Legend of The Last Dragon −第三章−

サナミィの双子と、過去から来た二人が運命に導かれて旅立った。その時から半年。

七八四年収穫の月、ルセール国の王都マイオセール。

太陽神ハーディスは既に沈みかけていた。いびつな円状の城下町と、やはりいびつな円状の王宮。白い城壁は今日も、夕陽に映えて美しく輝いている。街の周りに延々と広がる広大な領地にも黄金色の光が満ち溢れ、いつもと変わりない平和な日暮れが訪れていた。上空では、この地方に住む鳥、フィーピーが奇麗な声で彼らの歌を歌っている。ハーディスは今日一日の幸福を守った証しに、彼らの羽までも金色に染め上げていた。

ルセールの歴史は浅い。シンジゴ山脈以南の砂漠は、長い間、人々の踏破を拒み続けてきた。道などというもののない砂漠である。誰一人として越える事が出来なかったのも当然だった。しかし後に「英雄」と呼ばれる事になる男がその偉業を成し遂げたのである。レノア歴五一六年、マイオスという一人の青年が砂漠にオアシスを発見する。それによってついに人々は、南の広大な土地を目にする事になった。

英雄マイオスは、砂漠のすぐ南にあるジュレイドという小さな部落を足がかりにして、オアシス発見から僅か四年後、ルセール王国を建国するに至る。彼と、彼の作った国の業績には誰もが目を見張る。ルセールは建国から二百五十年ほどしか経っていないが、その活躍は目覚ましいものだ。先の大戦では、レノアはルセールを攻め落とす事が、ついに叶わなかったのである。レノアがしぶしぶ引き上げるという形で終わりを告げた大戦で、ルセールの騎馬隊はその力を嫌というほど見せつけたのだった。

大戦が終結時の平和条約によって、山脈以南でもレノア歴が使われるようになった。それまでは南北に統一された暦がなかったので、これはむしろ良い事だと言えるだろう。南方地方はレノアと違い、乾季と雨季、そして収穫季の三つに分かれているに過ぎないが、一年の長さはレノアとほぼ変わらない。そのおかげでレノア歴が通用するのである。

山脈より南では、北に比べて年間の平均気温が高い。それはルセールを含め、どの地方でも同じ事だ。平野の中心でも、沿岸部でも、一年を通して暑く、乾いているのである。ただ王都マイオセールのある地方だけ、他と違う点があった。唯一の違う点、それは英雄マイオスが他の場所ではなく、「その場所」に建国した大きな理由でもあった。――水である。

山脈以南には山がなく、大陸を南下すればするほど水の貴重度は増していく。そして、気温が高いせいで貴重な水もすぐに腐ってしまう。水の保存は、南方開拓における最大の問題だった。

現在の城下町あたりにマイオスたちが辿り着いた時、彼らは水不足で全滅寸前だったという。地面に染み出した地下水が泉を作っていなければ、彼らの生命は文字通り枯渇(こかつ)していただろう。その事が、マイオスが建国を決意した決め手になった。マイオスから数えて三十人余り、現在の王シュウスに至るまでマイオセールに水が絶える事はなく、それゆえにこの国も絶える事なく繁栄を続けてこられたのである。

男どもは日暮れになると仕事を終え、酒場へ向かう。出稼ぎに来ている者や芸人、吟遊詩人などの遊戯者、旅の商人や巡礼者、それに運び屋、傭兵、遊女など、ルセール城下には様々な人間がいる。日が暮れると店を閉める者もいれば、夜になってからが本番とばかりに動き出すものもいる。黄昏時は、そんな彼らが入れ替わる時間であり、酒場が非常に混み合う時間でもあった。

王都マイオセールの、少々裏通りに入った所にある酒場も同じだった。大きな木の机が幾つも並び、人々でごった返している。机や客の間で、前掛けをした女たちが立ち働いている。一日の疲れを癒し、腹を満たすために男どもは酒場へと集まる。大きな声でしゃべり、笑い、酒を飲み、料理を食べてはまた笑う。日に焼けた肌と黒髪の、大柄な男が多いのはルセール地方の特徴だ。英雄マイオスはレノアの出身だが、黒髪で背の高い男だったという。

店の隅にも小さめの机が並べられていて、壁際の席は少し静かに食事や会話を楽しみたいという客のためのものだった。その中の一つに、青灰色の髪の男が座っている。待ち合わせの相手はなかなか現れない。

「まったく……遅いぜ。頼みがあるってったのは、そっちじゃねぇのかよ」

独りごちて前髪をかきあげたのは、二十歳を過ぎたばかりといった風貌の青年である。なかなかに整った顔立ち。痩身なので背は本来より高く見える。細身のズボンと丈の短い上着は洒落ているが、すらっとした足は行儀悪く投げ出されたままだ。青みがかった黒い瞳が忙(せわ)しなげに動いている。長い前髪を残して束ねた髪は、気障(きざ)な見た目に良く似合っていた。髪に通した右手の薬指には、まるであつらえたような銀の指輪が光っている。

彼は自分の魅力をよく理解しているようで、店に入ってきた時から酒や料理を運ぶ店の若い女に笑いかけ、愛敬を振りまいていた。女たちもその優しげな笑顔に、ついつい足を止めて会話を交わす。話し上手でもあるようだ。しかししばらく経つと、細い指で机を叩き始めた。形のよい眉を寄せ、肘を突いたり、また外したり、長い髪をいじったり、その動きからいらいらしているのが手に取るように分かる。

扉の開く音がして、店に一人の男が入ってきた。やはりルセール地方特有の浅黒い顔にがっしりとした体躯。簡単な布の服をまとい、頭には白い布を巻いている。一見して、下働きの下男といった風だ。男は店内を見回し、先程の青年に目を留めると、のそのそとやってきた。不躾(ぶしつけ)に青年の肩を掴む。

「おい、あんたがリュークだな」

「いや違う。俺はグレイさ。リュークってな誰のことだい」

からかうように言う青年を無視して、下男風の男は続けた。

「俺はガライ。あんたリュークだろ。ヴィトの紹介で来たんだ。ヴィトは青灰色の髪の男だと言っていた。この酒場で青灰色の髪の男はお前だけだ」

「……あんたか、ヴィトの言ってた依頼人てのは。まあったく、遅いぜ! このリューク様を待たせるなんざ、百年早いってんだ」

リュークは溜息とともに言った。ガライはあまり気にしている風でもない。気がはやっているのか、椅子にもつかずに口を開く。日に焼けた太い両腕を、大きな音とともに机に置く。

「ああ、悪かった悪かった。で、あんたどんな物でも盗めるんだって? 何でも、通称が『疾風のリューク』とかって言うらしいじゃないか。あんたの盗みはそんなに早業なのかい? それなら頼みがいがあるってもんだが。実はな……」

「おいおい大きな声を出すなよ。……言うほどの事じゃないさ。『狙いは正確に、且つ迅速に』ってな。それだけの事だ。それより座んなよ」

そう促されて向かいの席についたが、ガライは目の前の男を信用できないでいた。だがリュークの方は全く構わず、このあたりの地酒であるキームーシュを注文している。

「さてと。もう一度名前を聞いておこうか。一応、間違いがないようにな」

「ガライ=ファーンだ。マルティン……トーラス=マルティンさんの屋敷で働いてる。あんたの事は、情報屋のヴィトって男に聞いた。腕の立つ盗賊なんだってな」

「小さい声で頼むぜ」

リュークは得意げに、青灰色の前髪をかきあげた。その仕草は嫌味というほどではない。だが、やはり気障だと言わざるを得ないだろう。彼の風貌は若い女には喜ばれそうだったが、腕の立つ盗賊には見えなかった。猫のような目をきょろきょろとあたりに配っては、目の合った女に片端から笑顔を見せている。顔をあちこちに向けているので、本当にこちらの話を聞いているのだろうかとガライは心配になってきた。リュークを睨みながら、不安そうに口にする。

「思ったより若いんだな。本当に大丈夫なのか?」

「ちっ、失礼な奴だ」

「ヴィトの言う事は信用出来るからな、安心してるが……」

「さっさと用件を言ったらどうだい?」

「あ、ああ。実は……」

「おっと! しっ」

ガライが話し始めた途端、リュークが唇に指を当て、黙れという仕種を見せた。いたずらっ子のように片目をつぶって見せる仕草が妙に愛らしい。ガライは、きょとんとした顔でリュークを見ている。

「お待ちどうさまでしたぁ」

店の娘がキームーシュを載せた盆を持って、リュークの後ろから声をかけた。もちろん、彼女の姿はリュークに見えていなかったはずである。ガライは思わず口笛を吹いた。

「さすがだな」

にっこり笑って杯を受け取りつつ、リュークはやおらその娘に向かって話しかけた。

「やあ仕事が早いな! キームーシュだね、ありがとう。君が運んできた酒ならさぞかし美味いだろうな。あ、びっくりした? いやあ、こんな綺麗な娘(こ)と話してるもんだから緊張してんだよ。なあ、なんて名前なのか教えてくれないか? きっと君に似合う、可愛い名前だろうと思うんだ。教えてくれたら俺、毎日この店に通っちゃう。疑ってるの? やだな、俺の信じる全てのものに誓って、君は可愛いよ。いや俺自身と君に誓って、その澄んだ瞳にかけて、俺は嘘なんか言いやしないさ。ねぇ教えてくれるかい? 君の可愛い名前をさ。だって聞かなかったなんて言ったら、死んだじいちゃんに怒られちまうぜ。可愛い娘だったら名前くらいは必ず聞けって教えられたからね」

「……びっくり。よく一息でそれだけ言えるものね」

とうとうと流れるような口調に驚き、女は目を白黒させていたが、まんざらでもないらしい。しなをつくってリュークに問いかけた。

「ねえ、あなたはなんて名前なの? それを先に教えてよ」

「そうか、こっちから自己紹介しなくちゃいけないよな」

リュークはわざとらしい動作で両手を打つ。酒を運んできた女は机に腰掛け、片手に盆を抱え、なるべく自分が可愛く見えるように首をかしげた。リュークはもっともらしく腕を組み、彼女に向かって困ったような顔をして見せる。

「実は、俺には名前がいっぱいあってね。みんなが違う名前で呼ぶんだ」

「あら、それじゃどう呼んでいいか、困っちゃうわね」

「可愛い女の子はみんなグレイって呼んでくれるんだけど……」

「私はなんて?」

「もちろんグレイとお呼び下さい。……当然だろ?」

格好つけたお辞儀をしてから、にっこりと笑ってみせる。華やかなその笑顔は素直そうでもあり、からかっているようでもある。

「あはは。じゃあ、グレイね。私はミナよ」

「ミナちゃんかぁ! やっぱり思った通りだったよ。君の可愛い瞳に似合う、綺麗な名だね。この店には絶対また来るよ。ミナ姫に会いにね。今度来た時も、君が酒を運んでくれるかい?」

「そうね、店にいたら、きっとね」

しゃべりながらミナは机にキームーシュの杯を置き、上機嫌で手を振りながら店の奥へ戻っていく。リュークは座り直すと、それへ向かって極上の笑顔を見せながら、右手を軽く振った。ガライの方はと言えば、しごく不機嫌そうな顔でリュークを睨んでいる。

「……さっき話を中断させたのぁ、聞かれないように、っていうんじゃなかったのか? 一瞬見直したんだがな。何でヴィトはあんたみたいな奴を紹介したんだ? どう見てもその辺の軽い兄ちゃんにしか見えんぞ」

「そう? ま、いいよ。あんたが仕事を頼まないってんなら、それまでさ」

リュークは肩をすくめて、白く濁った酒を一息で流し込む。ガライはまた顔をしかめ、それから考え深げに腕を組んだ。灰色の目はリュークを睨み続けたままだ。リュークは腰掛けた椅子を揺らし、先程のミナという女に手を振っては喜んでいる。仕事の依頼やガライの存在は、取るに足らないもののようだ。ガライはわざとらしいまでに大きく息を吐き、決心したように口を開いた。

ガライには弟がいるという。弟は武術に優れていたので、ルセール城で倉庫番をするまでに出世した。倉庫番と言っても、彼が警備しているのは宝石のいくつかがしまってある小さな部屋だったのだが。

しかし、先日の事。

「弟は何も知らんと言うんだ。だが、大事なサファイアの首飾りがなくなったんは確かなんだよ。いくつかなくなっちまったんだが、サファイアのは特別に大きい奴だったんだ。誰が盗んだのかも分からんし、どうやったのかも分からん。なんしろ、そのおかげで弟は仕事が出来なくなっちまった! このまま見つからなかったら国外追放だって言うんだぞ。弟は一生サファイアなんか見たくもないって言ってる。俺だって……くそっ!」

ガライは弟の事をとても可愛がっているようだ。まるで自分の事のように悔しがる様子は、彼の逞しい外見とは裏腹に、妙に可愛らしい印象さえ与えている。しかしリュークは、そんな話など聞いてもいないようだった。自分が前に飲んでいた分と合わせて二つの空の銅杯をいじって遊んでいる。目の前の依頼人に目もくれず、杯を重ねて置いてみたり、転がしてみたり……。ガライはその様子を、歯を食いしばって睨みつけた。しかし、それすらリュークは意に介さないようだ。目だけをガライに向けてぶっきらぼうに言う。

「なんだよ、先を続ければ?」

ガライは床に向かって唾を吐き捨てた。しばらくの間、口の中でぶつぶつと罵(ののし)りの言葉を呟く。

「俺がマルティンさんの屋敷で働いてるって事は言ったな」

「ああ、あのでぶ親父な」

「……まあ、そうだ。そこでつい一週間ほど前に舞踏会があったのを知ってるか?」

「いや。この前ここへ来たのはもう三ヶ月も前になるし、今回は昨夜着いたばかりだからな。けど、あの奥さんの騒ぎ好きは昔からだ」

「そう、それで奥様はこないだも、なんだかよく分からん名目の舞踏会を開いてた。その時に、俺は見たんだ!」

「何を」

「決まってるだろう、首飾りだ! 奥様がしてたんだよ、作りもんなんかじゃないんだ、そう言ってた。間違いねえ、あれはお城の弟んとこから盗まれた奴なんだよ! おい聞いてるのか、えぇっ!」

