ルセールの歴史は浅い。シンジゴ山脈以南の砂漠は、長い間、人々の踏破を拒み続けてきた。道などというもののない砂漠である。誰一人として越える事が出来なかったのも当然だった。しかし後に「英雄」と呼ばれる事になる男がその偉業を成し遂げたのである。レフォア歴五一六年、マイオスという一人の青年が砂漠にオアシスを発見する。それによってついにレフォアの人々は、南の広大な土地を目にする事になった。
山脈から吹き降ろす風が土地を乾燥させ、降水量も少ない。山を下る雨水は地下深くに潜り、近辺は砂漠化している。砂漠を超えても、そこはひたすら荒れ地が広がっていた。沿岸部には小国がいくつかあり、人々はそれぞれに暮らしていたが、中央部は人が住める土地ではなかったという。北に比べて年間の平均気温が高く、水を保存しておくのも簡単なことではなかった。大陸南部では水が大変貴重だった。
英雄マイオスは砂漠のジュレイドというオアシス近くの小さな部落を足がかりにして、砂漠を踏破し、オアシス発見から僅か四年後、広大な荒れ地の中央にルセール王国を建国するに至る。それからまだ二百五十年ほどしか経っていないが、その発展には誰もが目を見張るだろう。
現在の城下町あたりにマイオスたちが辿り着いた時、彼らは水不足で全滅寸前だったという。地面に染み出した地下水を見つけなければ、彼らの生命は文字通り枯渇していただろう。山脈からの水脈が地表に出ているところがあるはずだと信じて歩みを止めなかったマイオスは、ついにそれを見つけたのであった。そのマイオスから数えて三十人余り、現在の王シュウスに至るまでマイオセールに水が絶える事はなく、それゆえにこの国も絶える事なく繁栄を続けてこられたのである。
人々は日暮れになると仕事を終え、家路につく。そうでなければ、酒場へ向かう。出稼ぎに来ている者、芸人や吟遊詩人などの遊戯者、旅の商人、巡礼者、それに運び屋、傭兵、遊女など、ルセール城下には様々な人間がいる。日が暮れると店を閉める者もいれば、夜になってからが本番とばかりに動き出すものもいる。黄昏時は、そんな彼らが入れ替わる時間であり、酒場が非常に混み合う時間でもあった。
この、少々裏通りに入った所にある酒場も同じだった。大きな木の机が幾つも並び、人々でごった返している。机や客の間で、前掛けをした女たちが立ち働いている。一日の疲れを癒し、腹を満たすために酒場へと集まった男ども。大きな声でしゃべり、笑い、酒を飲み、料理を食べてはまた笑う。日に焼けた肌と黒髪の、大柄な男が多いのはルセール地方の特徴だ。英雄マイオスはレフォアの出身だが、黒髪で背の高い男だったという。
店の隅にも小さめの机が並べられていて、壁際の席は少し静かに食事や会話を楽しみたいという客のためのものだった。その中の一つに、青灰色の髪の男が座っている。
「やれやれ。頼みがあるってったのは、そっちじゃねぇのかよ」
独りごちて前髪をかきあげたのはまだ若い、細身の青年である。整った顔立ちで、痩身なせいで背は本来より高く見える。細身の下履きと丈の短い上着は洒落ているが、すらっとした足は行儀悪く投げ出されたままだ。青みがかった濃灰色の瞳が忙しなげに動いている。長い前髪を残して束ねた髪は、気障な見た目に良く似合っていた。髪に通した右手の薬指には、まるであつらえたような銀の指輪が光っている。
彼は自分の魅力をよく理解しているようで、店に入ってきた時から酒や料理を運ぶ店の若い女に笑いかけ、愛敬を振りまいていた。女たちもその優しげな笑顔に、ついつい足を止めて会話を交わす。話し上手でもあるようだ。しかししばらく経つと、細い指で机を叩き始めた。形のよい眉を寄せ、肘を突いたり、また外したり、長い髪をいじったり、その動きからいらいらしているのが手に取るように分かる。
「……遅ぇ」
彼が何度目かの文句をつぶやいた時、扉の開く音がして一人の男が入ってきた。ルセール地方特有の浅黒い顔にがっしりとした体躯。麻布の服をまとい、頭には白い布を巻いている。一見して下働き、下男といった風だ。男は店内を見回し、先程の青年に目を留めると、のそのそとやってきた。不躾に青年の肩を掴む。
「おい、あんたがリュークだな」
「いーや、違う。俺はグレイさ」
からかうように言う青年を無視して、下男風の男は続けた。
