風が吹くとき

舞台は薄暗く、狭い一つの部屋。もう夜だというのにその部屋には満足な明かりさえ点いていない。夏の海風がガラスの隙間から吹き抜ける。貧乏な部屋の中では手元の小さなランプを手がかりに、一人の男が絵を描いている。

男は大きなキャンパスに向かい、背を丸め、かなり熱心な様子。時折キャンパスから顔を覗かせ、モデルと絵を見比べる。男の前にはやせこけた男の子が座っていて、どうやら彼がモデルのようだ。今にも崩れそうな木の椅子に腰掛け、きちんと姿勢を正している。しかし少年は下を向いていて、その表情には生気が感じられない。

「ほらっキース、前を向きなさい。お前の顔が描けなくなってしまう」

男は何度も声をかけるが、キースと呼ばれたその子はつかれた顔をしてわずかに微笑むだけだ。叱咤されるたびに顔を上げはするものの、二、三分とたたぬうちに、またもとの様にうつむいてしまう。

男はため息をつきながらも気を取り直し、ようよう絵を書き上げた。絵にはカーテンのかかった窓があるこの暗い部屋と、椅子に座ったキースが描かれている。絵の中のキースは実物と同様、ぬれたような前髪を額に垂らしてうつむいていた。膝をそろえて真っ直ぐにおろし、その上に両手をきちんとおいている。

絵を描いていたのはキースの父親で、彼は画家だった。最近の風潮は抽象画なので、写実主義の彼の絵はまったく売れ行きが伸びていなかったが、若かりし頃はだいぶ売れていたのであろう、その絵はとても良く描けている。何という事もないあっさりとした絵だが、その色のセンスは抜群で、また彼の息子に対する愛情にあふれていた。

「よ……っし、できた。喜べキース、父さんは一生に一枚の、最高の一枚を描きあげたぞ!父さんの全身全霊を込めた作品だ、きっとみんな、気に入ってくれるだろう!」

「……本当? 父さん、おめでとう」

「ああ、有り難うキース、お前のおかげだ。大好きなお前を、いつか描きたいと思っていたから父さんは嬉しい。うん、実に嬉しいよ!」

「ぼ、僕のおかげだなんて……そんな事ないよ……」

「……しかし、なんだな……う〜ん」

「どうか、したの……?」

「いや、なに、最高の出来ではあるんだが、なあ……ただ、お前が笑っていたら、もっと良くなったかもなァ、と思っただけさ。これはこれでお前の味が出ているがな!ほら、見てみろ。髪が重苦しく垂れ下がってしまっているだろ?最近散髪にいかせてやる金もないからなあ……」

「い、いいよ……僕、大丈夫だから。それより、明るい方がいいんなら、もっと明るくしたら……?」

「俺はあるがままの現実を描く主義なんだ、って何度もいってるだろう? これがお前なんだ、お前が変わらんかぎり、この絵が変わる事はないよ」

「僕が変らない限り、変らない……」

「……そうだ。なあキース、この絵は売るつもりはないから、お前にプレゼントという事にしようか」

「え、……父さん、売った方がいいんじゃない?」

「何でだ?」

「いや、父さんがいやだって言うならいいけど……お金、ないんでしょ?」

「いや、まあそれはなんとなるが……。よし、お前がそういうならエミリオの奴に売ろう。奴なら店の何処かへ飾ってくれるだろうからな、みんなが見てくれるさ。……しかしなあ、キース、父さんが最高傑作を書き上げたんだ、もっと楽しい顔をしろよ……それとも疲れちまったのか?」

「ううん、そんなことないよ、嬉しいよ……」

キースは内向的な少年である。家が貧乏なせいもあり、また彼自身が何をやってもさっぱりなせいもあり、みんなによくいじめられては泣いて帰ってきた。いつも下を向いて歩いているし、疲れたような、脅えたような目をしているし、何も言わなくても自分が悪いんだと思い込むような少年なのである。みな、ある意味、いじめられるのも当然といったふうに思っていた。町の大人たちも、また、この少年自身も。