「静かにしろよ」

「盗まれた首飾りなんだ! サファイアなんだよ! そんでぬかしやがった、『やっと手に入れた』ってな! !」

ガライは興奮し、自分が大きな声を出している事に気づいていない。今にも立ち上がって両手を振り回しそうな勢いだ。リュークは再度たしなめる。

「静かにしろって。本当に本物なのかよ」

「本物だとも! ヴィトが保証したんだ。あいつは何でも知ってる、あれが本物だって事も、ヴィトは知ってるんだ」

「あっそ。じゃあその首飾りは本物だろうな。あいつの情報にゃ間違いがないから。それ以外はちょっと……だけどなぁ」

「なあ、俺は騒ぎを大きくしたくねえんだ。誰が、何で盗んだかなんてどうでもいい。あれが無事にお城に戻ってくれさえすりゃいいんだ。そうすりゃ弟も戻ってこれる」

「トーラスの屋敷から盗んで、誰にも分かんないように城に返せって事か」

「ああ。頼む、どうかあれをお城に返してくれ」

ガライは大きな体を小さくして頼み込んだ。もう大きな声を出す事はなかったが、その代わりに気がはやって、妙に早口になっている。リュークは席を立ち、手櫛で髪を梳(す)く。そのまま立ち去ろうとして、思い出したように付け加えた。

「ここの支払い、よろしくな」

「は? ああ……。いや、ちょ、ちょっと待ってくれ、仕事の方は引き受けてくれるんだな?」

「任せろ」

ごく軽い調子で言うと、一瞬だけ、営業用の笑顔を作った。

「そうそう、報酬をヴィトに渡すの、忘れるなよ?」

銅杯に少し残った酒を飲み干すと、人々の間をすり抜けて、あっという間に店を出ていく。ガライは、呆気に取られていた。彼はその人生において盗賊という人種には関わった事はなかったが、もう少し違うイメージを抱いていたからだ。あんなお調子者の青年が本当に確実な仕事をしてくれるのだろうか……ガライはどうしても不安を拭い去れなかった。

仕事をするには深夜がいい。それも、月や星が出ていないような夜に限る。貧しい者たちは藁を敷いた硬い寝台の上で、夜遊びに興じた金持ちたちは絹の羽毛布団の間で、それぞれ安らかな眠りについている頃。酒場も、街角に立って客を取る女たちさえも仕事を終える時間。そして何より、見回りの衛兵たちが交代の時間を待ち望んであくびをする頃……。そういった『やりやすい』時間帯を見つけるのが、長年の勘というものだ。自信を持って頃合いを見計らったリュークは、マイオセールの町を音もなく歩いていた。

いつもの洒落た服ではない。全身黒の、身体にぴったりした服で、いくつものポケットが縫い付けられているものを身に着けている。長い髪も大きめの帽子の中に入れられているので、邪魔になる事はない。靴は音をたてないように柔らかな、毛皮のものを選んだ。彼は夜空を見上げ、独り、呟く。

「出来れば、月が出ている方が好きなんだよな。女神メルィーズは奇麗だから。今日あたり満月になってるんじゃないっけ? ま、仕事には向かないから仕方ない、と」

暗い路地に黒い服。その姿は影となり誰にも気づかれる事はない。元より、こんな夜更けに人影などありはしない。夜中に明かりを灯しているのは金持ちの家ばかりだ。そう、トーラス=マルティンのような。

トーラスという男は金持ちだったが、多くの金持ちがそうであるように、人に物を与える事が好きではなかった。一言で言ってしまえば吝嗇家(りんしょくか)、もっと簡単に言えばけち、という事である。彼は、人に食わせない分の肉を自分の腹につけていると陰口を叩かれるような男だった。マイオセールでは十指に数えられるほどの金持ちで、城下町マイオセールの有力者でもあったが、同時に町一番の嫌われ者でもあった。

その屋敷の裏通り。道を形作る壁はすべてトーラスの屋敷のものだ。中央あたりに立てば、左右どちらを見ても壁の端は見えない。壁のところどころに取り付けられた灯火には、魔法による小さな炎がともっている。その明かりが壁伝いに延々と連なっていて、トーラスがいかに金持ちかが誰にでも分かるようになっていた。

石畳の道の両側に目を凝らし、無人を確かめる。目の前の高い塀を見上げると、上空に木がせり出しているのが影になって見える。金具つきの縄を取り出し、切れたりしない事を確かめ、リュークはそれをおもむろに投げた。きつくなわれた麻縄は空気を切って飛び、すぐに枝葉を揺らす音をたてた。それに反応する警備の気配をしばらく待ったが、見回りの時間を外してあるのだから、誰も気づくはずはない。縄の手応えを確認して手に絡め、壁にかけた足に力を込める。ゆっくりとした動作はそこまでだった。リュークは素早く、かつ無駄のない動きで塀を登りきり、再度周りを見回す。……人影はない。

広大な、という表現を使えるほどの庭園に音もなく降り立ち、リュークはまた闇に紛れて走り出した。綺麗に整えられた花壇が並ぶ一帯を過ぎ、美しく咲き乱れる花を尻目に駆け抜ける。そこら中に衛兵が歩いていたが、今が交代の時刻である。彼らの目の届かない範囲を選んで走り、裏口から身軽に入り込むと、颯爽と屋敷の階段を上がって二階に辿り着く。裏口と階段脇の衛兵は、ガライが呼び出してくれていた。庭に入ってからここまで、五百を数える間もない。

――ふっ、いつもながら鮮やかな手並み。……さて。ここからが問題なわけだ。

リュークは自分に言い聞かせた。彼が知っていたのは、この二階のどこかにトーラスの妻の宝石部屋があるという事だけだった。ガライは二階に上がった事がない。どの部屋が目的地なのかは天のみぞ知る、である。リュークの前に広がるのは、広間ではないかと疑う程の幅を持った廊下、先が見えないのではないかという程の長い廊下である。リュークは小さく皮肉った。

「馬鹿め、こんな廊下を毎日歩いてるのか? それならもう少し痩せてても良さそうなもんだ」

廊下には大理石の柱が立ち並び、それらには皆、豪華な彫刻が施してあった。天井からは、非常に高価なガラスで作られた大きく美しい室内灯が吊るされている。備え付けられた数え切れないほどの蝋燭(ろうそく)には、全て灯がともっていた。床には真っ赤な絨毯が敷き詰められている。また、そこここに大きな騎士や女神といった彫刻が並べられていた。絢爛(けんらん)豪華だが、無駄遣いの極地と言っても過言ではないだろう。その廊下を眺めて、リュークは思わず、屋敷に入ってから何度目かの溜息を吐いた。トーラスの美的感覚は、リュークのそれとはあまりにも違っていたのである。

しばし呆けていたリュークだったが、仕事中であることを思い出して気を取り直した。まずは、裸体の人魚像の脇にある一つ目の扉に耳をつける。中からは複数の話し声が聞こえる。どうやら衛兵の休憩室のようだ。トーラスの悪口で盛り上がっている。毛皮の靴をはいた足は絨毯の上をすべるように進み、扉の前を無事、通り過ぎた。柔らかな絨毯は足音を吸い取ってくれる。

一つが終わると次の扉、そしてまた次、とリュークはどんどん進んでいく。時には中が宝石部屋かどうか確認するために、扉を開けなければいけない時もあった。見回りの衛兵をかわすために、彫刻と壁の隙間に挟まったりもした。心地良いとすら思える緊張感を楽しむ。リュークは根っから、盗賊なのだった。

二階の全てを見て回る時間は無かったが、リュークはすぐに一つの部屋を宝石部屋と見定めた。長い廊下にはいくつもの通路があったが、廊下の中ほどにあるそれは、すぐ先が行き止まりになっていた。衛兵が一人立っていて、他の扉と違う、分厚い金属製の扉を警護している。衛兵が一人だけというのは妙だ。そう思ったが、次の瞬間には打ち消した。

――屋敷の守りが厳しければ厳しいほど、中は手薄なもんさ。間違いない、あそこが目指す部屋だ。

しかし、衛兵を避けてあの部屋に入るのは困難そうだった。衛兵は扉のすぐ前に立っているし、廊下を睨みつけている。横や後ろから近づく道はない。狭い通路の突き当たりに部屋があるからである。リュークは思案気に髪をかきあげた。

ところで、衛兵のフランコは、とても不機嫌だった。今日は彼の誕生日であり、家族と婚約者が家で祝ってくれるはずだったのに、彼自身はこんな所で他人の宝石の見張りである。自分が守っているのが大事な物である事は当然知っているし、給料をもらっている以上文句も言えないが、何も今日でなくても……と彼は思っていた。仕事は仕事、きちんとやらねばと思ってはいても、深い溜息が彼の知らぬ間に吐き出されるのであった。今は何時なのだろう。後どれくらいで交代になるのだろう。あたりには人気もない。自分は一人、いつまでここにいなくてはならないのだろう……。彼の悩みは尽きない。その内、彼の口からは小さく文句が漏れ出した。

「第一、ルーチォだって今日は暇だって言ってたんだ。何も俺がここの見張りじゃなくたっていいんだ。あーあ、誰か替わってくれんかなぁ」

「いいぜ、俺が替わってやろう」

「えっ? だ、誰だ!」

通路の先、曲がり角の方に向かって剣を抜いた瞬間だった。鈍い音と共に頭に強い痛みを感じて、彼は倒れた。応援を呼ぶ声を上げる間もなく、くたくたと崩れ落ちてしまう。後に立っていたのは、華やかに装飾された室内灯から舞い降りたリュークだった。リュークは見えない観客に向かって気障なお辞儀をすると、フランコの腰のあたりから扉の鍵を見つけて、さっさと中に入っていく。

入ったと思うとすぐに出てきて、あまりに簡単な仕事だ、と肩をすくめた。その手には例の首飾りが輝いている。それが本物である事を確かめる術はなかったが、部屋の中にあったサファイアは全て持って来たのだから間違いはない。リュークはそれを無造作に、他のサファイアでいっぱいの袋に突っ込んだ。それからしばらくして、リュークは何の痕跡も残さずに――と言ってもフランコはもう見張りをしていなかったが――マルティン家を後にしていた。盗みは、入るより出る方が楽なものである。

「狙いは正確に、且つ迅速に、って事さ」

そう言うとリュークは不敵な笑みを浮かべ、闇の中に消えていった。

王都マイオセールは現在、ルセールの首都として栄えている。

ここはずっと以前、小さな名もなき田舎町だった。だが、ルセール地方の中でも特別な場所として扱われていた。何故なら、この町の付近にだけは水が豊富に湧くからである。地下水脈から汲み上げられた水は人々の生活を潤し、またより多くの人々を呼び集めた。人口が増えるにつれ、町はいびつな円形を保ちながら徐々に広がっていった。

そこへ英雄マイオスがやってきて、ルセール建国を宣言したのである。町は英雄の名を取ってマイオセールと名づけられ、多くの移住者がやって来た。マイオスは国力増強のために住民増加を呼びかけ、そのためにますます家が足りなくなった。町の設計は、家が建てられるたびに複雑になっていく。そして現在に至って、沢山の袋小路がこの町に存在する事になったのである。

今、その袋小路の一つにリュークは入っていった。大通りから二つほど角を曲がった先の細い通りに面した、誰も気づかないような小さな路地だ。そこに入ると、なんとはなしにあたりが薄暗くなったような印象を受ける。ルセールの家々は大抵の場合平屋なので、どんな細い路地も、光がまったく当たらないという事がない。まして、この南国では陽射しが強い。暗いと感じる路地は少ないはずである。しかしリュークの歩いている路地は、どうもそんな感じがするのだった。この路地が他と比べてやけに狭く、人影がまばらで、さらに言えば塀に重ったるく絡んでいるつたのせいなのだろうか。何にせよ、あまり楽しい雰囲気の道ではないようだが、とにかくリュークは歩いていった。彼自身、歩き慣れた道のようである。その道の突き当たりの扉を叩くと、中からの声が名を尋ねた。

「私を尋ねて来られるとは珍しい方だ。どなたですか?」

「俺だよ、リュークだ」

「本当にリュークなら、私の一番好きな言葉を知っているはずだね」

リュークは少々うんざりした顔で髪に指を入れた。何かを思い出すように眉を寄せる。

「ええと、『太陽はその剣を熱して鍛え、月はその剣を冷やして鍛える。そうして強くなった剣をかざした男は、運命の神を父に持ち美の神を母に持つ、優れた勇者であった。勇者は多くの神々に見守られ、己の人生を歩き始める』だったかな」

「では『彼の前に立つ男』は?」

「何だっけな……ああ、時の神サキュレイアだ」

目の前の扉が開く。リュークとそれほど変わらない背丈の男が立っていた。身体全体を覆い隠すローブのせいで、年齢や身体つきなどは判然としない。顔にかかるフードと眼鏡のせいで、顔つきを読み取るのも困難だった。しかしリュークはそれが誰だか知っていたし、その男も来客が誰なのか知っていた。男の口が微笑みを浮かべる。

「その通り。どんな勇者も時を超えるわけにはいかないね。さあ入って」

「よお、ヴィト。しっかし長い合い言葉だよな、分からなくならないか?」

「君と同じにしないでくれるかな。その詩が入っている本は全部覚えているんだよ」

ヴィトの家は綺麗に片付けられていて、こざっぱりとしている。リュークたちが机につくとほぼ同時に、下働きの侍女が冷たくした甘蜜(かんみつ)を持ってきた。この地方に多く生息する虫が好むラクレシという花があるが、甘蜜というのはそのラクレシから採った蜜を精製し、液体状に加工したものだ。暑い日には冷やして飲むのが美味しい。

