フラード

――ええ、忘れてしまった? 久々に会ったとはいえ、きつい挨拶ですね。まさか忘れられているとは思わなかったな、僕は先週もあなたに会ったつもりでいたんだけど。ああそうか、でもあの時は忙しそうだった、あなたは随分と早足で歩いてましたよ。そうか、声をかけたつもりだったけど聞こえてなかったんですね。そうすると……ああそれだと確かにしばらくお会いしてなかったかも知れない。

前に会ったのはいつでしたっけ、確かあれは、そうそうあなたがあのパーティに出てた時ですよ。会長さんの偉そうな、あの長ったらしい挨拶にうんざりされてた。ははは、いえ僕も同じ事を思ってましたよ。あ、思い出してくれましたか?

そうそう、そうですよ。僕は紺のジャケットを着てました。ああよかった、思い出してくれましたか。でも名前がはっきりしなくて、という顔ですね? 気にしないでください、そういうことはよくありますよ、僕だってちょくちょく人の名前を忘れてどうしようかと思うんです。顔はね、思い出せるんですよ。だけど名前となるとなかなか出てこない。ほらここのあたりまでは出るんですよね、喉の上のあたりまでは。

……そう、そうですよ、ご名答! よかった思い出していただけましたか。ああでもファーストネームまではお教えしてないですよね、フラードです、ええ以後宜しく。ついでだから改めて自己紹介しておきます。これでもう覚えていただけますよね。いやあはは、冗談ですよ。そうだ、あなたのフルネームもお聞きしていいですか? ええやはりファミリーネームだけよりフルネームのほうが覚えやすい。フィリップ=ミラー、フィリップ=ミラー……よし、僕もちゃんと覚えましたよ、ミラーさん。

ああ先週のいつ見かけたかって? ほらあのレストランにいらっしゃったじゃないですか、向こうの通りの大きな……ええそうです、あの店。いい店ですよね、僕も好きで時々行くんですよ。家がこの近くなものでね。……ええっ、そうなんですか? どのあたり? ああ、あのコーヒーショップなら僕も知っています。あまり行かないですけど……。その次の角を曲がったあたり? へえそれは奇遇ですね! 僕は通りのこっち側ですが、やっぱりあの辺の住人なんですよ。それはそれは知りませんでした、じゃあ実はちょくちょくすれ違ってたのかも知れないですね。

それで先週の話ですけど、ええ、レストランでね、ちょっと言い出しづらいが、喧嘩をなさったでしょう。ああいやどなたと、なんて事はいいんですよ、僕はそんな野暮な男じゃありませんからね。それで早足で出て行かれる時に声をおかけしたつもりだったんです、「こんばんは!」とね。ただ、席がちょっと遠くだったもので、手を挙げただけに止めたんですよ。早足で――お怒りのご様子でしたから、それはそれは早足で――歩いていかれるミラーさんを無理に引き止めるのも良くないだろうと思ってね。

そんな、気にしないで下さい、僕も気づかれなかったかも知れないとは思っていたし、気にしちゃいませんから。いやもう本当に。……いい人だ、ミラーさん、あなたは本当にいい人ですね。あのときの喧嘩も、あなたが悪いわけじゃなかったんでしょうね、え?

……そうだったんですか、それはひどい。それじゃあなたは全然悪くないじゃないですか! なんて女だ、図々しい。あなたはちっとも悪くないのに! 何て事を言うんだ、まったく……え? そりゃもちろん! 僕はミラーさんと同意見ですよ、そうですとも! 謝る事なんか何一つないじゃありませんか、そうでしょ? どう考えてもその女が贅沢なんです、まったく、ひどい話だ! そういう女はつけあがりますからね、別れた方がいいですよ。忠告しておきますが、つけあがりますよ、そういう女は。え? ああそうなんですか、それは賢明だ。素晴らしい判断ですよ、ミラーさん。

