の、ウードと呼ばれる弦楽器を抱(いだ)き、力強くかき鳴らす。固く目を閉じ、その綺麗な眉根を寄せて歌っているのは、英雄の歌だ。早く、力強い曲調が男たちを興奮させる。次第に早くなっていく手拍子。男たちのがなり声にも負けぬ張りのある歌声が高らかに響き、それがまた男たちの心に火をつける。これ以上ないほどに盛り上がった曲が終わると、割れんばかりの拍手が店に満ちた。

矢継ぎ早に次の歌の注文が飛ぶ。歌姫が選択したのは、故郷を想う歌だった。先ほどとは違う調子で、物悲しく歌い上げる。今度はウードを横たえ、静かに鳴らした。故郷の幼馴染と遠い町で再会し、恋に落ちる女の歌。店の誰もがうっとりと聞き惚れる。

歌姫の声は、いつも客を陶酔させた。透き通るような、それはまるで山の澄んだ風のような声だった。彼女は歌い続ける。ハーディスの賛歌や収穫の歌、旅人の歌、労働の歌、また恋の物語を。汲めど尽きせぬ泉のように、歌は止めどもなく溢れた。一曲終わるたびに、惜しみない歓声と喝采が送られる。

客がみな聞き入っているので、クリフたちも仕事がない。食堂の隅、ナールとエイルのところへ来て、クレオが言った。感動しているのか、目が少し潤んでいる。

「なんて言ったらいいのか分からないけど、本当に素敵な声……」

「本当に。上手とか、そういう言葉じゃ足りないね」

少し前に盆を下げにきていたクリフが続ける。エイルも素直な賞賛を口にした。

「私も様々な歌い手を見た事があるが、その中でも十指に入る。素晴らしい」

「歌には力がある」

滅多に口を開かないナールが呟いた。双子とエイルの視線を受け、彼ははにかんだような顔で続けた。

「昔から、ティレルはよく歌っていた。だが、母が死に、宿をやるようになってから、どんどん上手くなっていった。歌うことで、母の死を癒していたのかも知れない」

ナールがこれほど多く、続けて口を利くのは初めてである。双子やエイルは驚き、ナールに視線を注いだ。

「お母さんも上手だったの?」

「ああ、とても。俺たちの父は旅人で……俺は会った記憶もない。小さい頃は淋しくて、夜はなかなか眠れなかった。でも、母が歌ってくれると、すぐに眠れた。嫌な事があった時も、悲しかった時も、母と一緒に歌えば楽しくなった。俺も、ティレルも、母の歌が好きだった。本当に、歌には、力があるんだ」

「ティレルの歌を聴いていると活力っていうか……元気が湧いてくるよ。だからこうして多くの人が訪れるんだね」

「私がいた頃、王宮には専属の歌い手が幾人もいたが、こういう力を持つ者は少なかったぞ」

クリフとエイルは手放しの誉めようである。

伸びやかな歌声が酒場に響く。それは黄金の波のように艶やかに、柔らかく、人々を包み込んだ。クレオが放心したように呟く。

「歌には力があるって、本当ね……」

夜の深い黒色に染まった山肌。その闇に溶け込むように、デュレー全体が眠りに沈んでいる。家々の壁につけられた松明(たいまつ)の灯りが、獣が入らぬよう見張りをしているだけで、通りを行き過ぎる人の姿はない。

薄暗い、誰もいなくなった酒場。すべての椅子を机に上げ、床を拭き終わったティレルが満足げに息を吐く。

「ようやくこれで綺麗になったわね」

一つ椅子を下ろし、腰掛ける。気分良く歌っていたが、今日は思ったより遅くなってしまった。ナールには先に寝ていいと言って、彼女は最後の片づけをしていたのだが、もう夜中だ。

手にした布巾で、拭くともなく机をなでる。自然と、柔らかな旋律が唇からこぼれた。どんなに疲れていても歌が出る。不思議なものだ。

母がいつも歌っていた子守唄。他に歌っている人を聞いた事がないから、母が適当に作ったものかも知れない。ティレルにとってはとても特別で、一番好きな唄と言ってもいい。客の前では決して歌わない、自分だけの大切な唄。それをティレルは優しく繰り返した。

