Legend of The Last Dragon −第三章(7)−

普段なら常駐しているはずの関所の兵士も、人手が足りなくて駆り出されているのか、町外れには人の姿が見えない。無人の関所を抜け、ようやくマイオセールの町を出た頃には、すっかり日が暮れかかっていた。

幼い皇女は、ある日突然現れた男に手を引かれ、とぼとぼと歩いていく。今までの短い人生の全てを、彼女は王宮の中で過ごしてきた。自らを守る術(すべ)は何一つない。ほとんど何も知らない相手ではあったが、今の彼女に出来る事は、この男についていくことだけだった。涼しげな風が顔をなでる。星が、広い空に瞬き出している。皇女はうつむいていた顔を初めて上げ、空を見つめた。また涙が流れてしまうだろうか。そう思って一瞬たじろいだが、不思議な事に彼女の瞳は潤まなかった。サーナは顔を元の位置に戻し、小さな顔にまとわりつく髪を手で払った。目を伏せ、何を見るともなしに足元に視線を向ける。足のすぐ先を、小さな蜥蜴(とかげ)が素早く通り過ぎていった。普段の彼女なら悲鳴を上げてそばの誰かに飛びつくところだったが、今のサーナはそれをじっと見つめるだけだ。最早、その虚ろな瞳には何も映っていなかったのである。

マイオセールで馬を手に入れることの出来なかった彼らは、ハーディスが地平線の向こうにその姿を隠してからも歩き続けた。リュークは満天の星々の下、サーナの手を引いて街道を辿っていく。

強行軍というわけにはいかなかった。幼い少女の、しかも王宮を出た事もないような皇女と一緒では無理もきかない。彼女の足がもつれて転んだのをきっかけに、リュークは腰を落ち着けることに決めた。振り返れば、マイオセールの町並みが少しは遠くなったとは言え、まだまだ近くに見える。

灌木(かんぼく)の根元の小石を取り除き、なんとか居場所を確保する。リュークは腰から肩にかけて結んだ紐を外し、背負っていた袋の口を開けた。干し肉のかけらと水筒代わりの木筒を取り出すと、サーナにそれらを渡し、口にするように言う。リュークは自分でも干し肉にかじりついた。サーナはしばらくその様子を見ていたが、やがて恐る恐る、干し肉を食べ始める。彼女は一言も喋らなかった。リュークも、全く口を利かない。

無言で火を起こし、上着をサーナにかけて眠るように指示する。野宿という初めての体験に戸惑っていたのか、サーナはしばらくその大きな瞳でリュークを見つめていたが、やがて疲れが彼女を眠らせた。焚き火の向こう、紫紅色の瞳がゆっくりと閉じられていく。

「お前、これからどうする……?」

リュークは小さく呟く。眠りかけた幼い皇女に対する問いかけなのか、それとも自分自身への問いかけなのか。彼は自分でも分からないようだった。

ルセールの首都マイオセールから離れてしまえば、街道を歩いているとは言え、目に入るのは所々に背の低い木が生えているだけの、果てしもない荒野である。明日からの旅程を思い、リュークは嘆息した。遠く遠く、かすかな波の音が聞こえる気もする。火の番をしながら、リュークは一番中考え事をしているようだった。

移動はゆっくりとしたものだった。もちろん、皇女がすぐにへたり込んでしまうからである。リュークは仕方なく、休み休み歩いた。たかだか一日、それもほんの数時間歩いただけで、サーナの白魚のような小さな足は赤くなり、皮がむけ、しまいにはまめが出来てしまった。皇女を引きずってでも進みたかったが、そうもいかない。彼女を背負っていくらか歩いてはみたが、そうそう進めるものでもなかった。八歳の少女は、何時間も背負ったまま歩けるほど軽くはない。若き盗賊は足を止めるたびに、肩をすくめた。少女はそれに対し、悪びれた風もない。ただ目を伏せ、足を押さえては座り込む。そして無表情のまま、黙りこくって目を逸らすのだ。一旦こうなると、リュークがなだめても怒っても、そうそう簡単に歩いてはくれないのだった。

ゆっくりと進み、ようやく小さな町に辿り着く。リュークの予想ではマイオセールを出てから一両日中に着いているはずだったのだが、町の入り口に立った時には既に三日が経過し、なおかつ濃い夕闇があたりを染め始めているといった具合だった。尽きかけていた食料を思い、リュークはようやく安堵の息を吐き出した。

ルセールの首都から南東に二十ロッカほど離れたこの町は、ルセールの貴族であるアンワール=サルヴィの城に併設された宿場町である。町には地下水の泉が湧き、水にはそれなりに恵まれている。アンワールはここで自領地を治めながら、街道筋の治安維持に努めているわけである。とは言え、最近のアンワールの仕事は関税搾取が主になりつつある、というのがもっぱらの噂であった。

