宝物

それほど広くない部屋だ。縦長の窓から暮れゆくレノアの夕闇が感じられる。

燭台の明かりが揺れているが、二つの人影は暗い部屋の中でおぼろげな輪郭を浮かべるだけで、はっきりとした実体を感じさせない。

レノア国、王城の一室である。

「……私は王だ」

低い声で呟く男は、質素ではないが飾り気のない身なりで、年の割には若々しく、堂々たる姿勢で立っている。その傍ら、もう一人の男も同じように凛とまっすぐな立ち姿だった。エイクス王は静かな語調で続ける。

「王であるということは重責だが……私には支えがある。私は国を支え、国が私を支えている。王とは、国と対になる存在なのだ。互いに支え合う。私には民がいる。多くの臣下がいる。お前たち騎士団は言わずもがなだ」

唇の端に笑みが浮かぶ。それを見た若い騎士は、慇懃に頭を下げた。

「そして妃と子がいる。シエルは強い子だ。宿命を受け入れ、重責に負けず、私のあとを一歩ずつ歩いてくる。早くこの座につく息子を見たいものだ。……だが」

王は言葉を切った。小さく嘆息する。王の脳裏には、若き後妻との間に生まれた王子の無邪気な笑顔が浮かんでいた。

「エイルはまだ五つだが、とても賢い子だ。もしかしたらすごい可能性を秘めているかもしれん。そう思わせる子だ。そしてあの子には自由があり……かつ自由ではない」

エイルは第二王子である。王位継承権一位のシエル王子とは七歳の年の差があり、王位を継ぐ可能性はそう高くない。その意味で、シエルに比べて自由がある。だが王子である以上、自由はないというのもまた事実であった。

「いずれ、王の弟になるということは……。分かるな、シキよ」

「はっ」

シキと呼ばれた青年は、ほとんど反射的に返事をしていた。

「エイルが道を違える(たがえる)ようなことがあってはならん。決して」

「はい」

「そして万が一……万が一にも私やシエルに何かがあった場合、すべてはあの子に委ねられることになるのだ」

「……」

「そのとき、周りにいる者すべてがあの子を支えようと思わなくてはならない。国が王を支えていなくては、王として立ってはいられないのだ。私やシエルはいい。そのために生まれ、そのために生きている。覚悟はできている。だがエイルは違う。エイルが自由に才能を発揮し、そしていざという時には王ともなれるよう、支えてやってほしいのだ。本人には何も言うな。知らぬままでいられればそれが何よりだ」

一瞬言葉に詰まり、シキは戸惑いの表情を見せた。「万が一」の何かが起こると想定しているのだろうか。それともそれは一般的な話であって、単なる可能性の一つに過ぎないのだろうか。シキは王の心を量りかねた。

そしてまた、何故一介の騎士である自分が、陛下直々にエイル殿下のことを頼まれるのかという疑問が生じてくる。貴族出身でもなく、一般市民ですらない。生まれも何も分からぬまま旅の曲芸団に拾われた捨て子だった。それが王城での見世物の際、何が気に入ったのかエイクス王に拾われ、騎士団に所属することになった。だがまだ十八の自分が、何故エイルを支えてくれと頼まれるのか、シキには見当がつかなかった。

「そなたの忠誠はレノア王家のものだな」

「はっ!」

エイクスの静かな声で我に返り、シキは当然といった調子で即答する。

「では、私の言葉を命令と思ってくれても構わない。そなたの剣を、エイルに預けてほしい」

「……」

それでも、理由の分からない「命令」を即座に受け入れかねて、シキは言い淀んだ。

「……! おやめください!」

膝を折ろうとかがみこんだエイクスを慌てて押しとどめる。何故、王がそこまでするのか。シキには分からなかった。

王の肩に置いた手が恐れ多さに震えている。二人の視線が交わった。王と臣下がこれほど間近で相手の眼を見つめたのは、お互いに初めてである。

エイクスは再び背筋を伸ばしてシキの前に立った。

「私は多くの者の目を見てきた。深い悲しみをたたえた目、熱き野心に燃えた目。本当に多くの者がおる。その色、形、大きさにかかわらず、その目が持つ想いというものが、いつしか分かるようになってきたのだ。その私が言う。そなたの目は、美しい」

「そ、そのような……」

シキは驚きを隠せなかった。息を呑むシキから目をそらし、エイクスは背を向けて窓の外を眺めた。

「何故、だろうな。そなたの目は信じられる。初めて謁見したとき、そなたの目を見てそう思ったのだ。そうだ。まだそなたが曲芸師の子どもだった時にだ。あれから、何年経つ?」

「二年でございます」

「そうか。もうそんなに経つか。……立派になった」

「いえ、私などまだまだ」

「いや……」

エイクスの喉の奥で、言葉が詰まった。優しい静寂が部屋にそっと満ちていく。

「私には、守りたいものが多くある。王として国を、民を守らねばならん。みな私の宝物だ。そなたも含めてな」

振り返ったエイクスの顔は慈愛に満ちていた。

「妃、シエル、エイルもまた、私の宝物だ」

「はい」

「緑旗隊は王家直属の近衛隊だ。王家の者を守るためにある。そなたに守ってやってほしいのだ。……特に、エイルをな」

真剣な視線が注がれ、王の心情がついにシキに届いた。正面から王の目を見据えたシキは無言で後ずさり、膝をつく。そして長剣を捧げ持ち、厳粛な面持ちでこう告げた。

「この剣は、陛下より頂きました。私はこの剣をレノア王家の皆様に捧げております。そして、これより先は私の生涯をかけて、誰よりもエイル殿下のためにこの剣をふるうとお誓い申し上げます。私の忠誠を、エイル殿下に……」

深く頭(こうべ)を垂れる。王は、安堵したように何度もうなずき、長いため息をついた。

「うむ。その言葉、信じておるぞ」

エイクスはその目を細め、頭を上げずにいるシキを見つめていた。

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