太陽神ハーディスと月神メルィーズは交互にその姿を地上に現す。そうして十日ほどが経った頃、少年王子と騎士、そして世にも稀な双子はレフォア城近くに到達していた。
レフォア国の王都は、多くの人に単に「城」あるいは「城下町」と呼ばれていた。高い城壁が町全体を囲うように建てられ、周辺は平野で、穏やかな農村地帯が広がっている。畑に植えられた作物は様々で、収穫できるようなものあれば、まだ青い葉を茂らせているものもあるので、上空から見ればまるで色とりどりのつぎはぎ布のようであったろう。
遠くに、細い尖塔がいくつも連なった壮麗な城が見えている。丘の上に造られているので、その大半が城壁の上に姿を現している。その大きさがどれほどのものであるか、ここからではまだ分からないが、相当大きな城である事は間違いがない。
「レフォア城……」
エイルが小さく呟く。隣を歩いているシキがそれを聞きつけ、唇を噛んでいる少年の肩に大きな手を乗せた。少し先で、クリフとクレオが手を振っている。
「早く行きましょう! ね、早く!」
シキが手を振り返すと、双子は駆け出して行ってしまった。エイルは立ち止まり、シキを見上げて確認するように言った。
「あれは、我が城だな?」
「ええ、エイル様がお住まいになる城です」
「……ん」
きっぱりと言うシキに、エイルは安心して小さくうなずいた。胸を張って、また歩き出す。その心中を思うと、シキの胸は熱い想いでいっぱいになる。もし反乱が起きたのが現実だとしたら……あの城は、エイルのものではない。取り返すには、どれほどの人手、どれほどの時間が費やされるだろう。こちらは二人きり。不可能だ。反乱軍を率いていたのは王弟コジュマール大公である。軍部を束ねる武官長でもある彼が、王位継承の手続きを執り行ったとすれば、レフォア王国軍全体がエイルの敵である。エイルが一夜にして反逆者として手配され、処刑対象とされただろう事は疑いようがない。レフォアは、絶対的に王家の力が強い。レフォアの民は、コジュマールを新たな支配者として、その命令に従うだろう。
少年王子には、その実感がないだろう。レフォアの民は父王エイクスと兄王子シエル、そして自分に対して忠誠を誓っている。その期待が裏切られた時、少年がどんな顔をするのか、そしてその後はどうするのか。考えただけでもシキは息苦しくなる。ふと、自分たちを転移させてくれた老司祭、ジルクの言葉が蘇った。 『どうかエイル様をお守り下さい』
シキは心の中で呟く。
――必ず守ります。俺は、何があろうとエイル様の味方です。レフォア王家に、そして誰よりもエイル様ご自身に、俺の忠誠を捧げます。それが、陛下との約束ですから。
その約束をした時は非現実的であった事が、今、現実のものとなり、目の前に据えられている。自分が守らなくて、誰がこの少年を守れると言うのだろう。世間知らずの、幼き少年を。眼前を歩いて行く少年は、自分が置かれた立場の自覚も薄く、人生にいくつもあるはずの試練にもほとんど出会った事がない。それでも王族としての誇りを胸に、家族を亡くした悲しみを背負って歩いて行く。シキは改めてこの少年を守り通すことをその胸に誓った。
遠かった頃はそれほどだとも思っていなかった城壁は、今や目の前にそびえ立って威圧的にこちらを見下ろしていた。双子はその大きさに驚嘆の声を漏らしている。
王都は、北の丘にレフォア城がそびえ、南側の斜面に城下町が広がる。クリフたちは城壁を右手に見ながら南門へ回っていく。
南門からは広い街道がさらに南へと伸びている。春の市が立つこの季節、街道には多くの人が溢れていた。遠方からやってきた旅人もいる。あちこちで色々な地方の言葉が飛び交っていた。街道の脇には露店も作られ、気の早い商人が商売に精を出している。その様子を眺めながら、シキは合点がいかない様子である。