「俺はガライ。あんたリュークだろ。ヴィトの紹介で来たんだ。ヴィトは青灰色の髪の男だと言っていた。この酒場で青灰色の髪の男はお前だけだ」
「……あんたか。まあったく。遅いぜ! この俺様を待たせるなんざ、百年早いってんだ」
リュークは溜息とともに言った。ガライはあまり気にしている風でもない。気がはやっているのか、椅子にもつかず、日に焼けた太い両腕を机に勢いよく叩きつけた。
「あんたどんな物でも盗めるんだって? 何でも、通称が『疾風のリューク』とかって言うらしいじゃないか。あんたの盗みはそんなに早業なのかい? それなら頼みがいがあるってもんだが。実はな……」
「おいおい大きな声を出すなよ。……言うほどの事じゃないさ。『狙いは正確に、且つ迅速に』ってな。それだけの事だ。それより座んなよ」
そう促されて向かいの席についたが、ガライは目の前の男を信用できないでいた。だがリュークの方は全く構わず、このあたりの地酒であるキームーシュを注文している。
「さてと。もう一度名前を聞いておこうか。一応、間違いがないようにな」
「ガライだ。マルティン……トーラス=マルティンさんの屋敷で働いてる。あんたの事は、情報屋のヴィトって男に聞いた。腕の立つ盗賊だってな」
「小さい声で頼むぜ」
リュークは得意げに、青灰色の前髪をかきあげた。その仕草は嫌味というほどではない。だが、やはり気障だと言わざるを得ないだろう。彼の風貌は若い女には喜ばれそうだったが、腕の立つ盗賊には見えなかった。猫のような目を休みなくあたりに配っては、目の合った女に片端から笑顔を見せている。顔をあちこちに向けているので、本当にこちらの話を聞いているのだろうかとガライは心配になってきた。リュークを睨みながら、不安そうに口にする。
「思ったより若いんだな。本当に大丈夫なのか?」
「失礼な奴だ」
「ヴィトの言う事は信用出来るからな、安心してるが……」
「さっさと用件を言ったらどうだい?」
「あ、ああ。実は」
「おっと! しっ」
ガライが話し始めた途端、リュークが唇に指を当て、黙れという仕種を見せた。いたずらっ子のように片目をつぶって見せる仕草が妙に愛らしい。
「お待ちどうさまでしたぁ」
店の娘がキームーシュを載せた盆を持って、リュークの後ろから声をかけた。もちろん、彼女の姿はリュークに見えていなかったはずである。ガライは思わず口笛を吹いた。
「さすがだな」
にっこり笑って杯を受け取りつつ、リュークはやおらその娘に向かって話しかけた。
「やあ、仕事が早いな。キームーシュだね、ありがとう。君が運んできた酒ならさぞかし美味いだろうな。あ、びっくりした? いやあ、こんな綺麗な娘と話してるもんだから緊張してんだよ。なあ、なんて名前なのか教えてくれないか? きっと君に似合う、可愛い名前だろうと思うんだ。教えてくれたら俺、毎日この店に通っちゃう。疑ってるの? やだな、俺の信じる全てのものに誓って、君は可愛いよ。いや俺自身と君に誓って、その澄んだ瞳にかけて、俺は嘘なんか言いやしないさ。ねぇ教えてくれるかい? 君の可愛い名前をさ。だって聞かなかったなんて言ったら、死んだじいちゃんに怒られちまうぜ。可愛い娘だったら名前くらいは必ず聞けって教えられたからね」
「……びっくり。よく一息でそれだけ言えるものね」
水が流れるような勢いに驚き、女は目を白黒させていたが、まんざらでもないらしい。しなをつくってリュークに問いかけた。
「ねえ、あなたはなんて名前なの? それを先に教えてよ」
「そうか、こっちから自己紹介しなくちゃいけないよな」
リュークはわざとらしい動作で両手を打つ。酒を運んできた女は机に腰掛け、片手に盆を抱え、なるべく自分が可愛く見えるように首をかしげた。リュークはもっともらしく腕を組み、彼女に向かって困ったような顔をして見せる。
「実は、俺には名前がいっぱいあってね。みんなが違う名前で呼ぶんだ」
「あら、それじゃどう呼んでいいか、困っちゃうわね」
「可愛い女の子はみんなグレイって呼んでくれるんだけど……」
「私はなんて?」
「もちろんグレイとお呼び下さい。当然だろ?」
格好つけたお辞儀をして、にっこりと笑ってみせる。華やかなその笑顔は素直そうでもあり、からかっているようでもある。
「面白い人。じゃあ、グレイね。私はミナよ」