階段の踏み板が軋んだ音を立てる。振り返ると、涼やかな視線があった。

「綺麗な歌だ」

聞き慣れているはずの賛辞に、ティレルは顔を赤らめた。

「ありがとう。……怪我は大丈夫なの?」

「ああ。歩く程度なら痛みもない」

シキは階段を下り、ティレルの座る机までゆっくりと歩いた。

「まだ本調子じゃないが、動かないと鈍(なま)ってしまうからな」

「そうね。でも、無理はしないで」

「ああ」

凛々しい顔に笑みが浮かぶ。ティレルは染まった頬を自覚し、隠すようにして立ち上がった。豊かな黒髪が揺れる。

「何か、飲む?」

「そうだな。じゃあ、ミコル酒を」

棚から酒瓶を取り出す。杯を用意する。それにミコル酒を注ぐ。シキはそんなティレルの動作をじっと見つめていた。その視線に気づいていたが、ティレルは顔を上げなかった。

「やはり、俺は避けられているようだな」

小さな溜息と共にシキが言う。

「え、どうして? そんなことないわよ」

ティレルは目を合わせぬまま、笑顔を作ってみせた。シキは再び嘆息する。

「……じゃあ、私も、ちょっと飲もうかな」

ちらと横目でシキを見ると、真っ直ぐな視線に射抜かれた。鼓動が高まる。ティレルは自分の顔が赤らんでいると知りつつ、今度はその嬉しさを隠せなかった。

二つの杯が重なり、ミコル酒の透き通った赤い色が揺れる。しばらくの間、沈黙が流れた。

「さっきの……」

「シキは……」

「あ、いや」

「いいえ、あの」

同時に口を開き、二人は目を合わせて笑った。ティレルのどうぞ、という仕草に、シキが改めて口を開く。

「さっきの歌は、何という題名なのか聞こうと思ったんだ」

「名前は知らないの。母が歌ってくれた子守唄よ。……母が残してくれたのは、この宿と、歌だけ」

「母上はご病気で亡くなったそうだな」

「ええ、もう十年以上も前にね」

「父上は?」

「父は、旅人だったの。私は数回しか会った事がないわ」

「そうだったのか」

「幼い頃は、そりゃあ淋しかった。母は平気だと言っていたけれど、私にはどうしてそう言うのかが分からなかった。本当は淋しくて死にそうだったんじゃないかと思うわ」

シキは黙っている。ティレルはこんな風に言ってはいけないと強く思いながら、だが勢いは止まらず声を高くした。

「旅人と恋に落ちるなんて、幸せになれるとは思えないわ。だってそうでしょ? 母はこの村で育ったし、宿屋もあるし、ここを離れられないわ。この村の女はみんなそうよ。でも、旅人は必ずまた去って行くわ。父が旅立ってしまったら、もう二度と会えないかも知れないのよ? 寂しいでしょう?」

シキは何も言わなかった。だがその顔に浮かんだ感情を、ティレルは一瞬のうちに理解し、そして目を背けた。自分は、旅人に恋などしない。ティレルは子供の頃からそう決めていた。

「そんなの、悲しいわ」

呟くように言い、沈黙する。シキも黙ったままだ。やがて、雰囲気を変えるように、シキが柔らかく言った。

「さっきの歌は本当に綺麗だった。歌もいいが、歌い手がいいからだな」

「意外と口が上手いのね」

「本当のことを言っただけだ」

シキは恥ずかしげもなく言う。ティレルは耳の近くの髪をいじった。

「で、ティレルが言おうとしていたのは何だったんだ?」

「ああ、うん。その、シキの事を」

聞こうと思ったんだけど、と続けようとして、ティレルは口をつぐんだ。「あなたの事を知りたい」と正面切って口にするのは難しい。第一、旅人の事を詮索してどうするというのか。

――やめておこうと思ったばかりよ。

旅人に恋はしないと決めた。心の中で繰り返す。再び沈黙が酒場を満たした。

「……俺の怪我も、もうすぐ治る」

「そうね」

「治れば、出発だ」

「……そうね」

「寂しくなるな」

ティレルは何も言わず、シキの顔を見つめた。シキはティレルから目をそらさない。ティレルはうつむき、しばらくして、静かな歌を口ずさみ始めた。

旅を続ける男に恋焦がれる女。「もう二度と戻っては来ないの」と問いかけ、「どうしてこんなに愛してしまったの」と嘆く。だが女はそれでも愛し続け、いつかもう一度男に会える日を夢見ている。本来は速く、情熱的に歌う曲だが、ティレルはどこまでも静かに、感情を抑えて歌った。それを聴くシキの体に細かな震えが走る。歌い終えたティレルが顔を上げた。僅かに潤んだ瑠璃色の瞳の中で、立ち上がったシキの姿が揺れる。ティレルはつられるようにして立ち、一歩踏み出した。

メルィーズの月光に照らされて、冷たい石畳が白く輝いている。通りに連なる建物は、白い石畳を引き立てるように黒く染まっている。その通りに、いくつかの影がうごめいた。影から影へと伝い、それらはティレルの宿に近づいてくる。細い影が、大柄な影に宿を示した。いくつもの影がそれに続く。

……宿の灯りは消えている。

ここのところ毎晩、クレオは寝付けないでいた。いびきをかくクリフを横目で見ながら、溜息を吐いてばかりだ。今夜も、窓の外で夜空に凛と輝くメルィーズを見上げて、クレオは何度目かの溜息を、大きく吐き出した。

――眠れない……。

寝ようと思っても、胸が苦しい。寝返りを打つのにも疲れた。もう一度、更に大きな溜息を吐いてから、クレオは布団を抜け出した。同室のクリフを起こさないよう静かに寝台を下り、部屋を出る。

階下から話し声が聞こえる。無意識で階段に近づく。下を覗かずにはいられない。何故か、姿を現してはいけない、という警鐘が頭に響いていた。

明らかにシキと分かる背中が見え、その首に細い手が巻きついている。その手首を飾っている装飾品にクレオは見覚えがあった。シキの肩越しに黒髪が波打つのが見える。だが、そんなものを確認せずとも、それが誰か、クレオには瞬時に分かった。逞しい腕が相手の腰に回っている。クレオは目眩を感じた。二人が階段脇の部屋へ入るのを、ゆっくり見てはいられない。目を強く閉じ、背を向ける。

階段から離れ、廊下の反対側に向かってよろよろと歩く。廊下の突き当たりにある窓を思いきって開け放つと、冷たい夜の空気が流れ込む。夜空にはメルィーズが、白く細い姿を輝かせていた。

並んだ部屋の扉が一つ開き、クリフが顔を覗かせる。

「クレオ?」

「……」

「……泣いてるの?」

声にならないクレオは、黙って首を横に振った。

「クレオ」

クリフが慌てて駆け寄ってくる。以前は同じ高さだった肩が、今は少し高い。心配そうに覗き込む双子の兄にもたれかかり、クレオは声を出さずに泣き続けた。

当然のことだが、扉には鍵がかかっていた。

黒い影の男たちは力づくでそれを壊そうと試みたが、思ったほど簡単にはいかないようである。

「裏口に回れ」

一人が抑えた声で言い、数名が裏通りへ回ったが、しばらくすると上手くいかなかったというように首を振って戻ってきた。頑丈な鍵に侵入を阻まれ、男たちはいらだちを隠せない。ついに、一際大きな影が剣を抜き、振り上げた。