「いくら市が立つ時期とはいえ、このような場所での露天商など、許されるはずがない。何よりこの様子では反乱とは考えにくい。やはり……」
独り言を呟くシキの目線の先に大きな南門が口を開けている。その下を多くの旅人や、商人たちの隊商が行きかっていた。
巨大な門を見上げながら過ぎると、人々はさらに増え、大通りの賑わいは目を見張るほどであった。エイルと双子はその様子に目を丸くしている。エイルは城から出た事が数えるほどしかなく、それもすべて垂れ幕の隙間から覗ける、狭い範囲しか見た事がなかった。目の前に広がる光景は、エイルを圧倒するに十分だった。双子はと言えば、ただただ純粋に、これほど大勢の人間を見た事がないので唖然としている。
「今日はなんかのお祭、ってわけじゃ、ないんだよね……?」
「う、うん。すごい数の人だなあ。みんな、どこから来て、どこへ行くんだろう」
クレオがそばを通る女の子を振り返る。クレオはいつも着ている綿の服に旅装用の外套を羽織っているだけだったが、同じ年くらいに見えるその子は、花模様の刺繍がはいった肩かけを羽織っている。スカートは綺麗な草色に染めてあり、肩かけとお揃いの刺繍が裾に入っていた。髪も美しく結い上げ、髪飾りでとめている。あまりにも自分と違うその子を見て、クレオは恥ずかしげにうつむいた。
一方のクリフは武器屋に見とれている。彼が持っているのは父が作ってくれた手製の弓で、柔らかくしなるカゴラの木を削りだしたものだ。それはもちろんクリフの宝物であったが、店には見た事もない弓が数多く並べられている。木製のものも多くあったが、金属の持ち手がついたものや、弓自体が鉄で作られているものもある。大きさも千差万別で、小さな手弓から、クリフにはとても使えないような長い弓まで様々だ。色が塗られ、綺麗に飾られた祭礼用の弓などもある。それ以外にも、短剣や長剣などが山程あった。店の中にどうやって運んだのかと思うほど多くの品物が所狭しと並べてある。それらの内のいくつかは表からも見えるように店の外に綺麗に並べられ、店主は終始笑顔を絶やさずに、商品の一つ一つを丁寧に磨き上げていた。
一方、エイルは言い知れない不安に襲われていた。今までは、人々から見下ろされる事など皆無に等しかった。平民と会うことなどそもそもなかったが、城にいる人間は誰しも自分に頭を下げ、目を合わせず、慇懃に挨拶をして通り過ぎた。ジルクや教育係も、部屋に入るのはこちらが後、座るのはこちらが先。そういったことはごく普通のことであり、特権であることを意識することもなかった。自分が見上げるのは父王と母王妃、兄王子だけ。他国の主賓などと同席する場合はその限りではないが、まだ幼いエイルは、外交の仕事をする機会も少なかった。だから人々はみな自分に対して礼を尽くし、頭を下げるもの――それが当然であったのに。それがどうだ。今、近くにいる人々は自分に目もくれない。中にはエイルにぶつかっても「邪魔だな」といった顔をしていく者さえいる。ここではそれが「当たり前」だった。エイルはまだ発展途上の少年で、身長も大人の半分ほどしかない。一人の少年を、人々が気に留めるはずもなかった。しかしエイルにとっては理解不能であり、恐ろしかった。自分は王子だぞ、お前たちよりずっと偉いんだ。そう主張しようと思っても、口に出す事は出来なかった。
――なぜ、誰も気づかないんだ。レフォアの民はレフォア王家に、私に、忠誠を誓っているはずなのに。
エイルは無意識に、シキの服にしがみついていた。
人々の顔には、平和と安寧が見える。良い治世が布かれているのだろう。レフォア王国軍を束ねる武官長であったコジュマール将軍が、兄王を暗殺して王の座につき、即位式を執り行おうとしている、というような状況には到底見えなかった。新しい施政者であるとしてコジュマールの名も聞かない。辻道に立てられた王室広報板にも、生き残りの第二王子を捕らえろなどとは一言も書かれていない。サナミィで長老が言ったように、今はエイクス王の御代ではないのか。そんな思いがシキの頭をよぎる。