お互い苦労しますね、僕も最近は全然いい事がないんです。まったく女ってやつは、苦労の種ですよ。どんなに大人しそうな女でも、ちょっと可愛がってやるとどんどん欲張りになってきますからね。それでちょっと叱ればすぐに泣く。泣けば勝ちだって、心得てるんですよ、女は。ええ無意識でね、仰るとおり、無意識でやってるんでしょうね。罪の意識はない。そこがまた可愛く思えたりするんですよ。これだから男って奴はしかたがない。ははは、結局は騙される方も悪いんでしょうけどね……はは……。

ああいやすいません、ちょっと……ええ、ひどい目に遭いましてね……申し訳ない、情けないですね。

……。

ああ、すいません、じゃあ……お言葉に甘えます。

――先ほどは失礼しました。ええもう大丈夫です。心配させてしまいましたね。往来で泣きそうになるなんて何年ぶりだろう、自分でもびっくりだ。まさかあれほど傷跡が残っていたとは思いもしませんでしたよ。

……そうですね、ここのコーヒーはなかなかのものだ。きちんと作ってるんでしょうね。ああ、お金はお支払いします。おいくらでした? いえそれじゃ申し訳ないですから。じゃあこれで。ええ、僕はこういう事はきちんとしたい方なんですよ。

その、自慢できるような事じゃないんですが、このままじゃ失礼ってもんでしょうね、ええお話します。実は……女房と離婚したんですよ。つい半年くらい前です。原因は、まあお分かりでしょう。そう、僕の浮気騒動です。でもね、決してやってないんですよ。いやそりゃね、仕事の都合でいかがわしい店へ連れて行かれる事くらいはありますよ。それは誰だってあるでしょう? ミラーさんも? そうですか、そうですよね。ええ、僕だって男ですから、そういう時はどうも困ってしまいます。こっちは女房がいて、腹ん中には子供までいたんです。ですから、その気はまったくありゃしませんでした。けどね、そう、分かるでしょう? そうなんです、ちょっとその、ふらっとしたんですね。何しろいい女でしたから。男の本能って奴ですよね。分かって下さいますか、いや嬉しいですね! ああでもね、女房が言うほどの事は何もしちゃいないんですよ、これだけは誓って言えますが、俺はね……いや僕は、女房を裏切るような事は何一つしちゃいないんです! と、僕だけが思ってるわけなんですがね……。

離婚訴訟は惨憺たるもんでしたよ、ええそりゃひどかったです。僕は悪の権化で、人間味のかけらもない最低最悪の男らしいですね。何もかも失いました。たかだか半年前の事だなんて信じられません。

……ミラーさん、あなたはいい人だ! それほど親しくもない僕の話を親身になって聞いてくれて! それだけでも嬉しいのに、そんな優しい事を言って下さるなんて、僕は、感動してしまいますよ! なんていい人なんだ、ミラーさん、いやこれは誇張じゃありませんよ。僕は常日頃、大袈裟な事は言わないように気をつけてるんです。でもねミラーさん、今は本当に嬉しいからそう言うんですよ。全てをなくした僕に世間は冷たかった。この半年、誰も信じられずに生きてきたんですから……。うっうっ、ミラーさん、僕は本当に……ああすいません、ありがとうございます、こんな上等そうな絹のハンカチ、勿体無くて使えませんよ。いえでも有り難くお借りします、すいません。

――その事があってからというもの、けちがついてまわってるみたいでね、仕事もくびになりましたよ。まったくひどい話で……ええ、そうなんです。上司の言うのが目に浮かぶようでしょう? 「君のような男に、まだ用があるとでも思っているのかね?」ってね。もう笑いしか出ませんでしたよ。それで今ですか? まあちょっとした仕事を始めたんですが……資金繰りが上手く行かなくて倒産寸前です。野球で言うなら三点負けててランナーが一人だけ、それなのに九回裏でツーアウト、打者はフルカウントというところですか。一発ホームランが出ても巻き返せない、崖っぷちには変わりないって状況です。まったく、僕がどれほどの悪事を働いたというんでしょうね。神様も随分な仕打ちをなさるもんだな、なんてね。ははは……。