「ミナちゃんかぁ! やっぱり思った通りだったよ。君の可愛い瞳に似合う、綺麗な名だね。この店には絶対また来るよ。ミナ姫に会いにね。今度来た時も、君が酒を運んでくれるかい?」
「そうね、店にいたら、きっとね」
しゃべりながらミナは机にキームーシュの杯を置き、上機嫌で手を振りながら店の奥へ戻っていく。リュークは座り直すと、それへ向かって極上の笑顔を見せながら、右手を軽く振った。ガライの方はと言えば、不機嫌そうな顔でリュークを睨んでいる。
「……さっき話を中断させたのぁ、聞かれないように、っていうんじゃなかったのか? 一瞬見直したんだがな。何でヴィトはあんたみたいな奴を紹介したんだ。どう見てもその辺の軽い兄ちゃんにしか見えん」
「そう? ま、いいよ。あんたが仕事を頼まないってんなら、それまでさ」
リュークは肩をすくめて、白く濁った酒を一息で流し込む。ガライはまた顔をしかめ、それから考え深げに腕を組んだ。灰色の目はリュークを睨み続けたままだ。リュークは腰掛けた椅子を揺らし、先程のミナという女に手を振っては喜んでいる。仕事の依頼やガライの存在は、取るに足らないもののようだ。ガライはわざとらしいまでに大きく息を吐き、決心したように口を開いた。
ガライには弟がいるという。弟は武術に優れていたので、ルセール城で倉庫番をするまでに出世した。彼が警備しているのは宝石のいくつかがしまってある部屋だ。
しかし、先日の事。
「弟は何も知らんと言うんだ。だが、大事なサファイアの首飾りがなくなったんは確かなんだよ。いくつかなくなっちまったんだが、サファイアのは特別に大きい奴だったんだ。誰が盗んだのかも分からんし、どうやったのかも分からん。なんしろ、そのおかげで弟は仕事が出来なくなっちまった! このまま見つからなかったら国外追放だって言うんだぞ。弟は一生サファイアなんか見たくもないって言ってる。俺だって……くそっ!」
ガライは弟の事をとても可愛がっているようだ。まるで自分の事のように悔しがる様子は、彼の逞しい外見とは裏腹に、妙に可愛らしい印象さえ与えている。しかしリュークは、そんな話など聞いてもいないようだった。自分が前に飲んでいた分と合わせて二つの空の銅杯をいじって遊んでいる。目の前の依頼人に目もくれず、杯を重ねて置いてみたり、転がしてみたり……。ガライはその様子を、歯を食いしばって睨みつけた。しかし、それすらリュークは意に介さないようだ。目だけをガライに向けてぶっきらぼうに言う。
「なんだよ、先を続ければ?」
ガライは床に向かって唾を吐き捨てた。しばらくの間、口の中でぶつぶつと罵りの言葉を呟く。
「俺がマルティンさんの屋敷で働いてるって事は言ったな」
「ああ、見るも無残なぶよぶよオッサン」
「……まあ、そうだが……。そこでしばらく前に舞踏会があった。大勢の人を招いて、華やかにやったんで町でも噂になってたが、知ってるか?」
「いや。この前ここへ来たのはもう三ヶ月も前になるし、今回は着いたばかりだからな。けど、あの奥さんの騒ぎ好きは昔からだ」
「そう、それで奥様はこないだの舞踏会も、なんだかよく分からん名目で大勢の人を呼んでた。その時に俺は見たんだ!」
「何を」
「決まってるだろう、首飾りだ! 奥様がしてたんだよ、作りもんなんかじゃないんだ、そう言ってた。間違いねえ、あれはお城の弟んとこから盗まれた奴なんだよ! おい聞いてるのか、えぇっ!」
「静かにしろよ」
「盗まれた首飾りなんだ! サファイアなんだよ! そんでぬかしやがった、『やっと手に入れた』ってな!」
ガライは興奮し、自分が大きな声を出している事に気づいていない。今にも立ち上がって両手を振り回しそうな勢いだ。リュークは再度たしなめる。
「静かにしろって。本当に本物なのかよ」
「本物だとも! ヴィトが保証したんだ。あいつは何でも知ってる、あれが本物だって事も、ヴィトは知ってるんだ」
「あっそ。じゃあ間違いねえな」
「なあ、俺は騒ぎを大きくしたくねえんだ。誰が、何で盗んだかなんてどうでもいい。あれが無事にお城に戻ってくれさえすりゃいいんだ。そうすりゃ弟も戻ってこれる」
「トーラスの屋敷から盗んで、誰にも分かんないように城に返せって事か」
「ああ。頼む、どうかあれをお城に返してくれ」
