優しい悪魔

山へ行くには、湖の脇の道を延々と歩いていかなくてはならなかった。

父さんはいつもその道を通った。

狩りをしに行くために。

村から山までは遠い道のりだ。朝早く出ても、着いた頃には日が高く昇っている。だが父さんはいつも歌を歌いながら家を出て行ったものだ。僕はといえば、まだ小さかったから狩りに連れて行ってはもらえなかった。

僕が十一歳になった頃、父さんは崖から落ちて足を痛めた。杖をつけば歩く事が出来たけれど、もう狩りは出来なかった。仕方がないので飼っていた羊の数を増やし、それを売って暮らす事になった。

羊は、村外れの小屋で飼っていた。父さんはそこまで毎日歩くのすら辛そうだった。僕は十四になって、一人でどこへでも行けるし、仕事も出来た。だから、羊の世話は僕がするようになった。父さんは少し寂しそうだったけれど、僕に仕事を任せてくれた。

父さんは、大切な事を沢山教えてくれる。僕と父さんはよく二人で釣りをしながら色々な話をする。たとえ狩りが出来なくても、僕は父さんを尊敬しているし、誇りに思っている。

ところで、僕がその家に初めて気づいたのは、一人で湖のほとりに釣りをしに行った時の事だった。それまでそこに家はなかったと思う。けれど、煉瓦造りで、そばに薪割り小屋があるその家は、まるでずっと昔からそこに建っていたような顔で佇んでいた。薪割り小屋には蔦が絡まっていて、煉瓦も所々が欠けている。僕は家の横の道を歩きながら、今までも建っていたのに、僕がその事に気づかなかったんだろうか、と思った。

不思議な家に誰かが住んでいる事を発見したのは、それからしばらく経ってからだった。夕暮れ時。どこか不思議な雰囲気が漂っている時間だった。そこら中が薄暗くなって、影だらけになる。影の中に悪魔が隠れていても気づかないかもしれない、と思う。逢魔が時おうまがどきと言うらしい。うなずける話だ。

僕は羊たちを檻へ入れて、犬に餌をやり、村への道を一人で歩いていた。湖を左手に見ながら村のそばまで来た時、その家の窓に明かりがついている事に気づいた。しかも、窓の向こうで何かが動いたんだ。僕が歩いていた道からは茂みが邪魔して、一瞬何かの影が見えただけだった。けれどそれは、どうも人の影らしかった。何より、窓から明かりが漏れている事が、そこに人が住んでいる証だと思えた。

僕は好奇心に駆られ、思わず道から外れそうになったが、自分のしている事が恥ずかしくなって止めた。決して怖かったからじゃない。人の家を覗いてみようなんて、いけない事だ。もしここに父さんがいたら、僕の鼻を掴んで怒鳴っただろう。「そんな恥ずかしい事をする子だったのか、お前は!」って。父さんは僕を叱る時、いつも鼻を引っ張る。そのせいで伸びちゃうんじゃないかと思うほどだ。そのお仕置きはとても痛いけれど、父さんは決して間違った事を言わない。だから僕はいつも父さんの言う事を聞く。

僕は大人しく家に帰る事にした。

村に入ると、家々の煙突から夕食の煙が立ち昇っているのが目に入る。この景色は僕にとって、とても大切なものだ。田舎で、何もない村だけれど、僕はこの村を愛している。羊を遊ばせる丘も、雨上がりには虹が写って見える大きな湖も、父さんがよく狩りに行ったという森も……どこも愛しているけれど、やっぱり村に帰ってくるとほっとする。父さんや母さんがいるからかもしれない。隣の家のサミーは村を出たいんだ、と熱心に言っていた。調子を合わせてうなずきはしたものの、僕は心の底で、この村でずっと暮らしたいと思っていた。

村は今日も平和だ。夕暮れの光景は、腹が減る光景でもある。今日も腹が盛大に空腹を告げたので、僕は走り出す。隣の家で飼っているクレビーが吼えて、窓からサミーの親父さんが顔を出した。

「よお! 相変わらず働き者だな、クレッグは。こんな時間まで山に行ってたのかい?」

「うん、今帰ってきたとこさ。ねえ、北の湖のそばにある家を知ってる?」

「湖のそば? 山へ行く途中かい?」

「そう。道の脇に、一軒建ってるんだけど……」

「いやぁ、知らないなあ。あんなところに誰か住んでたかな」

「そっか。じゃあいいんだ」

「そんな事より、今日は俺が獲ってきた猪のシチューだぞ」

「ほんと?」

「ああ、大きい奴だったからな、たっぷり分けられたぞ。早く帰って食べるといい」

「そうするよ。ありがと、親父さん!」

そう言いながら家の前の柵をひらりと飛び越え(母さんに見つかると怒られるけど、今は夕食の支度をしてるはずだ)、僕は家の扉に駆け寄った。小さい頃は重かった木の扉も、今は片手で開けられる。

