城下町から南へ延びる街道をまっすぐに進むと、やがてイルバの町にたどりつく。領主ダルケスが治める、街道筋でも格段に大きな町である。西はタースク地方、東はミュルク地方と繋がる街道の交差点に位置し、交通の要所として栄えていた 人の出入りも激しく、レフォアの中でも賑やかな大きな町として知られているが、何よりこの町を有名にしているのは様々な市場だった。イルバの市は、城下町で行われる季節市をしのぐ規模で、しかも一年中絶える事がない。扱う商品は多様で、「イルバで手に入らぬ物はない」というのが町の売り文句だ。果物、野菜、肉などの食料品や酒、調味料などは言うまでもなく、武器や防具、服、日常雑貨、絨毯、家具、宝飾品など、ありとあらゆるものがイルバにはある。大陸一の交易都市と呼ばれる所以はここにあった。
イルバで売っているのはそれだけにとどまらない。イルバの市の中でもとりわけ有名なのは奴隷市だ。イルバでは人的資源も手に入れる事が出来る。奴隷市と聞けば、可哀想な人々を極悪人が売り買いする……というような場面を思い描く人は多いだろう。実際、昔はそういった非人道的な取引が常態化していた。それを、代々のイルバ領主が時間をかけて浄化してきたのである。今では、口入れ屋と呼ばれる商人たちが領主の許可を得て奴隷市を開き、彼らはそこで、仕事にありつけない人々に仕事を紹介し、労働力を必要としている職場に人手を供給する。口入れ屋というのは、働き口と人手の仲介であった。この「奴隷市」というものがイルバ最大の特色である。
現領主のダルケスは、イルバを特に発展させた立て役者だ。若い貴族であったころから奴隷の需要と供給に関する問題に敏感で、非人道的な取引を摘発し、町の印象を明らかに変えた人物として、その功績は有名であった。レフォアへの税金も、イルバは多額の金と同時に、人的資源でも賄っている。
四人がこの町に姿を現したのは、雨の午後だった。太陽神ハーディスは厚い雲の向こうに姿を隠し、泣き虫の娘だと言われている雨の神レーヴェが、その涙で緑の大地を濡らしていた。石を敷き詰めた街道は土がぬかるむ事もないので、馬は順調に歩いていたが、人間の方はすっかり閉口していた。エイルが何度目かに「寒い」と呟いた時、大きな町の景観が水煙の向こうに見え始めた。
街道に立てられた看板には、町の名前と矢印がいくつか彫りつけてある。シキは、顔に当たる雨に目を細めながらそれを確認すると、馬を操って町の方向へ馬の首を向けた。
降りしきる雨の雫が髪や服を濡らし、絶え間なく水滴が滴り落ちていく。すっかり色が変わってしまっている布袋に雨が当たって跳ね、その不規則な音がまた彼らを憂鬱にさせる。シキは、自分の大きな外套をエイルにかぶせるようにしていたが、それでも降りしきる雨に、少年の髪や服は濡れてしまう。当然、シキの方はずぶ濡れであった。しかし彼は、そんな事を気に留める事もなく馬を進めていった。
いくつもの大きな丸屋根が目に飛び込んでくる。その個性的な建築物は市場として使われ、イルバの象徴ともなっている。雨の日にも関わらず多くの人々が労働力を買い求めて、また仕事を探し求めて建物の間を行き来していた。
町の入り口で馬を下り、馬屋の親父に馬を頼む。馬屋には馬をつなぐための杭があり、それぞれに番号がついている。街を出る時には馬をつないだ杭と同じ番号の札を渡せば馬を返してくれる仕組みだ。もちろん、いくらかの手数料は取られる。
馬を預けるとすぐに、四人は手近にあった宿屋に飛び込んだ。服を濡らしていた雫を払っていると、奥から宿屋のおかみさんが顔を出す。
「あらあらお客さん、大変だったね。着いたばっかりかい?」
「ああ。今日は朝からレーヴェに気に入られっぱなしで」
「すっかり濡れねずみじゃないか。ほらほら、こっち来て乾かしな」
大きな声と人懐こい笑顔に、人の良さそうな性格が見て取れる。大きく手招きされて、エイルは暖炉の前に駆け寄った。
「ぐっしょりだね。早く脱いだ方がいいよ。さ、脱いだ脱いだ!」
おかみさんはこともなげにエイルを抱きかかえるようにして、服を脱がせ始める。
「な、何をする!」
「なんだい、随分な口を利くじゃないか。子供は子供らしくしてりゃいいのさ」
おかみさんはそう言うと、エイルの服を強引に脱がせて暖炉の前にかけた。すぐに店の奥から乾いた服を持って来て、エイルに押し付けるように渡す。
「当分これでも着てなよ。うちの息子のだよ。お気に召すかわかんないけどね」
そう言うと、大きな口を開けて笑う。シキも双子もつられて笑ってしまう。エイル一人が納得いかない表情だ。それを見て、おかみさんは再び大声で笑い出してしまった。それへ向かって、シキは濡れた前髪をかきあげながら頼んだ。
「すまないが、部屋を貸してもらえないか」
「ああいいよ、四人かい? ちょいと狭いが、四人一緒でよけりゃすぐ入れるよ。どのくらいいるんだい?」
「しばらく滞在する予定なんだが、大丈夫だろうか」
「あいよ! じゃ、濡れた服を着替えてから降りといで。暖かいスープでも作ってあげるよ」
「それは有り難いな」
心底ほっとした顔のシキに比べ、エイルは仏頂面のままだ。着替えながら、小さな声で呟く。
「なんでシキは脱がされないんだ」
エイルは独り言のつもりだったが、聞こえていたらしい。おかみさんは笑いがこらえきれない。大柄な身体を縮めて我慢していたが、結局、どうにもならずに吹き出してしまう。口をふさいだ手から、くっくっくと笑い声が漏れる。その内、諦めて大声で笑い出した。笑えば笑うほど少年の気分を害すると分かっていても、その小生意気な態度に笑いをかみ殺す事が出来ないのだった。ひとしきり笑うと、目に浮かんでしまった涙を拭き拭き、言って聞かせる。
「あたしに、このお兄さんを脱がせろって? 坊や、無茶言うんじゃないよ。男の服なんて脱がせられるもんかね!」
「私だって男だ」
「あーっはっはぁ、こりゃあいいね! あんたはまだ子供だろ。まったく、面白い子だよ。さあさあ、とっとと上に行って濡れた荷物を乾かしてきな。二階の一番奥の部屋だよ」
相手にしてもらえないので、エイルにしてみれば憤慨の極みである。シキと双子が笑いをかみ殺している様子が見て取れる。顔を背け、口に手をあてて堪えているのだ。尚更腹が立つ。エイルは頬を膨らませ、唇を噛んで、階段を駆け上がった。双子がその後を追う。おかみさんは、笑い疲れた様子でシキに話しかけた。
「随分とこまっしゃくれた坊やだねぇ」
「ちょっとな。育ちのいい家の子なんだ」
「どんな事情があんのか知らないけど、あれじゃ世の中渡っていけないんじゃないかい。世間知らずってな、あの子のためにあるような言葉だよ」
しみじみとした言葉に、シキは苦笑するしかなかった。夕食も頼むと言って、金を先払いし、階段を上がっていく。その後姿を眺めながら、おかみさんはにんまりと笑う。
「脱がせられるもんなら、脱がしてみたかったね」
それから慌てて首を振り、自分で自分を笑い飛ばすとスープを作りにかかった。
「いない? そんなはずはない」
翌日、シキがエイルと共に買い物から帰ると、宿のおかみさんが双子は出かけたきり戻っていないと言う。おろおろするおかみさんをなだめ、しばらく待てば帰ってくるかもしれないからと部屋に入ったシキだったが、その表情は深刻だった。
「エイル様、これは由々しき事態かもしれませぬ」
「はぐれたか」
「あるいは、人さらいに」
「まさか」
「城下の服屋で店主が言っていたこと、覚えていらっしゃいませぬか」
エイルの顔がさっと青ざめた。
「イルバでは奴隷市が有名だが、その出どころが人さらいであることがある、という話か」
「そうです。あくまで可能性ですが……。慣れぬ街で、二人きりで外出など許すべきではありませんでした」
「町が見たいと言ったのはあいつらだ。シキの責任ではない」
「いえ、保護者としての責任があります」
「あいつらめ」
シキに要らぬ心配をさせ、手間をかけさせることになるなど、迷惑でしかない。エイルは苛立っていた。責任を感じるなと言ってもどうしようもない。
「この町の規模なら、軍か自警団があるだろう」
レフォアには警察組織はないが軍が常駐する。何か問題が起これば自警団か軍が行動するものだということをエイルは知識として知っていた。
「そうですね……自警団に尋ね人として張り紙を出してもらうことはできると思います。ですが、それでは時間がかかってしまいます」
「そうだな……しかし自力で探すというのも難しいだろう」
エイルに向かって黙ってうなずくシキは、しかし自力での捜索を考えていた。それにはもちろん危険が伴う。ゆえにエイルを連れていくわけにはいかない。だがエイルに話せば、どうしてもついていくと言ってきかないかもしれない。
――いずれにせよ、夜だな。
エイルは夕食後もシキから離れずにいたのだが、ふと気づくと椅子に座ったまま眠っていた。それを起こさぬように寝台に寝かせ、シキはそっと宿を抜け出してきた。
「さて」
どこから手を付けるか、シキは思案気に頬をなでた。双子の子供など相当に珍しい。さらわれて奴隷市、それも違法な闇市に出される可能性は決して低くはないとシキは考えていた。問題はどの市にいつ出されるか、それにどうやって潜り込むか、である。きちんと整えてあった髪をぐしゃぐしゃと崩し、上着の留め金をひとつ余計に外し、長袖を乱雑にまくる。いつも意識して伸ばしている背筋をややかがめ、首を少し前に突き出すと、騎士団の副隊長はガラの悪い町の若者になった。
「……こんなものかな。エイル様には見せられんな」
自嘲気味に呟くと、腰ひもに親指をひっかけて、大股に歩きだした。
