スポットライト

その場所では、悠久のときが流れていた。森の中の湖はその水面に静寂を宿して今日も揺れている。湖の傍らに根を張る大木のもとには多くの人々や動物が訪れ、そしてまた去っていった。その森では数え切れぬほどの昼と夜が繰り返され、いくつもの物語が通りすぎていく。

月が昇る。今夜はいつもより一段と寒い。空気が澄んでいるせいか、月は白にも近い銀色に輝いている。音もなく揺れる湖にもその光を映して、まばゆいばかりにあたりを照らす。森をわたる風がまた、新しい物語を運んできた。それはずっと、ずっと昔……あるいは、はるか未来の……。

運が悪い、という時は誰しもあるものだ。誰が悪いでもなく、ついていないという時が誰にでもある。きっかけは些細な事だ。ほんのちょっとしたコトからそれは始まる。そして何故か「運の悪い事に」いろんなことが重なり、気づいた時にはもう手のうちようがなくなっているのだ。この男の場合もそうだった。小さな、本当なら誰もが気にしないような小さなミスが発端となり、失敗が失敗を呼び、今やどうにもこうにも進退窮まる状態に彼は追いこまれていた。

夜の街はイルミネーションと車の行き違う音、人々のざわめきなどが溢れている。彼はその中を、深いため息をつきながら歩いていた。行き先など考えてもいない。ただ、うつろな目でとぼとぼと彷徨っていた。

この街はいつまでも眠らない。ここは多くの人間を魅了する街だ。成功したものに甘い夢をつかませ、その裏では失敗した奴らがその亡骸をさらす街。一歩間違えると彼のように簡単にダークサイドに踏み込んでしまう。チャンスは多く転がっているが、それを掴むのは容易ではない。掴み損ねて挫折した者に待っているのは、不幸な結末に間違いない。

先ほどまでの雨はやんだようだが、まだ足元に残っている水溜りにビルの鮮やかなネオンが映って揺れている。しかしそれも、車が派手なクラクションを鳴らして通りすぎると、一瞬にしてただの汚い泥水になって彼の服の裾を汚した。

――ついこの間まで、俺もライトサイドにいたんだ……。

彼はもう一度、深いため息をつく。だんだん全てがいやになってきた。彼がどうあがこうとも、この状況は好転しないと思えてきた。

――俺一人が頑張ったって、もう、どうしようもねーんだよ。

明日からの自分の生活を考えてみる。幸せな生活が送れるとは到底思えなかった。

――俺の居場所はもうないんだ。俺がいなくたって誰かが何とかするさ。いやむしろ俺がいないほうが、うまくいくのかもしれねーな。俺一人いなくたって誰も気づきゃしないんだ。

彼に家族はいなかった。物心ついたときは孤児院で暮らしていたし、その院も既にない。この街で一人暮しをはじめてもう長いが、友人と呼べる存在もいないに等しい。彼は孤独の中で暮らしてきていた。その事が余計に彼を落ちこませていた。

今夜はどうも人通りが多いようだ。こんな時間になっても大通りにはカップルだの家族連れだのが出歩いていた。彼の心中を思えば、それは不幸な事だったとしか言いようがない。周りの人々が幸せそうであればあるほど、彼のため息の数は増えていった。

ついに彼は騒がしい大通りを避けて脇道にそれた。家に帰る道からはそれてしまったが、これ以上、人ごみの中にいたくなかった。ネガティブな思考に支配されながら、彼は歩きつづけた。いつしか道に迷い、自分の正確な位置や方角すらも掴めなくなっても、彼は気にとめなかった。

――俺がいなくても、誰も困らない、悲しまない、気づかない。俺のいるべき場所はもう、ないんじゃねーのか?俺がこのまま誰の目にも触れぬ存在になっても、明日から何が変わるってわけじゃないんだ…。

取りとめもない考えに取りつかれ、憂鬱という名の重圧に押しつぶされて、彼の足取りはどんどん重くなっていった。自分の存在意義を見失いそうになって、彼の足は遂に動かなくなった。肩を落とし、首はうなだれ、彼は全てを諦めていた。

そんな彼の耳にその鈴の音が届いたのは、ほんの偶然からだった。偶然にも彼にとって鈴の音は「特別な音」だったのだ。また、偶然そこで立ち止まらなければ、彼も気づかなかっただろう。その音は、本当に小さな音だったに違いない。しかし彼はその音に気づいた。それは本当に偶然の出来事だったのだ。

今までうるさいぐらいに思っていた街の喧騒が、あっと言う間に遠ざかっていった。小さな鈴の音は遠くで流れるBGMのように、しかし彼の耳にはくっきりと届いた。

彼にとって鈴の音が特別だったのには理由がある。

幼い頃、彼と仲のよかった女の子がいた。彼女はやはり同じ孤児院育ちだったが、彼より先に養子としてもらわれていった子だった。彼女がいつも持っているバッグに鈴をつけていたのだ。

