エイルと最後の竜 序章 - 目覚め

レフォア城の自室で、エイルは深い眠りについていた。何か、幸せな夢を見ているようだ。大勢の気配が辺りにあり、笑いさざめいて楽しんでいる。それらは徐々に消え失せ、どこか遠くから、誰かに呼ばれる。そんな気がした。声は次第に大きくなってくる。エイルは眠りから急速に引き戻されていった。目を閉じたまま、少年は柔らかな布団の中で体をひねった。声はいつしか、切羽詰まったものになっていた。

「……ル様……エイル様! ……起きていただけましたか!」

ようやっと眠りの世界から抜け出したエイルは、ゆったりとした動作で体を起こした。普段であれば侍女の控えめな声が彼を起こす。しかし今、彼を呼んでいるのは男の声だった。よく知った声だが、自室で自分を起こす声であるはずはない。おかしい。完全には覚醒していない頭が違和感を覚える。

目に映るのは、自分が寝ていた寝台と柔らかな布団。それから高い天蓋てんがいに吊るされた絹の薄地。床に視線を滑らせれば、豪華な模様の絨毯じゅうたんが敷き詰められている。広々とした自室の寝所だ。壁一面の大きな窓から射し込んだ朝陽が、寝台の横に飾ってあるエイクス=ヨルン=シュレイス=レフォア十三世の戴冠式の絵を輝かせている。エイルは誇り高い父親の絵姿に目をやってから、声の主を探して、寝ぼけた目を部屋の入り口に向けた。

先ほどからエイルを起こすために声をかけていたのは、鎧をまとった近衛兵であった。エイルがもっとも親しくしている、緑旗隊りょっきたいの副隊長であるシキ=ヴェルドーだ。鎧を着たまま王族の部屋に踏み入るなど到底許される事ではない。しかし今、黒髪の剣士はまさにその足で、分厚い絨毯を踏んだところであった。

シキの姿を認めるに至って、ようやくエイルの頭はすっきりしてきた。シキの顔は主君を思う気持ちに溢あふれ、その深い緑の瞳が苦しげに光っている。そしてその表情から、エイルは火急の知らせがあるのだと悟った。

「何があったんだ」

「エイル様、落ち着いてお聞き下さい。……この城は、今、敵に攻め込まれております」

「え?」

「一刻もお早く、鎧のご準備をなさってください」

「どういうことだ。父上は? 兄上は?」

「それは」

「第一この平和な世界で、誰がこのレフォア城を攻めるというのだ」

シキは、エイルの素早い判断に感心しながらも、これからこの幼い主君に伝えなければならない事を思い、胸を痛めた。豪奢ごうしゃな寝台に身を起こし、少年王子は騎士の顔を穴が開くほど見つめている。その真摯な瞳にシキは思わず目をそらし、うつむき加減でゆっくりと口を開いた。

「先月、ジルク殿の予見がございました。近々、天地を返す災いあり、と。内偵の結果、コジュマール大公殿下……いえ、王弟コジュマールが謀反を」

「叔父上が、謀反? まさか!」

想像もしなかった答えにエイルは思わず絶叫した。

「信じられぬのも当然でございましょう。陛下の弟君、王国騎士団全軍を掌握する武官長が謀反など、我々も信じられませなんだ。ですが、残念なことに真実。時既に遅く、対策もままならぬ状態で本日未明、コジュマールの私兵が城にて行動を起こし」

「嘘だ」

「さようであれば私も嬉しいのですが、今、嘘や冗談を言っている余裕はありませぬ。エイル様、鎧をお召し下さいませ」

エイルは唖然としたままでいる。

「そんな、馬鹿な……。そ、そうだ、シキ、父上や母上、兄上はどうなさっておられるんだ」

「今は、どうかお着替えを。お急ぎください」

目をそらして着替えを促すシキの様子に、不穏さを感じる。その目に動揺が走る。

「言え!」

きつい問いかけにうろたえながらも、シキは忠実な騎士である証拠に、主君の命令に従った。

「エイクス陛下とシエル殿下は……」

続きをどう言えばよいものか戸惑い、言葉が止まる。無言で続きを求められ、シキは声を絞り出した。

「エイクス陛下、シエル殿下におかれましては、王の間にてお命を落とされたと伝令がありました。王妃さまのご寝所には部下のスグリが向かっておりますが……」

シキが何を言っているのか、聞いてはいても理解できない。言葉が、意識の上っ面を氷のように滑っていくだけで、エイルは赤ん坊のように口をぽかんと開けた。

厳しくも優しい父王。前妃の子であるとはいえ、仲の良い兄王子。その彼らを、彼らの深い愛を、エイルは失くしたのである。それも、自分が何も知らない内に。弱冠十二歳の王子の呆然自失といった様子は、シキの胸を鋭く貫いた。

