傍観者

目を開けると、薄ぼんやりした視界に光が満ち溢れているのが見えた。もう昼か……。俺はあまりの眩しさに目を細める。白茶けた芝生の向こう、人々は急ぎ足だ。何をそんなに急ぐ事があるのか、俺にしてみれば馬鹿らしいとしか言いようがない。彼らにもそれなりの理由があるのだろうが、このうららかな春の光の中で立ち止まりたいと思う人間がいないというのは嘆かわしい事だ。

寝てるうちに固まってしまった体をほぐし、思い切り伸びをする。俺はよくこうしてストレッチをする。寝てるうちに固まった体をほぐすのは気持ちがいい。上を見上げると、真っ青な空に木々の梢がかぶっている。ふんわりとした白い雲。うん、今日もいい天気だ。まだ眠気は残るが、それより前に食事だな。俺はその場を離れ、ぶらぶらと歩き出した。

俺の一日だって、それなりに忙しい。けど、あいつらみたいに時計の針に追われるような事はない。朝から公園の芝生で昼寝して、気づいたら昼だった、なんて今日みたいな事も日常茶飯事だ。贅沢はできないが、充実してるんだから問題は全くない。将来への不安、なんてもんはそこら辺に投げ捨てて、俺は今日も身軽な生活を楽しんでる。

軽い食事を終えて、町を散歩する。これも俺の日課だ。午後の町はぽかぽかとして、昼寝同様、気持ちがいいもんだ。表通りはスーツを着て暗い顔をした奴らがうろうろしている。それに、数え切れないほどの車が、いらいらと行ったり来たりしている。ビルが立ちはだかる谷間は、全く気が滅入る。だけどどうだ、そこからちょっと中へ入れば、ほら、住宅地の真ん中でも春の花に巡り会う事が出来るってもんだ。

煉瓦や石で造られた塀が並ぶ家々の隙間を、春を探してうろつく。たまに出会う人といえば買い物途中のおばさんや、子供を連れたお母さんたち。小さな児童公園には、疲れた顔したサラリーマンが座っている。特に用があるわけというわけでもなくぶらつく俺は、この辺りに悪いことでも起きないように見張っている正義の味方……まあ、少なくとも気分だけは。

なんて事をやってる間に日も暮れてきた。道端で寝ている浮浪者の枕元で、ラジオが今夜は雨だと喚いている。そりゃ困ったな。何が嫌いって、雨ほど苦手な物はない。決まった家ってもんがない俺は、雨が降るとずぶぬれ決定だ。嫌だ嫌だと思っていても、確かに雨が降りそうな気配。俺みたいにしょっちゅう空を見上げているような奴は、天気を読む事だって出来るようになるわけだ。

降り出さないうちにどこかへ避難しようと思ったが、これといっていい場所が見当たらない。そうこうしてる内に、あーあ、降ってきやがった。狭くったってこの際文句は言わないから、どこか雨宿り出来る場所はっと……。

何とかタバコ屋の軒下に非難した時には、既に全身が濡れねずみだった。いや、ねずみじゃないのにそう言うのもおかしいな。などと、くだらん事を考えながら水滴を払う。と、目の前を女が走っていく。どこかで見た事があるような気もする。無地の洒落た傘を持って、足元が濡れるのも構わず走ってるが……おいおいその靴じゃあいつか転ぶぞ。

「あっ!」

ほれみろ、いわんこっちゃない。彼女は俺の目の前で、傘を投げ出して派手に転んだ。綺麗な服も、髪も、何もかもびしょびしょだ。俺は思わず顔を背けたが、それからしばらくたっても、彼女は動く気配すらない。まさか気でも失ったか? 恐る恐る近づいてみた。俺が回り込んで、その顔を覗き込もうとする前に、彼女はようやくのそっと起き上がった。

「……何で、こうなんの……」

彼女の顔が濡れているのは、雨のせいだけじゃなかった。俺は黙って彼女を見つめた。それで俺はようやく分かった。彼女はいつも、俺が昼寝している公園で食事しているんだ。お互いに口を聞いた事もないが、俺は時々彼女をこっそり観察していた。やましい気持ちがあったわけじゃないが、何しろ俺の好みにぴったりだったから。

鼻をすすって顔を上げた彼女がようやく俺に気づき、俺はぎごちない笑顔を浮かべて見せた。彼女も、ほんのちょっとだけ、笑顔を浮かべた。それから俺たちは、彼女の家へ向かった。

彼女は美奈といった。いい名だ。名前だけじゃない、彼女は何もかもが素晴らしかった。家なしの俺を泊めてくれ、暖かな布団と旨い料理を提供してくれた。何も聞かず、何も言わなかった。

あれから俺は美奈の家にいる。彼女は俺を追い出そうともしなかった。逆に引きとめようともしなかった。ただ時々、「一緒にいてくれて嬉しいわ」と言った。俺は、美奈のそばにいてやろうと思った。

季節は移り、湿っぽい空気が空に漂い始める頃。俺はいつものように美奈の帰りを待っていた。仕事が終わるのが六時半。ここまで帰ってくるのに三十分。夕食の買い物をしたとしても……七時半までには帰ってくるはずだ。仕事もしていない俺は、彼女の時間を拘束する権利もない。

「ただいま!」

安アパートのドアを開ける音ともに、彼女の可愛い声。俺は玄関まで出迎え、熱い抱擁を交わす。

「やっぱりちょっと暑いね」

美奈は照れくさそうに言うと、窓を開けに走った。部屋は一階にあって、小さいながらも庭付きだ。日当たりもいいし、多少割高な家賃でもいい物件といえるだろう。ただし問題は、日当たりがよすぎること。エアコンがないので夏は窓を開けないと辛いものがある。

彼女が窓を開けると、夏の爽やかな夜風が部屋に踊りこんだ。俺たちは美奈が作った簡単な夕食を平らげ、のんびりとくつろぐ。俺も美奈もそれなりに幸せだったし、何もかもが順調だ。俺は、このままの生活が続けばなあ、と祈った。……と、こういう場合は必ず終わりが来るものだ。

俺と美奈の場合も、終わりは唐突に現れた。孝という名の「終わり」は突然やってきて、アパートのドアを叩いた。家に入れるのを拒んだ美奈に、孝は扉越しに低い声で何度も謝っている。何を謝っていたかなんて、俺は知らない。俺には、関係のない事だ。

美奈は、それでも一旦ドアを閉めた。俺を振り返り、「どうしよう……?」と問いかける。どうしようたって、それはお前の決める事だろう? 俺は肩をすくめるだけにしておいた。

しばらくして、彼女がそっとドアを開けたとき、孝はまだそこにいた。ずっと待っていたんだろう。美奈は、奴を部屋に入れた。二人は元の鞘に戻るつもりらしい。二人でベッドに腰掛け、俺のことなど眼中にもないといった様子で話し込んでいる。まあ、こんなもんだろう。女なんてやつは……いや、人間ってやつは。

俺は庭へ出て、湿り気のある暖かな風を胸いっぱいに吸い込んだ――。

「ねえ、孝も探してよ!」

「もういねえって、帰ろうぜ」

「いない……かなぁ」

「いねぇよ」

「……」

「どうしてもっていうなら、今度俺が買ってきてやるからさ」

孝は、美奈の肩を抱いた。美奈はようやく諦めたようだ。二人はゆっくりと公園を出て行った。美奈が孝にねだっている。

「ねえやっぱりあの子みたいな黒猫にしようよ……」



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