「やめろ、馬鹿者」

路地から飛び出した影が、男を止める。ザッツだ。もう一人、男を連れている。最初にいた影はメイソンとヘッジ、それに数名の屈強そうな男たちだった。ザッツはメイソンたちの行動を見越していたかのように、ティレルの宿に現れたのである。

「先走るなと言っておいただろう。勝手に行動を起こしてもらっては困る」

「すみません……ちょっとばかり気が焦って」

ヘッジが禿げ頭を下げる。

――ちっ、なんでばれたんだ。私らだけでシキを捕まえて、褒賞をもらうつもりだったのに……。

「第一、やるならもっと手際よくやれ。そんな事をしたら奴らが目を覚ますだろうが」

ザッツは嘆息した。短絡的な考えで行動されては、彼の思惑もすべて台無しだ。

「あの、鍵が頑丈なんですよ。どうしましょう?」

メイソンの言葉に、ザッツはうんざりした顔を見せる。

「だからお前らには任せておけんと言うんだ」

そう言うと、連れて来た男を前に押し出す。

「アルダ!」

「鍵を開けるのが得意だと言うから雇ったのだが、知り合いか?」

メイソンの宿から逃げ出した下男である。メイソンがエイルたちの荷物を盗もうとした晩から姿を消していた。おかげで俺一人が恥をかいたのだ、とメイソンが睨みつける。アルダは知らぬ振りで視線をかわし、早速と言わんばかりに扉の前にしゃがみこんだ。

「恩知らずめ、ずっと雇ってやっていたのに、一人で逃げやがったな」

「……」

「この野郎、何とか言ったらどうだ!」

メイソンの大声に、ザッツとヘッジが苛立つ。

「うるさい」

「大声を出すな」

二人に怒られ、メイソンは小さくなった。アルダにまで嘲笑され、メイソンは唇を噛んでいる。しかし黙っているほかはない。

しばらくの間アルダは鍵をごそごそといじくっていた。と、鍵が音を立てて開く。それまでのとぼけた雰囲気はかき消され、にわかに緊張感が走る。

「よし」

ザッツが言い、彼らは静かに中へ入った。静まり返る酒場。かすかな月明かりの中に浮かぶ物影の中を、男たちは手探りで進む。

「奴らの部屋は二階のはずだ。階段を探せ」

「奥にあったはずです」

ヘッジが示し、彼らは階段へ向かってそろそろと移動し始める。

「どこへ行くつもりだ」

突然、誰のものとも知れぬ声が彼らの足を止めた。

「だ、誰だ」

「間抜けた質問だな。誰だとは、こちらが問いたい」

シキが呆れた声で言った。腕を組み、階段のすぐ脇の扉を背にしている。

「何をしている! ひっとらえろ!」

ザッツの鋭い声が飛び、雇われた男たちは我に返った。暗闇の中、剣を鞘から抜く音が重なる。

「足だ、右腿を怪我していたはずだ!」

メイソンが後ずさりしながら喚く。足の怪我はまだ治っていないだろうと踏んだのである。男たちはシキを取り囲み、一斉に剣を突き出した。が、そこに目標となる相手の姿はない。

「どうも戦い慣れていないようだな」

「て、てめえ、いつの間に」

シキは、洗練された身のこなしである。男たちが暗闇の中で要領を得ないのに対し、シキは全員の位置を素早く掴んだ。闇雲に振り回される剣を、一つ一つ受け流している。が、やはり右腿の痛みが動きを鈍らせていた。一人の攻撃を受け流した拍子に均衡を崩し、机にかけられた椅子に手をかける。椅子はシキの体重を支えきれず、大きな音を立てて机から落ちた。

「くっ」

かろうじて転びはしなかったものの、シキの体勢は大きく崩れ、ここぞとばかりに複数の剣が振り上げられた。

と、その時である。何かが空気を切り裂いた。

「ぎゃあっ!」

鋭いものが肉に突き刺さる、ぞっとするような音。一人の男が両手で目を押さえ、もんどりうって倒れた。

階段の上、踊り場で灯りを持った少女を背中に、少年が弓を構えている。ザッツは瞬間、机の後ろに身を隠した。クリフが立て続けに何本もの矢を放つ。酒場にいた男たちは騒然と逃げ惑った。メイソンも何とか逃れようと慌てている。

――とにかく、矢の当たらないところへ……! 

メイソンは周囲を見回し、階段脇に駆け寄ると扉に手を伸ばした。

「よせ!」

それを見たシキが声を上げる。だが、メイソンは躊躇いなく扉を開けた。止めようとしたシキに、次々と男たちが打ちかかる。一人にこぶしを打ち込むと、男は昏倒したが、その間に振り下ろされた剣がシキを襲う。短剣で受けたものの、そいつを押しやるには足を踏ん張る力が足りない。シキはじりじりと押された。さらに新たな剣が迫る。

「シキ!」

クレオが叫び声を上げた。その時、メイソンを突き飛ばすようにして、部屋からティレルが走り出てきた。

「危ない!」

ティレルが手にした短剣ごと突進する。混迷を呈した状況で、誰もが息を呑んだ。勢いよくぶつかったティレルは、シキともう一人をも巻き込んで転倒した。机や椅子が大きな音を立てて倒れる。暗闇に目が慣れたザッツが、ここが絶好の機会と、シキに縄を投げかけた。

