闇払う陽の標

レノアの冬は寒い。

大陸中央部では、雪こそ降らないものの、深々とした冷え込みが大地を包む。主に石で造られた建物は底冷えがし、暖炉は何としても欠かせないものになる。きこりは夏の間、大量に木を切り、薪として売る。これがなければ都市部の人間は冬が越せないのだった。

王宮とても例外ではない。そこらの家とは比べ物にならないほどの敷地と建物を保有するレノア城は、冬の間の薪も、人々のそれとは桁違いである。レノア城の薪置き場は、それだけで数軒の家くらいはあるという。城内にある暖炉は誰もその数を数えた事はないほどで、それらすべてで冬の間中、火が燃やされるのである。

御年十一歳になられるエイル殿下は、冬のとある日、自室でため息をついていた。

「今日も寒いなあ……」

そうは言っても、前述の通り、暖炉に火が絶える事はないのであるが。第二王子であるエイルの部屋は、寝室と前室がつながっており、さらに洋服部屋、食事の支度部屋、側付の者の控室など、いくつかの小部屋で構成されている。エイルが普段くつろぐのは前室で、今も彼が寝そべっている長椅子の前では、暖炉の火がちらちらと揺れていた。部屋の中はそれなりに暖かい。

エイルが寒いと呟くのは、窓の外を見ての事であった。空は白い。高さや広さが分からないほど、全体が真っ白に霞んでいた。茶色く枯れた木の葉が広いバルコニーに散乱し、その上に、ちらほらと白いものが落ちてきている。それらは、バルコニーのタイルに触れると透明な水になってしまう。雪とまではいかないが、みぞれのようなものであった。

「寒そうだなあ」

エイルがもう一度呟いていると、廊下に面した扉を叩く音がした。続いてそっと扉が開き、女官が姿を現す。

「お茶をお持ち致しましょうか」

「ん」

短く言ってあごを上げると、女官は深々と礼をした。立ち去り際に、声をかける。

「今日はシキが来ないようだが」

「模擬試合があるとの事でございます」

女官は控えめな声で告げると、そのまま立ち去った。

「なんだ、つまらん。……こんな天気に模擬試合か。私なら絶対にやらないな」

武芸の稽古が何より苦手なエイルは、呆れたように言う。エイル付きの武官であるとともに緑旗隊の副隊長でもあるシキは、訓練や模擬試合が重要な仕事の一つである。真面目なシキは文句の一つも言わずに勤めを果たしているだろう。だがそれを知ってか知らずか、エイルは「何もこんな寒い日にまでやらずともいいだろうに」と呟いている。

しばらくすると、先ほどとは別の扉が開き、小間使いが銀の盆を持って入ってきた。エイルのいる長椅子の近くまで来ると軽く膝を折り、近くの小さな机にお茶を置く。

「キブール茶にございます」

「ああ」

エイルは礼を言うでもなく、当然と言った調子で視線を投げた。小間使いは、先程の女官と同じように深々と頭を下げ、盆を抱えて立ち去る。こういった静かなやり取りがエイルの日常だった。

キブール茶から、温かな湯気が立ち上っている。優雅な仕草でそれを手にすると、一口飲んでみる。ほっと息をつくと、湿って暖かな息が漏れた。

「あー美味しい」

そう独りごちて、エイルはもう一度口をつけた。それから、ふと何かを思いついたように顔を上げる。ほんの少し考え、いい事を思いついた、とでもいうようににこりと笑う。

「誰か」

エイルの声から数秒で、控室の扉が開いた。エイルより少し年上だろうか、十二、三の少年が近づいてきて、エイルの近くで膝まずいた。

「ジルクに伝えよ。茶を飲んだら行くから、部屋で待つように、と」

「かしこまりました」

側付きの少年は立ち上がり、礼をすると、足早に立ち去った。エイルはそれに目もやらず、一人で何事かを考えている。

塔の最上部にある部屋に入って扉を閉めると、廊下の冷気が閉め出される。エイルはほっと息をつき、奥へと進んだ。

「エイル殿下、お待ち申し上げておりました」

しゃがれたような声で出迎えたのは城の最長老、レノア国の司祭長でもあるジルク老である。権威ある役職にふさわしく、深い紺色のローブをまとい、威厳のある髭は今日も丁寧にくしけずられている。司祭といえば特殊な職業でもあり、文官武官の役とはまた違う、重要な役職なのであるが、エイルにとっては気にもならないようだ。