本当は悠長に長話をしてる場合でもないんですけどね。実は今日中に――正確に言えば五時まであと二十三分ほどですが――銀行へ電話しなきゃなんないんですよ。電話は出来ても、何も言えないんでかけませんけどね。ええ、そうなんです、振り込めないんですよ。規定金額にはとても足りません。たいした金額じゃないのに、今の僕にはとても……お恥ずかしいですよ、一年前なら友達に貸すような感覚で小切手を切る金額なんですけどね。ええ、仰るとおりです、たいした額じゃない。本当に、これっぽっちの金に悩むとは情けないですよ。たかがこれだけで……え? いや本当ですよ。全財産をかき集めてもないんです。そりゃミラーさんのようにご立派な方には信じられないかも知れません。いやいや、ご謙遜が上手だ……僕だって昔ならね……ええでも今はどうにもなりません。親戚? 僕なんかに金を貸してくれる奴は誰一人いやしませんよ。両親はもう随分前に亡くしてるんです、兄弟はいませんし、友達付き合いもそれほど活発な方じゃないんです。お恥ずかしながら、今の僕には誰一人……。

……まさか! そんな、いけません、だってミラーさんと僕とはまだ……え? いやそりゃあ……そりゃ確かにミラーさんとはご近所だし、話を聞きもしましたよ。でもそれとこれとは……いやいや僕なんかよりミラーさんの方がよっぽど人格者ですよ。こんな話を親切に長々と聞いて下さる人はどこを探したっていやしません! だけどそれにかこつけるような真似は……でも……いやいや、決してそんな事はさせられませんよ、ミラーさん。

……ミラーさん! いや、この際だ、人格者フィリップと呼ばせてください、あなたは神様のような人だ! いや神様が僕を救うためにあなたを使わしてくれたんだろうか? どっちでもいいけど、本当に? この小切手をくれるというんですか、この僕に。こんな情けない僕を、友達だと? 本当にそう思ってくれるんですか。……ああそんな、信じられない、これでホームランだ! ええ、さっきの話ですよ、野球のね。そう、もちろん崖っぷちには変わりないけど……あれ? ちょっと、電話ってどこへ。銀行? 僕の? 話をつけてくれるって……ああそりゃもちろんそう、あなたの言う通りだけど……これが番号です、でも……。

――本当に助かったよフィリップ。なあフィル、あんたは本当にいい人だ。友達だよ、これからもずっと。これで何もかもが上手く行く、連続ホームランで逆転さ。俺に出来る事があったらいつでも言ってくれ、なんでもする。どこにいても友達のために駆けつけるよ。ああそうさ、俺たちは固い絆で結ばれてる。そうだろ?

え? 俺たちが初めて会った時の事? あははは、思い出せないか? フィル、俺たちが初めて会ったのがいつで、どこで、どういう経緯だったか、思い出せない? フィル、そりゃないだろう、この俺の事を忘れちまったのかい? ……と言っても仕方ないだろうな、あんたは今日初めて俺に会ったんだから。いや先週のレストランにはいたよ、俺はウェイターをやってた。くびになったけどな。あの女はあんたが言うほどひどくなかったぜ、いやむしろベッドの中じゃいい女だった。あんたの事を隅から隅まで話してくれた。だから代わりに隅から隅まで可愛がってやったよ。

……ああそうさ、その通りだよ、ご名答! ようやく気づいたかい? 俺のファーストネームが――さっき教えたばかりだ、まだ覚えてるだろうな? ――どういう意味か、よく考えてみな。ガキじゃないんだ、知らない単語でもねぇだろ? 綴りはエフ、アール、エー、ユー、ディ。これで一生俺の名前は忘れないだろうぜ。じゃあな、あばよ。


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