家に入ると、シチューの香りが鼻をついた。僕の腹が再び空腹を訴える。父さんは暖炉の前で小さなナイフを研いでいた。母さんは台所だ。大きな鍋が火の上に吊るされていて、それを時折かき混ぜながら、パンの焼け具合を見ている。父さんが僕を見て、ぶっきらぼうに言った。

「今日はどうだった」

「ちょっと寒かったからかな、昼寝が長かったよ。あと、みんなあんまり歩かなかった」

「……気をつけて見てろよ。羊って奴は我慢強い。いつも通りだと思ってると病気に気づかないこともある」

「分かった」

「おかえり、クレッグ。もう出来るから、早いとこ道具を片付けておいで」

「うん、母さん」

僕はうなずいて、階段を上がった。

僕の部屋の壁には、父さんがサミーの親父さんと獲った鹿の頭が飾ってある。立派な雄鹿で、角からしてかなり年をとっていると思われた。父さんたちがこれを持って帰った日は、僕とサミーはおおはしゃぎで、それからしばらく大威張りだったもんだ。父さんとサミーの親父さんは村一番の狩人だぞって。

父さんたちの獲物は鹿だけじゃない。一階には熊の毛皮だって敷いてあるし、狐やテンの剥製だってある。父さんの着ているベストは母さんが狼の毛皮で作ったんだ。父さんは、時には猪だって一人で仕留めたって母さんは言う。父さんは名手だったんだ。サミーの親父さんは今でも名手だから、時折こうやって豪勢な夕食にありつけたりもする。

夕食の時、僕は父さんに、あの不思議な家の事について聞いてみたが、サミーの親父さんと違う返答は返ってこなかった。

「見た覚えがないな。新しく誰かが建てたという話も聞かないしな」

「第一、あれは最近建てたって感じじゃないんだよ」

「誰か住んでるのか?」

「影が見えた気はしたけど、覗かなかったよ」

「……」

父さんはしばらく考え込んでいた。僕は父さんが何か言うのを待っていたが、結局、何も話してくれなかった。僕は黙ってシチューを片付けた。

その夜、珍しく大雨が降った。稲光が何度も光って、僕は遅くまで寝付けなかった。音が聞こえないように布団の中でまるまって、羊たちが怖がっていないだろうか、と考える。それから、あの不思議な家に住んでいる誰かは、どうしているだろう、と思った。

どんな人が住んでるんだろう。もしかしたら魔法使いで、雷を鳴らしているのもそいつかもしれない。それか、もしかしたらすごく綺麗な女の人で、今は雷を怖がって泣いてるかもしれない。いや、そうじゃなくて傭兵崩れの奴らが何人もで隠れて住んでるのかも……。考えている内に、僕は夢の中に落ちていった。眠る寸前に考えた事は覚えている。

――明日、あの家へ行ってみよう。誰が住んでいるのか、訪ねてみよう……。

次の日の午後、羊たちには悪いけれど散歩を早々に切り上げて、僕はいつもよりずっと早く帰ってきた。村へ帰る道を早足で歩いていく。あの家に誰か住んでいるのか、確かめたくて仕方がなかった。だけど、誰にも知られたくなかった。自分一人で謎を解きたかったからだ。父さんや母さんには何も言わなかったし、親友のサミーにすら、秘密にした。これは、初めての事だった。今までは何だってサミーに相談していたから。

家に近づくには、茂みをかき分けて行かなくちゃならない。けれど少し歩くと、細かくて白い砂利を敷いた道があった。それを辿って、家に近づいていく。胸がどきどきする。別になんて事ないのに、妙に息苦しい感じがした。怖いんじゃない。怖いんじゃなくて……そうだ、きっと緊張してるだけだ。僕は大きく深呼吸すると、屈伸をした。それから勢いをつけて走った。扉の前まで来て、その勢いのまま扉を叩く。

それほど大きくもない扉には、魔よけのしるしがあった。うちの扉にもついている。うちだけじゃない、村の大半の家についている。僕は、その魔よけに親近感を覚えた。誰が住んでいるのか分からなかったし、もしかしたら傭兵や山賊が住んでるかもしれないと思っていたけれど、もしそうならこんな手作りの魔よけは飾らないだろう。僕の肩から、ほんの少し力が抜ける。その時、目の前の扉が開いたので、僕は思わず飛び上がった。

