翼への追想

「お兄ちゃん、また『てんし』と『あくま』のご本、読んでくれる?」

「ああ、いつでもおいで。みんなが来てくれたら、お兄ちゃんも嬉しいよ」

「うんっ!じゃあまた来るねー」「ばいばーい」

毎週日曜の午後。家には私の書いた本を楽しみにしている子供たちが集まってくる。この本は、私の体験談と言ってもいい。私が書きとめた日記のようなものを、絵本形式にして子供たちに語っているのだ。私の中で眠る記憶。

――私は悪魔だった。

今、人間であるのには理由がある。日記にはそれが記してあるのだ。

<……全ては、私が出会ったあの翼から始まったのだ。私が魔界から出て、散歩していた日の事だ。何故その日に限って、行きたくなったのかは分からない。悪魔がいうのもおかしいが、魔が差した、としか言いようがない。そうでなければ、運命としか……。

ふと思い立って、私は天界の近くまで足を伸ばしたのだ。好奇心に勝てなかった。私は一度でいいから、天使と言う存在をこの目にしたかったのだ。

悪魔と天使は互いに出会う事はない。上級になれば交信することもありうるが、下級の悪魔は天使という者がどういったものなのかすら知らない。私が知っていたのは、この世には天使と悪魔と人間がいて、天使は天界の王のもとで、悪魔は魔界の王のもとで暮らしているということ。天使は光を司り、生まれる前の人間に入れる為の魂を運ぶ者で、悪魔は反対に闇を司り、人間から出た魂を運ぶものだ。人間は愚劣で非力な生き物で、自分たちでは何一つできない生き物である事。

私は見てみたかった。自分たち悪魔と、人間のほかにもこの世に存在するという、天使の姿を一度でいいから見てみたかったのだ。我々とは違う、真っ白な生き物たちを。

私はその日、天界のそばまで飛んでいき、雲の隙間からそっとのぞいた。中には優雅に舞う天使たちがいた。天界の様子は魔界とあまりにもかけ離れていて、私は違和感を覚えた。しかし、私は見たのだ、あの美しい翼を。それは周りの天使たちのものとはどこかしら違っていた。私はその翼の持ち主を呆然と見つめていた。……しばらくして、私ははっと我にかえり、見つかっては、とその場を飛び去った。が、それ以来、私の目にはあの翼が焼き付いて離れなくなった。あの翼と、それを持っていたあの天使の姿が、忘れられなくなってしまったのだ。

悪魔は常に冷静で、また冷淡である。下らぬ干渉や感情は持っていない。そんなものがあったら、人間から魂を抜き取る仕事などこなせないし、そもそもこれは本能的なものだ。この世に自分が存在し始めた時から、悪魔の誰もが常識として受け止めている事実なのである。しかし私は、その常識では考えられぬ、くだらない感情にとらわれ、しかもそこから逃げ出せなくなっていた。

その後、サタン様からお呼びがかかった。何も知らなかった私は、下級悪魔であるにも関わらずサタン様のお目に止まった事を喜び、急いで御前にはせ参じた。しかし魔界の王であるサタン様は全てをご存知であった。悪魔である私があの翼を持った天使に恋焦がれている事を。足元にかしこまる私を、偉大なる王は一瞬、横目でごらんになった。

「いいか。私はそのような感情に振りまわされるものを魔界に置いておくつもりはない。ただ、お前を消滅させるのに反対したものがいる。……天界の王だよ。あの甘い奴のおかげでお前は助かったのだ。あいつが言うには……『あの子が悪いんじゃない、悪魔に向いていないだけさ』だと! まあ、そうなのかもしれないが。そこで、お前をあの愚劣な下等動物にするという事で折り合いをつけてきた。いいな。記憶も全て消去だ。お前はもう、私の元には帰れない……」

瞬間、サタン様の指先から黒い光が私めがけて押し寄せ、私は目の前がブラックアウトしていくのを感じた。私は魔界を追放されたのだ。そして薄れ行く意識の中で、私の耳に誰かがささやきかけるのを聞いた。

「貴方に慈悲を与えます。神々の恩恵を……」

……次に私が目を開けた時、私は既にこの家、村のはずれに住む青年だった。いつの日からか、この小さな村の住人だったのだ。村人たちも、なんの疑いを持つことなく、私と一緒に暮らしていた。生まれてからの記憶は一切なかった。

そのかわりに、悪魔の時の記憶が鮮やかに蘇ってきたのだ。私の肩には逆十字、悪魔の紋章があざとして刻まれていた。それだけでなく、天界の王、神の祝福による美しい髪も備わっていたのだ。その髪はまるで流れ落ちる水のように、私の背中でゆれて波打っていた。人知れぬ森の中に滾々と湧く、澄んだ泉を思わせる美しい髪。陽光や月光に映し出されて光輝く銀色の髪だった。魔界と天界の両方の祝福を受けた証だったのだろうか。私は忘れないよう、悪魔の記憶を書き留めることに決めた……>

……こうして私は日記をつけ始め、それを元にした魔界の様子や私の前世の事などを絵本にして、子供たちに読んでやっている。あの子達はまたきっと来るだろう。悪魔だったときと違い、今の私には何の能力もないが、暖かな人間の血が私を執筆へと導いているようだった。以前には知らなかった「疲れ」を体に感じながら、もう一度筆をとる。

ふと、机の横に白い羽が落ちている事に気づいた。窓から入った鳥の羽か?いや、鳥のものとは違う、それ自身が発光しているような美しいものだ。……なんだろう……。

庭に出てみると、奥の方に誰かが立っている。いや、しかしあの辺りはたしか池になっているはずだが……? ああ、そうか。あれは……天使だ。慈悲深い微笑を私に向けている。ああそして、その翼は私が忘れようにも忘れられない、あの翼――。

不思議な事だ。既に人間になった私に、あの者の姿が見えるわけはないのに。天使も私が見つめている事に気づいたのか、戸惑い首をかしげている。だが、あの天使は確かに私の前に、今、存在しているのだ。……私は思わず呟いていた。

「また、逢えた。君と、君のその美しい翼に――」


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