明るい陽ざしが一日の始まりを告げている。サナミィ村は、さほど広くもない、森に囲まれた閉鎖的な集落である。
食堂を兼ねた居間に、朝食の匂いが立ち込めている。部屋の中央に手作りの木机。何枚かの板を合わせた作りで、表面には丁寧にやすりがかけられている。揃いの椅子が四つ。これも机と同様、素朴な作りで、背もたれの部分に模様が彫りこんであるのがせめてもの飾り気だった。
「スープどう? そろそろ出来たかしら」
豊かな亜麻色の髪の女性が皿を並べながら声をかけた。ほっそりとした体は子供を生んだとは思えないほど華奢だ。鍋の面倒を見ている少女が母を振り返り、笑顔を浮かべる。
「もう良さそう。お父さんとクリフはまだかしら」
父親と兄は外で薪を割っているはずだ。母親は、スープの味見をしている娘を見て目を細めた。
「クレオもすっかり一人前ね」
「料理の腕前? まだ母さんには敵わないわよ」
「でももうすっかり家の事が出来るし、いつ結婚してもおかしくないわね」
「やめてよ」
母の言葉に、娘は思わず手を止めた。
「私、まだ十四よ」
「十五、六くらいで結婚するのが普通ですもの」
「だからまだ早いって。それに、この村の人となんか」
言い渋る娘に、母親もつい顔を曇らせた。
「ただいま!」
元気な声と共に、少年が木の扉を開けて家に入ってきた。
「おかえり、クリフ」
「薪割り、時間かかったね」
「ごめんごめん」
クリフとクレオの二人は、はしばみ色の瞳と髪の、どこにでもいるごく普通の兄弟だ。ただ、鏡に映したようにそっくりだという点を除いて。
運命の神クタールの気まぐれか。それとも混沌の神が遣わしたものか。同じ日、同じ時に生まれた二人の子供。それは、稀有な存在であった。もし生まれたとしても、不吉だ、禍を呼ぶなどと言われ、どちらかを殺してしまうことが多い。二人揃って育てられることは皆無であるといっていい。クリフとクレオが生まれた時も、多くの人は、縁起が悪いから……と言葉を濁しながら、それとなくどちらかを始末するよう促した。しかし、両親はそれを拒否した。これが運命というものだ。特に母親、ルクレリアはそう強く主張した。
両親の思いを受け、二人はすくすく成長した。双子と言っても、普通は男女で姿容がそこまで似ることはない。だが、クリフとクレオの二人は異常さを感じるほど似ていた。瞳の色、形、顔の輪郭、髪質から手足の指の形に至るまで、二人は写し取ったようにそっくりだった。村人は双子を異端の存在であるとし、より一層彼らを避けるようになった。
村の子供たちはクリフたちをからかったり、気持ち悪がったりする。村には、彼らと行動を共にする者はいない。学校もないので、二人はいつも二人きりだ。しかし、自分たちは孤独だと思ってはいなかった。いつでも相手が隣にいる。彼らは生まれた時からずっと一緒で、お互いがお互いを補い合って育ってきた。クリフにとってはクレオが、クレオにとってはクリフが、誰より大切な兄弟であり、友達であり、自分の半身だった。
「さあ、朝飯を食おう。パンは焼けてるか? よし、じゃあクレオの絶品スープをいただくかな」
太い声で言ったのは父親チェスターである。席につくと、武骨で大きな指を組み、大地の神に祈りを捧げた。家族はみな、今日の恵みに感謝して食事を始める。
「そういえば、今日も見た?」
スープをすすりながら、クレオがクリフに小さく問いかけた。
「見た」
「また、いつもの……?」
「うん。あれだった」
「やだなあ、なんでいつも見るんだろ」
「もう何日続けて見たっけ」
「分かんないよ」
彼らは、溜息混じりでさじを口に運んでいる。両親は顔を見合わせた。
「どうしたんだ」
「何かあったの?」
両親の言葉に子供たちは、しかし躊躇った。どう話していいか分からない。自分たちの話を信じてもらえるかどうか、迷ったのでもある。だが両親に重ねて問われ、二人はようよう話し出した。
「ここんとこ、同じ夢を続けて見てるの。私も、クリフも」
「なんて言うか……すごく嫌な夢なんだ。空が真っ暗で、火事になってて。それで人がたくさん……死ぬんだ。俺、夢なんか滅多に見ないのに、ここんとこ毎日のように見ちゃうんだ。クレオは不吉な予感だとか言うし」
「だって、世界の終わりって感じなんだもん!」
クレオがきっぱりと言いきった。チェスターは思わず笑い、「それで」と促した。お伽話を聞いてでもいるようだ。クリフはその様子に少し腹を立て、頬を膨らませる。
「笑い事じゃないんだって。その夢を見ると、本当にぐったりしちゃうんだよ」
「そうよ、本当なんだから。それに……ね?」
隣席の兄に同意を求めるように尋ねる。それから肘でつついて、「クリフが言ってよ」と囁いた。クリフは「えぇ? クレオが言えよ」と身をよじる。仕方なさそうにクレオが口を開いた。
「あの、ね、その夢にね……。竜が出てくるの。竜が、人を焼き殺して……ねえ、母さんなら分かってくれるでしょ? 嘘でも作り話でもないんだから!」
クレオは急に早口になって母親に向き直った。その瞳には馬鹿にしないで聞いて欲しい、という意思が確かに感じられる。はなから信じていないチェスターに比べ、ルクレリアは神妙な顔だ。父親は反省したのか、少々居ずまいを正した。
「言わなかったけど……」
ルクレリアはさじを置き、妙に小さな声で話し始めた。痩せたその顔はいつもより少し青ざめているように見える。
「私もしばらく前から夢を見るの。二人が言ったみたいな夢。竜も、出てくるわ。……チェスター、私の能力のこと。分かるでしょう」
問いかけられたチェスターは、もちろん、というようにうなずきながら、妻の肩に優しく手を乗せた。
「そうだったのか」
「私の不安がみんなにうつってはいけないと思って黙っていたのだけど。まさかあなたたちも夢を見ていたとはね」