「おや。可愛いお客さんですね」

「あ、あ、あの、あの……」

出てきた人に言おうと思って山で考えてた言葉は全部、何もかも、忘れた。

「何か、私に用事でもあるんでしょうか?」

「え、いえ、いやあの、僕は、その」

何も思いつかなかった。まさか誰が住んでるのか確かめに来ただけなんて、言える訳がない。

「えと……」

「中でお茶でも飲みますか? 少し落ち着くでしょう」

「あ、はい」

僕はこうして、謎の人物とお茶を飲む羽目になってしまった。

住んでいたのは男の人だった。どうやらたった一人で住んでいるみたいだ。台所と寝室を植木で分けただけの小さな部屋。木製の寝台、机と椅子、それに箪笥が一つだけ。まあ普通の、質素な家だ。

僕を招き入れたのは、不思議な人だった。多分、僕よりずっと年上だろうけど、いくつくらいなのか、僕にはよく分からない。ちょっと古めかしい服を着ていて、魔法使いなんじゃないかというような不思議な空気を身にまとっていた。背が高く、痩せている。髪は真っ黒で、瞳も真っ黒。こんな変な人は、見た事がない。僕らの村じゃこんな暗い色の髪や瞳の人はいない。父さんが、僕らの髪はお日様にいっぱい当たるから茶色いんだよって言ってたけど……そうするとこの人は陽に当たらないんだろうか。

そんな事を考えながら観察していると、目の前の机に銅製の小さな杯が置かれた。中には湯気の立つ黒い液体。香ばしい匂いがするけれど、こんなものは見た事がない。もちろん、飲んだ事もない。

「普通のお茶とちょっと違うものです。少し苦いかもしれませんが、慣れると美味しいんですよ」

青年は窓際で微笑んでいる。恐る恐る口をつける。確かに苦い。

「あまりお気に召さなかったでしょうか。すみません、子供向けのものはここにはなくて」

「大丈夫です、美味しいです!」

ちょっと馬鹿にされた気がして、僕はその黒いお茶をごくごく飲んだ。口の中が苦い味でいっぱいになったけれど、平気な顔で飲み込んだ。でも胸やけがする……後で吐いちゃうかもしれない。

「あの、ここに住んでるんですか?」

「ええ。そういえば自己紹介がまだでしたね。私はフェイテリト=ラグラン、この家に一人で住んでいます」

「僕は、クレッグです。ノギスの村に住んでます」

「そう。羊たちと一緒に前の道を通るから、羊飼いだろうなと思ってました。……毎日一人で退屈しているので、良ければたまには遊びに来てくれませんか?」

――まあ、いいよな。

僕がうなずくと、ラグランさんがとても嬉しそうな顔をしたので、僕もなんだか嬉しくなった。

「今日は帰ります。でも僕、また遊びに来ますね。さようならラグランさん」

「私の愛称はフェイと言います」

少しからかうような口調。名前を呼ぶ事を躊躇っていた僕に、優しい微笑みが安心感を与えてくれる。長い黒髪に夕陽が当たって綺麗だ。同じように真っ黒な瞳は、吸い込まれそうなほどの深い輝きを湛えていた。

「フェイ」

僕は口の中で呼んでみた。

「それではまた。クレッグ」

「うん、またねフェイ!」

帰ったら父さんと母さんに話そう。もちろんサミーにも。僕は村まで走って帰った。

それから僕とフェイは仲良くなった。ずっと欲しがっていた兄さんを手に入れたみたいで、僕は嬉しくて仕方がなかった。

だけど父さんや母さん、それに村の大人たちは彼に対して好意的じゃなかった。「あんな、どこから来たかもわからないような怪しげな奴と仲良くするな」父さんはそう言って叱る。「危ない人じゃないよ」と言ったが、父さんは信用してくれない。僕の話を信じてもらえないのは悲しかった。もちろん僕はそれからも、フェイの家に遊びに行った。

フェイはとても頭がよくて、いつでも優しかった。僕は何でも相談したし、彼は僕が遊びに行くとすごく嬉しそうな顔をした。僕らは本当に色々な話をした。大抵は、僕ばかりが話していたけれど。

