――サキュレイアの持つ砂時計は元に戻ることはない。砂はただ、流れ続ける。それはいつの世も。
到底、うなずけることではなかった。積年の恨みを晴らし、彼の支配する軍隊をもって王権をもぎ取ったコジュマールにとって、相手が誰であろうと王座を明け渡す事は死にも等しい。まさしく、王の座こそが彼の命、存在の証明、生きている価値そのものだった。
彼は、弟に生まれた。
その五年前、彼の兄エイクスがこの世に生を受けていた。
始まりは、ただそれだけ。だがそれは彼にとって人生のすべてを決める重大な出来事であった。
政局を退いた父王は存命中に兄を王に指名した。当然のことだった。兄エイクスは政権を継ぎ、大国レフォアの王となった。寛大なる兄王は弟に軍隊を任せたのではあるが、コジュマールにとってはその憐れみ深い慈悲こそが煩わしかった。
王になりたかった。欲しいのは王座だけだった。
兄王が結婚して王子が生まれ、自分が後を継ぐ可能性がさらに薄くなったのを感じた時、コジュマールはその計画を抱いた。俺には出来る。軍はすべて自分のものなのだから。
王位を継ぐ予定の王子が十七になり、婚姻の話が出た頃、コジュマールは計画を実行に移した。
軍隊による反乱は短時間で決着した。武力で抵抗出来る者はなく、王家の一族はその多くが国に混乱を導くものとして処刑され、コジュマールは王として即位した。その瞬間、体が喜びに震えた。
将軍や騎士たちは働きによって褒章を与えられ、以後レフォアは軍事国家として位置づけられた。唯一、行方不明と報告された第二王子だけが心配の種だった。
だがその不安が的中する日が来ると予想しえた者は唯一人もいなかった。レフォアの最高司祭であったジルク老であれば予見したやもしれぬ。だが反乱の朝に彼がその命を落として以来、彼ほどの予見能力を持った者は出現しなかった。
第二王子が行方不明になってから約十年の月日が流れ、「その日」が訪れた。コジュマールは目の前に立つ現実を受け入れられず、怒りにこぶしをわななかせるばかりである。到底、受け入れられはしなかった。
「繰り返しますが、既にこの城で私に刃向かう者はおりません。叔父上は失脚されたのです」
「何を申すか! おっ、お前は……お前は……!」
「私が王の息子として王位を奪還しにきた。そうお思いですか」
コジュマールは目を血走らせて眼前の敵を睨みつけた。十年前の面影をしっかり残しながら、相手は少年の域を脱し、凛々しい青年に成長していた。自分と同じように次男として生まれながら、王になろうという野心を抱かず、のびのびと明るく育った甥っこ。二年ほど行方不明だったが、北方の田舎町にその姿を見せたという報告から、各地を回って味方を増やしたと聞いた。そしてついに、この城に戻ってきたのだ。
「貴様ぁ……!」
「私は、王位が欲しいわけではありません。もっと言えば、王など誰がやっても良い。きちんとした執政者であるならば」
「綺麗事を抜かすな。王位は王家一族のものと決まっておる! それが昔からの」
「叔父上の理論であれば、先王の弟である叔父上より、実子である私の方が継承順位は上のはず。わたくしが戻ってきた以上、大人しく王位を明け渡してしかるべきではありませんか」
「ぐぅっ」
「叔父上はこの十年、権力の上に胡坐をかき、民の苦労や疲弊を顧みず、多くのことを人任せにして、政治の腐敗を止めなかった」
コジュマールの半開きの唇が震えている。
「私が王位の掠奪者とされるか、あるいは王位を奪還した英雄となるか、それは後世の歴史研究家の判断に任せます。ですが、このまま叔父上に伝統あるレフォア国を任せ続けるわけにはいきませぬ。気持ちを改め、私たちにご協力願えますか? 叔父上が軍の最高指揮官であった頃、我が国の軍は非常に良く統率されていたと思います。その能力は買いましょう。改善に手を貸してくださるなら、祖国追放には致しません」