ガライは大きな体を小さくして頼み込んだ。もう大きな声を出す事はなかったが、その代わりに気がはやって、妙に早口になっている。リュークは席を立ち、手櫛で髪を梳く。そのまま立ち去ろうとして、思い出したように付け加えた。
「ここの支払い、よろしくな」
「は? ああ……。いや、ちょ、ちょっと待ってくれ、仕事の方は引き受けてくれるんだな?」
「任せろ」
ごく軽い調子で言うと、一瞬だけ、営業用の笑顔を作った。
「そうそう、報酬をヴィトに渡すの、忘れるなよ?」
銅杯に少し残った酒を飲み干すと、人々の間をすり抜けて、あっという間に店を出ていく。ガライは、呆気に取られていた。彼はその人生において盗賊という人種には関わった事はなかったが、もう少し違う印象を抱いていたからだ。あんなお調子者の青年が本当に確実な仕事をしてくれるのだろうか……ガライはどうしても不安を拭い去れなかった。
仕事をするには深夜がいい。それも、月や星が出ていないような夜に限る。貧しい者たちは藁を敷いた硬い寝台の上で、夜遊びに興じた金持ちたちは絹の羽毛布団の間で、それぞれ安らかな眠りについている頃。酒場も、街角に立って客を取る女たちさえも仕事を終える時間。そして何より、見回りの衛兵たちが交代の時間を待ち望んであくびをする頃。そういった『やりやすい』時間帯を見つけるのが、長年の勘というものだ。自信を持って頃合いを見計らったリュークは、マイオセールの町を音もなく歩いていた。
いつもの洒落た服ではない。全身黒の、身体にぴったりした服だ。長い髪も帽子の中に入れられているので、邪魔になる事はない。靴は音をたてないように柔らかな、毛皮のものを選んだ。彼は新月の夜空を見上げ、独り、呟く。
「出来れば、月が出ている方が好きなんだよな。美しい女神メルィーズを見ながら格好良く決めたいね。ま、仕事には向かないから仕方ない、と」
暗い路地に黒い服。その姿は影となり誰にも気づかれる事はない。元より、こんな夜更けに人影などありはしない。夜中に明かりを灯しているのは金持ちの家ばかりだ。そう、トーラス=マルティンのような。
トーラスという男は金持ちだったが、多くの金持ちがそうであるように、人に物を与える事が好きではなかった。一言で言ってしまえば吝嗇家、もっと簡単に言えばけち、という事である。彼は、人に食わせない分の肉を自分の腹につけていると陰口を叩かれるような男だった。マイオセールでは十指に数えられるほどの金持ちで、城下町マイオセールの有力者でもあったが、同時に町一番の嫌われ者でもあった。
その屋敷の裏通り。道を形作る壁はすべてトーラスの屋敷のものだ。中央あたりに立てば、左右どちらを見ても壁の端は見えない。壁のところどころに取り付けられた灯火には、魔法による小さな炎がともっている。その明かりが壁伝いに延々と連なっていて、トーラスがいかに金持ちかが誰にでも分かるようになっていた。
石畳の道の両側に目を凝らし、無人を確かめる。目の前の高い塀を見上げると、上空に木がせり出しているのが影になって見える。金具つきの縄を取り出し、切れたりしない事を確かめると、リュークはそれを躊躇わずに投げた。きつくなわれた麻縄は空気を切って飛び、すぐに枝葉を揺らす音を立てた。反応する警備の気配をしばらく待ったが、見回りの時間を外してあるのだから、誰も気づくはずはない。縄の手応えを確認して手に絡め、壁にかけた足に力を込める。ゆっくりとした動作はそこまでだった。リュークは素早く、かつ無駄のない動きで塀を登りきり、再度周りを見回す。……人影はない。
広大な、という表現を使えるほどの庭園に音もなく降り立ち、リュークはまた闇に紛れて走り出した。綺麗に整えられた花壇が並ぶ一帯を過ぎ、美しく咲き乱れる花を尻目に駆け抜ける。そこら中に衛兵が歩いていたが、今が交代の時刻である。彼らの目の届かない範囲を選んで走り、裏口から身軽に入り込むと、颯爽と屋敷の階段を上がって二階に辿り着く。裏口と階段脇の衛兵は、ガライが呼び出してくれていた。庭に入ってからここまで、五百を数える間もない。
――ふっ、いつもながら鮮やかな手並み。……さて。ここからが問題なわけだ。
分かっているのは、この二階のどこかにトーラスの妻の宝石部屋があるという事だけだった。ガライは二階に上がった事がない。どの部屋が目的地なのかは天のみぞ知る、である。リュークの前に広がるのは、広間ではないかと疑う程の幅を持った廊下、先が見えないのではないかという程の長い廊下である。リュークは小さく皮肉った。