一度、サミーを連れて行ってやった事がある。サミーは大人たちと同じような顔をして、言った。

「なんだか、怖くねぇか?」

僕はそんなサミーの気持ちは分からなかったけれど、その言葉を不満に思ってフェイに伝えた。

「……そういう人もいますよ。私は構いません。だって、クレッグが来てくれますからね」

そんな言葉が単純に嬉しい。フェイが僕に来て欲しいと思っている。他に誰も来なくても、僕が来たらフェイは嬉しいんだ。そう思ったら、なんだか嬉しくてたまらなかった。

ある朝、食事の間、父さんが一言も喋らなかったので、僕は首を捻った。機嫌が悪いわけじゃなさそうだけど……静かな食卓は、不吉な予感がする。

なんだろう、僕は父さんに怒られるような事をしただろうか。パンをかじりながら考えたけれど、フェイの事以外には思いつかない。それだって最近はもう諦めている節がある。父さんが何度言っても、僕の鼻を掴んで引っ張っても、僕はフェイの家に遊びに行くからだ。だからきっとそれじゃないだろう。

「おいで、クレッグ」

僕が返事をする前に席を立って、父さんは暖炉に近づいていった。僕は母さんを見たが、母さんは目を合わせてくれなかった。

父さんは暖炉の前の、いつも座っている椅子に腰掛けた。それから深く息を吐く。僕はその前に立って、どきどきしながら目を泳がせていた。なんだろう……。

「クレッグ、お前はもう十五歳になる」

そうか、そうだった。明日は僕の誕生日だっけ。

「この村の男は、ほとんどが狩人になる。ならなくても、経験しない奴はいない。初めての狩りに出るのは、大概十五の時だ」

心臓が大きな音を立てた気がした。だんだん早くなる。ついに僕にも来たんだ。その時が。

「そうだ。お前は俺の息子だ。俺はもう狩りに行けないが、お前には立派な狩人になって欲しい。これをお前に渡しておく。俺が十五の時に親父からもらったものさ」

そう言って、父さんが渡してくれたのはナイフだった。何度か見たことがある。父さんはいつもこれを丁寧に磨いていた。それが今、僕のものになったんだ。

細い刀身のそれは、それほど大きなものじゃない。だけど僕の手は、重いはずのないナイフの重みを感じた。これは、命の重みなんだろうか。このナイフは止めを刺すためのものだ、と父さんが言った。何故かは分からないけど、このナイフは、怖い。そんな気がした。

父さんはそれ以上何も言わなかった。次の日、サミーと親父さんが家の扉を叩いた時、僕は確信していた。きっと今日が僕の「初めて」の日になる、と。

「フェイ!」

扉を勢いよく開け放つ。家の中には誰もいなかった。植木鉢の向こうの寝室も覗いたけれど、やっぱりいない。僕は家の外へ飛び出した。家の裏手で薪を割っている音がする。あそこだ。つんのめりそうになりながら薪割り小屋へ向かう。小屋の扉は開け放してあった。やっぱりここだ。

「フェイ!」

「やあクレッグ。どうしたの、そんなに息を切らして」

「僕は……僕は……」

薪割り小屋の入り口で立ち尽くしている僕を見て、フェイは眉をひそめた。手にしていた大きな斧を横に置くと、立ち上がる。それから僕の肩にそっと手を置いて、言った。

「落ち着いて。もう大丈夫」

「……」

「そんなに唇を噛み締めないで。さあ、おいで」

僕の肩を抱いて家へと誘う。柔らかな風がフェイの長い黒髪を揺らしている。木々を渡る風は涼しく、僕の熱い顔を冷やした。家に入って机につき、彼の淹れてくれたお茶を飲む。二人とも黙っていた。フェイが窓を開けると、さっきと同じ、涼しい風が舞い込んできた。

「大丈夫ですか?」

「……うん」

僕は両手で顔を拭い、鼻をすすった。目の前には頬杖をついているフェイ。その顔はいつもと同じだった。僕を安心させる笑顔。

「狩りに、行ったんだ……父さんが、僕の、ナイフをくれて。それで僕は初めて、ど、動物を……うさぎだった……僕は……」

見る見るうちに景色が滲んでいく。嗚咽とともに漏れる、まとまらない僕の話を、フェイはずっと黙って聞いていた。僕は話しながら何度も大きなため息をついた。話している途中に、また目が熱くなる。

「泣きたい時に我慢する事はありません。クレッグが弱虫じゃないのは、私がよく知っています。大丈夫、好きなだけ泣くといい」

おかげで僕は何度も泣いた。

「怖いとは思わなかったんだ。狩りをするのは、当たり前の事だもの。僕らだって、食べなければ生きていけない。動物たちと同じ事だよね……。だから殺すのが良くないとか、怖いとかは、思わなかったんだ」