「きっと、母さんの力が強いからだよ」
「うん、きっとそうよ。ね、本当だったでしょ」
クレオが、父親に対して正当性を主張する。子供の言うことだとて、頭から否定するのは良くなかった。軽くうなずいてそれを認めると、チェスターはルクレリアに向き直った。
「気づいてやれなくてすまなかったな」
「いいのよ。ありがとう、チェスター。……たいした事じゃないと思っていたけど、これは一種の予見だわ」
普段聞き慣れない単語に、子供たちが疑問の表情を顔に浮かべる。
「予見っていうのはね、なんて言ったらいいのかしら、占いのようなものなんだけど、実際に起こる、未来のことを見る、というのかしら。生まれながら持った才能のようなもので、ほとんどの人には出来ないわ。それに訓練を積まないと、出来るかどうかすら分からないの」
「母さんには出来るんだね?」
ルクレリアが黙ってうなずく。
「それで、その夢が予見だっていうの?」
「私たちが見た夢は、必ず起こるってこと……?」
「そうとは限らないさ」
チェスターはすぐに否定したが、妻の、司祭としての資質はよく知っていた。不安は隠しきれない。
いつの間にか、机の上のスープはすっかり冷めてしまっている。会話はそのまま途切れ、四人の家族は静かに食事を再開した。木枠にはめ込まれた窓からは、朝の清々しい光が差しこんでいる。いつもと変わらぬ、暖かく平和な春の朝。しかしそれにも関わらず、部屋の空気はどこか冷たく、よどんでいるような気さえしていた。
レフォアの春は過ごしやすい季節である。青葉の月と呼ぶのは、木々が青い葉を茂らせるからだ。これから雨の月までしばらくの間、穏やかで気候的にもあまり変化のない日々が続く。
サナミィのあるマグレア地方は丘陵地帯が多く、海抜もやや高い。なだらかな丘や森が多く、畑を耕す人々もいれば、狩りなどで生計を立てる者もいる。森に囲まれたサナミィでは多くの人々が木こりや狩人として生活していた。
午後遅く、日暮れも近くなったころ、狩人たちは村の広場に集まっていた。普段であれば出迎えた女たちも含めて、村人たちは狩りの神に感謝し、台車に乗せた獲物を分配する。だが、今日はいつもと違う騒ぎが持ち上がっていた。
「ちょ、ちょっと何なのよ、これ」
「いやあ、そこの外れで拾ったんだよ」
「何言ってんだい、こんなもの……拾うわけないじゃないの」
「だって落ちてたんだぜ。いい獲物だろ? 大物だよなあ!」
大笑いする男たちを見ながら、女たちは肩をすくめている。狩りをして村へ戻る途中、村はずれの道の近くに、立派な服の少年と騎士が「落ちて」いたので「捕獲」したのだと男たちは冗談めかして言う。
台車の上に寝かされた二人は存命である証拠に息はしているが、意識はない。人々は物珍しそうに覗きこんでは勝手な憶測を口にしていた。集まってきた人々の輪の中には双子、クリフとクレオの姿もあった。
鎧と外套、このあたりではお目にかかれないような絹の服をまとった青年と少年。鎧や服には手の込んだ細工がしてあり、細かな刺繍や、鎧に彫りこまれた模様などで、それらがとてつもなく高価だと分かる。
少年は金で縁取られた純白の鎧と水色の房つき外套を身につけ、美しい刺繍の施された袋を大事そうに抱えている。白い肌。まだ幼く、愛らしい顔立ち。薄い水色の髪は柔らかく波打ち、額には細い金冠。それはどう見ても個人のためにあつらえた物だった。所々に美しい宝石が埋め込まれた鎧は、実に美しく壮麗な品である。持ち主の少年が身分の高い者である事はすぐに知れた。
一方の青年は背が高く、立派な体格の持ち主だった。少年と同じく鎧と外套を身につけていたが、鋼鉄の鎧は少年のそれに比べるとずっと実戦向けで、よく使い込まれていた。彼の凛々しい顔立ちは精悍な青年のそれで、少し癖のある黒髪が乱れて額にかかっていた。若い女たちは彼を見て、頬を染めてひそひそと言い交わした。男たちはそれを苦々しく眺めていたが、といってこの青年と女性を取り合う気にはなれなかった。もしこの男と決闘したとしても、到底勝てるとは思えなかったからだ。腰に装備している長剣を扱えるのは余程鍛えた剣士でなければなるまい。
しばらくして、誰かが呼んできたのか、村の長老が人々をかきわけて現れた。
「こりゃあ……」
長老はそう言ったきり、次にどう続けていいのか言いよどんでいる。周囲の人々の視線が長老に集中していた。この村にこうした身分の人々が訪れたことはない。長老はそれなりの教育を受けており、知っているが、人々は彼らが高貴な人だとは分かっても、どう扱ったらいいかは分からないだろう。どうしたものかと長老が考えあぐねていると、青年の方がつと目を開けた。体を起こして苦痛に顔をしかめる。すぐにあたりを見まわし、少年を見つけると、ほっと息を吐いた。
「高貴なご身分の方とお見受けいたしますが、いずれの城の方でございましょうか」
長老が、おずおずと声をかける。青年はそれに反応して台車を降りた。
「私は、シキという。……ここはレフォアか?」
「は、はい。サナミィという小さな村です。私は、村の長老ギフルダーラと申します。ひとまず、私のうちへお越し下さい。そう広くもありませんが、その台車の上よりはましでしょう」
長老は村人たちに向かってそれぞれの家へ帰るように告げる。青年は、まだ目を覚ましそうにない少年を軽く抱き上げた。ばらばらと散っていく人垣の中で、双子が何やら思いつめたような顔を見合わせていた。
平和すぎると言いたくなるほど、この村は平穏な毎日を繰り返していた。事件というようなことは何も起こらない。そんなサナミィに突如舞い降りた、恐らく後世まで語り継がれるであろう大きな出来事だった。謎の人物二人が誰なのか、何の目的があってやってきたのか、それは今、サナミィの人すべての関心事となっていた。双子はまた別の意味で彼らのことが気になっていた。自分たちが見た竜の夢と、その直後に現れた二人が無関係であるとは思えなかったのである。