人々は、「ハーディスとメルィーズが司る時間」を生きている。日の出とともに起き、沈むとともに寝る。暗くなってから火を灯すには油を消費するか、魔術師に頼むかである。魔術師と呼ばれる人々は、その昔、術の名前を唱えるだけで竜巻を呼んだり、火柱を上げたりすることができたという。が、今ではもうそんな技術は失われてしまった。彼らは今、便利屋として働いているに過ぎない。ちょっとした労働の手間を省くために、人々は魔術師に手間賃を払う。雨水から不純物を取り除くとか、重い荷物を運ぶ時に少し軽くするとか、そういったことである。火をつけるのもその一つであるが、油を使って火を灯し続けるのと、何も使わずに魔法で火を灯し続けるのは、どちらも金がかかる。そういったことから、夜中に火をつけている家は少ない。一般的な人々にとっては、日が沈んだら火を消して寝るのが常識であった。
しかしイルバのような大きな町では、通りにいくつも街灯があり、夜通し明るい。火を灯すのに高い金を払っても、客がより多い金を落としていくのだから、夜間も店を開ける方がいい。仕事を求める人々が街に溢れているのだから、人手が足りない事もない。イルバは今夜も盛況だ。いくつも並んだ店の窓から明かりと人々の声が漏れている。酒場などの人が集まる場所も、その多くが朝まで営業しているようだった。
町には数えきれないほどの酒場があるが、表通りに面するような大きな店は避け、吟味した結果、裏通りにある一つを選んだ。『デルファーナの店』と書いてある看板の下、大きな板扉を開けて中へ入る。店は半分地下に埋まっているような造りになっていた。石造りの建物は、外から見る分には周りとさして違いはなさそうに見えたのだが、中に入ると、床が低く作られている分だけ天井が高く感じられた。
夜半過ぎだというのに、この店も他の店と同じく満員御礼といったところだ。そこここで人々が杯を交わしている。シキはその中をかき分け、店の奥へ向かった。店主は一目でそれと分かる、恰幅のいい中年だ。ひげを生やした仏頂面で杯を磨いている。シキが銅貨を数枚置くと、低い声で「よう」と言った。
「レオニーくれ」
シキも短く酒を注文する。店主は、細長いガラスの杯に青みがかって澄んだ酒を注いだ。シキは透明な杯など見た事もなかったので戸惑ったが、悟られぬように平静を装う。杯は、どうやら店主のご自慢のようである。
「綺麗なもんだろう。そう手に入るもんじゃねぇ。……イルバは初めてか?」
「ああ。奴隷市が有名だそうだな」
店主は黙ってうなずく。愛想はあまり良くないようだが、初めての客だ、こんなものだろう。シキは肩をすくめると、少し背の高い木の椅子に腰掛けて店を見まわした。店内には多くの人がいるが、一段高くなっているこのあたりは少し静かだ。置いてある背の高い腰掛の内、半分程度が埋まっているに過ぎなかった。一番端は酔っ払いで、椅子にも座っているのかずり落ちているのか、はっきりしない。泥酔しているのか、真っ赤な顔に茶になりかかった金髪が散らばっていた。まくった袖から突き出す腕は太く、古い傷痕がいくつもある。時折唸るような声を上げているところを見ると、いびきをかいて寝ているのだろう。
そばに座っている数人は傭兵だ。身なりからそれとすぐ分かる。身につけた革の鎧にイルバの紋章が入っているから、今は領主の私兵として雇われているようだ。領主はダルケスという名だと聞いた。彼らが腰に挿しているのは飾り気のない、よく使い込まれた護身用の剣だ。鍛えられた体躯は若く、力が溢れているように見える。彼らはいかにもいい気分といった雰囲気で、大きな声を上げて笑ったりするかと思えば、また低い声で語り合ったりもしている。仲のいい戦友たちといったところだろう。
イルバの傭兵たちが席を立った頃には随分と夜も更けていたが、それでも店内の机の大部分はまだ埋まっていて、あちらこちらで歌や笑い声が湧きあがっていた。酒場の夜はますます佳境といったところだろうか。シキは観察を続けていたが、情報をもたらしてくれそうな者はあまり見当たらなかった。夜は長い。シキは相変わらず黙ったまま杯を傾けている。と、肌をあらわにした女が寄ってきた。
「こんな夜に一人で飲んでるなんて、寂しい人ね」
「そうだな」
「私でよければお相手するわよ」
女はシキの腰のあたりを舐めまわすように見た。
「随分立派なもの持ってるじゃない。ああ、その剣のことよ。旅の剣士さまかしら」
「女と遊んでいる暇はねえよ」
端的に言って片手で追い払う。女は汚い言葉を吐き捨て、シキの座る腰掛の足を蹴飛ばしていった。シキは片眉を上げるに止め、杯の中身をあおった。並びの席には新たな客が増えている。男たちが吟遊詩人を囲むように座り、その歌を聴いている。吟遊詩人の中でもセラベルと呼ばれる、歌専門の詩人のようだ。戦士たちの冒険を即興歌にしては誉めそやされている。シキは上の空で聞きながら、「たいした歌でもないな」と考えていた。しかしその歌声に周りの客も寄ってきて、セラベルはいよいよ調子に乗り出した。彼らが騒ぐので、シキはだんだんと追いやられ、仕方なく端の方に座る羽目になった。酔っ払いは、シキが席についた頃と同じ姿勢のままだ。相変わらずいびきをかきながら、机に突っ伏している。溜息を吐きながら、その隣に腰掛けた。
「この街で一番の情報屋といったら誰だい?」
店主に問いかけてみたが、答えはない。
「知りたいことがあるんだが。良かったら誰か紹介してくれないか」
言いながら店主に銅貨を数枚握らせると、店主は黙ったままあごで隣を指し示した。横を見ると、酔っ払が起きあがり、頭をかいている。
「なんだ兄ちゃん、俺に用だったか」
「情報屋?」
「ああ。ラグリアードだ。ラグでいいぜ。よろしくな兄ちゃん」
ラグは、今の今まで酔っ払って寝ていたとは到底思えないような口調で話し出した。赤ら顔はそのままだが、酔っているような様子はまるで感じない。シキは驚きを抑えて答えた。
「旅行者なんだが、最近このあたりで何か変わった事はないか」
「はっ、そういうのは吟遊詩人に聞きなよ。ほらちょうどいい、そこで歌ってるじゃねえか」
「誇張された物語が聞きたいわけじゃない。俺が知りたいのは正確な情報だ」
「ふぅん、情報ねえ……」
ラグはやる気もなさそうに頭をかいていたが、その目が店主に行く。シキはすぐに納得した。
「何かおごろう」
「悪いね。じゃ、あんたと同じのでいいよ」
「店主、レオニーをラグルに」
「あいよ」
店主はもう既に準備していた透明なガラス杯を差し出してくる。ラグは青く透き通った酒をちょいちょいっとなめた。
「イルバは初めてだと言ってたな、色男。女に興味はない、と。何が知りたい?」
シキと店主が交わした短い会話も、女とのやり取りも聞いていたのである。やる気のなさそうな態度だが抜け目のない男のようだ。くしを通したこともなさそうな髪は艶がなく、どうひいき目に見ても清潔ではない。綿の上着もしわだらけだ。しかしシキを見る目つきには、自分の客を見定めようとする鋭さがあった。
「事情があってな。人を探すならイルバだと聞いた。だが、俺の探しているのは……」
探るように相手の目をのぞき込むと、シキはもう一度酒に口をつけた。どう言ったらいいものか、言葉を選びながら逡巡する。
「そこらで容易に見つかるようなものじゃない」
「ふぅん」
杯を傾けるラグの様子は、何か隠しているようにも思える。求める情報がそう簡単に手に入るとは思えなかったが、今は些細な事でも知りたかった。この情報屋が本当に街一番かどうかは分からないが、尋ねてみる価値はあるだろう。シキは言い方を変え、いくつかの事を聞いたが、そのどれに対しても明瞭な答えは返ってこなかった。お互いに探り合う状態がしばらく続く。他愛もない話やくだらない噂話を繰り返している内に、シキにはある事が分かってきた。ラグはうまく答えをはぐらかしながら、時折店主に目配せをしているのである。よく観察していると、その度に店主がうなずいたりひげを触ったりする。どうやら何かの合図のようだ。
「こう聞いていると、イルバには何でもあるようだ。手に入らないものはない、というのは本当なんだな」
シキが感心しきったような顔でそう言うと、ラグはにやりと笑う。
「ま、金さえ出しゃな」
――なるほど。
シキは小さくうなずくと、相手の調子に合わせて低く囁いた。
「どうせ手に入れるならとびきりのものがいい。他では手に入らないような、一級品だ。そうだろう?」
ラグの目がかすかに光った。彼はまたも頭をぼりぼりとやっている。店主は別の客の相手をしながら、あごひげを引っ張っている。隅の席で起きている事など、素知らぬ顔だ。
「どうしても必要なんだ」
探るような目つきで睨むラグに、素早く銀貨を握らせる。手の中に目を走らせ、ラグは杯を空けた。そしてにやりと笑う。
「イルバで手に入らねぇ物はねえ」
しばらくすると、それとない様子で店主がこちらへやって来た。ラグと視線を交わすと、店主は低い声で言った。
「奥に行きな」
「案内するぜ、こっちだ」
言いながらラグが席を立つ。さっきまでどう見ても泥酔しているようだったのに、その足取りはまったくそれを感じさせなかった。酔っ払った人々の間を素早くすり抜けながら、音も立てずに歩いていく。
――どうやら、当たったようだな。
イルバでは金を出せばなんでも手に入る。情報も。商品も。そして人間も。連れて行かれる先には、恐らく特別な客を扱う商人がいるのだろう。
――面倒な事になりそうな気もするが。
腹をくくってラグに示された店の奥に入ると、一人の女が小さな机に向かっていた。長く細い煙管をくわえ、煙をくゆらせている。複雑に結われた髪に、とがった顎。細い身体にはぴったりとした服をまとい、露出させた足は美しく組まれている。なかなか魅力的な体つきであったが、その双眸は獲物を睨む蛇のように鋭い。シキはまとわりつくような視線から逃げるように目をそらした。
「とびきりの商品が欲しいって?」