「これね、私がここへきたときからこのバッグについていたんだって。きっとお母さんがつけてくれたんだと思うの。あたしね、これを見るといつも元気になんの。つかれた時も困った時も、きっとお母さんが見ててくれるって気がするんだもん。だから、泣きそうになったときとかね、これを鳴らして頑張るんだよ」

少女はちょっと照れくさそうに言って、笑った。彼が喧嘩して叱られた日も、両親に会いたくて泣いていた時も、彼女が鈴を見せて励ましてくれたのを、彼はぼんやりと思いだしていた。

そんなことをなんとなはなしに思い出していた彼の耳にもう一度、鈴の音が響いた。どっちから聞こえたのだろうと、思わずきょろきょろとあたりを見まわした。すると、すぐそばの細い路地に小さな女の子が立っているのが目に入った。こんな時間に、こんなところに子供が一人で? ……疑問に思わずにはいられない。そう思って見てみると、なんとなく思い出の中の女の子に似ているような気がした。気のせいだ、馬鹿だな……そう自分をたしなめたが、彼女はにこっと笑うと彼を手招きする。その笑顔が「鈴の少女」とだぶる。彼女はついっと身を翻すと薄暗い路地の奥へと歩き出した。思わず彼は少女について、路地裏へと入っていった。

高層ビルが立ち並ぶこの区域は、路地まで光が届かない。もっとも都会の夜は月の光なんて見えないに等しいのだが。ちらちらと入ってくるネオンサインや、窓から漏れる微々たる明かりで足元を確認しながら、先へ先へと進んでいく。いつの間にか、空が白々と明るくなってきていた。

――もう、こんな時間だっけ。

などと考えていると、唐突に小さな空き地のようなところに出た。少女の姿はない。

――へー、こんなところ、あったんだ……。きっと建て増ししまくったせいで変にあいちゃったんだな。お、ベンチまであるじゃん、誰が持ってきたんだか知らないけど、古いベンチだなあ。

ほとんど一晩中歩いていた事を思い出すと、急に疲れが出てくる。彼はふう、と息をつきながらそのベンチに腰掛けた。もう日は昇りかかっているようだ。あたりもさっきより明るくなっていた。それでもその空き地はまだまだ薄暗いといっていい。

その時。ベンチに座っていた彼の頭上、真上から一本の光の筋が差しこんできた。それは次第に太くなり、まるでスポットライトのように彼を照らし始めたのである。彼が驚き振りあおいでみると、どうやらビルの屋上の広告に太陽が反射して、光が降り注いでいるようだった。その光は眩しく彼を照らし、彼は思わず目を細めた。

「スポットライトがあたったとき、その瞬間にできる限り、精一杯輝いてる自分を見せられるよう、諦めないでいなくちゃ」

小さな、あの鈴の音のような可愛い声が聞こえた。しかし彼が振りかえった場所には誰もいない。

太陽が上がるにつれて反射角度が変わるのか、太陽のスポットライトはまただんだんと細くなり、やがて消えてしまった。

――生きてりゃ、またチャンスも来るかもしれないってコトかな。諦めちゃいけない……そうだよな。こんな当たり前の事もわかんなくなってたとは……。

はは、と自嘲的な笑いをこぼして彼はベンチから立ちあがる。なんだか涙が出そうになる。それをぐっとこらえ、一息ついて、背伸びをし……そして外へ向かって歩き出した。路地を出ると、自宅からそう離れていないところだった。こんな近くにあんなところがあったなんて、全然知らなかった、と少々驚く。まさか夢でも見たのかと、頬をつねっても痛覚が現実だと教えてくれる。

――それにしても、不思議な体験だったなあ。あの鈴の音は何だったんだろう。なんにしても、大事な事を思い出せてよかった。まるで誰かがプレゼントしてくれたみたいな…。

ここまで考えて、ふと思い出した。手帳を出して確かめてみる。彼は思わず笑いだしてしまった。

――本当に、プレゼントだったとはな…さすが世紀末、妙な事が起こるもんだ……。

笑いながらも、その妙な奇跡に感謝しながら自宅へと帰り、いつものように仕事に向かい……その後は書くまでもないだろう。

彼がその後の人生で成功したかどうかはわからない。しかし彼は自分を取り戻したのだ。なによりのクリスマスプレゼントだったと言って差し支えないだろう。

そしてその朝、彼は気づかなかったが、一匹の猫が路地裏へと姿を消していた。猫の首には鈴が光っていた。その鈴の音が、小さく、小さく街に響く。その音ともに、この物語の幕は降りるのである。


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