ジルクの部屋は狭くなかったが、様々なものがいたる所に山積みで、奥へ入るにはそれらをかき分けて進まなければならなかった。壁はそのほとんどが作りつけの本棚で、一番上はどうやって取るのだろうと思うほどの高さまで本でいっぱいになっている。奇書魔法書の類はその棚からも溢れ、机や引出の上にまでうず高く積まれている。液体の入ったびんや何に使うのか分からないような道具がその隙間に詰め込まれている。見た事もないような動物の剥製まで、床に転がされていた。また文様のついた壷や木製の樽が床に並んでおり、それぞれ異臭のする液体、丸めた地図や古紙など、様々なもので満たされていた。本棚のない壁には魔法陣が描かれた壁掛けや、エイルには読めない文字がびっしりと書きこまれた羊皮紙がいくつも留められている。ろうそくが灯してあるとは言え、窓のないこの部屋は薄暗く、エイルはいつも好きになれないと思っていた。
先ほどまで聞こえていた大きな騒音や人々の喚声は、ここまでは届いてこない。若干落ち着きを取り戻してはいたが、エイルの顔は晴れなかった。父王や母の事を思うと、小さな胸が潰れそうになる。エイルには反乱という言葉が持つ本来の意味など、まるで理解出来ていなかった。 ――何故、突然こんな事になるのだ。もう二度と両親や兄に会えないというのは、本当に、本当なんだろうか……。
漠然とした不安と、深い悲しみだけが頭を満たしている。何もかもが一時(いちどき)に起こり、冷静に分析する事など出来なかった。エイルは大きく頭を振って、何とかその事を考えないように務めた。見れば部屋の一番奥、丸い台座の設置されているあたりからジルクが手招きしている。
「殿下、こちらでございます。ご説明致しますので……」
エイルは足に当たった植物の標本のようなものを、気にも留めずに踏みつけながらジルクの元へと向かった。
「それで、占いはどんな結果になったんだ?」
小首をかしげて尋ねると、老司祭は何かを決心したように話し出した。
「よろしいですかな。この世を統べているのは『人間』でございますな」
「当然のことだ。占いはどうした」
「殿下、まずはこのジルクの話をお聞き下さい。……殿下は、竜、というものをご存知ですかな」
「伝説上の生き物だろう? 本で読んだ事がある。その昔、この大陸で人間の治めていた場所は半分以下で、大陸のどこかに竜の王国があって、竜族がそこを治めていたんだ。でも竜は凶暴で、そこへ行く人間をみな殺しにし、すごく危険だった。だから人間と竜が戦争をして、竜の王国はなくなって、竜も絶滅したんだって、そういう風に書いてあったと思うが」
身振り手振りを交えながら説明する少年王子に、ジルクは頷きながら同意した。
「そうでございます、殿下はよく勉強しておられますな。そのおかげで今の世は平和になったのだと伝えられております。ですから、今は竜など一頭も存在いたしません。シンジゴ山脈より南は未開の地ですゆえ、事実上、北の大国であるこのレノア国が世界を統治しているといっても過言ではありますまい。……そして今、王弟コジュマール公による反乱が起きましてございます」
「……」
エイルは下唇を噛んで目の前の老人を睨んだ。ジルクは目を閉じて何度も頷いている。
「お気持ち、お察しいたしますぞ。……この先レノアがどうなっていくのか、私の心も痛んでおります。私が先ほど占っておりましたのはレノアの、この国の行く末でございます」
「うん。それで、結果は……?」
「……世界は、竜によって破滅する、と。……いえまさか、竜が復活するなどという事はあり得ませぬ」
エイルの不審そうな顔に、老司祭は手を振って打ち消した。
「そこでもう一度占い直しましたところ、『二人の子供、それも同じ日に生まれ、同じ顔を持った二人の子供が必要である』との結果。ですが、二人同時に生まれる子供などおりません。もちろん、兄弟でも同じ顔という事はありませぬ。一体この結果がどういう意味なのか、私にも分からないのですが……。とにかく、誰かが彼ら二人を連れてこなければなりませぬ。でなければこのレノアはおろか、世界の危機でございますから」
「ジルクの占いは絶対だものな」
「運命の神クタールには負けますがな」
老人はささやかな微笑を漏らした。しかしすぐに気を取り直し、真剣な顔つきで説明を続ける。
「『同じ顔の二人』の居場所は突き止めました。秘術の本を紐解きまして、転移の術法も準備致しました。ただ……その『場所』というのがどこであるのか、はっきりとは見えませんで……。いやしかし、何はともあれ誰かがその場所へ行き、二人の子供を連れ帰らない事には……」