丈の短いスカートと白い前掛け姿の侍女に、リュークは特上の笑顔を送った。が、彼女は目を伏せたままで杯を二つ、黙って机に置くと、奥の部屋に去ってしまう。リュークは「相変わらず躾が厳しいんだろ」とからかったが、ヴィトはその言葉を軽く無視した。リュークは肩をすくめると、甘蜜の杯を傾ける。渇いた喉に冷たい液体が心地よく流れ込んだ。半分ほどを一気に飲み干してから、彼は黒いベロアの袋を取り出した。

「ガライって奴の依頼、完了したぜ。トーラスの屋敷からサファイアの首飾りを取り戻してきた」

「お疲れ様、ありがとう。報酬はガライからもらってあるよ。いつものように二割は私に。残りの八割が君だね」

ヴィト=キルヒアは、柔らかな声の持ち主だった。高すぎず低すぎず、その声は、とても柔らかく響く。ゆっくりとした話し方も手伝って、上品で優しげな雰囲気が醸(かも)し出されている。しかしリュークは心の中で「騙されねえぞ」と自分に言い聞かせた。ヴィトはそれを知ってか知らずか、微笑みを崩さずにいる。

「情報の売り買いだけでも儲けてるんだろ? 仕事の依頼報酬まで取るんだからなあ。ヴィトお前、がめついぜ」

「心外だなあ。仕事を紹介したのも私じゃないか」

「そりゃまあ、な」

「リュークはちゃんと払ってくれるだろう」

「しっかりしてるっていうか、なんて言うか……」

「あ、それから。依頼は完了したって言っていたけど、まだ終わってはいないな」

「なんでだよ」

「依頼は『弟がまた城で仕事が出来るようにして欲しい』だったね? 首飾りが城に戻ってこなくちゃ、シュウス王だってガライの弟を呼び戻したりしない」

「おいおい。まさか俺に、城にまで忍び込めって言うのか?」

それを聞くと、ヴィトはおかしそうに笑った。それから、まるで子供に諭して聞かせるように言う。

「いいかい、忍び込むだけじゃないんだよ。ちゃんと首飾りを戻してきてくれなければ困るんだ。大丈夫だよ、忍び込む手はずはもう整っているから。城の地下水路が明後日、掃除されるんだ。その時に上手くもぐりこむといいよ」

「自分でやらないからって、簡単に言ってくれるよ。俺はやらないぜ、そんな仕事」

「そう。報酬の残りも全部私にくれるなんて優しいね、リューク」

「ヴィト、てめえ……」

ヴィトの表情はよく見えなかったが、笑いをこらえている様子は手に取るように分かった。彼は、リュークが困って言葉に詰まっているのを知っているのだ。リュークが断らないのもまた、彼には分かっていた。長い付き合いは、時として言葉を必要としなくなるものだ。くっくっく、と小さな笑い声を隠して、ヴィトはもう一言付け加えた。

「近衛兵がいると思うから、くれぐれも気をつけて」

リュークは溜息を吐いて髪をかきあげた。

「ああもう分かった分かった、明後日だな? じゃあ準備しとくよ。……まったく、毎回こうやってはめられてる気がする」

「私はリュークが失敗しやしないかと、いつも心配しているんだよ」

「心配だけなら誰でも出来るしな」

「嫌だなあ、昔からの友人じゃないか。そうだろう?」

「友人、ね」

リュークはやれやれというように首を振り、残りの甘蜜を飲み干した。わざとらしく格好をつけた挨拶をし、ヴィトの家を出ていく。その後姿には、何度も同じ事を繰り返してしまう自分に対する諦めが見えた。

ハーディスの陽射しが降り注ぐ。直接突き刺さるように感じるのは、町に緑が少ないせいだろうか。手で顔を隠して振り仰ぐと、いつもと変わりのない青空が広がっているのが見えた。雲もなく、ハーディスが激しく自己主張している真っ青な空。数羽のフィーピーが高い声を上げながら、勝手気ままに飛んでいるのが目に入ったが、あまりの眩しさにリュークは目線を足元に下ろした。足が、乾いた土を踏んでいく。マイオセールでは、石畳になっているのは中央に近い通りだけで、今彼が歩いているような細い路地は全て土だった。

曲がりくねった路地を通り、小さな広場をいくつも抜けていく。街全体が路地と袋小路で成り立っているので、初めてこの町に来た旅人はよく迷う。だが、リュークは迷う事なく歩いていた。

リュークは一つの町に定住した事はないが、マイオセールにはしばらく住んでいた事がある。もう七年ほど前、まだ彼が少年だった頃の話だが。それ以来、マイオセールには何度も訪れているが、迷った事は一度もない。人様の鞄や財布を持って逃げる時、自分が迷っていては話にならない。城下町の路地という路地全てを知り尽くしていると言っても過言ではなかった。

町の中央近くになると道が広くなり、石畳になる。通りもある程度は整備されているので分かりやすい。しばらく歩いていくと、大きな広場に出くわした。マイオセールの中央広場は人々の憩いの場でもあり、また日常の物を買う事の出来る便利な場所でもある。多くの家や店が円形の広場を形作っている。広場の端には、東西に向かい合う形で二つの水場が作られていた。様々な色の天幕が集まっているところを見ると、今日は月に一回開かれる大市場の日なのだろう。簡易式の店が立ち並んで通路を形作っている。客を呼び込む声や子供の笑い声が満ちている。ごくのどかな風景はまるで一枚の絵のようだ。

市では水や食料品を始めとして、様々な商品が売られていた。リューイー地方から運ばれる海産物などが扱われているのも、ルセールの特徴だ。特有の臭みを感じながら、リュークは天幕と人々の間をすり抜けていった。突然、服を引かれて振り返る。小さな女の子が花かごを持って立っていた。その子に小さな銅貨を一枚握らせ、青い花束を買う。女の子は大袈裟に頭を下げると、また次の客の服を引っぱりにかかった。こんな光景も、マイオセールでは日常の一風景だ。

広場の北側には立派な大木が立っている。英雄マイオスの偉業を称えるために植えられた、ラナの木だ。樹齢は既に二百年を経過しているという。太い幹のそばにいくつか木製の椅子が置かれていた。待ち合わせや恋人同士が愛を語る場所にも使われている。一人の青年が、若く綺麗な女と寄り添って幹に寄りかかっている。女と目が合ったリュークは、片目だけで軽く瞬きをしてみせた。それから素早く青年の後ろに回り込み、その肩越しに花束を差し出す。もちろん、極上の笑顔付きだ。

「な、なんだ、てめえは!」

「その透き通るような青い瞳には、この花が似合う。そして、こんな男より俺の方が、美しい貴女には似合うと思いませんか」

「貴様!」

「ありがとう……お花、もらっておくわ」

「おいっ!」

怒鳴る男には目もくれず、リュークは彼女に向かって、もう一度片目をつぶる。女の頬が一段と紅くなった。

中央広場を抜け、王宮の壁伝いに歩いていくと小さな川に出る。川は道に沿って細く流れているが、王宮に近づくにつれて、次第に太くなっていった。その脇を歩いていくと、最後には高い壁にぶつかる事になる。王宮の周りを囲う壁だ。

ルセールでは、レノアのように高い建物を建てる習慣はない。レノア城は高い塔をいくつも備えた堅固な造りだが、ルセール王宮は簡単な造りの二階建てである。全体の形は、城下町と同じくいびつな円形。上空を飛ぶフィーピーからは、丸い城下町の中心に丸い王宮があるという面白い光景が見えるのだろう。王宮の北側には大きな中庭とそれを囲むような回廊があり、南側に多くの部屋が並ぶ。更にその周りを、高い壁が囲っていた。

川と壁に沿って水門へと向う。ルセールの陽射しはこれでもかというほどに彼を照らしていた。太陽神ハーディスは、山脈の北と南で随分性格が違うようだ。北の地方では、暑い季節でもハーディスは温厚で、礼儀をわきまえた紳士である。しかし山脈より南では、年中情熱的な愛に満ちていた。フィーピーの高い鳴き声と、水の流れる軽やかな音だけが、その場の涼しさをかろうじて演出している。

壁に作られた水門から、静かに水が流れ出している。水門のそばには鉄の扉が作られていた。その前に衛兵が立っている。二人とも軽装鎧を身につけ、兜をかぶり、手には長い棒を持ち、腰には剣を帯びていた。「怪しい者は何人たりとも近づかせん」とでもいった風情で目を光らせ、時折立ち位置を交代している。

「そこまで厳しくしないでもいいだろうに」

リュークは小さく呟いた。もちろん、衛兵たちには聞こえない距離で。相変わらず厳しい警戒態勢を維持している彼らに対し、リュークは案を練るでもなく、悩む風でもなく、堂々と歩いていった。なんの躊躇いもなく、衛兵たちに近づいていく。付近には、他に誰も歩いていない。リュークが真っ直ぐに歩いてくるのを見て、二人の衛兵は手にした棒を威圧的に突き出した。当然といえば当然の対応である。

「貴様、何者だ! ここが地下水路への入り口と知ってきたのか」

「はあ……。あの、掃除しにきたんでね。わし、遅刻してしまいよったんで、仲間は先に来てると思うんですが」

「ギルドからきた掃除夫か?」

「へぇ」

「ならば証明書を見せるがいい」

「これでさぁ」

「……よし、通れ!」

――証明書の偽造くらい、お手の物さ。

いつの間に着替えたのか、掃除夫の格好をしたリュークは少し背を丸めて礼を言った。目の前で、水路への扉が開かれていく。

鉄の門扉が閉じられると、ひんやりした空気がリュークを包む。暑さは和らいだが、代わりに嫌な湿気と臭気がまとわりついた。間隔をおいて、水滴が垂れる音が響く。それと水路の流れる音以外には何も聞こえない。薄暗い通路が、先の暗闇の中に伸びている。壁の所々に設置された灯りがあたりを照らしていたが、足元は暗い。外の明るさに慣れた目を何度もしばたかせる。ようやく見えるようになってくると、リュークは水路の脇の狭い通路を歩き出した。

水路は複雑な構造になっていたが、リュークは壁に右手をつき、ゆっくりと歩いていく。やがて、掃除夫たちの声が聞こえてきた。掃除夫たちは水路の掃除に励んでいるようだが、リュークのいる通路からその姿は見えない。少し先に曲がり角があり、その先から声と、掃除用具でこする音が聞こえてくるのだった。

「いやあ、もうちょいだなぁ」

「そだなや。長くて、大変だったな」

「おいらは腰が痛くなっちまったよぉ」

「ほらほら無駄口じゃ。掃除せんと……」

「そうだったなぁ、早く終わらして、酒場で一杯やろうなぁ」

「もう後はここだけよな。さあさ掃除、掃除っと……」

リュークは掃除夫の服を脱ぎ、更にその下の自分の服も脱ぎ捨てた。下着だけになると、彼は少々口を歪め、それらを小さくたたんだ。これから起こるはずの事をじっと待つ。待ちくたびれてきた頃、それは起こった。つまり、掃除夫たちが掃除を終えて戻ってきたのである。濡れたり汚れたりする事を覚悟すれば、彼らをやり過ごすのはたやすい。すぐ横の水路に下りればいいのだ。水位はそれほど高くはない。腰のあたりまで水につかり、リュークは通路側の壁に体を押し付けた。暗い足元、しかも水路の中などには目もくれず、掃除夫たちは帰っていく。すぐに水路から出て、掃除夫の服で体を拭いた。それを水路に投げ捨て、改めて自分の服を着る。

――我ながら無駄がないぜ。

いつものように髪をかきあげ、小さな笑みを漏らしたが、すぐに真剣な表情に戻った。

「彼らが帰っていく時、衛兵たちが『さっきの掃除夫はどこだ』と聞く可能性は十分にある。そうすると、掃除夫たちは『今日来てるのはこれだけのはずだ』と答える。『じゃあ後から来たあいつは誰だ? 』という事になって……必然的に衛兵が来る、と。それまでに城に侵入していなくちゃいけないってわけだ」

言い終わる前にリュークは走り出していた。いつもの事だが、行動の素早さが成功に繋がる。

少し走るとすぐに、大きな鉄の扉が見えてきた。恐らく城への進入口である、水路の出口だろう。扉の前には衛兵と水門の門番がいる。門番はとるに足らぬだろうが、衛兵には少々苦労するかもしれない。リュークは息を整えると、腰の太い革帯から細身の剣を抜いた。衛兵がリュークの姿を見咎め、素早く構える。

「剣を抜いて近づいてくるとはいい度胸だ。どこから進入したかは知らないが、ここで死んでしまえばそれも関係ないな。行くぞ、侵入者!」

衛兵は音をたてて剣を抜き放ち、切りかかってきた。先に門番の足を止めようと思っていたリュークの思惑は外れた。衛兵の動きは素早く、その剣先をかわすのに精一杯だ。剣がかみ合い、硬い金属音が水路に響く。しかしほんの数十秒で、二人の動きが止まった。今や互いの剣を交差させ、二人は渾身の力を込めて向き合う形で静止している。睨み合う額に汗の粒が浮く。

衛兵が門番に向かって叫ぶ。

「何をぼやぼやしている! 城内に知らせろ!」

水路の門番は丸腰で、背の小さな男だった。衛兵の大声に慌てふためいている。城に侵入者が忍び込むなど、前代未聞の出来事だったのである。しばらくおろおろとしていたが、ようやく水路の脇の扉を開け、城内に姿を消した。

――ちっ、ヴィトの仕事はいっつもこうだ。簡単にいったためしがねぇ。

目前の敵を早く倒してしまわねば、城内から応援の兵が来るだろう。リュークは舌打ちをすると、相手の剣から弾き飛ばされるようにして後方に飛び退(すさ)った。互いに隙を伺う。じりじりと時間が過ぎていく。

城内の兵はすぐにでも駆けつけてくるだろうと思われた。が、しばらく経っても何の音沙汰もない。呼びに行った門番が入っていったきり、門は僅かに開いたままだった。それを不審に思わないでもなかったが、今はそれどころではない。リュークは戦闘経験がそれほど豊富なわけではなかった。このままではいずれやられてしまう。

