疾風が駆け抜けた。
事実、私には黒い風のようにしか感じられなかった。目にもとまらぬ速さ、というのは、こういうものか。
後にはただ、多くの人々が倒れ伏しているのみ。
私はようやく痛感した。
そうだ、この町は最早平和ではなかったのだ。
そう。
ここは戦場――。
幸せな出会い、幸せな結婚、幸せな生活。
本当にこんな事があるのかと思うくらい、私たち夫婦は幸せだった。子供には恵まれなかったが、夫との生活には何一つ不満がなかった。もちろん喧嘩もしたが、長くは続かない。すぐにどちらかが「もうやめよう」と言って仲直りになる。朝は「おはよう」、夜は「おやすみ」と言い合って、お互いに依存しているといってもいいくらい、私たちは寄り添って暮らしていた。何年経ってもその愛情は色褪せることなく、周りの友人たちに羨ましがられるほどだった。
だが戦争ともなればそうはいかない。鋳物職人だった夫も兵士として戦場へ赴き、なかなか会えぬ日々。眠るときに「おやすみ」と呟いてみても、横には誰もいない。抱いてくれる腕もなく、撫でてくれる優しい手もなく、甘い囁きもない夜。それは本当に淋しかった。
戦争が早く終わりますように……と祈ってはみても、運命に身を委ねる以外の選択肢はない。たまに休暇で戻ってくる夫を再び見送るたび、もうこのまま会えなかったらと悲嘆に暮れた。
だから、夫の配属が運良く自分の住む街の近くになった時、私は小躍りしたものだ。一年に一度くらいの休暇しかなかったのが、一ヶ月に一度くらいは時間を取れるようになった。それに、夫はたまにこっそり抜け出してきたりもした。夜中、人に隠れての逢瀬。結婚する前のときめきにも似た、背徳感に彩られる甘い時間。そして、ほんの短い時間でも、「おやすみ」と言い合えるのはこの上ない安らぎだった。夫も私も、手を取り合えるその時間が、本当に嬉しかった。
だが……それも、もう終わりだ。
兵士の叫び声。逃げまどう人々の悲鳴。騎馬隊の訓練された馬たちの蹄鉄が大地を蹴る轟き。舞い上がる土埃。鍬などの道具や桶などが辺りに散乱している。馬上から繰り出される容赦のない槍の攻撃で、兵士も、市民も、次々と倒れ、物言わぬ屍と化した。血と泥に汚れた服がべっとりと体に張り付いている。
一陣の疾風が過ぎ去り、静かになった後には、ほんの少し生き残っている者の呻き声だけが残されていた。瓦礫と人々の死体を乗り越え、私は這うように歩いた。
背中が熱い。いや痛いのか。分からない。ただ夫の姿を探す。今日は市中警備をしていると聞いていたから、町のどこかにはいるはず……。
家からそう離れていないところで、倒れている夫の姿を見つけた。私を探しに来たのかもしれない。仰向けに倒れた夫は、見るからに生気を失っていた。思ったより、動揺は少ない。もう見つからない、夫は死んだものと思っていたからかもしれない。
「あなた……」
そっと近づき、手を握る。夫の体がぴくりと動いた。まだ冷たくはない。まだ、生きているのかしら。それとも、気のせいかしら。何にせよ夫は、もう、死んでしまうだろう。自分にも死の影が忍び寄っていることを感じる。だが、不思議と悲しくはない。不安もない。私は、落ち着いていられた。夫の死も、自分の死も、受け入れている。
最後に、夫に会えた。「生まれた時と場所は違えど、死ぬときはきっと一緒に」と誓い合った。それが叶った。それでもう、十分……。
夫の顔は青ざめ、目は閉じている。だが、まだ手はぬくもりを残している。私は夫に寄り添い、その肩に頬を寄せた。幸せな生活をしていた頃、いつもそうしていたように。手を握り、ぴたりと寄り添い、これで二人、一緒に死ねるのだと。そう、思った。
――けれど。
もう一つだけ、大切な事がある……!
急に体を起こしたせいか、目の前が赤く光り、激痛が私を襲い、呼吸が出来なくなった。切れ切れの息の下から、最後の力を振り絞る。声が、掠れる。
「あなた……おやすみなさい……」
夫は動かない。
「おやすみなさい」
お願い。お願い。お願い。安らかに眠りたいの。あなた……お願い。
「おやすみ……なさい」
夫のまぶたがぴくぴくと動き、ほんの少し、目が開いた。目は恐ろしいほどに赤かったが、瞳孔が、動きを取り戻す。夫は私を見た。と、思う。その唇がかすかに動く。私の手に、握る感触が……。
「お、や、す……み」
声にならない声。だが、私には分かる。そして、ゆっくりと唇が微笑を浮かべた。夫は目を閉じる。私も微笑んで、目を閉じた。良かった。これで、安らかに眠れる。もう後はずっと、一緒にいられる。良かった。本当に良かった。
――ありがとう、あなた。
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