「馬鹿め、こんな廊下を毎日歩いてるのか? それならもう少し痩せてても良さそうなもんだ」
廊下には大理石の柱が立ち並び、それらには皆、豪華な彫刻が施してあった。天井からは、非常に高価なガラスで作られた大きく美しい室内灯が吊るされている。備え付けられた数え切れないほどの蝋燭には、全て灯がともっていた。床には真っ赤な絨毯が敷き詰められている。また、そこここに大きな騎士や女神といった彫刻が並べられていた。絢爛豪華だが、無駄遣いの極地と言っても過言ではないだろう。その廊下を眺めて、リュークは思わず、屋敷に入ってから何度目かの溜息を吐いた。トーラスの美的感覚は、リュークのそれとはあまりにも違っていたのである。
仕事中であることを思い出して気を取り直す。まずは、裸体の人魚像の脇にある一つ目の扉に耳をつけた。中からは複数の話し声が聞こえる。どうやら衛兵の休憩室のようだ。トーラスの悪口で盛り上がっている。毛皮の靴をはいた足は絨毯の上をすべるように進み、扉の前を無事、通り過ぎた。柔らかな絨毯は足音を吸い取ってくれる。
一つが終わると次の扉、そしてまた次、とリュークはどんどん進んでいく。時には中が宝石部屋かどうか確認するために、扉を開けなければいけない時もあった。見回りの衛兵をかわすために、彫刻と壁の隙間に挟まったりもした。心地良いとすら思える緊張感を楽しむ。リュークは根っから、盗賊なのだった。
二階の全てを見て回る時間は無かったが、リュークは一つの部屋を宝石部屋と見定めた。長い廊下にはいくつもの通路があったが、廊下の中ほどにあるそれは、すぐ先が行き止まりになっていた。衛兵が一人立っていて、他の扉と違う、分厚い金属製の扉を警護している。衛兵が一人だけというのは妙だ。そう思ったが、次の瞬間には打ち消した。
――屋敷の守りが厳しければ厳しいほど、中は手薄なもんさ。間違いない、あそこが目指す部屋だ。
しかし、一本道だ。衛兵を避けて部屋に入るのは困難だろう。衛兵は扉のすぐ前に立っているし、廊下を睨みつけている。横や後ろから近づく道はない。狭い通路の突き当たりに部屋があるからである。リュークは思案気に首を傾げた。
ところで、衛兵のフラッコは、とても不機嫌だった。今日は彼の誕生日であり、家族と婚約者が家で祝ってくれるはずだったのに、彼自身はこんな所で他人の宝石の見張りになってしまった。自分が守っているのが大事な物である事は当然知っているし、給料をもらっている以上文句も言えないが、何も今日が当番に当たらなくてもいい。仕事は仕事、きちんとやらねばと思ってはいても、深い溜息が彼の知らぬ間に吐き出されるのであった。今は何時なのだろう。後どれくらいで交代になるのだろう。あたりには人気もない。自分は一人、いつまでここにいなくてはならないのだろう……。彼の悩みは尽きない。その内、彼の口からは小さく文句が漏れ出した。
「第一、ルーチィだって今日は暇だって言ってたんだ。何も俺がここの見張りじゃなくたっていいんだ。あーあ、誰か替わってくれんかなぁ」
「いいぜ、俺が替わってやろう」
「えっ? だ、誰だ!」
通路の先、曲がり角の方に向かって剣を抜いた瞬間だった。鈍い音と共に頭に強い痛みを感じて、彼は倒れた。応援を呼ぶ声を上げる間もなく崩れ落ちる。立っていたのは、華やかに装飾された室内灯から舞い降りたリュークだった。リュークは見えない観客に向かって気障なお辞儀をすると、フラッコの腰のあたりから扉の鍵を見つけて、さっさと中に入っていく。
入ったと思うとすぐに出てきて、簡単な仕事だった、と言わんばかりに肩をすくめた。その手には例の首飾りが輝いている。それが本物である事を確かめる術はなかったが、部屋の中にあったサファイアは全て持って来たのだから間違いはない。それからしばらくして、リュークは何の痕跡も残さずに――と言ってもフラッコはもう見張りをしていなかったが――マルティン家を後にしていた。盗みは、入るより出る方が楽なものである。
「狙いは正確に、且つ迅速に、って事さ」
そう言うとリュークは不敵な笑みを浮かべ、闇の中に消えていった。
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