過去/現在/未来 −ラックマの植物辞典−

雨上がりの空に、美しい虹がかかっている。広くなだらかな平地はどこまでも続き、視界を遮るものは何もない。空の女神であるマオラは、その澄んだ瞳をいつも以上に輝かせていた。昨日は霞んでいた地平線が、今日はくっきりと見えている。

虹の月になると、雨の月が終わりを告げるのと同時に夏も終わる。四季が豊かなレノアではようやく暑さが和らぎ、爽やかな風が秋麦の穂を揺らす季節だ。

旅人にとっても過ごしやすくなるこの季節、街道を行き来する人々の姿も増える。商品を運ぶ隊商や、職を探すために旅をしている傭兵……彼らの多くは馬や駱駝に乗って、広い街道を旅する。目的地まで多少遠回りする事になっても、それが一番安全な方法だった。

大陸を縦断する街道を南へと下っている四人の旅人も、やはり馬に乗っていた。ただし、馬は三頭。少年と少女が一頭ずつ操り、背の高い青年がもう一頭を操っているが、その馬にはもう一人、青い瞳の少年が乗っているのだった。一見して十2、三歳というところだろうか。

「シキ、まだか?」

陽光に透き通るような髪をかきあげて、少年が後ろを振り返る。手綱を取っていた黒髪の青年が、優しく慰めるように答えた。

「お疲れのご様子ですね、休憩いたしましょうか?」

「ついさっきも休憩したばかりだと思うんだけど」

別の馬に乗っている少女が、呆れ顔で言う。そっくりの顔つきの少年が、苦笑しながら同意した。

「そうだね……あ、あれじゃないかな」

少年が指差した先には、家々の屋根が見えている。彼らはほっと息をつき、馬を急がせた。

オルネントは小さい村ではなく、さりとて大きく発展した町というほどでもなかった。あたりにはのどかな田園風景が広がり、その多くが麦畑だ。麦の豊かな穂が揺れる畑の中に、家の屋根が点在して見える。三頭の馬は、畑の間を縫って町の中心へと向かった。町中へ入っていくと畑の面積は減り、屋根の数がぐんと増える。

街道からそう離れていないこの町には旅人が訪れる事も多く、人口がそれほど多くないにも関わらず、町はそれなりに賑わっていた。今日のような気持ちのいい天気の日には、食堂や酒場の店先でおしゃべりに花が咲いていることも多い。

町の大通り沿いにある家々は、その窓に鉢植えを置くのが最近の流行だった。石造りの建物の窓に、色とりどりの花が咲き乱れている光景は、道行く人々の心を和ませる。女たちはそれを見下ろしながら、うちの花が一番綺麗よ、と自慢に思うのだ。

家々の花が美しい大通りを、一人の少年が歩いている。まだ年端もいかない子供だが、大人びた顔つきだ。鳥打ちの時にかぶるような、短いひさしのついた丸くて平らな帽子を頭に乗せ、真っ白な麻の上着の袖をめくっている。その身体で抱えるには大きすぎるつぼを持ち、余所見もせずに歩いていった先は、食堂だった。中央広場にほど近い店で、他の店と同じように店先に机と椅子を並べている。やはりここでも数人の客がお茶を飲みながらおしゃべりに興じていた。

