Legend of The Last Dragon −序章(1)−

レノア暦四三八年、春――青葉の月。

レノア城の一室で、エイルは深い眠りについていた。何か幸せな夢を見ていたような気もする。しかしいつしか、どこかかなり遠くから、誰かが彼を呼んでいるのだった。その声が、次第に大きくなってくる。エイルは眠りから急速に引き戻されていった。だがまだ目を閉じたまま、少年は柔らかな布団の中で体をひねった。聞き慣れた声が部屋に響いている。

「……エイル様……エイル様! ……起きていただけましたか!」

ようやっと眠りの世界から抜け出したエイルは、ゆったりとした動作で体を起こした。普段であれば側仕えの侍女の、控えめな高い声が彼を起こす。しかし今、彼を呼んでいるのは男の声だった。聞き慣れた声だが、声の調子は妙だ。エイルは、いまだ完全には覚醒していない頭でそんな事を考えた。

青い瞳に映るのは、まず自分が寝ていた広い寝台。それから、天蓋(てんがい)に吊ってある薄い絹のヴェール。床に視線を滑らせれば、そこには豪華な模様の絨毯が敷き詰められている。広々として居心地のよい自室だ。壁一面の大きな窓から射し込んだ朝陽が、寝台の横に飾ってあるエイクス=ヨハネ=シュレイス=レノア十三世の戴冠式の絵を輝かせている。エイルはその誇り高い父親の絵姿に目をやってから、声の主を探して、寝ぼけた目を部屋の入り口に向けた。

先ほどからエイルを起こすために声をかけていたのは、鎧をまとった剣士であった。エイルにとってはもっとも親しい騎士の一人、緑旗隊の副隊長でもあるシキ=ヴェルドーレだ。普段であれば、鎧を着たまま王族の部屋に踏み入る事など、許される事ではない。しかし今、黒髪の剣士はまさにその足を、柔らかく分厚い絨毯の上に踏み出しているところであった。彼のエイルを見つめる顔は主君を思う気持ちに溢れていたが、深い緑の瞳は苦しげに光っていた。その様子からは、よほど火急の事態が起こったのであろう事を窺い知る事が出来る。

シキの姿を認めるに至って、ようやくエイルの頭はすっきりしてきた。そしてその表情を見て、エイルは事態がただごとではないと悟った。

「何? 何があったんだ?」

「エイル様、落ち着いてお聞き下さい……。この城は、今、敵に攻め込まれております」

「え……っ」

「一刻もお早く、鎧の準備をなされませ」

「ちょ、ちょっと待って。父上と母上は? 兄上は、どうなさっているんだ?」

「それは……」

「いや! それよりこの平和な世界で、誰がこのレノア城を攻める?」

シキは、その判断に内心では感心しながらも、これからこの幼い主君に伝えなければならない事を思い起こし、胸を痛めた。豪奢(ごうしゃ)な天蓋つきの寝台の上、少年王子は起きあがった姿勢のまま、騎士の顔を穴が開くほど見つめている。その真摯(しんし)な瞳にシキは思わず目をそらし、うつむき加減でゆっくりと口を開いた。

「コジュマール様が……王弟コジュマール大公が軍勢を率いて攻め込まれたのです。城門のあたりは既に火の海。これは、完全なる反乱です。詳しい事は後ほど、全てをお話しいたしますゆえ、今は、お早くご準備の方を……」

「そんな……まさか! なんたる事だ……。シキ! 父上や母上、兄上の事だけは教えてくれ。今はどうなさっておられるんだ!」

「……エイクス王、そして母君様、シエル殿下。皆様は……お亡くなりになりました。つい、先ほど……」

寝台から降りようとしていた中途半端な姿勢のまま、エイルは凍結したように動かなくなった。足元を見ていた目だけが浮遊し、ゆっくりと黒鎧の剣士に向けられる。

「シ……キ?」

あまりにも突然の通告である。茫然自失といった表情と、不安げに揺れるその瞳。予想していたとは言え、幼き王子の様子はシキの胸を貫いた。まだ弱冠十二歳の大切なご主君は、何を言っていいやら分からず、ただ唖然と開けた口をわななかせている。厳しくも優しい父親、国中で一番美しいと言われた母親、前の王妃の子であるとはいえ仲の良い、エイル自慢の兄王子。その彼らを、そして彼らの深い愛までも、エイルは失くしたのである。それもまだ自分が何も知らない内に。一瞬にして。

エイルは何も考えられないまま寝台から降り、のろのろと歩き出した。たった今聞いた事実が信じられないのである。そしていつものように――まだ寝間着のままではあったが――両親に挨拶をしようと、つまりは部屋を出ようとした。しかし既に立ち上がっていたシキの腕が苦しげに、その歩みを止める。エイルは、伏し目がちなシキの顔を見上げた。その表情を見て、気づく。焦点の定まっていなかったエイルの瞳が一瞬潤み、そして、小さな顔が歪んでいく。