「エイル、あいつだ! ……みんな伏せて!」

クリフの声の直後、階段から小さな炎が空を切って飛んだ。

「うあぁぁ!」

炎がザッツにまとわりつく。ザッツは喚きながら倒れ、のた打ち回った。

「ま、間に合った……」

階段の上で息をついているのはエイルである。髪は寝癖でぼさぼさだが、目は魔術を成功させた喜びできらきらと輝いていた。

シキは肩にかかっていた縄を払い、すぐに立ち上がってティレルの姿を探した。目が慣れたとは言え、ティレルがどこにいるか、すぐには掴めない。その耳に短い叫び声が飛びこみ、その目にティレルが床に倒れこむのが映る。

ヘッジは最初から隠れ、ずっと様子を伺っていたのである。そして、立ち上がったティレルに狙いを定め、短剣を投げたのだった。

「ティレル!」

クリフたちが慌ててティレルに駆け寄り、その傷が致命傷ではないことを確かめる。シキはその目に怒りを燃やし、机の後ろからヘッジを引きずり出した。

「貴様、どういうつもりだ。狙いは俺じゃないのか!」

剣を突きつけられたヘッジは目を白黒させた。何か話そうにも、シキの剣幕に口を開く余裕もない。

「くそっ、ようやく消えたか……」

ザッツが立ち上がる。ようやく火を消しとめ、焼け焦げた服にしかめ面をしている。火傷はさほどひどくもないようだった。

「ザッツさん!」

声と共にヘッジが視線を送ったが、ザッツは助ける気もないようである。あたりを見回すと、雇った男たちは、いつの間にかほとんどが姿を消していた。ナールが部屋の中からメイソンを引きずり出し、縛り上げている。ザッツは肩をすくめた。

「俺としたことが、無様な結果になったものだ」

クリフとエイルがティレルの部屋に彼女を運び入れ、その間にクレオが火種を持ってきて、灯りをつけていく。少しずつ明るくなると、誰を相手にしていたのかがはっきりしてきた。立っている敵はもはやザッツ一人である。シキはヘッジを縛りながらザッツを見やった。

「お前は……確か、フォマーの部下だな。ラマカサで見た記憶がある」

「ああ」

乱れた髪をかきあげ、ザッツは嘆息した。

「やはり、こいつらを手下に使ったのが失敗だったな」

「ザッツさぁん」

メイソンが情けない声を出す。それにまったく動じない様子で、ザッツは事の次第を吐露し始めた。

「フォマーはやたらと怒っていてな。追討令まで出して必死に捜索している。南へ行ったと知り、俺がデュレーで捕まえることになったわけだが、この様だ。やってられんな。……俺はもう降りる。あんたには悪かったが、これ以上危害を加える気はないから安心してくれ」

「で、どうするつもりだ」

シキが尋ねると、ザッツは冷めた目で答えた。

「さっさと逃げるさ」

「自分の主人を裏切るつもりか」

「はっ、馬鹿らしい。あのちびが忠誠を誓うような相手か? ちょうど、近い内に暇を出そうと思っていたところさ。もう次の働き口は見つけてあるんだ」

「……沈みかけた船を見捨てるねずみのようだな」

「褒め言葉と受け取ろう。俺は世渡りが上手いんだ。……ま、フォマーのところにはろくな人材がいない。あんたも今後、闘技場にさえ行かなきゃ安全だろう。それじゃあな」

身を翻すザッツに、ヘッジとメイソンが泣きつく。

「そ、そんな!」

「私らはどうなるんですか!」

「さあ、知らん。そいつの剣にかかって死ぬってのはどうだ」

「じょ、冗談でしょう」

ヘッジとメイソンの二人が同じような顔で青ざめる。

「いずれにせよ、俺は衛兵が来る前に消えるとしよう」

そう言うと、ザッツは裏口からさっさと姿を消した。

「俺はお前たちを殺したりはしない」

シキの言葉を聞き、ヘッジたちはほっと息をつく。が、次の瞬間、メイソンが飛んだ。丸い体が壁にぶつかり、派手な音をたてて床に落ちる。

「ティレルの怪我のお返しだ。いや、これじゃ足りないか。大体、やったのはお前だったな」

ヘッジを睨む。先ほどまでザッツが味方に付いていると思って強気な表情だったヘッジは、手の平を返すように卑屈な態度である。

「いーやいやいやいや! もう十分です! 申し訳ない! もうしませんから!」

「当たり前だ。まだ何かするようなら、今度は斬るぞ」

「ひぃ」

ヘッジは床に頭をこすり付けるようにして目を閉じる。メイソンは白目を剥き、口から泡を吹いて床に転がったままだ。少し前から、誰かが繰り返し扉を叩いている。我に返ったナールが開けると、警備隊の隊員が数名立っていた。

「物騒な物音がするという通報があり、急ぎ駆けつけた」

「このような夜更けに何の騒ぎか」

彼らの目には、縛り上げられたヘッジと床に転がったメイソン、困ったような顔のナール、宿屋の客らしき者が数名映っている。その様子から、今の今まで乱闘していたことが見て取れる。

「何があった? 宿屋ギルドの長を縛り上げて……」

シキが冷静に答える。

「目的は知らないが、こいつらが宿に忍び込んできて、襲われたんだ。我々はそれを撃退したまで」

「まさか、誰がそんなみっともない真似をするものですか。私はギルド長ですよ。彼らが嘘をついているんです」

ヘッジが釈明を始める。エイルは怒り心頭である。

「ふざけるな!」

「私は知らんな。ちょっと頼みますよ、このふざけた縄を解いて下さい」

素知らぬ顔でヘッジが警備兵に声をかける。ヘッジは長年宿屋ギルドの長として働いてきた人物だ。信用もある。うろたえる衛兵を見て、これはいけると踏んだのか、ヘッジがさらに畳みこんだ。

