喧嘩

貧民街。その言葉の持つ響きは決して良いものではない。その実情がどうあるかは街ごとによるので一概には言えないが、貧民街と言われる以上、裕福で幸せな人ばかりが住んでいるとは言えない。では、人々の心はどうだろうか。金に困っている人は誰でも心がすさむのだろうか。金銭の豊かさと精神の豊かさは比例するのだろうか。それも、やはり一概には言えないことだ。金持ちでもささくれた心の持ち主はいるし、優しく気高い者もいる。貧乏でも欲張りでケチくさい者がいるし、優しく豊かな心の持ち主もいる。

ただ、楽しく遊ぶ子供たちは、そんなことはお構いなしで、遊ぶ道具がなくても、洋服がぼろでも気にせず、今日も元気に遊んでいる。

「おーい! こっちだこっちだ!」

「待ってよー!」

「見てみろよ、ほらこれ!」

「お前、渡れるか?」

「簡単簡単!」

十人ほどの子供たちが、空き地のそこここで遊んでいた。ここは火事で焼けた家が建て直されることもなく放置されている場所で、一階部分の半分ほどが焼け残った家も含め、子供たちの良い遊び場になっている。子供たちは大人の手伝いの合間にここへ来ては、それぞれで遊んでいるのだった。男の子も女の子も、それぞれの好きな遊びをしているが、中でも今一番盛り上がっているのは、焼け残った家の瓦礫を飛んで歩く遊びだった。

「あいつ、すごいなあ」

背の高い少年が、目を丸くして言った。近くにいる子らも驚いたように嘆息を漏らしたり、手を叩いたりしている。背の高い少年、ジーモンはみんなの中心的な存在で、彼が認めることは他の子も認める傾向にある。ジーモンが賞賛したことで、子供たちの視線を集めたのは、黒髪の身軽そうな少年だった。

「なんてことないよ」

黒髪の少年が次々と瓦礫の上を渡ってみせる。遠く離れたところへも気楽な様子で飛び移り、体の均衡をわざと崩して見せてはまた立て直して、みんなの称賛を浴びる。

「ジーモン、あいつどこの子?」

そう耳打ちされ、ジーモンは首をかしげた。

「そういや、見たことないな。なあ、お前、どこの子だ?」

黒髪の少年に尋ねると、少年はジーモンに視線を移し、にやっと笑って見せた。

「そうか、お前が大将か」

そう言うと、ひょいひょいと瓦礫を飛び下り、あっという間にジーモンの前へ来た。ジーモンはその勢いに思わず半歩下がり、それからみんなの視線を感じたのか、体を戻した。

「別に、誰が大将とか、ない。ただ、俺はみんなを代表して、聞いたんだ」

「なんだ、そっか」

威厳をもって言ったつもりのジーモンだったが、相手のあっさりした態度に少々拍子抜けしてしまう。大将だとか、誰が一番だとか、確かに決めたことはなかったが、でも自分は仲間の中で力を持っていると思ってはいたのである。それを見透かされたような気がしてジーモンは戸惑っていた。けれど、そんなジーモンの心の動きを、黒髪の少年が軽く無視したようで、それにまた腹が立つ。大人ぶって、と思ったが、そう口にしてもまたすかされるかも知れない。なんて言おう。そうジーモンが迷っていると、少年が口を開いた。

「今、町にカマル雑技団が来ているの、知ってるか?」

「え、ああ、旅の芸人一座か。有名なんだよな」

「知ってる知ってる!」

「すごいって噂になってるよ」

子どもたちは次々と興奮を口にする。空中に張った縄を歩くとか、垂直な壁を登るとか、あるいは短剣を投げて的に張り付いた人の顔すれすれに刺せるとか、とにかくすごい技を舞台上で繰り広げると言うのだ。それはとても魅力あるものだった。だが、子供たちが見に行けない事は、みんな知っていた。そんな金はない。親にせびる事も出来ない。

「一回くらい、見てみたいけど……」

ジーモンが呟く。黒髪の少年は、にこっと笑った。

「全部は見せられないけど、ちょっとなら見せてやれるよ」

「えっ?」

「俺、曲芸やってんだ。あと、短剣投げも」

「お前……雑技団の一員なのか!」

「へへ。今日は短剣なしだから、曲芸だけ。今度は短剣投げも見せてやるから、楽しみにしててくれ」

それであの身軽さだったのか、と、みんなは納得した。黒髪の少年はそれからしばしの間、その身軽さや跳躍で子供たちを虜にしたのだった。

一座が町にいる間、少年はちょくちょくその広場に遊びに来た。一座には大人が多く、少年は地元の子供たちと遊ぶ方が楽しいのだと言った。ジーモンたちとはすぐに打ち解け、曲芸や短剣投げを披露しては賞賛を集め、また子供たちの遊びに加わって無邪気に遊んだりもした。