リュークが思案していると、入って来た方角から、つまり街の方角から鎧のぶつかり合う音が小さく響いてきた。

――おいおい、あっちが先かよ。勘弁してくれ、ここでやられたらミナちゃんに会えなくなるじゃねぇか。アリスや、レジー、カレン、ルイス、それからさっきラナの木で会ったお姉さんだろ、それと……。

随分と気楽なようだが、実際には絶体絶命の危機に直面している事を実感しているリュークである。例え何らかの事情で城内からの応援が来なかったのだとしても、今やもう街の衛兵が駆けつけてきたのだ。衛兵はこれで三人になる。リュークの剣の腕では到底適わないだろう。リュークはなんとか出来ないかと考えをめぐらせたが、あまりいい知恵は浮かばないようだった。

――こりゃそろそろ覚悟を決めないと駄目かな。

衛兵たちは何やら大声で叫びながら走ってくるようだ。彼らが走ると鎧ががちゃつき、その音と叫び声が水路に反響する。そのせいで何を言っているのか、よく聞き取れない。しかし彼らが近づくにつれ、ようやく分かるようになってきた。

「大変だ! 大変な事になった!」

「警備兵を集めろ!」

「王にも伝令をっ!」

――あん? 侵入者を捕らえようってのとはちょっと違う雰囲気だな。

リュークと向き合っている衛兵もその異常さに気づいたのだろう。戦う相手より、突如起こった事態に気を取られたようだ。彼らは、どちらからという事もなく剣を下ろした。

二人の兵士はすぐにやってきたが、その表情は尋常なものではなかった。二人とも真剣な、いやむしろ顔面蒼白といった形相である。彼らは面当てを上げていたが、その間に見える顔には汗が幾筋も流れ、息が切れて肩が揺れていた。しかしその顔は緊張しきってこわばっている。見るからに悲惨だった。一人の衛兵が、もう片方に告げる。

「俺は王にお伝えしてくる!」

「ああ一刻も早く」

「おいどうしたというんだ、何があった」

「詳しく説明している暇はない、兵をかき集めるんだ! 竜を王宮へ入れてはならん!」

「何だって?」

衛兵とリュークの声が重なる。新たに走ってきた兵士はその声で初めてリュークの存在に気づいたとでもいうような顔をした。

「なんだ、こいつは? いやこんな奴に構っている暇はない! 早く警備兵を! 俺は街に戻らねばならん! とにかく早く行ってくれ!」

「わ、分かった」

兵士たちは城内と街に向かって、それぞれ鎧の音とともに去っていく。後には呆然と剣を持って立ち尽くすリュークが、たった一人で取り残されていた。

「竜が現れたとか言ったな。……竜、って吟遊詩人の歌や伝説に出てくるような、あれか? まさかぁ……」

マイオセールは、未曾有(みぞう)の恐怖におののいていた。

人々は体の震えを押さえる事も出来ず、声を失い、ただそれを見つめている。そうする以外に、彼らは何も出来なかった。恐怖のために身動きも出来ず、ただ見ているだけだったのである。

広場のあちこちに建てられていた店の天幕はその多くが潰れ、残りはまきあがった砂塵にまみれて埃だらけになっている。ラナの木のそばにあった椅子は横倒しになり、水汲み場になっている小さな泉は栓が壊れていた。砕けた石の間から水が溢れ出ているのが見える。ラナの枝葉がそこら中に舞い落ちていたが、それもまた泥だらけになっていた。あたりは土の茶色と埃の灰色ばかりで、いつもここに溢れているはずの、鮮やかな色彩はすっかり失われている。

大木ラナの木より高いものは、マイオセールにはない。家々は、そのほとんどが平屋なのだ。白い壁と赤い土色の屋根が連なる街並み。ラナの木だけがそれを凌駕(りょうが)している。マイオセールの、そしてルセール国の象徴と言える、ラナの木。それは堂々と、その高さを誇っていた。そしてマイオセールに住む人々は、ラナの木より高いものなど見た事がなかったのである。今の、今まで。

人々の眼前にそびえ立っているものは、ラナの木よりほんの少し高いだけだったかもしれない。そういう意味で言えば、高さは木とそれほど変わらないと言える。ただ、ラナの木とそれとは、あまりにも大きすぎる差があった。「それ」は、自分の意志で動くのである。

先程まで大きく広げられていた翼は、今はそのなだらかな背に沿ってたたまれていた。その全身は黒かったが、その中でも大きな翼は、どこまでも黒い。まるで、永遠の闇を象徴するかのような漆黒の翼だった。艶やかな鱗(うろこ)をその体にまとい、太い四本の足には鋭い爪を、家一軒よりも大きな胴体には長い尾を備え付けている。長い首の先には尖った顔。口は真っ二つに裂け、爛々(らんらん)と光る二つの目が、人々を恐怖の底に陥れる。喉の奥から時折漏れるのは、疑いようもない、灼熱の炎だった。

最初の衝撃と恐怖から一旦その身が解き放たれると、誰しもが悲鳴を上げ、走り出した。町中の占い師はその顔を青く染め、女は失神し、男は女と子供を抱えて家へと逃げ込む。それが何か役に立つとも思えなかったが、深く考えて行動出来る者などいはしなかった。半狂乱で髪を振り乱し、子供を呼ぶ母親の声。愛しい女を求める男の声。恐怖に泣き叫ぶ子供の声。人々の靴が石畳に叩きつけられる音と、木窓や扉が閉められる音。それらの上から、低い、唸り声にも聞こえる呼吸音と、暑く湿った息が降り注ぐ。

一際大きな咆哮が人々の足をすくませた。人々は思わず立ち止まり、もしくはへたりこんで上を見上げた。

もう一度咆哮を上げ、足を折って首を下げる。すると、翼の付け根あたりに影が動くのが見えた。その大きさと格好からして、人間であるようだ。降りてきたのが何者なのか、というのは一目で判明した。何故なら、象徴的な青銅の鎧とその胸に彫りこまれた紋章は、紛れもなく北の大国レノアのものだったからである。レノア兵士は筒状の書簡を手にしており、まだそこらに立ちすくんでいる人々に向かってそれを広げた。そして、集まるように、といった仕草をして見せる。人々は、互いの顔を見合わせながら、恐る恐る近づいていった。大きな巨体が作る影と、唸り声にも聞こえる鼻息とに怯えながらではあったが、やがて百人ほどが大きく輪を作る形になった。レノアの甲冑を身につけた兵士は、尊大な態度を隠そうともしない。

「よろしい。……さて、マイオセールの諸君」

兵士は、ざわめきが静まるのを待って、書簡を広げる。近くの家々の窓や扉が怖いもの見たさと好奇心のために、ほんの少し開けられているのを確認すると、目を細め、にやりと笑う。それからやにわに大声を張り上げた。

「さあその耳を傾け、よく聞くがいい! 『マイオセールの市民たちよ。愚鈍なる王に支配される時はもはや終わりを告げた。ルセールはレノアの守護神バダッフの加護を受ける事が許された。レノアは大陸全土に君臨し、ハーディスの守りしこの地に住む人々全てに、その深い慈悲を与えるであろう。第三十七代レノア王 グリッド=リヨール=シュレイス=レノア』!」

大きなどよめきが人々の間から立ちのぼった。その中で、若く張りのある男の声が際立つ。

「どういう事だ! つまりはレノアの支配下に入れと言う事ではないか」

「それは違う。既にルセールはレノア配下になったと言っているのだ」

「突然やって来て何を……」

「ふざけるな!」

使者の伝えた内容と、その途方もなく尊大な態度がマイオセール市民の怒りに火をつけたのだろうか。彼らは先程までの恐怖を忘れ、怒声を張り上げ始める。兵士は冷めた目で群衆を眺めやった。

「先の大戦では残念ながら両国が一つになる事は敵わなかった。だが今、ルセールの王都マイオセールを制圧する事により、レノアがルセールを保護しようと言っているのだ」

「そ、そんな馬鹿な話があるか!」

「レノアがルセールを攻めきれず、撤退したのだろうが!」

「和平条約を何だと思ってる! いきなりそんな馬鹿げた事を……」

騒ぎは一段と大きくなった。人々は、視界に入りきらない大きな影の存在を、ほんの少し忘れていたのかもしれない。しばらくしても動揺は止まなかった。レノア兵士は人々が落ち着くのを待っているのか、黙ってそれを見ている。それから唇の端を吊り上げると、突然、腰の剣を抜き放った。

「何をしようというんだ、そんな剣一本で!」

「そうだそうだ! この人数相手に一人で……」

レノア兵士は彼らの声に取り合わず、数歩前に進み出ると、手にした剣を勢いよく振り下ろした。その瞬間、耳を引き裂くようなかん高い音が響き渡り、人々は息を呑んで上を見上げた。青く澄み渡った空を大きな影が遮り、高く振り上げた頭が大きく真っ赤な口を開いている。あたりに、熱気が満ちていく。

その場にいた者はすべて、慌てふためいて走り出した。これから何が起こるのか、一目瞭然(りょうぜん)である。低い音があたりに轟く。それは獣の吼え声よりも、激しい雷よりも凄まじく、人々の恐怖という感情を存分に引きずり出すような咆哮だった。全速力で逃げる後姿を、轟音と炎が追う。人間が走る速さで逃げ切れるわけもない。数十人の被害者が、あっという間に火のついた服ごと地面でのたうち回る羽目になった。

炎と風が吹き荒れ、数える暇もない程の早さで人間が死んでゆく。巨体の当たった家のいくつかは崩れ、落ちた壁や天井の破片が土埃をまきあげる。ラナの木の枝もへし折れ、また飛び火した炎によって焦げてゆく。広場で倒れていた天幕の分厚い布に炎が燃え広がり、やがて炎は家々にも燃え広がっていった。

子供が小さな虫をいじって遊ぶように、大きな足が人々を踏みつけていく。黒き破壊者にとって、人々は逃げ惑う虫けらと同じ存在だった。一人一人の人生や、今までの日常などは何の価値もなく、考えるにも値しない。目障りな、取るに足らない虫たちが足の下でうごめき、それが気持ち悪いので踏み潰している。ただ、それだけの事だ。その行為に、人間が目障りな害虫などを叩き潰すのとなんの違いがあったろうか。

人は、小さき存在だった。出来る事は、何一つ、なかった。立ち向かえる者など、いようはずもない。他人を押しやり、荷物を投げ捨て、誰もが我先にと走っている。次々と吐き出される炎で燃やし尽くされる者もいれば、走っているところへ壁が崩れてくる不運な者もいる。それでも人々は逃げるのを止めようとはしなかった。ただ本能のままに彼らは走り、逃げ惑った。逃げる事しか、頭になかった。それ以外はただ、恐怖だけがあった。

――逃げよう。逃げるしかない。早くこの場を去るのだ。早く! どこかへ行かなくては……! 

さりとてどこへ行くというのだろうか。一体、どこへ逃げるというのか。マイオセールの周りには広大な荒地が広がっている。一番近くの村まででも、かなりの距離がある。用意もなしに町を出て行くことなど出来はしない。人々は、炎を避けようと、ただ取り乱すばかりだった。

「昨日までとは比べ物にならないほど素晴らしき支配が待っているのだ。感謝したまえ、マイオセールの民よ! ……いや、例えあがこうとしても無駄な事。このアルヴェイスがいる限り、逆らう事など出来はしない。好きなだけ走り回るがいい、どうせ逃げる先などありはしないのだからな!」

レノア兵士はいつの間に背に乗ったのか、翼の付け根で地獄の光景を見下ろしていた。その高笑いが耳に入る者は一人とていなかったが、彼はしばらく勝利の歓喜に酔いしれた。それから足の下の巨体に向かって大声で呼びかける。

「アルヴェイスよ、次は王宮だ。愚かなる者どもに思い知らせてやるがいい、お前の力をな!」

その言葉に反応するように、黒き破壊者の動きが止まる。鱗に覆われた体を震わせ、身をよじるようにして漆黒の翼を開いていく。すぐにそれは体の二倍ほどにまで広がった。足を曲げ、力を込めると、翼が揺らぎ始める。大きく羽ばたくと同時に、風が捲き起こった。広場に散らばっていた枝や天幕などが引きずられるように舞い上がり、そのいくつかは再び地面に叩きつけられる。風とともに土埃が舞い、残された人々は思わず顔を覆った。翼が力強く上下し、風を切る音とともに巨体が宙に浮き始める。浮き上がる速さが徐々に増し、十を数える間もない内に上空に達していた。何度か旋回すると、黒き破壊者は王宮へと向かって飛び去っていった。

鉄の門扉は開け放たれたままになっていた。あたりに兵士の姿はない。リュークが注意深く中に入ると、そこは台所のようだった。いくつもの鍋や調理道具が床に散乱していたが、不自然な静けさが漂っている。正面の扉から廊下へ出たが、やはり誰一人として姿が見えない。物音もしない。リュークは訝(いぶか)しげに目をきょろきょろさせた。

――なぜ誰もいない? 第一、静か過ぎる……。

突然遠くで、恐らくは町の方角だろう、猛獣の咆哮のような声が響いた。距離があるせいであまり明瞭には聞こえないが、その響きはリュークを腹の底から震え上がらせた。心拍数が、ぐんと上がる。今まで自分が聞いたことのあるどんな獣の声とも違うその声に、若き盗賊はぞっとするほどの寒気を感じていた。更に、建物が崩れるような音、大勢の叫び声などもかすかに聞こえる。体が固まってしまったように動かない。しかし騒音はしばらくすると小さくなり、やがて再び静寂があたりを支配した。

――何なんだよ、一体、何が起こってんだ? 