「私が何故彼らを襲わなきゃなんないんです? ねえ……」

と、顔を上げたヘッジは、シキの凍りつくような視線をまともに受けた。

「い、いや、その……あの……」

「襲われたのは確かだ。だが、証人の大部分は逃げてしまった。そいつらも証人だが……余所者の言うことは信用ならないか?」

「そういうわけではないが……」

衛兵たちは、たじたじとしてお互いに顔を見合せている。状況からすれば、シキの方が正しいように思えるが、本当にギルド長がそんな事をするものだろうか。どちらを信用したものかと悩んでいるのだ。

「彼の言うことは間違っていない」

ナールが進み出た。無言で階段脇の部屋を示す。それ以上何も言わないナールを見て、クリフが説明を始めた。

「あそこの部屋に、ティレルが寝てるんだ。怪我をさせられて。そこのヘッジがやったんだよ。背中に剣を投げて。剣はヘッジのものだと思う。回復すれば、彼女も証言するはずだ」

「何と」

警備兵たちは再び顔を見合わせ、ついに隊長らしき人物が口を開いた。

「ともかく、二人には御同行願おう。君らも明日の朝、詰め所に出頭するように。事の真偽を確かめねばならんからな。ここで捕まえるようなことはしないが、間違っても逃げるような真似はしないように」

そう言うと、警備兵たちはヘッジとメイソンを連れ、宿から出て行った。

柔らかな冬の日差しが道行く人々を照らしている。通りの両脇には白い布を屋根にした露店が立ち並び、店員が客とやり取りする快活な声が飛び交っていた。餌を求めて町へ出てきた山鳥たちが、道端で何がしかをついばんでいる。

「とまあ、そういう訳だったんだよ」

クリフが興奮気味に両手を広げてみせる。話し相手は茶褐色の瞳を興味深げに輝かせた。

「俺も参加したかったなあ」

「やだ、セサルったら。大変だったのよ」

死ぬかと思ったんだから、と言うクレオに、青年は自信あり気に笑って見せる。砂漠の民が身につける大きな布を頭からかぶり、緑がかった黒髪を短く刈った青年は、メイソンの宿で一緒だったセサルだった。

「早いとこ審議が決着して良かったね」

「そうだね。もうヘッジたちも悪さは出来ないと思うよ」

「当分の間は、でしょうけどね」

クリフの言葉に、クレオが肩をすくめながら付け足す。

「ティレルの怪我はその後どうだい?」

「それほど深い傷じゃなかったんだ。もう歩けるよ」

「でもまだ完全には治っていないわ。私たちが色々手伝ってるけど……」

「そうか、それで買い物に来てたんだな」

「セサルが荷物を持ってくれて助かったよ」

ティレルの宿の扉には、注意書きの札が下がっていた。

――宿をお休みしています

          食事は出来ます――

扉を開けると、木の札が軽い音を立てる。

「いらっしゃ……ああ、お帰り」

事件以来、ナールは少し言葉数が増えた。彼なりに努力しているらしい。若干不自然ながら、笑顔を浮かべている。

「頑張ってる?」

厨房に入ったクレオが笑顔を向けたのは、エイルだった。驚くべきことに、エイルはクレオに料理を習い始めたのである。元々、興味があったからか、簡単な食事くらいならすぐに作れるようになった。クレオに言わせれば「まだまだね」だそうだが、エイルはそれに怒ったりもしない。クレオが今まで作っていた食事がどれだけ工夫したものだったか、費用も時間も調理器具も限られた状況で、彼女がどれだけ一生懸命作ってきたか、エイルは初めて知ったのだ。それに自分がどんなに文句を言ったのか。自分で料理を作ってみて、エイルは初めて本当にクレオに感謝を覚えたのだった。

「やっと帰ったか。遅いぞ!」

ごめんごめん、と謝るクリフに、エイルはにやっと笑って見せた。背が低いために踏み台に乗り、真っ直ぐで奇麗な姿勢を保っている。何かを炒めているようだ。

「お前らが遅すぎるから、もう全員分の昼食を作ってしまったぞ。今日はウィッタ芋の卵包みに挑戦してみた」

「わぁ! すごい、綺麗に出来ているじゃない!」

尊大な態度は相変わらずといったところもあるが、額に汗して客の食事を作っているエイルは、一回りも二回りも成長して見える。

「これにパッソンを飾って出来上がりだ。ふふ、クレオと違って、私は見た目にもこだわるのだ」

「そういう一言がなければ、もう少し褒めてあげてもいいと思うんだけど」

「褒めて欲しいなどと言った覚えはないが」

「可愛くないわね」

「ふん」

舌を出しながら最後の一皿を盛り付ける。と、カウンターの方から声がかかった。

「三人前、食事の追加を頼む」

シキである。怪我も治り、店に立てないティレルの代わりに、ナールと客の相手をしているのだった。人前なので、エイルに敬語を使わないでいるのが不自然ではあるが、白い前掛けは意外にも似合っている。

「分かった。すぐ出来るから」

エイルはシキに応えて火の入ったかまどにパンを放り込み、野菜を煮込んでいる鍋のスープを味見した。

「うむ、素晴らしい」

大仰な仕草で頷き、その愛らしい顔に笑顔を浮かべる。

その後、仕事が一段落したエイルたちは食卓についた。せっかくだから一緒に、と誘われたセサルも加わっている。クリフの前に積まれた山のようなパンがみるみる減っていく。クレオはウィッタ芋の卵包み焼きを口にし、驚いた表情を見せていた。

