バス停には誰もいないはずだった。こんな早い時間には、誰もいないのが普通だから。だけど今日は違ったようだ。あの制服姿はきっとあなただ。私はそれを確信していた。いや、ただなんとなく、そんな気がしただけだったかもしれないけれど。

石畳の上で、風がないている。小さな木の葉が足元で踊っていた。東の空は白んでいるけれど、西の空には星が薄く見えている。夜はまだ明けきっていない。左手にずっと続く土手。豊かな水を湛えた川に、朝もやがかすかに残っている。右手には広い道。私の横を、大きなトラックやバスが走っていく。同じ方向へ行く車は多い。逆方向へ行く車はほんの少し。

ラケットの入ったかばんを逆の手に持ち替えた。教科書、ノート……今日は英語があるから辞書も入っている。重いはずだ。欠伸をして、涙目をこする。今日の宿題を思い出したのは、昨夜遅くだった。

川沿いの土手の上、犬に散歩させている人が見える。こっちの歩道には、誰も歩いていない。朝早くだから、それも当然だけど。うちが学校から遠いのが原因。それと、朝練のせい。ため息を一つ。

ようやく見えてきた。雨や風にさらされてぼろぼろになった屋根の下に、古ぼけたベンチが置いてある、そんな小さなバス停。そこにいたのは、やっぱりあなただった。振り返って私を見つけると、物憂げに言う。

「おはよ」

「あ、おはよ。珍しいね、こんな時間に」

同じ学校の制服。でも私のとは全然違う。しまわれてないシャツの裾に、取れかかってる上着のボタン。私は足を投げ出して座ったりしない。スカートのひだが折れないように気をつけて座った。その横でくすくすと笑い声。

「相変わらず。そんなの気にしなきゃいいのに」

「気になっちゃうんだもん」

「そっか、気になっちゃうのかー……」

そう言って、空を見上げるように上を向いた。両手で髪をかきあげる仕草は子供の頃と同じ。くすんだ色の前髪に、長い指を差し込んでいる。何を考えてるのか、面倒そうな顔でかきあげるんだよね。自分だって、昔から変わらないとこ、あるくせに。

「どうしたの? 今日は早いね」

「うーん、なんとなくね」

「ふぅん……」

これも相変わらず。何を考えてるのか、さっぱり分からない。聞いても教えてくれない。もう気にしない事にしてるけど。もしかしたら、殆ど何も考えてないんじゃないかなぁ……。そう、考えてみればそんな感じ。本能で動いてるというか、動物的な感じがする。そんな不思議な、私の幼馴染。

悪い人じゃない。それは確か。でも、何を考えてるのか分からないところがあるのも、確か。周りと同じ事をしていれば安心、というような人じゃない。と言って、全てに反発するわけでもない。自分の価値観がはっきりしてる。自分が正しいと思う事をしてる。そんな感じ。長い付き合いだからかな? そんな風に思うのは。他は誰も、そうは思っていないだろう。

――あの人には、近づかない方がいい。

みんな、そう言う。同級生は殆ど話しかけない。陰で「あいつ怖いよ」って言ってる。無口だからかな? でもきっと、本当に怖がってるというわけじゃない。周りと同じようにしないから、嫌なんだ。

先生は生意気だって言う。なんで? きっと、先生の言う事をきかないから。大人が子供に向かって言う事は、時には合ってる。でも、間違ってる事もある。それを自分で判断するのは悪い事みたいだった。殆どの先生は、面倒な生徒を相手にしない。もう最近じゃ出席の時すら、あなたの名前を呼ばない先生がいるくらい。

学校の人だけじゃない。うちのお母さんだって言う。まだ幼かった頃から、口癖のように。

――あの子には、近寄らないでね。

髪の色が黒じゃないと、いい子じゃないって思ってるのかな。お母さんは、いつもそういった事ばかり言う。それとも両親が揃ってないから? 私には分からない。なんでお母さんがそう言うのか。