「ええ」

「うさぎが可哀想とも思わなかった。あのうさぎが僕に殺されても、森のうさぎが全滅するわけじゃない。それに、あの、僕が殺したうさぎだって、僕が殺さなかったとしても、いつか他の狩人が殺したかもしれないんだ」

「ええ」

「ただ、ただ僕は……あの、感触が忘れられない。父さんにもらったナイフはよく磨いであって、だからすごく、切れ味がいいんだよ。……うさぎにサミーの矢が当たって、それでもうさぎは逃げようとした。跳ねて。サミーの親父さんが、僕に……楽にしてやれよ、って、言ったんだ。……僕は、だから、このナイフを……」

僕はその時の事を鮮明に思い出していた。細いナイフ。刃に当たってきらめく陽光。握っている僕の右手。うさぎの、僕を見ている目。まだ温かな、柔らかい胴体から流れる血の赤さ。そして何より、僕の手が感じた「命の終わり」を思い出していた。

「辛い経験をしたんですね」

フェイはゆっくりと言った。僕はそれ以上何も言えずに、ただ黙っていた。幾筋かの涙が再び、僕の頬を伝う。

「みんな、嬉しそうだった。よくやったって、誉めてくれた。でも……僕は……」

「狩りは、辛いものですね。私も初めてのとき、今のクレッグと同じ思いをしました」

「え? フェイも狩りをした事があるの?」

「……何度か。最初はやはり苦しかった。それが必要な事とは言え、苦しくてたまらなかった。徐々に慣れてはいったけど……慣れていく自分が、また怖いんです」

「そう……そうだね。僕もいつか慣れてしまうんだろうか。動物を殺す事に?」

「どうでしょうか」

「フェイはもう、怖くない?」

「いえ、今でも怖いですよ」

「サミーは、怖くないって言うんだ。狩りは楽しいって。狙った獲物に、矢が刺さる瞬間はたまらないって言うんだよ。もう何度もやってるから、慣れたからそう言うんだろうか」

「私には分からないけれど……そういう人もいるでしょう」

僕にも分からなかった。狩りの楽しさも、自分が何故泣いたのかも。サミーや親父さん、それに誰より父さんに弱音を吐いちゃいけないって事だけは分かっていた。

だから、僕はフェイのところへ来たんだ。

フェイと話した後も、僕はずっと考えていた。父さんたちには言えない。

動物の命をもらう事は、それを自分の命に換えて受け継ぐ事だ。それは分かっている。僕は狩りが怖いんじゃない。ただ、「あの瞬間」だけは、好きになれる気がしなかった。楽しいとは決して思えないだろう。

父さんは偉かったと思う。サミーの親父さんも。サミーも、きっといい狩人になるだろう。村の男はみんな狩りをする。怪我で出来なくなった父さんも、気持ちは狩人のままだ。僕も、きっと狩人になる。ならないといけない。だけど……。

そして僕は、今まで持っていた狩人という仕事に対する誇りや情熱が、少しずつ失われていくのを感じた。

そんな事があってから、父さんは前にも増して「フェイのところへ行くな」と言うようになった。厳しい調子で言うので、僕は少しの間、大人しくしていた。

でも、やっぱり会いたい。

そう思って久しぶりに訪れた家には、フェイの姿がなかった。巻き割り小屋かと思って見に行ったけれど、薪を割る音も聞こえないし、姿もない。家の周りを歩いて探すと、裏庭でフェイを見つけた。

倒れている彼の黒髪が乱れて、土まみれになっている。慌てて駆け寄り、抱き起こす。顔面は蒼白、息が荒い。

「フェイ! 大丈夫? しっかりして!」

最初に会った時も痩せているな、と思ったけれど、しばらく会わないうちにフェイはかなり痩せていた。

長身のフェイを何とか部屋に運び、寝台に寝かせる。台所で飲み物を探したけれど、ほとんど何もなかった。台所が使われた形跡もない。

――そういえば、フェイはどうやって暮らしているのだろう?

