大神殿

その日、一人の少女がフレイルの部屋へとやってきた。

フレイルは若くして大神官になった才能の持ち主であり、レノア随一の神殿の主事を務めていた。頭首のザクラーは当年とって六十五歳。他の大神官たちもそのほとんどが六十を超えている中、四十になったばかりというフレイルは、年齢から言えば中年だが、やはり「若き才能」なのだった。

そのフレイルの部屋に、一人の男性神官と一人の少女が入ってきた。

「初めまして。君の名前は?」

その問いに少女は即答した。

「人に名前を聞くときは、自分から名乗るのが礼儀ってものよ」

まだ少女と言っていいほどの年齢だろう。確か身寄りのない子を引き取ったと聞いた。詳しい経緯については分からないが、苦労してきたのだろうか。唇をきゅっと引き締め、険しい目つきで睨む少女は、まるで野生動物のようだ。

「無礼な! 大神官様の前だぞ!」

若い神官を仕草で黙らせる。

「君が正しいよ。失礼した。私はフレイル=セアタ。この神殿の主事を務めている者だ。改めて問うが、君の名前は?」

「私はルタ。ねえ、あなたがここで一番偉い人?」

「こ、こらっ!」

「いいよ」

「ですが、こんな口の利き方を許しては!」

「私が構わないと言うのだから、構わない。ルタ、どうしてそう思った?」

「この人がやたらぺこぺこしてるわ」

軽蔑したような視線を神官に投げる。神官は憮然とした顔を見せた。それから少女は両手を拡げて部屋の中を示した。

「それに、ここへ来てから見た中では、ここが一番大きな部屋よ。大きな机、本棚。あなたは一番立派な洋服を着てるわ。他の人が着ているものより、その、胸んとこについてる線が多いの」

良く見ている。フレイルは好もしく思った。

「素晴らしい観察眼だ。だが、私は一番ではない。一番偉いのは当主さまだよ」

「そう。じゃ、その人に会わせて」

「ん?」

「二番だか三番だか知らないけど、一番じゃなきゃ話にならないの」

「私じゃ駄目かい?」

「そうね、偉ぶってないし、いい人そうだけど、やっぱり一番偉い人に会っておきたいわ。だって、私、これからここで暮すんでしょう? 行くところがないから引き取ってやるって言われたけど、私、自分一人でだって生きてみせるわって言ったのよ。なのに無理やり連れてこられたんですもの。別にここが嫌なわけじゃないけど、どうせここで過ごすんなら、一番偉い人に会って、これからよろしくって言いたいの」

「なんと、なんと言う……!」

「なるほどねえ。ルタ、君はなかなか面白いな。そういう理由なら、当主さまにも引き合わせよう。だが当主さまは予定が詰まっていてお忙しい。お時間が取れたら改めて連絡するよ。それでもいいかな?」

「そう……うーん。じゃあ、まあ、いいわ」

「納得してくれて嬉しいよ。では、今日のところはこれで。後は神殿の中を彼に案内してもらいなさい」

「この人……? 私、出来れば他の人がいいわ。だってこの人、私に命令してばかり。失礼だと思わない? 私に命令できるのは、私だけよ。そうでしょ」

「なっ、なにをぉう!」

若い神官の額の青筋にもびくともしない、肝の据わった少女の態度を見て、フレイルの喉から自然と笑い声が出た。声をたてて笑うなど、何年振りだろう。仕事に忙殺される日々の中で、久し振りに面白い人物に出会った。

「そうだなあ、ではこうしよう。私ではどうかな?」

「フッ、フレイル様! 新入者の案内など、若い者がやる仕事です。フレイル様のような大神官様が……」

「私だと、何か、問題があるかな?」

「いえ、そういうわけではありませんが……しかし……」

「予定していた仕事は私でなくても大丈夫だろう。そうだな、キザールかマゴスに頼んでみてくれ。駄目だったら後で私が急いでやるよ」

「は、はあ……」

「そうそう、肝心のルタの了承を得てなかったね。私では役不足かな?」

少女は満足げに頷いた。その様子がまた可愛らしい。

「あなた、気に入ったわ」

「ははは、それは光栄。私も、あなたが気に入りましたよ、お嬢様」

「お嬢様じゃないわ。ルタよ」

「そうだったね。では、ルタ。神殿を案内するよ。行こう」

呆れたような、困ったような顔で首をかしげている若い神官を残し、大神官と少女は笑いながら部屋を出て行った。

これが、後に悲劇を呼ぶ二人の出会いだった。

だがこの時はまだ誰もその事を知らない。

ルタは、フレイルに連れられて各所を見て回った。

フレイルの部屋があるのは、部屋がいくつもある大きな屋敷のようなところで、主に事務を行う建物だった。そこから渡り廊下で繋がっている先に、神殿がある。弓型に積み上げられた煉瓦の門をくぐると、その先には素晴らしい彫刻の施された柱が連なる廊下があり、天井はなかった。ルタの藍色の髪を、柔らかな風が揺らして過ぎる。

