月が皓々と照らす荒野を、一組の隊商が行く。大きな旅馬車が五台、馬が十六頭、それに駱駝が三頭。夜であるというのに、彼らは怖じる事なく進んでいた。あたりには、荒涼たる地が広がっている。
揺れる馬車に乗り合わせた旅人は、その大半が眠りに浸っていた。がたがたと不快な揺れを感じはするものの、馬車の中は薄暗く、乾いていて、それなりに快適である。規則的に聞こえるのは、車輪が地面を転がる音と馬のひずめが大地を蹴る音。揺りかごにいるよう、とまでは言えないものの、道程のほとんどがこうした平和な日々であった。
明かり取りとして開けられている窓の隙間から、月光が差し込んでいる。一人の男が、眠りもせずにそれを眺めていた。彼の名は……分からない。彼自身にすら。
「どうした、眠れないのか?」
ひそめた声で問いかける者がいる。彼はそちらに目をやり、黙って笑顔を返した。そして眠れぬ理由に答える事なく、逆に問い返す。
「あなたはどこへ行くんですか?」
「お前と同じだよ、東さ。鉱山の方で良質の金が取れるって聞いたんだ。俺は金細工師なんでね。お前は?」
「私は……当てのない旅です」
「目的もなく旅をしているというのか? 何か事情が? いや、これは立ち入った事を……だが、一人旅で目的もないとは」
食い下がる男に肩をすくめ、青年は小さな声で答えた。
「自分自身を見つけるためです。今は東へ向かっていますが、本当は自分がどこへ行ったらいいのかも分からない」
青年は口をつぐむ。男も、それ以上の事は聞かなかった。
漏れ入ってくるメルィーズの光が、ゆっくりと角度を変えていく。もうすっかり夜中だろうと思われる頃、隊商はゆっくりとその動きを止めた。どうやら休息を取るようだ。御者の手によって馬車の扉が開けられ、新鮮な空気がどっと流れ込んできた。寝ぼけ顔の旅人たちは、それぞれに目をこすったり欠伸をしたりしている。外では早速焚き火がたかれた。人々は思い思いの場所に座り、食事をし、語り、また酒を酌み交わす。
次の町までの「乗り合い馬車」とでも言ったらいいだろうか。商人の組合が傭兵を雇って長距離の旅をするような隊商でもなく、どこかの貴族がお忍びで旅をするような旅団でもない。近隣の町々をぐるぐると回り、その都度旅人が減ったり加わったりするような、不定期の隊商である。数ヶ月一緒に旅をする人もいれば、一日で別れていく人もいる。次の目的地まではあと二日ほど。それまで彼らは同じ釜の飯を食う仲間である。
「うおーい、誰か歌える奴はいねえか!」
野太い声が聞こえる。その付近に座っているのは、この隊商が無事に過ごせるよう、どこかの町で雇われた傭兵たちだ。護衛が彼らの仕事であるはずだが、ほとんどが酔っ払っている。すこぶる上機嫌、といったところで、中の一人は調子っぱずれの歌をがなっている。
「こいつの下手な歌にゃうんざりだぜ」
冗談交じりの声も聞こえてくる。と、誰かがふいに声を上げた。
「そうだ、確か竪琴を持っている奴がいたろう」
傭兵の一人が立ち上がり、千鳥足で旅人の間を歩き出した。その目に、一人の男が映る。暗い色の長い髪をゆったりと束ね、膝を抱えている細身の青年。若そうだ。物憂げな表情で焚き火を眺めている。その青年のすぐ脇に、小さな竪琴が置いてあった。
「お、そこのあんた、吟遊詩人なら、いい歌か物語を聞かせてくれないか」
「構わないですよ」
青年は柔らかな微笑とともに言うと、ゆっくりと立ち上がった。竪琴を抱え、招かれるままに焚き火に近寄る。人々は物珍しげに円を作り、青年が何を始めるのかと眺めいった。
吟遊詩人というものは、一般市民にはそれほど馴染みがない。大抵は王侯貴族の屋敷で雇われているからだ。食事の際に音楽を奏でてもらったり、夕食後にくつろぎながら物語を聞いたりするのが、非常に高尚な趣味なのである。楽器が弾けて、歌が歌え、多くの物語を紡ぐ事の出来る者は少ない。吟遊詩人という存在自体が、希少なものだった。ゆえに今、人々は自らを吟遊詩人と認めたこの青年を、興味津々といった表情で見ていた。
「あんた、名前は?」
自称占い師という中年の女性が尋ねる。
「……サウリ」