小さい頃、あんなに仲良く遊んだ。私達は仲良しだった。それは今だって変わらない。学校ではそれほど会えないけど。いや、休みの日も部活の練習や試合で忙しいから、あんまり会えないけど。それに、お母さんが怒ると思うと、滅多に会えないけど……。でも、それでも友達だもん。仲良しの、幼馴染だよ。

**********

どこまでも続く空。背の高いススキをかき分けて走る。大人には小さな草むらでも、私達にとってはまるでジャングルだ。手足に傷が出来たって構わない。楽しくて、そんな事に構っている暇もない。二人で、笑いながら走っていく。遠くに出口が見えて、全力疾走で走り抜けた。いつの間にか競争みたいになっている。転げるようにススキをかき分けて、ついに河原へ出た瞬間。

「すっごーい!」

「うわぁ……」

私達は息苦しいのも忘れて目の前の世界に見惚れた。空は数え切れないほどの色。深紅、緋色、赤、バラ色、茜色、黄色、灰色、水色、青、群青……。そして辺りは一面、光で溢れている。私達の正面、川の向こうに、痛いくらい眩しい太陽があった。川はその全身に全ての色、全ての景色を映し出している。

「眩し……」

私は思わず両手で顔を覆った。自分が持てる限りの最後の光。それを惜しみなく投げ出す太陽から顔をそむける。とても見ていられない。横を見ると、顔を真っ赤に染めて、正面の太陽を見つめるあなたがいた。

「よく見てられるね」

「だって綺麗じゃん。それに、目をつむったら負けなんだよ。負けたくないもん」

「そっかぁ。すごいね」

「……」

負けたくない。そう言った唇をぎゅっと引き締めて、あなたは徐々に沈んでゆく太陽を睨み続けた。私も真似をして太陽を睨みつけてみた。ただ時々は、目を細めたけれど。

大きな太陽は、地面に削られて少しずつ小さくなっていく。私達の背中から、夜が静かに近づいてくる。太陽が小さな破片になり、川面に映った太陽も、みるみるうちに小さくなる。太陽が段々弱っていくような気がして、私は立ち尽くしていた。二人とも、太陽が沈みきるまで口を利かなかった。

しばらくして、ふと振り向くと、夜空に星がいくつか見えた。まだ少し明るい空に、いくつかの星が瞬き始めている。

「あっ」

「え?」

「あれ!」

「あ、あっ! 流れ星!」

「もう消えちゃった……」

星が一つ、流れていった。殆ど尾をひかずに、それは私達がいる川原に落ちてくるように見えた。

「あっちに落ちたんじゃない?」

「流れ星、探そう!」

そう言うが早いか、川原を駆け出した。川原は、石ばかりだ。足を取られないように気をつけながら、星が流れた方へ走っていく。足元の石は小さくて、丸い。どれも川を流れてくる内に、こんなに可愛くなるんだよ。パパが言っていたのを思い出す。

「どこらへんかな? もっとあっちかな」

「あの辺じゃない?」

「……」

「ねえねえ……」

「……あ!」

短い声に、私は慌てて駆け寄り、しゃがみこんでいる背中の後ろから、その手元を覗き込んだ。小さな二つの手が、一生懸命に周りの石をどけている。その奥の方に、白い光が見えた。

「光ってる!」

「光ってるね!」

慌てて一緒に掘り始める。二人とも白く光る流れ星をなんとか掘り出そうと、必至になった。やがて、私達の苦労は報われた。その小石が掘り出された時、それはあまりに美しく、私達は言葉もなかった。しばらく黙ってそれを見つめていたが、ようやく「流れ星を手に入れた」事を実感すると、飛び跳ねてはしゃいだ。

