ただ欲しいと思っただけ

何故ずっとついてくるのだろう。

「私についてきても、いいことはないよ」

何度かそう言ったが、きつい目つきで見上げるばかりで、その少年は黙っている。

足が速く、まこうとしても上手くはいかなかった。

「私に何か用事があるの」

聞いてみたが、目をそらして何も言わない。

「困ったねえ」

その時、少年の腹が大きな音を立てた。

「空腹なのか」

少年は恥ずかしがる様子もなく、こくりと素早くうなずく。なるほど。

どうして自分についてくるのかは分からないが、食事をさせれば満足するだろうと、ヴィトは食堂の扉を押した。

――汚い子だ。

眼鏡の奥から少年を観察したヴィトは、心のうちで呟いた。そしてその判断は間違ってはいなかった。食堂という場所でははばかられるような悪臭が洋服から、あるいは少年の体自身から漂っている。恐らくもう何日も風呂には入っていないのだろう。藍鼠色の髪もまともに手入れされていない。だらしない毛先は、自分で、手近なナイフなどで切ったと推測される。艶もなく、もつれて、ところどころ何かがこびりついて塊になっている。

出されたパンとスープをがっつく姿を見ていると、少年がふと手を止めてこちらを見上げた。

「あんた、前にもこうしてたろ」

予想外の言葉がその口から出たことで、ヴィトは少なからず驚いた。

「前にも……?」

「俺みたいなのを連れて飯屋に入った」

それだけを言うと、少年は再びパンにかじりついた。ヴィトはやや目を細めて記憶をたどる。ややあって、あのことかと思いついた。それは情報屋としての仕事で、食事と引き換えにその孤児しか知りえないことを教えてもらうための行為だった。

――なるほど。それで私についてきていたのか。

行儀も何もなっていない所作で、音を立ててスープを飲み干すと、目の前の浮浪児はにやりと目を光らせた。

「……まだ腹いっぱいにならない」

「あのね」

欲張りなことを言う、と少なからず飽きれたヴィトは、少年の顔の前に一本の指を立てた。

「私は慈善事業をしているわけじゃないんだ。以前、君が見たのは私の仕事であって、きちんと見返りがあったんだよ」

少年は口元にパンくずをつけたまま、首をかしげる。

「君は金がないんだろ。ただで食事を食べさせる人はいない。分かるだろ?」

「なーんだ」

「え?」

「あんたも同じか」

ふーと満腹を意味する息をはくと、少年は腹をさすった。

「金はねぇ。労働で返すよ」

「労働、って」

「あんたんとこで働く。下働きでもなんでもいいよ、俺にできることなんでもする。一ヶ月でいいか」

嬉しそうにしていた少年の瞳から色が失われ、つまらなそうに条件を提示してくる。まだ十歳かそこらだろうが、すっかりすれた口利きである。ヴィトは思わず顔をしかめた。それを見て、少年は小さく舌打ちした。

「労働じゃダメって言うならしょうがねぇ、鞭打ちでもなんでもしてくれ」

「何を言ってるんだ」

「代価なんて、俺は何にも持ってねぇんだ。早く決めてくれよ。労働か、痛めつけて満足するか」

「私にそういう趣味はないよ。そんなことでは満足できないね」

「……じゃ、働く。リュークだ。よろしく」

ざわめく食堂で、その汚い子どもはまるで契約とでも言うかのように、真っ黒に汚れた手を差し出した。

「私はヴィト。よろしく、リューク」

それが、二人の出会いだった。

「だからよー、ただ食いたいって思っただけだよ」

「そんな単純な理由で、以前見かけただけの私を追い回したの?」

「そうだよ」

「見返りなしで、食事ができると思って?」

「……難しいことは考えてなかったんだよ。ただ腹が減って……そんで、あんたを見たからさ」

すれた少年は、言葉を濁して目をそらした。何か理由があるはずだとヴィトは改めて思ったが、それを引き出すのは少々やっかいであるようだ。本人が言いたくないことを言わせるのは難しい。

「ただ欲しいと思っただけ、か」

独り言のように吐き出したヴィトの言葉に、今度はリュークの方が首をかしげる。

「ヴィトは何がほしいんだ?」

風呂に入れられ、三回も洗われた髪は本来の色艶を取り戻し、染みついた悪臭ももはや消えた。ヴィトはリュークに新しく清潔な服を与えていた。そして、仕事も。

「なあ、ヴィトの欲しいものって?」

「さあ、仕事だよ」

リュークの疑問に応えることなく、ヴィトはにっこりと笑って立ち上がった。

「君の特技を生かして、より上達してもらおうと思ってるんだ」

「特技?」

「足の速さと、目の良さ、それから器用さだね。食事は好きなだけ。その代わり、私のために働いてもらうよ。存分にね」

その頬笑みに背中がぞくっとする気がしたが、今この状況こそが生きる術だということは直感的に理解できていた。

「やるさ、もちろん」

強がっているように見えないことを祈りながら、背筋を伸ばして鼻をつんと上向ける。

「教えてあげるよ。色々とね」

ヴィトはもちろんそれを見通しながら、リュークの肩を抱いて食堂から連れ出した。

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