エイルが漫然と寝台から降り、寝巻のまま、のろのろと寝所を出ようとする。立ち上がったシキの腕が苦しげに、その歩みを止めた。焦点の定まっていなかったエイルの目が、シキの歪む顔を見上げる。

「嘘、では……ないのか」

「この目で見たわけではありません。伝令が、あっただけです。それに、王妃様はご無事かもしれませぬ」

シキとて、信じたくはなかった。伸ばした腕につかまった細い体が震えている。

「エイル様、ここを離れなくてはなりませぬ。ご準備を。鎧をお召しに」

どこかで大きな音がした。それに伴って多くの喚声も響いてくる。穏やかな光が溢れ、平和であったはずの王子の部屋に、突如慌ただしさが満ちた。シキの声が緊張をはらんだものになる。

「誰か! 誰かおらぬか! エイル様のお召し替えを」

侍女を呼ぶも、誰もその姿を現しはしなかった。仕方なく、シキが装具置き場から磨き上げられた鎧を運んでくる。城を出た後のことまで考える余裕もなかったが、長旅になる可能性もある。

「金貨や、大事なものを袋に。あまり多くの物は持っていけませぬゆえ」

準備をしていると、階段を駆け登る誰かの足音が聞こえてきた。その足音は部屋の前で止まり、勢いよく扉が開いた。既にシキは長剣を抜き放ち、エイルを背中にかばった態勢で身構えている。その予想とはうらはらに、そこへ現れたのは一人の老人だった。荒い息で、その肩を揺らしている。

「シ、シキ殿、も、こちらにおられたか」

「ジルク殿でしたか。何故こちらへ」

王宮の最高司祭であるジルク老は、その枯れた手で胸を押さえていた。長く立派な白ひげを蓄えた顔が息苦しそうに歪んでいる。恐らく、滅多にない事だが、走ってきたのだろう。いつも彼を覆っているはずの、貫禄や威厳といった言葉はもはや失われていた。老司祭は乱れた髪を撫でつけ、髭を撫でさすった。気が焦っているのか、無理に何か言おうとし、何度も咳き込んだ後、彼は一気にまくしたてた。

「不躾なる態度はこの際お許し願いたい。エイル様をお迎えに上がりました。お急ぎください。私の部屋に、準備を……うっ」

そこまで言ったところでジルクはむせ、再び激しく咳き込んだ。あまりに急いだからか言葉に詰まり、次いで息がつまる。胸を叩いているジルクに、シキが小さく舌打ちする。普段はごく冷静である緑旗隊の副隊長も、司祭長を労わる余裕がないようだった。

「落ち着いてください」

「あ、ああ。エイル様の、安全を確保せねば。一刻も早く。ここにいては危険です。と、とにかくお早く、私の部屋へ」

「分かりました。私は戦況を確認してから参りますゆえ、ジルク殿はエイル様をお部屋へお連れしてください。すぐに追いかけます」

言いながらエイルに目をやると、王子は白く輝く鎧を着ようと四苦八苦していた。常時ならば当然、側仕えの者がその身にまとわせるべきもので、一人で着られるようなものではない。それでもなんとか胸当てだけ身に着け、編み上げ靴のひもを結んでいる。

「シキ」

少年王子は顔をこわばらせていたが、シキを見ると気丈にも笑みを作ってみせた。鎧の装着を素早く手伝うと、シキは長剣を手に部屋から駆け出していく。これから先の事を考えると、その心中には暗澹あんたんたる思いが溢れんばかりである。

ジルクは王子を急かし、二人は慌てて部屋を出た。

老司祭は北の塔に自室と仕事部屋を与えられている。狭くはなかったが、様々な物で足の踏み場がないような有様だった。天井までの本棚と、収まりきらずにあふれ出た大量の本、奇書魔法書の類。床に並ぶ壺や木製の樽はそれぞれ謎の液体や丸めた古紙など、様々なものが入れられ、それらの間には何に使うのか分からない道具が押し込まれている。壁には不思議な文様や読めない文字がびっしりと書き込まれた壁掛けがいくつも留められている。エイルは足元の剥製を気づかずに踏んだ。