「流れ星だよ……!」

「すごい、すごいね!」

「これ、宝物にしよう!」

「うんうん」

「持って帰って飾る! あ、でも……」

「ううん、あたしはいい。だって、あたしが見つけたんじゃないもん。持ってていいよ」

「……でも」

「いいの。たまに見せてくれれば、それでいい」

「わかった」

あなたは神妙な顔で言う。大事そうに石がしまわれるのを、私はわくわくした気分で見ていた。それから私達は顔を見合わせて、こみ上げる嬉しさに満面の笑顔を浮かべる。

遠くで、誰かの声がする。私は名前を呼ばれた気がして、土手の上を振り仰いだ。ママが手招きしているのが見える。

「もう、こんな時間まで遊んでるなんて! 早く登ってらっしゃい。夕御飯、出来てるのよ」

二人で顔を見合わせ、肩をすくめた。慌てて土手の階段を登っていく。ママは怒ると怖い。階段を登りながら見ると、空はもう暗かった。色は青、群青、紺、黒だけになっている。既に日は暮れ、星がうす暗い夜空を背景にして、さっきよりずっと鮮明に輝いている。ママが腰に両手をあてて口をとがらせているのも見えた。階段を登る足を、一層速める。おかげで、私の方がずっと早く着いた。

「こんな時間まで、何してたの?」

「流れ星がね、川原にね、落ちたんだよ! それでね、ずっとね、探してたんだよ、そしたらね、あったの!」

「……あの子と遊んでたのね?」

「そうだよ。それでね、すごい光っててね、綺麗なんだよ、それでね……」

「あんまり遊んじゃ駄目って言ってるでしょ?」

「なんで?」

「あなたがあの子と遊ぶと、ママが困るの」

「なんで?」

「なんででもいいの。とにかく近寄っちゃ駄目よ」

あなたに聞かれやしないかと、そっと後ろを振り返ると、丁度階段を登り終えたところだったらしい。きつい視線がママに向けられていた。唇を噛んで、睨みつけている。太陽にも、うちのママにも、負けたくないんだろう。

「あらあら、そんなに汚れてしまって……」

「……」

「あなたも早くお帰りなさい」

「……」

「あのね、さっきのは……」

最後まで聞かず、あなたは走り出す。あまりに急だったので私は何も言えず、その後姿を見ている事しか出来なかった。一度も立ち止まる事なく、振り返る事なく、真っ直ぐに走っていく後姿は、とても強く見えた。

**********

あれから十年余り。私はいい友人達に恵まれ、充実した毎日。あなたはあの頃のまま。その瞳に子供の頃と同じ、真っ直ぐな光を湛えて生きている。二人の接点はあまりない。クラスは同じだけれど、私は部活がはじまり、忙しくなってしまった。幼馴染とは言え、それほど話す機会もない。

夏の暑い午後、校舎が歪んで見えるほどの熱気が私達を襲う。温度よりも湿度が高いせいで、じっとしていてもすぐに汗ばむ。エアコンなんて素晴らしいものはない。生徒はもちろん、先生達も汗を拭きながらの授業。……暑い。私は授業の内容なんて殆ど頭に入らないから、シャツのボタンをいつもより一個余計に外して、下敷きをばたつかせていた。

「じゃあこの後の二ページは宿題にしておきますから、来週までにやってくるように」

先生がそう言うと、教室のあちこちからだるそうな声があがる。

「え〜」

「多すぎだよ……」

「できねーよ〜」

先生は、生徒のそんな声に取り合いもしない。もっとも、いちいち付き合っていたらきりがないだろう。宿題を少なくしたって、どうせ私達は文句を言うのだから。まだみんながぶつぶつ言っている間に、数学の先生は教科書やなんかをまとめて教室を出て行った。丁度のタイミングで授業終了の鐘が鳴る。

放課後、私は部活があるので、いつもは急いで教室を出る。先輩より遅いとランニングが一周追加されてしまうから、走っていかなくてはならない。月曜と金曜は部活が休みだからそんなに急ぐ事もないけれど、その代わり私は掃除当番だ。今日は月曜日。本当はあゆみちゃんたちと遊びに行くはずだったけれど、掃除当番だから仕方がない。