しかしそんな彼に、父親だけは接し方が違っていた。父親は彼の事を一番心配してくれている、よき理解者なのだ。キースも父親には良くなついていた。何しろ他の人に対しては、微笑すら滅多に見せないのだから。

「キース、もっと前を向いて歩け。……いいか、父さんは上を見て歩けとは言わない。上ばっかりを見ていたら、目の前のものが分からなくなるような人間になっちまうからな。そんな人間は必ず、自分を見失い、やりたい事すら分からなくなってしまうもんだ。だけどな……、いやだから。前を向いて歩くんだ。目の前にあるものを見なくちゃダメだ。下を向いていると、必ず何かにぶつかっちまうぞ!」

これが彼のいつもの口癖だった。「下を向くな。上も向くな。いつもまっすぐ、前を向いて歩け」と。

しかし数年後、その父親はいなくなってしまった。年のせいもあったのだろうか、一度かかった病は治る事もなく彼の体を蝕みつづけ、ついには死に至らしめてしまったのである。キースは殆ど表に感情を見せない子供だったが、この時ばかりは涙が頬を伝った。葬式を出す金もなく、唯一持っていた黒い上着を肩にかけ、キースは声をださずに、泣きつづけた。

それからというもの、キースはより話さなくなった。町の人たちはやさしく世話をしてくれたが、キースは蚊のなくような声で礼を言うばかりである。そのうち働きに出たが、返事すらまともに出来ない彼に、親方も業を煮やしてしまった。

「ったく、なんだってお前は下ばっかむいてやがんだ!人の顔もまともに見れねー奴にゃ、用はねえよ!」

そう言って追い出されてしまう始末。キースはそれでも何も言わず、少ない荷物を抱えて出ていった。とぼとぼと町を出たキース。いったい何処へ向かうのか自分でも分からなかった。ただ、足が動く限り、何も考えずに歩きたかった。彼は父親が最後にまでいっていたあの口癖を、どうしても守る事が出来なかったのだ。その後、町で彼の行方を知るものは誰もなかった。

ここは明るく活気に満ち溢れた、港町だ。今は実りの季節で、町の中心街には大きな市場がたち、大賑わいの様子。吟遊詩人が歌い、人々がグラスを響かせる酒場には踊り子もいる。商人は道の端で大きな声を張り上げて客を呼んだり、馬車に荷物を積んで運んだりしている。通りという通りには人があふれ、雑踏の中は人いきれでいっぱいだ。そんな町の中央には広場があり、大きな噴水が勢いよく水を吹き上げている。きらきらとまぶしい水飛沫があたりに舞っている。その広場に、一人の男が立っていた。人を掻き分け、必死になっているうちに、やっとここまでたどり着いた、といった風だ。

――こ、ここはどこなんだろう。さっきまで……あれ?さっきまで何処にいたんだっけ?どこからきたんだっけ…おかしいな、なんか頭の中がぐちゃぐちゃして……お、落ち着かなくちゃ。ぼ、僕の名前……えっとえっと……。

突然彼は、自分の記憶が殆どない事に気がついた。あせって思い出そうと、すればする程記憶が遠くへいってしまう気がした。彼は少年、というにはもうちょっと年を取りすぎている。かといって立派な青年までにはまだちょっと早い、といったくらいの年齢のようだ。身につけているのはなかなか立派な、こぎれいな服で、そのさっぱりとした身なりは、彼を格好良く見せているようだ。すれ違った女は目が合って少し頬を赤らめて通り過ぎていった。ふと、彼は奇妙な違和感を覚えた。

――何か違う……。僕はこんな男じゃなかった……。

彼は思い悩みながら噴水の周りをうろうろと歩いた。なぜ噴水の周りかといえば、他の所には人がいっぱいいて彼が避けたからだ。と、彼の後ろで服を引っ張るものがいて、彼は振りかえった。小さな女の子が腕にかけた花篭を指差している。彼女はにっこり笑うとこう言った。