応接間には暖炉があったが、この時期、火は入っていない。長老はゆったりとした椅子に腰をかけ、こわばった表情を見せていた。
「間違いなく、反乱なのですね」
「ああ、そうだ。以前から良くない噂はあったものの、まさか本当に、あんなことになるとは……」
「心中お察し致します。サナミィは田舎の村、まさかレフォア城でそのような事が起きておりますとは、思いもしませなんだ。では、シキ様が連れておられたあの少年は……紋章から、王家の方とお見受けしましたが」
「長老よ。俺は、お前を信用に値する人物だと思っている。確認しておくが、お前は忠実なるレフォアの民だな」
「も、もちろんでございます」
「万が一にもレフォア王家に忠義を誓わぬようなことあらば……」
「そのようなこと! 決して、決してありません!」
長老はシキが手をかけた剣から目を離せぬまま、素早く首を横に振った。
「よし。……俺がお連れしているあの方は、第二王子エイル=エルラート=レフォア殿下だ。エイクス王と第一王子のシエル様がお亡くなりになった今、殿下が王位継承第一位だ。生きている事が知られたらと思うと……ああ」
嘆息をもらしてシキはこめかみを両手で押さえた。城から無事に転移出来たはいいが、辿り着いたのは片田舎。城は恐らく反乱軍に乗っ取られ、取り返そうにもここにいるのは王子と自分一人。とりあえず目の前の人物は信用のおける人物のようだが、未来は闇に覆い隠されていると言っていい。シキは思考をまとめようと、精一杯努力していた。そのシキに向かって長老が問いかける。
「シキ様、その、今なんと仰られました? エイクス王とは……」
「何が疑問か。たった今忠臣だと言ったその口で、陛下の御名の何が不思議か」
老人は、何とも妙な顔をしている。不思議に思ったシキの眉根が寄った。
「なんだ、何がおかしい」
「いえその、エイクス王というのは」
長老が再び質問しかけたその時、奥の部屋へ続く扉が開いて一人の少年が姿を現した。顔色は悪いが、真っ直ぐな姿勢から溢れる気品が、育ちの良さを物語っている。少年がシキに目をとめて歩き出すより早く、シキが少年の元へ駆け寄ってひざまずく。心配そうな瞳で主君を見上げる姿は、まさに忠臣そのものであった。
「エイル様、大丈夫ですか。お身体の具合は」
「うん。少し頭が痛いが、平気だ。……それより、ここは?」
「レフォアの領地内、マグレア地方のサナミィという村でございます。ただいま長老に事情を」
シキの言葉を聞きつつ、エイルは疲れたように椅子に腰掛けた。席を立っていた長老が、少年の前で腰を折る。
「初めてお目にかかります。サナミィのギフルダーラと申します」
それに一瞥をくれ、けだるげにうなずくと、エイルはやおらシキに向かって口を開いた。
「疲れた。それに、喉が渇いている。何か持て」
「王子。まずはギフルダーラ殿にご挨拶を。我々を救ってくれた村の長老です」
「ああ、そうか。……ご苦労だったな。褒めて取らせる」
ひざまずいたままの長老に軽く声をかけると、エイルは再び飲み物をねだった。
「すぐに持ってこさせましょう」
長老は気にすることもなく立ち上がり、小間使いを呼んでいくつか申し付けた。すぐに飲み物と軽食が運んでこられる。
「これはなんだ。……ああ、仕方ないか」
城では見たことのないようなものだった。だが田舎の村だ、こんなものしかないのだろう。不満を顔に出すのはお行儀のいいことではなかったなと思いつつ、しかしまだ若い少年王子は仕方なさそうに皿の上のものを腹に収めた。
「エイル様。ジルク殿は、詳しい事は王子に伺ってくれと言っておりました。これから先の事も相談しなくてはなりません。お辛いこととは思いますが、お話し下さいますか」
「……うん」
重たそうに開いたエイルの口から、王宮の老司祭から聞いた話がぽつぽつと零れ落ちる。父王の弟が反乱を起こしたこと、ジルク老には何か起こることは見えていたけれど、どうしようもなかったこと、エイルを安全な場所に送るため、転移の術法を使ったこと……。
「シキ様」
ずっと黙っていた長老が口を開く。
「大変失礼ではありますが、お聞きしたいことがあります。私は真剣です。どうか、お答えいただきたい」
「なんだ」
「先ほども言いましたが、私はレフォアの忠実な民です。忠誠を誓っております。田舎者ですが、国王の名を知らないはずもありません。シキ様はエイクス王が亡くなられ、こちらにおわすのは第二王子のエイル殿下だと仰いましたが……私の知っているレフォア王の名は、グリッド陛下です。グリッド様は名だたる賢王としてその名を馳せています。それに、王にはまだ世継ぎの王子はいらっしゃらないはずです」
「何を馬鹿な事を。グリッドなど聞いたこともない。俺を謀ろうと言うのか」
「め、滅相もない。そのようなことは私に何の得もありません。……シキ様。この老いぼれに一つ、考えがございます。その考えが正しければ……。どうかお教え下さい。エイクス王はレフォアの何代めの王であらせられるのか」
「くだらぬことを」
シキは眉をしかめ、吐き捨てるように言った。それから胸を張り、誇りあるその名を口にする。
「エイクス=ヨルン=シュレイス=レフォア様は、第十三代レフォア王だ」
「やはり……。グリッド様は、第三十七代レフォア王です」
長老が呟き、その場の空気が凍りつく。
「レフォアの民であれば、子供でも知っています。……信じられないとは思いますが、シキ様たちは」
「待て。待つんだ。どういうことだ」
