エイルと最後の竜 第八章 ヤーデ - 砂漠

デュレーの町を出発し、なだらかな山肌を下るには数日かかった。高所から見ると、遠くに砂漠が霞んでいる。そこには、何もなかった。ただ黄土色が延々と波打っているだけに見え、地平線は揺らいでいる。砂漠の民であるセサルに話は聞いていたものの、実際に目にした光景は、頭の中で想像していたものをあっさりと超えていた。

――あの先は不毛の土地だ。人が住めるところではない。

長い間、そう判断されていたのは当然だったろう。エイルは初めて見た圧倒的な景色にごくりと唾をのんだ。旅慣れていると自負していたシキですら、山脈以南に足を踏み入れたのは初めてで、少々気圧けおされている。

「これは……覚悟が要るな」

そう呟くシキに、双子とエイルは無言のまま同意した。しかし、山を下ったらすぐ砂漠と思っていた彼らの予想は裏切られた。山のふもとは、さすがに緑生い茂るというほどではないが、短い下草や低木がちらほらと生えている。山を下りて砂漠までの間にいくつかの町や村もあるという。

山に別れを告げ、平坦な道を辿っていく。迷うほどの道でもない。四人はそう難儀することもなく、チェジャへと入ることが出来た。

『白い町』と呼ばれるチェジャは、その名の通りのところだった。煉瓦や石を積み上げて造った平屋が続く町並みはどこも同じように白茶けている。街路は、石を敷いてあることには敷いてあるのだが、大部分が砂にまみれている。人々は一様に白い大きな布を頭からかぶり、黒々とした目だけをその奥から覗かせていた。旅人らしき者も見かけはするが、彼らも町の人々と同じような布を頭から巻きつけており、それは一種異様な光景であった。山とは打って変わって、歩いていれば汗ばむほどの暑さではあるが、生活できぬほどの暑さではない。だが町には活気がなく、人々は来訪者への興味より、普段と変わらぬ生活を送ることに執心しているように見えた。

通りには、馬ではなく駱駝らくだが行き交っている。露店はない。商品を日射しと熱から守るためだ。広場に唯一出ているのは大きな石造りの釜だけだった。それはパンを焼くための釜で、市民が共有して使っているらしい。井戸は見当たらず、聞くところによると、水を得るには町からかなり離れたところにある大井戸まで行かなければならないのだそうだ。言われてみれば若い女が重そうなかめを頭に乗せ、器用に平衡を保って歩いていた。

こうした独特な雰囲気は、やはり山脈以北の町々とは違う。見慣れない町の景色。四人は自分たちが異邦人であると実感させられていた。

四人が町の通りを歩いていると、角から姿を現した一人の男が急に大声を出した。

「うわっ! なんでここにいるんだよ」

驚いているようだが、それはこっちが言いたいとばかりに四人は顔を見合わせ、首をかしげる。

「どういう意味だ。我々を知っているのか」

「あー……いやいや、なんでもねえ。知らねえ」

慌てた様子で手を振ると、男は白い布で顔を巻き直し、そそくさとどこかへ消えた。

「なんだろうね」

「変な男だ」

口々に言い合い、肩をすくめる。ところが、である。その後、行く先々で四人はその男と鉢合わせしたのである。ある時は宿の入り口で、またある時は買い物をしようと入った店内で。その度に男は四人を避けるようにして姿を消す。だが、食事をしようと一つの店を選んで入ると、中でその男が酒を飲んでいるといったありさまだった。

「まったくもう、なんなんだ」

男は頭を抱えてため息をついたが、こちらとしても気持ちは同じである。

「よくもこう何度も会うものだな」

「あんたら、まさかとは思うが……。頼む、違うと言ってくれよ。あんたら、魔術師を探してるか」

諦めたような顔の男がついにそう言った時、四人は一様に驚いた。

「ああ、やっぱりか。これだから嫌なんだ、ヴィト絡みの仕事は」

長く大きなため息をついた男はグレイと名乗り、白い布を外した。そして現れた長い青灰色の前髪をうっとおしそうにかきあげる。

アンワールの街で、ヴィトにサーナを預けた夜のことだ。ヴィトはなんだか楽しそうにも見える表情でリュークに言った。

「リュークにまた一つ、仕事を頼みたいんだけどね」

「やめてくれ」

顔を背け、両手で拒否を示す。ヴィトに頼まれる仕事は楽なものがない。今回だって、意図せず皇女などという面倒なものを連れて逃げる羽目になった。もう関わりたくない。ようやくヴィトに再会できて皇女を押し付けられたというのに、また新たな仕事だなんて冗談じゃない。

「私も、君を危険な目に遭わせたくはないんだよ。今回は大丈夫だと思う」

「そんなこと言って……」

本当に大丈夫だった試しがない。親切そうな笑顔を浮かべるヴィトを横目で睨みつける。

「私の予見能力はそれほど正確ではないけれど、今回のははっきり見えてねえ。君が四人組の旅人に出会う場面だった。良く似た、恐らく双子と思われる二人。あと青年騎士、そして少年。恐らく王子だと思う」

「皇女の次は王子かよ」

王侯貴族なんて人種は別の世界に住んでいる殿上人であり、自分とは関わりのないことだ。リュークは嘆息が止まらない。

「彼らは魔術師を探している。君は、彼らを私のところに連れてくることになるようだね」

「勘弁してくれ。やだやだ。もう嫌だ。これ以上面倒に巻き込まれてたまるもんか。そんな依頼、俺は受けねえ」

「これは依頼というより予見だからね。嫌だと言っても、出会ってしまうと思うよ」

「冗談じゃねえ、未来が見えるなんて俺は信じねえぞ。逃げてやる」

「そう? まあせいぜい頑張って。運命の神クタールの手から逃げられる人間がいるとは思えないけど」

「うるせえ! 俺は今すぐ出てくぜ、あばよ。……サーナのことだけはしっかり頼むぜ」

「それはもちろん」

それだけは必ずと念を押すと、荷物をまとめ、リュークはヴィトのところを飛び出したのである。

「とにかく遠くに行こうと思ってよ、ルセールから離れた方がいいかと思って砂漠を越えてここまで来たんだ。……そしたらこれだよ」

チェジャの町で、何度も何度も会ってしまう四人に、やはり運命からは逃げられないのかともはやリュークは諦めの境地である。

「……こうなったら仕方ねえや。あんたら魔術師探してるんだろ。コーウェンの魔術師の噂、知ってるか? 俺に四人と会うって言ったその、ヴィトってやつなんだが、そいつも魔術師だ。いや俺もその噂の魔術師が誰なのかはよく知らねえ。お師匠さんもすげえ魔術師だって言ってたから、もしかしたらそのお師匠さんの方かも知れねえな。まあとりあえず、ヴィトのところに案内するぜ。また砂漠を戻るのか。やれやれ。砂漠の南にある王都マイオセールから東に行くとアンワールだ。ヴィトは今、そこにいるはずだぜ」

そう言うと、グレイと名乗った男――盗賊リュークは、自分は色々やることがあるから宿屋で待っていろと言って、また姿を消してしまった。

チェジャは、さほど大きな町ではない。家々に扉はなく、入口には布が垂れ下がっている。木の扉がある家でも、隙間だらけである。風通しのためにそうしてあるのだろうが、そのせいで、どの家も砂が中まで入り込んでいる。ざらざらとした感触を靴の底に感じながら、四人は待ち合わせた宿に入っていった。宿はごく小さな造りで、一見するとそこらの民家と変わらない。家は奥に向かって長く伸びており、どうもそちらの方に客を寝泊りさせているようだ。