「意外と美味しいじゃない」

「意外と、とは何だ」

「あらごめんなさい。怒った?」

「私はそんな事で怒るほど子供ではないからな」

「あはは。でも本当に美味しいわよ」

「それは当然……」

言いかけたエイルは、クリフの視線に気づく。シキを見ると、シキも意味ありげな顔でエイルを見ていた。エイルは二人の顔を何度も見比べる。シキとクリフは、エイルに何かを期待しているのだ。

「あ」

「? 何よ、エイル。『あ』って。そんなに口を開けて、変な顔。クリフとシキは何を笑ってるの?」

クレオ一人が、首をかしげている。エイルがもう一度口を開けた。

「あ」

「だから、何だっていうの?」

「……あ、あ、ありがとう」

「は?」

「まっ、間抜けな顔をしているな! そんなに口を開けて、馬鹿面に見えるぞ! 礼を述べたのだ! この私がお前ごときに礼を述べたのだぞ、分かっているのか? 恐縮して恐れ入ったらどうだ! 本当に、私を誰だと思っているのだ、失敬な!」

まくしたてたエイルの頬が赤く染まっている。クレオはまだ目をぱちぱちさせながら呆気に取られていた。クリフたちは声を殺して笑っている。

「ふんっ!」

言いたいだけ言うと、もうその話題は終わりとばかりにエイルはセサルに向き直った。

「セサルは、いつまでデュレーにいるのだ?」

「ああ、いや実はもうそろそろと思っていたのさ。少し長居しすぎたよ。その代わり、面白いものを見せてもらったけどね」

セサルはにやっと笑って、片目をつぶる。

「そうだな、明日にでも出発するよ。山を越えて、北へ行く。俺も、もっと色々な事を経験しなくちゃ。……ところで、君たちはどうするつもり? 確か、魔術師を探しているんじゃなかったっけ」

「そうなのだ。コーウェンという町にいるという噂だが、実際のところは分からんしな。もちろん名前も知らないし、本当に困っているのだ」

「うーん、俺はあんまり詳しくないからなぁ。役に立てなくてごめん」

「まあ気にするな。旅の途中で知っている者に出会うかも知れないしな」

「コーウェンはリューイー地方だよな。って事は南へ、砂漠を超えるってわけだ」

「ええ……やっぱり、大変よね?」

クレオが不安げな顔を見せる。セサルは大きくうなずいた。

「そりゃそうさ。砂漠には一度も行ったことがないんだろ? じゃあものすごく大変だ。案内を頼まないと。絶対、道に迷うよ。間違いない。昼間は死ぬほど暑いから、厚手の布を頭からかぶってじっとしていなくちゃ駄目だ。動くのは夜がいい。凍えるように寒いけど、晴れてさえいれば距離が稼げる。後はそうだな……時々、竜巻がくるんだ。布を顔に巻かないと息が出来なくなるから気をつけて」

セサルの助言はこの他にもたくさんあり、全て、よく頭に叩き込むようにと何度も言った。

「君らが無事に砂漠を越えること、心から祈ってる。それじゃ、俺はそろそろ行くよ」

そう言って、食事の代価を机において立ち上がる。

「明日の朝は早くに出発するつもりだから、君らともここでお別れだな。……そうだ」

首に下げていた金属の飾りを外し、セサルはそれをクリフに渡した。

「これを持っていきなよ。砂漠の神ヤーデの首飾り。きっと君らを守ってくれる」

「ありがとう、セサル」

「もしケイズリーという部落に立ち寄ったら、それを見せてやって。外の人は警戒されるけど、俺の知り合いだって分かれば歓迎してもらえると思う。それから……レザという女性に会ったら、セサルは元気でやってるって伝えてくれないか?」

クリフが笑顔で答える。

「きっと伝えるよ。友達?」

「いいやその、婚約者というのかな。儀式が終わって部落へ帰ったら、結婚するつもりなんだ」

日に焼けた顔で、セサルは照れくさそうに笑った。

「それじゃあ、元気で」

「セサルもね」

「夜にならぬうちに山を下りろよ。クルイークに出会わぬようにな」

「ああ、ありがとう。気をつけるよ」

シキたちはそれぞれに別れの言葉を口にし、宿から出て行くセサルを見送った。

「さて……俺たちはどうする?」

クリフが、誰にともなく問うた。エイルが即答する。

「ティレルの怪我が治ったら出発する。それしかないだろう」

「今のところ手がかりは一つです。やはりコーウェンという町に行ってみるしかないでしょうね」

他に客の姿はない。シキはエイルに対して自然と敬語に戻っている。

「道のりは遥か、というところね」

クレオが呟く。彼女の心の痛手は癒えていないようだが、ようやくシキと会話を交わせるまでにはなった。努めて明るく振舞っている。クレオから話を聞いたクリフは、妹が心配で仕方なかった。シキはクレオの様子に気づいていないようだ。いやそれとも……。シキはクレオをどう思っているんだろう、と、横目で見る。その表情からは何も読み取ることは出来なかった。