シキの顔に混乱が浮かび、声音には戸惑いの色が混じった。年老いた長老は冷静さを保って問いを投げかける。
「今年は何年だとお思いですか」
「よ、四三八年」
「いえ、今年は七八四年です」
「まさか! ……本当に? 我々は、時を超えてしまったというのか。では……では、今のレフォア城では反乱など起きていないというのか? いや、反乱は起きた。確かにあった。あれは今朝のことだ。まだ一日と経っておらぬ! あの時戦った感覚が、まだこの手に残っているというのに」
「城へ行ってみればいい」
少年らしい高く澄んだ声が切れ味よく響いた。言わずもがな、エイル王子である。茶の入った杯を両手に持ち、少年はあっさりと繰り返した。
「レフォア城に行けば分かるだろう」
「それは……確かにそうかもしれませんが、エイル様をお連れする訳には参りません」
王弟コジュマールは反逆者だが、あちらからすれば、先代の王とその血筋の者こそ今や国賊。反乱が成功してしまえば、エイルは一転、処罰される対象になる。エイルほど命を狙われる存在はない。主君をそんな危険な目に遭わせられまい。だが……長老の言う事が正しいのだとしたら。時が三百年も過ぎているのだろしたら。今のレフォア城では反乱など起きていない。もはやエイルのことを知る者もいないのだ。
「こういう考えはいかがですか。エイル殿下は一時この村でお預かり致します。レフォア城下までは片道十日と少し、馬で行けばもっと早く着けます。シキ様がお一人で行き、様子を見て、帰ってこられては」
長老の提案に、エイルはつまらなそうに唇を尖らせた。
「嫌だ。シキが行くなら私も行く」
「殿下、それはなりません。輿もなく、従者もおらず、きちんとした準備も出来ぬというのに」
「私は行く。長老の言う通りなら、反乱など起きていないはずだ」
「それは……しかし」
「私は一人でこんなところに残るなんて嫌だぞ。シキが行くなら私も行く!」
こんな鄙びた村に知り合いもなく一人で取り残されてはたまらない。城から出たこともない若い王子にはシキだけが頼りだった。もし反乱が起きているなら、自分は危険にさらされる。しかしもし本当にこの世界が三百年も先の未来なのだとすれば、安全だ。逆に、自分は王子ではない、何の立場も保証されない単なる少年に過ぎないということになる。そんなことは受け入れられない。いや王子ではない自分など想像もできない。そのような状態で、たった一人この村に残るなど、エイルにはとてもできなかった。
シキは何とかエイルを説得しようとなだめすかしたが、主君に逆らい続けることなど出来はしなかった。最後には折れるしかない。
「ようやく分かったか」
「はい、かしこまりました。ですが、くれぐれも言っておきますが、決して目立たないようにお気をつけください」
「分かった分かった」
エイルは片手をひらひらと振る。シキは諦めたように天を振り仰いだ。
旅立ちの朝。簡単な旅支度を整えたシキは、長老に別れを告げ、エイルと二人でサナミィに背を向け歩き始めた。村の馬を差し出すと長老は言ってくれたが、この村に戻ると約束できるわけでもないからと断った。
「平坦な道が続くようですが、お疲れになったら仰ってください」
広い城の中を歩き回ることはあったが、運動の時間は嫌いだった。剣の稽古も、馬に乗る練習も、なんだかんだと理由を付けてはよく休んでいた。エイルはそういったことよりも、ジルクの部屋や城の書庫で本を読む方が好きな少年だったのである。第一王子の兄シエルには王の跡取りとして許されなかった自由な時間が、エイルにはそれなりに与えられていた。その時間をエイルは好きな勉強に思う存分当て、体を鍛えることはあまりしてこなかったのだった。それもさることながら、戸外の、きちんと舗装もしていない道を長時間歩くというのは初体験である。だがエイルは平気な顔で言い放った。
「心配するな。私は平気だ。こんなことくらいで音を上げるわけなかろう」
だが、しばらくするともう足の痛みに耐えられなくなった。シキが振り返ると、まだ丘の向こうにサナミィの家々が屋根を連ねているのが見える。レフォアまでは思った以上に時間がかかりそうだ。先が思いやられる。だがシキはその思いを顔に出さず、エイルに休憩を申し出た。
「少し休みましょうか」
「うん、そうだな」
木の下に外套を敷き、そこに座るよう促すと、エイルは嘆息した。
「敷物もないのか。……まあシキが一人では、持てる荷物にも限界があるな。やはり馬を連れてくるべきだったのではないか」
「馬や輿があればよろしかったですね。エイル様にはご不便をおかけしますが、数日間は我慢をしていただかねばなりませぬ」
言いながら、手にした筒をエイルに手渡す。中の水を飲み、エイルは喉を鳴らした。
「うまいな! この水は何か特別なものか」
「いえ、サナミィの井戸で汲んだものでございます。運動した後の水は美味しいものですね」
「なるほど。たまには運動もいいものだな」
エイルが額の汗をぬぐっていると、道の向こうに二つの人影が現れた。サナミィの方面から走ってきた彼らは、やがてエイルとシキの前にたどり着くと、弾んだ息を整えた。
「お前たちは?」
「サナミィのクリフです。こっちは妹のクレオ」
シキの問いかけに、少年がはきはきと答えた。汗に濡れた髪をかき上げると、澄んだ瞳がきらめいている。
「数日前、あなた方が現れた時、これだって思いました。長老の家に滞在しているようだけれど、旅の準備をしていると知って」
「どうしてそれを」
「小さな村ですもの。どこで何を買ったか、誰でもすぐに分かります。どうやら数日中に旅立つようだと教えてもらって」
「僕ら、村を出てきたんです。お願いです、一緒に連れて行ってください」