「いらっしゃい、四人さん?」

女主人らしき老婆が声をかけてくる。家の中ではあの大きな白い布を巻きつけてはいない。だが砂埃にまみれたような白茶けた服は、他の人々と同じく、どこか空とぼけたような印象を与える。妙にひょろっとした色黒の首が、服の上に長く突き出ていた。

「人と待ち合わせをしたいのだが……」

シキが尋ねると彼女はうなずき、無造作に置いてある椅子を勧めてくれた。

「お連れさんはまだ? じゃあ来るまでそこで待っているといいよ。何か飲むかい? たいしたものは出せないけど」

「冷たいものが飲みたい」

額の汗を拭ったエイルに、女主人は呆れたように笑った。

「この町に冷たいものなんかないよ」

ぬるい茶を出してくれ、年老いた女主人は一行をじっと観察した。少年と少女は仲が良さそうな兄弟だ。よく似ている。不思議な印象だ。二人は顔を寄せて何か話している。もう一人の少年は柔らかな巻き毛を汗に濡らし、愛らしい顔を暑さに歪めている。服に風を通しては、何度も息を吐く。可哀想に、慣れぬ暑さに参っているのだ。残る一人の青年が四人のまとめ役だろう。暑苦しさを感じさせない、涼やかな顔。だが、子供たちを連れての旅はさぞかし苦労も多かろう。

女主人はシキに近づき、椅子に腰掛けて話しかけた。

「あんたら、北から来たんだね」

「確かにそうだが、何故そう分かる?」

「南から砂漠を越えてきたならそんな格好はしちゃいないさ。この町の人々の格好を見たろう? ここらの日差しは強すぎて、肌をさらしてたら焼けちまうからね」

みな暑いからと袖をまくっていたし、帽子や日除けも身につけていない。だが、言われてみれば確かに、肌に突き刺さるような日光がうっすらと肌を焼いている。エイルなどは元が色白なので、余計に目立つ。肌が火傷したように赤くなっている。

「そのまんまの格好で過ごせるのはせいぜいここらまで。これより南へ行ったら、日焼けどころかただれちまうよ。それに体中が熱を持って、到底生きてはいけないね。砂漠を越えるなんてもってのほかさ。あんたら、南へ行くんならもっときちんと考えた方が……」

「なぁんだお前ら、まだ準備してなかったのかよ」

女主人の言葉に割って入ったのは、今しがた宿の入り口をくぐって入ってきたリュークだった。

「おいおい何してたんだ、悠長に茶なんか飲みやがって」

「グレイ、そういう言い方はないでしょ、あなたが宿屋で待ってろって言ったんじゃない」

クレオが持ち前の気性で言い返すが、リュークは呆れたように肩をすくめたに過ぎなかった。

「見たとこ、何一つ準備出来てないな。まあいい。何も知らないからそれは大目に見てやるとして……んー、まずは駱駝だな。それからパージ……」

「パージって何さ」

「そこらじゅうのやつらが着てるだろ、白い大きな布のことだよ。熱よけ、暑さよけ、風よけ、砂よけ……夜にゃ寒さよけにもなる。ああ、毛布も要るな。それともちろん水に食料。この人数だと駱駝が余計に一頭必要かもしれねえなあ。買い込まなきゃ」

リュークはつらつらと続け、クレオは呆気に取られている。砂漠を超える知識をクレオは何も持っていなかったからだ。セサルの言葉を思い出す。絶対に人を雇わないといけない。砂漠の恐ろしさを、クレオはまだ知らなかった。だが、せめて自分が知らないということだけは、分かった気がした。リュークは地図を取り出し、指さして各地点を示している。

「これがこの町の全体図だ。食料品はここで買える。ちゃんと値切れよ。水はここだ。革袋に入れてもらえ。あんまりあっても腐るだけだからな、数日分でいい。パージと毛布はここな。結構な値段するけど、枚数買うから安くしろってごねろ。この店のじじいは割としぶといが、長時間やってりゃ必ずあっちが折れるから諦めるな。あと必要なのは駱駝だが、これは俺が手配しとくから心配いらない。じゃ、行ってきな」

一息でこれだけを言うと、リュークは地図をシキに押しつけるようにして渡し、女主人へと振り返った。

「よおルゾーラ、孫娘は元気にやってるかい?」

「馬鹿お言いじゃないよ、この間あんたに振られてから泣きっぱなしさ」

「振ったつもりはないぜ。俺は彼女一人のものになれやしないって言っただけさ。世界中で俺を待っていてくれる女の子たちに会いに行かなくちゃいけないからな」

「ま、女を泣かせるようじゃ、あんたもまだまだだってことだよ」

「参ったな。あんたも若いころはさぞかし綺麗だったろうね」

「年寄りまで口説くのかい、呆れたよ。それにあたしゃ年をとっても綺麗さ」

「おおこれは失礼」

宿の女亭主とのやり取りは続いていた。だが、四人はとにもかくにも砂漠への準備をしなければならない。この男は軽薄だけれども、抜かりはないようだ。セサルの助言通り、案内がなければ砂漠は越えられないだろう。この男を信じるしかない。その性格や行動に逐一腹を立てても仕方がない。今はまず、物資を揃えるところからだ。幸い、ラマカサで稼いだ金貨はまだ残っている。

駱駝は六頭いた。思い思いの場所に立って水を飲んだり、膝を折って座ったりしている。リュークがどこでこんなに揃えてきたのかは分からないが、みなおっとりとした顔をして四人を待っていた。シキたちが準備した荷物はちょっとした小山になって、駱駝たちの近くに積まれている。

駱駝を間近で見ると、思ったより大きかった。馬よりも足が細く、長く、その背中によじ登るのは一苦労に思えた。こんな動物に乗っていくのかとエイルは目を回してしまう。馬より大変そうだ。短い毛に恐る恐る触ると固くごわついていた。だが、大きな目はどことなく可愛げもある。

「一人一頭だ。好きなやつに乗りな。六頭目に荷物を乗せていく」

リュークに急き立てられるようにして、彼らは乗ったこともない駱駝に押し上げられた。一番苦労したのはもちろんエイルである。馬にもまだ一人では上手く乗れないのに、馬より大きな駱駝を一人で操るというのは至難の業わざだ。だがリュークはシキのように甘くはなかった。エイルが下りると騒いでも聞く耳を持たず、シキにも手を出させなかった。

「あんたが手を貸してちゃいつまで経っても乗れるようになんねえよ。何だって自分でやれるようになんなくちゃ生きていけねえんだ」

エイルが王子だということは、ヴィトが見たという予見で恐らくそうだろうと聞いた。だが、リュークにとってそんな身分なんかはどうでも良かった。とにかくこの任務を無事に終えたい。そのためにはエイルのわがままに付き合う余裕なぞない。それだけのことだった。皇女サーナを連れて安全な街道を歩くだけだってあれだけ大変だったのに、今度は砂漠の行軍だ。エイルには自分の面倒を自分で見てもらわなくてはこっちの身だって危うい。王子様だろうがなんだろうが、リュークはエイルに対し、攻撃の手を緩めることはなかった。とはいえ、当人は攻撃しているつもりなど毛頭ない。子供の頃から一人で生きてきた彼にとって、エイルは単なる甘ったれた子供に見えるのだ。二人の育ってきた環境は、まったく違った考え方をそれぞれにもたらしていた。