王都から東に馬で一ヶ月ほどいくと、港町コーウェンがある。ここはミクリナ島からの産物が初めに着く港で、絹交易の恩恵を十分に受けていた。絹織物を始めとした様々な商品がコーウェンから大陸各地へ送られる。大きな道筋は二つ、山脈へ向かう道と王都へ向かう道だ。コーウェンと王都を繋ぐ街道は、ルセールにとって非常に重要な、物資流通のための道なのだった。街道筋にはいくつかの城があり、小領主たちが治安を維持している。追いはぎや野盗などとは滅多に遭遇する事のない、安全な街道なのである。リュークがこの町を、この街道を選んだのは、そういった理由からだった。

「おい、頼むぜ? 俺が帰ってきた時、この子が今とちょっとでも様子が違ってたら……」

「やだわ、リュークったら。あたしがリュークの言いつけ守らなかった事ないじゃない。ね? そうでしょ?」

「あぁ分かってるって。念を押しただけさ」

「でもリューク、どのくらいで戻ってくるのさ? こんな小さな子、娼家にそう何日もおいてやれないわよ」

「それも分かってるよ。一仕事してくるだけだ」

「そう、それならいいわ。その代わり、帰ってきたらあたしと遊んでね」

「俺はお前に会いに来たんだよ。この子は口実さ」

リュークの前にいるのは、首や手足を大小様々の宝石で飾りつけた、ジェラシュ地方の女だった。ゆったりとした服を身に着け、革製の帯をきつく巻いているので、細い腰がより際立っている。肩から背中へ流れ落ちるような髪は艶々と美しく、浅黒い肌には香油が塗られていた。そこらには柔らかな敷物が敷き詰めてあり、壁には透けるような布が幾重にも垂れ下がっている。サーナは香炉から立ち上る煙と、きつい脂粉(しふん)の香りに顔をしかめていた。

大きな町の歓楽街や、この町のように旅人が行きかう宿場町には娼家が多い。一般家庭では滅多に見ることが出来ない風呂に入れるのが特徴で、ひいては大衆的な娯楽場ということでもある。多くの奴隷が召し抱えられていて、客の食事の相手をしたり、様々な世話をしたりする。更に上級の女奴隷もいて、多いところでは十数人以上が寝泊りしている。彼女らは奴隷ではあったが、特に「ラハブ(遊女)」と呼ばれて珍重された。扱われ方は非常に丁重で、個室を与えられ、気に入った客を部屋へ呼ぶ事も出来る。客がいくら誘っても、気に入らなければ首を振ればいい。ここでは、男の客よりラハブの方が優位なのだった。今リュークがいるのは、そういった個室の一つである。

「ふふふ、嬉しい。リュークは滅多に来てくれないから」

「俺も忙しくてな」

「そんなこと言って、本当は……」

リュークは、女に最後まで言わせはしなかった。しなだれかかる女の腰に手を回し、逆の手をあごにかける。しかしそこでサーナの事を思い出したようだ。慌てて立ち上がると、額に落ちた長い前髪を右手で軽くかきあげた。

「じゃ、頼んだぜ。ギルドにも顔を出さなきゃなんないしな」

「商人ギルドに何の用があるっていうの?」

「馬鹿だな、表のギルドじゃないさ。商人には商人の、盗賊には盗賊のギルドがあるんだよ」

そう言って笑うと、リュークは部屋の扉を後ろ手に閉めた。後に残されて不安げなサーナは、ラハブと視線を合わせぬようにして膝を抱える。部屋の隅で小さくなっている少女を眺めやったラハブは、面倒そうに鼻を鳴らした。

狭い横道から広々とした大通りに出て、人通りの合間を抜けていく。夕暮れ時の町には、いつもと同じようにむっとするような熱気が満ちていた。収穫季である今は、この鬱陶しい湿気さえなければ非常に良い季節だ。北のような豊かな四季はないが、ルセールの収穫季は乾季に比べてずっと過ごしやすい。

――一年中収穫季だったらな。

晴れ渡る空を見上げて、リュークは小さく笑った。ほんの数日前に起こった忌まわしい事件も、彼の中では既に過去の事として片付けられているのだろうか。時折歌を口ずさんだりもするほど、機嫌が良さそうである。非現実的な存在も、マイオセールの悲劇も、皇女のことも、姿を消した友人のことも、リュークはその全てを忘れたかのようだ。鼻歌交じりでとある路地に入り込む。