煙の向こうから、なまめかしい声と舐めるような目つきを投げかける。シキはそれを無視して、部屋の隅々に目を配った。女がにやりと笑う。机に頬杖をつき、煙を吐き出した。細い目が、より細められる。
「ふふ、随分といい男ね。……どんな物がお望み?」
自分の女運がいいとも思っていなかったが、案の定と言うべきか、面倒なことになったと心の内で嘆く。
「珍しいものを探しているんでしょう? 特別な一級品を……。なら市場へ来るのがいい。本当は情報料がいるんだけど……いいわ、あんたなら教えてあげる。十二日の夜、もう一度ここへ、デルファーナの店へいらっしゃい」
「ここでやるのか」
「そうとも言えるわ。来れば分かる。間違っても口外しないで。もし情報が漏れたら、お尋ね者として、あんたの似顔絵が町中に貼り出される事になる」
「分かっている」
シキの言葉は気にも留めず、女は言葉を続けた。
「素晴らしい商品が世界中から届いてるわよ。今回は子供奴隷も扱うし」
子供。その言葉に反応したことを悟られてはならない。だがシキは当たったかもしれないと身を固くした。
「子供か。取り締まりが厳しいだろ」
「あんたが言わなきゃ大丈夫よ、ふふ。うちには腕っ節の強いのが多くいるしね」
そう言うと、もう一度白い煙を吐き出し、にぃっと笑う。ラグや店主より、こちらの方が手に負えないのは間違いない。
「情報料の代わりと言っちゃ何だけど……来て」
シキは油断なく一、二歩進み出た。女が立ち上がり、視線をひたとシキに据えたまま、ゆらゆらと煙を流して寄ってくる。その瞬間、逃げ出したくなるような悪寒がシキの背筋に走った。狭い部屋全体に、香の煙が満ちている。その煙と女から立ちのぼる香気で、頭がくらくらする。女はシキの目の前まで来ると煙管を机に置き、青白い指でそっとシキの腕に触れた。そしてゆっくりと指をにじらせる。彼女の細い指は蛇にも似て、シキの逞しい腕にまとわりついた。這い登ってくる指とともに、嫌悪感が背筋を走る。
「よせ」
言葉と同時に女の手を軽く振り払う。女は目を細め、すぐにまたしなだれるようにして両腕を首に絡めた。
「そんなに嫌わなくてもいいじゃない? あんた、本当にいい男ね……気に入った」
女がしなだれかかった時、シキの左腰で小さな硬い音がした。女は凍りついたように動きを止める。シキの左手が長剣の柄を握っていた。慌てて飛び退すさった女が指を鳴らす。すぐに部屋の扉を開けて大男が入ってきた。
「剣を取り上げな!」
先ほどまでの甘ったるい声とは打って変わった、きつい声で男に命じる。護衛兵が即座に飛び掛かってくる。それを軽い身のこなしでよけながら短剣を抜き、間髪入れずに相手の懐に飛び込む。相手はその素早い動きについていけず、真下から短剣を突きつけられて身動き出来なくなった。いきり立って腕を上げようとしたが、力を入れようとした瞬間、あご下に剣先が食い込む。傷から血が滲み、男の顔から血の気が引く。
「続けるか?」
護衛兵は恐る恐る両手を挙げ、降伏を認めた。シキは油断せず短剣を構えたまま身体を引く。左手は長剣の柄にかかったままである。女が部屋の隅で悔しそうに唇を噛んでいるのに目もくれず、シキは悠然と部屋を出て行った。
それから数日、シキは双子の情報を探し続けた。欲しい情報が手に入ることもなく、消息はつかめないままだ。デルファーナで行われるという市場で双子が見つかるという確証もない。シキはエイルが寝てからも双子の情報を求めて町に出た。疲労の色が日に日に濃くなっていく。
雲が朱に染まり、美しい朝焼けが空に広がっていた。既に夜が明けかかっている。ここからは見る間に明るくなっていくだろう。シキは一刻も早く宿に帰ろうと疲れた足を叱咤した。まだ寝てはいるだろうが、もし目覚めていれば、エイルはあの可愛らしい頬を膨らませているに違いない。
宿へ続く大通りに出た時には既に夜が明けきっていて、シキは小走りで道を急いでいた。朝市が立ち、活気に満ちた人々が行きかっている。宿屋までもう少しというところまで来た時、細い路地から突然何かが飛び出してきた。
「いってぇ!」
ぶつかって倒れたのは、まだ声も高い少年で、小さなつばの帽子をかぶりなおして立ち上がると、服についた土をはたいた。
「あーいて。すんませんね、よく見てなくって……へへ」
うつむいて照れくさそうに言うと、少年はそそくさと人混みの方へ立ち去ろうとする。その腕を、シキが素早く掴んだ。
「少年、ぶつかったのは俺も悪かった。だが財布は返してもらおうか」
「え、な、何言って」
うろたえる少年の腕を離さず、シキは真顔で詰め寄った。そのまま何も言わずに、少年が服に突っ込んでいる手を引っ張り出そうとする。少年は最初の内こそ抗っていたが、シキの力に敵うはずもなく、しぶしぶ右手を出した。服の中に、シキの財布が見える。
「巧いもんだな。うっかりしていたら気づかなかったかもしれん。さあ返せ」
「ちぇ」
舌打ちしつつ、少年は財布を渡そうとした。が、力が弱まった隙をついて身をひるがえし、路地の奥へ走り出す。シキは慌てもせず、すぐに追いついて少年の腕をひねり上げた。少年の身体は軽く、一瞬足が浮く。
「やってくれるじゃないか」
「痛ぇッ! 離せよ、離せってば! いってぇよぉ」
「離せば逃げるだろ」
「冗談、もう逃げねぇよ。いって……そ、そうだ、いい事教えてやるよ。今夜、デルファーナの酒場で闇市があるんだぜ」
「今日は十二日だな。その情報は知っている」
「ちっ。……あ、じゃ、じゃあさっ、それに同じ顔の子供が二人出るのは知ってるかよ?」
「同じ顔」
必死で言った言葉は、少年の予想以上にシキの注意をひいた。今まではちょっとからかうような顔つきだったシキの表情が一変したのだ。少年は、その変化を見逃さなかった。重ねて、早口に言い立てる。
「あぁそうさ、同じ顔だぜ。双子ってやつ? 見たことないだろ。めちゃくちゃ似てたぜ。気持ち悪いくらい。おいら見たんだから確かだよ。この状況で嘘はつかない。なぁ離してくれよ、財布も返すし、もういいだろ」
「離してはやるが、もう少し話がある。逃げずに聞くか?」
「聞く、聞くよ」
「次に逃げたら……」
「だから、もう逃げねぇって! ……とにかく離してくれよぉ」
少々泣き声になってきた。シキが腕を離すと、肩を押さえて恨めしげに見上げる。シキは視線にこめられた意図を無視して問いただした。
「その、同じ顔の子供はどこで見た? 何故お前がそんなものを」
「知り合いが奴隷たちの世話してるんだよ。今回は子供ばっかだし、おいらも手伝わされてんだ」
――彼らなのか。
行方不明になった双子。そう簡単には見つかるまいと思っていた。だがデルファーナの店で聞いた情報と、この少年の話を合わせると、間違いないように思える。同じ顔ということは双子だろう。双子がそうたくさんいるとも思えない。シキは今一度、少年に確かめた。
「本当に、同じ顔だったのか?」
「そっくり同じさ! 男の子と女の子で……あ、だから違うんだけど、いやあの、とにかく後はみんな同じさ。髪はこれくらい、肩までくらいではしばみ色、目も同じような色。声も同じ!」
「……なるほどな」
「なぁ、おいらもう行っていいかい? 金持って帰んないと親父にどやされるんだ」
「また掏るのか?」
「靴磨きなんかじゃろくに稼げねえもん。そんなんじゃ俺が親父に売り飛ばされちまわぁ。そしたら今度は俺が奴隷市に出されるのさ」
「そうか」
布袋から貨幣を取り出し、少年に手渡すと、少年は目を大きく見開いた。
「ぎ、銀貨じゃんか……! ほ、本物? もらっていいのかよ」
「やるわけじゃない。お前の腕を買いたいんだ」
シキの声が聞こえなかったのか、少年は手の上の銀貨をじっと見つめている。こんな大金は生まれて初めてである。普段使うのは銅貨ばかり。小さな銀貨を使った事はある。けれどその十倍の価値がある大きな銀貨となると、触った事はもちろん、見た事が何度かあるくらいだ。これがあれば一ヶ月分の食費にもなるだろう。緊張して手に汗が滲む。鼓動が大きく、早くなる。しばらくしてようやく落ち着いたのか、少年は顔を上げた。
「おいらの腕を買うってどういう事さ」
「知り合いが奴隷の世話をしてると言ったな。じゃあ鍵も持っているだろう」
「収監小屋の鍵かい? ああ、いつも腰にぶらさげてるよ」
「その中から、さっき言った二人が入っている部屋の鍵を持って来られないか?」
「えっ」
少年は絶句した。だが、口の中でぶつぶつ言いながら腕を組んで歩き回る。「でもそれは」「うーんと」「いや、やっぱり」などと呟きながら、しばらくうろうろとしていたが、最後にはこう言った。
「あいつは毎日飲んでるし、酔って寝てる時に取れば……うん、出来るとは思うよ。……でもさぁ」
「取ってきたら、銀貨もう一枚」
「やる」
即答してから、しまったぁ……という顔でシキを見上げる。シキは笑って「頼むぞ」と言った。少年は肩をすくめて、苦笑する。帽子をかぶりなおすと、シキの宿を確認してから去っていった。
その部屋は薄暗く、湿っぽい匂いがした。床は土で、ぬかるんでいて、冷たい。裸足なのがとても辛い。左右の足を交互にさすってはいたが、いつまで経っても温まらなかった。部屋には小さな椅子が一脚置いてあったが、それには妹を腰掛けさせていたので、自分は壁に寄りかかって、もうずっと長い間立ちっぱなしでいる。濡れた土の床に座る気にはなれなかった。部屋の壁は三面が煉瓦で、残る一面が鉄格子だ。顔を出す事も出来ない幅で埋め込まれている金属の棒。外を覗くと、暗く狭い廊下を隔てた向かいにも同じような部屋があり、やはり子供が入れられている。
「ねえ、いつになったらここから出られるのかな」
妹が、これまでに幾度もした質問を繰り返す。兄も、同じ答えを返すしかなかった。
「そんなの……分かんないよ」