ふと疑問が頭をよぎったけれど、今はそれどころじゃない。少しだけあったパンと水を寝台へ運んだ。

「大丈夫かい……?」

「ええ。すみません、心配させてしまって」

さっきよりは顔色が良くなったかな。熱はなさそうだし、怪我もしていないみたい。少しは安心したけど、でもとても元気とは思えない。なんか病気なんだろうか。

「パンと水くらいしかなかったけど、食べた方がいいよ」

「ありがとう、クレッグ。大丈夫です」

「でも」

「心配いりませんよ。ちょっと……持病のようなものです」

「ヤギの乳をもらってきてあげようか。それとも何か欲しいものはある? 食べたいもの」

「いえ、今は何も食べたくないんです。でもありがとう」

「そう? でも何か食べた方がいいよ。痩せすぎだもの」

「……クレッグは優しいですね」

そう言ったきり、フェイは黙ってしまった。僕も、何を言ったらいいか分からない。沈黙が満ちた。

「私は、クレッグが好きですよ」

突然、フェイがそう呟いた。僕は思わず聞き返す。

「え?」

「こうして心配してくれる友人がいて、私は幸せです。クレッグは、いつも遊びに来てくれる。お父さんに言われているんでしょう? あんな変人のところへ行くなと」

「フェイは変人じゃないよ」

ちょっと不思議な人だけど、と思ったけれど、口には出さなかった。

「君は優しい子です。私は、クレッグが大好きなんですよ」

いつもと同じ。僕を安心させる微笑。彼の言葉はきっと素直なものなんだろう。

「僕も、フェイが大好きだよ」

僕はそう言って、うなずいた。

クレビーがいなくなったのは、その翌日の事だった。

クレビーはサミーが飼っている犬で、頭がよく、狩りの時には必ずサミーと一緒だった。クレビーには放浪癖があって、時々縄を噛み切って逃げ出す事がある。でも、夕食どきには必ず戻ってくるのが可愛いって、サミーが言ってた。

それが、戻ってこない。

三日経っても戻ってこないので、サミーは相当落ち込んで、きっともうクレビーはどっかで死んじゃったんだ、と言った。

僕は慰めたけれど、サミーは村外れのあいつが怪しいと言って聞かなかった。

そして、事件はそれだけでは終わらなかった。

隣村に出かけた男が帰ってこないという話を聞いたのは、それからしばらく後のことだった。古道具を売っている人で、掘り出し物を探しに隣村に出かけたが、数日のはずが十日過ぎても帰ってこない。僕の知らない人だったから良く分からないけれど、平和なノギスの村では、紛れもなく大事件だった。

父さんを始め、村の人たちはフェイの事を疑っていた。フェイが何をしたって言うんだろう。古道具屋のおじさんをどうにかしたって、フェイの得になるとは思えない。僕はフェイをかばった。

けれど、サミーはフェイが殺したんだ、と言った。父さんは、あれは悪魔だ、と言った。

……僕は、フェイの家に行った。

夜中に家を抜け出すなんて、初めてだった。

フェイは「こんな時間に」と言って驚いたけれど、中に入れてくれた。

「このまま帰れというわけにはいかない顔つきですね」

そう言って。

フェイの家は相変わらず何もなかった。彼は、いつものようにお茶を淹れてくれる。僕は黙ってそれを飲んだ。フェイの顔も、いつもと同じ。穏やかな顔つきだ。今日は前より元気そうに見えた。

「少しは元気になったの?」

「ええ、まあ」

「良かった」

僕は何を言えばいいんだろう。そもそも、何を言いに来たんだろう。上手く話せなくて、僕は口をつぐんだ。フェイが、優しく尋ねた。

「クレッグ。こんな夜中に、何故来たんですか?」

「……父さんには、二度と行くなと言われてる」

「……」

「フェイは悪魔だとも言ってる」

「……」

「フェイ」

何でしょうか、とでも言うような顔で、首を傾げる。

「フェイは、クレビーを、知ってる?」

「クレビー?」

「サミーが飼っている犬だよ。クレビーは頭がいいんだ。縄を噛み切って村を出る事もあるけど、必ず戻ってくるんだ」

なんだか止まらなくなって、僕はクレビーの事を夢中でしゃべった。

「……クレビーは、だからとても頭が良くて、だから……でも……」

「でも?」

「もう……十日以上も戻ってこないんだ」

そう言った時の僕は、切羽詰った顔をしていたと思う。フェイは眉を寄せて、辛そうな顔をしていた。ため息をつく。そして、淋しげな笑顔を浮かべた。

「もう、ここへは来ない方がいい」

「フェイ?」

「クレッグは、自分の中で答えが出ているのでしょう?」

「……」

「それじゃあ」

「待ってよ!」

フェイは、何も言わないつもりなのか。何も説明しないつもりなのか。

「僕は、答えを出してなんかいない。何も分からない。だから、フェイに聞きたかったんだ」

「……何を?」

「その……」

ここまできて、僕は口ごもった。でも、とにかく言わなくちゃ。喉が熱くなる。頬の筋肉が緊張して、口唇が開かない。口が渇いている。声の出し方を忘れてしまったように、僕は何度か口を開けたり閉じたりした。そしてようやく、搾り出すように、囁くように言った。