「城へ行こう。早く確かめたい」
地面を見つめてそう言ったエイルに、うなずいて応える。四人は城門を目指し、大通りを北へと進んだ。
城門は大きく堅牢な扉で閉じられていた。シキはもちろん、エイルも見覚えがあるレフォアの城門である。懐かしささえ覚え、シキは門を見上げて足を止めた。ほんの一瞬躊躇ってから門衛を務める兵士に問いかける。
「私の顔が分かるか」
その問いは、答えを分かっていて投げかけられたものだった。おかしな質問をする、といった顔で、門衛は訝いぶかしんでいる。やはりといった表情のシキと、顔面蒼白のエイル。双子は緊張した面持ちで、そんな二人の様子を見守っている。
「シ、シキは緑旗隊の副隊長だぞ。レフォア兵士でこの顔を知らぬ者などおるはずが」
余計なことまで言われてはと、シキがエイルを慌てて引き留める。兵士たちは不審そうにエイルを睨み付けた。
その場で逡巡していると、後方でざわめきが起こった。やがて人々をかきわけてレフォア兵士が二人現れた。護身用の軽い鎧を身につけた兵士たちは手に細い槍を持ち、それで人々に道を開けるよう指示している。人々は慌てて道を譲り、これから起こることを道端から覗きこんだ。二人の兵士は口々に言う。
「さあ道を開けろ」
「緑旗隊だぞ、邪魔だてするな」
誰もが騎士団の到着に驚いてはいたが、シキがその中にいて誰より衝撃を受けていたに違いなかった。
緑旗隊というのはレフォア王国騎士団の中でも特別な存在である。レフォアの王国騎士団には、本隊といくつかの分隊があるが、そのどの隊も紋章は旗の下にうずくまる獅子と決まっている。しかし緑の旗を交差させた緑旗隊の紋章だけは、王家の旗紋章と同じ、交差する剣と両足で立ち上がる獅子なのである。それは、色は違えど緑旗隊が王家に一番近い存在である事を示していた。緑旗隊は騎士団に所属はしているが、独立した王家直属の近衛隊なのである。緑旗隊がいるという事は、そこに王族がいるという事を示しているのだった。
「さあ、道を開けろ!」
物騒な声を上げながら、二人の兵士は道を作っていく。混乱の中、エイルは双子が両脇から挟むようにして道端の群衆に埋もれていたが、シキは気づけば取り残され、呆然と道に立ち尽くしていた。先立ちの兵士が槍を突き出す。
「おいお前、何を考えている、そこをどけ!」
「緑旗隊をなめとるのか」
「い、いやそんな事はない。だがお前たちは」
「何様のつもりだ。『お前たち』だと? 我々は貴族階級だぞ、平民が対等に話せる身分ではない」
「ちょっと待て! いつから緑旗隊はそんなに柄が悪くなった、お前たちの上官はどんな指導をしているんだ」
思わず言い返してしまったシキはすぐに自分の失態を思い知った。
「なぁんだとお? 偉そうに、何が指導だ! 平民が!」
「ええい、邪魔だ! どけっ」
威嚇だけだろうが鋭く突き出された槍の先を、シキは素早く身をよじってかわし、道の脇、人混みの中へと分け入った。複雑な感情と、様々な考えが次々に彼を攻めたてる。
兵士たちはシキを追うことはせず、意気揚々と城門に到達した。彼らによって広く開けられた道を、騎士たちが埋めていく。歩兵たちの後に騎馬の一団が姿を現した。王家の白い旗、騎士団の青の旗、そして緑旗隊の旗を掲げた兵士たち。続く二頭の馬が最も立派に飾り立てられていた。毛艶のいい葦毛に乗っているのは体格のいい壮年の男で、鎧を身につけ、真っ直ぐな姿勢できりりと顔を上げている。栗毛の手綱を握るのは青年で、やはり鎧姿で背筋を伸ばしている。こちらはもう少し若い。二人とも面をつけていなかったので、その表情がよく見えた。壮年の男は厳しい顔つきで太い眉をぴくりとも動かさず、栗毛を操る黒い甲冑の男は優しげな笑みを浮かべている。シキはその様子をまんじりともせず眺めていたが、まわりの人々が言い交わす言葉に己の耳をふさぎたくなった。