二人の言葉に、シキは目を丸くした。見たところ、エイルよりは少し年上といったところ。旅慣れているとも思えないし、取り立ててどうということもない、ごく普通の村の子供である。二人の顔つきなどがやけに似ていることは気になったが、それより先に、こんな子供が何故村を出てきたのかという疑問が湧く。
「勝手なんですけど、運命だって気がしたんです」
「実は……僕ら、あの村からずっと出たくて。分かると思いますけど、僕ら双子なんです。だから」
「このまま村に住んでいても幸せにはなれないって、ずっと思ってました」
興奮した様子で、二人は矢継ぎ早に言葉を継いで言った。
「それにここのところ変な夢を見ることが続いていて、それであなた方が現れて」
「竜の夢なんです」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、何の話だ」
勢い込んで早口になっている二人の説明に、シキは目を白黒させた。
この日の朝――。
チェスターは考え込んでいた。子供たちが村の中で馴染んでいないという事は明白な事実だ。友達ができなかったり、陰口を叩かれたり、子供たちはどんな思いをしているだろう。クリフもクレオも、このまま大人になり、この村で幸せに暮らしていけるのだろうか。そう考えると、チェスターの首は力なく横に揺れるばかりだった。
ルクレリアは、予見のことを考えていた。竜に襲撃される人々の夢だ。場所や日時は分からないが、予見したことは必ず起きる。未来を予め見るという能力はルクレリアにとって忌まわしいものだったが、その強さと正確性はルクレリアの母譲りであり、彼女自身それを痛いほど分かっていた。まさか、竜などお伽話だ。そう思う気持ちはあったが、あの夢が事実として起こることは間違いなかった。自分の子供たちが関係しているのだろうか。同じ時に、同じ姿同じ顔で生まれてきた子供たちには、特別な運命が待っているのか? まさか。あの子たちは予見者でもない。夢を見たのも自分の能力に共鳴してしまっただけだ。だが二人が強く村を出たいと言う気持ちは分かっていた。それを無視したくもなかった。
チェスターとルクレリアは、二人の貴族と思われる人々が突如としてこの村に現れてから数日、このことについてよくよく話し合ってきた。彼らが竜の夢と関係しているかは分からない。だが、この機会を逃せば、双子が村を出ることなどもう二度とないだろう。我々はこの村に永住すると決めて暮らしてきた。二人はもう十四だ。一人立ちを考えるにも早すぎるということはない。
そうしてチェスターは、二人に告げたのだった。
「いいか。村を出るということは気楽に考えていいものじゃない。いつも俺が言っている事、覚えているなクリフ」
「うん。家を出たら、二度と帰って来られないかもしれない」
「そうだ。俺はいつもそう思って家を出る。クリフとクレオも、狩りに行くのではないが、帰って来られない可能性がないとは限らん」
「お父さんったら。大丈夫よ」
「いや。もし行くと言うなら、二度と私たちに会えないかもしれないと思って行け」
「お父さん……」
「チェスターはね、そのぐらいの覚悟がいるんだって言っているのよ。いい? あなたたちの運命はクタールに握られているわ。きちんと予見の儀式をしても、先のことはほとんど見えなかったの。クタールが、運命の神が隠しているのよ。チェスターも私も心配で仕方ないわ。でも……あなたたちは行く。そんな気がするの」
「ルクレリアが言うんだ、きっとお前たちは旅立つ運命にあるのだろう。同じ日に同じ顔で生まれた事も、夢をみたことも、時を同じくしてあの方々がこの村へ現れた事も、きっとすべてクタールの仕業なんだろう。……さあ、支度をしてきなさい」
クリフとクレオは神妙な顔つきになってうなずくと、準備をするために階段を駆け上がっていった。ルクレリアが大きく息を吐く。
「本当に、これで良いのかしら」
世の中の親がおしなべてそうであるように、この二人も親として、我が子が心配でならなかった。ルクレリアは夫の顔を潤んだ瞳で見つめる。チェスターは黙ってその身体を抱き寄せた。
「大丈夫だ。きっと」
「そう、きっとそうね」
ルクレリアは唇を噛んだ。その肩を抱くチェスターの武骨な手に力がこもる。
話を聞き終わったシキは、深刻な表情で首を振った。
「お前たちの気持ちは分かるが、我々についてくるなど考えられん。村へ戻れ」
「ええっ」
「ええっ」
二人は揃って声を上げた。クリフのは驚きの、クレオのは不満げな響きである。
「で、でも」
「でもじゃない。お前たちは外の世界を甘く見すぎている。そんなに簡単なものではない。お父上が言うように、帰れない可能性だって大いにある。そのことの意味を、お前たちは分かっていないのだ。野獣や悪党に襲われることを考えたか? 野宿の経験はあるのか? 何日も食事が取れない辛さを知っているのか? 旅の生活がどんなものか分からないのに、気軽に言うな」
二人の子供は、勢いをそがれて黙り込んでしまった。その様子を見たシキの声が、少し優しくなる。
「双子への偏見か。そういったものは確かにあるだろう。その辛さを、俺は分かってやることはできんが、きっと大変なのだろうな。それについては同情するよ。だがな。住むところ、食べるもの、両親がいて……生活があるということがどんなにありがたいことか」
シキは、自身の生い立ちを思い起こしていた。幼いころ、旅をして暮らすのは大変だった。今、この子たちに平穏な生活を捨てる必要が本当にあるのだろうか。エイルとそれほど年も変わらぬような子供が旅をしていくなどということは、簡単なことでは到底ない。自分一人で子供三人の面倒を見るのも安請け合いはできないと分かっていた。クレオが、思いつめたように呟く。
「夢を見たんです」