「嘘ではないのだな……。では、もう……もう……」

「エイル様」

少年は理解し、その目を閉じた。空白の次にやってきたのは深い悲しみである。エイルの頬に暖かいものが流れ、膝からは力が抜けて思わず崩れ落ちそうになった。シキは黙って、主君を支えるためにそっと腕を伸ばす。エイルはその腕をぎゅっと掴み、しばらくの間、肩を震わせていた。

「エイル様、準備をなさって下さい。……このままここにはいられませぬ」

その時。どこかで大きな音がした。何かが爆発したような音で、それに伴って多くの喚声も響いてくる。穏やかな光が溢れ、平和であったはずの王子の部屋に、突如慌ただしさが満ちた。シキは緊張した声で言う。

「今はとにかく早く、鎧をお召しになって下さい。長旅になるやも知れませぬ。金貨や大事なものをご用意下さい。ただあまり多くの物は……」

と、エイルの部屋の外、階段を駆け登る一組の足音が聞こえてきた。その足音はエイルの部屋の前で立ち止まり、次の瞬間、勢いよく扉が開け放たれる。既にシキは長剣を抜き、エイルを背中にかばった態勢で身構えていた。しかし、シキの予想とはうらはらに、そこへ現れたのは一人の老人だった。彼は肩で息をしながら、慌てた様子で訴え始める。

「シ、シキ殿、こちらにおられましたか! たた、大変な事に……うぅっ」

「ジルク殿、何だと言うのですか。王弟による反乱勃発より大変な事など……! 司祭の占いが有能である事は分かっているが、それどころではないでしょう」

王宮専属の司祭であるジルク老は、その枯れた手で胸を押さえていた。長く立派な白ひげを蓄えた顔が息苦しそうに歪んでいる。恐らく、滅多にない事だが、走ってきたのだろう。いつも彼を覆っているはずの、貫禄や威厳といった言葉はもはや失われていた。老司祭は乱れた髪を撫でつけ、髭を撫でさすった。気が焦っているのか、無理に何か言おうとし、何度も咳き込んだ後、彼はようやく一気にまくし立て始めた。

「不躾(ぶしつけ)なる態度はこの際お許し願いたい。大変な事態になりましてございます。私めは先ほど占いをと思い……ええ、コジュマール様、いやコジュマールの軍は王の広間にて足止めを食らっているとの事、まずはエイル様の逃げ場を確保せねばと思い、占いを始めたのです。非常に遺憾ではございますが王も、第一王子のシエル様も亡き今、エイル様だけが頼みの綱。今後のレノア国の存亡も含めまして占いをと……」

そこまで言ったところで、ジルクはむせ、再び激しく咳き込んだ。あまりに多くの言葉を早くしゃべろうとするので言葉に詰まり、次いで息がつまるのだった。胸を叩き、深呼吸をしているジルクに、シキが小さく舌打ちする。

「落ち着いて下さい! ……ああもう、何だっていうんだ!」

気持ちの焦りから、シキはいらいらとした様子を隠しもしない。ジルク老はその様子を見て取り、まずは自分の部屋へと促した。老司祭は塔の最上階の近くに自室と仕事部屋を与えられている。

「とにかく行って説明いたしますゆえ……。反乱軍は我が軍の精鋭たちが取り押さえてくれるでありましょう、まずは、我が部屋へエイル様をご案内いたしましょうぞ」

「分かりました。私は戦況を見てまいりますゆえ、ジルク殿はエイル様をお部屋へお連れしてください。私もすぐに追いかけます」

言いながらエイルに目をやると、王子は純白の鎧を着ようと四苦八苦していた。いつもならば当然、侍女がその身にまとわせるべきであるのだが、既に逃げてしまったのか、呼んでも一向に現れる気配がない。エイルは鎧を上半身だけなんとか身に着けた、といったところだ。

「シキ……」

細く柔らかい水色の前髪の下で涙の雫が光っていたが、シキを見ると、少年王子は気丈にもその潤んだ瞳を拭(ぬぐ)った。励ますようにその肩を叩き、シキは長剣を腰に挿して部屋から駆け出していく。これから先の事を考えると、その心中には暗澹(あんたん)たる思いが溢れんばかりである。

エイルはなんとか鎧を身に着けると、美しい模様が刺繍されている布袋に金貨を詰め込んだ。幼い頃に母から貰った美しい小箱も袋へ入れ、他に何を持っていけばいいかな、と部屋を見まわす。もしかしたらここにはもう戻って来られないかもしれない……などという考えは、彼の頭には微塵(みじん)も浮かんでいないようだ。ジルクは王子を急かすようにして部屋を出た。

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