「姫様のお帰りかあ。護衛だな。サニエール隊長と」
「副隊長のファルド様、今日も素敵!」
「綺麗なお顔立ちだよねえ、あの人は」
「やっぱり貴族様は違うよねぇ、なんたって気品があるもの」
「サニエール隊長の強さは国一番だよ。お父様は、大戦の時の英雄でいらしたしねぇ」
「あらファルド様だってすごいわよ。剣もお上手だし、頭も良いと有名じゃない」
「あの人だけは怒らせたくないね。国中の女を敵に回すのと同じだもんなぁ」
「ファルド副隊長がご結婚されるとなると大変だろうね」
「いやっ、ファルド様がご結婚だなんて冗談でも言わないで!」
人々の下賎な噂はひそひそと切れる事もなく続いていたが、シキの心中はそれどころではなかった。レフォア王国騎士団、緑旗隊の副隊長と呼ばれる人間が目の前を通っている。それは信じたくない事実だった。相手は甲冑を身につけ、人々の羨望の眼差しの中、馬を歩かせていく。一方の自分は、平民と間違えられるようななりで、それを眺める事しか出来ないのだ。自分が緑旗隊の副隊長だと名乗り出たらどうなる? 不届き者と罰せられるだろう。証明する手立てもないのだ。
――姫の護衛という声が聞こえた。サナミィの長老が言っていた通りだったのだ。エイクス王に姫様はいらっしゃらない。それに、サニエールにファルドなど、騎士団の中でも聞いた事のない名。まして、俺以外に「緑旗隊副隊長」が存在するなど……。
やはり時を超えてしまったのかという驚き。そして、その理解とは裏腹の、信じられない、信じたくないといった気持ちが沸き上がる。「まさか」「そんなはずが」といった言葉ばかりがシキの頭に溢れかえっていた。
人々の前を、兵士の乗る馬が何頭も通りすぎていく。その後には美しい馬車が数台、また騎馬隊、そして大勢の歩兵の列が続いた。彼らはみな厳粛に、列を崩さぬまま行進していく。シキは彼らをただ見つめている事しか出来なかった。
最後の一人が吸いこまれると、門扉は重々しい音とともに閉められた。物見高く見物していた人々が三々五々散らばっていく。シキはようやく我に返ると、エイルと双子を案じてあたりを探し回った。
「あ、シキ!」
小走りで帰ってくるシキにむかってエイルが駆け出す。それを抱きとめるようにしてシキが立ち止まり、そこへクリフとクレオが追いついた。
「すごかったですね。お姫さまだってみんな言ってました」
「綺麗な馬車だったなあ」
クリフとクレオは無邪気に言うが、エイルは口を尖らせてシキを問い詰めた。
「シキ、緑旗隊というのはどういう事だ。あれは王家の馬車だな」
「……レフォアの、姫が、お戻りになったそうでございます」
「姫だと?」
エイルが声をひっくり返す。シキは、声を低めるよう、エイルを優しく諌めた。
「先ほどの一団は、王国騎士団緑旗隊でした」
冷静に、落ち着いて事実のみを話すのだとシキは自分に言い聞かせる。ともすれば不満げに唇を尖らせるエイルも、シキの真剣なまなざしに口をつぐんだ。
「国王グリッド様の姫君が、他国へ親善大使としてお出かけだったご様子。ご訪問の期間が終わってご帰国になった、と。緑旗隊はもちろんその護衛です。隊長はサニエール、副隊長が……ファルドという名で」
「緑旗隊の副隊長はシキ=ヴェルドーだ」
やはり我慢できないといった様子でエイルが言ってのける。双子はお互いに困ったような顔を見合わせている。シキはほんの少し、淋しげに微笑んだ。
「エイル様。どうやらサナミィの長老が言ったことが当たっているようでございますね。ここは我々が知っているレフォアとは違います。今年が七八四年だと」
「今年は四三八年だ」