「殿下、こちらでございます」

部屋の奥、丸い台座の設置されているあたりでジルクが手招きしている。窓もなく、ちらちらと揺れ動くろうそくの灯りが部屋の陰鬱いんうつさをより強く印象づける。

「この部屋はいつ来ても暗いな」

「本棚ばかりですからな」

「私ももうだいぶ読んだ。あちらの棚はたいがい」

「そうでしたね。さすがは勉強家でいらっしゃる」

「世辞はいい。……シキはまだ戻らんのか」

不安げな顔を見せるエイルは、まだ幼い少年である。エイルにとって、シキは特別な存在だった。エイル専属とも言える護衛騎士であり、同時に剣の師範、乗馬の教師でもある。友といえる相手もなく、仲は良いが、第一王位継承者として忙しい日々を送っている兄王子シエルとも長い時間を過ごせるわけでもない。エイルにとってシキは本当の兄以上に親しみのある相手であった。

「シキ殿は全騎士団の中でも五指に入る強者。ご心配は無用でしょう」

「うむ」

外の騒音や人々の喚声は届いてこない。若干落ち着きを取り戻してはいたが、エイルの顔は晴れなかった。両親と兄の事を思うと、小さな胸が潰れそうになる。そしてまだ、反乱という言葉が持つ本来の意味は、理解出来ていなかった。

――何故、突然こんな事になるのだ。父上やシエル兄上に、もう二度と会えないなんて。そんなこと……本当に、本当なんだろうか。

深い悲しみが全身を満たしている。何もかもが一時いちどきに起こり、冷静に分析する事など出来ない。エイルは大きく頭を振って、その事を考えないように務めた。

「去年の暮れ、シエル殿下とご一緒に春風を占ったこと、覚えておいででしょう」

ジルクが分厚い書を手早くめくりながら言う。その時のことを思い出し、エイルはこくりとうなずいた。年明けを意味する春風、それが今年はなかなか吹かなかった。それでジルクが春はいつごろ来るのかと占ったのである。

「あの折、吉凶の両方が出ていたのです。今年は大きな事件が起こるやも、と。詳細なことまでは分かりませんでしたが、先月、近く凶事が起こるとの予見があり、万一のための準備をしておったのです」

「万一、だと? ジルク、お前には起こることが分かっていたのか」

急に大きな声が出て、エイルは自身でも驚いた。

ジルクは、将来起こる実際の未来をあらかじめ見ることが出来るという。そういう力のある人が司祭という仕事に就くのだと聞いた。ジルクは国の司祭長である。誰にも劣ることのない予見の力があるということだ。ならば反乱が起こること、また両親や兄の身に何が起こるか、分かっていたのではないのか。分かっていて、防ぐ手立てはなかったのか。そういった言葉が整理できないまま暴れまわり、エイルの胸の内は騒然と泡立った。

「分かっていたのか! なら何故!」

「殿下。落ち着いてください」

「ジルク!」

「どうかお聞き下さい。以前にもお話いたしましたね。私が予見したことは必ず起こるのです。防ぐために何か行動を起こしたとしても、運命の神クタールの手によって、別の形で実現します。先のことが分かったとて、私に未来を変える力があるわけではありませぬ」

「では、見えてはいたのだな……?」

唇をかむエイルから目をそらさず、老司祭はゆっくりとうなずいた。エイルは眉根を寄せてこらえていたが、ついに両手で顔を覆った。

「見えることと、見えないことがございます。見るべきものが見える、というべきか……。ですが、この度のことは」

「……もういい。話を続けろ」

ジルクは、エイルの性格をよく知っていた。やたらと同情されたり、優しくされたりすることはその意に添わぬことだった。ジルクはエイルに背を向け、改めて口を開いた。

「近々凶事が起こる、平和は続かない、積み上げてきたものが崩れゆく。これが先日の予見でした。私は陛下の御身おんみを案じ、何度も予見を試みたのですが、暗闇しか見えませなんだ。シエル殿下もです。ですが、エイル様、貴方様には光が見えました。ですから、有事の際には真っ先にエイル様をお守りせねばなるまいと」

エイルは黙ってジルクを見つめている。その胸中に浮かぶ思いは複雑で、言葉に表すことは出来なかった。

「コジュマールは王の座を欲しております。エイクス様とシエル様が亡くなったとすれば、次はエイル様の首を狙うが必然」

突きつけられる現実は、考えないようにしていたエイルを逃がすまいと絡みついてくるかのようだった。薄く開いた唇から、苦しげな息が漏れる。

「ここまでは何とか来られましたが、もうここも危ない。敵の目を盗んで城外に出ることも難しいでしょう。一刻も早く、どこか遠くへ、エイル様をお送りせねばなりませぬ」

「……遠く、とは」

「はい。エイル様の安全が保障される場所はどこか、誰に頼るべきなのかを吟味したいところですが、とにかく時間がありませぬ。とにかく遠くへ。なるべく安全と思われるところへお送りします」