「ここはなんでこんなに薄暗いのだ、もっと灯りをつければいいのに」

無邪気に言うと、椅子を指差した。そこらはいつも通り、これ以上ないというほど乱雑で、椅子には数冊の本が積み重ねられている。

「おおこれは失礼致しました」

ジルクがすかさず本をどかすと、エイルは満足げに腰掛けた。

「殿下におかれましては、この天候に退屈なされましたかな?」

「ここ数日、外にも出られん。今年の冬は異常なほど長いな」

「その通りでございますな」

ジルクが相槌を打っていると、部屋の扉が叩かれ、続いてそれを開ける音がした。

「おや、もういらしたかな」

「?」

エイルが首を傾げていると、本棚の向こうから一人の少年が姿を現した。その顔を見て、エイルは慌てて立ち上がった。

「兄上」

「やあエイル。ジルクのところへ来ていると聞いてね」

「お会いできて嬉しく思います」

「そう堅苦しく言うなよ。エイルもこの天候が気になって来たのかい?」

エイルより七つも年上の兄王子は、レノア国の次期王として、王道教育を受けている。十七になり、近頃では婚礼の話も出ているという。年は若いが、既に賢才との呼び声が高い。文武両道に通じ、何よりもその人柄は父王と同じく素晴らしいものであるとの評判であった。エイルにとっては優しい兄であり、またいずれは王として自分の主にもなる存在である。憧れと尊敬の眼差しでエイルは頭を下げた。自由闊達に育ったエイルにとって、頭を下げるべき存在は両親を除けば、この兄一人である。

「兄上の仰る通りです。今年は冬が長い。凍月の夜に入ってもう三十五日を数えます。例年であれば少しずつ空気が暖かくなってきてもいい頃……ですが、ご存知の通り天候が悪く……」

「今日はついにみぞれになったな」

シエルがエイルの言葉を継ぎ、エイルはそれに頷いた。

「私も心配していた。普段であれば雨や雪は滅多に降らないのに、今年は何故か雨が多い。それに、エイルの言う通り、凍夜月が長すぎる」

ジルクは兄弟の様子を黙って見ていたが、二人の才に感心して頷いた。

「お二人とも、それで私めのところに来られたのでしたか」

シエルとエイルはそれぞれに頷き、真剣な眼差しでジルクを見つめた。異母兄弟である二人は、見た目はあまり似ていない。兄の方がほっそりとした顔立ちで、エイルはどちらかと言えば丸顔である。シエルの母は彼が三つの時に病死しているが、シエルはどちらかというとその母より父のエイクスに似ていた。エイクスと同じ黒曜石のような瞳と、黒く固い髪である。エイルはと言えば、柔らかく波打った髪と、透き通るような青い瞳が、後妻である現在の王妃マードリッドに生き写しであった。

兄弟と言うと、跡目争いなどで反目し合うという場合が多く見られる。特に母を亡くした兄王子一派と、弟王子とその母である後妻一派が王座を巡って争う、などという話はどこでもよく聞く。だが、エイルの母マードリッドはシエルが王になる事に対し、嫉妬心はなかった。シエルとエイルの年が離れているという事もあったが、どちらかと言えば、エイルを激務である国王の職につかせたくない、というのが彼女の本音であったかも知れない。そんな事から、二人は王の座を争わされる事もなかった。異母兄弟とは言え、彼らは仲良く過ごしていた。ここ数十年は、幸い大きな戦争もなく、安定した治世が保たれている。レノア国の未来は平和に満ちていた。

「それでは、少し見てみましょうか」

ジルクはそう言うと、机の上のものをどかし、一枚の紙を広げた。紙と言っても分厚い羊皮紙である。そこに描かれた文様や文字は、シエルやエイルには読めないものだった。だが、これが何かという事は、二人ともよく知っている。二人の王子は黙ってジルクのやる事を見つめた。