エイルは苛立ちを隠さず、シキの言葉を遮る。
「エイル様はシキが嘘をついていると仰るのですか」
絞りだされた声とともに、シキの眼差しがエイルに向けられる。広がる沈黙が重苦しい。クリフとクレオは耐えられなくなり、わざとらしくも明るい雰囲気を出そうと務めながら、交互にしゃべりだした。
「ってことはやっぱり、時間がずれていたんですか」
「そうかもしれないって聞いてはいたけど、本当だったんだ。すごいね、三百年以上前の人に会えるなんて」
「そうだよね、すごいや。でもなんでだったんだろう」
「なんだっけ、お城のさ、司祭の人……ジルクさんだっけ? その人が、わざとやったのかしら」
「いや違う」
クレオの言葉に、エイルが弾かれたように顔を上げた。そして、転移した時の事を、一つずつゆっくりと思い出すように話し出す。
「……あの時、ジルクは言った。『遠くへ。とにかく遠くへ』と。行く先を指定する暇などなかった。安全な場所へ、とにかく遠くへ送る。我々が着く場所がどこだか、そして、いつの時代なのかも、ジルクは分からなかったと思う」
「え……じゃあ」
「ジルク殿は強い力をお持ちだ」
三人はシキを見上げる。語るような口調だが、その視線は何かを探るように空を漂っている。
「あの時は切羽詰まっていた。何よりも安全を最優先し、遠くへ送らねばと思い、どこへ送るか分からぬまま、力を加減する余裕もなく、全力で術を使ったのだ。結果……時を、超えてしまった。それはジルク殿の存外のことであった。そういうことなのではなかろうか。そう、確かに、今このレフォアでは反乱などは起きておらぬ。安全は守られる。だが、そうなると……。俺はエイル様を連れて、なんとか元の世界へ戻らねばならない」
「戻るって、どうやって? いや、その」
尋ねたクリフは言葉を詰まらせ、困った顔でうつむいた。つい気になって聞いたものの、そう簡単なことではないことくらい、クリフにも分かる。思案を巡らせていたシキも、首を振って嘆息する。
「時を越えるような方法などあるものか。司祭長……いや駄目か。我々は、ここでは一般市民。司祭長に会えるはずもない」
ひらめきに一瞬目を輝かせるも、シキは情けなさそうにうなだれた。
「今この世界に時を超えさせるような術を使える人間がいるのだろうか。それも、我々が会える人物で。……とにかく、まずは情報を得なくてはならぬ。金も要る。いやそもそも我々の持っている硬貨は……」
「シキ、どこかで休みたい」
エイルが疲労を訴えるが、シキは珍しくも反応しない。ぶつぶつと呟きながら頭を抱えている。クリフとクレオは顔を見合わせ、それからシキとエイルを見比べた。どうなるんだろう。どうしたらいいんだろう。自分たちは何も思いつかない。
「……よし」
考えを整理したのか、シキが自分に言い聞かせるように何度もうなずく。
「とにかく、まずは安全が確認できたことを喜びましょう。焦るような状況ではない。ひとまず落ち着いて考えましょう。私は、現在の情勢などを探ってきます。情報を得てから、次の行動をどうするか決めます。エイル様は私が戻るまで、クリフたちとお休みください」
その言葉にエイルは眉を寄せた。確かに足は痛いし、すぐにでもどこかに座って休息をとりたいとは思っていた。けれどこの世界でシキと離れ離れになることは大きな不安材料だった。とはいえ、弱音を吐くのも嫌だ。
「いい機会だ。私も王族の一員として街の視察をしようと思う」
「いえエイル様は」
「私は行く。シキ、共を申し付ける」
こうなっては、シキに抵抗する術はない。エイルは疲れているはずだが、仕方ない。シキは宿に部屋を取り、双子に留守番を頼んで荷物を託した。それから夕刻までには戻ると告げてエイルと共に町へ出た。