それほどひどい取り扱いを受けたわけではなかった。労働力として扱われる奴隷たちに比べれば、むしろ良い扱いだったと言わなければならない。しかし、彼らは売られる立場になった事などなかった。それは言葉に出来ないほどひどい気持ちだった。
子供たちは恐怖に怯えながら、ただ何かが起こるのを待つしかなかった。はしばみ色の瞳が、他の子の瞳と同様に、不安で揺れている。時間は静かに経過していき、言い知れない不安が子供たちの上に重くのしかかる。
長い廊下の突き当たりにある、金属の扉が音を立てた。多くの視線が吸い寄せられる。姿を現したのは背中の曲がった男だったが、扉の向こうが明るいせいで表情は分からない。男は扉を半分ほど開け放したまま、のそのそと廊下を歩いてくる。唾を飲み込んだ音がやけに大きい気がする。男は一番奥の牢屋まで来ると、格子越しに手を突っ込んできた。不恰好な手に、袋から取り出した硬そうなパンが握られている。
「ほれ、これでも食え」
牢の中の兄妹は顔を見合わせ、一人が小さくうなずくと、もう一人がおずおずと進み出てそれを受け取った。
「ど、どうもありがとう」
「仕事でやってんだけだ。夜まで大人しくしとれ」
「あの……」
「あんだ?」
「俺たち、これからどうなるの?」
「売られんだよ。すげえ金持ちにな。きっと可愛がられるさぁ。ええ服着せられて、ええもん食えるさな。ま、おいらは頼まれたってごめんだがなぁ、ふぇっふぇっふぇっ」
気持ちの悪い、掠れた声で笑うと、男は隣の牢へ行ってしまった。そして同じようにパンを格子に突っ込んでいく。やがてすべての牢屋に粗末な食事を届け終えると、男は腰の鍵束をがちゃつかせながら去っていった。外の明かりが差し込んでいた廊下は、男が鉄の扉を閉めると共に、再び暗くなる。子供たちの緊張は解けたが、扉の閉まる音にいくつもの溜息が重なった。一番奥の牢の中では、同じ顔の兄妹が、他のすべての子供たちと同じように意気消沈していた。
デルファーナの酒場の一番奥には布で隠された扉があり、大きな錠前がかけられていた。主人に合い言葉を言えば案内される仕組みだが、錠前を開けてもらうためにはもう一つの難所がある。リンのいる小部屋である。彼女の許しがなければ扉の内へ入るわけにはいかない。「デルファーナの蛇」と呼ばれる女は、その細い目で客を眺める。「奥」へ入る資格があるかどうか、客の品定めは彼女の仕事だった。
資格ありと認められた人間はようやく扉に手をかける事が許され、地下へと続く廊下に出る事が出来る。廊下には油の燃える臭いが漂い、先へ進めば酒場の喧騒も遠くなっていく。徐々に下りになる坂道は何度も曲がりくねって客を導く。一体どれほど歩いたのだろうかと心配になるほど長い間、客はその静かな廊下を歩いていく。やがて、その目に分厚い金属扉が映る。それこそ、選ばれた客のみが辿りつける闇市への入り口だった。
扉に鍵はかかっていない。しかしそれを開けるのは一筋縄ではいかなかった。その厚みと重みが、何よりの障害となるからだ。客を案内してきた護衛兵が渾身の力を込めて扉を引く。すると、人々のざわめきと杯や食器がぶつかり合う音が耳に飛び込んで来る。
部屋はさほど広くない。低い天井は壁から続く煉瓦造りで、ところどころ焦げたような跡がある。丸い部屋を囲んでいる壁にはいくつかの窪み、アルコーブがあった。部屋の明かりはアルコーブの中まで照らさない。机に置かれた小さな燭台の明かりが、そこに座る人々の影を壁に映し出している。部屋中に広がる煙草の煙は、明るいはずの室内を煙らせて視界を遮り、あちこちで焚かれている香の煙が鼻につく。
所狭しと置かれた机や椅子。男たちがその大半を埋めて座っている。彼らは肌も瞳も髪も、色はまちまちだったが、共通しているのはその雰囲気だった。昼間の陽光の元ではどんなに正直そうに見える事だろう。しかし夜中のこの場所では、どう親切に見ても、善良な商人には見えなかった。彼らはひそひそと低い声で商談を取り交わし、油断のない目をあたりに配っている。強欲な悪徳商人、暴利を貪むさぼる高利貸し、多くの奴隷を酷使する大地主などなど、まずまっとうな生活はしていない。身につけているものはどれも高級品で、大抵は横に奴隷をはべらせていた。ひどい者になると、その首にひもをくくっている者までが平然と座っている。しかし誰もそんな事を気にも留めない。ここは人道という言葉が存在していないかのようだった。
アルコーブに身を沈めている者たちは、更に怪しげだ。豪奢な、色とりどりの服をその身にまとっている。宝石を縫いつけた仮面などで、顔の半分以上を覆っている者も多い。彼らは暗く沈んだ影の奥から目を光らせている。顔を知られてはならない身分の者たち。側仕えがアルコーブを出入りし、食べ物や酒の注がれた杯を運んでいる。
机や椅子に陣取った人々の隙間を縫うように下働きたちが忙しく立ち働いている。部屋の奥の方には一段高くなった台が設置されていた。今ちょうど浅黒い肌の男が壇上に上がってきたところである。男が指を鳴らすと、台の奥の通路から申し訳程度の布を身に着けただけの女性が数人現れた。彼女たちが台の上で踊りだすと、その手で鳴らされる鈴つきの太鼓が派手な音を立てる。客がその音で舞台を注視すると、待っていたかのように踊り子たちはひっこみ、司会の男が台の中央で口上を始めた。
「続いて参りましょう。次の商品でございます。皆様もご存知でしょう、伝説の狂王と名高いレガリアル二世。彼が使っていたとされる金杯でございます」
言い終わると、薄布で顔を覆った女が赤い布に包まれた商品を捧げて壇上に上がった。わざとらしくもうやうやしい様子で布を取り除くと、客の間から溜息と賞賛の声が漏れた。金で作られた杯の表面には大粒の宝石がいくつも埋め込まれ、燦然さんぜんと光り輝いている。客の中には壇のそばへ寄ってよく見ようとする者もいたが、大柄な護衛兵に押し留められる。
「どうぞ」
司会が言うと同時に部屋のあちこちから声が飛んだ。イルバの町で行われる通常の競りとはまったく違う形式の、闇競りと呼ばれるやり方である。通常、競りに参加する人々はごく静かに、決められた仕草を手で示す。しかしここでは口々に金貨の枚数を言い合い、声を上げる。アルコーブの中の者は黙ってその様子を見物し、彼らの代表となる者が台の近くで戦うのが通例だった。声は少しずつ減ってゆき、最後は数人の戦いになる。レガリアル二世の金杯は、右隅の机に座っている男が競り落としたようだ。最後まで粘っていた太りすぎの商人は、舌打ちをして背を向ける。
「繰り返しますが、商品はどれも明晩のお引き渡しとなっております。必ず仰った額だけの金貨をお持ちになって、再度ご来店下さいませ。……では引き続いて参りましょう。次は薬でございます。遥か海を越えて伝わりました貴重品。ガゾックの根をすりおろしまして粉末に致しました」
司会の言葉に人々はざわめきたった。
「ガゾックの粉か! 熱病をたちどころに治すという」
「飲みすぎれば猛獣クルイークをも殺すほどの毒薬になるというではないか」
「扱い方を間違えれば持ち主も危ないと言うな。そのガゾックの粉に、こんなところでお目にかかれるとは」
「これは是が非でも落とさなくてはな。使い道は……」
騒ぎが収まるのを待って司会の男が再び口を開く。
「皆様もご存知の事と思いますが、ガゾックは非常に高価なものでございます。今回は運良く手に入れる事が出来ましたが、次はいつになるやもわかりません。それをお考えに入れた上でお値段をどうぞ」
値段はあっという間に吊り上った。客はみな上限を知らぬほどに熱狂し、競り落とそうとしている。
レフォア金貨は、馬一頭を二枚で買えると言われる。それが今や、たった一袋の粉に対して十枚二十枚と上がっていく。既に手を引いた末席の商人たちは、口の端をゆがめてその様を見ていた。恐ろしい事になってきたと小声で言い交わしながらも、彼らの目は事の成り行きを楽しんでいる。
結局、どこかの貴族が競り落とす事に成功したようだ。かなりの代償だったのだろう。同じ席についている女性が慌てた表情を浮かべている。が、彼は満足そうな笑みを見せた。彼がそれをどう使うのか、それは今夜ここに集まった客には関係のない事。彼らは既に次の商品に目を向けている。
「さて、いよいよここからが本番でございます。どなた様もご注目下さい。他では手に入らぬ最上級品をご用意致しました!」
踊り子が増えて、鈴と太鼓をせわしく鳴らした。身体をなまめかしくくねらせて、彼女たちは踊る。台の奥の通路から、滑車に乗せられた檻が運ばれてきた。踊り子たちは一層激しく腰を振り、客の熱気を煽る。人々は身を乗り出して壇上の檻に入っているものを眺めた。その目はどれも食い入るように、檻の中に吸いつけられている。
最初に出された檻の中には、透けるような白い肌の幼女が座り込んでいた。流れるような白金の髪はこの世の者とも思われぬほど美しく、怯えきった目は薄い紅色だ。彼女はまるで陶器で作られているかのように綺麗で、儚げだった。
客は先ほどよりも更に熱くなって競りにかかった。最初の「商品」を競り落としたのは尋常ではなく太った男で、舌なめずりをしている。彼女の行く末に、正常な人間なら身の毛もよだつだろう事が待っているのは明白だった。
次々と少年や少女が引き出され、競り落とされていく。公の奴隷市なら、子供を檻に入れて競りにかけるなどという事は到底許されない。しかしここには疑問や憐憫、また怒りを覚える者は誰もいない。
「さて皆様、お待たせ致しました。本日の目玉商品です! 大変珍しい最上品ですよ。滅多に見られぬ、同じ顔をした二人、つまり双子でございます!」
司会の男が興奮した声を張り上げると、踊り子たちが一斉に鈴と太鼓を鳴らし、護衛兵が二人を檻の中へ放り込む。客は一斉に檻を覗き込もうと身を乗り出す。檻の中では双子が小さく身を寄せている。小さく言い交わす声が震えていた。
