サミュエリ

人間に恋をした。翼を失った天使は地に堕ちる。サミュエリも、その一人になった。

幸せな恋人達。二人は出会うべくして出会い、まるで運命に導かれたかのように恋に落ちた。順風満帆の付き合いは2年ほど続き、二人の間にはさしたる障害もなく、幸せいっぱいの時間をすごしていた。しかしそれはいつまでも続かなかった、幸せの分だけの不幸がこのとき一度に訪れようとしていた。

ある日のデートの帰り。彼女は事故に遭った。恋人の男と別れた直後の事故だった。派手な音を立てる車が角を曲がってきた音に気づいた時には、彼女の身体はふっとばされていた。車は横滑りのまま壁に突っ込み、運転者は彼女よりひどい運命にさらされることになった。幸い、ぎりぎりで命を取り留めた彼女は、近くの人の通報で病院に運び込まれた。しかし夜中になっても、翌日になって彼が見舞いに駆けつけた時も、両親と彼が泣き明かした日も、彼女の意識は戻らなかった。彼は、彼女の復活をいつまでも待ち続けた。

夜中の病室は静かだ。ときたま見回りのナースの足音が聞こえる。個室には横たえられた彼女の目覚めを待つ彼。彼女の外傷は既に治っていた。いくつかのひどい打撲が少々残ってはいたが、彼女はただ、眠っているだけのように見えた。彼はいつも心の中で彼女の名前を呼びながら、血色のないその手を握り締めた。彼女の顔を見つめていると、その顔が時々苦痛に歪む。彼はその度に身を乗り出す。彼女の手を握り、唇をかみ締めた。何をしても反応はない。彼はやがてがっくりと首を垂れる。真夜中の病室には月が映し出す哀しい影だけがゆれていた。

毎日のように病院を訪れた。何時間でも待った。愛するものの声が、彼女を呼び戻すかもしれないといったどうしようもなくかすかな希望だけが彼を持ちこたえさせた。しかし、これまでの幸せを全て失っていくかのように衰弱していく彼女、それが進行するにつれて彼もやつれていった。そしてついに、医者が無情な現実を告げた。

「このままでは、どうしようもありません。いつ目を覚ますか分からない……植物状態です。運が悪く、容体が急変すれば、最悪の事態も覚悟していただたかなければなりません」

彼は生気のない顔でうなずいた。目にも涙が浮かび、彼は何ども自らの顔と目をぬぐいつづけた。

長い事、彼は祈りつづけ、そして信じつづけた。それでも彼女は目を覚まさず、愛の奇跡は起こらなかった。彼は神をのろい、何も出来ない自分をのろった。そして彼の頬には、毎日のように涙のしずくが伝った。何故泣くのか、自分ではその理由が分からなかった。自分の不甲斐なさのせいか、彼女を失ってしまう可能性のせいか。彼は来る日も来る日も、ベッドの横にひざまずき、目を閉じたままの彼女の手を握りしめていた。

そんな日が永遠に続くかと思われた。しかしある夜の事、突然それは起こった。彼はその日、自宅のベッドで眠っていた。夜中にふと目が覚めてあたりがやけに明るい事に気づく。月の明かりかと思い、ベッドから起き上がるとカーテンを開けに行った。今日はやけに眩しいな……と思いつつ、そっとカーテンに手をかけると、それはあからさまに月の光などではない事がすぐに分かった。あわててカーテンを開ける。そこに浮かんでいたのは一人の……翼を持つものだった。大きく光り輝く翼――それが眩しい原因だった――を揺らし、彼を見つめている。それからおもむろに口を開いた。口調は淡々としていて、しかし断固とした迫力を持っていた。決して大きな声でしゃべったわけでもないのに、彼はその勢いに押されてただ、聞いている事しか出来なかった。それとは別に、彼はその者の話を聞かなければといったような、妙な強迫観念に駆られていた。

「信じる、信じないの前に、お前にはこれが現実だと分かっているはずだ。……人間に恋し、翼を剥奪された天使……。もう一度天使に戻るときは、自らのヒトとしての肉体の消滅か、恋した相手の死の場合だけだ。サミュエリ、天帝からのお言葉だ。『お前に再度翼を与える。明日よりまた私の下で働くがよい』……最初の仕事は死んだ女の魂を天界に連れて行き、天帝にごあいさつ申し上げる事だ」

抑揚のない声と、飄々とした態度でそれだけを言いおわると、天使はその翼をはためかせてすぐに去っていった。彼は自分がいつの間にか座り込んでいることに気づいた。

翌朝。彼は病院を訪れた。着くとすぐ、担当医が慌てた様子で出てきた。

「申し訳ない……ほんの、少し前だったんです。容体が急変しまして、我々としても手のつくしようもなく……。すぐに連絡を差し上げたんですが、もう家を出られたとの事で……残念です……」

「ええ。いいんです、……彼女の顔、見られますか?」

「あ……? ええ……それは、はい」

医者は彼が思ったほどとりみださなかったことに、少々とまどっている様子だった。驚くほど冷静な、冷徹ともとれるほどの無表情さで彼は病院の内部に向かった。

彼女の顔は安らかそうだった。彼女を愛しつづけていたはずの彼は、彼女の亡骸を見ながらなお、その顔に何の感情を表す事もなかった。もう、表情をあらわすことさえむずかしかったからだ。苦痛や恐怖、悲しみといったマイナスの表情は彼の中から消えうせてしまったようだった。しかし、それはほんの二、三秒の事だった。彼は急に顔を歪ませ、手で顔を覆った。

「……君が必要だったんだ……僕が、僕であるために。もう、人間である必要はなくなってしまった。これから僕は誰をも愛し、そして誰か一人を愛することはない。もう、君を愛せないんだよ……」

言い終わった時、彼の頬には涙は流れていなかった。彼はわずかな微笑みをさえ、その顔に浮かべていた。他に彼に出来る事はなかった。彼が彼女のために出来る事は結局、何一つなかったのだろうか。ほんの2年間だけの、記憶。彼にしてみればほんの一瞬の、暖かい想い出だけが彼に残された唯一のものだった。彼女の魂さえ、彼のものにはならないのだから。

「幸せにしてあげたかった――あなただけは」

彼の背後で、ミシミシという音がしていた。そしてついには、服を裂いて大きな翼が現れた。翼は光り輝き、その光はどんどん大きくなっていって、彼とあたり全体を包んだ。彼の哀しい微笑みも、あっという間に光の中に消えうせていった。

それがおさまったとき、彼の姿はどこにもなく、ベッドに載せられた彼女の顔に、一筋の涙が流れていた。


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