明るい外から店内へ入ると、暗さに目が慣れるまで少し間が空く。少年が目をこすっていると、誰かが声をかけた。そちらに目をやると、顔見知りの亭主である。

「よお、ヨルク! 今日はどうしたい?」

丸顔の、気のいい親父だ。ヨルクは白い歯を見せてにかっと笑った。

「やあおじさん。いつもと同じさ、酒を買いに来たんだよ」

「そうかそうか、じゃあ今出してやろう。そのつぼにいっぱいでいいんだな?」

「うん、頼むよ」

ヨルクが勘定台ごしにつぼを手渡すと、食堂の親父は軽くそれを受け取り、店の奥へ声をかけた。

「おーい、これを頼む! いつものとおりレオニーをいっぱいだ。なみなみと入れてやれよ! ……さてヨルク、待ってる間にナケル入りのパイはどうだ?」

「うわ、いいの?」

「お前さんはお得意様だからな。ほいよ、さっき焼けたばっかりだ」

ナケルは子供が大好きな木の実で、焼くと香ばしい匂いがたまらない。満面の笑みでパイが乗った皿を受け取ると、ヨルクは端の席について食べ始めた。昼時を過ぎたこの時間、店はそれほど混雑していない。暇を持て余していた食堂の親父は、それを嬉しそうに眺めていた。

と、店先に人影が現れた。見かけない顔であるところを見ると、どうやら旅人のようだ。親父はヨルクに見せたのと同じ、愛想のいい笑顔を客に向けた。

「よお、いらっしゃい」

その四人の客はやはり旅人で、オルネントには初めて来たという事だった。旅人が店を訪れるのはそう珍しいことではなかったが、子供三人を連れた剣士、というのはなかなか珍しい。子供たちは早速、といった様子で食事の席についた。

「……へえ、山脈の南へねえ。子供たちを連れての旅じゃ、さぞかし大変だろうね」

親父は食器を洗いながら、一人で頷いている。

「で? この村にはどのくらいいるつもりなんだい?」

「明日にでも発つつもりなんだ」

連れの子供たちは食事を終え、食堂の席でくつろいでいる。それを見やって、剣士は再び口を開いた。

「実は前に立ち寄った村で、頼まれごとをしたんだ。それがなければ立ち寄る事もなかったんだが……」

「頼まれごとってのは何だね?」

「手紙だ。運び屋が滅多に来ないそうで、南へ行くと言ったらオルネントへ寄ってくれと頼まれてな。モッツィさんとやらを知ってるか?」

「ああ、誰でも知ってるさ。この町で十指に入る金持ちだからな。ちょうどいい、そこにモッツィさんちの下働きが来てるよ。……おおい、ヨルク!」

少年は、その時初めて彼らを見た。入ってきたのは知っていたが、きちんと見てはいなかったのだ。店の客が出入りするのをいちいち注意してはいないし、何よりパイに夢中だったからである。

最初、ヨルクの目に映ったのは、背の高い剣士だった。腰に下げている立派な長剣に、鍛えられた体躯。きっと物凄く腕の立つ剣士なのだろう。けれどその面差しは優しげで、少し癖のある黒髪と、涼やかな緑の瞳が印象的だった。

「何、おじさん」

手招きされて剣士の近くへ行くと、食堂の親父が酒の入ったつぼを返してくれた。少年はそれの代金を支払い、つぼを受け取る。親父が剣士を示して紹介した。

「モッツィさん宛ての手紙を頼まれたんだとよ。屋敷まで連れてってやってくれないかね」

「シキだ。よろしく頼む」

幼い自分に対して、その青年は丁寧に挨拶し、握手を求める。ヨルクは、この人はいい人だな、と直感した。「連れがいるんだ」と言われて振り向くと、三人の子供が目に入った。

その内の二人は、ヨルクよりいくつか年上だろう。はしばみ色の髪と瞳で、気持ち悪いほどよく似ている兄妹だった。それは彼らが双子だからなのだが、ヨルクが知らないのも無理はない。何故なら、この世界には双子というものが存在しないはずだからである。

もう一人の少年は、ヨルクとたいして変わらないように見えた。色白で、ずいぶんひ弱そうだ。ちょっと見には女の子にも見える容貌で、大きな青い瞳は意思が強そうな輝きを放っている。少年の波打つ髪は、そこらじゃあまり見ないような水色だった。