両脇の石壁にそって恐る恐る歩を進めていく。宝物庫のあるあたりは、見当をつけてあった。進入したのは王宮の最南端だが、宝物庫まではそう遠くないはずである。リュークは何が起こっても対処できるよう、油断なく気を配りながら歩いていった。……しかし今となっては、本当にこの宝石を宝物庫に返す必要があるのかすら定かではなくなっている。先程の兵士の言葉や、恐ろしい咆哮などが気になって仕方なかった。何かが起こっているのは間違いがない。リュークは不安に駆られながら、それでもゆっくりと歩き続けた。何か恐ろしい事が起こるような予感がしてはいたが、彼は歩みを止めなかった。恐らくは、彼自身の好奇心がそうさせたのである。

そのリュークの耳に小さな音が聞こえたのは、彼がいい加減引き返そうかという気になってきた頃の事だった。音に過剰な反応を示したリュークは、体の半分ほどの高さまで飛びあがった。思わず剣を抜く。冷たい汗が顔の横を伝った。

音は、すぐ横の部屋の中から聞こえたようだった。ルセール王宮は扉で仕切る部屋は少なく、この部屋も他と同様に厚い革の布が下がっているだけである。

何の部屋なのだろうか。部屋の中に、何があるのだろうか。リュークは緊張して喉を鳴らし、そっと中を覗いた。広い部屋だ。どうやら子供部屋らしく、小さな子供が遊ぶようなおもちゃが乱雑に散らかっている。人影は見えない。用心しながら部屋の中に入っていく。もちろん剣は構えたままだ。ここでも静寂が満ちていた。

「だれ? お兄ちゃま?」

突然か細い、しかし鋭い問いかけがあり、リュークは再度飛びあがった。もう少しで叫び声を上げてしまうところだ。破裂しそうな心臓を抑えて身構える。しかし声の主は、どう考えてもこの部屋の持ち主くらいであろうと思われる、小さな子供だった。大きなおもちゃ箱の後ろから、小さな頭が覗いている。リュークはほっと息をつき、それから驚きを隠そうと、思わず笑顔を作った。

「俺は、リュ……グ、グレイ」

「ぐぐれい? ふふ、変な名前」

「いやグレイだよ。……で、その、お前は?」

「あたし……えと、私はルセール王の娘、サーナ」

「王の娘? 皇女様かよ!」

「しいいいいいいっ! 大きな声だしちゃダメ! お兄ちゃまが、静かに隠れてなさいって言ったんだもの!」

慌てた様子で両手を振っているのは、幼い少女だった。まだ十歳にも満たないだろう。紫がかった赤い髪が腰のあたりまで美しく波打ち、何本もの細い金鎖で飾られている。褐色の肌とすんなり伸びた手足が愛らしい。小さな身体には透けるように薄い紫絹のヴェールをまとっていた。しかし何より印象的なのは、その可愛い顔からこぼれてしまいそうなほど大きい、紅色の瞳だった。不思議な事に、光の加減によっては紫にも、群青にも見える。その大きな目を好奇心できらきらと輝かせながら、彼女はリュークを手招きしていた。不審に思う気持ちを隠し切れずに、しかしそれよりも好奇心に打ち勝てず、リュークは剣をしまって少女の隣、大きなおもちゃ箱の陰に座り込んだ。

「で? なんで隠れてんだ?」

「竜がせめてきたんだって。サーナ、よく分かんないけど、お兄ちゃまが『ここに隠れてなさい』、って言ったの。お父様とお兄ちゃまが、竜を倒してくれるのよ」

サーナは真面目な顔だ。何度も、大きな瞬きをする。ぱちぱち、という音が聞こえて来そうなほどの長い睫毛が揺れた。盗賊と皇女は思わず見つめ合う。サーナは動かず、部屋への侵入者を見つめている。その瞳に邪気はない。リュークは、自分が少女の大きな瞳に見入っている事に気づいて苦笑した。

「ねえ、グレイはどこからきたの?」

――俺は子供相手に何を……いや、それより竜だって? 本当なのか? さっきの兵士が言ってたのも、嘘じゃなかったのか? そう言われてもぴんと来ないけど、とにかく、とんでもねえ時にきちまったのは確かだな。こりゃ依頼どこじゃねぇや。

「ねえねえ……」

「問題は俺がどこから来たかより、これからどこへ行くかだよ」

「グレイ、どっかいっちゃうの?」

「昔の人は偉かった」

「え?」

「意外と、学ぶ事が多いんだ。古人曰く、『三十六計逃げるにしかず』ってね」

軽く片目をつぶってみせる。そしてリュークは、サーナが再び口を開く前に部屋から姿を消していた。

「さんじゅーろっけい……って何?」

サーナはしばらく首を傾げていた。が、一人にされて不安になったのだろう、急にそわそわし始める。彼女が部屋を出ようかどうしようかと思案していると、部屋の入り口にかけられた布が勢いよく上げられた。驚く少女の目に、顔をこわばらせた青年の姿が映る。その肩が荒い息とともに揺れていた。

「あっちはまずい、水路が崩れて台所まで水浸しだ。何が起こったか分かんないが、ここも無事じゃなさそうだぞ」

「で、でもお兄ちゃまがここにいなさいって……」

「はっきり言うけど逃げた方がいいぜ、皇女様。俺の勘じゃとんでもない事が起きそうだ。正門、水路の他に出口はあるのか?」

「えと、町に抜けられるヒミツの道があるって、お父様が」

「どうやって行くんだ!」

「こわい、グレイ」

「いいから早く」

「えっとね、ここを出てすぐ左に曲がった先の突き当たりを、えっと右にいって、えーっと……四つある扉の、一番左奥のを開けて、三つめの角を右に曲がった突き当たりが中庭なのね。それでその北側に水場があって、それにシカケがあるの」

「おいおい、覚えきれねえよ」

リュークは突然の状態に驚愕し、また慌ててもいたが、サーナの言葉に思わず笑ってしまった。身振りを加えて必死に説明するサーナの様子は、いかにも大切に育てられたお嬢様といった雰囲気で、どこまでも愛らしい。リュークの返答ももっともだと思ったのか、サーナは首を傾げて思案した。

「んーとね、とにかく中庭なの。サーナが連れてってあげる方がいい?」

「悪いがそうしてくれ。第一、お兄ちゃまがどう言ったか知れないが、お前もずっとここにいるのはどうかと思うぜ。さあ、急ぐんだ」

「う、うん」

二人が部屋を出ると、兵士の叫び声が聞こえてきた。廊下を走っていくと、騒ぎが大きくなっているのが分かった。大勢の兵士が走り、鎧がかち合う。先程までの不気味な静寂は姿を消していた。平和なルセールでは耳にした事がないような物音に、皇女は怯えた表情を見せる。

「大丈夫、この俺様がなんとかしてやるって」

リュークが冗談めかして言うと、大きな目が彼を見上げた。もう一度、「大丈夫さ」と繰り返すと、震えながらも頷く。その小さな手は、リュークの手を握りしめたままだった。

「あそこが中庭なの」

そう言ってサーナが指差す方向に、日差しが差し込んでいる廊下が見える。柱が立ち並んで回廊を作っているようだ。ここまでくれば後少し……ではあるのだが、先程から大きくなって来ている騒ぎは、その中庭あたりから聞こえて来ている。リュークの胸に、黒い影がよぎった。ふと、そこに倒れている柱に躓(つまづ)きそうになり、彼は慌てて踏みとどまった。

――珍しいな、黒く光ってる柱なんて。

ルセール王宮では、その壁や柱のほとんどが漆喰(しっくい)で塗られていて、白い。リュークは長い髪をかきあげて首を傾げた。「柱」の先についているものが何なのかを確認しようとし……リュークはいつもの気取った格好のまま、一瞬にして凍結した。唇が薄く開き、青みがかった瞳が見開かれていく。サーナも、動けなくなっていた。ただ、小さな手だけが小刻みに震えている。中庭から聞こえてくる騒音も、その瞬間だけは、二人の耳に届いていなかった。

リュークが想像した通り、中庭は阿鼻叫喚の巷(ちまた)と化していた。そこでは恐ろしい戦いが繰り広げられていた。正確に言うならば「戦い」ですらない。ルセールの兵士たちは果敢に槍や剣を突き立てたが、その皮膚に傷一つ負わせる事が出来なかったのである。彼らがどれだけ勇敢に立ち向かおうと、事態は酷(ひど)くなるばかりだった。相手はたいまつを投げつけてもびくともせず、かえって吐き出される炎が兵士たちを飲み込んでいく。

「シュウス陛下! お逃げ下さい!」

「セレス皇子と街へ!」

兵士たちにせがまれているのは、立派なあごひげを蓄えた人物だった。己の進退を決めかね、目の前の兵士たちの死に歯を食いしばり、その目は驚愕と憎悪に満ちている。大きな体と黒髪が、彼もやはりルセール地方の男である事を証明していたが、頭髪やひげにはもはや白いものが混じり、顔には幾筋ものしわが刻まれていた。五十を過ぎた老体には立派過ぎるのではないかという程の鎧に身を固め、手には槍を持っているが、それらが目の前の敵に通用しない事は痛いほど分かっている。彼は歯噛みをしながら、自分の跡取りとなって国を治めていくはずの皇子を見やった。

若き皇子は、父王と同じ長槍を手にし、巨大な敵を睨みつけている。その瞳に恐怖心は全くなかった。国を、家々を、人民を滅ぼしていく炎に対し、それに負けぬほどの炎をその瞳に宿し、セレス皇子は逃げるまいと両足を大きく広げて立っている。若く燃えたぎる想いが彼を下がらせようとはしなかった。

「皇子! お願いです、どうか王を連れて……」

「ルセールの皇子たるこの僕に、逃げろと? いや、僕はここを退かない。王と皇子が宮廷を明け渡して逃げるなど、レノアの奴らに笑われるぞ!」

「セレスの言う通りだ。下らぬ事はもう言うな。例え我々が死んでも、ここは肥沃な地、また人々が集い、国は再建される。だが我ら二人だけでは再建出来ん。それに、お前たちをここで置き去りにすれば、わしは残りの生涯を悔いて過ごさねばならん」

「陛下……!」

兵士は、もう僅かしか残っていなかった。金属製の鎧は、際限なく向かってくる炎に対して無力だったのである。鎖で編んだ帷子(かたびら)は、剣や槍は止めても、炎の進入は止められなかった。容赦なく鎧を焼き、隙間から入り込み、炎は中の人間を焼き尽くす。あたりには数え切れないほどの兵士が倒れ伏し、ひどい悪臭が鼻をつく有様だった。それだけでも十分身の毛がよだつ光景だが、元凶はいまだ中庭にそびえたっている。その背に、レノアの青い鎧が見えていた。

「愚かなる王よ、先の大戦で引き分けたとでも思っていたか。レノアを甘く見たな! これで決着が着く、レノアの勝利が確実なものとなるのだ!」

「これは正当な戦いではない! ルセールはレノアに屈したわけではないのだ! 今にお前たちは思い知るだろう、いかに自分たちが卑怯な手段を使っ……」

「そんな事はどうでも良い! さあ今ここに滅びるがいい、ルセールの王シュウス、そして皇子セレスよ。ここにルセールの短い歴史も幕を閉じるのだ!」

「ルセールは終わらない! 僕らが死んでもきっと残る! いつか、きっと再建されるんだ!」

「戯言だな、脆弱(ぜいじゃく)な皇子よ。死にたまえ、愚鈍なる父王と共にな。さあこれで最後だ。アルヴェイス!」

アルヴェイスと呼ばれた竜は、今にも最後の攻撃に移ろうとしていた。二つの真っ赤な瞳が燃え上がる。大きく開いた、やはり真っ赤な口に熱気が込められていく。耳をつんざくような咆哮があたりに響き渡った。

その声で呪縛から解き放たれたかのように身震いしたサーナの目に、父親と最愛の兄の姿が映る。同時に、兄セレスにも妹が見えたようだった。何か言おうとしたのかその口が開く。が、それはほんの一瞬だった。轟音とともに壮絶な炎が吐き出され、その紅蓮の炎の向こうに、国王と皇子の姿がかき消える。想像を絶する程の熱気が中庭と回廊に渦巻き、やがてそれが静まると中庭に倒れていた兵士のほとんどは真っ黒な墨のように焦げていた。

「いやあああああああっ! !」

突如、甲高い叫び声が響く。翼の付け根に乗ったレノア兵士が振り返る直前、リュークはサーナの口を押さえて柱の影に飛び込んでいた。口を押さえているリュークの手に、サーナの熱い涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。声にならない涙は止めどなくその頬を伝い、辛い現実を認識した彼女の体は震えが止まらなかった。紅色の大きな目を見開いたまま、彼女は両手の指を強く握り合わせ、胸に押し付けている。リュークは息を殺し、サーナを抱きかかえるようにして柱にぴったりと身をつけて目を閉じた。

――頼む、見逃してくれ! 