「夢?」
「竜の炎で世界が燃える、恐ろしい夢でした。お母さ……あ、私たちの母は司祭だったそうで、予見とかいう、未来に起こることを見る力があると言います。その母が、燃える町を夢に見た、一種の予見じゃないか、と。私たちも母の力で影響されたのか、分かりませんが、その夢を見たんです。本当に恐ろしかった」
クリフもうなずいて、言葉をつなげた。
「でもあなた方が現れてから、ぴたりと見なくなりました。どうしてか分からないけれど、きっと何か関係があると思ったんです」
「両親が、これがお前たちの運命なのかもしれないって言ったんです。双子でいることが嫌だってだけで村を出てきたんじゃありません。あの、竜を探しに行くんですか?」
「いいや」
端的に否定され、双子たちは驚いた。
「え、だって」
「竜を倒しに行くんじゃ」
「何か、勘違いしているようだな。竜など、子供の寝物語ではないか。そもそも、我々はそんな夢とはまったく関係ない。レフォア城に大切な用事があるのだ」
双子は顔を見合わせた。てっきり世界の危機を救いに行くのだと、自分たちが双子に生まれたことは選ばれし運命なのだと思っていたのに。両親も、きっと運命だと言って送り出してくれたのに。単なる思い込みに過ぎなかったのか。クレオは、恥ずかしさに頬を染めた。
「そっ、それでも!」
クリフが食い下がる。
「僕ら、もうあの村には居場所はありません。自分たちで生きていきたいんです。何ができるか分からないけど、きっとお役に立ちます」
「いやしかし」
「僕は狩人の息子です。弓が得意です」
「わ、私は……えっと」
自分にも何かできることがあると訴えようとしたクレオは、言葉に詰まった。一通りの家事ができることは、旅の生活に役立つだろうか。
「さほど役に立ちそうにないな」
それまで黙ってやり取りを見物していたエイルが、クレオに向かって首をかしげた。
「だがまあちょうど従者もいなかったことだし、使ってやってもいい」
――あきれた。なんて言い方なの。
「私たち、あなたの家来になるって言ってるわけじゃないんですけど」
「失礼な物言いだな。私を誰だと思っているのだ」
「知らないわ」
「なんだと」
白く細い指を振って、エイルは一息にまくしたてる。
「私はレフォア王国の第十三代王エイクス=ヨルン=シュレイス=レフォアの息子にして、正統なる第二王子エイル=エルラート=レフォアだ。無礼な口を利く事など当然許されんが、本来なら同じ高さで話す事も許されないのだからな。いいか、知恵の神にしてレフォアの代々の守護神であるバダッフの名に掛けて、私はレフォアの王子であると主張するぞ」
「そうですか分かりましたお偉いんですね、でも自分一人じゃ何もできないんでしょ王子様」
「なんという口の悪さと頭の悪さだ。教養のない田舎娘では何も知らぬだろうから、この私が親切に教えてやるが、王族というものはな、身の回りのことは自分でやらないのだ、物一つ自分では拾わない。それは私の仕事ではない。そしてその仕事をする者の誇りを傷つけてもならないのだ」
「何もできないんでしょ、だから」
「違う! できないのではない、しないのだ! 理解能力が著しく欠如しているな、この娘は」
「私の方が年上よ、そんな言い方しないで」
「年齢など関係ない、王子である私に向かってそんな言い方をする方がよほど不敬だろう」
「ちょ、ちょっと」
ここへ至ってようやくクリフが口を開いたが、その声が二人の耳に入ることはなさそうだった。怒鳴りあう二人は、もはや周りが目に入っていない。目尻を吊り上げて言い争い続けている。だが、物事には必ず終わりがある。
「王子王子ってそんなに偉いの? それに大体、あんたが本当に王子かどうかなんて分からないじゃない、嘘ついてるのかもしれないでしょ!」
「この……っ、無礼者め!」
エイルが真っ赤な顔で勢いよく振り上げた手が、大きな手につかまれて止められる。
「離せ!」
「そこまでに致しましょう。女性に手を上げるなどしてはなりません。しかし、そちらも言い過ぎだな。エイル様はレフォアの王子であらせられる。王族に対する口の利き方というものがあるはずだ」
「あ……えっと……」
「王族や貴族と話す機会はなかった、か。まあそうだろうな。良いか、王族には最大限の敬意を払うものだ。王家の方々のおかげで、国民はみな平和に暮らせているのだからな。分からなくても当然ではあるが、どれだけこの国の平和のために心を砕き、骨身を惜しまず働いていらっしゃることか。例えそういったことを差し引いたとしても、エイル様のことを何も知らずに侮辱することは、私が許さぬ」
シキの両目に宿る迫力がクレオを黙らせる。
「ごめん、なさい」
ふん、と横を向いて、エイルは腕を組んだ。シキは、しばし考えを巡らせた後、力強くうなずいた。
「まあ、お前たちの言い分は分かった。ご両親も、覚悟を決められたのだろう。今後のことは私にもまだ何も分からぬが……ひとまず、レフォアまでの道のり、共に行くことにしよう」
「あ、ありがとうございます!」
クリフが勢いよく頭を下げる。
「従者として使ってやっても良いという意味だぞ」
「別に家来にしてくれなんて言ってません」
「私は王子、お前は平民だ。すべからく平民なら自国の王族に仕えているという意識をだな」
再び口喧嘩が始まりそうになったところで、今度は素早くシキが止めに入った。
「はい、そこまで。エイル様、ご自分が王子だと口になさるのはもうお止め下さい」
「なんだとシキ、お前までそのようなことを言うか。何度でも言うぞ、私は王子だ。王子だ。レフォア国の正統なる……」
繰り返すエイルに、シキは指先を額に当て、嘆息した。