ヨルクが三人に向かって自己紹介すると、色白の少年がふんぞり返ってこう言った。

「私はエイルだ。以後見知りおけ」

見た目と全く違う、その尊大な態度に、ヨルクは息を呑んだ。何も言えずに目をしばたいていると、そっくりな顔つきの二人が慌てて口を挟んだ。

「いやごめん、何でもないんだ、よろしくって言いたいんだよ。あ、おれはクリフ」

「私はクレオよ。よろしく、ヨルク。あの子の言うことは聞き流してね」

この兄妹たちも、剣士と同じく気持ちのいい人々だ。けど、エイルとかいうあの少年はいけ好かない。ヨルクはそう思った。しかし口には出さない方がよさそうだ。四人を連れて食堂を出ると、ヨルクは自分の主人の屋敷へ彼らを案内した。

石畳の中央広場では、古い噴水が水しぶきをきらめかせていた。親子連れや恋人たち、退屈そうな老人などがうららかな午後を楽しんでいる。広場の北側には、礼拝のための聖堂があった。扉は大きく開放され、誰でもが自由に出入り出来るようになっている。中には、背の高い台がいくつか並んでいるだけだった。数人の男女が台に肘をつき、何かを祈っている。聖堂は、ごく最近修復された事が一目瞭然だった。

「モッツィさんが修復のお金を出したんですよ」

ヨルクは、少々自慢げに言う。エイルがそれを鼻で笑った。

「お前が払ったわけじゃあるまい」

「そりゃ、そうだけど……」

なんていじわるな物言いをするんだろう。ヨルクが唇を尖らせていると、クリフが肩を叩いた。

「ごめんね、あんまり気にしないでいいから」

小さな声で耳打ちする。ヨルクは曖昧な笑顔を浮かべて頷いた。聖堂の脇を通り抜けていくと大きな門があり、木々の向こうに赤い屋根が見える。

「もうすぐです」

ヨルクはその屋根を指し示して言った。彼らがそれを確認して歩き出したとき、ヨルクは、ふと道端に視線を落とした。

「これは……」

そう言って手にしたのは、小さな紫色の花だった。花の中心は透き通るような白で、花弁の先へ行くほど紫が濃くなる。そこらでよく見かけるような花ではなかった。

「可愛い花ね」

話しかけてきたのはクレオと名乗った少女だった。少女とは言え、ヨルクより年上で、背も高い。彼女はヨルクの肩越しにその花に見入っていた。

「それ、摘んでいくの?」

「珍しい花だし、綺麗だから……」

「そうね、でもお家に飾るにはちょっと小さすぎない?」

首を傾げるクレオ。ヨルクはそれを聞いて、はにかんだ微笑を浮かべた。

「花瓶に飾るんじゃないんです。これは、料理の添え物にしようと思って」

クレオはなるほど、と手を打った。わざとしてみせた大袈裟な仕草に、ヨルクは思わず噴き出す。それから二人は顔を見合わせて笑った。

「おい何してるんだ、早く案内しろ」

道の少し先で、エイルが両手を腰に当てている。クレオは嘆息し、ヨルクは慌てて駆け出した。

モッツィの屋敷は、緑に囲まれた大邸宅だった。背の高い、立派な門から更に歩かなければならない。門から屋敷の玄関までの道には白い小石が敷き詰められているし、緑の芝生や美しい花壇にも、手入れが行き届いていた。玄関前には馬車回しがあり、屋敷には小さいながら塔もある。屋敷というよりは、ちょっとした城のようだった。

ヨルクが壮麗な玄関扉を叩くと、洗練された仕草で執事が扉を開けた。が、ヨルクを見て呆れたように言う。

「何だ、ヨルクか。裏から入りなさい」

「すいません。この人たちを案内してきたもんだから、こっちからのがいいと思って」

「誰だね?」

「モッツィさんに用があるって……。いつも僕が行く食堂ありますよね。あそこの親父さんが、モッツィさんとこへ連れてってやれって言うんで、案内してきたんです」

「そうか」

執事は、目の前にいる人々を観察した。その時間はもちろんとても短いものだったが、彼にはそれだけで様々な情報を読み取る事が出来た。何故ならそれが彼の仕事であるからだ。