竜の巨体が動く気配はなかったが、リュークはじっと動かなかった。恐怖のために動けなかったのである。耐え切れぬほどの緊張感と、痛いほどの静寂があたりを支配した。

どれくらいの時が過ぎたのか、リュークがもうこれ以上動かずにいるのは無理だ、と思った時、レノア兵士の声が聞こえた。

「……そこに誰がいるのか知らぬが、丁度良い。今ここで見た事をルセールの国民に知らせるんだ。お前たちの王と皇子は、確かに死んだとな」

サーナが暴れだすかと思ったリュークは、彼女を抱く両手に力を込めたが、サーナは今やぴくりとも動きを見せなかった。リュークはそれ以上彼女に構わず、柱の向こうに神経を尖らせ続けた。中庭で翼がはためく気配がし、やがてまき起こった風とともに竜が飛び去っていく。それが分かると、リュークは一生分の溜息を吐き出してサーナを解放した。しかし、放り出されたサーナは力なく、そのまま床に崩れ落ちた。

「お、おい」

その顔を涙で濡らしたまま、皇女は失神していた。長い髪がかかった顔は青ざめ、眉は強く寄せられたままだ。もはや生きる者の気配とてない王宮にこの少女を置いていく事は、リュークには到底出来なかった。あまりにも小さく軽いその身体を抱き上げる。

城下町もひどい状態だった。王宮前広場やその近くはもちろん、王都の大半が損害を受けている。家々はその一部や全体が崩れているものも多く、煉瓦の壁には焼け焦げた跡があちこちに残っていた。あたりには多くの犠牲者が倒れ、ものの焼ける臭気が鼻をついて思わず吐き気を感じる程だ。ラナの木やルセール王宮も、炎に焼かれたその姿を無残にさらしている。つい先程まで聞こえていたフィーピーの鳴き声も今はなく、遠く地平線が町中から見る事が出来るといった状態だった。

残された人々は一様に無気力である。ある者は家をなくし、ある者は家族や愛する人を失ったのだ。彼らはまだ、悲嘆か途方のどちらかにくれながら座り込んでいた。

誰も、自分たちと瓦礫(がれき)の中を縫って歩く、青年に連れられた幼い少女が、自分たちの皇女であるとは思いもしないようだ。それは彼女が王宮から出た事がないせいなのだが、例え彼女の姿が国民によく知られていたとしても、彼らの目にその姿は映りもしなかっただろう。人々は自分たちの置かれた状況に対して、ただ、呆然としていた。

彼らの前に現れたのは、あれは一体なんだったのだろうか。お伽話や幼い頃の寝物語、はたまた吟遊詩人の歌や語り部の伝説に出てくる「あれ」によく似ていた。それでも、人々は断言出来なかった。まさか生きた、動いている「あれ」が目の前に出現したなどとは……。

リュークもまた、どうして良いか分からずにいた。この数時間に起きた諸々の出来事は、今でも信じられない。けれど、それはやはり現実なのだろう。眼前に広がる光景を見れば、信じざるを得ない。それは人間の力が及ぶ範囲をはるかに超えた現象だった。そしてその結果が今のひどい城下町であり、多くの犠牲者なのである。

積み重なった瓦礫を乗り越えて行く。服の中の右手に首飾りを、左手に少女の手を握りながら、リュークは町外れへと向かっていた。

――宝石と皇女、か。俺の手には負えねえ。とにかくヴィトに相談だ。……あいつの事だ、死んじゃいないだろう。

皇女サーナも、人々やリュークと同様、いやそれ以上に無気力だった。その身に降り注いだ事全てに立ち向かえるほど、強くはない。大きすぎる衝動が感情全てを奪っていったかのように、無表情のまま、彼女はただ歩いていた。自分の手をひく若者が誰なのか、自分がどこへ連れて行かれるのか、彼女にはどうでもいい事のようだった。転んだり座り込んだりする事すら面倒で、それくらいなら歩き続ける方がまし、とでも言いたげに、彼女は時折道端の石に躓(つまづ)きながらも歩き続けた。

着いた先は城下町の中でも外れの方にあったためか、それほど被害を受けていないようだった。リュークは扉を叩き、声をかける。しかし中からの返事はない。なおも叩いてみるが、中から開ける者も、合い言葉を問う者もいなかった。

――嘘だろ、まさかヴィトまで……。

リュークは愕然とした。がっくりと頭を垂る。しかしサーナはそれを見ても相変わらず無表情で、その場にただ立ち尽くしていた。静止したその情景はまるで、舞台の一場面のようだ。突然、背後で大きな音がし、リュークの体が跳ねた様に反応する。振り返って見ると、犠牲者を山のように積んだ荷馬車が町の外へ向かって去っていくところだった。

リュークは無言のまま立ち上がり、服についた汚れをはたき落とした。冷たい表情を浮かべ、サーナを振り返る。が、しかし、すぐにその顔を歪める。

「仕方ねえか。俺もお前さんをほっとけるほど堕ちちゃいねえよ」

息を吐き出しながら言う。サーナは彼の優しい言葉にすら反応せず、突っ立ったままだ。リュークはもうそれには構わず、幼い皇女の手を引いて扉を押し開けた。家の中には、当然といえば当然だが誰もいない。椅子などの家具がそこらに倒れており、窓は開け放たれたままになっている。リュークは皇女を椅子に座らせて、棚に近づいた。それからおもむろに引き出しを、下から順に開けていく。台所へ行ってはパンなどの食料を、寝室へ移動しては防寒具などをその手に取る。必要そうな物は全て懐か、背中にかけた包みに入れた。まさしく盗賊である。だが文句を言う者はいない。優しく響く声で皮肉を言ってくれる友人はいないのだ。リュークは硬い表情のまま、一度も振り返る事なく家を出ていった。

町のあちこちから、細い煙がいまだ立ち昇っている。それは平和な日常の夕食の煙などではなく、大切なものを失った人々の涙すらを吸い取るかのような煙だった。嵐でも通過したかのような町には、焼け焦げた木の匂いと埃っぽい空気が漂っている。悪夢の象徴である煙や埃に、ハーディスの光が当たってきらめいていた。その背景には、割れた水がめや横倒しになった荷馬車、風で飛ばされた扉代わりの布などが散乱している。家の庭先などでは果樹が折れ曲がり、道端には壊れたつぼが転がっている。マイオセールの惨状を示すそれらの上に、ハーディスは惜しみなく降り注ぐ。皮肉にも、その光景にはある種の美しさがあった。

そしてまた、そこには人々の強さが徐々に浮き上がってきていた。マイオセールの民はようやく衝撃から醒め、自分が出来る事に手をつけ始めている。傷を癒せる者は走り回って治療を施し、もう二度と目覚めることのない犠牲者は街の外に運ばれていく。男たちは崩れた家々をなんとか修復しようとし、女たちは食事の支度や片付けに追われていた。虚ろだった彼らの目は、少しずつではあるが、ようやく光を取り戻しつつある。そんな街路を抜け、リュークは東の街道へ向かった。

マイオセールは平坦な荒野の真ん中に作られた円形都市である。城下町を囲うような高い壁はない。街の端には低層の人々が住む民家がまばらに建てられ、大通りがそのまま街道となって街の外へと続いている。ルセールが統一されてから、大掛かりな軍隊などに攻め入られた事がないからこそ、この作りのままで問題がないのだろう。町の近くには、街道沿いに申し訳程度の関所が設けられているだけだった。

マイオセールからは北、南西、東のそれぞれに向かって、僅かな水路を辿った三本の街道が引かれている。北は砂漠へ、やがてぶつかる山脈を越えてレノアへ。南西は海産物の獲れる港町やミチロ皇国、カルツ国へ。そして今リュークが向かっている東の街道は、ミクリナ島の絹が着く港町コーウェンまで続いていた。三本の街道以外を旅人がやってくる事はない。水もなく、気温も高い荒野を旅するだけで体力のほとんどは消耗し、延々と続く地平線だけでは方向感覚もなくなって精神力も尽きる。果てしなき荒野は、その存在だけでマイオセールを外敵から守っていたのである。

普段なら常駐しているはずの関所の兵士も、人手が足りなくて駆り出されているのか、町外れには人の姿が見えない。無人の関所を抜け、ようやくマイオセールの町を出た頃には、すっかり日が暮れかかっていた。

幼い皇女は、ある日突然現れた男に手を引かれ、とぼとぼと歩いていく。今までの短い人生の全てを、彼女は王宮の中で過ごしてきた。自らを守る術(すべ)は何一つない。ほとんど何も知らない相手ではあったが、今の彼女に出来る事は、この男についていくことだけだった。涼しげな風が顔をなでる。星が、広い空に瞬き出している。皇女はうつむいていた顔を初めて上げ、空を見つめた。また涙が流れてしまうだろうか。そう思って一瞬たじろいだが、不思議な事に彼女の瞳は潤まなかった。サーナは顔を元の位置に戻し、小さな顔にまとわりつく髪を手で払った。目を伏せ、何を見るともなしに足元に視線を向ける。足のすぐ先を、小さな蜥蜴(とかげ)が素早く通り過ぎていった。普段の彼女なら悲鳴を上げてそばの誰かに飛びつくところだったが、今のサーナはそれをじっと見つめるだけだ。最早、その虚ろな瞳には何も映っていなかったのである。

マイオセールで馬を手に入れることの出来なかった彼らは、ハーディスが地平線の向こうにその姿を隠してからも歩き続けた。リュークは満天の星々の下、サーナの手を引いて街道を辿っていく。

強行軍というわけにはいかなかった。幼い少女の、しかも王宮を出た事もないような皇女と一緒では無理もきかない。彼女の足がもつれて転んだのをきっかけに、リュークは腰を落ち着けることに決めた。振り返れば、マイオセールの町並みが少しは遠くなったとは言え、まだまだ近くに見える。

灌木(かんぼく)の根元の小石を取り除き、なんとか居場所を確保する。リュークは腰から肩にかけて結んだ紐を外し、背負っていた袋の口を開けた。干し肉のかけらと水筒代わりの木筒を取り出すと、サーナにそれらを渡し、口にするように言う。リュークは自分でも干し肉にかじりついた。サーナはしばらくその様子を見ていたが、やがて恐る恐る、干し肉を食べ始める。彼女は一言も喋らなかった。リュークも、全く口を利かない。

無言で火を起こし、上着をサーナにかけて眠るように指示する。野宿という初めての体験に戸惑っていたのか、サーナはしばらくその大きな瞳でリュークを見つめていたが、やがて疲れが彼女を眠らせた。焚き火の向こう、紫紅色の瞳がゆっくりと閉じられていく。

「お前、これからどうする……?」

リュークは小さく呟く。眠りかけた幼い皇女に対する問いかけなのか、それとも自分自身への問いかけなのか。彼は自分でも分からないようだった。

ルセールの首都マイオセールから離れてしまえば、街道を歩いているとは言え、目に入るのは所々に背の低い木が生えているだけの、果てしもない荒野である。明日からの旅程を思い、リュークは嘆息した。遠く遠く、かすかな波の音が聞こえる気もする。火の番をしながら、リュークは一番中考え事をしているようだった。

移動はゆっくりとしたものだった。もちろん、皇女がすぐにへたり込んでしまうからである。リュークは仕方なく、休み休み歩いた。たかだか一日、それもほんの数時間歩いただけで、サーナの白魚のような小さな足は赤くなり、皮がむけ、しまいにはまめが出来てしまった。皇女を引きずってでも進みたかったが、そうもいかない。彼女を背負っていくらか歩いてはみたが、そうそう進めるものでもなかった。八歳の少女は、何時間も背負ったまま歩けるほど軽くはない。若き盗賊は足を止めるたびに、肩をすくめた。少女はそれに対し、悪びれた風もない。ただ目を伏せ、足を押さえては座り込む。そして無表情のまま、黙りこくって目を逸らすのだ。一旦こうなると、リュークがなだめても怒っても、そうそう簡単に歩いてはくれないのだった。

ゆっくりと進み、ようやく小さな町に辿り着く。リュークの予想ではマイオセールを出てから一両日中に着いているはずだったのだが、町の入り口に立った時には既に三日が経過し、なおかつ濃い夕闇があたりを染め始めているといった具合だった。尽きかけていた食料を思い、リュークはようやく安堵の息を吐き出した。

ルセールの首都から南東に二十ロッカほど離れたこの町は、ルセールの貴族であるアンワール=サルヴィの城に併設された宿場町である。町には地下水の泉が湧き、水にはそれなりに恵まれている。アンワールはここで自領地を治めながら、街道筋の治安維持に努めているわけである。とは言え、最近のアンワールの仕事は関税搾取が主になりつつある、というのがもっぱらの噂であった。

王都から東に馬で一ヶ月ほどいくと、港町コーウェンがある。ここはミクリナ島からの産物が初めに着く港で、絹交易の恩恵を十分に受けていた。絹織物を始めとした様々な商品がコーウェンから大陸各地へ送られる。大きな道筋は二つ、山脈へ向かう道と王都へ向かう道だ。コーウェンと王都を繋ぐ街道は、ルセールにとって非常に重要な、物資流通のための道なのだった。街道筋にはいくつかの城があり、小領主たちが治安を維持している。追いはぎや野盗などとは滅多に遭遇する事のない、安全な街道なのである。リュークがこの町を、この街道を選んだのは、そういった理由からだった。

「おい、頼むぜ? 俺が帰ってきた時、この子が今とちょっとでも様子が違ってたら……」

「やだわ、リュークったら。あたしがリュークの言いつけ守らなかった事ないじゃない。ね? そうでしょ?」

「あぁ分かってるって。念を押しただけさ」

「でもリューク、どのくらいで戻ってくるのさ? こんな小さな子、娼家にそう何日もおいてやれないわよ」

「それも分かってるよ。一仕事してくるだけだ」

「そう、それならいいわ。その代わり、帰ってきたらあたしと遊んでね」

「俺はお前に会いに来たんだよ。この子は口実さ」

リュークの前にいるのは、首や手足を大小様々の宝石で飾りつけた、ジェラシュ地方の女だった。ゆったりとした服を身に着け、革製の帯をきつく巻いているので、細い腰がより際立っている。肩から背中へ流れ落ちるような髪は艶々と美しく、浅黒い肌には香油が塗られていた。そこらには柔らかな敷物が敷き詰めてあり、壁には透けるような布が幾重にも垂れ下がっている。サーナは香炉から立ち上る煙と、きつい脂粉(しふん)の香りに顔をしかめていた。

大きな町の歓楽街や、この町のように旅人が行きかう宿場町には娼家が多い。一般家庭では滅多に見ることが出来ない風呂に入れるのが特徴で、ひいては大衆的な娯楽場ということでもある。多くの奴隷が召し抱えられていて、客の食事の相手をしたり、様々な世話をしたりする。更に上級の女奴隷もいて、多いところでは十数人以上が寝泊りしている。彼女らは奴隷ではあったが、特に「ラハブ(遊女)」と呼ばれて珍重された。扱われ方は非常に丁重で、個室を与えられ、気に入った客を部屋へ呼ぶ事も出来る。客がいくら誘っても、気に入らなければ首を振ればいい。ここでは、男の客よりラハブの方が優位なのだった。今リュークがいるのは、そういった個室の一つである。