「ふっ……ふふふっ、既に王のような物言いだな。この国は、私のものだ」
「確かに、今は、そうです。ただ、もう味方はいません」
「ええい、うるさい! 小癪な小僧め、講釈を並べ立てておらんで剣を抜け!」
「軍人らしいお言葉ですね。では受けて立ちましょう。私とて、個人的には両親と兄の仇を取りたいのですから……!」
そこで初めてエイルの瞳に炎が宿った。それまでは極力感情を抑え、冷静に事実を述べていたエイルだったが、実際にコジュマールと剣を合わせるとなるとそうはいかなかった。
コジュマールは武官長であり、レフォア騎士団の最高指揮官であり、当然一人の騎士としても最強と恐れられていた。あの反乱が起こった時の、十二歳のエイルであれば、太刀打ちできる相手ではない。恰幅の良い、立派なひげを蓄えた叔父は、見上げるほどに大きく、実際に強かった。
だが今のコジュマールは、エイルが思ったよりずっと鈍く、その動きを見切るのは難しくなかった。王位についてからというもの、コジュマールは稽古で体を鍛えることなどほとんどしていなかったのだろう。丸く突き出た腹。剣を振りまわす腕にはしぼんだ肉が揺れている。若い力に溢れ、幾度もの戦闘経験を積んでもいるエイルにとって、勝つのは時間の問題だった。
「くそっ! くそぉぉぉっ!」
息も荒く口から唾を吐き、コジュマールは何度も剣を突き出してきた。十年前なら鋭かっただろうその切っ先を素早く避け、エイルは窓に駆け寄ると大きく開け放った。
「聞こえますか、あの声が!」
城の前の大広場からは、城下町の民がコジュマールの悪政を責め、新しい王の誕生を望む声を上げるのが聞こえていた。
「観念してください。もう、貴方に出来る事はないのです」
コジュマールの顔面は蒼白だった。その目は血走り、額には青筋が幾本も浮かんでいた。それからコジュマールは、大きな体でよろりと窓へ寄った。まるで酒に酔ったような動きだった。
「レフォアの民が……」
コジュマールはそう呟くと、ゆっくりこちらを振り返った。虚ろな瞳は何も見ていない。ただ空中に据えられているだけの、空っぽの瞳だった。
「今更言われるまでもない……民が俺を受け入れていないことなど……最初から分かっていたさ」
そう呟くと、コジュマールはのんびりとすら見える様子で剣を振り上げ、エイルに向かって振り下ろした。体躯の下から切り上げたエイルの剣がコジュマールの体に突き刺さる。ずるり、と巨体が崩れ、コジュマールは血しぶきを上げて倒れた。
「殿下」
シキが低い声で呟く。
「終わりましたね」
その言葉に応えて、エイルはシキを振り返った。剣を振って血を飛ばすと、首を横に振った。
「いや。これが始まりだ」
何も言わず頭を垂れるシキに視線を送り、エイルは小さくうなずいた。
「もう誰も殺し合う必要はない。伝令を。スグリ、行ってくれるか」
シキ同様、エイルとともに長い戦いをくぐりぬけてきたスグリが素早くうなずく。肩に怪我を負っているようだったが、数名の兵を連れて部屋を出て行った。
「私はジルクの部屋へ行く。シキ、ついてこい」
エイルにつき従おうとする兵士たちを手で制し、エイルは「シキだけで良い」と硬い声で言った。
あの朝、ジルクは塔の部屋で命を落としたと聞いている。ジルクの息子であるムルカが最高司祭を引き継いだというが、コジュマールのいる城を嫌い、個人の屋敷で活動していたという。ジルクの部屋はある程度の掃除はされたものの、荷物などはそのままであるようだった。
――我々を転移させた、あのすぐ後に……。