「あたし、水汲んでくるね」

そう言って教室を出た。帰りがけの同級生たちの間をすり抜ける。一番近いのは……廊下の突き当たりの先のトイレだ。そこで水を汲もう。曲がり角を曲がろうとして、足を止めた。話し声が聞こえてくる。

「いいじゃん、言っといてよ」

「新しいのが出たからさ、早く行かないと並んじゃうんだ」

「……掃除サボってゲーセン?」

「あーっ、駄目駄目! 先生にはゲーセン行ったなんて言わないで」

「大切な用があるって言ってました、って言っといてよ」

「じゃ、よろしく!」

急に二人の男子が出てきたので私はびっくりして、バケツを持ったまま後ずさった。彼らは私に向かってにやっと笑うと、「黙っててね」と言いながら人差し指を口にあてる。私が何か言う前に彼らは走り去った。水を汲まなきゃ。そう思って角を曲がろうとした瞬間、もう一人出てきたので私はまた立ち止まった。

「……」

あなたは何も言わず、教室へと帰っていく。私は、その後姿をしばらく見ていた。

バケツに水を汲んで教室に戻ると、先生が掃除の監督に来ていた。みんなは床をほうきで掃き終わって、水の入ったバケツを待っているという感じだ。慌ててバケツを教室の中央に置いた。

「遅くなってごめんね」

「大丈夫大丈夫」

みんなで交互に雑巾を濡らして、絞る。それから机を一つずつ拭き始めた。先生が誰かに話しかけているのが背中越しに聞こえる。

「おい、数が足りなくないか? 掃除は八人だろう? 男子二人、足りないぞ」

「……」

「お前知らないか?」

「……ゲーセンに行くって言ってました」

「何ぃ?」

こっそり振り向くと、教室の入り口近くで先生とあなたが話しているのが見えた。それ以外の六人は机を拭いている。でも全員の耳が二人のやりとりに向いているのは間違いなかった。

「じゃあ代わりに手伝っていけよ」

「掃除当番じゃないですから」

「人手が足りないのは見りゃ分かるだろう、手伝ってやれ」

「関係ないじゃん」

「……おい!」

教室のドアが、静かに閉まる音がした。私達は互いに顔を見合わせながら、黙って机を拭き続けていた。

次の日の朝。教室の後ろで、男子が数人集まってこそこそしている。その内、黒板に何か書き始める。内容は、特定のクラスメイトに対するあからさまな中傷。父親は母親と違う女性と家を出て、母親は子供の面倒も見ずに遊んでいる。家にはお金が無くて、高校に通わせるのも大変だ。そういった事が絵やら飾り文字やらを使って、黒板いっぱいに書かれていった。みんなはそれを見て目を丸くしたり、噂し合ったりしている。授業開始直前になって、噂の当人が教室に入ってきた。

席に着いて、なんとはなしに黒板を見る。綺麗な形の眉が、きつく寄る。勢いよく立ち上がり、黒板につかつかと歩み寄っていくのを、私は黙って見ていた。いたずら書きをした数人の男子は、教室の隅に集まって事の成り行きを楽しんでいるようだった。黒板の中傷は、それが書かれたのと同じくらいの時間をかけて綺麗に拭き取られた。授業開始のベルが鳴り、先生が教室に入ってくる。

「さあ授業始めるぞ! 席に着け、席に。……どうした、お前も席に着け」

「……」

見ようによっては先生を睨んでいるようにも見える目つき。あなたは黙って席へ戻ると、かばんをひったくって教室を出て行こうとした。

「黙ったままでどこへ行く? 席に着けと言っとるんだ」

「……先生には関係ない」

唖然とした顔の先生とクラスメイトを残し、涼しい顔で教室を出て行く。ドアが閉まった音で我に返ったのか、先生が喚き出した。

「何を考えとるんだ! いっつも勝手な事ばかりしおって……!」

「せんせーい! あいつ、『こんな授業つまんないから帰る』って言ってましたよ」

「何だと!」

「そんな……」

私は思わず立ち上がった。そんな事を言っているところなんて、一度も見た事がない。教室の後ろから大声を出したのは、昨日掃除をサボった男子だった。私は、弁解しようとしただろうか。自分でも分からないけれど、気づいた時には興奮して立ち上がっていた。けれど。立ち上がった私に、クラス全員の視線が集中しているのが分かる。顔が熱くなった。思わず戸惑い、口ごもる。