――大体、周りの奴らも甘すぎるぜ。アンワールまでに俺がきっちりしつけてやる。

エイルの甘えの原因はシキにもあると思える。一目で分かった。こいつが甘やかしてきたんだ。だからこんなわがままに育ってるんだろう。まあ一度や二度駱駝からずり落ちたところで、死にはしないさ。

「ここらのガキはお前よかずっと小さな奴だって、上手に駱駝を操るぜ。やらせりゃあ出来るもんなんだ。王子だろうとなんだろうと、お前にも出来ないわけがない」

リュークの偉そうな口の利き方には腹が立つエイルだったが、リュークが自分を子供扱いしないことだけは嬉しかった。

「いいか、俺はシキみたいに甘くねえ。だが、砂漠とくらべりゃ大甘だ。砂漠じゃ、どんなやつでも自分の世話をするので精一杯になっちまう。誰もお前の面倒なんか見ちゃくれねえ。何でも自分でやるんだ。いいな」

リュークの言葉に、エイルは殊勝にも黙ってうなずいた。自分は砂漠になど行ったこともないし、セサルに話を聞いただけで、砂漠のことなど何も知らぬに等しい。経験者の意見は聞くべきだと、小さな頃からジルクに口うるさく言われたことを思い出す。

――この際、口の利き方が悪いのは許してやろう。特別に、だ。

エイルはそう自分を納得させた。文句を言うより、大きな駱駝の手綱を操る方が忙しいというのも事実だったが。

砂漠は、線が引いてあって、ここからこっちが生活圏内、ここからあっちは砂漠、となっているわけではない。砂はチェジャの町中にも飛来する。かといって町中を埋め尽くすほどではない。また、町自体にも明確な境界はない。人々は砂と共生しているのだ。

まばらに家が建つあたりを過ぎると、いつしか町を出ていた。乾燥してひび割れた土地を踏みしめて六頭の駱駝が行く。双子はもう器用に駱駝を操り、エイルもまだ緊張してはいるものの、何とか駱駝をまっすぐ歩かせることに成功していた。もちろん、シキが横から援護している。リュークは一番前を、荷物を載せた駱駝のひもを引きながら、こともなげに進んでいく。さすがに慣れているのだということは、誰の目にも明らかだった。

みな、パージと呼ばれる大きな布をかぶっていた。単純な形の布だが、上手く巻くと頭からすっぽりと隠すことが出来る。視界を確保するために両目だけを出し、肩から下は体全体を覆い隠す。分厚い布なので、まとうと暑いのだが、日射しを避けるので、しばらくするとかぶっていた方がまだましということが分かるのだった。

町を離れてしばらく歩いていると、あたりの景色が徐々に変わっていく。そこらに何本も生えていた低木が減り、家畜や野良犬などの姿も減った。遠くに見えていた砂丘が少しずつ近づき、ふと振り返れば町の家並みは遠く、小さくなっている。そしていつの間にか、ふと気づくと彼らは砂ばかりが続くヤーデの真ん中にいるのだった。前後左右、どちらを向いても砂、砂、砂……。いや、砂漠は砂だけ、というわけでもない。荒涼とした岩石地帯や山岳地帯、ひび割れた大地などが続くと思えば、小さな泉が湧く休息の地もある。だが、大部分はやはり延々と連なる砂丘から成り立っていた。

遥か彼方、地平線には水が波打っているように見える。まばゆい日射しの降り注ぐ中、クリフは目を細めてそれを見つめた。ゆらゆらと移動しているようにも見えるが、右へ行っているのか左へ流れているのか、あるいはただそこにたゆたっているだけなのか、定かではない。それより、砂漠というのはどこまでも乾燥した土地だと聞いていたのに、何故あんなところに川があるのだろう。

「あれは何なの? 川が見えるけど」

斜め前を歩いていたリュークに問いかける。リュークは駱駝の歩みを緩め、クリフの横に並んだ。

「遠くに見えるやつか。あれは逃げ水ってやつだ。本当の水じゃない。蜃気楼さ」

「どういうこと?」

「さあな。俺もあれが見える理屈は分からない。でもこういう暑いところじゃ時たま見かけるもんだ。つられて行くと道筋を見失うぜ。砂漠にはヤーデって神様がいるそうだが、俺はかなり意地の悪いやつだと思うな。何しろ、砂漠に出る蜃気楼ってやつは人を惑わす。そんでもって惑わされた奴は大抵死んじまうんだ。神様ってのはいい奴もいるようだが、悪い奴もいるもんだな」

「ふぅん」

ヤーデという名も、砂漠の蜃気楼の話も、北部の森で生まれ育ったクリフにとっては初めて聞くものであり、興味深かった。ここまでの旅で色々な経験をしてきたと思っていたが、自分にはまだまだ知らない世界があるのだ。自分が思い描いていたより世界はさらに広い。クリフはなんだかわくわくして、砂漠の暑さもほんの少し和やわらいだ気がした。

実際、出発したころは到底我慢出来るものではないと思った砂漠の暑さも、徐々に薄らいで来ているように感じられる。

セサルと同様、リュークも涼しい時間を選んで距離を稼げと言う。一行は午後の遅い時間に町を出発したのだったが、とにかく最初はひどかった。照りつける日差しが体力を奪い、体中の水分があっという間に蒸発するように思えた。パージをまとっているにもかかわらず、砂漠の熱気と日射しが体を火照ほてらせる。息をするのも苦しく、鼻の穴の奥まで焼け付くようだ。まるで、かまどで蒸している鍋の中にいるようだった。それが、今は多少過ごしやすいと思えるようになってきた。それは彼らが環境に慣れたせいもあるのかもしれない。だが温度が低くなっているのも確かだった。日はまだ沈んでいないが、先ほどまでのあの日光が突き刺さるような感覚はもうない。

それでも、エイルは休憩したいと騒ぐ元気すらないようで、駱駝が歩くに任せてその背でうなだれている。そんな彼の辛そうな様子を思いやったというわけでもなさそうだったが、リュークがようやく休憩を宣言した。シキがあたりを見回している。近くにはいくつか大きな岩があった。

「これくらいでは道しるべにならんと思うのだが、どうやって目標を見定めているのだ?」

「安心しろよ。俺は慣れているからな」

答えになっていないリュークの言葉に、シキは不満そうだ。リュークは駱駝に水をやりながら鼻歌を歌っている。シキは重ねて尋ねたが、リュークはそれを無視して、水を入れた布袋を取り出すクレオに話しかけた。

「水は生命線だからな、飲んでもいいがほんの少しずつにしろよ。ごくごく飲んでも、またすぐに喉が乾くから意味がない。ちょっとずつ、乾いた喉を潤すだけにするんだ。あとは駱駝の影に入ってゆっくり休んでな」

