陰鬱な雨の仕業

何故いつも雨が降っているのだろう。悲しい日に雨が降る、という決まりでもあるのだろうか。

雨と言っても様々なものがあるが、私が言っているのは、ただただ静かに降り注ぐ陰鬱な雨の事だ。空は真っ黒で、重たい雲の間から雨粒が細い線となって、止めどもなく落ちてくる。音はなく、ただ全ての物が濡れそぼる。悲しい日にはいつも、そんな雨が降っている気がする。

小説でも映画でも、雨という小道具は悲しみを表現するために使われる。葬式や主人公が悩み悲しむような場面に、小鳥が鳴き、花が咲き乱れて、誰もが笑いさざめいている……これは全くそぐわない。こういったシーンには、何故か雨が降っている事が多いではないか。まるで何かの法則にのっとっているかのように、いつも、雨だ。そして私の人生においても、その法則は適用されている。

一番初めは、母が亡くなった時だ。私はまだ少年と呼ばれるほどの年だった。長く病床にあった母が私の手を握り、「強い子に育つのよ」と言って事切れた時、病室の窓ガラスが濡れていた事を覚えている。それから父が死んだ時も。親友が死んだ時も雨だった。

母は、とても優しい人だった。留守がちだった父にも辛抱強く耐え、貧しくとも私に苦労だけはさせまいと頑張っていた事を、私はよく知っていた。食事は質素だったが、自分の分を減らしても育ち盛りの私にはきちんと食べさせていたし、服だって他の子供に馬鹿にされぬようなものを与えてくれていた。私は、そんな母が大好きだった。けれどその母は無情にも病魔に侵され、そして死んだ。

窓の外、枝葉を濡らした木々が暗く影になっていた。太陽も、月も星も、その存在などは初めから認められていなかったかのように姿を隠し、空にはただ、重苦しい暗雲が垂れ込めていた。低く、どこまでも続く分厚い雲は、十分すぎるほどに水を溜め込んでいたに違いない。飽和量を突破し、大きな水滴に変化した水蒸気が、地上めがけて力なく落ちてきていた。

病室には何の音もなく、私の影だけが、妙に白く浮き上がる壁に映し出されていた。ベッドのシーツには、木々の陰がまだら模様を作っている。私の頬は、幾筋もの涙が伝ったせいでびしょ濡れだった。

――どうしてこういう時には、いつも雨が降ってるんだ。嫌な雨だ。

空になった頭で、そう思った事を覚えている。

私は、母が死んだ日の事を忘れた事はない。これからも、忘れる事はないだろう。

母が死んで半年も経たぬうちに、父も帰らぬ人となった。警察は最終的に、通りすがりの強盗に撃たれたと判断した。その死の一ヶ月ほど前に父と口論をした私は、その死に顔すら見なかった。今ではそれを後悔している。今更ながら、父は偉大な人だったと思う。貧しかった家族を、その両腕で支えていた。滅多に家に帰らなかったのも、仕事のせいだったのだろう。しかし私は、母の臨終を看取らなかった父に対し、嫌悪感を抱いていた。家に帰らない理由を架空の女に擦りつけては、父を責めた。父は大抵、黙っていた。しかしあの日は違ったのだ。ついに堪忍袋の尾が切れたのか、父を責め立てた私より、一層激しく怒鳴り散らしたのだ。その日も、そして彼が死んだ日も、雨が降っていたと思う。家を飛び出した時、傘を持っていないせいでずぶ濡れになり、風邪をひいた記憶がある。父が死んだ日は酒場で呑んだくれていたが、酒場へ入ってくる客はみな突然の雨に毒づいていた。

親友は、誰もいない筈のプールで溺れ死んでいた。長期休みの後で発見されたので、面影は全く残っていなかったという。いい奴だった。人当たりも良く、大勢の友人がいた。男も女も関係なく、奴が好きだった。成績も良かったし、運動だってよくできた。彼は水泳だって不得手ではなかった筈で、だから何故溺れ死ぬような事になったのか、誰にも分からなかった。恨みを買うような奴ではなかったが、何かの事件に巻き込まれてでもいたのだろうか。当時は噂が噂を呼び、大変な騒ぎになったものだ。しかし明らかな証拠というようなものは見つからず、事件は迷宮入りになった。奴の葬式の事を、土に染み込んでいく雨粒を黙って見つめていた事を、今でも思い出す。

私の人生において、大切な人を失った日には、必ずと言っていいほど雨が降っていた。しかもその全てが、あの音もなく降り注ぐ雨だった。

――これは全て、雨の仕業だ。この陰鬱な雨のせいで、私の大切な人が死んでいくのだ……。

私はいつか、そう思うようになった。

しかし、今になって考えてみれば、随分と孤独な人生を送ってきたものだ。親友が死んで以来、本気で付き合える友人は作らなかった。遊びに行く程度の友人や、デートに誘える程度の相手はいたけれど、お互いを支えあい、刺激し合う、そんな深い付き合いは全くと言っていいほどしてこなかった。

心を許せる相手にはなかなか巡り会えぬものだ。巡り会ったとしても、いつかは別れが来るかも知れない。思うに、私はそれが怖かったのだ。誰とも、深く知り合おうとしなかった。恐らく、大切な人を失ってしまうという恐怖が、私を抑制していたのだろう。愛する人を失うというのは辛いものだ。家族でも友人でも、本当に自分が大切に思う相手を失うというのは……。

