狂熱の骸

赤ん坊が門の前に捨てられるのは、そう多い事ではなかったが、珍しい事というほどでもなかった。その門の中には大きな武道の鍛錬場があり、大勢の強者が集う屋敷があり、年老いた心優しき指導者が住んでいたからだ。戦災などで両親を失った幼い子供を引き取る事もあったのだから、ここならば安心、という親がいても不思議ではない。実際、子供を捨てていく親が、一年に数組はいたと言う。俺も、捨てられた赤ん坊の一人だった。

出身地や両親も知れず、行く所はない。道場にはそんな俺のような子供がたくさんいた。そいつらと同じく、俺も、当たり前のように道場で生活していた。

俺らのような孤児に与えられるのは質素な食事とぼろの服だけだったが、少なくとも寝るところはあったし、俺たちは幸せだった。地方領主の出資で賄われていたのだと思うが、詳しい事は分からない。

領主は師匠を気に入っていて、道場の強者同士で試合をやらせたりしていた。良くは知らないが、たまに小さな娘を連れて道場へ来ていたのは覚えている。人の良さそうな顔をしていたが、貴族らしく、いつもふんぞり返っていた。

幼い頃の事はほとんど覚えていない。記憶に残っているのは、道場で師匠から「鍛錬に励め」と言われた時の事くらいだ。

確かあれは五つかそこらの事だったと思う。寒かった冬のある日、俺を含めた大勢の子供が道場に集められ、固い床に座らされた。「兄」と呼んでいた先輩たちが前の方に並び、「弟」と呼ばれていた俺らがその後ろに並ぶ。しばらく待っていると師匠が現れ、唐突にこう言った。

「鍛えよ」

兄たちは一斉に頭を下げ、俺たち小さな子供も、訳の分からぬままに頭を下げた。

師匠はもうかなり年老いていた。膝や腰も曲がっていて、白い髭は長く垂れ、顔や手も皺だらけ。でも兄たちが尊敬してやまないのだから、きっとすごい人なのだ、と俺たちは思った。師匠はしわがれ声で続けた。

「生きていくために、強くあれ。己を鍛えよ。体を鍛え、技を鍛え、心を鍛えよ」

その日以来、俺たちは鍛錬を始めた。

鍛錬は早朝から始まり、日が暮れても続く。行くところもない俺たちは、道場に止まるために鍛錬を怠るわけにいかなかった。辛くて逃げ出したいとこぼす者も多いが、俺は鍛錬が嫌いじゃなかった。住処と食い物のためだけに辛い試練に耐えている、という風に思った事はない。純粋に、自分が強くなっていく、昨日出来なかった事が、少しずつでも出来るようになっていくのが楽しかった。

それから何年かの時が流れ、俺はずいぶんと力をつけた。同年輩の奴らよりも、成長が早かったのは間違いがない。何故なら、師匠に個人稽古をつけていただける十数名の中で、俺一人が幼かったからだ。

ある時、稽古の後で俺は師匠に呼ばれ、お部屋へ参上した。いくら個人稽古をつけていただいているとは言え、こんなに近しく話をして下さったのは初めてで、俺は緊張していた。師匠が、ゆっくりと問いかける。

「この道場が好きか?」

「はい、師匠!」

「鍛錬は好きか?」

「はい、師匠!」

躊躇う事なく答えた俺に、師匠は目を閉じ、笑みを浮かべた。

「まだ幼いというのに、鍛錬は上の者と同じ事をやっている。……辛い事はないか?」

「ございません、師匠!」

「ふふ、お前はいつも同じだの」

「はい、ししょ……はい?」

背筋を伸ばして答えようとし、聞き返した俺に、師匠は声をあげて笑った。珍しい事もあるもんだ。

「良い。その心根が気持ち良いのだ」

「光栄です、師匠!」

ゆっくりと立ち上がった師匠は子供の俺より少し背が高いくらいで、兄たちから比べれば、本当に小さなおじいちゃん、という感じだ。でも体の大きさは力と比例しない。それを俺は身をもって知っている。何しろあの屈強な兄たちが、師匠の手にかかればころんとひっくり返ってしまうのだから。

ついておいで、と言う師匠に導かれ、部屋の奥にあるもう一つの部屋へと、俺は足を踏み入れた。師匠の部屋ですら初めて入ったので、その奥に入るのははばかられたが、師匠が手招きをするので、緊張しつつも入っていく。奥の部屋は師匠の寝所になっていた。木の台を寝台にし、薄い布団がきちんと敷いてある。もっと豪華な布団にすればいいものを、と思ったが、これも鍛錬の内なんだろう。