石畳に落ちる影がほんの僅かずつ伸びていく。広い路地の一角で、隊商らしい人たちが馬から荷物を降ろしていた。馬の傍に腰かけて靴の手入れをしている男に声をかける。朴訥そうな男だ。この馬に乗って旅をしてきたのだろう。日に焼けた肌は痛み、短くばさばさした髪も滅多に手入れなどしていないだろうと思われた。しばらく世間話をしていたが、そのうち男がシキに向かってにこやかに言った。
「そうかあ。いいとこのぼっちゃんを連れてねえ。そりゃ大変だ。うん、この馬はなかなかいいぜ。そう安くはしてやれないが、俺はもうしばらく使わないし、事情もありそうだし、それなりの値段で譲ってやるよ」
「ありがたい。助かるよ」
頼りがいのあるシキの背中を見ていると、一人でなくて本当に良かったとエイルは安堵する。ジルクに転移の術法をかけられたとき、シキが一緒に来てくれて良かった。自分一人ではきっと何もできなかったろう。そう思った時、クレオの言葉が思い出された。
――王子様って、一人じゃ何もできないんでしょう。
言い方に腹は立ったが、落ち着いて考えてみれば確かにそうかもしれない。侍女も従者も下男もいない。今までの暮らしとはあまりにも違いすぎる。日常のすべてはシキと双子がやっている。自分も何かした方がいいのかと思うけれど、言い出すきっかけも、何をしたらいいのかも、何もかも分からない。シキは今まで通り、自分を王子として扱う。けれど、こうして人と話す時は、王子だとは言えない。それはそうだろう。この国に、今、王子はいないのだから。では、自分は何なのだろうか。どうふるまうのが正しいのだろうか。こうして一人悩んでいる間にも、シキは男と馬の値段を交渉している。
「なんだこりゃ。ずいぶん古い金貨だな。ぴっかぴかだが」
「あ、ああ……それは、その収集品で、貴重なもので」
しどろもどろになっているシキの様子に、思わずくすりとする。城から持ち出した金貨はレフォア歴四百年代に発行された金貨であって、エイルの父であるエイクス王の肖像が彫りこまれている。現代の金貨とは違うはずだ。しかも真新しい。そんな状態で保存されている金貨はほとんどないのだろう。疑って眉をひそめていた男も、最終的には本物の金貨だと認めたのか、嬉しそうに表や裏に返して眺めている。結局、シキは金貨を少し譲り、代わりに馬一頭と使いやすい現代の硬貨を良い割合で手に入れたようだった。なるほど、ああしてやり取りするのだな、とエイルは感心した。
「ありがたい。色々と助かった」
「いやぁ、こっちこそ思わぬ商売ができて良かったよ」
男はそう言って、しわが刻まれた顔をくしゃりと歪めた。手に入れた馬は気性の良さそうな牝馬で、おっとりとした性格だった。「よろしく頼む」とシキがその首を優しく叩いてやると、鼻を鳴らして擦り寄ってきた。
馬を宿へ連れていき、外の厩につなぐと、今度は市場のある広場へ向かった。夕暮れ時、多くの買い物客に混じって店を順繰りに覗いていく。広場に並ぶ露店は、濃い茶に染められた分厚い布を地面に固定した杭に結びつけてあるだけの、簡素な作りのものが多い。大きな台車の上に、色とりどりの野菜や果物、干し肉などが並べられている。
「さぁさぁ、新鮮な果物と野菜だよ、珍しい果物もあるから見てっておくれ! 南国はルセール特産、ピークはいかが? 固い皮の中は果汁たっぷり! 美味しいミコルもあるよ!」
夫婦者が山盛りの商品の脇で、手を揉みながら客を寄せていた。
「お客さん、お安くしとくよ、どうだいひとつ! 試しにかじってごらん。美味いよ、このクナートは!」
威勢のいい声が頭の上から降ってきて、緑色のごつごつとしたものが勢いよく突き出される。エイルは突然現れたそれにどう対応していいかわからず、たじたじとなった。シキが前掛けをした男の手からクナートと呼ばれる小さな果物を受け取り、右腰の後ろから短剣を抜いた。
「ありがたく頂こう」