「お気持ちは分かります。エイル様。ですが、今後、何が起こるか分かりませぬゆえ、安全のために、しばらくは殿下のご身分は明かされぬようにとお願い申し上げましたね」
「そ……分かっている!」
「エイル様のご身分は言わずもがな。疑う余地はありませぬ。ですが」
「うるさい分かったもういい」
エイルは聞きたくないとばかりにそっぽを向いてしまった。双子はそのやり取りに、顔を見合わせて肩をすくめる。エイルの育ちから育まれた尊厳を思えば王子と言うなというのは辛いことだった。しかも王弟による反乱があったばかりなのだ。家族を亡くしたかもしれない悲しみ、自分の立場が揺らぐ不安、城へ帰れるかどうか分からぬ戸惑い、そういったことを押し隠して気丈に振る舞ってきたエイルにとって、村娘に王子じゃないかもしれないでしょ、と指摘されたのは耐え難いものがあったのかもしれない。その心の内を思いやり、シキは眉を寄せた。だが、これから先の事を思うと別の意味でもシキはその精悍な顔を少々曇らせざるを得なかった。
「人のいるところなどでは極力目立ちたくありませぬ。どうかご理解下さい。ご気分を損ねさせた事は、このシキ、心より謝罪致しますゆえ。申し訳ございませぬ。私が悪うございました」
わざと大袈裟に言っているのだろう。慇懃なその声に反応したのか、エイルの肩が少し揺れた。そして少年は外套をひるがえして振り返る。
「仕方がないな。許してやる」
尊大な態度にしか見えない、とクレオは呆れて声も出ない。どう見ても、駄々をこねてシキを困らせているのはエイルだ。なのに何故シキが謝り、エイルが『仕方ないから許す』なのか。納得いかない、と言いそうになって、クリフに止められた。「何で止めるの」といった顔で兄を睨んだが、「もうやめとこうよ」という顔で返される。クレオは大きく息を吸い込んで、自分を抑えた。
「さて。ではそろそろ行くとしようか」
シキの声とともに彼らは長い旅の、初めの一歩を踏み出した。これが『運命の出会い』である事を四人が知る術はない。大陸全土を巻き込み、多くの人の運命が変化する事に気づいている者もまた、世界中のどこにも存在していなかった。それはただ、自分の手の平に運命の四人を乗せたばかりの、運命の神クタールのみが知り得る事だったのである。
サナミィからレフォア城まではそれなりの距離がある。振り返ってもサナミィが見えなくなるまで歩いたが、道はただひたすらに続いている。双子は少々挫けそうになった。ふと、目の前に木の葉が舞い落ちる。顔をあげると、木々の合間を縫うように、風に煽られた多くの木の葉が舞っている。
――まるで、雪が降っているみたいだ。
足が、降り積もった柔らかな木の葉を踏んでいく。秋ならば乾燥したそれらは乾いた音をたてるのだが、今クリフたちが踏んでいく葉は「青葉の月」の名の通り、青々としたものが多い。ここらの樹木はおかしな性質があり、まだ若い葉でも落としてしまう。その代わり、新しい葉がまたすぐに茂る。降り積もった青葉のおかげで足元は柔らかく、非常に歩きやすかった。
とはいえ、この森の中を延々と歩いていては疲労もたまるというものだ。父と森に入ることの多いクリフはともかく、クレオはこんな長く歩き続けた事はなかった。膝が軋み、足全体が熱を持っている気がする。では、まったく歩き慣れていないエイル=エルラート=レフォア殿下はといえば……シキの背にいた。足が痛いと何度も繰り返して訴えるエイルを、シキが背負っているのだ。エイルは痩せた少年で、同じ年頃の子に比べればとても軽いだろう。そしてシキは鍛え抜いた身体を持っている。だが、長時間にわたればいくらシキでも疲れが見えてくる。双子が荷物を手分けして持っているが、それも簡単なことではなかった。彼らがゆっくりとした歩みを重ねていく。
この大地に住むすべての人々を守ってくれる太陽神ハーディスは、既にその顔を地平線の向こうへ隠そうとしていた。多くの木が立ち並び、先へ行くほど陰が濃くなっていく。ここまでの道のりにも森や林はあったが、進んでゆく先はそれまでと比べて格段に暗い。木の数も、その種類も違う。今までののどかな風景とは明らかに違う雰囲気が醸し出されていた。だが、レフォアへの道はここを通るのが最短である。思ったより時間がかかり、まだ森の入口近くだというのに夕闇が忍び寄ってきていた。
四人は火を焚くための枝を集めながら、うっそうとした森の中へと入っていく。口を利かないまま、疲れた足を引きずって。
「も、駄目……疲れたぁ」
ついに音を上げたのはクレオだった。荷物を降ろし、膝に手を当て、首もがっくりとうなだれてしまっている。立ち止まったクレオを振り向いて、シキが苦笑する。
「この程度で疲れていては、この先の旅が思いやられるな」
「そうだそうだ」
シキに背負われたままエイルが同調する。それを、クレオが睨みつけた。
「そんな格好の人に言われたくないわよ。第一、私たちは荷物を余計に持ってんのよ? 誰のせいだと思ってるの。シキがエイルを持つので大変だからでしょ」
「持つとはどういう言い草だ。私は荷物ではないぞ」
「十分、お荷物じゃない」
「無礼者め! まったく、無礼にもほどがある。私は本来、こんな長距離を歩く立場ではないのだ。馬車か輿を用意するべきなのに」
「そんなもの、サナミィにある訳ないわよ」
「だから我慢してやっているんだろうが」
「我慢してそれですか。いいわね、王子さまは」
クリフは肩をすくめる。シキは苦笑が絶えない。エイルを大事そうに下ろすと、休憩を提案した。
「あの、ここで野宿するんですか?」
「ああ。小さいながら天幕はあるし」
「寝具はないのだろう?」
「そのくらい我慢しなさいよ」
「うるさいな、お前に言われる筋合いはない。私に指図するな」