――柱があって、建物の中のようなのに、風が通るんだわ。

ルタがきょろきょろと見回していると、フレイルがさりげなく説明した。

「ルタも知っていると思うが、我々が得る恵みは空と大地と水から成る。自然の力を感じられるよう、神殿には天井がないんだよ」

フレイルの温かな声が、ルタの耳には心地良く響く。ルタは表情の少ない少女だったが、フレイルには自然と笑顔を向けた。

「面白いわ」

「それは良かった。神殿の中も気に入ってもらえるといいな。さあ、ここからが神殿だ」

フレイルが示す通り、柱の列が左右に分かれ、ぐっと広い空間が開けた。石造りの机だか椅子だか、恐らくその両方に使えるようなものがずらっと並んでいる。中央の通路は長く、一番奥に高い階段が作りつけられていた。

「あそこが礼拝の時に話をするところ。そう、『一番偉い人』がね。……私も話をする事があるけど、大勢の人を前にするとかなり緊張するよ。特別礼拝の時は、ここに全員集まる。入りきれない人は柱の外側から見てもいいんだ」

「ふぅん……。すごくいっぱい、人が入りそう」

「そうだね、ここがいっぱいになるよ。ここには神殿だけじゃなく、神学校、武術訓練所、芸術学校などの教育施設、医療施設、食糧と衣類の配布所まであるからね。一つの街みたいなものだ」

「私はどこに住むの?」

「君はまず学校を選ぶための基本訓練所に行くんだ。早ければ一ヶ月、長くても数ヶ月はそこで寝泊まりするんだよ。友達も出来るだろうし、良き指導者にも巡り合うだろう。運悪く、良くない指導者にも会うかもしれない」

「それは……嫌だわ」

「自分に合う指導者を見つけなさい。そして、その人について学ぶんだ。行きたい学校が決まったら、そっちへ移る。合わないと思えばまたどこへでも、何度でも移って構わない。ただし、移るとまた一から始めるから大変だよ。自分がどういった道に進んだらいいか迷ったら、相談に来なさい」

「分かった。で、フレイル、あなたは? あなたはどの学校へ行ったの?」

「私は神官だからね、神学校出身だ」

「ふうん、じゃあ、私も神学校にするわ」

ルタは無邪気に言った。フレイルは厳しい顔つきでそれを却下する。

「人の真似はいけないよ、ルタ。自分に合っているかどうか、まず自分の目と、体で、確かめなさい。その上で神学校が良ければそれもいいだろう。だがまずは基本訓練所だよ」

「はい……」

意志が強く、自分に命令できるのは自分だけ、と豪語していた少女は、今日初めて落ち込んだ表情を見せた。そのルタの頭を、フレイルは軽く撫でる。

「自分の人生は自分で作るものだからね。でも、相談には乗るよ。悩んだら、いつでも私の部屋へ来るといい」

「本当? 本当に、いつでもいいの? 忙しいんでしょ?」

「そうだね、いつでも会えるとは限らない。でも私の部屋へ来たという事が分かれば、きっと後で連絡するよ」

「きっとよ。……ねえ、なんか恋人同士みたいね」

「君と私がかい? それはそれは……ははは」

笑うフレイルを見上げて、少女は怪訝な顔をした。

「なぜ笑うの?」

「え、いや」

「私、冗談を言ったわけじゃないわ。あなたが好きよ、フレイル」

「そりゃどうも」

「もう! 本気にしてないでしょ!」

フレイルの前に回り、ルタは両手を腰に当てて頬を膨らませた。フレイルは少女に向かって笑顔を浮かべる。

「私を恋人にしたいなら、私を本気にさせてみたまえ」

「挑戦状ね。分かったわ。本気にさせてみせるから!」

「楽しみにしているよ」

本当に面白い少女だ。フレイルは改めて思った。身寄りのない子供が神殿へと入ることはよくある。だがこんなにも意気揚々としている子は見た事がない。辛さも、哀しみも、この少女の瞳にはまるで見えない。どういう暮らしをしてきたのだろうか。この少女の、まだ長いとは言えない人生に、どんな事があったのだろうか。この少女の態度は強い意志からくる作りものか、それとも生来の強さなのか。フレイルは、自分がもはやこの少女に囚われつつあるのかもしれない、と思った。

「さあ、次の場所へ行こう。案内するところはまだまだあるぞ」

「ええ、フレイル、あなたとならどこへでも行くわ。だって私、あなたの恋人になるんですもの。……ああっ! また笑ったわね!」

物静かなフレイルにしては本当に珍しい、朗らかな笑い声が空に吸い込まれていく。大神殿の上に広がる空は、今日も、青い。

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