旅人風の四人。その内の三人はまだ子供なので、目の前にいる男が連れて歩いているのだろう。男は背が高く、鍛えられた体を持つ事は服の上からでも分かる。着ている服はそれほど質のいい物ではないが、趣味がいい。着こなしもきちんとしている。腰に挿した長剣は服とは違い、超一流品だと思われた。執事はその事に小さな違和感を感じたが、名のある剣士が身分を隠しているのかも知れないと思った。

「シキ=ヴェルドーレと言います。我々は南への旅をしてるのですが、手紙を渡すよう頼まれまして……。突然で失礼とは思いますが、食堂の主人に紹介されまして伺いました」

口調も丁寧で、落ち着いている。執事は、信用出来ると判断した。

「ご主人様に伺ってまいります、少々お待ちを。ヨルク、お前はもういいよ」

ヨルクはその言葉に頷き、シキたち四人に一礼すると、つぼを抱えてその場を去る。しばらくして戻ってきた執事は、四人を屋敷の中に招きいれた。

ヨルク少年は料理人になりたかった。物心がついた頃から、それがヨルクの夢だったのだ。

彼の生まれ故郷は鉱山のある町で、一年中寒く、暮らしにくいところだった。両親は貧しく、大勢の子供がいて、食べ物はろくになかった。ヨルクは八人兄弟の下から二番目で、自分の食べ物は自分で見つけろと言わんばかりの環境で育った。十歳になるより前に、両親はヨルクとすぐ上の兄を奉公へ出した。ヨルクは行った先の貴族の家で行儀作法を習ったが、十二になるかならないかの頃、領内で反乱があり、命からがら逃げだした。そして辿り着いたオルネントで、モッツィに雇われたのである。ようやくまともな生活が出来るようになったヨルクは、子供の頃からの夢を思い出した。

――料理人になりたい。いつか自分の作った最高に美味しい料理を、腹を空かせた子供に食べさせてやるんだ。

ヨルクはそう、決心したのである。モッツィは金持ちで、料理人はいくらでもいる。今はまだ下っぱだったが、ヨルクはいつか料理人になるべく、修行の日々を送っているのだった。

今日もヨルクは夕食の下ごしらえを言い渡され、裏庭で野菜の皮むきをしていた。屋敷に住む人数分の下ごしらえだから、その量は大変なものだ。しかしヨルクは鼻歌を歌いながら、それを軽々とこなしていった。以前はよく指を切っていたものだが、もうそんな事はない。赤や緑や黄色の野菜が、ヨルクの手の中でくるくると踊るように動き、皮がむかれていく。ヨルクは大きな桶に水を張り、皮をむいた野菜をそこで洗った。

料理の添え物に使う小さな花も、ヨルクが用意するようにと言いつけられていた。屋敷への途中で摘んだ、小さな野の花を水で洗う。紫の花弁がきらきらと水を弾いて美しい。それらを一つ一つ、丁寧に拭いていると、執事が現れた。