「ふふふ、嬉しい。リュークは滅多に来てくれないから」

「俺も忙しくてな」

「そんなこと言って、本当は……」

リュークは、女に最後まで言わせはしなかった。しなだれかかる女の腰に手を回し、逆の手をあごにかける。しかしそこでサーナの事を思い出したようだ。慌てて立ち上がると、額に落ちた長い前髪を右手で軽くかきあげた。

「じゃ、頼んだぜ。ギルドにも顔を出さなきゃなんないしな」

「商人ギルドに何の用があるっていうの?」

「馬鹿だな、表のギルドじゃないさ。商人には商人の、盗賊には盗賊のギルドがあるんだよ」

そう言って笑うと、リュークは部屋の扉を後ろ手に閉めた。後に残されて不安げなサーナは、ラハブと視線を合わせぬようにして膝を抱える。部屋の隅で小さくなっている少女を眺めやったラハブは、面倒そうに鼻を鳴らした。

狭い横道から広々とした大通りに出て、人通りの合間を抜けていく。夕暮れ時の町には、いつもと同じようにむっとするような熱気が満ちていた。収穫季である今は、この鬱陶しい湿気さえなければ非常に良い季節だ。北のような豊かな四季はないが、ルセールの収穫季は乾季に比べてずっと過ごしやすい。

――一年中収穫季だったらな。

晴れ渡る空を見上げて、リュークは小さく笑った。ほんの数日前に起こった忌まわしい事件も、彼の中では既に過去の事として片付けられているのだろうか。時折歌を口ずさんだりもするほど、機嫌が良さそうである。非現実的な存在も、マイオセールの悲劇も、皇女のことも、姿を消した友人のことも、リュークはその全てを忘れたかのようだ。鼻歌交じりでとある路地に入り込む。

この路地を知っている者は、余程火急の用事でもない限りここを通らない。危なくて近寄れやしないからだ。

路地の半ば程にある建物の入り口近く、物騒にも短剣を弄んでいる男が立っていた。二本の短剣を投げ上げては持ち替え、時折服で磨いたりするところは、いかにも扱いに慣れているごろつきといった風体だ。その眼光の鋭さは、男が只者ではない事を予感させた。しかしリュークは躊躇いもなく近づいていく。男はリュークに気がつき、短剣を利き手に持って身構えた。が、次の瞬間その相好が崩れる。

「なぁんだ、リュークの兄貴じゃないっすかぁ。珍しいですねぇ」

「ようイヴン。ギルド長はいるかい?」

「ゼルアルの親父だったら、今は忙しくてギルドなんかでゆっくりしてる暇はないっすね」

「どういうこった」

「ワリードさんが来てますから、詳しくは下で……」

扉を開けると、すぐに階段がある。地下へと続く薄暗い階段を降りると、ごく狭い通路で男が椅子に座っていた。壁ぎわに置いた椅子に腰かけ、壁に上げた足が通り道を遮断している。体つきはがっしりしていて、むき出しの腕もリュークの倍は太そうだ。波打つ硬そうな黒い髪の下から、やはり黒い目がぎろりと見上げる。

「……何か用かい」

「ああ、ワリードに話があるんだ」

「俺はあんたが誰か知らねぇし、通していいって話も聞いちゃいない」

「そりゃ困ったね」

リュークは口を歪めて笑い、前髪をかきあげた。それからおもむろに大声を張り上げる。

「ワリード! リューク様のお出ましだぜ!」

「てめぇ……」

のっそりと立ち上がった男はリュークより頭一つ以上大きく、低い天井に頭がつきそうな程だった。しかしリュークはお構いなしだ。男の両腕がリュークを捕まえようとしたが、それを軽くかわして再び大声を張り上げる。通路の向こうに並んでいる木の扉がいくつか開き、興味あり気な顔がのぞいた。扉が開くと、騒々しいざわめきが通路に流れ出す。多くの部屋ではごろつきどもが呑んだくれているようだ。通路の一番奥、突き当たりの扉が開き、猫背の男が姿を現した。大きな帽子がその頭に乗っている。男は見張りの男のところまでやってくると、その肩に優しく手をかけた。

「こいつはな、一匹狼だとかきどっちゃいるが、ゼルアルの古い知り合いさ」

「きどってるって何だよ」

「よおリューク、久々だな。ご機嫌かい?」

ワリードと呼ばれた男は、のんびりとした口調でリュークに笑いかけた。眠たげな目はどこに焦点があるのかいまいち定かではない。火傷の跡も生々しい右手で、見張りに座るよう指示する。男は不服そうな顔をしながらも、再び椅子に腰掛け、向かいの壁に足を上げた。

「どうかな。こっちこそ、最近はどうなんだい? アンワールの旦那は相変わらず?」

リュークがにやりと笑って見上げると、ワリードはそれに応えてゆっくりと頷いた。

「ああ、ご領主様は相も変わらず抜け荷さばきにご執心だよ。ちょっと前にマイオセールから早駆けが来た時も、兵を集めることすらしやがらねぇ。そうそう、なんでもマイオセールに正体不明の化け物が現れたらしいぜ」

「知ってるよ。たかだか三日前に死にそうな目に遭ったばかりでさ、おかげで今も面倒な事に巻き込まれてるんだ」

「一匹狼って奴は、やっぱり色々と大変そうだな。ギルドの助けがあった方が、お前も仕事が楽なんじゃないか? ……で、今日は何の用だ? ギルド嫌いのお前が来るなんて珍しい」

「用でもなきゃこんな女っけのないとこにゃ来ねぇよ。実は売りさばいて欲しい品があってさ、ゼルアルに頼もうと思って来たんだけど……あの親父、忙しいんだって?」

「ゼルアルはここんとこ寝る暇もねぇくらいだよ。王都がやばくなっちまったんで荷物が溜まってな、それの処理が大変なんだよ」

「組織って奴は、やっぱり色々と大変そうだな。一匹狼の方が仕事は楽なんじゃないか?」

ワリードの仕草を大仰に真似て、リュークは笑った。ワリードは肩をすくめている。

「さて、どうする? ギルド長はいないし……品物、俺が預かろうか?」

「ゼルアルが落ち着いた頃、また来るさ」

リュークはにこやかに笑うとワリードに背を向けて階段を上がっていく。ワリードはそれを笑顔で見送っていたが、リュークの姿が消え、扉の閉まる音が聞こえると、階段を睨みつけて呟いた。

「ちっ、あの野郎……」

一方のリュークも苦虫を噛み潰したような顔で歩いていた。

――ワリードなんか信用出来るかってんだ。あの野郎、言う事とやる事が一致した試しがねぇ。

情報以外には何も得られなかったせいでいらいらする。ワリードの人懐こい笑顔を思い浮かべ、舌打ちをもらした。ふと、美しい女がその目に留まる。一見したところは、一人旅の女剣士と言ったところだ。リュークは途端に笑顔になる。

「宿をお探しですか?」

素早く女の前に回ると、微笑をたたえて話しかけた。これで笑顔にならなかった女はそうはいない。リュークは自信満々だった。しかし女は突然現れた男に不審な表情を隠せないようだ。リュークはすぐに戦法を変える。後ろ頭をかきながら、照れくさそうに笑った。

「驚かせたかな、ごめんよ。でしゃばりだとは思うんだけど、宿を探しているならと思ってね。ああ失礼、俺はグレイ。よければ君の名前を聞かせてくれないか」

「宿を探してるわけでもないし、名前を言う必要もないでしょ」

リュークの予想と裏腹に、女は素っ気無く言った。結い上げた深い藍色の長髪は美しく、眉毛をきつく寄せた顔は整っている。小さな唇を引き結んでいるのできつい顔つきになっているが、微笑めばさぞや華やかだろうと思われた。細身の剣を両腰に差し、無駄のない軽装鎧を着ている。リュークの目にかなう美女ではあったが、その素振りは取り付く島もないといった様子だ。短い拒否の言葉に思わず立ち止まりかけたリュークを振り返るでもなく、早足でそのまま立ち去ろうとしている。

――それで追い払えると思っちゃいけないな。

「あんたなんかに用はない、ってところ? だけど……」

「あんたなんかに用はないわ」

真っ直ぐに前を見据えたまま、うんざりした顔で言い放つ。しかしリュークは全く動じなかった。彼女の言葉も聞こえていないかのように追いかける。なんのかんのと言いながらついてまわり、追いかけ、追いかけられながら、二人は徐々に早足になっていった。

「ほっといてよ、ついでこないで」

「俄然、興味が出てきたな」

「私は興味ないわ」

「俺はある」

「ついてこないでって言ってるでしょ!」

「そういう態度はいつか痛い目に合うぜ」

ついにはお互いに大声を出しながら小走りになった。そして二人は同時に角を曲がる。どちらも曲がった先を見ていない。案の定と言うべきか、角から出てきた人物を避けきれず、リュークは相手ともつれてぶつかり合った。転びはしなかったものの、均衡を崩してよろける。女剣士は転びそうになったリュークにぶつからぬよう身をかわし、つんと顔を背けて歩き去った。

「ちっ、あの馬鹿女……」

リュークとぶつかったのは、黒いローブをまとった男だった。フードの下から押し殺すような笑い声が聞こえる。リュークは改めてそいつに向き直った。男は手で口を覆って笑いをこらえているようだ。

「くっくっく、リュークも失敗するんだね」

「て、てめぇ! ヴィトじゃねぇか!」

「やあ」

男はフードを上げ、眼鏡をかけた顔をさらした。細い金髪が風に揺れる。

「『やあ』じゃねぇよ! なんでこんなとこにいるんだ、俺はてっきりお前が死んだと思って……」

「相変わらず早とちりだな。そう簡単に殺さないで欲しいね」

「だ、だけどな、マイオセールの家に誰もいなくて……」

「精霊たちが前々から教えてくれてたんだよ。禍々(まがまが)しい気配が近づいてくるって、予見にも出ていたしね。私の方こそ、リュークはもう死んだものとばかり思っていたな」

「死の直前までは行ったさ」

「君が王宮に忍び込む日と、精霊達が教えてくれた日が一致していたんだけどね。言うのをすっかり忘れちゃったんだな」

まるで借りた本を返しそびれた、とでもいうような気軽さだ。軽い笑い声をあげたヴィトに怒りを覚えたリュークは、精一杯の嫌味を口にする。

「お陰で俺は危うく死ぬとこだったんだけどな」

「ああ、ごめん。ついうっかり忘れていたんだよ。悪かったね」

「ついうっかりで片付ける気かよ」

リュークは積年の恨みをも込めてヴィトを睨みつける。しかしヴィトはその言葉を聞いたからといって微動だにせず、笑顔も絶やさなかった。眼鏡の奥の表情は読み取れないが、浮かべた笑顔に変化はない。リュークは、今までの経験を思い起こして「失敗したかな」と思い始めた。そして、しばしの沈黙の末、ヴィトは言った。

「悪かったと、謝っただろう?」

その口元には笑みが浮かんでいるが、目は笑っていない。静かな、しかし冷え冷えとするような響きを持った言葉に、リュークは思わずたじろいだ。リュークが怯える必然性は全くなかったが、ヴィトの有無を言わせぬ迫力に気圧されているのだ。彼は、もはや謝りたいという気さえしていた。ヴィトから目を逸らして呟く。

「いやその……いいよ、もういい」

「そう、許してくれて良かった」

途端にヴィトは極上の笑顔に切り替える。

――全く、逆らえやしない……。

「何にせよ、再会出来たのは喜ばしいね。記念の祝杯でも挙げに行こうか」

「いや、実は連れがいてさ。人に預けてあるんで、そうそう長くは留守に出来ねぇんだよ」

「珍しいね、リュークが誰かを連れて歩くなんて」

「俺だって出来ればほっぽり出していきたいけどな、そうもいかない相手なんだよ。長くなるけど……いいや、歩きながら話そう」

二人は頷き合うと、リュークが来た方へと歩き始めた。リュークは人通りの多い街路を好み、ヴィトは逆に裏通りを好んだが、娼家へは結局大通りを通った方が分かりやすいようだった。リュークは人込みをすり抜けるようにしながら、ヴィトを娼家へと案内していく。もちろん、ヴィトがいようがいまいが関係なしだ。相も変わらず、まるで寄せては返す波のように、ヴィトと様々な女の間を行き来している。混雑した場所が苦手なヴィトは嘆息していたが、突然、何かを思い出したようにくすくすと笑い出した。

「何だよ?」

「さっきの事を思い出したんだ。珍しいものを見せてもらったよ。面白かった」

「あの女か。それほど俺の趣味じゃなかったさ」

「そう? それにしては随分しつこく付きまとっていたみたいだったけど」

「あいつだけに付きまとってたわけじゃない」

リュークは上着を軽く開けてみせる。その内側には膨らんだ財布がいくつも納まっていた。

娼家の広間には、この娼家の富を象徴するかのような噴水があった。ルセール地方でこうして水を流し続けるというのは随分と豪勢なことである。それほど大きくはないが、噴水は昼夜を問わず湧き出していた。広間というより中庭的な作りで、天井は吹き抜けになっている。四つ角に高い柱が建てられ、二階の回廊を支えていた。二階も一階と同様に回廊型だ。どっしりとした柱には、手の込んだ彫刻が彫られている。これもまた富を誇示する意味合いがあるのだろう。

大勢の客が広間でくつろいでいる。男女の奴隷が食事や酒などを運ぶために、客の隙間をぬって歩いていた。ラハブたちも幾人かは広間に出てきて、客とともに食事をしている。ここでは時間の概念があまりない。客は、昼も夜もなく来る。外は暗闇が支配していたが、気温はそれほど低くはなかった。むしろ昼より夜の方が、広間へ出るには適していると言えるかも知れない。湿り気のある暖かな空気と香水の甘い匂い。灯火があたりを柔らかく照らしている。吹き抜けから見上げる空にはメルィーズが多くの星々を従えて輝いていた。