「どうしよう……どうすればいいの? ねえクリフ」
「そんな……僕だって分かんないや」
「誰か、誰か助けて」
「クレオ」
二人はお互いの手を握り締めたまま、好奇の視線に晒され続けた。やがて競りが始まり、値段がどんどんと上がっていく。客の声が高まり、興奮を帯びるに連れ、絶望が彼らに近づいてくる。
「四十五が出ました。これだけですか? ここまで一緒に育った双子はよそで見られませんよ。同じ日に、同じ母親から生まれたのです! 今を逃がせばもう手に入りません! 使い道は色々、ご自分で可愛がるもよし、収集家に売り飛ばすもよし、賄賂として貢がれるのも大変効果があると思われます。さあ、他にございませんか?」
「よし、五十出そう」
「六十二だ」
「六十四」
「ええい七十だ! 双子は俺がもらった」
金額は止まるところを知らぬ。これほど珍しい掘り出し物はないと、客は嬉々として競り落としにかかり、檻の中から見るその景色はおぞましいとしか言いようがなかった。
「シキ様……どこかで噂を聞いてないかな」
「大丈夫、絶対助けに来てくれるよ」
「うん……」
「きっと、きっと助けてくれる」
二人は運命の神クタールに祈り、助けが来るのを待った。彼らには待つ事しか出来なかった。持ち物はすべて取り上げられ、身につけている薄布の肌着以外、彼らは何も持っていない。どれだけ考えても、彼らがここを抜け出す方法があるようには思われなかった。今、彼らが出来る事は奇跡を信じ、助けが来る事を待つだけだった。
双子を競る声は、かなり数が減ってきた。時折、力の入った声がかかる。
「百十八……百二十……百二十二……百二十五ですか。そちらの方、百二十五。他の方は? よろしいですか」
司会の男は、背の高い男から太った商人へと視線を移した。最後まで競り合う気でいるのは二人きりのようだ。他の人間は固唾を呑んでその様子を見守っている。
「……百二十八だ」
「百二十八ですね。もうありませんか?」
司会が黙って会場を見渡す。小さな息遣いと緊張感が部屋中に満ちていた。背の高い中年男が歯を食いしばって司会を睨みつける。
「なければこれで」
司会が言いかけた瞬間、鋭い叫びが上がり、そしてそれが決定打となった。
「百三十ですね。よろしいですか。……では決定します!」
懸命の祈りは届かなかった。助けは来なかった。驚愕と恐怖が彼らを打ちのめす。クリフは呆然とその場に立ち尽くし、クレオは力の抜けた足を抱え込むようにへたへたと座り込んだ。金貨百三十枚という大金をはたいて双子を手に入れる事になった男は、その顔ににんまりと勝利の笑みを浮かべ、負けてしまった太った商人は肉厚の手で机を強く叩いた。
護衛兵の太い腕がクリフとクレオをあっさりと掴みだし、次の犠牲者となる少年を檻に入れた。そして、司会が再び声を張り上げる。
「それでは次の商品に参りましょう! さあ、これへ出て参りましたのは……」
ぎりぎりで競り負けた商人は、ゴダルという男だった。その容姿には西国出身だと言わしめるような特徴がある。背は低く、骨太な体つき。縮れた髪には白髪が混じり、たるんだあごにはやはり縮れたひげが蓄えられ、くすんだ灰色の目はどんよりと鈍い光を放っていた。
レフォアの西方、タースク地方では滅多に雨が降らない。領民は昔から難儀していた。若い商人であったゴダルは、レフォアの東方ミュルク地方に目をつけた。タースクからは遠いが、雨には不自由しない地方である。彼は当時の財産をはたき、長旅を開始した。そして、大量の水をタースクまで運ぶ手立てを見出したのである。危険な旅であったが、彼は成功した。
その成功を目の当たりにし、他のタースクの商人たちも次から次へと真似をし始めたが、彼らは皆、謎の死を遂げていった。それがゴダルの仕業である事は誰の目にも明らかであったが、告発する者はいなかった。みな、恐ろしかったのだ。ゴダルはその時既に、タースク領主よりも権力を持っていた。それも当然だろう、領主すらゴダルの運ぶ水がなければ生きていけなかったのだ。ゴダルは対立する商人の雇った暗殺者から逃れ、レフォアに移り住み、大きな屋敷の中庭にそれは見事な噴水を作らせた。雨の降らない季節にも、ゴダルの噴水から水が絶える事はないと言う。
そのゴダルが屈強な傭兵一人を連れて、闇市の終わった直後に現れた時、店主の胸に嫌な予感がよぎった。それも無理はない。ゴダルは最後まで双子を競り合っており、競り落としたのは別の人物。力づくでも欲しい物を手に入れる、それがゴダルの性格だ。
競り落とされた商品の引き渡しは、市の行われた日の翌日以降と決まっている。商品と値段、競り落とした人物を照らし合わせるからである。また金が用意出来ぬ者もいる。競りの場ではつい熱くなり、高額を支払う事になってしまったが、実際にそんな金を用意出来ない……そういった事もある。そのために、金をきちんと持って来た者にのみ、商品を引き渡す事になっていた。しかし時折、商品を横取りしようとする輩が現れる事もある。ゴダルは以前にもこうして闇市直後に現れた事があった。
店主は帳簿つけが忙しいような振りをしていたが、ゴダルはそんな事にはお構いなしである。重そうな年代物の杖でそこらのものをつつきながら、話しかける。
「今日わしが競り落としたのは魔剣ジュリウスだったな」
「これはゴダル様。仰る通りでございますが……商品のお引き渡しは明日以降でございますよ」
「そんな事は分かっとるわ。わしがここに来たのはその件ではない。別の商品を見せてもらいに来たのだ」
「別の、と申されますと……。市は既に終わり、すべての商品に買い手がついておりますが」
「あれだ、同じ顔の奴隷だ」
「双生児でございますか。あれは」
「下らぬ事は言わんで良い。店主、百四十出す。あの双子をわしに売れ」
「ゴダル様、それは出来かねます。相手方に申し訳が立ちません」
「わしが文句は言わせんよ」
「……店の信用に関わりますので」
「黙れ。わしを誰だと思っておるのだ。百四十枚の金貨を出すと言っておるのだぞ。ぐだぐだ言わんと案内せい! おいバルタゴス!」
ゴダルが合図をすると、すぐ後ろに控えていた傭兵が店主の襟首を押さえて店から連れ出した。店主はしぶしぶと彼らを牢へ案内した。
牢へ入る鉄の扉の前には、それを覆うような形で小さな小屋が建てられている。中には机と、仮眠出来る程度の小さな寝台が置かれているに過ぎず、そこに背の曲がった男が一人、入り口に背を向けて眠っていた。ゴダルはつかつかと小屋に入り、杖で男の背を強く叩く。慌てて跳ね起きた牢番はきょろきょろとあたりを見回した。
「いたた……。あ? こんな夜遅くに何の用ですかい」
背をさすりながら聞いたが、ゴダルは牢番の言葉に耳も貸さぬ様子である。
「おい貴様、鍵を開けろ」
「鍵って……え、いやいやそりゃ駄目でさぁ」
「早くせい!」
「へ、へぇ」
牢番は傭兵バルタゴスが大剣に手をかけるのを見ると、首をすくめて丸い背を一層丸めた。怯えた様子で腰の鍵束を手に取る。そんな小屋の様子を、物陰から小さな影が見ていた事には誰も気づかなかった。影は慌てた様子で帽子をかぶりなおすと、すぐにどこかへ走り去った。
牢番がもたついている間に、バルタゴスから解放されていた店主はそっと後ずさった。小屋から出ると、胸から下げた小さな笛を吹く。ゴダルたちが甲高い音に気づいて小屋から出てくると、外には四、五人の男たちが姿を現していた。護衛のために店主が雇っていた兵たちである。一様に剣を抜き放ち、じりじりと迫る。店主はしてやったりといった表情で高みの見物を決め込んでいる。牢番はといえば、恐ろしさの余り小屋の中から出られずに、ただ怯えるばかりだ。店主が勝ち誇ったように告げた。
「ゴダル様、決まり事を破ってもらっちゃ困りますな。傭兵をお連れだったようですが、たかだか一人では、この数に敵いますまい」
しかしゴダルは平然としたままだ。その口の端には笑みさえ浮かべている。危ぶんだ店主が号令を下す前に、バルタゴスが指を鳴らした。どこに潜んでいたのか、ゴダルの傭兵たちが十数人、その姿を現す。店の護衛兵と店主は逆に取り囲まれる形になってしまった。
「わしがたった一人の供で商品の横取りに来るとでも思っていたのか、めでたい男だ」
ゴダルはせせら笑い、すぐに厳しい声で言った。
「貴様ら、こういう時のために高い金を払っているのだぞ! 誰にもわしの邪魔をさせるな。バルタゴス、中へ入るぞ」
雇われている傭兵たちはゴダルの命令に従って剣を構え、包囲する陣形を取った。例え悪事を働こうとも、傭兵にとっては仕事をくれる主人がいい主人と言える。彼らは言われた仕事をするだけだった。
形成はすっかり逆転した。ゴダルの傭兵たちは、店が雇った護衛たちとの距離を詰めていく。ゴダルとバルタゴスは牢番から鍵の束を奪い、かびくさい牢へと入っていった。店の護衛たちはそれを止める余裕もない。誰かが口火を切るのを待って、目を光らせている。しばらく沈黙が続いたが、ついに一人が切りかかり、それを合図にするように戦闘が始まった。
戦闘から距離を置いた店主は、この事態にどう収拾をつけるべきか必死で考えを巡らせた。人数的に、形勢は不利だ。しばらくすればイルバ兵が騒ぎを聞いて駆けつけてくるだろう。違法な闇市のことや子供の奴隷のことが知られて商売が出来なくなる可能性もある。まずい、これはまずいぞ。店主が慌てているところへ、一人の青年が現れた。背が高く、鍛え抜かれた体躯の男は、迷う事なく店主に歩み寄る。目の前の戦闘に驚く様子でもない。青年は腰に長剣を携えていた。その軽装には似つかわしくない立派な長剣である。男は、店主のところまで来ると簡潔な言葉を口にした。
「『商品』が連れて行かれては困るのだろう。助太刀する」
「えぇ? あんた誰……いや誰でもいい、止められるもんなら止めてくれ!」