エイルは唇を噛んだ。前を見据えて早足で歩いていくエイルに従い、シキも無言で塔へと向かう。
ジルクの部屋があった塔は単に北の塔と呼ばれていたが、最近ではジルクの塔と呼ばれているらしい。階段を上がり、最上階にある部屋を目指す。松明に火を灯し、壁にあるろうそくに火を移しながら登っていく。二人は終始無言である。ようやくエイルが口を開いたのは、ジルクの部屋の前に立った時だった。
「ジルク」
反乱後の騒動にまぎれ、国葬も執り行われなかったと聞く。エイルは悔やんでも悔やみきれない思いを胸に、扉をゆっくりと押し開けた。部屋の中は雑然とし、まるで奥からジルクが姿を現すかと思うほど、あの頃と変わらなかった。
「さきほどの……やはりこれは」
シキが取り出した紙片に向かって囁くように言った。
「我のみ知る、王家の秘密、書簡を隠す……か」
エイルもその文言を確認し、シキと目を合わせた。
「スグリたちと塔の部屋を調べた際に見つけたのです。兵士たちに見られぬよう持ち出しましたが、元はこの本棚の後ろに隠されていました」
シキはそう言いながら、部屋の隅に置かれた古い本棚を示した。エイルは再度紙片を覗きこみ、うなずく。
「間違いなく、ジルクの筆跡だな」
「そうですね。隠された書簡が、どこにあるのか……」
「ジルクのことだ、意外とそこらに放り出してあるかも知れん。物の管理は下手だったからな」
エイルは昔を振り返り、微笑を浮かべた。だが、日記は非常に周到に隠されていて、部屋の隅の壁と床の境目に小さく彫られた印を見つけるだけでかなりの時間を要した。ジルクはよほど念入りに隠そうとしていたのだろう。その気持ちを思うと、そこに書かれているという「王家の秘密」がどれほど大きなものなのか――エイルとシキは知らず喉を鳴らした。
ついに手にした日記の頁をめくり、目を通す。
『四二九年春風の月』
「四二九年というと……私はまだ三つだな」
「私は十五です。初めてレフォアに来た年ですね」
「そうか。ああ、ここに書いてある」
『旅の芸人集団が城下を訪れた。陛下が拝謁を許され、数人の芸人が王城にて芸を披露――』
「我々の旅団のことが書いてあるとは」
「シキは、短剣投げなどをしていたのだったな」
「ええ、まあ」
そう言うシキの目は、その次に続く文章に釘づけになっている。
『陛下は集団の一人で、城へ来た内で一番若い少年を城に迎え、貴族として通用するように礼儀作法などを教えろと仰られた。……あの事件を思い出さないわけにはいかない。陛下のご長男は、シエル様ではない。四一二年月光の月。ご長男はお生まれになってすぐ、名付けの儀式すら終える前に、乳母と、そやつが手引きした男に誘拐されたのだ。陛下と前妃様は悲しみに暮れられ、国民には死亡と伝えられた。手を尽くして探したが見つからず、三年後、シエル殿下がお生まれになるに至って、両陛下はシエル殿下をお世継ぎの王子とされた。その後、四二〇年に前妃様が亡くなられ、ホベック地方チェナドルから新しい妃様、マードリッド様が嫁いで来られ、四二五年、エイル殿下がお生まれになった』
シキとエイルは何も言わず、むさぼるように頁をめくった。
『陛下が私に預けた少年はシキと名乗り、苗字はなく、旅団育ちだと言った。顔には明らかに前妃様の面影があり、その深い緑の瞳こそ彼女に生き写しであった。私は陛下に「まさか」以上のことが言えなかった。陛下は黙ってうなずかれ、私はその深いご意思を汲み取った。陛下は、シキの出生について明かされるおつもりはないのだ。既に帝王学を学ばれ、レフォア王になられるご自覚をお持ちのシエル殿下やマードリッド妃、またエイル殿下に余計なご負担をかけられまいとのお考えであった。だがシキはお傍に置くと仰られ、ご病気で亡くなられた前妃様と、幼くして行方不明になられたご長男様への深い愛情をお示しになられたのである。シキには貴族としての教育を受けさせ、館を一つ与えた。すぐに騎士としての才覚を顕し、十七で入団。緑旗隊に配属された』