エイルの背後、重そうな鎧の音がシキの入室を知らせた。塔の階段を駆け登ってきたせいだろう、シキは少し息を切らしている。しかし何よりもまず目に入るのは、その必死の形相であった。彼の緊張した面持ちから、一大事である事が見て取れる。どうやら事態は楽観視出来ない方向に進み始めているようであった。シキは二人に向かって早口で告げる。
「既に……塔の下まで反乱軍が来ております。私は守りを隊長に任せ、こちらまでご報告に参りました。ですが、すぐに戻らねば」
訓練された騎士であるシキは、それ以上余計な事を言わず、二人に背を向ける。ひるがえったそのマントをエイルとジルクが掴んだのは、ほぼ同時だった。焦って振り払おうとするシキを手で制し、ジルク老は口を開いた。
「行ってはなりませぬ。シキ殿には、エイル様をお守りいただかなくてはなりませぬゆえに」
「だから、戦いに行かねばならんというに。離してくれ、ジルク殿」
「そうは参りません! ……エイル様、『同じ顔を持つ二人』を探しに行くのは、殿下にお任せ致しますぞ」
「えぇっ?」
エイルは突然の宣言に戸惑った表情を見せたが、ジルクの眼差しは有無を言わせぬ迫力で、反論する事は出来なかった。慌てた様子のジルクに促されるままに、丸い台座の上に押しやられ、エイルは助けを求めるようにシキに視線を投げる。高い台座に登ったおかげで、エイルの視線はちょうどシキと同じ高さになっていたのである。シキはその視線に答えながらも、ジルクに反抗しようと試みた。
「ジルク殿、今はそれどころでは……」
「それはこっちの台詞じゃ! 早く、シキ殿もこちらへ。説明している暇はありませぬ、さあ早く」
ジルクの切羽詰まった声にただならぬ雰囲気を感じたのか、シキはとりあえず抵抗をやめてエイルが乗せられている高い台座に登った。エイルがしがみつくようにしてシキのマントを握り締める。ジルクは積み上げられた本の山からぼろぼろの一冊を抜き出し、慌てた様子でめくった。
「ジルク殿、私には話が見えませぬ。エイル様をこの城から脱出させる手段でもあると……?」
「その通りですぞ。反乱軍がここまでやってきたのなら、いくらシキ殿が一騎当千の剣士であろうとも、持ちこたえられはすまい。王子の逃げ場がなくなる前に、転移の術法を使います。……ああ、これだ」
そういうと、本から一枚の羊皮紙を破り取った。そしてそれをエイルに示しながら、慌てた口調でまくし立てる。
「よろしいですか、殿下。『同じ顔を持つ二人の子供』をお探し下さい。彼らが世界を救うたった一つの手段です。これが大陸図で、レノア城はここです……よいですか、竜からレノアを、ひいては世界を守るためです。大役ですぞ!」
老人はそう言うと、エイルの持っていた袋に羊皮紙を詰めこむ。それからシキに向かって語りかけた。熱っぽい光をたたえた目が、その必死な思いを伝えている。
「事情は向こうへ着いてからエイル様にお聞き下さい。詳しい事をご説明申し上げている暇がありませんでしたが……。とにかくエイル様をお守り下さい。シキ殿なら安心ですからな。……それから、御身もお大切に。必ず、必ずお二人とも、お戻り下さいますよう! お願い申し上げる」
「ジルク殿」
司祭はシキとエイルに一瞥(いちべつ)をくれ、かたわらの分厚い書に手を伸ばした。大きな、まるで鐘を叩くような音が響いてくる。どうやら塔の扉を叩き壊そうとしているようだ。老人は急いで本の一節を読み上げ始めたが、エイルにもシキにもその言葉は理解出来なかった。不思議な抑揚をつけてジルクは朗読を続ける。しばらくするとエイルは、自分の身体が熱くなるのを感じた。不安を感じて振り仰ぐと、黒い鎧を着込んだ剣士も自分を見つめ返していた。
「何があってもお守りします」
シキは王子に向かって笑顔を作る。それを見て安心したエイルは、これから起こる事に慌てないよう、息を整えた。王国騎士団の中でも五本の指に入る剣士の笑顔は、幼い王子を満足させるに足るものであった。
眉を寄せているジルクの額には、じんわりと汗の粒が浮き出していた。エイルとシキが乗っている台座が光を放ち始める。どうやら台座全体が魔法陣の役目を果たしているようだ。その光の中、エイルとシキの姿がだんだんと薄れていく。ジルクはほっと息をついたが、次の瞬間、目を見開いた。台座の光がゆっくりと、その色を変えていく。淡い黄色に光っていたのが、徐々に緑色へと変化しつつあった。
「おかしい、おかしいぞ、こんなはずではない……! これは、サキュレイアの効果ではないか!」
ジルクがそう叫んだ時、大きな音とともに部屋の扉が開け放たれた。怒号と鎧を着た兵士の足音が塔を駆けあがって来るのが聞こえる。振り向いたジルクの目に、武器を掲げて走りこんでくる兵士達の姿が映っていた。
Copyright©, 1995-2018, Terra Saga, All Rights Reserved.