外でばたばたと足音がし、宿の扉が勢いよく開いた。駆け込んできたのは、恰幅のいい中年の男である。息を切らしたまま、彼らに問いかけた。

「すっ、すまないが、ここに財布が落ちていなかったかね」

「え?」

「買い物をしていたんだが、気づいたら財布がないんだ。さっきここで食事をした時はちゃんと支払いをしたから、ここに忘れたと思って……」

クリフとクレオがお互いの顔を見て、「あった?」「いいや」と目線で会話している。シキが尋ね返す。

「どんな財布ですか?」

「緑の布製で、こう、茶色いひもでくくってある……」

男は手で財布の形と大きさを示したが、宿の面々は「思い当たらない」と首を横に振った。

「詰め所へ行って、届けを出したら?」

「やっぱりその方がいいですかねぇ」

「場所、分かりますか?」

「いや……」

案内します、と、クレオが立ち上がり、しょぼくれた男と一緒に出て行った。

「さっきの話はまた後、だね」

クリフが言い、彼らはうなずきあって二階へと姿を消した。

昼の間は食堂として使われている酒場だが、昼時の喧騒も終わり、穏やかな時間が訪れている。静寂を取り戻した食堂に残ったナールは、一人、夜のために机を拭き始めた。明るい午後の陽射しが、冷たい石の床に奇麗な線画を描いている。

扉につけられた木の札が軽い音を立て、一人の青年が入ってきた。

「何だ、誰もいないのか。まあ、もう遅い時間だもんな。まだ食事は出来るかい?」

青年は華やかな声でナールに話しかける。ナールは無言でうなずき、机の一つを示した。

「表に食事は出来ると書いてあったからな。うまいものがあるといいんだが。そうだ、何か酒もあるといい。キームーシュがいいな」

「ああ」

ナールは相変わらずの調子で答えると、カウンターへ入り、キームーシュを注いだ。

「ずいぶん無愛想だな。まあ男に愛想よくされても嬉しかないか。女の子がいるといいんだけどな。この店に女の子はいないのかい? そうだな、あまり背が高くなくて、痩せすぎていなくて、目のくりくりっとした可愛い娘が……」

立て板に水といった調子で続ける青年に、黙りこくって酒を出すナール。対照的な二人である。

「まあいいや、とにかく腹が減ったよ。何か食事を頼む。って、さっきも言ったな。何でもいいけど、腹にたまるようなもんがいい。もちろん、旨いに越したことはないわけだが」

しばらく後。ナールが出したキームーシュを二杯と食事を平らげ、青年は満足そうな笑みを浮かべていた。人懐こいような、悪戯っ子のような笑顔である。

「うん、思ったよりずっと旨かったよ。兄さん、無口だけどなかなかの腕だね。値段は? へえ、結構するんだな。でもこれだけの料理を出すんだ、文句は言えねえ。いいさ、今日は運よく金持ちなんだ」

にっこりと笑って懐から取り出した財布は、緑の布で出来ていて、茶色のひもでくくってあった。

「ごっそさん!」

青年はそのまま店を出て行こうとした。が、扉のところで振り返る。

「おおっと、大事な用を忘れてた。これを忘れちゃ意味がないんだ。兄さん、ここらの宿に変な客が泊まってないか、聞いたことがないかい?」

「変な、とは?」

「黒髪の剣士、青い髪の子供、そっくりな二人組っていう四人なんだけど」

ナールははっとして青年を見つめた。

「顔色を変えたところを見ると、知ってるな。すげえ、一発だ。いやしかし本当に俺はついてるぜ。デュレーにいるって話だったけど、まさか最初の宿屋で見つかるとは思ってもみなかった。……ああ、俺は悪者じゃないから安心してくれ。あんたにも、彼らにも危害を加えたりするつもりはない。俺はただの案内役なんだ」

「……」

「信用できないといった顔つきだな。はは、怪しむのも仕方ねえや。でもそう言うな、ともかくそいつらに俺を紹介してくれないか? 俺の名はグレイ……いやあ、やっぱり本名を名乗っとくかな。俺はリューク。普段はグレイって通り名を使っているんだ。『コーウェンの魔女』のところから来たと言ってくれ」

シキもエイルも、もちろん双子たちも、驚嘆するほかなかった。ちゃらちゃらとした遊び人風に見えるその青年は彼らの事を知っており、さらにその目的を知っていたのである。その見かけとは裏腹に、彼は真面目くさった顔でマイオセールでの事件を一通り説明した。

「信じられないのも無理はないぜ。俺も最初はそんなもん信じちゃいなかった。世界の存亡がかかってるだとか、そんなことを急に言われたってな。けどな、俺は確かにあれを見たんだ」

「竜、か」

エイルが呟く。

「ああ、この世のものとは思えなかったぜ。だが、あれは紛れもなく本物だ。生きて動いたし、炎を吐いた。おっそろしい化け物だ。マイオセールはあいつのせいで滅亡した。たった一人の皇女を残してな」

そう言うと表情が翳(かげ)り、リュークは目を伏せた。けれどまたくるりと表情を変え、彼の昔からの知り合いの事を親しげに、そして少し憎々しげに話し出した。

「さっきも話したが、ヴィトってのは何でも知ってやがるんだ。普通の人間には見えやしないが、火だの水だのには精霊がいて、そいつらが色々教えてくれるんだとよ。それが本当かどうかは知らないし、俺はそういうもんを信じちゃいないんだが、とにかくあいつの持ってきた情報に嘘はないのさ。で、そいつがデュレーへ行けと行ったんだ。運命を担う四人組がいる、彼らをコーウェンへ導け、とな」

「ヴィトさんが『コーウェンの魔女』なの?」

クレオの問いに、リュークは手を振って否定の意を示した。

「あいつは男だよ。コーウェンに住んでるわけでもない。俺には訳が分からないが、とにかくそう言われたんだ。『コーウェンの魔女のところから来た』と言え、ってな」

「そのヴィトと魔道士とが知り合いなのか、それとも何かの暗号なのか……コーウェンの魔女とやらが大陸一の魔道士なのか? 何にせよ、ずいぶんと回りくどいことをする」

「ヴィトは他にやる事があるから俺に行けって言ってたぜ。まあ、サーナも預けていたしな」

サーナ皇女の名が出るたびに、リュークはほんの僅かに複雑な表情を見せる。だが四人にはそれに気づくほどの余裕がなかった。

「まあともあれ、仲良くやろうぜ。コーウェンは遠いんだ」

この青年を信じる根拠は何もない。すべて作り話かも知れぬ。だが、クリフとクレオを双子だと言い当てた。それに――ヴィトが言うには、とリュークは前置きしたが――シキとエイルは他の者たちと違う、別の時代の人間だ、とも。