「サ、ウリ? そりゃあ随分と変な名前だね」
「どこの国の言葉か、私も知りません。前に知り合った男が、自分の国の言葉で竪琴という意味だと教えてくれたのです」
「へーぇ」
「私には、本当の名前が分かりません。けれど、私は吟遊詩人ですから、この名前は気に入っているのです」
「自分の名前が分からない? 何があったっていうんだい、可哀想にねえ」
「でも、多くの物語を知っています。それらを語る事が、今の私に出来る事。さて、どんな歌がいいですか? それとも何か話をしましょうか」
サウリは片膝を立て、竪琴をその膝に抱えていた。曲線で形作られた竪琴に右腕を回し、左手は弦に軽く添えられている。
「英雄の歌、旅人の歌、故郷の歌……それとも砂漠の国の美しい姫君の話にしましょうか?」
「あたしゃ、あんたの身の上話が聞きたいね」
さきほどの女が声を上げた。それに同調するように、幾人かの拍手が聞こえる。彼は、穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「では、僭越ながら私の話を。不思議な物語ですよ」
いつの間にか大勢の人が彼の周りに集まっている。サウリの両手が静かに竪琴を鳴らすと、人々は水を打ったように静まり返った。
「それは、小さな町での事……」
町には、一人の男が住んでいた。まだ若い。少年といっても良いかも知れない。
ある日、彼が家の扉を開けると、そこには女がいた。
「お前は……! 何故ここに?!」
問いかけには応じず、女は不敵な笑みを浮かべた。敵視しているようにも、満足げにも見える表情。そして彼女は言った。
「ようやく見つけたわ」
彼女がその腕を持ち上げると、眩いばかりの閃光がほとばしった。
次に気づいた時、少年は家の床に寝そべっていた。扉を叩く音がする。そんなに乱暴に叩いては、扉が割れてしまうじゃないか……そう思い、彼はようやく起き上がった。それとほぼ同時に、扉が打ち破られる。
――言わんこっちゃない。
霞がかかったような頭を振り、彼は立ち上がった。目に入るのは、荒れ果てた部屋。破られた扉から、数人の男が顔を覗かせている。
「い、生きているのか……?」
意味の分からない事を言うものだ、と、彼は不思議に思った。だが、男たちの様子からは、自分がよほどおかしな存在である事が窺い知れる。彼らは一様にざわめき、化け物でも見るような目つきで彼を眺めている。
「あんた、どうやってここで生き延びたんだ」
「え?」
「外の状態を知っているのか?」
目を細めたが、彼らの姿の向こう、家の外は眩しくて、よく見えない。男たちをかき分けて外へ出ると、まったく想像もしていなかった光景が、目の前に広がっていた。焼け焦げ、荒れ果てた村。蔓がはびこった家々。振り返ってみれば、自分の家も屋根の半分が落ち、蔓が巻きついている。
「我々は調査団だ。……この村は、もう数十年は昔に滅んだ」
一団の指導者らしき男が、そう口にした。彼にとっては、まさに青天の霹靂である。
「あんたが村の生き残りなら、何があったかを聞きたいのだが……」
それまで一言も口を利けずに放心していた少年は、何かを言おうと口を開けた。が、何も言葉にならず、うなだれて首を横に振った。
「私は……何も覚えていません」
少年はその後調査団とともに領主の館へ行き、事情を説明するよう再度求められたが、やはり何も言えずじまいであった。村が戦争に巻き込まれた事も、その後は住む人もいなくなって荒れ放題だった事も、彼はまったく知らなかった。それどころか、自分の名前や出生すらも覚えていなかったのである。彼が覚えているのは、自分があの町に住んでいた事と、ある日、家に女が訪ねてきた事だけだった。それがいつの事だったのかも分からない。そして、もはやあの女が誰で、どういう目的だったのかも、何も思い出せなかった。占い師や魔術師などと言われる人々がこぞって記憶の封印を解こうとしたが、無理だった。
しまいには領主も諦め、彼は自由の身になった。どこへ行っても、何をしてもいい。そう言われても、途方に暮れるばかりだ。領主がくれたほんの僅かな金を握り締め、彼は腹ごしらえをするために酒場を訪れた。