「ねえ、お花を買ってくれませんか?旅の途中でお金がなくなっちゃって。私まだ子供だから働けないし、持ってるものを売るしかないの。お願い、このリコの花を買ってください」

「あ、ああ、えーといくらだい?」

「えっとね……」

ここまできて、彼は自分がお金を持ってない事に気がついた。慌てて持ち合わせがない、というと、女の子はやさしい笑顔で慰めてくれた。

「そう。じゃあまた今度、お金のあるときに買ってね!」

そういって彼女は、その長い三つ編みを翻して駆けていった。また他の人に声をかけるのだろう。

――花を買うほどの金もないなんて、僕はよっぽど貧乏だったのかしら。……。!そうだ、僕は貧乏だった……。一つ思い出したぞ、僕はいつももっとよれよれの服を着ていたんだ……。でも、こんなこと思い出しても嬉しくないなあ。

大きなため息が思わず口をついて出た。彼は、自分が自分でないような気がしていた。前の、もっと違う自分の方が本物のような気がするのだ。しかし、それなら今の自分は誰だ…。そう思って彼は急に不安になった。もう一度辺りを見回すと、なぜか見覚えのある景色のような気もする。彼は奇妙な違和感に包まれたまま、疲れた足取りで、ふらつきながら噴水の側に座り込んだ。隣に、長いコートに身を包み、顔に誇り除けの布を巻いた妙な老人が座っている。老人、といっても背を丸めた様子からそう見えるだけで、本当の年齢は分からなかった。実のところ、その性別すらもよく分からない。その人が彼の座る場所を作ってくれた。小さな声で礼を言い、彼はもう一度ため息をついた。

「お前さん、自分が何者だか分からなくて困っているね?」

急に言い当てられて飛び上がる。

「な、なんで……」

「お前をよく知ってるからさ。まあ、知ってはいるがな、その答えは自分で見つけなさい。そうしてこそ意味があるというものだ」

「でも、僕にはわからない……」

「……。いいかい、お前の過去は決していいものじゃない。出来れば忘れたいと思うかも知れん。振り返りたくない過去というものがあるんだよ。それでも教えて欲しいかね?」

「……」

「ヒントだけ、出しておこうか。……なるたけ、前を向いて歩く事だな、下を向いていると、必ず何かにぶつかるから」

それだけ言うと老人は、彼にもう行くように促した。彼は良く分からない、といった顔で立ち上がり、促されるままに歩き出した。老人はしばらくその後ろ姿を見つめ、完全に立ち去ったのを見届けると呟いた。

「大事な事には自分で気づくしかないんだ」

老人はゆっくりと立ち上がり、先ほどの男を促した方向とは逆に歩き出した。そして人込みの中に消えていく。その頃、先程の男はいまだ自分の名前すら分からぬままに、雑踏の中をさ迷っていた。

―――思い出したくない過去なら、もういいや……。でも、過去の僕と今の僕は違う気がする。しかも、過去の僕の方が本物だって気がする……。それなら今の僕は、……嘘……?一体、今の僕は誰なんだろう…。「前を向いて歩く」……?どういうことだろう……。

町は日が暮れ、人通りも少なくなっている。彼は長い間歩いていた、考え事をしながら、悩みながら。うつむいて、とぼとぼと、行く所も定めずにただ歩きつづけた。しかし彼はついに歩くのを止めた。というより、人にぶつかって転んだので、止めざるを得なかったという方が正しい。ぶつかった男は、彼より少し年は取っていたが、まだ若い。しかしすっかり商人としての風格が身についているようだった。