「フェイは、フェイはクレビーを知ってるんだろ」

「ええ」

「クレビーは……もう帰ってこないの?」

「ええ」

「クレビーは、クレビーを……フェイは、クレビーをどうしたの!?」

「……殺しました」

「古道具屋のおじさんも? フェイが殺したの!」

「ええ」

「どうして、どうして……!」

「食べるために」

僕は呆然として、ただ口を開けたまま荒い息をしていた。

「犬だけでは足りなかったので、一人捕まえました。私は、人間を食べずには生きられないので」

「……」

「信じない?」

フェイの問いに、僕は首を振った。縦だか、横だか、自分でも分からない。

突然、彼が腕を伸ばした。一瞬の内に僕は背にしていた壁に叩きつけられていた。

「……!」

無意識に逃れようと体をよじったけれど、フェイの両腕が僕の肩を掴んでいて動けない。手や指はこんなに細いのに、ものすごい力。きつく掴まれた肩の骨が、音を立てて軋んだ。フェイの顔が間近に迫る。冷たく硬い表情。人間のものとは思えない黒い瞳に、恐怖に震えた僕が映っている。

「……フェイ……」

僕の声とほぼ同時に、フェイは力を抜いた。揺らいだ瞳は、いつものように優しいフェイのものだった。

「いつまで経っても、狩りを好きになる事は出来ない。食べるためだと、生きていくのに必要だと、分かっていても」

淋しげに笑うフェイ。

「私が死ねば、すべては解決するんですよ。でも……死ぬのは怖い」

「フェイ」

「クレッグ、君も私に食べられぬ内に帰りなさい」

「嫌だ。帰りたくない」

「帰りなさい。そしてもう二度とここへは来ないと約束して」

「嫌だ!」

「クレッグ」

「フェイと会えなくなるのは嫌だ」

フェイはうつむき、長い黒髪が顔にかかった。そのままで、動かない。髪が邪魔して、彼の表情は見えなかった。

「帰りなさい」

「フェイ!」

こわばった顔で、彼は僕を扉へと押しやった。もう何も言わず、目を合わせてもくれない。

「上手く言えないけど、でもフェイは悪くない! 僕はフェイの味方だよ! フェイは……僕は……!」

そう叫びながら、僕は扉から外へと押し出された。

「二度と、ここへ来てはいけない」

フェイは最後にそう言うと、扉を閉じた。

――僕が何を言っても、この扉はもう開かないだろう。

しばらく佇んでいた僕は、結局村への道を戻った。

村へ入る少し手前の道で、父さんに会った。どうやら僕を探して出てきたらしい。杖をついた父さんは、本当の年齢より年を取っているように見える。

僕は、フェイの話をした。父さんの反応は、想像通り。

「やはり悪魔だったか!」

「違うよ、父さん」

きっぱりと言ったが、父さんの怒りに火をつけただけのようだ。

「お前は何も分かっとらん。いや、悪魔に騙されているのだ」

「フェイは悪魔じゃないよ。なんでそんなに怖がるの?」

「生存本能というやつさ! お前だって殺されたくないだろう。今は平気だと言うかもしれないが、死を目の前にしたら、死にたくないと叫ぶはずだ」

「僕らが狩ってきた生き物すべてが、そう叫んだはずだよ。父さんには聞こえなかったの?」

「何の話だ」

「みんなだって狩りをするじゃないか、生き物を殺すじゃないか」

「それは生きるためだ」

「フェイだって同じ事だよ。それに、フェイは倒れるまで食べなかったんだ。なんで彼を悪と決め付けるの」

「人を食べるなんて、恐ろしい悪魔だ。それ以外の何者でもない!」

「僕らは鹿や猪を食べるじゃないか。彼らにとって僕らは悪魔だ。動物は殺して良くて人間はいけないなんておかしいよ」

「動物を食べるのは当たり前だ。だが、人間が動物に食べられてたまるか」

「人間だけが食べられないなんておかしいよ。人間はそんなに偉いの? どうして人間を食べちゃいけないのさ! 僕は、フェイに食べられたっていい!」

「馬鹿な事を言うな! ……もう二度とあそこへは行くな。あいつは俺たちが殺してやる」

「そんなの、勝手すぎる」

「俺の言う事が聞けないのか!」

「僕の人生は、僕が決める」

そう言うと、僕は父さんに背を向けた。

「クレッグ! 待て!」

「ごめんね、父さん」

言い残して、僕は走り出した。

フェイの家の扉は、やはり閉まっていた。力任せに叩くと、魔よけのお守りが揺れてぶつかった。扉を叩く大きな音と、木製の魔よけがたてる軽い音が交じり合って、変な音楽みたいに聞こえる。