「少しずつ、ね。いっぱい飲んだら足りなくなっちゃうもんね。……分かった」

残念そうな顔でうなずくクレオ。リュークはクリフやエイルにも同じようにしろと仕草で示してから、シキに向き直った。

「あんたはまだ体力ありそうだな。夕食を取りにいくから付き合えよ」

リュークはこのあたりで一般的に扱われる、湾曲した短剣を投げてよこし、扱えるかと聞いた。

「初めて使う剣だが」

シキはそう言いながらそれを手の中で回したり、ひねってみたりしている。だがしばらくして、「大体分かった」と言った。

「さすが剣士さまだねえ、もう極めちまったか」

リュークの言葉に、軽く手を振って否定の意を示す。二人はエイルたちを残して歩き出した。

「砂漠では、何を食事とするんだ?」

干し肉やパンなど、保存に適している食料を買い込んではきたものの、毎食栄養たっぷりの食事が出来るという量ではない。恐らく砂漠で何か手に入れるのだろうとは思っていたが、それが何か、シキには分からなかった。

「運よく見つかればの話だが、大きな砂漠トカゲがいるんだ。焼いて食うと肉汁がたっぷりで美味いぜ」

「なるほど」

「なんだ、驚かないな? トカゲを焼いて食う料理なんて、貴族さまは見たことも聞いたこともないと思ったけどな」

「俺は貴族の生まれじゃない。昔は各地を回る旅団の一員だった。食い物がなくて困った時は、何でも食べたんだ。ネズミでもカエルでもな。トカゲくらいで驚きはしないさ」

「へえ、見た目は立派な貴族さまなのにな。割と複雑な過去がありそうじゃねえか。面白いな、もっと聞かせろよ」

「詳しく語るつもりはない」

「つまんねえ奴だなあ。旅は道連れ、世は情けって言うだろ。せっかく縁あって知りあったんだ、もうちょっと仲良くしようぜ」

「……ではお前は?」

「あん?」

「グレイ、それが自分の名だと最初に言ったな。だが、ヴィトという男がリュークと呼んだようじゃないか」

「ちっ、細かいことを覚えてやがる。小さいことを言う男はもてないぜ」

「グレイは偽名だろう。後ろめたいことがあるのだろう。ただ、俺はそれを無理に聞こうとは思わない。多かれ少なかれ、誰しも語りたくない過去くらいある。無理にそれをこじ開けるな」

「そうか。まあそうだな。悪かった」

意外と素直に謝るリュークに、シキは唇の端をかすかに上げた。

「まあ、せっかく旅の道連れになったのだから、いがみ合う必要はないがな」

「先はまだ長いしな。改めて自己紹介するぜ。俺はリューク。仕事は、盗賊だ」

「なるほどな。俺はシキ=ヴェルドー。曲芸団上がりのレフォア騎士だ」

改めて自己紹介を終えた二人は、互いの拳を付き合わせた。

フルカという、砂漠特有の植物がある。色はさまざまだが主に緑で、物によっては黒く見えるものもある。珍しいのはその形状で、丸みは帯びているものの平らな面が四つある、つまり四角い植物なのである。枝葉はほとんどなく、棒状に突っ立っているだけという奇妙な植物だ。細いものは人の腕ほど、太いものでも両腕で抱えられるほどの太さにしかならず、背もそれほど高くはない。あまり大きくないフルカだが、群生していれば見つけやすい。

「これだこれだ。ようやく見つかったぜ!」

嬉々とした声でリュークが指し示したのは、五本ほどが集まって生えているフルカだった。シキは初めて見る植物に触れ、その皮の固さに驚いた。リュークはさもありなんといった顔である。

「剣で傷つけてみな。あんただったら少しは傷がつけられるかもしれない」

「それほどか」

「やってみなよ」

シキは短剣を鞘から抜き、皮を切り取ろうと試みた。一度目はまったく歯が立たず。二度目はかなり力を入れたが、表面にかすかな跡が残っただけで、切れはしなかった。少々むきになったのか、シキは腰の長剣を抜いた。

「お、本気を出すか? 手がしびれるぞ〜」

からかうような口調のリュークに一瞥いちべつをくれ、シキは腰を入れて長剣を叩き付けた。重く鈍い音がし、剣はフルカにしっかりと刺さった。が、切れはしない。それでもリュークは驚きを隠さなかった。

「おお、すげえ……さすが騎士さまだな!」

シキは剣を取り去ることが出来ずに四苦八苦している。リュークが笑いながら手を貸し、何とか二人がかりで剣をフルカから外すことに成功した。シキは感嘆してフルカを眺めている。

「いやこれは本当に固い」

「だろ。そんでほらここ、傷のついたとこを見てみな」

シキが触ってみると、刀跡がついたところからじゅくじゅくと樹液が染み出している。それはどんどんと増えていき、しばらくするとシキの手をしっとりと濡らすほどになった。

「これが砂漠での貴重な水分になるんだ。栄養もあるんだぜ。だけど、試して分かったろ? そう簡単には手に入らない。で、さっき言った砂漠トカゲさ。あいつらはものすごく丈夫な歯を持ってて、フルカを傷つけて樹液を吸うんだ。それであいつらは丸々と太ってやがるのさ」

「このフルカがあるところにトカゲも来る、というわけだな」

「そうそう、そういうこと。奴らがかじった跡から染み出す樹液もしっかりもらう。つまり、フルカとトカゲを見つければ素敵な食事が楽しめるってわけ」

「なるほどな」

「よし、じゃああいつらが来るまでちょいと待つか」

気温は確実に下がっていく。二人は気配を消し、涼しくなっていくのを感じながら動かずに待った。しばらくして、二匹のトカゲが砂の中から姿を現した。

「来た。あれだ」

リュークが囁き、あごの動きで指し示す。

「普段は砂に潜ってるんだ。何しろ暑いからな。……いいか、フルカに食いつくまで待ってろよ。やる時は首の後ろを一突きに」

「分かった」

二匹のトカゲはあたりを警戒しながらフルカに近づいてくる。シキとリュークは自らを岩のように見せかけ、パージにくるまって待った。トカゲたちはなかなかフルカに噛み付かない。二人は息を殺し、辛抱強く待ち続ける。そしてついにトカゲがフルカに食いつき、樹液を吸い始めた。

リュークの無言の合図にシキが動き、素早い動作で剣を叩きつける。一匹のトカゲは瞬時にその命を失い、もう一匹は突然の事に驚いてフルカを離し、素早い動作で砂に潜り始めた。が、リュークの短剣がその首に刺さり、絶命した。

「思ったより簡単にいったな」

「ああ」

一抱えほどもあるトカゲを抱え、二人は豪華な夕食が手に入った事を喜んだ。

一方のクリフたちは大岩と駱駝の影で体を休めていた。

涼しい風が彼らの体力を回復させ、暮れなずむ砂漠の雄大な景色が彼らの心を大いに安らがせている。大岩の影が長く伸び、夜が近づいていると教えていた。

「砂漠は暑いばかりだと思い込んでいたけど、夕方は過ごしやすいんだね」

「そうね。逆に夜はすごく寒いらしいけど、今は気持ちいいくらい」

双子もエイルもパージを脱いでいる。風がなぶる髪を手で押さえ、クレオは沈みゆく夕陽を穏やかな心で見つめた。デュレー以来、傷心を抱えて辛く悲しい気持ちでいたのだったが、広大な砂漠の景色や美しい夕陽が、彼女の悲しみを洗い流していくようだった。