どうという事のない学生生活を終え、私は仕事を始めた。色々な雑貨を輸入したり販売したりといった仕事で、会社の規模はごくごく小さいものだったが、私は満足していた。日々の糧を得、平穏無事に暮らしていける。それは神に感謝するべき事だった。本当にいるかどうかは分からなかったが、ともあれ私は感謝していた。

十数年の月日が流れる間、私の人生に雨は降らなかった……という言い方は正確ではない。勿論、雨は何度も降った。けれどそれはあの、真っ暗な空から静かに、永遠を思わせる程降り続く雨ではなかった。降ったのは豪雨であり、霧雨であり、夕立であり……また他の雨だった。そして、愛する人が死ぬような事もなかった。と言っても、そういう相手がいないに等しいのだから当たり前の事かもしれない。少なくとも、私にとって、この十数年が非常に幸せな時期だったことは間違いがない。

しかし、悪夢は再び訪れた。今度は……いや、順を追って話した方がいいだろう。私はついに、心を許せる相手に巡り会ったのだ。

それは仕事の付き合いから知り合った、一人の女性だった。見た目はごくごく平凡な女で、最初は取り立てて気にするような存在でもなかった。しかし一緒に仕事をこなし、色々な相談をするようになって、私は徐々にその人が気になりだした。それまで恋愛などというものに縁がなかった私は、何をどうすればいいのか戸惑い、結局のところ何も出来ないままに数年を過ごした。愛するという事を怖がっていたのかもしれない。彼女を手に入れた時から、破滅への日々が始まるのだ。私はそう思った。怖かったのだ。また、失うだろう事が。

そんな私の思惑とは裏腹に、事態は突然変化した。彼女の両親が事故で亡くなったのだ。私は地の底まで沈んでいきそうな彼女を精一杯慰め、自分も幼くして両親を亡くした事を打ち明けた。彼女は私の目を見つめて言った。

「あなたがいてくれて良かった」

その時の表情や声はとても印象的で、私は今でも鮮明に思い出す事が出来る。潤んだ瞳は限りない透明感があり、頬は紅く染まっていた。細かく震える唇はまるでゼリーのように柔らかく見え、とてつもなく魅力的だった。私は何も言わず彼女を抱きしめ、彼女は声を出さずに泣いていた。

一年後、私達は限りない祝福に包まれて結婚した。

更に一年後、私は再び悪夢にうなされる事になった。

何が起こったのかは、書くまでもないだろう。強いて書いておく事があるとすれば……その日もあの雨が降っていたという事ぐらいだ。

一体どうすればよかったというのか。私に出来る事が他にあったとでもいうのか。私に、何が出来たというのだろう。今までしてきた事は、全て間違っていたのかも知れない。私には何も分からない。ただ、こんな事はもう二度と起きて欲しくない。心からそう思った。もし神という名の何かが存在するのなら、こんなささやかな願いくらい叶えてくれてもいいだろう。それとも、もう私には人を愛する資格がないとでもいうのか。

それからというもの、私は自分に自信をなくし、今までに増して孤独に過ごした。人付き合いも極端に減り、仕事に没頭した。外交的な面は人に任せ、事務的な処理ばかりを好んで引き受けた。

――私はこのまま一人で生涯を終えるのか。

不安や疑問、また漠然とした怒りのようなものが胸にこみ上げては消えた。失う事の悲哀、自分への憤り、これから先の人生の孤独や恐怖、他人に対する不信。そういったものが時折、渾然一体となって私に襲いかかっては、また薄れた。波は毎日打ち寄せ、引いた。それは何度も何度も繰り返され、次第に私は、自分が何故生きていかなくてはならないのかすら、分からなくなった。

しかし私は落ち込みそうになる度に、自分を奮い立たせた。何を戸惑う事がある。私がもう二度と人を愛せない? そんな筈はない。私だってまっとうに生きている人間だ。人を愛する資格がある。そう、自分に言い聞かせた。

そして、その言葉どおり、私はまた人を愛した。二度目の妻は明朗快活で、私をいつも元気付けた。私はまた幸せに包まれる事が出来たのだ。

そう、私は負けなかった。愛した人を失うかもしれない怖さに負けなかったのだ。私は、ずっと警鐘を鳴らしていた内なる声に向かって、高らかに宣言した。どうだ、私だってまた人を愛せるのだ! 人は弱く、愚かで、いつも迷っている。しかし最後には必ず、その手に自由と愛とを掴み取るものなのだ!

自分がどんなに脆く、儚いものか。その時の私は気づいていなかった。

神などはいなかったのだ。

音もなく、陰鬱な雨が降りしきる。この雨が、私はとてつもなく嫌いだ。こういう雨の日は気が滅入る。どうしようもないやるせなさと、行き場のない憤りが私を揺さぶるのだ。必ず、私の愛した者が死ぬ。そしてそれは、陰鬱な雨の仕業なのだ。

私はどうすればよかったのだろうか。私に何が出来たというのだろうか。……私は、これ以上何も出来ない事を悟った。真っ白なシーツに、赤い染みが、ゆっくりと広がっていく。私は、最愛の妻に向かって「心から愛していたよ」と呟いた。それは本当に、疑いようもない本心だった。私は失ってしまった悲しみについて考えないようにしながら、銃を拾い上げた。握った時についただろう私の指紋を拭き取り、鞄にしまう。

そして、部屋を出た。

ああ、明日はこの雨が止むといいが……。


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