丸まってしまう羊皮紙の隅に重石を置き、次に入り用なものをごそごそと探し回る。ジルクは整理整頓が下手だから、とエイルは思った。いつも何かを探している節がある。そういうのは、占いで見つからないものなのだろうか。そんな事を考えていると、ようやくどこかから目的のものを見つけたのか、ジルクが戻ってきた。丸く透き通った小さな石を、紫に染めた布で包んであるものだ。それを羊皮紙の上に置き、位置を調整する。

「コデムヤジャニマズ、ニレゼンリスマ……」

ジルクがくぐもった声で何事かを呟き始めると、部屋の空気が緊張したように張り詰めた。物音を立ててはならぬ、という暗黙の掟でも言い渡されたかのように、シエルとエイルは動けずにいる。いつもの事ながら、この瞬間は恐ろしいほどにおごそかだ。

しばらくの後、呟きが余韻を残して消え、老司祭は何事もなかったかのように顔を上げた。二人の少年はほうっと息をつく。そして、それまで息を止めていた事に、今更ながら気づくのだった。

「ふむ……吉凶どちらかと言えば、吉、ですな」

「本当か?」

シエルが問う。

「はい。天候は神々の采配でありますから、私ごときが操れるものではございませぬ。ですが、この寒さは長続きせぬだろう、との結果にございます。恐らくは、数日中に風が変わるかと」

「そうか、良かった」

エイルがほっとしたように言う。

「では、父王陛下に進言せねばならんな」

シエルも嬉しそうに顔をほころばせた。

「父王陛下のところへ? 私もご一緒してもよろしいですか?」

「ああ、もちろん構わないよ。一緒に行こう」

「であれば、お伝えせねばなりませんな。少々お待ちを」

そう言うと、ジルクは小さな鐘を鳴らし、伝令を呼んだ。すぐに少年が駆けつけてくる。

「殿下方がお二人で伺いたいとの事だ。ご都合がいいかどうか、陛下に伺ってくるように」

「かしこまりました」

「今日はそれほど忙しくなさってらっしゃらないはずだ。控えの間まで行っていよう」

シエルがそう言い、二人の王子は伝令の少年の後を追うようにして部屋を出て行った。

「あのお二人を見ていると、この国は安泰だと感じる。だが……占いには吉も凶も出ていた。何とも言えん不安を感じる……。この異常気象は何かの前触れかもしれん……いや、まさかな。深読みしすぎか……」

独り言を呟くジルクの顔には、微かな翳りが現れていた。だが力ある司祭ですら、数ヵ月後の大事件は予測出来なかったのである。

風の向きが変わったのは、それから四日後の事だった。ジルクの占いは今度もまた見事に的中したのである。

占いの翌日には降り続いていたみぞれが止んだ。それからというもの、空気が少しずつ暖かくなってきたような気がする。が、決定的になったのは、午後から吹き始めた「風」だった。

それは、誰にでも分かる。突き刺すような冷たさを持った北風が、ある時、頬を撫でるような南風に変わる。冷えた空気が、柔らかな暖かさを持つ。そうして、春が来るのである。

天文台の見張り役も、司祭長ジルクも、文官長も、誰もが一様に頷いた。冬は終わった、と。

エイクスはこれを受け、「年改めの令」を発行させた。かねてから準備してあった令が国中に飛び、町々には札が立てられ、また人々の口伝えで春の訪れと新年の幕開けが大陸を駆け巡った。

一夜明けると、春祭りが大陸中で行われる。新しい年を祝う人々の姿が街頭に溢れた。

「新しい年、おめでとう!」

「今年もどうかよろしく!」

出会う人ごとに言い合う人々の顔は、希望と喜びに満ちている。寒い冬は終わりを告げ、春が来たのである。

真っ白な冬空から、太陽神ハーディスが陽射しを投げかけている。雲の隙間から真っ直ぐに降りる光は、平和の象徴であり、人々の心に希望を与える道標だった。

レノアの一年は、こうして始まる。

レノア歴四三八年。その幕開けは例年と同じく、平和とともに訪れたのであった。

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