そんな妹の顔が妙に大人びているように思える。クリフは、様々なことに思いを巡らせているらしいクレオの顔を見つめた。今、自分はどんな顔をしているだろうか。クレオと同じように大人っぽい顔だろうか。それとも違うだろうか。双子だけれど、村を出た頃のようにまったく同じ存在だとは思えない。お互いに無言でも分かり合えるという時はあるが、今のように、相手が何を考えているか分からない時もある。これから先、自分たちはどう変化していくのだろうか。クリフは、いつの間にか自分がクレオと同じように遠くを見つめていることに気づいてはいなかった。

「シキたちはまだか」

エイルの言葉に双子は我に返った。シキとリュークが消えていった方角を、クリフが指で示す。

「ちょうど帰ってきたみたいだよ」

「本当だ。クリフは目がいいな」

クリフが示す先に、ぽつんぽつんと二つの黒い点が見える。小さな黒い影は段々大きくなり、リュークとシキだと分かるようになった頃、彼らが背に何か動物を背負っているのも見えてきた。クレオがぞっとした顔で言う。

「あれ……何?」

「なんだろうね」

「あまり気持ちのいいものではなさそうだな」

エイルの言葉通り、それはあまり気持ちのいいものではなかった。特に、クレオにとっては。彼女はリュークがトカゲをさばくところを青い顔で見つめていた。だが、焼いた肉を恐る恐る口にした途端、目を丸くして叫んだ。

「うそっ、美味しい!」

塩を振って火であぶっただけのものだったが、きめ細かい肉は思ったより柔らかく、香りも良く、くどさはない。

「ペスベク鳥の肉に似ているな。しまっているが、さっぱりして美味い」

エイルの賞賛にクレオも同意する。とはいえ、高級食材のペスベク鳥を食べたことはなかったが。クリフはいつも通り、とにかく腹が満たされれば、という感じである。五人はトカゲの肉とともにフルカの少し甘い樹液も飲み、大満足の夕食を終えることが出来た。既に夕闇が足元まで迫ってきている。

「これからは急に寒くなるぞ。パージにしっかりと包まっておけよ」

リュークの言葉に、双子は慌ててパージを体に巻きつけた。

焚火の横に各々で布を敷き、寝転がる。丸みを帯びた空が視界いっぱいに広がった。西の方にはまだ赤みが残っているが、太陽神ハーディスは既にその姿を消している。夜と闇とを司る女神ナウラが多くの星々を引き連れ、東から空を宵闇に染め始めていた。

暗さが増すと同時に、リュークの言った通り急激に寒くなった。見る見るうちに暗くなり、気温もそれに連れて下がっていく。真昼の暑さが嘘のようだ。涼しくて気持ちがいいなどと言っていられたのも束の間、しばらくすると、歯ががちがちと音を立てて鳴り出した。布から出ている顔の部分、特に鼻先が凍るようだ。だが、大きくて分厚いパージや毛布の中に埋もれていれば、なんとか寒さもしのげる。藁をんでいる駱駝たちに寄り添うようにして、五人は眠りにつくことにした。頭上には満天の星々と細身の月神メルィーズが輝いている。雲は一つとして見えない。

――そういえば、昼の間も雲を見なかったな。

クリフはふと疑問を持った。昼の間、陽光は常に降り注いでいた。空の神マオラは息継ぎをするためのほんの小さな日陰すら、彼らに与えてはくれなかったのである。何も遮るものがないので、今も空は頭上いっぱいに広がっているが、そのどこを見ても雲は一片も見当たらない。

――砂漠には雲が出ないんだろうか。

リュークに尋ねると、眠そうな声がパージの下から返ってくる。

「ああ、砂漠にゃ雲はねえよ。うん? 何でかなんて俺が知るもんか……」

最後は欠伸と一緒になったらしい。声はそのまま途切れてしまった。晴れ渡る空を眺めて、クリフは何故雲がないのかと考えを巡らせた。だがその答えは出ないまま、静かな眠りに落ちていく。

ヤーデでは雲を見ることがほとんどない。雲は、水蒸気から出来る。つまり雲になるだけの十分な水気がなければ雲は出来ないのである。数えるほどのオアシスしかないこの砂漠では、雲は滅多に見られなかった。さらに、夜空には砂埃が漂い、大きく明るい星以外はあまり見えない。旅人はその大きな星たちを目印として旅をするのだ。星の位置関係からは様々な情報が読み取れる。道といえるものすらない砂漠で、旅人達が頼りにするのはその星たちだけだった。星々の配置や角度から方向や位置を考える「星読み」も今は体系化され、砂漠地図なるものも発行されているので、季節によって変わる星空も読むことが出来る。砂漠地図はその昔、一人の若者が考案したのだという。初めて砂漠を渡った男、マイオス。南の王国ルセールを建国した勇者である。

リュークを案内人として、一行は砂漠の旅を続けていった。自分たちだけでは到底踏破することは出来なかっただろう。セサルの言う通りだった。シキは、リュークに感謝していた。その人物自体は軽薄で、盗賊だと言ったことからも信用出来ない面もあるように思えたが、シキたちを確実に導いているようではあった。だが、この旅が彼に何をもたらすのだろうか。砂漠を越えて旅をするのは、彼にとっても簡単なことではあるまい。何が彼をそうまでさせるのか。シキはまだいぶかしんでいたが、リュークが一行にとってなくてはならない存在であることは確かだった。

照りつける太陽と戦う昼、凍える寒さに耐える夜。一日を通して、快適さを与えてもらえる時間はほんの僅かだった。だが彼らはそれでも過ごしやすい時間を選び、歩調を緩めることなく進んでいった。周りは砂ばかり。会話も少なく、駱駝が静かに歩くだけの日々だったが、エイルには文句を言う余裕もなく、彼らは順調に距離を稼いだ。

やがて、単調な景色に変化が現れ始めた。駱駝の足が砂ではなく、固い地面を踏むようになってきたのである。そればかりか、これまではまったく見られなかった低木や下草が時折生えている。ひどい乾燥は変わらないが、あたりは確実に今までと違う様相を呈してきた。

「もう少しだ」

リュークが示す方向を見ると、遠くにいくつかの三角形が見え、その間から煙が見える。そちらに近づくと、木の数も増え、ちらほらと小動物の姿も見られるようになってきた。

「ヤーデにゃいくつか部落があるが、ここはそのうちの一つでケイズリーってとこだ。普通の旅人は滅多に来ない部落だな。普通ならもうちょっと楽で、でも遠回りな道を行くんだ。今回は、早くてきつい道を選んだから」

「部落はオアシスのそばに作られる、って言ってたよね? この近くにもオアシスがあるの?」

クリフの問いに、リュークは軽くうなずく。

「ああもちろん。部落の人間にとっても、ここらに住む動物たちにとっても大切なオアシスさ。そうだなあ、俺も砂漠全部を知っているわけじゃないが、合わせて十くらいはオアシスがあるって話だ。ここのは小さいようだが」

「じゃあ部落も小さいの」

「ああ。だから旅人もこっちを通ったりはしねえんだ。ま、ここの奴らも悪い人間じゃないんだが、どうにも付き合いにくくてな。いやそれより何より、俺好みの娘がいないんだよなあ。こう……若くてぷりぷりっとして、潤いのある娘がいねえんだ」

勝手なことをぼやきつつ、リュークは駱駝から下りて近くの木につないだ。シキたちもそれに習う。

「ここで食糧と水を補給させてもらうつもり……なんだが」

リュークにしては歯切れが悪い。「ともかく行くか」と歩き出すリュークに、エイルと双子は首をかしげつつ後に続いた。シキはあたりを注意深く観察しながら殿しんがりを歩いていく。