「料理の仕込みは大体終わったかね?」

「ええ、もうこれで終わりです。あとはこれ全部、中へ運ぶだけですから」

「そうか、いつもご苦労な事だな。……さっきのお客さんだが、今晩泊まられる事になった。今日の夕食は四人分、増えるからな」

「はい、分かりました! 料理長に言っておきますね」

はきはきとしたヨルクの返事を聞くと、執事は黙って頷いた。そこらのものを片付けながらヨルクが尋ねる。

「あのお客さんたち、旅をしてるんだそうですね」

「ああ、南へ行かれるそうだ」

「ふぅん……。偉そうな子供に、そっくりな兄妹、それに剣士かぁ。変な組み合わせですね。どういう関係なんだろ」

「余計な事を詮索するもんじゃない」

「はぁい」

執事の叱責に首をすくめ、ヨルクは野菜のかごを持ち上げた。

「じゃ、僕これを運んじゃわないといけないので」

「モッツィさまが、ヨルクが来てから食卓が華やかでいいと喜んでいらっしゃったぞ」

「本当ですか! へへへ、嬉しいな」

「いつか料理人になるのが夢だと言ってたな、頑張るんだぞ」

「はいっ!」

高い山などがないレノアの平野では、空はどこまでも広い。目に入る景色の上半分はすべて、空だ。その空を真っ赤に染めて、夕陽がゆっくりと、沈んでいく。大きく、ぼやけたように見える太陽。渡り鳥のフィーピーが、高く澄んだ声で鳴いている。そのくすんだ黄色の羽も、今は黄昏に染まっていた。

日が落ちると、家々の窓に明かりがともる。それは暖かで、穏やかな光だった。オルネントではほぼすべての人間が農作業に一日を費やす。この時期は収穫も近づいているので、尚更忙しかった。彼らは空が暮れなずむ頃、ようやく一日の作業を終えて家へ帰る。男たちを迎えるのは家々の灯りと上手い食事、そして女たちの笑顔だった。

モッツィの屋敷も、夕食の時刻である。大きな食堂には長い机が用意され、染み一つない真っ白な布がかけられていた。机の上には、いくつものろうそくが灯されている。中央には色とりどりの花が生けられた花瓶が置かれ、かぐわしいが控えめな芳香を漂わせていた。

主人の席は決まっている。もちろん、そこに座っている壮年の男が屋敷の主人、モッツィである。少々太ってはいるが、健康そうな顔つき。ふさふさとした口ひげと、そろそろ薄くなりかかっている頭髪が対照的だ。上等そうな服は、意匠が凝らしてある。

夫人を早くに亡くし、子供もいないモッツィは、普段は一人で食事を取るのだった。彼にとってそれは日常茶飯事だったが、それでも時には一抹の淋しさを覚える事もある。それゆえにモッツィは、客人をもてなすのが好きだった。たいした客でなくとも、彼は必ず夕食に誘う。今回訪れた客人も、当然食事に誘った。四人の内の一人、黒髪の青年シキは、すぐにここを立ち去ると言ったのだったが、モッツィはぜひにと引き止めた。どうやら三人の子供たちはとどまりたかったようで、結局、シキが折れる形になった。

「これほどきちんとした食事は久しぶりだ……」

青い瞳の少年、エイルが感慨深げに言うのを聞き、モッツィは満足げに微笑んだ。

「喜んでもらえるなら、私としても嬉しいですよ。うちの料理人は腕がいいですから、期待して下さい」

執事によって食前酒が運ばれ、杯が交わされる。クリフとクレオの兄妹は、食事のしきたりが分からないと言ってびくついていた。が、食事が始まってしまえばそんな事も忘れたかのように夢中で口に運んでいる。シキとエイルの方はと言えば、どこで習ったものか、洗練された仕草で食事を楽しんでいた。

主菜はペスベク鳥を柔らかく煮たものだった。この鳥の身は引き締まっていて、旨みが濃い。高級料理というほどでもないが、そうちょくちょく食卓に上がる料理でもなかった。クリフとクレオに至っては、食べた記憶も数少ないらしく、目を見張っている。

彼らが料理に見入っているのは、ペスベク鳥のせいだけではなかった。その盛り付けが見た目にも素晴らしく、家庭で食べられるものとは全く違っていたからである。添えられた温野菜はどれも形を綺麗に整えてあり、煮崩れしない限界まで柔らかく煮込んであった。ペスベク鳥は骨つきであったが、それが形よく交差するように盛られている。それらの周りを甘辛いソースが芸術的な曲線で飾っていた。しかし何より彼らの目を引いたのは、皿のふちに添えられた小さな花だった。