この路地を知っている者は、余程火急の用事でもない限りここを通らない。危なくて近寄れやしないからだ。

路地の半ば程にある建物の入り口近く、物騒にも短剣を弄んでいる男が立っていた。二本の短剣を投げ上げては持ち替え、時折服で磨いたりするところは、いかにも扱いに慣れているごろつきといった風体だ。その眼光の鋭さは、男が只者ではない事を予感させた。しかしリュークは躊躇いもなく近づいていく。男はリュークに気がつき、短剣を利き手に持って身構えた。が、次の瞬間その相好が崩れる。

「なぁんだ、リュークの兄貴じゃないっすかぁ。珍しいですねぇ」

「ようイヴン。ギルド長はいるかい?」

「ゼルアルの親父だったら、今は忙しくてギルドなんかでゆっくりしてる暇はないっすね」

「どういうこった」

「ワリードさんが来てますから、詳しくは下で……」

扉を開けると、すぐに階段がある。地下へと続く薄暗い階段を降りると、ごく狭い通路で男が椅子に座っていた。壁ぎわに置いた椅子に腰かけ、壁に上げた足が通り道を遮断している。体つきはがっしりしていて、むき出しの腕もリュークの倍は太そうだ。波打つ硬そうな黒い髪の下から、やはり黒い目がぎろりと見上げる。

「……何か用かい」

「ああ、ワリードに話があるんだ」

「俺はあんたが誰か知らねぇし、通していいって話も聞いちゃいない」

「そりゃ困ったね」

リュークは口を歪めて笑い、前髪をかきあげた。それからおもむろに大声を張り上げる。

「ワリード! リューク様のお出ましだぜ!」

「てめぇ……」

のっそりと立ち上がった男はリュークより頭一つ以上大きく、低い天井に頭がつきそうな程だった。しかしリュークはお構いなしだ。男の両腕がリュークを捕まえようとしたが、それを軽くかわして再び大声を張り上げる。通路の向こうに並んでいる木の扉がいくつか開き、興味あり気な顔がのぞいた。扉が開くと、騒々しいざわめきが通路に流れ出す。多くの部屋ではごろつきどもが呑んだくれているようだ。通路の一番奥、突き当たりの扉が開き、猫背の男が姿を現した。大きな帽子がその頭に乗っている。男は見張りの男のところまでやってくると、その肩に優しく手をかけた。

「こいつはな、一匹狼だとかきどっちゃいるが、ゼルアルの古い知り合いさ」

「きどってるって何だよ」

「よおリューク、久々だな。ご機嫌かい?」

ワリードと呼ばれた男は、のんびりとした口調でリュークに笑いかけた。眠たげな目はどこに焦点があるのかいまいち定かではない。火傷の跡も生々しい右手で、見張りに座るよう指示する。男は不服そうな顔をしながらも、再び椅子に腰掛け、向かいの壁に足を上げた。

「どうかな。こっちこそ、最近はどうなんだい? アンワールの旦那は相変わらず?」

リュークがにやりと笑って見上げると、ワリードはそれに応えてゆっくりと頷いた。

「ああ、ご領主様は相も変わらず抜け荷さばきにご執心だよ。ちょっと前にマイオセールから早駆けが来た時も、兵を集めることすらしやがらねぇ。そうそう、なんでもマイオセールに正体不明の化け物が現れたらしいぜ」

「知ってるよ。たかだか三日前に死にそうな目に遭ったばかりでさ、おかげで今も面倒な事に巻き込まれてるんだ」

「一匹狼って奴は、やっぱり色々と大変そうだな。ギルドの助けがあった方が、お前も仕事が楽なんじゃないか? ……で、今日は何の用だ? ギルド嫌いのお前が来るなんて珍しい」

「用でもなきゃこんな女っけのないとこにゃ来ねぇよ。実は売りさばいて欲しい品があってさ、ゼルアルに頼もうと思って来たんだけど……あの親父、忙しいんだって?」

「ゼルアルはここんとこ寝る暇もねぇくらいだよ。王都がやばくなっちまったんで荷物が溜まってな、それの処理が大変なんだよ」

「組織って奴は、やっぱり色々と大変そうだな。一匹狼の方が仕事は楽なんじゃないか?」

ワリードの仕草を大仰に真似て、リュークは笑った。ワリードは肩をすくめている。

「さて、どうする? ギルド長はいないし……品物、俺が預かろうか?」

「ゼルアルが落ち着いた頃、また来るさ」

リュークはにこやかに笑うとワリードに背を向けて階段を上がっていく。ワリードはそれを笑顔で見送っていたが、リュークの姿が消え、扉の閉まる音が聞こえると、階段を睨みつけて呟いた。

「ちっ、あの野郎……」

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