そんなある日。

「お前なんかな、ちびっちゃいくせに!」

「何を! お前なんか、でかくって鈍いくせに!」

「何だとう!」

「やるか!」

「かかってきやがれ!」

少年同士の喧嘩は些細な事で始まった。良くある光景に、みんなは慌てもしない。小さな女の子たちが少々驚いて泣いたりしている程度だ。

「やっちゃえやっちゃえ!」

「ちびでも負けるなー!」

大きな少年たちは、取っ組み合う二人を囲んで声援を送るくらいの余裕がある。ここまではやってもいい、これ以上は良くない、といった加減さえ出来れば、喧嘩はある意味彼らの娯楽だった。

そこへ、黒髪の少年が現れた。

「喧嘩か」

「なんだよ」

つまらなそうに嘆息した少年に、ジーモンが気づく。せっかく盛り上がっているのに、黒髪の少年があたりの雰囲気を壊してしまったのではつまらない。

「面白いじゃないか、お前はどっちが勝つと思う?」

「どっちでもいいよ。喧嘩なんてくだらない」

「喧嘩っていうか……力試しさ。どっちが強いか、試合するようなもんだよ」

ジーモンは少年の気持ちが盛り上がることを祈って言う。だが少年は鼻で笑った。

「力試し、ね。他の事でやればいいじゃないか。俺は喧嘩なんかしない」

黒髪の少年はいつもこうして大人ぶったような言い方をする。それがジーモンの癇に障るのだった。

「ちっ、格好つけやがって」

「好きに言ってろ」

喧嘩を吹っ掛けるつもりはなかったが、鼻で笑う少年に、ジーモンの頭がかっと熱くなった。

「捨てられっ子のくせに」

それは、黒髪の少年についての噂だった。誰かに捨てられ、カマル雑技団の団長に拾われて育てられたという噂。事実かどうかを確かめる術はない。だが少年にその話を少しでもしようとすると怒るのだ。それは恐らく、本当だから。だからそれは触れてはいけない事だ、と。誰もが知っていた。それを口にしたジーモンを、みんなが見つめる。それまで喧嘩していた二人の少年まで動きを止め、ジーモンと黒髪の少年を交互に見た。

「……何だと」

「捨てられたんだろ。父親も母親も、お前が要らないから捨てたんだ!」

「この野郎……っ!」

黒髪の少年の瞳がめらめらと音を立てるかのように燃え上がるのを、ジーモンは少々の後悔と共に見ていた。次の瞬間、少年が目にも止まらぬ動きでとびかかり、ジーモンは地面に押し倒されていた。後頭部が固い土にぶつかり、ジーモンの視界が白くはじけた。

「い……ってえな!」

こんな事でめげてはいられない。喧嘩は始まったばかりだ。頭を振ってその衝撃を吹き飛ばし、態勢を整えると、立ち上がった少年の足を蹴り飛ばす。少年がよろめく。すかさずその両足を掴んで引きずり倒した。

周りでは少年たちが、新たに始まった喧嘩に興奮している。口々に応援や野次を飛ばし、どっちが勝つかで盛り上がっている。二人は円の中心で馬乗りになったりなられたり、子犬のように転げまわった。

……結局、決着はついたのかどうか。途中までは覚えているものの、喧嘩の一部始終などまったく覚えていない。何がどうしてこうなったのか、よく分からない。ともかく今は二人とも、息を切らして座り込んでいた。

「……お前も、喧嘩するんじゃねえか」

「喧嘩じゃない」

「喧嘩だろ」

「……力試しだ」

「けっ」

日が暮れる。子供たちの影が長く伸びていていた。

「……さっきは、悪かったな」

「いや……いい。本当のことだから」

辛そうな口調で言う少年に、ジーモンは余計に自己嫌悪した。

「違う、さっきのは嘘だ。お前の親は、なんかすごく大変な事情があったんだよ。きっと今頃、お前を探してるよ」

「……」

「絶対さ」

「……うん」

「まだ町にいるんだろ? また来いよな、シキ」

「そろそろ開演時間だから行かなきゃ」

「……」

「また、来るよ」

シキは立ち上がり、埃を払った。

――なんだか、すっきりしたな。

それはシキとジーモン、二人の感想だったかもしれない。

手を振って去って行くシキを見ながら、ジーモンは大きく一つ息を吐いた。今度は、きっともっと仲良くなれる。夕暮の空の下、子供たちが個々に家路を辿る。ジーモンも家に向かって歩き出した。誰もいない家に向かって。

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