天界

信じられない。

それは本当に、奇跡だった。

俺の両親は、奴隷だった。いや、もちろん今もそうだ。

奴隷の子は奴隷にならなければならない、というわけじゃあない。けど、他になりようもない、というのも事実。俺は特段の不満も疑問もないまま、貴族さまの屋敷で育った。十歳ごろから何となく仕事を始め、言いつけられるままにこなしていった。ああ、こうして俺も奴隷になるんだなあ、なんて。別に嫌でもなかった。ご主人様は優しくていい雇い主だったし。

三つ年下のお嬢様とは仲が良かったけれど、あっちはお嬢様、こっちは奴隷の息子、だからどうしたってもんだ。

そう、そういう素敵な奇跡は起きなかった。期待してもいなかったし、落胆はしてないよ。本当に。

第一、俺には憧れの踊り子がいて、そのジョセフィーヌの舞台に何度も通ってようやっとデートの約束を取り付けたところだったんだもの。お嬢様は、そりゃあ、可愛かったけれど、所詮はお姫さま。俺とは違う世界の人さ。

だから、俺に起きた奇跡ってのは、もっと別のこと。

俺の役職は掃除係だ。これがものすごい重労働。何しろ広いお屋敷だから。玄関ホールから始まって、客間が三つ、書斎、図書室、広い食堂、台所も。貴族さまたちが使う「表」の部屋はもちろん、俺たちが使う「裏」の通路や薄暗い地下室だって俺たちは掃除する。それに部屋を繋ぐ長い長い廊下、いくつもある階段、その手すりまで……上げていけばきりがない。毎日のように俺たちは磨く。

時折、ご主人様が通りかかることがある。俺たちを労ってくれて、声をかけてくれることも、たまにはある。

それが、奇跡の始まりだった。

「いつもご苦労だな」

「恐れ入ります、ご主人様。お出かけですか? ……あ、も、申し訳ありません」

つい、口が滑った。いつもにも増して、ずいぶんと立派な洋服だったから。失敗した。そう思ったけれど、ご主人様はいいよ、と言うように手をひらひらと振った。

「そう、出かけるのさ。憂鬱な、仕事にね」

「行ってらっしゃいませ」

これ以上余計な口を利いては、と、俺は深く頭を下げた。ご主人様が去るまで……と思ったのに、ご主人様はなかなか立ち去らない。そっと顔を上げると、ご主人様は思案深げにあごひげをひねっていた。

「ふむ……ちょうどいいかもしれんな。お前、いくつだ」

「今年十九になります」

「よし、いいだろう。……誰か、この者に着替えを! ハバロへ連れて行ける格好にしておくれ」

何が何だか分からないまま、俺は連行され、ものすごく豪華な服を着せられ、あっという間に変身した。

「これ、俺……」

「わたくし、と言うんだ」

「へ?」

「間抜け面はよせ。ええい、誰かこいつに一通りの会話と身のこなしを教えてやれ。夕方までには出かけるからな。先方には少し遅れると通達を出せ。理由は、そうだな、腹の具合が悪いとでも言っておけ」

「へえ、信じられない。あんたが貴族の若者だって?」

軽い笑い声をたててジョセフィーヌは笑った。人を馬鹿にしたような、でもどこか媚びるような甘い声。

「俺にもよく分からないけど、なんだか代役が必要だったんだって。若い貴族を連れていかなくちゃいけなくて、でもご主人様には息子がいないし、知り合いが行けなくなっちゃったらしくて、急に俺がって事になったんだ」

「そんな事ってあるのねえ」

「うん、貴族さまも大変なんだって、思ったよ。俺たちには計り知れない苦労があるんだよな。洋服は重くて動きづらいし、食事だって行儀悪くちゃいけなくて、やり方が細かく決まってるし、しゃべり方だって相手によって色々あって難しいしさ。仕事そのものより、人付き合いがすごく大変なんだって」

「私、踊り子で良かったわ」

「俺もさ。奴隷は気楽でいいなって思ったよ」

「で、ハバロはどうだった? 大都市なんでしょ? もっと話を聞かせてよ、ねえ」

「もちろんさ。ほんの数日の事だったけど、すごい経験をしたよ。あんなに多くの人間が歩ける広い通りがあると思わなかったし、あんな大きな建物がずらーっと並んでいるところは初めて見たし、あんなに旨いものも初めて食った。そうだ、君、ブワスクって知ってる?」

「当たり前じゃない! 踊り子なら、誰だって知ってるわよ。ハバロのブワスク! あんな大きな劇場、首都にだってあるかどうか。絶対無理って分かってるけど、いつかそんなとこで踊ってみたいわ」

ジョセフィーヌは潤んだような目で言う。俺はなるべく得意げに聞こえないように気をつけて、短く言った。

「俺、その劇場にも行ったんだよ」

「うっそ……嘘でしょ!」

「本当。君にも見せたかったよ。そりゃあ素敵だった」

三階建ての、ものすごく大きな石造りの建物。二階が舞台で、大きな花道が中央に一本、左右に小さなのが二本。舞台の下、奈落って言うらしいけど、それが建物の一階部分で、客席は二階と三階。舞台は楕円形で、客席は大きなすり鉢みたいになっていた。遠くまで声が聞こえる仕掛けなんだって、ご主人様が教えてくれた。

「出し物は、神話がほとんどなんだ。天界の話っていうのかな。ハーディスとメルィーズの夫婦、二人の子供たちの話。酒好きのバーレイと闘神ソルが喧嘩する話、アステの放浪の話、ワーローとゼアナの笑い話なんかもあったな。他にも沢山観たよ」

「素敵……夢のようだわ。ハバロか……それこそが、私にとっての天界だわ。いつか、私も行ってみたい。しがない踊り子じゃあ、一生かかっても行けないでしょうけど」

「俺もそう思ってたさ。俺は奴隷だし、一生ここにいるんだろうなって。でも、行った」

「……そうね」

「ジョセフィーヌにも奇跡が起こらないとは言えないよ。いや、そうだ、いつか俺が、君をハバロへ連れて行くよ」

「あんたって優しいのね」

ジョセフィーヌは俺に軽く口づけた。驚くほど、気軽に。微笑んでいるジョセフィーヌ。けれど、その表情は、どこか曇っている気がした。

「待ってるわ。いつか……ね」

きっと、いつか。この曇った微笑みを晴らしてみせる。しがない踊り子だって夢を見る。俺みたいな奴隷だって夢を見る。奇跡だって。きっと、いつか。叶えてやる。

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