「違うって言うのか? じゃあなんで帰ったんだ」

先生は、まるで私がいけないんだと言わんばかりに睨みつけた。

「あの……落書きが……」

理由を言うには、黒板の落書きの事も言わなくちゃならない。クラスの全員に向かって、わざわざあなたの家族の話をする。そんな事は出来ない、と思った。躊躇っていると、隣の席の女の子が、ノートに何か書いて、私に見せる。

『かばうの〜?』

先生の、クラスメイトの視線が痛い。

「……何でもないです」

先生がため息を吐き、「全く……」とかなんとか呟きながら出席簿を開くのを、私は黙って見つめていた。

そんな事があって以来、あなたは時々学校を休むようになった。学校では相変わらず、何を考えているのか分からない表情で黙りこくっている。先生も、次第に相手にしなくなっていった。同級生達の間では、ある事ない事、色々な噂が飛び交っていた。孤立している。それは誰の目にも明らかだった。

そして起こったあの事件を、私は忘れる事が出来ないだろう。

その日の朝も、私はチャイムぎりぎりで教室に滑り込んだ。朝練はいつも、かなり遅い時間まで続く。着替えを入れたバッグを抱えたまま、教室の席に着いた……と同時に担任の先生が前の入り口から入ってきた。最初の時間は、ホームルームだ。先生が出席を取っている。

「ぎりぎりセーフ」

あゆみちゃんが振り返って親指を立てた。あゆみちゃんも同じ時間に朝練を終えたはずなのに、何故こんなに早く戻れるのだろう。なんだか、いつも要領がいいなあ。私はそう思いながらバッグを机の下に押し込んだ。

出席を取り終わると、先生は真面目そうな顔で話し出した。何か事件でもあったのか、いつになく深刻な表情。私は思わず耳を傾けた。

「こんな話はあまりしたくもないが……」

話によると、昨日、駅前のCD屋で万引きがあったと言う。そのタイトルから、それは発売になったばかりのもので、大売れ間違いなしの商品だというのが分かった。きっと店に入ったすぐの棚に、かなりの数が積んであったに違いない。万引きされた事に気づいて店の人が追いかけたが、顔も分からないままだったとか。時刻は夕方四時半だというから、私はまだ部活の時間だ。

「店の人が言うには、うちの高校の制服を着ていたんだそうだ。……まさかこの中に、心当たりのある者はいないだろうな?」

そんな言い方をしてはいても、先生がこのクラスの誰かを疑っているのは明白だ。先生の目線が不自然に泳いでいる。先生が黙ると、後は誰も、何も言わない。沈黙が教室中に広がっていく。先生は大袈裟にため息を吐いてみせ、首を振った。両手を後ろ手に組んで教室を歩き回っていたが、ふと足を止める。それが誰の席の前なのか、クラス中が分かっていた。

「何か、知らないか?」

しばしの沈黙。クラスメイト全員の注目。立ち去ろうとはしない先生。そして、あなたの呟く声。

「……森野君がコピーを売ってました」

「森野、本当か?」

「嘘です。そんな事あるはずないでしょ、先生。それより、そいつこそ怪しいよ」

「だ、そうだが?」

「……」

「かばんの中に入ってんじゃねえの」

「入ってない」

「開けてみればいいじゃん」

あなたは素直にかばんを開ける。問題のCDが出てきた時、私は愕然とした。まさか、そんな。先生はため息を一つ吐くと、諭すように口を開く。

「いいか、犯罪だと分かっているだろうが……」

「違う!」

鋭い声が先生の言葉を遮った。眩しかった太陽を、私のお母さんを、睨んだ時と同じように。唇をぎゅっと引き締め、真っ直ぐに先生を睨んでいる。先生はそれを見返す。その様子が、自信有りげに見えたのは、私だけだっただろうか。