そこで、彼に会ったのである。
縮れた髪は緑がかっていて、ぼさぼさと長いそれは無造作に巻いた布からところどころはみだしていた。その髪型といい、大きな布を身体に巻いている格好といい、普通ではない。男は、ジャンドゥと名乗った。
「奇妙な名だろう?」
確かに、格好だけではなく、名前も奇妙だ。少年はそう思った。
「俺は、外の大陸から来たのさ」
にやっと笑ってそう言うと、ジャンドゥは杯を空けた。たまたま隣の席に座っただけの関係だが、少年はこのジャンドゥという男にひどく惹かれていた。魅了されたと言ってもいいかもしれない。何か不思議な魅力が男にはあった。
「で、お前は」
聞かれて、少年は押し黙った。
「名も名乗れないのか」
「私は……名がありません。覚えていないんです」
「ほほぅ」
「他の記憶もほとんどない。住んでいた町も荒れ果て、今はもう帰れません。……ああ、私はこの先どうすればいいのか」
「悩んでいるようだな」
「そりゃ悩みますよ! どうやって生きていけばいいのか、何も分からないんです。誰だって悩むでしょう」
暗い表情で嘆息する彼を見つめ、ジャンドゥは次の一杯をあおった。そして、こう言ったのである。
「ふん、悩まなかったら、飽きてしまうではないか」
その言葉に顔を上げると、ジャンドゥは首を傾げた。
「なんでそんな変な顔をする? 人生など、退屈なものだ。悩みの一つや二つ、あった方がいい。あれば、考え事が出来る。それで、少しは暇が潰せる」
「だけど……」
「落ち込む暇があったら仕事でも探せ。お前には何が出来るんだ?」
「え、いや、何も」
「そんな事もあるまい。……そうだな、ちょっくら歌でも歌ってみろ」
突然そんな事を言われて、即興で歌える人間がいたら、よほど度胸の据わっている人間だろう。少年は目を白黒させて両手を振った。だが、ジャンドゥはしつこく歌えと言う。何でいきなり、何で私が、という疑問を消す事は出来なかったが、彼は結局ジャンドゥの言うまま、歌いだした。
覚えているのは子守唄だった。最初は歌詞もおぼろげだったが、誤魔化しながら歌っていくうちに、徐々に思い出してきた。
「いいぞ、よしもう一曲」
何故か嬉しげな顔で杯を煽るジャンドゥを横目に、少年は次の曲を歌いだした。近くの席に座っていた客が振り返るのも気づかず、その声は大きくなっていく。歌っている内に、どんどんと思い出していく。どこで覚えたのかは分からないが、彼の中には数多くの歌がしまいこまれていたようだった。気分が高揚し、次、また次、と少年は歌い続けた。力強く、また優しく、情感のこもった素晴らしい歌声。さすがに歌い疲れた少年が、大きく息をついて肩を上下させると、いつの間にか出来ていた人垣から、拍手喝采が送られた。彼は人垣にまったく気づいていなかった。ジャンドゥはにやにやとしている。
「素晴らしい。それほど上手いとは思わなかった。……ところでお前、名がないのは不便だろう」
「ああ、そういえば……」
少年は歌うのに一生懸命で、自分の不幸な状況など、とんと忘れていた。ジャンドゥはしばし思いを巡らせ、言った。
「サウリ、というのはどうだ」
「サウリ?」
「聞きなれない響きだろう。俺の国の言葉で、竪琴という意味さ。次々と歌を紡ぐお前にぴったりだ」
「サウリ……」
「とかくこの世は退屈なものだ。だが、いつの世も、人の悩みは尽きぬもの。辛い事もあろうが、少なくとも飽きはせぬ」
「そういうものかも知れませんね」
「退屈なこの世と、悩み多き人生に乾杯といこう」
ジャンドゥの上げた杯と、サウリ少年の杯がぶつかり、固い金属音が鳴った。
「……こうして、私は吟遊詩人になったのです」
青年はそう結ぶと、竪琴を静かに鳴らした。
人々はその美声と素晴らしい語り口とに拍手を惜しまず、口々に「不思議な事もあるものだ」と言い合った。
あたりは見渡す限りの荒野。雲間に遮られていた月神メルィーズの光が、すこしずつ解けるように大地を照らし始める。夜は、静かに更けていった。
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