シキが、仕方がないとでも言うように息を吐いた。

「信じないわけにはいかぬようだ。どうせ、コーウェンへは行くつもりだったのだ。案内役がいるなら感謝するべきだろうな」

リュークの軽薄そうな容貌やしゃべり方にはどうも信用が置けない。だが、悪い人間ではないようだ。

――あまり好きにはなれないが。

シキはそう思ったが、あえて口には出さなかった。

「じゃ、行くか」

事もなげにリュークが立ち上がる。双子は面食らって、同時に「え?」と口を開けた。

「もうここには用もないだろ。さっさと支度して来な」

「で、でも」

「そんな急に言われても」

「世界の滅亡がかかってんだぜ? ぐずぐず言ってる暇はないだろ。それとも何か、家財道具一式を包む手間がいるとでも言うのか? 可愛いお姉ちゃんなら待っててもやろうってもんだが、男三人、それも一人はガキで……ああクレオだっけ、あんたは割といいな。まあまだちょっと発展途上気味だがな……」

リュークはあごに軽く手を添え、首をかしげながらクレオをしげしげと見つめる。

「失礼ね!」

「何言ってんだ、見られてんだから光栄に思っていいんだよ。見られなくなったら女は終わりだぜ? さあ、ほら、もういいから荷物を作って来いよ」

リュークに急かされ、クレオたちは二階へ向かった。荷物をまとめる間もリュークはしゃべり続け、エイルすらも口を挟む隙がない。いつもの調子で「私を誰だと……」と言う暇も与えられなかった。

四人がまたもやリュークに押し立てられるように階段を下りてくると、ティレルとナールが彼らを待っていた。ティレルはナールに支えられて立っているといった様子である。怪我はまだ治っていない。話を聞いていたナールがティレルに説明したのだろう。これが別れになると思った彼女は、痛みをこらえて部屋を出てきたのだった。

「もう行くのね」

ティレルは、シキを見て言った。シキの返答はない。クレオは視線を床に落とす。シキがどんな顔をしているか、怖くて見ることが出来ない。クリフが申し訳なさそうに口を開いた。

「俺たちのせいでこんな事になって……宿を再開するまで手伝おうと思っていたんだけど……。ごめん、ティレル」

「それは大丈夫よ。私ももう歩けるし、何日かすれば仕事も出来るわ」

クリフを励ますように、ティレルは笑顔を浮かべる。寂しさを口にする気はなかった。だが、もはや彼女の言葉を聞かずとも、その心は伝わっている。この宿に滞在した日々は、彼らの心を十分に近づけていた。ティレルの瞳の奥に隠れた想いは、容易に汲み取れる。

「無理はするな」

どういう深意があってその言葉を口にしたのだろうか。シキもまた、余計な言葉を言いはしなかった。どこまでも深く、優しさに満ちた緑の瞳が、ティレルを真っ直ぐに見つめている。

「ありがとう」

そう言ったティレルの声は、いつも通り柔らかだった。

「私、この宿が好きよ。宿の仕事も好き。そして歌も。これからもずっと、歌いながら宿をやっていくわ。……私ね、母の気持ちが少し分かった気がするの。多くの旅人が訪れ、また去っていくこの町に、ずっと留まった母の気持ちが」

「そうか」

「母は……きっと、幸せだったんだと思う」

シキは何も言わなかった。クリフも、エイルも、黙っていた。そして、クレオも。

「あのな」

リュークの軽口が空気を一変させる。

「俺、こういう雰囲気って嫌いなんだよな。こう、何てのかな、湿っぽいっつーか……とにかく、俺は先に行くぜ。じゃあな!」

「お、おいちょっと待て、コーウェンへ案内すると言ったろう」

エイルが咎める。既に扉に手をかけていたリュークは振り返り、にやりと笑った。

「ずっと一緒に旅をするとでも思ってたのかい? ガキみたいなこと言うなよ」

「ガ、ガキだと……! 失礼な、お前は一体何様のつも……」

「俺様はリューク様さ。じゃあ俺はチェジャって町の宿屋にいるから」

エイルの語尾をすくい上げるように言うと、リュークは身を翻して出て行ってしまった。後に残された面々は呆然と口を開けている。

「面白そうな人ね」

「そうか?」

シキはティレルの言葉にしかめ面を返した。

「あら、ああいう人って嫌い? 私は好きよ」

ティレルがからかうような口調で言う。

「俺も嫌いじゃないけどな」

「私はあんまり好きじゃない、かも」

「正直に言えば好きになれぬ」

「大っ嫌いだ」

四人がそれぞれに感想を述べ、最後にナールがこう呟いた。

「よくもあれだけしゃべれると思う」

クレオが思わず吹き出し、食堂に笑い声が溢れた。

「さあ、行こう。まずはチェジャという町へ。そして砂漠を越えて、南へ。コーウェンへ!」

クリフの宣言とともに彼らは再び旅人となった。

エイルははるか遠くの祖国に思いを馳せて。

シキは過去を振り返ることなく。

クリフは高く昇ったハーディスに顔を向けて。

クレオは切なさを胸に秘めて。

そして運命の神クタールは、彼らの行く末をただ黙って見守っていた。

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