「リューク、本当にここに預けたのか、かの皇女様を?」

「ああそうさ、何か問題あるか?」

「私は遠まわしに『考えなしだ』と言っているんだけどね」

「余計なお世話だ。……あれ?」

リュークの目に、先程サーナを預けたはずのラハブが横たわっているのが映っている。彼女の傍らには、事もあろうに領主であるアンワールとその側近たちが座り込んでいた。他にも幾人ものラハブが寝そべったり、客にもたれかかったりしておべっかを使っている。宴は今や最高潮といったところで、他の客は広間の隅の方で遠慮がちに飲み食いしているばかりだった。

「察するところ、彼女に預けたわけだね。あの状態では話を聞きだす事もままならないんじゃないかな。で、サーナ様は今どうしていらっしゃるだろうね?」

髪をかきあげて目を逸らすリュークを、ヴィトは呆れ顔で眺めた。リュークはヴィトと目を合わさぬようにして頭をかいている。

「しょうがないね、リュークは。昔から、最後は私が始末をつけてあげなくてはならないのだから」

「ぎりぎりまで自分の手を汚すのが嫌いなだけじゃねぇか」

「言うようになったね、リューク。……本当に、随分成長したよ。昔はよく泣いていたのにね」

眼鏡の奥でヴィトの目が意地悪く笑っていたが、リュークは聞こえない振りを装って立ち上がった。酒の注がれた杯を運んできた少年奴隷に小さく耳打ちをして、アンワールの集団を指し示す。渋り顔の少年に銅貨を数枚握らせると、少年は軽く頷いた。そのまま盆を片手に、何気なく宴に近づいていく。

しばらくその近くをうろうろとしている様子はあからさまに盗み聞きをしているようで、リュークは人選を失敗した、と頭を抱えたが、アンワールたちはそんな些末な事は気にもならぬようだった。大声で笑い、浮かれている。ラハブに気に入られようと彼らは金をばらまき、必死でおだて上げているようだ。ラハブたちの間からしばしばあがる嬌声が、吹き抜けを通って夜空に吸い込まれていく。サーナを預けたラハブも、まるで女王様気分で、男たちに気前よく笑顔を配っていた。

少年奴隷は食器を山ほど抱えて戻って来ると、リュークにひそひそと囁いた。リュークがもう一度銅貨を握らせたので、少年は満足したようだ。再び食器を抱えて店の奥へと姿を消す。

「相手は領主だし、とても席を外せなそうだってさ。酒に酔って絶好調だとよ」

「聞こえたよ。その程度の事で銅貨数枚か」

「あいつ、サーナから目を離すなって言っといたのに……」

「それより彼女の案内なしでどうやって個室へ行くつもりなのかな?」

ラハブたちの個室は、広間よりずっと奥まったところ、もしくは二階にあった。ラハブと一緒でなければ、客は個室へ入れないのが道理である。広間の柱と柱の間には衛兵たちが立っていて、勝手に個室へ行けないように見張っていた。しかしリュークは今までの失態回復とばかりに意気込んでいる。

「ヴィト、俺の職業を忘れたのか? 裏口で待っててくれ、すぐに行くよ」

そう言うと、身をひるがして娼家の奥へと消えていった。

空は美しく晴れ渡り、北の方角には細いメルィーズが浮かんでいる。夜のしじまが優しくヴィトを包んでいた。このあたりは裏通りになっていて、この時間になれば人影もない。娼家の右隣は油屋、左隣は織物や絨毯を売る店で、今はどちらの裏口も閉められていた。通りは細く、すぐ先で曲がっている。

ヴィトは娼家の裏口から少々離れた木戸の脇に立っていた。身にまとった、長く黒いローブが彼の姿を闇に溶かしている。今日のような夜が、ヴィトは好きだった。少し湿っていて、暖かく、静かで、優しい夜。彼はリュークを待ちながら、物思いに耽っていた。

突如、建物の中で騒ぎが起こった。何かが倒れる音、大勢が走る音、男たちの喚き散らす声が一緒くたになって湧き上がる。それまでそこに鎮座していた静寂は一瞬にしてかき乱され、ヴィトはメルィーズを見上げて嘆息した。騒音が急に大きくなったかと思うと、扉を開け放った音が響く。続いてすぐそばの木戸が大きな音を立て、リュークが飛び出してきた。その腕に少女を抱えるようにしている。リュークはヴィトの合図に気づいてほんの少し足を止め、早口で告げた。

「最後でちょいと欲が出ちまった。ヴィトも早いとこ逃げた方がいいぜ。北の門で落ち合おう」

「待ちやがれ!」

「この悪党! ただじゃおかねぇぞ!」

娼家の裏口から数人の男たちが走り出て来た。リュークは彼らの姿を確認する前に駆け出している。その腕に抱えられたサーナは、何が起こったのか分からぬまま、目をきょろきょろさせるばかりだ。二人の姿は衛兵たちが木戸を出る前に路地の角を曲がって消えている。出てきた護衛兵たちはヴィトに目もくれず、口々に悪口雑言を吐きながらリュークを追っていった。ヴィトは再び溜息を吐き、首を横に振る。それから皮肉な笑いが口の端に浮かんだ。

「これだから、詰めが甘いと言うんだ」

続けて何やら小声で呟き、右手で不思議な形を作る。すると、いくつもの淡い光が手の上で踊った。まるで、夜の闇に溶けていたものが、ヴィトの右手に触れて光を持ったかのようだ。やがてその光の動きが収まると、そこに小さな精霊たちが姿を現わしていた。彼らは人の姿に似ていたが、その姿の半分ほどは透けていて、顔はやけに小さく、目が光っている。ヴィトの手の上で踊っていた光は、彼らの小さな目だった。

「私の頼みは分かっているね?」

ラマーたちは互いに頷き合うと、僅かな光の筋を残して飛び去っていった。ヴィトはそれを見届け、フードをかぶり直すと歩き出す。全身を覆うローブと深いフードを身につけた姿は、ラマーたちのように黒く、闇色に染まっていた。

「……とまあそういうわけで、何故だか俺が見つからなかったらしい。見当違いなとこを探してたのかな。馬鹿な奴らだ」

「無事だったのは何よりだね」

ヴィトはにっこりと笑った。半月形の、それほど広くはないが居心地の良さそうな部屋である。壁を埋め尽くすように並んだ本棚は勿論の事、机の上や、果ては床にまで本がうず高く積まれている。ヴィトの性格なのか、非常に明るく清潔ではあったが、とにかく物凄い量の本である。

革張りの椅子に浅く腰掛けたリュークが問う。

「今、ここに住んでるんだって言ったな」

問いかけられたヴィトは、ローブを脱いでくつろいでいた。いつもはローブの中で見えない、清潔そうな服と眼鏡を身につけた姿がリュークの目に映っている。

「そう。私の家ではないんだけどね。間借りという事になるかな」

「へぇ……ま、何でもいいけどな。本当に預けてっていいのか?」

「構わないよ。というより、むしろ預けていって欲しいね。君に連れまわされたんじゃ、皇女様が気の毒だからな」

いつも通りの辛口だが、その声は飽くまでも柔らかく、優しい。それだけに、反論のしようがない。相手が感情的ならばこっちも激昂してしまいそうなものだが、ヴィトはいつでも冷静だった。リュークは軽く肩をすくめる。

「ま、俺も足手まといを連れて歩きたいとは思わねぇしな。預かってくれりゃ助かる」

サーナは先ほどからリュークの隣に座り込み、目を伏せたまま黙りこくっていた。小さな右手はしっかりとリュークの服の裾を掴んだままだ。ヴィトがその顔を優しく覗き込んだが、何の反応も示さない。

「サーナ皇女、正式に自己紹介もしておりませんでしたね。私の名はヴィト=キルヒア。リュークの古くからの知り合いです。これからしばらくの間、私がお相手仕(つかまつ)ります。快適とはいかないかも知れませんが、我慢していただけますか?」

少女の前にひざまずく。しかしサーナはうつむいたまま、一言も口を利かない。ヴィトの眉が寄った。

「リューク、皇女様は無口な性格なのか?」

「いや。最初に会った時はよくしゃべったよ。……あんな事があっちゃ誰だって無口になるさ」

「それはそうだろうな。とは言え、私は会った時から一回も口を利いて頂いてないんだ。いくらなんでもおかしいだろう」

そう言われれば、とリュークの顔にも不審そうな表情が浮かぶ。リュークは髪をかきあげながら、今までの事を振り返った。

「考えてみれば、俺ももうずっと口を利いてねぇな?」

そう言って、サーナを見つめる。しかし少女は視点も定めないまま、じっと空を見つめているばかりだった。ヴィトは、と見返ると、机に向かって何やら探し物をしている様子である。

「ちょっとばかり試させて頂こう」

その手に小さな水差しを携え、ヴィトは再びサーナの前にひざまずく。水差しにはねじれた棒のようなものが数本入れられていた。その内の一本を右手に取ると、左手で空に文字を書くような仕草を見せる。

「何をするつもりなんだ?」

「私は本来精霊使いだからね、こういった術法はあまり得意じゃないんだけど」

「答えになってねぇよ」

「黙って見ていてくれないか」

軽くいなされ、リュークは肩をすくめる。ヴィトはそれに全く取り合わず、眉根にしわを寄せている。何かを念じてでもいるようだ。しばらくすると、先ほど空に書いた文字がほのかなゆらめきを持ってその姿を現した。右手に持った棒で絡めとるようにすると、それはすぐに霧散してしまう。ヴィトはその棒をサーナに握らせた。

「サーナ皇女、何かお言葉を……」

サーナはその棒を握ったまま、首を横に振った。ヴィトはしばらく待っていたが、諦め顔で立ち上がり、道具を机に戻す。

「駄目か」

「何が駄目なんだよ」

「術法は上手くいったのだけどね……。どうやら彼女は言葉を亡くしてしまったようだよ」

「しゃべれねぇってのか?」

ヴィトは黙って頷き、サーナは不安そうにリュークを見上げる。リュークは、彼女を安心させようとしたのか、自分でも知らぬ内にその頭にそっと手を置いた。

目の前に広がる、黒く不吉な翼。真っ赤に燃え立つような恐ろしい瞳と、吐き出される炎の海。その向こうに消え行く、父と兄の姿。サーナは全身の汗を感じて飛び起きた。悲鳴すら上げなかったが、息を切らしてその小さな胸に手を当てる。激しい動悸。しばらくしてから、ようやく深い溜息を吐く。何度も激しく瞬きをしてみたが、結局止めようもなく後から後から溢れ出す涙で、目の前が霞む。声を上げることはなく、小さな嗚咽を幾度となく漏らして彼女は泣いた。

しばらく泣くと、気持ちが落ち着いたのか、周りを見渡す。小さな部屋。人の気配はない。自分が寝ていた寝台の横に小さな窓があり、それが明かり取りになっているようだった。はっきりとした時間は分からないが、ハーディスが見えないところを見ると、もうだいぶ昼に近いのだろう。

窓から一羽の黒い鳥が飛び込んできた。彼女がかけている布団の上に止まると、翼をたたんでくちばしを差し入れる。そっと手を伸ばすと慌てたように羽を広げたが、危害を加えられるわけではないと悟ったのか、窓のふちに止まりなおした。サーナは唇の端に、ほんの少し笑みを浮かべて、その様子を見守っている。

王宮の中庭にある噴水にも似たような鳥が何羽も来ていた。あの頃の事が思い出される。まだそれほど時間が経ってはいないのに、もうずっと昔の事のようだ。浮かんだ微笑を消して、彼女は物思いに耽った。

「サーナ、お前は僕が守るよ。お父様もお母様も、みんながお前を愛してる。もちろん僕もだよ? 僕はまだ子供だけれど、絶対立派な王になって、お前をずっと守ってあげる。ねえサーナ、いつかはお父様がいなくなって、僕が王になって、お前もどこかの皇子様と結婚する日が来るんだろうね。でもね、いつも僕はお前のそばにいるよ。どんなことがあっても、僕がいるから大丈夫だよ」

兄の言葉はいつも彼女を励ましつづけていた。幸せな生活ではあったが、忙しい両親が毎日のように彼女にかまっていられるはずもなく、いくら大勢の臣下に守られていても、その寂しさを隠せなかった日々。そばにいてくれたのはいつも兄だった。外に出たいといって困らせた時も、父王の大切な本を破いた時も、母の服を着て怒られた時も、かばってくれたのは兄だった。サーナにとって、兄は永続的な存在であり、常に自分のそばで自分を愛しつづけてくれるものだったのだ。その感情は幼い彼女の中で、愛情にも似たものであっただろう。しかしその兄はもういない。あの時、何かを言いかけた表情のままで……炎の渦の中に消えていったのだ。彼女の頬に、再び涙が伝う。

部屋の扉が開く音がし、彼女は慌てて涙をぬぐって振り返った。

「起きていらっしゃいましたか。もう昼ですよ。お腹も空く頃合だと思いますが」

計ったかのように、サーナのお腹が鳴る。サーナは赤く染まった顔を恥ずかしげに背けた。

「お腹が空くのは良い事ですよ。さ、食事にしましょう」

そう言って笑うヴィトの顔を見ると、少しは気が晴れてくる。先程までの暗い考えは少しの間忘れることにして、彼女は気を取り直した。ともかく今は、生きなければならない。何をすればいいのか全く分からないけれど、ただ落ち込んでいても仕方がないのだ。サーナは自分にそう言い聞かせた。

食事の準備がされている部屋に行くと、リュークの姿がない。サーナは小首をかしげて、ヴィトの服をひいた。言葉を発することが出来ない彼女の気持ちを察したのか、ヴィトが口を開く。

「リュークがいないのが不安ですか?」

サーナは、首を縦に振った。

「彼は北へ向かいました。彼にはやる事があると、その成否が世界の運命を分ける事になる、という予見の結果です」

今度は、首を傾げてみせる。

「少し難しかったですか。サーナ皇女、リュークはもういません。ただ、いつか戻ってくるでしょう。あなたに出来る事は待つ事です。希望を捨ててはいけません。いいですね?」

小さく頷いて食卓に近寄り、サーナは椅子に腰掛けた。ヴィトはその顔に微笑を浮かべて、自分も食卓についた。

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