青年は小さくうなずくと、戦いの輪に近づいていった。
戦闘は既に終わりの兆しを見せていた。店主が呼んだ護衛は最後の一人になり、腕に切り傷を負っている。ゴダルの傭兵たちがそれを取り囲んでいた。傭兵頭と見える男が先頭に立って護衛を追い詰めている。服は敵の返り血によってか、あちこちに赤黒い染みが出来ている。傭兵頭は血のついた左手で顔を拭うと、にやりと笑った。敵をすべて殺す必要はないはずだったが、彼は流された血に、また戦いそのものに酔いしれているのだろう。興奮のあまり喉を鳴らし、いよいよといった感じで剣を振り上げる。そこに、静かな声が響いた。
「それ以上やる事はあるまい」
傭兵頭は声の主に一瞬目をやったが、気にする事もないように剣を振り下ろす。それを防ぐ事も、避ける事も出来なかった護衛の最後の一人は大剣に叩きのめされ、ぐったりと頭を垂れた。傭兵頭が、ゆっくりと振り返る。
「貴様にゃ何の関係もない事だ」
凄みのきいた声に動揺する事もなく、青年はごく落ち着いた口調で切り返した。
「殺すことはなかっただろうに」
「うるせぇ。お前も、やろうってのか。いい度胸だ」
闘志を湧き立たせるその言葉に同調するように、傭兵たちはみな剣を取り直し、青年に向き直った。場に新たな緊張感が漲みなぎる。青年は、抜き放った重そうな長剣を事もなげに構え、相手を睨みつけた。
「やり合いたいわけじゃないんだがな。……まあいい、俺の剣の前に出るなら容赦はせん」
二人の傭兵が口々に叫びながら飛び掛かってきた。
「小癪な事を!」
「なめた口を利くな!」
男は無駄のない動きで一人の剣を交わし、その肩に長剣を叩きつける。力を込めて切り下げ、それを抜いた勢いで二人目の剣を受ける。力強く跳ね返して腹に叩き込む。傭兵は青年の剣の元にどうと倒れた。その身のこなしと剣のさばきに、残った傭兵たちはざわついた。唾を飲んで一、二歩後ろへ下がる。青年は逆に一歩進み出た。対峙する剣に隙はない。
傭兵たちは互いに間合いを計っていたが、最終的に先ほどの傭兵頭が沈黙を破って打ちかかった。剣士は鋭く身を沈め、それへとばかりに傭兵頭は剣を振りかぶる。その刹那、視界から青年の姿が消えた。剣を振り下ろしながら踏みとどまり、慌てて振り返った傭兵頭の目に剣のひらめきが映り、それが、彼の見た最後の景色となった。次の瞬間には、青年に向かって幾つもの剣が振り下ろされたが、剣士はそれらをすべて避け、そしてまた傭兵の一人が彼の剣に切り伏せられた。一連のことが瞬く間に行われ、店主は固唾を呑んで見つめていた。
騒ぎを聞きつけたのか、それとも近隣の住民が通報したものか、イルバ兵が集まってきていた。よく訓練されている精鋭であり、軽く動きやすい革製の鎧を身につけ、細身の剣を腰に挿している。そのすべてにイルバの紋章が刻印されていた。
店主がやはりまずい事になったと舌打ちをしている時、予想外の事が起きた。領主ダルケス自身までがその場に現れたのである。洗練された服の襟元に洒落たスカーフをのぞかせ、濃い灰色の髪は綺麗に撫でつけてある。髪と同じ色の口ひげはきちんと切り揃えられていた。年の割には張りのある肌で、青い目は知的な色をたたえている。その領主の姿を認めて、店主は再び舌打ちをして唇を噛んだ。
「私の町で争いは困るな」
「いや、その、競り落とされた商品をゴダルの旦那が横取りしようとしなさってね。あちらの傭兵どもにうちのが襲われまして」
「分かっている。ゴダルについても内偵を進めていたのでね。ところで、今あそこで傭兵たちを相手にしているのは誰かね」
「知りませんよ。突然出てきて、助太刀してやるって」
「素晴らしい身のこなしだ。きちんとした剣を習った者の動きだな。……ところで店主、取引された商品のことだが」
――ち、やはりそう来たか。
内偵していたというなら、禁止されている子供の奴隷を扱っていたことも恐らく分かっているだろう。あえて聞いているのだ。店主は顔を歪めた。
今夜のような揉め事は、この町ではちょくちょく起こることだった。そういった時にダルケスは奴隷取引禁止法を建前に、商品を取り上げることがある。商人たちからすると、体よく上前を跳ねられるということになる。争点の的になっている「商品」が子供の奴隷だという事を言わせると、ダルケスはその口元に笑みを浮かべた。ただし目は笑っていない。
「困るな。この私の目の届く範囲で、認可されていない奴隷市とは。分かっているだろうが、本来ならば今夜の市で扱った商品すべてが取り上げだ。まあ、この騒動自体はゴダルの責任だ。そういう意味でお前たちに不備はない。……子供奴隷だけで許してやる」
ダルケスは恨めしく睨む店主に目もくれず、イルバの兵たちに合図を送った。精鋭たちはゴダルの傭兵を取り押さえにかかる。
その様子を見て取った青年剣士は素早く牢の中に入って行った。最奥では、ゴダルとバルタゴスが双子の入れられた牢に合う鍵がないかと、鍵束の鍵を片端から扉に差し込んでいる。しかし彼らは、まだ目的の鍵を見つけられずにいたようだ。青年の姿を認めると、ゴダルはバルタゴスに向かって喚きたてた。口の端から唾が飛ぶ。
「あ、あいつを止めておけ!」
誰かが入ってきたということは、もう外に傭兵が残っていないということである。これだけ騒いでいたのだから、イルバ兵も来ているだろう。双子は諦め、自分だけは何とかその場を逃げだそう。そういう姑息な考えである。ゴダルは鍵束を投げ捨て、バルタゴスを盾にすると、牢の出口へ向かって駆け出した。
そんな主人に忠義を立てているのかいないのか、バルタゴスは音を立てて唾を吐き捨てると、剣を構えた。しかしその剣は大きく、低い天井の牢で振り回すようなものではなかった。すぐにバルタゴスは大剣を投げ捨て、短剣をいくつか取り出した。距離を取り、続けざまに投げる。しかしいくつかはかわされ、いくつかは剣で叩き落されてしまった。ならばと青年に飛び掛かかったが、相手の持つ長剣がその邪魔をする。立ちすくむバルタゴスに駆け寄り、青年が剣を振り上げる。両腕を交差させ、なんとか防ごうとした。が、剣は一瞬の内に向きを変え、腕の隙間から入り込む。バルタゴスが気付いた時には切っ先が喉元に突きつけられていた。バルタゴスは歯を食いしばって青年を睨みつけた。
「殺せ」
「お前を殺す意味はない」
そう言いながら青年はあっさりと剣を引く。バルタゴスの目が大きく見開かれた。
「馬鹿な事を言うな! 俺は負けたではないか」
「俺は勝ったら切るという人間じゃない」
そう言いながら、剣は構えられたままだ。切ろうと思えばいつでも切れる、ということだろう。額に青筋を立てたバルタゴスは、余りの悔しさに歯噛みした。青年は一歩下がり、あごで外を指し示す。バルタゴスは唇をわななかせ、外へ向かった。だが外にいたイルバ兵と揉み合い、やがて取り押さえられたような気配が伝わってくる。
シキは鉄格子の向こうに二人の姿を確認すると、息を吐いて剣をぬぐい、鞘に収める。懐から取り出した鍵で扉を開けながら、牢の中で泣きそうな双子を安心させるように言い聞かせた。
「あいつらには開けられなかったんだ。この鍵は知り合いの少年が手に入れていたからな。そして、ゴダルがお前たちを連れ出そうとしている事を、宿まで教えに来てくれたんだ」
牢が開くと、クリフとクレオは感激に体を震わせ、頼もしい助けにすがりついた。力強い腕と笑みが二人を受け止めた。
「私、もう駄目だって思って……!」
「もう二度と会えないかと思ってました」
「本当にお前たちだったんだな。まあ他に双子がいるとも思っていなかったが……何はともあれ良かった」
牢にイルバ兵たちが入ってきた。手に手に下げられたランタンの光が揺れる。兵たちはシキの足元に転がる鍵束を拾い上げ、次々と牢の扉を開けていった。長い間閉じ込められていた子供たちは、嬉しさのあまりよろめきながら走り出ていく。牢の外に用意された馬車に乗り、ダルケスの屋敷へ行くようだった。イルバ領主の館が素晴らしいものである事は周知の事実だったし、子供たちにとっては牢屋から出られるならばどこでもいい、というのが本音だった。文句一つ言う事なく、子供たちは次々と馬車に乗り込んでいく。クリフとクレオも、馬車に乗るように指示された。
「案ずる事はない。お前たちの身の安全は保障されている。明日にでも迎えに行くとしよう」
シキの言葉に小さくうなずき、クリフとクレオはしかしまだ名残惜しそうな顔で乗り込んだ。馬車は暗闇に吸い込まれるように消えていく。数台の馬車が同様に町の北へと向かった。通りに出てきていた人々も、騒ぎが収まった様子に、それぞれの建物へ戻っていった。再び安らかな眠りを手にする者もいれば、商売を再開する者もいるのだろう。シキが汗ばんだ上着に風を入れていると、背中越しに誰かが声をかけた。
「貴公の名前を伺ってもよろしいかな?」
振り返ってみれば、上品な中年紳士がにこやかな顔で立っていた。
「……シキ=ヴェルドー。そちらは」
「イルバ領主ダルケス=コルトだ。よろしく」
「領主様でしたか。無礼な態度、お許し願いたい。私は先ほどの子供たちの知り合いです。奴に連れて行かれては困ると、勝手ながら剣を抜きました」
「そうだったか。一時お預かりするが、引き取り手があるならもちろんお渡しする。明日にでも屋敷の方へ来るといい。湯浴みをさせ、服を着替えさせておこう」
「ありがとうございます」
「時に、君は素晴らしい剣の使い手だな」
「いえそれほどの事は」
「ははは、謙遜も上手だ。ゴダルの傭兵を相手に一歩も引けを取らなかったではないか。どこでそんな剣術を習ったのか、聞いてもいいかな?」
「それは……」
シキは言葉に詰まった。レフォア王国騎士団で、などと言えるはずもない。彼は「今」の騎士団とは何の関わりもないのである。ダルケスは察したように手を振って言った。