「可愛い花だね。サナミィあたりじゃ見た事ないなあ」

「なかなか珍しいな。この紫が、見事にソースの深い色を引き立てている」

クリフとシキが言い交わしている。しかし主人であるモッツィの顔は青ざめていた。

「これ、さっきヨルクが摘んだ花だわ」

クレオはその言葉を、特に気にもせず、あっさりと口にしたのだったが、それに対する反応は思った以上に激しいものだった。

「それは本当か!」

モッツィの剣幕にクレオは唖然とし、それからうろたえた。重ねて大声で問いかけられ、怯えながらも頷く。シキとクリフは首を傾げながら顔を見合わせていた。エイルは黙ってその花をいじり回している。

「ヨルクを呼べ! 今すぐだ!」

モッツィは執事に向かってそう叫ぶと、勢いよく椅子に体を沈め、大きく息を吐き出した。無言ながら、何かを問いたげな表情の双子に向かって、モッツィが苦々しく説明する。

「これは美しい花だが、毒草なのだ。花弁も、茎も、根っこですら、猛毒があるのだよ。まさか口にしてはいないだろうね」

「え、ええ……」

廊下を走る軽い足音がし、両開きの扉が押し開けられた。ヨルクは息を切らして扉を開け、それから気づいたのか、慌てて帽子を取った。

「あの、あの僕……えと……」

モッツィが黙っているので仕方なしに口を開いたが、その声は小さく、その上しどろもどろである。結局何を言っているのか分からないまま、ヨルクの声は途切れた。部屋の中に、重たい沈黙が広がっている。

「ヨルク。料理の添え物はお前に任されているそうだな」

「はい、あの、料理長がそう……」

「では、この花を今日の主菜に飾ったのは、お前一人の責任だな」

「……はい」

「これがどんな花か、お前は知らなかったのか」

「え……」

「これは毒草で、料理の添え物などには使えん代物だ!」

ヨルクは茶色の瞳を見開いたまま絶句した。モッツィは怒りの表情をあらわにし、唇の端を引きつらせている。

「主人の料理に毒草を添えるとはどういう事だ。それに加え、今日はお客様もおるのだぞ。我々を殺す気か!」

「す、すいません、僕、そんなつもりは……」

「謝って済む事だと思うか。……貴様は料理人になるのが夢だなどとぬかしておったな。それも今日限りだ。荷物をまとめてこの屋敷を出て行け」

「ええっ、それじゃ……」

「お前はくびだ」

にべもなかった。雇われている者は主人の命令に従うのが当たり前である。反抗は許されない。ヨルクはまるで釣られた魚のように口を開け閉めしたが、何かを言う隙さえ、彼には与えられていなかった。モッツィは気分が悪い、と呟き、ナフキンで口を拭っている。少年はしばらくその場に立ち尽くし、それから肩の力が抜けたようにがっくりとうなだれた。

「早く出て行かんか、馬鹿者が」

モッツィが吐き捨てたとき、誰かが口を開いた。

「馬鹿者はお前だ」

食堂にいた者すべてが声の主を振り返る。声の主は両腕を組み、ふんぞり返った姿勢で彼らを見返した。

「い、今、私を馬鹿者と言ったのは……? はは、まさかな……」

「私が言った。聞こえなかったか? それならもう一度言うが、馬鹿はその少年ではなく、お前の方だ」

モッツィの顔色が変わり、赤を通り越して紫に染まった。

「ばっ、ばっ、馬鹿とはどういう事だ! いくら客でもそのような暴言を許すほど私は寛大ではないぞ!」

「お前の許しは必要ない。いいか、この花には確かに毒がある。お前が言ったように、どの部分にもだ。だが、口にして死ぬようなものではない。まあ、これを丸ごと……そうだな、一度に十や2十も食べれば死ぬかもしれん」