「おや、これはイカン。怪我をさせてしまったようだ、服が破れてしまいましたな」

と、ぶつかった男は慌てたように言った。

「あ、これは……」

何かの弾みですから、大したことはありません……と、言う暇もなく、彼はその男に連れられて歩き出していた。男はせっかちそうな様子で、自分の店へ案内するという。

「あ、あの……」

「ああ、心配しないで、店はすぐそこですから。ぶつかったのはお互い様ですよ、治療ぐらいはしてあげられるでしょう……」

しゃべりつづける男に連れられて、半ばひきずられる様に歩いていた彼の耳に、突然雷のように言葉が突き刺さった。

「まあ、実際の所ぶつかったのは君が下を向いていたせいだと思うけど、まあ、私も悪かった、何せ太っているし、ボーッとしていたものでね……」

その男はまだしゃべっていたが、彼の目の前は真っ白になっていた。

『ぶつかったのは君が下を向いていたせいだと思うけど……』

『前を向いて歩いて歩く事だな。下を向いていると必ず何かにぶつかるから』

頭の中で二つの言葉が駆け回り、彼に「大切な何か」──それは彼の過去の記憶か、もしくはもっと別の大切なもの──を思い出させようとしていた。そうして彼は、ようやく気づいた。目の前が急に明るくなった気がする、まるで霧が一気に晴れたときのようだ。

――そうかっ、僕は、僕は……!

「……? どうかしましたか? 着きましたよ?」

「え、あ、はい、いや何でも……」

「今、おやじにいい薬を探させます。私は何処に何があるかよくわからなくてね。今でもおやじが現役で頑張っていて、あまり触らせてくれないんですよ。ま、すぐですから、そこらのものでも見ていてください」

そういって若い商人の男は中に入っていった。一息ついて足を見ると、服が少し破れただけで、怪我はしていない様だ。いつの間にか、こんなところまで連れてこられてしまったなと思いながら、彼は店内を見回した。どうやら、薬屋のようだ。なるほど、それで治療などといっていたのである。なかなか大きな店で、日も暮れたというのに何人もの人が出入りしている。彼がそこらを見回していると、正面の入り口に面した一角に、一枚の絵が置いてあった。

彼にはそれが何の絵か、既にわかっていた。近寄ってみると、やはりその絵には、少年が描かれている。暗い部屋で一人、うつむいている少年の前髪は垂れ下がり、表情さえ見えない。あまりにもきちんと腰掛け、少年らしさのかけらも見えない。すばらしい出来の絵だったが、その印象は暗い。絵の前の青年はじっと眺め、やっと納得したように頷いた。それからちょっと恥ずかしそうに笑みを浮かべ、鼻の頭を掻いた。

「なるほど。やっとわかったよ父さん、僕が上手くいかなかったわけが」

ひとり、呟く。商人の男がやっと奥から出てくると、晴れ晴れとした顔の青年が絵の前に立って待っていた。

「いやいや、お待たせしました。おやじがなかなか見つけなくってねえ。親父もそろそろ引退してくれてもいいんですけどね」

「エミリオさん? お元気ですか?」

「え、ええまあ。……知り合いなんですか?」

「そうですね、昔の。……エミリオさんに伝えてもらえませんか?この絵の少年は『前を向いて歩き出した』って。できればこの絵の作者の人にも伝えたいんですが、その人はもういないでしょうから、エミリオさんに」

「この絵を描いた人は、亡くなってますよ」

「ええ。いいんです。その人には僕から伝えますよ、僕がいつか死んだ時にでもね」

「面白い事を言う人だ。怪我の方はいいんですか?」

「ええ、怪我はしてませんでしたよ。じゃ、僕は行きます、もう戻る事はないでしょう。さようなら」

キースは小さな笑いを残して店を後にした。こぎれいな服は今や彼によく似合っていた。彼は彼の前に伸びている、彼自身の道を歩き出した。真っ直ぐに、前を向いて。

海からの風が吹く。そのさわやかな風はキースの髪をなびかせ、そのまま店の中の絵にも勢いよく吹き込んだ。描かれた部屋のカーテンが舞い上がると、薄暗かった部屋が急に明るくなる。海風は、少年の座っていた椅子を倒しそうになる。その椅子の上で、少年のキースがいたずらっ子のように笑い、足を跳ね上げている。

その無邪気な絵を、先ほどの老人が見つめていた。そして一言、満足そうに呟く。

「あの絵も……ようやっとこれで完成だな」


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