「ああ、言いたくないならいい。……では明日、屋敷で待っているよ」
「昼過ぎには伺いましょう」
軽く頭を下げたシキに、ダルケスは美しく礼を持って返し、立ち去っていった。
イルバの幅広い大通りには馬や馬車が走り、身なりのいい者、職を求める貧しい者たちなど、様々な格好の人々が往来している。石造りの建物は色や高さ、それぞれ趣向を凝らして造られていた。建物の美しい見栄えは、イルバが洗練された街である事を示し、街のあちこちに見られる市の丸屋根が、イルバらしさを演出している。
シキとエイルはそんな洒落た街の一角を、領主の屋敷に向かって歩いていた。シキは半袖の上着に腰帯という出で立ちで、左腰にはいつものように長剣を挿していた。ややうねりのあるある黒髪は襟足が少し伸びた。今日はきちんと身なりを整えている。一方のエイルは、バシェス絹で織った柔らかな上着を身に着け、細い革帯でゆるく留めていた。陽の光が透けて見える水色の髪は、シキが毎朝丁寧に梳くしけずっている。額につけた金の細い冠で留めているが、それでも前髪が額にかかってくるのを、エイルは面倒そうに払いのけた。
「朝から何度も、どこへ行くのだと聞いておるのに、なぜ教えん?」
「領主の屋敷ですと申し上げましたよ」
青年騎士は、真面目な表情で答えた。しかしその深い緑の瞳はどこか笑っているように見える。エイルはぶつくさと文句を言った。
「それは聞いた。だが、私が聞きたいことに答えておらん。何故、領主の屋敷へ行く? いつ、どこで知り合ったのだ。双子の行方を探さねばならぬというのに……助力を頼むのか?」
「ご質問が多いですねえ」
「はぐらかすな。いっつもそうだ。シキは勿体ぶって」
「そうですか? そのようなつもりはなかったのですが」
「私をからかっているな」
「とんでもありません、殿下。エイル様の忠実な臣下であるこの私が、さような事をするはずありませぬ」
その言葉に、エイルは鼻を鳴らしてそっぽを向いた。彼らしい仕草と表情である。シキは後ほど起こることを想像して口元を緩めていた。
領主ダルケスの屋敷はイルバで最も広く、壮麗な屋敷だった。敷地には緑豊かな庭園が広がり、一年中何かしらの花が咲き乱れている。庭園も美しく素晴らしいものだったが、屋敷も負けず劣らず見事なものだった。白御影石で作られた三階建てで、手の込んだ彫刻が施された柱がいくつも立ち並んでいる。玄関に建てられた二本の柱は、中でもとりわけ大きく、高く、細かな模様が彫られていた。玄関に出迎えた執事が、「すべては分かっている」とばかりに大きな広間へと二人を案内する。重そうな扉が内側へ開くと、ダルケスがにこやかな笑顔を浮かべていた。
「ようこそ。本来なら、私の城へお招きしたかったが。こちらは街の屋敷で、狭いのでね」
部屋の壁には立派な暖炉が備え付けられ、その上部には優れた画家が描いたと思われる素晴らしい風景画が豪華な額縁に収まっている。天井は高く、隅にはさりげなく上質な彫像が飾りつけられている。シキとエイルは、礼をもって応えてから部屋へ入った。その身のこなしは、さすが王侯貴族といったところだ。ダルケスは領主で、当然貴族である。エイルも王子らしく、礼儀正しく振る舞うつもりのようだった。
「すぐに飲み物を用意させましょう。キブール茶でよろしいですか」
二人がうなずくと、ダルケスはそばの机に置かれた鈴を軽く鳴らし、部屋の壁が突然口を開けた。きちんと閉めてあればまず分からないであろう、執事や召し使いたちが使うための扉である。こういった仕掛けは、レフォアの王侯貴族の屋敷であれば、ごく当たり前のものだった。部屋にいる三人も、いきなり開いた隠し扉に驚く様子はない。
「お客様にキブール茶を」
「かしこまりました」
躾しつけの行き届いた執事は軽くうなずくと静かに扉を閉めた。扉が、一瞬にして壁に戻る。ダルケスは大きな長椅子に二人を誘った。美麗な刺繍が施された布張りの長椅子が二組、部屋の中央に置かれている。シキは軽く頭を下げ、話し出した。
「コルト様、改めてお礼を申し上げに参りました。昨夜のこと、感謝いたしております」
「いや、それは貴公の活躍があってこそ。私は、たいしたことはしていない。彼らは元気そのものだよ、安心したまえ」
シキは双子の心中を思い、目線を下げた。エイルは二人の会話に驚きを覚えたが、それを顔に出さぬようにして黙っていた。執事が人数分のお茶を机に置きに来る。ダルケスはシキに茶を勧め、元気づけるように言った。
「さぞかし君に会えたのが嬉しかったのだろう、昨夜は遅くまではしゃいでいたよ。早く会いたいと何度も言っていた」
「そうですか、それなら良かったのですが」
会話を交わす二人に、交互に目をやりながらエイルは黙って茶を口に含む。
「旦那さま、準備が整いました」
執事が、今度は正面の扉を少し開けて告げた。顔を上げたシキの表情は、ぐっと和らいでいる。エイルは緊張して身構えた。
「連れてきたまえ」
ダルケスの言葉に、執事はすぐに扉を大きく開け放った。彼は既に双子を連れてきていたのである。用意のいい執事に笑顔を向け、ダルケスは双子を部屋に呼び入れた。まさかといった顔のエイルが長椅子から立ち上がる。水色の瞳が大きくなる。驚きと疑問の入り混じっていた顔に、安堵の笑みが浮かぶ。クリフとクレオは顔を見合わせて笑い出した。喜んでいるのがばれてしまった。エイルは慌てて座り直し、恥ずかしさを隠し切れぬ顔を背けた。
「さて、全員が揃ったところで話を始めよう。まずは聞かせてもらいたい。君たちはどういった知り合いなのかね。貴族階級と村の子供。普通に考えれば接点はなさそうに思うがね。従者というわけでもなさそうだ」
「実は、彼らの村の長老に助けられまして。旅立つとき、二人がついてきたいと」
「ほほう」
ダルケスは興味を抱いたらしく、身を乗り出してさらなる説明を求めた。ダルケスには世話になったし、事の経過を話せば協力を得られるかもしれない。躊躇いはしたが、シキは時を超えてしまったらしいことを含め、事情を説明した。
「到底信じられぬとは思いますが……」
「ふむ。確かに、話だけを聞くと突拍子もなく、夢物語のようにも思えるが、貴公のような方が冗談を言ったりするとは思えない。それに」
ふいに水を向けられ、エイルは表情をこわばらせた。
「レフォア王にはご嫡男がおられない。だが、こちらは確かに王子の風格をお持ちだ」
柔らかな笑みに、胸を打たれる。
「ダルケスと言ったな。お前には分かるのか」
「はい。部屋に入って真っすぐに上座へお進みになりましたね。あまりにも自然でした。それにその年齢で、それだけ毅然として、揺るぎのない自信がおありです。王族として生まれついた方の気品が感じられます。殿下とお呼びしても?」
「許す」
エイルの嬉しそうな表情を見たクリフとクレオは、エイルが王子と認められること、相応の態度を取ってもらえることにエイルがどれだけ安心しているかを感じ取った。同時に、サナミィへやってきてからのエイルの心労は大きいものだったのだと思う。
「ダルケス殿。我々は、上手く言えませぬが……この世界の者ではありませぬ。いくらジルク殿が安全な場所にと送ってくれたとしても、このまま滞在するというわけには参りませぬ。ジルク殿も心配ですし、何よりレフォア城をあのままにはしておけませぬ」
「我々は我々の時代に戻り、正統なる者の手に城を取り戻す」
先ほどまでの無垢な幼さはどこへ消えたのか、エイルはその目に強い光をたたえ、きっぱりと宣言した。シキが同意を示して頭を下げる。双子は、初めて見たエイルの王子らしい顔に息を呑んだ。ダルケスは立ち上がり、指で机を軽くたたきながら思案を巡らせている。
「時を超える……か。それは簡単なことではない。現在の魔術師というものは、シキ殿の時代に比べ数も減り、その技も失われている。ジルク殿は司祭長だそうだが、今のレフォアの司祭長にそのような力があるとは思えん」
「ちょっと待ってください!」
急にクレオが大きな声を上げたので、一同は驚きと共にクレオを見つめた。
「どうした、クレオ」
「ねえ、あの、私は字が読めないけど、エイルとか、読めるのよね」
「当然だろう、何を今更」
「あのさ、この国の歴史とかってさ、本に書いてあるんじゃないの」
クレオは恐る恐るといった様子で口にする。数百年前に起きたことが、歴史として本になっているのなら、それを見ればその時何が起こったかが分かるはずだ。反乱がその後どうなったのか。エイルたちは国を取り戻せたのか。
「……それはそうかもしれんな。レフォア城の本なら私は見に行けるが」
ダルケスが言うと、エイルがその語尾にかぶせるように言葉を継ぐ。
「いや、不要だ」
「なんで?」
クリフの質問に、考えれば分かりそうなものだが、と言ってエイルは説明した。
「我々が戻れるとして、そこから新たに始まる歴史が、今のこの国に繋がっているとは限らないからだ」
「? どういうこと?」
「どう言えばいいか……つまりだな、時の流れはひとつではない、ということだ。何かが起こればそこで時の流れが枝分かれして、起こった場合の未来と起こらなかった場合の未来が作られる。数えきれないほどの未来の可能性がある。今この国にある本に書いてある『歴史』はそのうちの一つに過ぎない。我々が四三八年に戻れたとして、そこから我々が作る歴史は、また別の枝の先に行きつく」
「分かったような、分からないような……」
双子は首をかしげていたが、ダルケスは理解して深くうなずいた。そしてにやりと笑う。
「例え同じ道を進むとしても、自分たちの未来を見てしまってはつまらないでしょうな。自分の足で見えない道を切り開いてこそ人生は面白い」
「そもそも、歴史というのは生き残った勝者が作るものだ。事実とは違う」
「殿下は博学でいらっしゃいますな。……さて、では元の世界へ戻ることを考えましょうか。時を超えるような、大昔の高度な技術というと、一つ思い当たる話がございます」