多くのしわが刻まれた顔の奥からぎょろりとした視線を向けられ、エイルはたじろいだ。

「何も分からぬままお送りするなど、不安は尽きませぬが」

「私には光が見えたと言ったな。なら大丈夫だろう。ジルクの予見は間違いがないのだから」

ジルクを信じているのだろう。エイルのはっきりとした言葉の調子に老人は片眉をあげ、その誇りをささやかに示した。

「こんなこともあろうかと古い秘術の本を紐解き、転移の術法を準備しておりました」

エイルの背後、重そうな鎧の音がシキの入室を告げた。塔の階段を駆け登ってきたのか、シキは少し息を切らしている。しかし何よりもまず目に入るのは、その緊張した面持ちだった。

「この塔の近くにもコジュマールの兵が来ております。守りを隊長に任せ、こちらまでご報告に参りましたが、すぐに戻らねば」

訓練された騎士はそれ以上余計な事を言わず、二人に背を向ける。ひるがえったその服の端をエイルとジルクが掴んだのは、ほぼ同時だった。焦って振り払おうとするシキを手で制し、ジルク老は口を開いた。

「行ってはなりませぬ。シキ殿には、エイル様をお守りいただかなくてはなりませぬゆえに」

「そうだ、だから戦いに戻らねば。離してくれジルク殿」

「そうは参りません! ……エイル様、今は御身の安全だけをお考えになってください。後のことはシキ殿と相談を」

ジルクに促されるまま、丸い台座に押し上げられたエイルは、シキに助けを求めるような視線を投げた。シキはその視線に応え、ジルクに向かって口を開いた。

「ジルク殿、一体何をしようと言うのです」

「説明する暇はありませぬ。早く、シキ殿もこちらへ。エイル様とともに城外へ送ります。さあ早く」

余裕のないジルクの様子に、シキは抵抗をやめて台座に登った。エイルがしがみつくようにしてシキの服を握り締める。

「残念ながら、もう城からは……例え一騎当千のシキ殿がいても逃げ出せぬでしょう。ここより転移の術法を使います。……ああ、これだ」

そう言うと、見つけた羊皮紙を広げた。

「これが大陸図で、レフォア城はここです……。殿下、どうかご無事で」

エイルの持っていた袋に羊皮紙を押し込む。それからシキに向かって熱っぽく語りかけた。強い光がジルクの目にきらめく。

「どうかエイル様をお守り下さい。事情をお話しする時間がなく申し訳ない。向こうへ着いてからエイル様にお聞き下さい。それから、御身もお大切に。必ず、必ずお二人とも、ご無事でお戻りくださいますよう」

「ジルク殿」

「お願い申し上げる!」

司祭はシキの目をしっかと見つめ、力を込めてその手を握った。それからかたわらの書を開く。

大きな、まるで鐘を叩くような音が響いてきた。塔の扉を叩き壊そうとしているようだ。不思議な抑揚をつけてジルクは朗読を始める。エイルとシキの身体が熱くなっていく。エイルが一抹の不安を感じて振り仰ぐと、シキも自分を見つめ返していた。

「何があってもお守りします」

シキは力強くうなずき、唇に笑みを浮かべて見せた。王国騎士団でも五本の指に入る剣士の笑顔は、幼い王子を満足させるに足るものであった。エイルは決意したように唇を引き結び、まっすぐにジルクを見つめた。

眉を寄せているジルクの額には、じんわりと汗の粒が浮き出している。

「遠くへ。遠くへ……」

エイルとシキが乗っている台座が光を放ち始める。どうやらそれ自体が魔法陣の役目を果たしているようだ。その光の中、エイルとシキの姿がだんだんと薄れていく。ジルクはほっと息をついた。が、徐々に台座の光がその色を変え、台座の一点が強く輝きだした。ジルクの目が大きく見開かれている。

「おかしい、おかしいぞ、こんなはずではない……何故サキュレイアが!」

二人の姿が見えなくなった台座にしがみつきながらジルクがそう叫んだ時、部屋の扉が激しい音とともに開け放たれた。振り向いたジルクの目には、武器を掲げて走りこんでくる兵士たちの姿が映っていた。

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