「これは……」
エイルの言葉に反応もせず、シキは棒のように立っているばかりだった。頭の奥がしびれている。エイルが乾いた唇を舐めて言い直す。
「これはまさしくシキが」
「殿下」
それ以上は言わないでください、とばかりにシキは鋭く制止した。だが、エイルは静かに続ける。
「シエル兄上の前に生まれた男児は、幼き頃に行方不明になり、それがクタールの手によって父上と再会した。ジルクの日記に間違いはないだろう。だとすればそれがシキ、お前だ」
「エイクス陛下とシエル殿下亡き後、正当な王位継承権をお持ちなのはエイル殿下です」
「王など誰がなっても良い」
「そうであるなれば尚更」
シキは真っ直ぐにエイルを見つめ、きっぱりと言い切った。
「次期レフォア国王はエイル殿下です」
「……」
「私が何者であろうと、そんなことは関係ありません。私は陛下とシエル殿下、そして誰よりエイル殿下に永遠の忠誠を誓う、レフォア王国騎士団の一員であります」
エイルは黙っていた。エイルを見つめる、深い緑の瞳には言葉にすることの出来ない深い想いが込められているようだった。
「殿下。どうかご理解ください。私は」
「分かった」
短く言うエイルの顔は真摯で、決意に満ちていた。
迷わずに火の術法を唱える。羊皮紙を燃え代とした術法はすぐにその効力を発し、ジルクの日記の数枚はしばらくして消し墨になった。
「我々にはすべきことが山のようにある。まだ負傷者もいるだろう。混乱も治まってはいない。後片付けもせねばならん。城下町の整備をし、民への触れを出し、新しい人事もせねばならぬ。それに……私の戴冠式の準備をせねばなるまい」
「殿下」
「戴冠式の後は『陛下』と呼べよ」
エイルは素早く片目をつぶって見せた。シキは唇を噛みしめ、黙って膝をついた。
「私は、エイル様に生涯の忠誠を捧げます」
「頼りにしているぞ」
立ち上がったシキを嬉しそうに見つめ、エイルは言った。
「私に兄がいて、嬉しく思う」
「エイル様……!」
「行こう!」
エイルは颯爽と顔を上げ、ジルクの部屋を出た。晴れ晴れとした顔のシキがその後についていく。二人とも、もう何も言わなかった。
塔を出ると、兵士がすぐに彼らの姿を見つけ、探していたと慌てて寄ってきた。
「どちらにいらしたのですか」
「すまぬ、心配をかけた。ジルクの塔にいたのだ。……状況はどうだ」
「多少の混乱はありますが、元々は誰もがレフォアの兵士です。殿下に対する戦意などありませぬ。民も、城下へ戻らせました」
「それは良かった。ではまず負傷者の手当てを急げ。それと城や町の復旧作業にかかる時間と金額を算出させろ。それから誰か文官……そうだな、ムルカか、今はイザナハが司祭長だったな。二人とも呼べ。数日のうちに戴冠式を執り行うから準備をしておけと伝えろ。それと」
早足で歩きながら兵に的確な指示を飛ばす若き支配者を見て、シキは胸が熱くなった。人間として、また王として、エイルの成長は目を見張るばかりである。
――エイル様は良き王になられる。それは間違いがない。だが、この世界はこれからどのような歴史を作っていくのか。未来は、誰にも分からない。
シキは立ち止まり、上空を振り仰いだ。青く広い空が広がり、のどかに鳴く鳥たちが横切っていく。シキが空の彼方に見ていたもの。それは遠い過去のことか、あるいは遠い未来のことだったかもしれない。
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