帰る場所

果てしなく広がる青空はどこまでも青く、澄んでいる。今日も一日良い天気だった。この季節、ここらでは滅多に雨が降らぬから、大概の日がこういった天気なのだが、やはり晴れの日というのは気分がいいものだ。しかし、見上げた空には細い雲が幾筋も流れ、上空の風の強さを教えてくれている。

――夜半過ぎには雨が降るかもしれんな。

長く旅をしていると、雲の流れ一つでも天候くらいは読めるようになる。俺は早いところ目的地へ辿り着こうと愛馬の首を優しく叩いた。

左手には緩やかな山脈が続いている。街道の石畳は、我が故郷ギヤレスクへ導いてくれる道標だ。旅の目的を果たし、故郷に帰るために、どのくらいこの道を進んできたのか。この前いつまともな食事をしたか? それすら忘れるほど長い間、野宿を重ねてきたが、それももう間もなく終わる。各国を渡り歩く間に色々な事があった。よその国の戦いに身を投じた事もあったし、金のために剣を振った事もあった。だがすべてはギヤレスクのため、忠誠心のために俺はひたすら耐えてきたのだ。

遠くに霞む城下町。ようやく辿り着いた。安堵のため息が漏れる。三十も半ばの身体は、お世辞にも若々しいとは言えない。疲れが重くのしかかるようだったが、それよりも体の奥から湧き上がる誇り高い気持ちが俺を高揚させる。城下町の中央にそびえる王城。丸いドームと尖った尖塔とが織り成す美しい輪郭。一番高い西の塔の頂上にたなびく旗が目に入った瞬間、俺は唇を噛み締めた。

――ああ、俺は帰ってきたのだ。

我が城に、我が故郷に帰ってきたのだ。長い時間がかかった。俺はついに帰ってくる事が出来たのだ。涙すら浮かべそうになって、慌てて目をこすり、もう一度、先ほどよりずっとはっきり見えるようになった旗を目に焼き付けようと顔を上げた。

西の塔は高く、澄み切った空にくっきりとその姿を浮かび上がらせている。そしてその頂上には我が主の誇り高い国旗が……金に縁取られた青い……ん?

「なんだあれは!」

驚愕で見開かれた俺の両眼には、塔の先端で黒々とした旗が風にはためいているのが映っていた。

「やっていられるか!」

勢いに任せて銅の杯を振り下ろす。満たされていたエールが辺りに飛び散るが、そんな事に構ってはいられない。俺は目の前の、以前の同僚を睨みつけた。同い年のはずだが、中年のおやじに見える。俺ももうこんな風なんだろうか。それにしても……。

「度が過ぎた冗談だ、おい聞いてるのか、リゲル! 城が乗っ取られたなどと、そんな戯言を俺が信じるとでも思っているのか!」

「落ち着け、レオリック」

「これが落ち着いていられるか! いいかリゲル、俺はなぁ、陛下から直々に頼まれて! はるか東まで旅をしたんだ! 何年かかったと思っているんだ! それが、ようやく帰ってきたら城は隣国の手に落ち、王族の血は途絶えているだと! 我が騎士団は何をしていたんだ、何を!」

「信じられぬのも無理はないが、既に解散している」

「ふざけている! なんて事だ……!」

俺はまだ半分以上入っているエールを飲み干した。腹の立つままにもう一度机に叩きつけたつもりが、そこには机がなく、勢い余った俺の体は椅子から落ちる。あたりの客の迷惑げな顔やリゲルの心配そうな顔は、俺の神経を逆なでするばかりだ。

「いいか、俺はなぁ……」

悔しさや怒り、諸々の感情を表現しようとしたが、舌がもつれ、どうにもならない。立ち上がろうとしたが、腰から下がなくなったかのようで、俺は再び床に座り込んだ。急に視界が狭くなり、酒場のざわめきが遠くなっていく。俺の意識はそこで途切れた。

若き騎士として俺が旅立ったのは、十七年も前の事だ。

誇りあるギヤレスクの騎士団は雄々しく、男なら誰もが憧れる存在だった。騎士団は正義の象徴であり、また平和の象徴だった。俺は十五で見習いになり、三年経ってようやく入団を認められた。その翌年の春、俺を含む三十名に陛下からの勅命が下った。三十人はそれぞれに旅立ち、長い旅路を辿る事になった。……そして、苦心の末に帰りついた場所に、故国はなかったのだ。

俺には金貨の詰まった袋が山ほど待っているはずだった。……いやそれよりも、栄光の証である獅子の紋章が与えられるはずだったのだ。今はそれも夢と霞んだ。

人々の暮らしぶりは以前と変わらないように見える。だが、俺の生活は一変した。元々俺が住んでいた屋敷は何とかいう貴族に押収されているようだ。手持ちのいくらかを除けば、金もない。住処も、職も、何一つない。俺は、何もかもを失ったのだ。

――栄誉ある騎士も、城と雇い主がなければ役立たず、か。

仕方ないとばかりに、俺は一軒の裕福そうな家の門をくぐった。傭兵として雇ってもらおうと思ったのだ。だがしかし、そこで俺を待っていたのは現実という名の冷たい言葉だった。

「騎士だの剣士だのがあぶれてんだよ、この国は。今は人を雇う余裕なんかありゃしないね。どこへ行ったって同じ事さ」

――何たる事だ。働く事すら出来ぬというのか……。

小さな荷物袋を愛馬に積み、途方に暮れてとぼとぼと歩いていた、その時だった。

「やめて下さい!」

高い女の声にあたりを見回すと、細い路地の暗がりで、いくつかの人影が動いているのが見えた。俺は考えるまでもなく体が動き、路地へと飛び込んだ。騎士として、弱き者の危機を見逃すわけにはいかない。いや、もう騎士ではないが……。

