恋愛映画

ハンドバッグに突っ込まれた彼女の右手が、その中を乱暴にひっかきまわした。ただでさえ色々な小物が乱雑に詰め込まれているバッグの中で、彼女の右手は目標を捉える事が出来ない。ライターを探しながら、彼女は階段を降りた。高いかかとがリノリュームの床に食い込むほどの勢いで。「なんでないのよ」と理不尽な文句を呟きながら。

映画館の入り口まで来ると、彼女は迷わず外へ出ようとした。階段を駆け下りた勢いのまま足を踏み出す。ハイヒールが、石段のすぐ先にある水溜りへ勢いよく突っ込んだ。黒い水がはねて、彼女の足を汚す。彼女の眉がぎゅっとしかめられ、柔らかそうな唇から下品な舌打ちが漏れた。

彼女は数歩後ずさりし、柱に寄りかかった。右手にはようやく見つけたライター。だが彼女は百円ライターなど使わない主義だ。彼女の美しい手が握っているのは細いジッポだった。鈍い銀色に光る直方体のふたを弾く。いらいらと細長いメンソールをくわえ、火をつけようとした。金属が擦れる硬い音がし、小さな火花が散る。だが火はつかなかった。もう一度。やはりつかない。彼女は煙草の端、フィルターの部分を噛み潰している事に気づいていなかった。何度も試して、最終的になんとか煙草に火を移す事に成功する。深く煙を吸い込みながら親指の腹を見ると、幾筋かの赤い痕(あと)がついていた。ゆっくりと、紫がかった煙を吐き出す。ずっと息を止めていたかのように、彼女は大きく息を吐いた。

空には暗く重い雲が立ち込めていた。繁華街の景観を、雨粒が邪魔している。しかし雨音はそれほど聞こえなかった。それよりも人々の喧騒や車のクラクション、ショップの流す音楽などで夜の街は溢れかえっている。雨は、静かに降り注いでいた。

もう長いこと降っているのだろうか。先ほど足を沈めてしまった水溜りを見ると、やけに大きく見えた。映ったネオンが雨の滴で歪む。彼女が映画館に入った時、雨は降っていなかった。天気予報が「今夜は晴れる」と言っていた気がする。彼女は、傘を持っていなかった。

「何なのよ」

すぐ脇の柱に寄りかかってそう呟く。急に、身体のどこか一部分が熱を持った。頭の横あたりで、痺れるような感覚が増してくる。水溜りに映ったネオンが、必要以上に歪んでいる気がした。

「泣かないわよ」

断言するように、言い聞かせるように……まるで口に出して宣言する事で、それが実行されるとでも言うかのように彼女は言った。そして彼女はその言葉どおり、泣かなかった。奥歯をかみ締め、何度か瞬きをし、自分の中から溢れ出そうとする何かに彼女は耐えた。

髪をかきあげようとして、煙草に火をつけたことを思い出す。先の方が灰になって、引力に耐えていた。それはいかにも柔らかく、触れるまでもなく落ちそうに見える。しかし、それは落ちなかった。ほんの少しずつ、紙と葉を燃やしながら、灰は長くなっていく。彼女は、それをじっと見ていた。その灰がふるふると震えている。小刻みに揺れているのは灰ではなく、彼女の右手だった。慌てて目線をそらし、灰を下へ落とす。それからもう一度深く吸い込み、肺の奥深くにまで煙を導き入れた。一拍置いて、息を吐く。先程のように一気に吐き出すことは出来なかった。透明な煙は、嗚咽とともに漏れた。

映画が終わったのか、階段の方から大勢の客が降りてくる。彼らは笑い、さざめき、映画の感想を話しながら彼女の横を通り過ぎていく。映画は恋愛ものだった。客は、男女二人組が多い。いくつものカラフルな傘が開き、街を彩っていく。何故みんな傘を持っているのか、彼女には不思議でならなかった。

彼女の見ていた回が最終だった。やがて、階段から降りてくる人も尽き、彼女は再び一人になる。相変わらず、目の前には繁華街の騒音が溢れ、雨が煙っていた。

「なんでよ……」

何に対する疑問なのかは分からない。答えがあるのかどうか、自分が答えを欲しているのかすら、分からなかった。口にしてみる意味があるかどうか、確かめるだけのために吐き出されたかのようだった。

「だから、何でなのよ」

彼女はもう一度、しかし今度ははっきりと言った。煙草を投げ捨て、ヒールの爪先で踏みにじる。灰色の汚い水が染み出た。彼女は、勢いよく振り返る。

「何で……」

その先の台詞は、言葉にならなかった。

何で何も言わないの? 何で謝ったの? 何であんな事言ったの? ねえ、どうして……。

彼女の視界の中で、ついさっきまで恋人だった男の顔が歪んでいった。

雨は、その晩ずっと静かに降り注いでいた。


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