大きな天幕といえばいいのか、下部は石積みで上部は布張りになっている建物が、無造作な位置関係で建てられている。リュークによれば、彼らがボロスと呼ぶところのそれらが家らしい。一つのボロスには、十人以上の大家族がみんな揃って住んでいるという。

「多分、百人ちょっとは住んでるんじゃねえかな」

さほど大きくもない集落だ。村というには少なすぎる。だが、生き物の存在とて感じられない砂漠を歩いてきた身にとって、ここは大きな生命の息吹が感じられる場所だった。地面は相変わらず砂と土だが、下草も生えているし、背の高い木が所々に木陰を作っている。

「あ、山羊だ」

「いや羊だろう」

「山羊でしょ」

「羊だ」

エイルとクレオが言い争っている。山羊というには大きく太っていて、羊というほどには毛が多くない、四足の動物が何頭かそこらを歩いている。

「あれはユマってんだ。荷物を運ばせたり、乳を取ったりする家畜さ。太らせて肉にしたり、皮をはいで加工したりもする。町へ売りに行けば金にもなる、素敵なやつだよ」

近くのボロスから少年が出てきて、ユマたちをまとめ始めた。少年に、リュークが声をかける。

「よお。イカルだったっけ?」

少年は無言のまま、こちらを見ている。睨んでいるとまでは言えないが、無表情だ。あまり好意的とは思えなかった。

「あれ違ったっけ? えーっとじゃあ……」

「何の用だ」

短く、鋭い声でイカル少年が問う。

「そう、つんけんすんなって。前にも来たろ。同じこった」

「また食料を分けろと言うんだな」

「まあそういうことだ」

「そいつらは誰だ」

「ああ、えっと、旅の連れさ」

「……」

少年はしばらく黙っていたが、あごで「ついて来い」とでもいうような仕草を見せて、集落の奥の方へと歩き出した。五人は愛想なしのイカル少年について、大きなボロスの間を縫って歩いていった。いくつかの興味深げな顔がボロスから覗いたが、視線が合うとすぐにひっこんでしまう。興味は持たれているようだが、歓迎する雰囲気ではなさそうだった。

他と比べて小さめのボロスに着くと、少年が木の扉を叩く。中からくぐもった返事が返ってくるのを確認して、扉を開けた。

天井部分に明り取りがあった。そのおかげで中はそれなりに明るい。中に入ると不思議と涼しい。意外と広く、十人くらいなら寝泊りできそうだ。思ったよりずっと快適な空間だった。石造りの部分が寝台や収納などを形作っている。床には毛布が何枚も重ねてあり、ボロスの中央には太い柱が立っていた。布張りの部分をそれで支えているようだ。柱の向こうに一部、土がむき出しになっているところがあり、その中心には石のかまどがあった。長老然とした老人と、険しい顔つきの青年がかまどの前に座っている。

「またお前か」

長老の声は聞き取りにくく、クリフには異国の言葉のように聞こえた。だがよく耳を傾けると、どうやら大陸共通語のようである。どうやらひどく訛っているようだ。

「今度は道連れがあるんじゃな」

「ああ」

「一体、何用で砂漠に来た」

「用事はない。単に通過するだけさ」

「……」

「あなた方に害をなすつもりもないし、砂漠で何かしようというつもりもない」

リュークの言いようはぶっきらぼうにも思えて、シキは助け舟を出したつもりだった。だが頑なな長老の態度は変わらなかった。

「北から来て、このまま南へ抜けたいが、準備してきた食糧も水ももうないのだ。ここで助けてもらわねば飢え死にしてしまう」

「……」

長老は、怪しむ目つきでこちらを見ている。青年も長老と同じ気持ちなのだろう。黙ったままだ。

「もちろん、もらうだけというのは一方的だ。我々に出来ることがあれば、何でもしよう」

何とか食料を分けてもらいたい。その気持ちが滲んだのか、シキの言葉に、長老の隣に座っている男が口を開いた。

「遺跡の見張りをさせては」

その提案に、長老が小さくうなずく。

「うむ。良かろう。……旅人よ、ここからしばらく歩いたところに大きな遺跡がある。我々砂漠の民にとって、非常に神聖な場所じゃ。ところがこのところ、遺跡を荒らす者がおるようなのじゃ」

「ふうん」

リュークの目が興味深げに光る。

「何か、荒らされちゃ困るようなもんでもあるのかい?」

長老は何も答えない。代わりに、青年が鋭く言った。

「黙って聞け」

「へいへい」

肩をすくめたリュークをじろりと睨み、長老は再び話を始める。

「奴らが来るのは夜じゃ。だが、次いつ来るかは分からん。我々は遺跡の近くで夜営をし、見張りをしておる。村の男たちにはほかにも仕事がある。夜に寝られんと、昼の仕事にも支障が出る。そこで」

「その夜営を我々に頼みたい、ということですね」

シキが言葉を引き継ぐと、長老はゆっくりうなずいた。

「少しばかりだが、食料などはその都度、村の者に運ばせる。くれぐれも遺跡には足を踏み入れないように。入り口近くに火を焚き、時折、遺跡の周りを見回るだけで良い」

青年は手短に説明し、あとは長老とともに口をつぐんでしまった。クレオが、クリフの袖を引いている。

「ね、ここケイズリーだって、さっきリュークが言ってたわよね。セサルにもらったあれ……」

クリフはその言葉で思い出したらしい。神妙な顔で懐を探る。取り出したのは、デュレーの町でセサルにもらった、ヤーデの首飾りだった。

『彼らは外部の者を警戒するけど、俺の知り合いだって分かれば歓迎してくれると思う』

そう言っていたセサルの言葉を思い出し、勇気づけられたクリフは、その首飾りを持って前に進み出た。これできっと彼らの緊張も解けるだろう。だが、その期待は見事に裏切られた。

「それがセサルのものだという証拠はない」

「仮にあの子の首飾りだとしても、奪い取ったものかもしれん」

「そんな!」

「そんな事、するわけありません!」

双子は抗議したが、主張は受け入れられないようだった。長老は目を閉じ、青年ももう何も答えてはくれない。

「『もう行け』ってさ。とにかく夜の見張りをやるしかねえな」

リュークが再び肩をすくめている。一行はその言葉が的を射ていると悟り、諦めてボロスを出た。

最初に遭遇した少年、イカルが、遺跡まで案内するという。小さな体で素早く駱駝にまたがり、イカルは無言のまま駱駝を進ませ始めた。日に焼けたその横顔はどこかセサルと似ているようにも思える。少年はどんどん部落を離れ、駱駝を歩ませる。慣れているのか、少年の操る駱駝は足を砂に埋もれさせることなく、さっさと歩いていく。リュークでさえもついていくのは容易ではなかった。

遺跡と彼らが呼ぶところのそれは、どうやら大きな石が連なる一帯であるようだった。古代都市の遺跡だそうだが、最早、都市の面影はとどめていない。柱の一部分だったと思われる長い石が地面から斜めに突き出ていたり、元が何なのかも分からない大きな岩のような塊が連なったりしているが、そのどれも表面は砂に削られてぼろぼろになっている。何か彫刻が施されていたのかもしれないとは思うが、今となっては何の痕跡も残されてはいなかった。遠い昔に崩れ、風化し、砂に埋もれてこのような姿になったのだろうが、それにはどれだけ長い年月が必要だったろうか。古代都市が栄えていたころには一体どのような姿だったのだろうか。エイルが呟いた。