「じゃあお前は昨日、CD屋へ行かなかったと言うのか?」

「……」

「答えなさい」

「……行きました」

「言い逃れできんな」

「でもやってない」

「お前なあ、昨日CD屋に行って、かばんにCDが入っていて、それでもやってないと言うのか?」

あなたは一層きつく眉根を寄せ、先生を睨む。それから小さな声で、しかしはっきりと言った。

「やってないって言ってんじゃん」

「もういい。後で職員室に来なさい」

そう言ったきり、先生はくるりと背を向けて教壇へと歩き出す。嫌な空気が教室中に立ち込めていた。

授業終了の鐘が鳴った後、すぐにあなたは席を立った。逃げるようにじゃなく、顔を真っ直ぐ前に向けて、教室を出て行く。私は、子供の頃を思い出していた。あの時の、土手を走っていった後姿と、それは同じだった。あの時と同じように、その後姿はとても、強く見えた。

私は黙って、自分の席に座っていた。何もやっていないと言っていた顔が思い出される。真っ直ぐに先生を見ていたその表情と、かばんから出てきたCDが目に焼きついている。二つの映像が頭の中でぐるぐる回って、私はどうしていいか分からなかった。前の席のあゆみちゃんが振り返る。

「やだ、大丈夫?なんかすごい顔してるよ」

「あ、うん。……だって万引きしたとか、コピーして売ったとか、信じられなくて」

「ね。森野もひどいよね」

「……えっ?」

「あ、ぎりぎりで来たんだっけ。じゃあ知らなかったんだ」

「ちょ、ちょっと待って。何の事?」

「あれ、仕組んだんだよ、きっと。だってあたしが教室戻ってきた時、森野がCD売ってたもん」

「嘘……!」

「ほんとほんと。一枚三百円とか言ってさ。あたしも買っちゃった、へへ。でも森野、自信たっぷりだったね。『そんなはずないでしょ』なんて、大嘘なのに」

私は再び愕然として黙り込んだ。これほど驚く事が、一日に二度も、それも続けて起こるとは思わなかった。かばんから出てきたCD。やってないと主張する顔。二つの映像に、薄いCDケースを見せるあゆみちゃんが重なる。教室のざわめきが、どこか遠くの音のようにぼんやりと頭に響いていた。隣の男子が、あゆみちゃんに話しかけている。

「それでさっきさ、コピー元のCD持ってたらやばいかもって話になって」

「うんうん」

「あいつのかばんに入れちゃえばって……」

「誰が言ったの?!」

私は自分がそれほど大きな声を出したと思ってはいなかった。みんなに振り向かれて、逆に驚いたくらい。慌てて笑顔を作り、「なんでもないの」と両手を振って見せる。それからもう一度、小さな声で言った。

「そんな事、ひどいよ」

「そうだけどさあ、あいつ嫌じゃん?」

「まあね〜」

あゆみちゃんが苦笑して相槌を打つ。

「誰が言ったかなんて覚えてないけどさ、別にこのくらいで騒ぐ事ねえじゃん」

「でも……」

「大丈夫だよ。ねえ?」

「なあ」

二人は顔を見合わせて頷きあっている。私はそれ以上強く言う事が出来ず、黙り込んだ。

何よりも嘘が嫌いだった。自分を偽る事が嫌いだった。あなたの瞳はいつだって、真っ直ぐに前を向いていた。私は、その瞳に憧れていたのかもしれない。

自分が疑われている事も、知っていただろう。それでも「何か知っているのか」と聞かれれば、何も知らないとは言えなかった。かばんにCDが入っているなんて、思いもしなかっただろう。それでも、CDが出てきた後ですら、「店に行かなかった」なんて嘘は吐けなかった。そういう人なのだ。私は、少しでも疑っていた自分に腹が立った。