……どのくらいの時間、叩き続けただろう。叫び声も枯れて、喉がヒリヒリする。手は真っ赤に腫れあがってしまった。

「フェイ……」

もう駄目だ、叩けない。涙が出てきた。

僕はそのまま扉の前で倒れてしまったようだった。はっと気づくと、僕は寝台に寝かされていて、近くにフェイが座っていた。

「諦めの悪い子ですね」

フェイは、柔らかく笑った。

「もう来るなと言ったのに。食べてしまいますよ?」

冗談めかして言う。

「いいんだ、フェイ」

「クレッグ、落ち着きなさい」

「落ち着いてるよ。ちゃんと考えたんだ。フェイ、他のものは食べられないの?」

「食べても駄目なんですよ。どうしてかは分からないけれど、パンと水では生きていけない。犬でもね。少しは慰めになりますが……」

「どうしても人間を食べないと生きていけないんだね?」

「忌まわしい呪いのせいでね」

「なら、僕を食べて欲しい」

「馬鹿な事を」

「食べなければ、フェイが死んじゃうじゃないか。そんなのは嫌だよ」

「私だってクレッグが死んでしまうのは嫌です。それくらいなら私が餓死する方がいいんです」

「嫌だよ! フェイ、そんなの辛すぎるよ。死ぬのをただ待つなんて」

「それならクレッグ、君が私を殺してくれますか?」

「そ! そんな事、無理だよ!」

「クレッグは、私に食べられてもいいと思うんでしょう? 私も同じ。クレッグになら殺されてみてもいいな。なるべく苦しまないように頼みますよ」

どうしてそんな事を、笑って言えるのかが分からない。

「クレッグは狩りに行って、動物たちに止めを刺すでしょう? それと同じ要領ですよ。首にナイフを入れればいい。簡単です」

「でも……!」

手が震える。

「クレッグ」

フェイは僕を見つめ、頭を撫でた。どこまでも優しい、フェイの黒い瞳。

「私は罪深い。そして、自分自身を殺す事が出来ない臆病者だ」

僕は首を横に振った。

「君たちとは、どこまでいっても相容れない生き物。けれど、君は私を理解し、受け入れてくれた」

「……」

「君は狩りの名手になる。今は辛いかもしれないけれど、きっと村の勇者になるよ」

「そんなの……! ならなくていいよ!」

僕の声にもひるまず、フェイはよどみなく続けた。

「勇者は強い。私がいなくても、強く生きていける」

勢いよく首を振ったら、涙が飛んだ。視界は滲んでいる。

「そうだな……私の事を覚えていてくれれば十分です。悪魔なんかじゃなかったって、そう思って下さい。誰にも言わなくていい。ただ、覚えていて欲しい」

「フェイ……」

「私も辛いんです。生きていくために人間を狩るのは、とても辛い。クレッグには、この痛みが分かると思います。狩りをするのは楽しい事じゃない。何かの命を自らの手で止めるのは……とても、痛い」

「……僕は……ウサギを殺した」

「そうだね」

「鳥も、もう何十羽も殺した。サミーと一緒に、狼も殺した。サミーの親父さんと三人で、猪も」

「そう」

「痛かった」

「……」

フェイの顔は辛そうだった。彼の痛みは、どれだけのものだろう。

「……フェイ。僕は貴方が好きだった。誰より好きだった。だから、フェイを忘れないよ。僕は、自分が殺した動物たちをすべて覚えてる。殺した瞬間を忘れる事は出来ない。だから……僕は、フェイも……忘れない」

「ありがとう、クレッグ」

フェイは、鮮やかに笑った。鮮明すぎて、目に焼きつくような笑顔。

僕は、自分で丁寧に砥いだナイフを、フェイの首に突き立てた。

手を捻り、ナイフを抉り出す。

空気が入り、嫌な音とともに鮮血が溢れ出た。

それは僕の手を、ナイフを、袖を、上着を、足を……僕の頭の中まで、赤く、染める。

そして僕はフェイの頭を膝に乗せ、その顔を見つめた。

もう何も映らない瞳、半開きになった口、穏やかな表情、首元から流れ出る血。

僕は、泣かなかった。

ただ、フェイの名を呼んだ。

何度も、何度も呼んだ。

彼の事を、忘れないために。

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