「この遺跡、私たちの時代にもあったのだろうか」

「恐らく。ですが、山脈以南は未開の地でしたから、レフォアの者で知る者はいないでしょう。この土地に昔から住む者が大切にしていたのでしょうが……」

「我々よりさらに、ずっとずっと昔の建造物なんだろう。想像もつかぬほど昔の」

彼らはそれぞれに思いを馳せ、大石群を見つめた。

「こっちだ」

イカル少年の声が彼らの思いを断ち切り、夜営の場所を示した。

「あっちの方向にしばらく行くと薪が拾える。こっちへ行くとオアシスがあるけど、夕方は風が強くて方向を見失いがちだから気をつけろ。夕食の頃になったら食事を届けに来る」

少年はそれだけ言うと、ひらりと駱駝に飛び乗り、振り返りもせずに歩き出した。取り残されたシキたちは顔を見合わせ嘆息するしかなかった。

「仕方がない。ともあれ天幕を張ろうか」

「じゃあ俺、手伝います」

「私は薪を取りに行って来るね」

シキと双子が手際よく準備を始めるのを見て、エイルはどうしようかと思案した。と、リュークがその腕を掴む。

「俺らも行こうぜ」

「え、えっ」

「水を汲みに行くんだよ。ほら早くしな」

目を白黒させるエイルを引っ張り、駱駝に押し上げる。エイルは何がなにやらといった表情で、何とか駱駝によじ登った。リュークが振り返り、片目をつぶって見せる。

「お前も、みんなの役に立ちたいだろ?」

オアシスはそれほど遠くもなかった。だがイカルの言っていた通り、風が強く、駱駝も横に流されがちである。風で飛んでくる砂で目が痛い。目を細めるせいで視界も狭まり、ちょっと間違えば道を外れてしまいそうだ。エイルは、リュークが上手に駱駝を操っていく後をついていくのが精一杯だった。

しばらく歩くと、リュークの肩越しに緑色が見えてきた。オアシスは「楽園」と呼ばれるほど素晴らしいものだと聞いていた。だからエイルは、緑溢れる豊かな地を想像していた。だが実際に目にしたのは、何本かの木が生えていて、小さな泉が湧いているだけの場所だった。楽園とまで言うほどのものでもない、とエイルは思った。

「もっと素晴らしい場所かと思っていたのに」

「馬鹿だな」

リュークがエイルの言葉を一蹴する。馬鹿という言葉に、エイルはかっとした。だがリュークの言葉の続きを聞いて、神妙な顔つきになる。

「俺らは今、それほど喉が渇いてない。部落から来たから、どのくらいの距離か分かっているから、だからどうってことないように見えるのさ。マイオスを知ってるだろ? 彼は前人未到の砂漠を踏破したんだぜ。どこまで行ったら終わるのかも分からない砂漠を北からずーっと歩いてきて、部下のほとんどを失い、食糧も水も底を尽き、精も根も尽き果てようってとこでようやくオアシスを見つけたんだ。まあそれがこの泉かどうかは分からないけどな。でもさ、その時の気持ちを想像してみろよ」

「……」

「部落の連中も、ここらに住む動物も、このオアシスなしには生きていけない。この泉の水が生命をつないでいるんだ。軽く飲んでいい水じゃねえんだからな」

リュークの言葉が体に染みこんでいく。不躾な態度も、不遜な言葉遣いも、不思議と気にはならなかった。

――水……生命をつなぐ水か。

城にいたころ、飲み物は誰かに申しつけ、少し待っていれば運ばれてくるものだった。だが、ここでは違う。こんな小さな泉に、動物も人も、命をかけて辿りつくのだ。辿りつけなければ、死ぬしかない。自分が飲んでいた城での飲み物は、一体どのように、誰が、自分のために用意したものだったのか。侍女がどこで準備するのかすら、エイルは知らない。

――生きるというのは、簡単なことではないのだ。

言葉にはならない、何か不思議で重たい感覚をエイルは味わっていた。

「何、ぼーっとしてんだ。さあ、水を汲んで帰ろうぜ」

リュークとエイルは分厚い皮袋に水を汲み、小さな樽にも汲んで駱駝に積んだ。

二人が何とか迷わずに野営地に帰り着いたころ、既に天幕は張られていた。クレオが集めてきた薪に火がつけられ、冷たい風が夜の訪れを告げている。シキと双子のほかにもう二人ほど、姿が見える。どうやら夕食を届けに来てくれたらしい。一人は先ほどのイカル少年で、もう一人は少女だった。

「スナイ、帰るぞ」

「もう?」

スナイと呼ばれた少女はイカルより一回り小柄で、イカルの妹らしい。イカルに帰りを急かされたが、何か心残りがあるようだ。きびすを返したイカルにちらっと目をやり、少女は早口でクレオに話しかけた。

「あの、本当にセサルに会ったの?」

「え、ああうん、そうよ。デュレーの町で色々助けてもらったりしたの。それで仲良くなって、砂漠を越えるって話をしたら、首飾りをくれたのよ。きっと私たちの身を守ってくれるって」

「スナイ! 早くしろ!」

イカルの鋭い声が飛んだので、スナイはそれ以上何も言わず、イカルと駱駝の方へ走っていった。だがその顔にどこかほっとしたような色が浮かんだのをクレオは見逃さなかった。

――みんながみんな頑なってわけじゃないんだ。

リュークはともかく、初めて見る顔が何人もいて、しかも素性が知れない。それが突然現れて五人が数日食べられるだけの食糧をよこせ、などと要求したのだ。部落には、いつでも食糧がたっぷりというわけでもないだろう。

――警戒されるのも当たり前よね。

クレオは改めて自分たちの図々しさを恥じた。シキも同じようなことを考えていたらしい。視線が合うと、黙ってうなずいた。

「さて、夜の見回りと火の番だが……」

そうシキが言ったのは、薪を囲んで簡単な夕食を済ませた後のことである。クリフがすぐに手を挙げた。

「俺が見回りに行きます。クレオは女の子だから行かせられないし」

「あら、私だって見回りくらい出来るわ」

「ええ? 盗賊とか遺跡荒らしが出たらどうするのさ」

「走ってみんなを呼びに来るわ」

「追いつかれちゃうよ。それに、ずっと遠いところだったら?」

「それは……」

「クレオには、火の番をしてもらおう」

シキの言葉にクレオは少し不本意そうに唇を尖らせた。が、仕方なくうなずいて同意する。シキとクリフの優しさであることは分かっていたからだ。

「じゃあまずクリフが見回りをして、しばらくしたらクレオと交代。クレオは火の番を。次は俺が見回りに行こう。とすると、次はリュークだな」

「私はリュークの次か?」

エイルが尋ねる。シキは面食らって、エイルの言葉を否定するように手を振った。

「まさか。エイル様は天幕でお休みを」

「冗談じゃない。一人で朝まで寝てろと言うのか? クレオは火の番をするのだろう。それなら私だって。クレオに出来て、私には出来ないとでも?」

「いえ、そういう意味では」

「いいんじゃねえの? エイルにもやらせろよ。いつまでも子供扱いしてたら逆に可哀想さ」

リュークの言葉に、エイルがうんうんとうなずいている。双子もリュークに同意しているようだ。

「四対一、か」

そう苦笑しながら言うと、降参というように両手を上げた。

「分かりました」

「うむ。私にだって、火の番くらい出来る。その代わり、遺跡荒らしどもを倒すのはシキに任せたぞ」

エイルはにこにこ顔だ。自分にもできることがあるというのは嬉しいことだった。

「ではエイル様には、私の次に火の番をしていただくことにして、その次はリュークがまた見回りに行く、ということでいいかな」

「承知」

リュークが親指を立てる。

日が暮れ、急速に温度が下がっていく。砂漠の夜である。クリフが見回りに出たので、残された面々はパージをかぶって床についた。

遺跡の周りを一周し、足跡や妙な痕跡がないことを確かめる。特に異常はなく、ほっと安心して夜営の場所に戻ってきたのはしばらく経ってからだった。寒さに凍えながら走って帰ってきて、薪を確認する。火は消えているものの、赤くくすぶった木片が残っていた。