あの日、あなたが教室に帰ってくる事はなかった。

それからしばらくして、あなたは学校へ来なくなった。それまでも休みがちだったけれど、何日も連続で休む事はあまりなかった。それが、全く姿を見せなくなって三日経ち、五日経つと、みんなは口々に噂し合った。例のCDを見る度に、あなたの事が話題に上った。

あの一件で退学になったんじゃないか。

学費がなくなったんじゃないか。

母親が逃げたんじゃないか。

みんながそれぞれに勝手な事を言った。誰も、真相を知らなかった。私も、家が近所ではあったけれど会う事もなく、何も分からずじまい。先生達は誰一人、生徒の問いに答えようとはせず、はぐらかすばかり。あなたの話題を意識的に避けているのは、誰の目にも明らかだった。

そうして二週間が経ち、あなたの机は教室からなくなった。

**********

私が次にあなたに会ったのは、それから一年ほど経ってからの事だった。日曜日、ちょっとした用事で町へ出かけようとした時。あのバス停であなたが声をかけてきたのは、きっと偶然じゃなかったんだろう。

「久しぶりだね」

「うん……」

「丁度よかった」

「え?」

「渡したいものがあって。……時間ある?」

「あ、うん」

がたがたする木の椅子に腰掛ける。目の前を、駅前行きのバスが走り去った。

あなたは相変わらずの雰囲気。しまわれていないシャツの裾も、投げ出されている足も、あの朝ここで会った時と同じ。何を考えているのか分からない表情で、空を見上げる。それから、くすんだ色の髪を長い指でかきあげる。以前と同じ仕草に、なんとなく緊張していた私の肩から力が抜けた。

「これ、覚えてる?」

数分の沈黙の後、そう言ってあなたが取り出したのは、丸い小石だった。川原に、いくらでも落ちているような。すぐに分かった。あれは私達の「流れ星」だ。

「川原で見つけたんだよね」

「そう」

「懐かしいね。次の日にさ、すっごい悲しそうな顔で『光らなくなっちゃった』って」

「朝起きた時には、もう光ってなかったからね。流れ星だって、誰も信じてくれなかった」

「そうだったよね……」

「……今でも、信じてる?」

そう聞いたあなたの顔は、ちょっとだけ不安げに見えた。私の頭に、色んな事が浮かんでは、消えた。

「もちろん。私は信じてるから」

自分では、強く頷いたつもり。あなたの瞳を真っ直ぐに見て、私は言った。あなたは滅多に見せない笑顔を、ほんの少しだけ浮かべる。そして何気なく、「流れ星」を差し出した。

「あげる」

「え?」

「あの時はもらっちゃったから。はい、持ってて」

「宝物だったのに」

「いいからいいから」

「でも……」

「今度はちゃんと光り続ける星を、探しに行くから」

そう言った時のあなたの表情を、私は忘れないだろう。子供の頃の、あの真っ直ぐなままの瞳で、あなたは言った。私は、ただ黙っていた。多分、笑っていたと思う。

あなたの肩越しに、飛行機が、空を切って飛んでいくのが見えた。空は高く、どこまでも続く、深い青。その広がりの中、絵に描いたような入道雲が、自分の存在を主張している。吸い込まれそうなほどに青い空と、真っ白な入道雲。そのコントラストはくっきりとして、痛いほどに美しかった。飛行機雲はいつまでも、その真っ直ぐな軌道を夏空に残していた。

あれから会う事はないけれど、あなたは今も変わっていないだろう。

あなたは、流れ星を探している。

いつまでも、自分の信じる道を歩いていく。

流れ星が見つかるかどうかは分からないけれど、あなたはきっと変わらない。

私の大切な幼馴染。

そうだよね、ユウ。


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