「何をしているか!」

見れば三人の小汚い男が、一人の女性を取り囲んでいる。腕を捻りあげられ、顔をゆがめている女性が、俺に気づいて目を大きく開けた。

「レオリック!」

「……? まさか……ファニ?」

ファニは、近くに住んでいた家具屋の娘である。ファニやその親とは顔馴染みという程度の知り合いだが、こんな事で再会するとは思いもしなかった。ファニは俺が国を出た頃は五つかそこらだったので、最初は気づかなかった。顔にかすかな面影を残してはいるが、すっかり大人の女性になっている。

「わ、悪いのはこの女だぞ」

男たちは、剣を抜いた俺に焦ったようだ。だがファニの腕を掴んだ手を離す気はないらしい。

「何も知らねぇのに口を出すなよな」

もちろん俺は何も知らないが、どう見てもこいつらの方が悪人面である。ファニを捕まえている男が下がり、二人が前に出て剣を抜いた。やる気はあるらしい。だが狭い路地で剣を振り回すのは得策ではない。身をかがめ、刃を抱きかかえるようにして、鋭く突き出す。上段に構えていた二人が剣を振り下ろす前に間をすり抜け、ファニを捉えている一人の腕を狙った。奴らの反応は思ったより遅く、鮮血が滲み出る。

「う、うわわわ……!」

なんだ、大袈裟な反応じゃないか。血を見慣れていないのか。たいして深くもえぐっていないのに、男は大声を出した。

「だだだだだ大丈夫かっ!」

構えていたもう一人も剣を取り落とし、男に駆け寄った。ファニを捕まえていた男も動揺して手が緩んだらしい。隙を突いて逃げてくるファニを抱きとめる。しかし、その程度の傷で大騒ぎするとは……。

「これ以上痛い目を見たくなければさっさと立ち去れ」

俺の声で驚いたように顔を上げる。三人の顔は恐怖で引きつっていた。慌てて駆け去った奴らを見て、俺は馬鹿らしくなった。嘆かわしい。まともに戦った経験もないのだろう。つい数年前に戦争があった国とはとても思えない。

ふと、リゲルが話していた事を思い出す。

ギヤレスクが堕ちたのは早かった。すぐ隣の都市国家であるトゥルーラが攻め入った時、我が騎士団はほぼその機能を果たしていなかったと言う。長年の平和が戦いのやり方も忘れさせたのも一因だったかもしれないが、悪人どもとの癒着と、それにつながる幹部連中の腐敗が騎士団を崩壊させたと言ってもいい。十七年前の事を思えば到底信じられる話ではない。だがそれは紛れもない現実だったのだ。

トゥルーラ王は容赦なかった。王と王妃、それに六人のお子様方はすぐに囚われ、一週間もしない内に公開処刑されたと言う。市民たちは生活を保障され、全面的に都を明け渡した。最初に聞いた時は、そんな馬鹿な話があるものかと思ったが、市民たちにとってみれば日々の生活こそが大事なのであって、王の名前が何であっても構わない、という事なのだろう。分からぬでもないが……。

ファニは息を乱し、俺の肩にしがみついている。

「大丈夫だ」

片手で剣を収め、もう片方の手でファニの肩を叩く。穏やかに言うと、ファニが潤んだ目で俺を見上げた。

「何があったかは知らぬが、もう心配する事はない」

「レオリック……」

両親が病死し、家の家具屋は潰れ、多額の借金があるという。不幸が積み重なるようにしてファニを押しつぶそうとしていた。

「造花を売って、借金を細々と返しているんですが、到底間に合わず……」

後は言葉にならず、彼女は唇を噛み締めながら涙を堪えた。なるほど、先程の男たちは借金取りか。聞けば、若い娘が一人で返せるような額ではない。

――可哀想に。

俺はファニを抱いた腕に力を込めた。

それから数ヶ月。俺は再び旅立った。

旅立つと言うよりは、祖国を捨てるといった感覚だ。だが、我が祖国はもはやない。トゥルーラという名に変わった国には思い入れもない。この地に未練はなかった。リゲルは淋しそうにしていたが、別れもまた人生だ。

その代わりと言ってはなんだが、出会いもある。ファニが、俺について来ると言ってきかないのだ。どうやらあの時の一件以来、惚れられてしまったらしい。年は離れているが、俺はその気持ちを嬉しく思った。

だが、若い娘を連れて旅をする気にはなれない。借金は、俺も手伝って何とか返し終えた。とは言え、彼女を養っていくだけの金がないのだ。何とか説得しようとしたのだが、彼女は意見を曲げなかった。俺だけが頼れる存在だったのだろう。すがるように俺を見つめる一途な瞳。それを振り切る事は出来なかった。

そうして俺とファニは旅立ち、やがて小さな宿屋に辿り着いた。年老いた宿の親父には跡継ぎがおらず、俺たちが商売を引き継ぐ事になったのである。そこで俺とファニは正式に結婚した。

国は失くしたが、俺には帰る場所が出来たのである。

薪割りの手を休めて振り返ると、あの日と同じような青い空に、洗濯物が翻っている。わが祖国の国旗は青かった。それがトゥルーラの黒に変わり、そして今は白、か。

「何見てるの?」

「いや、何でもない」

俺はファニに笑いかけた。

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