エイルは天幕の中に潜り込み、双子は薪にするための枝を拾い集めた。シキが要領よく天幕を張っている。やがて戻ったクリフが火をおこし、焚火ができるとシキと双子はようやくほっと息をついた。
「あの……」
遠慮がちなクレオの声に、シキが目を向ける。厳しさを感じて一瞬口ごもったが、言ってみろとばかりに優しく促され、クレオは思い切って質問を口にした。エイルに聞こえてはまずい。ちらりと肩越しに振り返ると、エイルは横になったまま向こうを向いていて動かない。小声で聞いてみる。
「あの、エイルって、本当に王子様、なんですよね?」
「ああそうだ」
シキの声には断固とした響きがあった。そこには自信と誇りが滲んでいる。
「信じられないか?」
「いえ、そうじゃないんですけど……想像できなくて。お城で暮らす生活ってどんななのか、とか」
「なるほど、お前たちには分かりづらいだろうな。城は、そうだな、とても広い石造りの建物だ。廊下がいくつも連なっていて……いや、言葉ではどうも伝わらんな」
いい言葉を探して、シキは思いを巡らせた。エイルの生活、それはとても恵まれたものである、と同時に、王族としての重責を担うものでもあり、シエルに比べればましとはいえ自由も少なく、しきたりも多く、また信頼できる者は少ない、重苦しい生活でもあった。間近で見ていた自分でも、その真実は分からない。王子として生きることの大変さは、今ここで田舎の村の少年少女に説明できるようなものではなかった。
「例えば、だな。目の前で大きな荷物を運んでいる人がつまづいて、荷物を落としたとしよう。そうだな、果物がいくつも転がる」
「はあ……?」
「その時、お前たちはどうする?」
突然の問いに、双子は顔を見合わせた。
「そりゃあ、大丈夫ですか、って言うとか」
「とりあえず拾うのを手伝うかな」
「そうだよね」
シキは二人の答えにうんうんとうなずいた。
「それが普通の感覚だろうな。俺もそうするよ。でも、エイル様にそれは許されない」
「許されない? ってどういうことですか」
「召使が王族の前でそんなことをしたら大変だ。失敗したらその職を失うかもしれない。だから、エイル様なら気づかなかった振りをして、後ろを向いて別の方向に歩く」
「ええ……?」
「手伝わないの?」
「手伝ったら、召使いが失敗したことを認めることになるし、王族に手伝わせるなんてことになったらもう解雇は確定だろうから召使いを困らせることになるな。だから決して手伝ったりはしない。そうしてはいけない、と教わって育つんだ」
「へ、へえ」
「全然違うだろう」
「シキ様もそう、なんですか?」
「俺も屋敷ではそうするよ。そうするように言われたからな。……ああそうだ、俺のことはシキでいい。俺は元々、平民の出なんだ」
「そうなんですか!」
「え、でも今は貴族様なんですよね」
「まあな。話すと長くなる。……今日はもう休め」
聞きたがる双子を抑え、シキはそれ以上語ろうとはしなかった。クリフは、王族って大変なんだなあと言い、クレオは王族って分からない、と答えた。
「今は、ここでは、王子じゃないってことにしないといけないんだし、慣れてもらわなくっちゃね。平民の暮らしに」
「まあね。でも、お父さんやお母さんやお兄さんも死んじゃったかもしれないんだし、可哀想だよな」
複雑そうな顔でクレオはうなずいている。
時は過ぎ、夜も更けた。三人はまだ焚き火を囲んでいた。エイルはずっと天幕で横になっていたが、眠れたわけではなかった。こんな固い場所で横になるなど生まれて初めてである。どうにも寝つけず、寝返りを打っては痛む肩や腰をなでさすっていた。それでも、疲れのために眠気に襲われ、時折意識を手放す。
――陛下! ここは危険です。
――無念じゃ。
――こちらです、お早く!
多くの人が慌てふためいている気配がする。城だ。陛下? ということは父上がそこにいるのか。女性の声もする。母上かもしれない。臣下たちなのか、とにかく大勢が行き来している。誰かが、どこかへ連れて行こうとする。恐怖を感じて嫌がったが、早く早くと急かされ、部屋を出る。ああ、これはあの時。あの朝だ。
薪がはぜる音に薄く目を開けると、天幕の切れ目から双子が膝を抱えて並んで座っているのが見える。焚火と、シキ。そうだ。ここは城ではなかった。そうだった。エイルは深くため息をつくと、強張った体をゆっくり動かして、再び寝返りを打った。
双子は眠気と疲労感に対して、まだ粘りを見せていた。クリフには野宿の経験があるが、クレオにはない。連なる木の枝が恐ろしげな影を作り、その影が重なってさらに大きな怪物の影のように見える。月の女神メルィーズは木々に邪魔されて切れ切れにしか光を投げかけない。恐らく丸々としたその姿を輝かせているはずだが、空を見上げてもその完璧な円形はなく、枝のせいで、ひびが入ったように見えるばかりだった。
クレオは焚き火を枝でつつきながら、息を吐いた。それはまるで、あたりで息を潜めている暗闇に聞かれぬように、とでもいうかのように、密やかに吐き出された。しかしすぐ横の双子の兄には聞こえたようだ。心配そうな瞳が、同じ色の不安げな瞳を見つめる。
「クレオ、大丈夫?」
「大丈夫だけど……何か、怖いの。誰かが見てるような気がして。ねえ、そんな気がしない?」
クリフはあたりを見回したが、そこにはただ夜がひっそりと佇んでいるだけである。薪がはぜる音以外は静寂が森を満たし、生き物の影は感じられない。兄は妹に向かって首を振る。クレオはまだ不安そうにしていたが、疲れのせいもあり、クリフの肩に頭を乗せた。クリフもやがて妹と共に静かな寝息をたて始める。シキは黙ったまま、薪の火が絶えないように気を配り続けた。
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