言いながら器用に皮をむいていく。すると中からつぶつぶとした黄色の果肉が現れた。それを一口かじってからエイルに手渡す。エイルはそれを受け取ると、シキが食べても大丈夫だとうなずいて示すのを確認し、思い切ってかぶりついた。果汁が滴るようなそれは、ほのかに甘い。
「どうだい、美味いだろ」
にんまりと笑う商人の親父に、エイルは黙ってうなずいた。
「はっはぁ、恥ずかしいか? 可愛い顔してるじゃないか、まさか女の子じゃないだろうな」
「無礼な」
「こりゃ失礼、だぁーっはっはっは」
エイルの、声を抑えた文句も聞こえなかったか、亭主は下品な声をあげて笑う。エイルは唇を尖らせて顔を背けた。高慢にも見える仕草だが、生まれ持った気品と無垢な愛らしさ故だろうか、嫌な感じはしない。
「亭主、じゃあこのクナートいくつかもらおうか。あと、これも」
シキが買い物をしている間、エイルはシキにぴったりとくっついて離れなかった。威勢よくクレオと喧嘩していた時とは別人のようだ。商人たちや行きかう人々はまるで別世界の人間のように思える。自分は彼らの視界にも入らない。例え相手にされても、町の少年と同じように扱われる。人々は冗談でエイルをからかい、大声で笑い、あまつさえがさつな手で触ろうとする。信じられない。もちろん我慢ならなかったが、エイルも馬鹿ではない。顔を背けるだけで騒ぎ立てることはしなかった。
果物屋の隣の店は、香辛料を売っていた。大きな麻の袋がいくつも地面に並べてあり、様々な穀物や木の実がぎっしり入っている。細かい粒のようなものあれば、茶色で細長いものもある。赤くて大きなものもあるし、紫がかった尖った筒のようなものもある。机の上に置かれたいくつもの皿には、さらさらとした粉状のものが綺麗に山にしてある。シキがそれらの一つに目を止めた。
「スクだな」
「お、兄さん、良く知ってるね。長旅なら欠かせないよ。どれだけ必要だい?」
「いやすまん、買うわけじゃない。珍しいなと思って」
「スクとは確か西の方で良くとれる穀物だったな。本で読んだ記憶があるが、本物は初めて見た」
エイルが独りごちた。スクという穀物は、乾燥させて粒状にしておけば非常に長く保存できる。また、再び水分を吸うと膨らむ性質があるので、スープに混ぜて食べると、少量でも腹持ちがいい。旅慣れている者で、スクを知らない者はいないだろう。西方、タースク地方で一年中作られている穀物である。エイルはスクの山に指を入れ、その触感を楽しんだ。実物に触れることは、知識を得るよりずっと強い印象を残す。これが、エイルにとって初めての、調理されていない穀物だった。
着替えを買うための店を探して歩く。旅装用の服と替えが一枚は欲しい。大きな外套があれば、いざという時の寝袋代わりにも、風除けにもなる。
「いやぁお客さん、お目が高い! これはいい品です。安くしておきますよ」
服屋の店主は愛想が良く、先ほどの果物屋や香辛料の店の男よりは上品そうだったが、口数は比較にならず多かった。エイルはこんなにしゃべるものかと面食らい気味である。
「……いやあ参った! お客さん、それじゃあうちも商売あがったりですよ、まさかそんな、食っていけません。いやいや本当ですよ。私もここで真面目に商売して三十年……ええ、そうですか。じゃあ仕方ない、これならどうだ! これ以上は引けませんよ、お客さん」
禿げ上がった頭をなでつつ、調子よくまくし立てる。シキはそれに引きずられることなく、無駄な金を払わずにすむよう粘り強い努力を続けた。そうしてようやく値段が決まった後も、店主は世間話を交えながらひっきりなしにおしゃべりを続けている。
「本当なんですよ、ねえ、さっき見てきましたけどね、お姫様がお帰りでってことでね。物見遊山だか何だか知らねえけど王族って方々はいいですねえ、我々庶民はそう簡単に旅なんかできやしませんよ。仕事があるしねえ」