師匠が横の壁を押すと、重い石がこすりあわされる音がして、壁がゆっくりと口を開けた。驚くなかれ、その中には数え切れないほどの剣が並んでいたのだ。

「どれでも一つやろう。どれがいいかな?」

師匠に聞かれ、俺はしどろもどろになった。そんな、まさか師匠の剣を賜れるなんて、考えもしない事だったからだ。

「え、いやあの、俺、いや私は……」

目をきょろきょろとさせていると、ふと一本の剣が目に留まった。中振りなのだろうが、俺にはまだきっと大きいその剣は、何の変哲もなさそうな顔で台の上に納まっていた。だが、俺にはその剣が限りない力を秘めているように思えた。

「師匠、これは……」

俺がおずおずと尋ねると、師匠は片眉を上げて仰った。

「ほほぅ、それが気になるか。いい目じゃ」

「すごい剣なのですか?」

「力のある者が持てば、その真価を発揮すると言われておる剣じゃよ。心技体の一つでも欠けておると、魔性を発揮するそうな。きちんと使いこなせる者はなかなかおらんだろう。……ふむ、お前には向いておるかもしれん」

「……」

「……兄たちに負けると悔しいか」

俺は無言でその剣を見つめていたが、師匠の言葉で我に返った。

「はい、師匠」

「その悔しさを力に変えるのは大事な事じゃ。だが、それでは今より強くなれん」

「どういう事でしょうか」

「真に強くなりたければ、怒りで剣を振ってはならん」

師匠はそれ以上何も言わず、一振りの小さな剣を俺に渡した。俺は、師匠の言葉を胸の内で繰り返す。

「あの剣は、お前にはまだちいとばかし早い。技は十分じゃ。体がちと足りん。それに何より、あの剣は心が強くなければ使えんよ」

「私はまだまだですか」

「そうさの……もう少し、じゃな」

いたずらっ子のような笑顔を浮かべる師匠に、俺は何とも言えない気分になった。師匠に渡された小剣を有難く頂き、今後はますます鍛錬に精を出そう、と俺は思った。

――心、技、体を鍛えて、あの剣にふさわしい強者になりたい。

その日、俺は兄たちの言いつけで、町へ出ていた。道場の出資者でもある貴族が仲間を連れてやってくるんだそうで、食事の支度をしなければならない。俺は数人の弟たちを連れて、買い物に行ったのだった。

荷物を抱えて道場と屋敷へ続く門をくぐった時、嫌な予感が胸をよぎった。いつもと違う匂いがする。

「何かがおかしい」

「え?」

弟たちは気づかないのだろうか。

「お前たちはこれを道場へ運べ。そしてそのまま待機していろ」

「え、でも……」

荷物は屋敷へ運ぶようにと言われていたが、おかしな気配は屋敷の方から来る。

「いいから。屋敷へは来るな」

言い捨て、持っていた袋を弟の一人に押し付けると、俺は屋敷へと走った。

おかしな匂いの正体には、すぐに気づいた。

……これは、血の匂いだ。

近づくほどに、濃くなっていく。

一体、何が起こったんだ……。

俺の不安が増す。

道場から走る事しばし、辿り着いた屋敷の表門は、血に濡れていた。吐き気に襲われたが、無理に飲み込んだ。あたりに人気はなく、音もしない。嫌な静寂が俺を包む。

師匠から頂いた剣を抜き、そっと中へ入る。気配を殺しながら廊下を伝っていくと、大広間の方で声がした。

「他愛もない……つまらねえ!」

続けて、身の毛がよだつような笑い声が響く。あれは、あの声は、数年前に破門された兄だ。強すぎたあまり、己の力を過信し、道を外した。師匠に破門された後、姿を消したと聞いていたが……。

広間の中を覗いて、背筋にぞっと寒気が走る。

そこでは俺がかつて見た事のない惨状が繰り広げられていた。兄たちがいたるところに倒れている。赤黒い血がそこら中に飛び散り、ものすごい臭気が立ち込めていた。

数人の男が部屋の中央に立っている。その中央で狂ったように笑っているのは、思った通りの人物だった。

……突如、体中の血液が沸騰した。

「師匠!!」

そいつは、師匠の体を片手で持ち上げていた。両手がだらんと垂れ、首がおかしな方向に曲がっている。その目が薄く開き、口から滴る血と共に小さな声が漏れた。

「来てはならん……」

「まだ生きていたか」

男はそう言うと、腕を上げ、力を込めた。

「やめろッ!」

俺が叫ぶのも聞こえないのか、それとも聞いていても無視したのか、奴は空いていた手を加え、師匠の喉を潰した。師匠の目がかっと見開き、口から鮮血が漏れる。俺は口を開けたまま、硬直した。身体が震え、頭が急激に熱くなる。

