囚われた娘

「幼馴染のあいつ」と言うと、どこかこそこそとしていた男の子が思い浮かぶ。

俺と同じような貧しい家の、大勢いるガキの一人。いつも同じ、地味な格好で、目立つ奴じゃない。それが突然、「この村を出て学校行く、勉強する」なんて飛び出して行った。それきり、もうずっと音信不通だ。みんなあいつは死んだと思っている。いや忘れているかもしれない。あんな、地味な……。

「変われば変わるもんだなあ!」

長年会わなかった友人は、僕の顔を見てまずそう言った。それから僕らは互いを確認し合い、改めて旧交を温める、という行動に出た。そんな酒場での夜。

「いつ、帰ってきたんだよ?」

「いやまだ学校に在籍しているよ。ただ、ほら、父さんが死んだろ? 商売の売り物が全部残ってて、その処分をしなきゃならないからしばらく滞在しているだけなんだ。当分は休校しなきゃ。残念だよ」

「いやあ、たまにはいいだろ、ゆっくりしていけよ」

にこやかに笑う彼の言葉に、僕は曖昧に微笑んで返答をかわした。この村が嫌いなわけじゃない。村を飛び出した僕のことを覚えていてくれて、なおかつ再会を喜んでくれたのは、目の前にいるジャッシュくらいだけど、でも、別にこの村にいるのが嫌なわけじゃなかった。ただ、早く学校に戻って勉強したいだけ。

「お前、一体どんな勉強してんだ? 十年もやって、さぞかし頭良くなったんだろうなあ」

「そんな事ないよ」

「またまた謙遜しちゃって!」

「いやあ……」

「まあいいやな! 今日は久しぶりだし、親父さんの話でもしながら飲み明かそうぜっ!」

……。

思ったより飲み過ぎたのか。頭痛がする。

薄暗い、小さな部屋。生まれ育った家には誰もいなくて、変に広い。あの頃はあんなに狭いと思ったのに。兄弟が俺を含めて七人。両親と、祖父母と、叔父とその家族。こんな小さな家に十五人もひしめき合っていたなんて信じられない。それが今はこんなに広いのも、信じられない。もう、俺しかいないなんて。

兄弟姉妹で分かっているのは、上の姉三人は遠くへ嫁に行ったってことと、一番下の弟は病気で死んだということ。あとの二人、兄きと弟には連絡がつかなかった。お袋はとうに死んだ。叔父一家はいつの間にか出て行ったらしい。詳しくは父さんに聞こうと思っていたのに、死んだと連絡が来るなんて。

家の一室に詰まっている、「親父の仕事」を見て、ため息をつく。

「これを、僕にどうしろって言うんだ……」

最後まで商人だった父さん。質素な葬式を済ませた僕に残された、この山のような売り物。

後悔はしていない。けど、長いこと連絡を取らずに学問に没頭していたことに良心の呵責を感じている。だからこの荷物を、売る。全部売ってみせる。きっと父さんだったら「売れるもんは売らにゃ!」と言ったろう。

それから数日。村中を巡り、いくらかのつてを見つけはしたものの、すべてを売るにはまだ遠い。僕は時折、ジャッシュと酒場で酒を飲んだ。彼の明るさと少しの(最初の晩以来、控えている)酒が、疲れを癒してくれるような気がする。

「そうかあ、やっぱり難しいか。お疲れさん。でもあれだろ? 何とかって金持ちが色々買い取ってくれるって言ってたじゃないか」

「ああそうなんだ。ダブロフさんには感謝してる。父さんのことをすごく信用していて、僕にも良くしてくれるんだ。勉強もさせてもらってる」

「へえ?」

「ああ、商売の、ってことだよ。どういう風にしゃべったらいいかとか、物の取り扱いとかね。父さんの事もいっぱい話してくれて……」

「おっ、来たぞ」

店の娘が、頼んだ酒を机に置いた。

「ありがとう」

「料理も早えとこ頼むぜ」

「はい」

娘が下がると、ジャッシュは小声で言った。

「なあ、あの子、結構可愛いよな」

「……」

「なんだ、お前、興味なしか? こういう話、苦手だったか?」

何と答えればいいんだろう。この店に何度か来る内に、すっかりあの子に目を奪われてるんだ……なんて。

「今は、仕事が忙しくて、考えられないな」

僕は目をそらした。

「ふぅん?」

「いや、その……」

「なるほどな」

「何が、なるほどだよ。そ、そうだ、さっきのダブロフさんの話だけどね。あの人は知識もあるし、教養もある人だよ。僕は当初、学校へも行ったことのない人がどれだけのことを考えているのか、なんて、こう言ってはなんだけどちょっと馬鹿にしていた部分があったんだ。でも、今は違うよ。流通、経済、それは机の上の勉強だけでは分からない。市場の論理や偶然性、また矛盾するように思うかもしれないが必然性が加味されて初めて……」