もはやさっさと店を出たいのだが、布をたたむ手を止めては、あるいは勘定をしながら、店主の話はいつまで経っても終わる気配がなかった。
「いやいややってられませんよ、お客さんみたいないい人ばかりじゃありませんからね、こないだ来たお客さんが言ってましたけど、南のイルバではなんでも売ってるっていうけどその出どころは知れたもんじゃないし、人さらいだって出るってことでね、それがまた奴隷として売られたりするらしいですよ、物騒ですな」
いつまでも続くおしゃべりにエイルはもはや呆れ顔を隠してもいなかった。最終的に我慢が出来なくなったのか、シキの服を引く。
「このような無駄口はもう不要だ。行くぞ」
少年の不遜な態度に店主の口があんぐりと開く。シキは荷物を抱えると中途半端な愛想笑いを浮かべ、そそくさと店を後にした。
外に出ると、既に夕闇が色濃くなっていた。街角の松明に火を入れる男が、太陽神ハーディスの名を唱えながら、一つずつ火を灯していく。家々でも夕飯の準備をしているのだろう、煙突から煙とともに良いにおいが流れ出ている。
「ああ疲れた。なんだったんだ、あのうるさい男は」
服屋の店主の文句が口をついて出たと同時に、エイルの腹が空腹を訴えた。思わず顔が赤らむ。振り仰ぐと、シキは聞かなかった振りをしているようだ。
――シキも空腹のはずなんだがな。
シキは疲れた様子をちらりとも見せない。そもそも、サナミィの村からこっち、シキが自分の思いを話したり、愚痴をこぼすようなことはなかった気がする。城でもそうだっただろうか。今までは何も違和感なく、気づきもしなかったが、改めて考えてみれば、シキは超人のようだ。着替えの手伝いをし、食事の支度をし、天幕を張り、水を汲み、火をおこし、夜も火の晩をし、多くの荷物を持って歩き、時にはエイルを背負う。朝は必ず先に起きているし、夜ぐっすり眠っているシキを見たことがない。城下町についてからも、自分と同じように衝撃を受けただろうに、すぐに対応策を考え、休むことなく歩き、こうして買い物をしている。
「シキは、たくさんの事が出来るのだな」
ぼそりと呟いたエイルは、身長の高いシキを見上げた。その顔の向こうに、夕暮れの空が美しく広がっている。
「エイル様をお守りするのが私の役目です。そのためなら、何でも致します」
「う、うむ。だが、私は、どう応えればよいのだろうか。王族として。いや、私はもはや王族かどうかも分からぬし」
うつむくエイルに、シキは首を横に振った。そして、周りに聞こえないような声で囁いた。
「いえ、エイル様は私にとって間違いなく王子であられられます。いつも変わることなく。この先もずっと、エイル様は私の御主君です」
「……シキ」
「ご安心ください。エイル様はどうかそのままで。私はレフォアの騎士です。エイクス陛下に、そしてエイル様に、永遠の忠誠を誓いました。反乱の有無に関わらず、その誓いを破ることはありません。王子と扱えない時もありますが、それもエイル様のご安全のためです。どうぞお許しくださいますよう」
許すも何も、感謝している。そう思ったが、素直な気持ちを上手く言うことができず、エイルは唇を引き締めてうなずくだけだった。
「王宮にいた時と違い、色々な事がありますね。驚かれることも多いでしょう。お気持ちに沿えぬこともあるかと思いますが」
「分かっている。……平気だ」
シキがいれば。言葉にはできなかったが、想いを込めて、エイル=エルラート=レフォア殿下は笑顔で振り返った。青年騎士は、その気持ちを汲み取ったかのように優しく微笑んでいる。
夕闇迫る城下町は、今日も平穏だった。富める者も貧しい者もあるけれど、いつもと変わらぬ、落ち着いた暮らしを人々は営んでいた。そんな町中を、王子と騎士の二人は寄り添って宿へ向かった。
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