「ば、馬鹿な……しかし私は確かに、誰かが言っていたのを聞い……」

「いつ、どこで、誰が? それすらはっきりせぬような知識を鵜呑みにするとは」

「ではお前はどこでそれを知ったと言うのだ」

「本だ」

「本? で、ではそれだって本当かどうか分からぬではないか!」

「ふん、つまらぬ事を。いいかよく聞け――」

そう言い置くと、エイルは早口で続きをまくし立てた。

「――その植物事典を書いたのはモレスト=ラックマ、私の植物学の教師だった男だが、本人はこの花の砂糖漬けが好きで一日に一つしか食べられぬのをつまらながっていた。もちろん数を食べれば有毒だからだ。そこらに咲いている花ではない、というのも理由の一つだ。分布自体は広く、レノア全域だが、数年に一度しか花を咲かせないのだ。しかも決して群生しない。咲く季節はちょうど今時分でわずか一週間ほど。手に入れるのも困難な花だが、モレストは私にも時折その砂糖漬けをくれた。もちろん私は食べたし、美味かった。どうだ分かったか、その花を一つやそこら口にしたと言って毒になるような事はないのだ!」

と、それだけをほとんど息継ぎもせずに言い切り、エイルはモッツィに突きつけていた指を下ろした。ヨルクとそうたいして年も変わらぬような少年は、満足げな笑みを浮かべ、ミコル酒の入った盃を手にしている。モッツィの口は半開きになり、両目はただ瞬きを繰り返していた。

「問題はないようですね」

シキの静かな声が、事態を収拾させた。モッツィは何かを口ごもり、咳払いをし、それからヨルクに頷いてみせる。ヨルクは目を輝かせ、体を大きく二つに折った。

「エイルって……物知りだよね」

クリフが感心したように言う。クレオは肩をすくめてみせた。

「ま、そこらへんだけは認めるけどね」

「もってまわったような言い方だな、何が言いたい」

「なんだ、聞こえてた?」

「私に向かって何と言う失礼な口の利き方だ、この私を誰だと思っているのだ」

「ふーんだ」

「この……!」

クレオとエイルはいつものごとく言い争いを始め、クリフとシキはそれを苦笑しながら見守っている。モッツィは、もう今夜は早く寝てしまおう、と思いながら、黙って食事を続けた。

あくる日の早朝、空が明け染める頃に、四人は再び旅立っていった。

どこから来たのかも、どんな目的で、どこへ行くのかも、分からない人々。そんな旅人に出会うのは、珍しい事ではない。ことに、このオルネントのような街道近くの村には、そういう旅人がしょっちゅう訪れる。だからヨルクは、今までに出会った旅人のほとんどを覚えてはいなかった。けれど、彼らの事は忘れないだろう、とヨルクは思った。特にあのこまっしゃくれた、透き通るような髪の少年の事は。

「また、会えるでしょうか」

ヨルクの問いに、執事が答える。

「恐らくもう2度と会わないだろうな。だがお前が必死に働き、いつかこの大陸に名を轟かせるような料理人になったら、彼らがお前の店にやってくるかも知れん」

「……僕、頑張ります!」

モッツィが屋敷へ帰ってしまった後に、壮年の執事と少年の料理人見習いが立ち尽くしている。二人は、旅人の姿が道の向こうへ消えるまで、見送りの手を下ろす事はなかった。

空は今日も穏やかだ。西の彼方には、夜の名残りの薄雲が広がっている。それは明けていく空に紫色の筋を残し、ほんの少しずつ消えていく。やがてそれらはすべて消え、今日という一日が始まる。涼やかな風が、豊かに実った秋麦の穂を優しく撫でた。

彼らの旅は続いていく。四人は南へ、ヨルクは自らの夢へ向かって。道は遠くとも、いつか辿り着くだろう。彼らの果て無き旅は、今日も、続く。

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