「偉そうにしやがって……ひ弱なじじいめが」

「師匠は弱くなどない!」

思わず叫んだ時、そいつの周りにいた男たちが三人、俺に向かってきた。試合や鍛錬などとは全く違う。余計な言葉は何一つ言わず、素早い動作で腰の剣を抜き、俺の即死を狙って胸を突こうと突進してくる。反射的に飛びのき、手にしていた剣で一人の腕を切る。その男は怪我を物ともせず、剣を持ち替えた。

「死んだ老いぼれに肩入れしても意味がないだろう。すぐにお前も殺してやる。……最初から皆殺しの予定だからなぁ!」

けたたましい笑い声。あいつは狂っている。だが、異を唱える暇もない。いく振りもの剣が俺に迫っていた。このままでは逃げ切れない。俺は身を翻した。危うく死ぬところだったが、間一髪で逃げおおせる。

「待て!」

男たちが追ってくる。振り向く余裕もないまま、俺は廊下をひた走った。

――師匠が……嘘だ、まさか、そんな……あの強い師匠が……!

さっきの光景が、悪夢が、目に焼きついて離れない。何かが渦まき、うねりを巻き起こす。全速力で走るのと相まって鼓動が増し、否応なしに息苦しくなる。胸は早鐘のように鳴り、頭の中は白く光り、痺れるような、鈍い痛みにも似た感覚が体中を締め付けていた。

屋敷内では俺に分がある。だが、奴らの足は早く、いずれは追いつかれるのが目に見えていた。俺の足は無意識の内に師匠の部屋へと向かう。部屋に飛び込むと、貴族の娘か、小さな女の子が泣きじゃくっていた。隠れていたものか、逃げ遅れたのか……だが俺には構う余裕もない。奥の寝所へ駆け寄り、壁を開いた。あの剣が、鈍く光っている。ひったくるように台から外し、廊下へ出ようとした時、男たちが部屋へと入ってきた。

「どこへ逃げるというんだ、ええ?」

奴が、血に濡れた両手を広げて笑っている。その目には狂気の光が宿っていた。食いしばった歯の間から、憎しみの言葉が漏れる。

「師匠は強いんだ……お前など、勝てるわけがない」

「さっき見たものが信じられないか。哀れだな。あのじじいは俺が殺したよ。ああ、間違いなく、この手で捻り殺してやったのさ!」

言葉と同時に、男たちが俺に向かってきた。剣先が光る。それらをことごとくかわし、俺は一気に二人を沈めた。先ほどまでとは全く違う。体は羽のように軽く、奴らのすべての動きが手に取るように見えた。奴らの動きは鈍く、まるで水の中を動いているように重そうだった。持ち上げた時、大きいと感じた剣は、驚くほど手に馴染み、まるで自由意志を持っているかのように自在に動く。驚愕の表情を浮かべた残りの男たちも、すぐに血に沈んだ。

――怒りだけで剣を振ってはならん。

師匠の言葉が、閃光のように光った。が、湧き上がる熱い波が俺を支配し、操った。

「そ、その剣は、まさか……」

「うおおおおおおお!!」

奴の言葉が終わるか終わらないかの内に、俺は剣を叩きつけた。受けようとした剣をどうやってかわしたのかも分からない。俺の目には、奴の脳天に打ち込んだ剣の鈍い輝きだけが映っていた。

どれだけの時間が流れたのだろうか。

部屋にはかすかな泣き声を除けば、静寂が満ちていた。

床にへたり込んでいた少年は、ふと我に返ったのか、顔を上げた。ゆっくりと手を見る。そこには血に濡れた剣が、鈍く光っていた。

床や壁、少年自身も朱に染まっている。

近くにはかつての兄弟子。抜け殻となった男の目は、大きく見開かれたまま。だが、あの熱狂的な激しさは失われている。

部屋の片隅に、震える少女。泣き声はその子のものだった。

剣と、死体と、泣きじゃくる少女。少年はそれらを順に見つめる。そして長い間、ただ黙っていた。

やがて。

少年は無言のまま立ち上がり、部屋を出る。

屋敷を出て、門への小道を歩いていると、道場の扉から、幼い弟弟子たちが覗いた。誰もが一様に怯えた目である。彼を見た途端、弟たちは小さな叫びを上げて顔をひっこめた。

ゆっくりと日が暮れる。

少年は、門を出た。

死の匂いと、少年の形相に恐れる門弟たちを残し、滴り落ちる血の滴を大地に染ませて。

彼が引きずる大きな剣は、ただ鈍く光っている。

……その後、少年の行方は杳(よう)として知れない。

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