ダルケスの言葉に、シキとエイルが身を乗り出す。
「殿下、シンジゴ山脈を越えた遥か南についてはご存じですか」
「山脈の向こうは未開の地、誰も行ったことはないと本で」
「そうか、殿下の時代には未開の地であったかもしれませんな。現在、山脈の南には大国ルセールがあります。そのさらに南東方面、リューイイ地方と呼ばれているところがあります。コーウェンという港町の近くに大魔術師が住んでいるらしいのですが、その人ならあるいは」
「コーウェン」
呟くエイルにうなずいて見せ、ダルケスはシキに向き直った。
「コーウェンの魔術師は、名前も年齢も分からないが、この世のありとあらゆる魔法に通じているという。精霊たちと言葉を交わすとも、炎や水を自在に扱うともいう。その人を訪ねてみるというのはどうだろうか」
「なるほど」
「魔術といっても、今ではちょっとした便利屋程度……労力を軽くできるとか、手間を少し省けるといった程度の術だ。素質がある者が修行をし、認定試験に合格して食えるようになるくらいもの。天候を変えるとか、時を越えるとか、そういった大魔法などとてもじゃない。ただ、コーウェンの魔術師ならそういった事もやるかも知れんとまことしやかに言われておるな」
「……行く価値はありそうですね」
「遠い道程だが、もしやる気があるなら、私もほんの少々ではあるが協力しよう」
ダルケスは鈴を鳴らして執事を呼ぶと、いくつかの物を持ってくるように言いつけた。よく出来た執事のおかげで、すぐにそれらが四人の目の前に並べられる。袋入りの貨幣、コーウェンの位置を記した大陸図、天幕や寝具といった物から、旅には欠かせない服や食料まで、すべてがそこに揃えられていた。クリフもクレオも、その品揃えに目を見張っている。
「『ほんの少々』……?」
「イルバで手に入らぬ物はない。この言葉は、もう耳にしたかな?」
ダルケスは上品に笑ってみせた。商品の出所に想像を巡らせながらも、シキは何も聞かずに、ありがたく受け取る事にした。
「有力なご助言と多くの物資提供に感謝します」
「例えコーウェンの魔術師が時を超える魔法を使えずとも、なにがしか協力を頼むこともできるだろう。……エイル殿下におかれましてはご機嫌麗しく、どうぞご無事で旅を続けられますよう、このダルケス心よりお祈り申し上げます」
「協力の数々に感謝する」
「有難き幸せにございます」
礼儀作法にのっとって膝を折るダルケスに、エイルはくつろいだ笑みを向けた。
「さて。クリフとクレオ。君たちのことだが、今回のことでいかに世間が恐ろしいか実感したと思う。慣れぬ旅などするものではないと思うのなら、ここで殿下たちと別れ、大人しく村へ帰るという手もある」
ダルケスは双子のはしばみ色の瞳を交互にのぞきこんだ。クレオの頭に、さらわれた時の記憶、また土牢に閉じ込められていた時の恐怖が鮮明によみがえる。正直に、心の底から怖かった。恐ろしかった。出かける時に両親に言われ、また旅立つときにもシキに言われた言葉がある。「二度と帰れないかもしれない」。それを実感して震えが止まらなかった。世間知らずの子供が旅をすることの危険をまざまざと思い知らされた。それは、確かだった。
――でも。それでも。
あの日、心に浮かんだ一つの確信が消えることはなかった。そしてそれはクリフの顔にもはっきりと表れている。
「僕たちは……双子で生まれました。不吉だと言われ、どちらかを殺した方がいい、でないと村に災厄をもたらす、そう言われたそうです。でも母は……これが、この子たちの運命なんだとつっぱねたそうです。母は僕たちに、いつも言っていました。双子でも、そうでなくても、誰しも生まれてきたからには自分で自分の運命を見つけるべきだ。できることがある。すべきことがある。それを見つけるために生きていくのだと。僕らに何ができるのか、それはまだ分かりません。でも。きっと。……上手く言えないけど」
クリフが言葉を切ると、クレオが後を引き取る。
「私たちに何ができるか、今は本当に分かりません。だって、ただの子供です。たいしてお役には立てないかもしれません。足手まとい、だと……思います。今回のことも、シキ様にたくさん迷惑をかけて申し訳ないと思っています。エイルのこと、馬鹿になんてできなかった。本当は私たちこそ世間知らずだった。……ごめんなさい。……でもあの日、どこからともなく現れた二人の姿を見て、鳥肌が立ちました。私たちの運命はこれだって、思ったんです。それは嘘じゃない」
「クレオの言う通りです。僕ら、二人が村に来る数日前から、恐ろしい夢を見ていました。予見のできる母は、母の見ていた予見夢に僕らが反応したんじゃないかって言ってて。それが、あの日から、二人が来た日から、ぱったり見なくなったんです。絶対に運命だって、そう思いました!」
興奮したクリフは早口になっている。ダルケスがゆっくりとうなずいた。
「転移した先がこの時代で、そしてサナミィの村だったというのは、偶然かもしれない。だが殿下とシキ殿が双子に会う運命だったと言えるかもしれない。運命の歯車を廻しているのはクタールだ。さらわれた双子を助け出せて再会できたのも、クタールのおかげだろう。もしここで別れても、また再会するのではないかな。……私はそう思う」
窓に向かっていたダルケスは、振り返ってシキを正面から見据える。クリフとクレオは互いの顔を見、エイル、そしてシキを見た。
「一緒に、行くか」
シキの言葉に、クリフとクレオの顔に驚きと、そして歓喜の色がありありと浮かぶ。シキがエイルに尋ねる。
「殿下、いかがお考えになりますか」
「二人が行方不明になったことは、私にも責任があると思っている。そして二人は足手まといだと言ったが……私も同じだ」
双子は息をのんでエイルを見つめる。
「まあ、だから、これからも従者としてついてくることを許してやってもいい」
その言い方にクレオは椅子からずり落ちそうになった。クリフはすっくと立ち上がると、エイルの正面に歩み寄った。そして、その足元に膝をつく。
「エイル=エルラート=レフォア殿下、改めて、どうぞよろしくお願いいたします」
自分に出来る限りの礼を尽くした挨拶のつもりだった。エイルを見上げると、呆気にとられたように口を開けた少年王子がこちらを見ている。だがエイルはすぐに我に返ると、居心地が悪そうに座り直した。
「うん。よろしく頼むぞ」
その頬がほんのりと染まっているのを、クリフは見逃さなかった。クレオは「納得いかない」という声が聞こえてきそうな表情を浮かべている。シキは「なかなかやるな」と囁き、クリフは「シキ様には敵わないけど」と囁き返した。ダルケスはひげをひねりながら嬉しそうに笑っている。
「これにて一件落着、といったところかな」
翌朝。ここのところ続いていた雨も今日は止んでいる。空にはハーディスが輝いていた。爽やかな風が袖を吹きぬけていく。真っ白な雲が青空に浮かんでいる日が多いためか、そんな風に呼ばれる白雲の月は、やがてやってくる雨の月まで束の間の晴天が続く。その間になるべく歩を進めておきたいところだった。
小さくまとめた荷物を鞍の両側につるすと、シキがエイルをひょいと抱き上げて馬の背に乗せる。あまりの高さに目がくらむようだ。エイルは背を丸めて鞍の端にしがみついた。
「馬の訓練をもっとなさるべきでしたな」
「う、うるさい」
懐具合を心配してレフォアでは一頭の馬を買ったのだったが、ダルケスがさらに二頭の馬を手配してくれていた。まだ若い、俊敏そうな二頭である。これでクリフとクレオも、馬に乗っていける。徒歩よりずっと楽だ。手綱を操り、自由に馬に乗れるまで、しばらくかかりそうである。だが空は澄み、太陽は輝き、道はなだらかに続いている。目の前には豊かなレフォアの大地が広がり、遥か先にシンジゴの山々が小さく霞む。延々と並ぶ田畑や森、目に見える景色のすべては、双子にとって自由そのものだった。冷たい土の牢に閉じ込められていたことを思い出すたびに、身の毛がよだつ。自分たちが奴隷として売り飛ばされていたらどうなったのか。考えるだに恐ろしい。しかし、今はもう自由だ。狭く、差別感の強い村から脱却し、冷たい土牢からも助け出された。ようやく自由を手に入れたのだ。これから何が起こるのか、世界がどうなっていくのか、自分たちには何が出来るのか。多くの疑問や不安も、決して無くなりはしなかったが、それでも彼らの胸には希望が満ちていた。
そんな彼らの横で、シキの馬に跨がるエイルが体をひねり、シキを振り仰ぐ。
「シキ、クリフたちをどこで見つけたのか、いつになったら教えるんだ」
シキと双子は思わず顔を見合わせた。シキはエイルに何も話していなかったのか。夜、宿屋で寝ていた間に何が起きていたのか、少年王子には知る由もなかった。シキが毎夜のように出かけていたのも、ゴダルの傭兵相手に戦ったのも、エイルが夢を見ている間の事件だった。納得のいかないエイルは、矢継ぎ早に質問を投げかける。
「どこでどうして領主と知り合ったのか、いつどこで双子を見つけたのか、夜、どこで何をしていたのか、どうして私に教えない!」
「困りましたねえ」
「嘘をつけ、困っておらぬだろう、笑っているではないか! ずるいぞ、シキ。私ばかりのけ者にするなど。私にも知る権利がある」
「話せば長くなりまする。どうぞご勘弁を」
「いいや勘弁ならん、さあ話せ」
「さあそれは」
「さあ!」
「さあ……」
「誤魔化すな!」
シキはエイルの質問をかわし続け、双子はそれを見て笑っていた。ようやく彼らにも明るい笑顔が戻った。目指すコーウェンは遠い。四人は、まっすぐに続く街道をひたすら南へ下っていった。
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