「おいおい、そんな難しい言葉使うなよ、俺にゃー分かんねえよ」

ジャッシュは顔を赤らめて頭をかいた。

「ご、ごめんよ」

「いいさ。俺の友達がこんなすげえ奴になったなんて、なんか嬉しいや」

「いや……」

「ほんとだよ。あの頃のお前は目立たない奴だったけど、今は見違えた。美青年になっちまって」

「からかうなよ。多少は成長したと思うけど、見た目までは変わらないさ」

「なんだ、自覚ないのか? お前」

「どういうことさ」

「今のお前はどこに行ったって、娘たちの頬が染まるようないい男だってことだよ」

「馬鹿言うな」

「俺が? お前こそ。……そうだ、信じねえってんなら、あの娘」

言いながらジャッシュは、先ほどの酒場の娘を指差した。僕の心臓が飛び跳ねる。

「あの娘んとこへ行って、じっと目を見つめてきな」

「ええっ?!」

「ほれ、早く」

「そんなこと言われても……何を話せばいいか分からないよ」

「ばーか、そんなん『ずっと君が好きでした』とか言っとけばいいんだよ」

「えええええ!」

「いいから、行け! 間違いねえから」

ジャッシュが僕の腕を引っ張って立たせる。にやにや笑う彼はぐいぐいと僕の背中を押し、驚いたような顔の娘のところまで無理やり連れて行った。

「こいつが、言いたいことがあるってさ」

「なん、でしょうか」

彼女が顔を上げる。ああ、やっぱり可愛い。ジャッシュに言われた通りにしようと思ったわけではないけれど(そんな余裕はなかった)、僕は彼女の顔をじっと見つめた。彼女の頬が、うっすらと染まった、気がした。

「その、僕は……」

言葉が喉に詰まり、僕は黙ってしまう。ジャッシュは少し離れたところで見ている。助け船を出さない気だ。父さんもジャッシュも、勝手なところが何故か似ている。僕に、どうしろって言うんだ。何て言うんだっけ、ええと、ええと……。

「……その、ずっと好き、でした」

何でこんなことを、と思いながら、でも勢いで言ってしまった。彼女の頬が、見る見るうちに赤く染まっていく。僕の見間違いではない、と、分かるほどに。

「本当ですか……?」

明らかに、嬉しそうな表情。まさか。ジャッシュを振り返ると、親指を立てて、にっと笑った。そして踵を返して店を出て行こうとする。待ってくれ。彼女とジャッシュとを見比べておたついている間に、ジャッシュはそそくさと出て行ってしまった。

「あの、私……ずっと、素敵な人だなって思っていて……」

こうなったらしょうがない。僕は意を決して彼女に向きなおった。精一杯の笑顔。

「ありがとう」

――あいつの目をまっすぐに、じっと見たことのある奴は、滅多にいないだろう。いつだってこそこそしている奴だった。俺だってあの時、路地裏であいつに会わなかったら、きっとそんな事はなかった。

あいつは死にそうな小さな生き物を拾って、どうすればいいかってうろたえてた。たまたま俺がそこにいたってだけで、あいつは俺の顔をじっと見つめてきたんだ。まるで、助けてくれと言わんばかりに。

その時、俺の方こそが「どうすればいいんだ」という状態に陥った。あいつの目は、なんて言ったらいいか、俺は学がないから分からねえけど、とにかく、その……。

「幼馴染のあいつ」は、どこにでもいるガキの一人だった。いつも地味な格好で、目立たない奴。そう、ただ、その瞳を除いて。

「上手くやるといいがなあ。ま、大丈夫か。あの娘はどう見ても……だもんな」

頭上の月を見上げて、俺は思わずこみ上げる笑いをこらえた。

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