「良かった。これならすぐにまた火がつく」

誰相手に言うわけでもなく呟くと、クリフは小さな木のかけらを足し、息を吹きかけた。思った通り、すぐに火は元通りになり、赤々と燃え上がった。新しい薪をくべる。炎で照らし出される皆の寝顔を見て、クリフは自分が一つの仕事を達成した喜びを感じた。

「クレオ、クレオ」

他には誰も起こさぬようにと注意を払いつつ、妹の肩を揺さぶる。パージに埋もれるようにしていたクレオが目を開けた。

「……あ、クリフ。もう帰ってきたの」

「うん。遺跡は何ともなかったよ。人の気配どころか動物の気配も何もなくて、怖かったくらいさ。まあメルィーズが明るかったから助かったけど」

「そっか。それなら良かった」

もぞもぞと起き上がりながら、クレオは安堵した顔を見せる。

「一日目からいきなり何かが起こるとも思ってなかったけど、でも、分からないもんね。何もありませんようにって祈ってたの」

「ありがと。何もなくてちょっと拍子抜けするくらいだね」

「クリフったら」

「一番困るのは寒さだよ。ほんっとに寒かった! 何か飲もうかな」

「お茶を淹れようか。私も飲みたい」

クレオが淹れてくれたキブール茶を飲み、二人は同時にほっと息を吐いた。

「こういう時、息を合わせたわけでもないのに同時にするよね。こういうところが双子なのかなあ」

クレオが言う。「どうなんだろうね」と返すクリフは、クレオと同じ仕草でまた茶を飲んだ。

「また同じ」

クレオが笑う。クリフもつられて笑い出した。エイルが「ううん」と寝返りを打ち、慌てて声を抑える。ふと、クリフが真面目な顔つきで尋ねた。

「クレオ……その、あの、いきなり変なこと聞くけど……」

「え?」

「いやあの、俺さ、えっと……その、上手く言えないんだけど」

「何よ、クリフったら。はっきり言ってよ」

「あ、シキのこと、さ」

クリフの言葉に、クレオは凍りつく。鈍感なクリフからその言葉が出るとは思っていなかった。

「デュレーで、泣いてたじゃんか。シキがティレルと……」

「それ以上言わないで!」

「ご、ごめん」

クレオは唇を噛みしめた。冷たい夜風がさらに冷たく感じられる。クリフはどうしていいか分からず、所在なげに視線を泳がせたまま黙っている。双子の妹だけれど、自分にはその胸中が分からないのだと、クリフは今、痛感していた。それは淋しいことでもあり……だが何故か、それが当然なのだという気もした。

「クリフは、人を好きになったこと、ある?」

「え、えっと」

クリフの頭に、一瞬、アゼミルイーナの顔がよぎった。何と言おうかとクリフが迷っているうちに、クレオは続けて口を開く。

「私、シキが好きなの。でも、言ってないの」

「うん」

「シキは私なんか好きじゃないかもしれない」

「そんな」

「私なんて子供だし」

「クレオは優しいし、俺と同じ顔なのにこんなこと言うの変だと思うけど、その、可愛いと思うし」

「ありがと。……シキに、何て言われるか分からない。怖いよ。でもやっぱり……私はシキを好きだって、言ってみようと思うの」

クリフは何を言えばいいか分からなかった。肯定も否定も出来ず、ただ曖昧にうなずく。

「ごめんね、クリフ。変な話して」

「いやそんな、いいよ。その、大事な話だろ」

「ありがとう」

「俺、良く分からないけどさ……人を好きになるっていいことだと思うし、クレオの気持ちが通じるといいと思うし、その、だから……」

クリフが必死で力づけようとするのを見て、クレオはにこっと笑った。

「クリフ、ありがと」

クリフが寝た後も、クレオは火の番をしながら物思いに耽っていた。次に見回りに出るのは月があのくらいの位置に来てから、とあらかじめ取り決めてある。

――メルィーズがあそこまで来たら、シキを起こさなきゃ……。

まだしばらくかかりそうだ。だがクレオは気が重くなって溜息を吐いた。

――起こしたら何て言おう。それとも明日にしようかな。ううん、そんなこと言ってたらずっと言えない。せっかく二人になれるんだし……でもやっぱりやめようかな。だって夜営は今日で終わりなわけじゃないし、でも、ああ、やっぱり……。

クレオはもう一度溜息を吐くと、シキに目をやった。寝顔は半分くらいパージの陰に隠れている。静かな寝息を立てて焚き火に照らされているシキは、とても安らかそうだ。いつもあたりに気を配り、皆の安全を確かめるために神経を尖らせているシキも凛々しくて素敵だと思っていたが、こうして無防備に寝ているところは子供のように可愛く思える。十も年上だというのに、クレオはシキの寝顔が愛しくてたまらなかった。

――やだ、私ったら……。

じいっと眺めていた自分に気づき、クレオは急に恥ずかしさを感じて顔を赤らめた。

メルィーズと多くの星々は、目で見ていても分からぬほどゆっくりと、だが確実に夜空を渡り、やがて打ち合わせしていた場所に差し掛かってきた。高まる胸の鼓動を必死で抑えようとし、同時にそんなことは絶対に無理だと思う。

「シキ……あの、時間だけど」

ほんの一声でシキは目を開け、二、三度瞬きをすると、寝ぼけた様子も見せずに起き上がった。

「何か異常はなかったか」

「はい」

「そうか。無事で良かった」

緊張した面持ちで無事を確かめたが、クレオがいつも通りだと分かると爽やかな笑みが浮かんだ。シキの表情が変わる度に、クレオの気持ちは激しく揺れ動いてしまう。

「では、見回りに行くとしようか」

立ち上がるシキに慌てて、クレオは一緒に立ち上がってしまった。

「ん? どうした」

「あ、いえあの、その、で、出かける前にお茶でも飲みませんか」

自分でも、声が上ずっていると分かる。もう少しでひっくり返りそうだ。あからさまに変な様子だと、シキも気づいたのだろう。怪訝な顔で笑いながら、もう一度腰掛けた。

「じゃあ、クレオも一緒に」

「は、はい」

茶を淹れて飲む間、クレオはシキと視線を合わせることも出来ないまま固まっていた。シキはそんなクレオをじっと見守っているだけである。そのまま時間が流れていく。クレオがあっと思う間に金属製の杯は空になってしまった。

「あ、あの、もう一杯……駄目ですか?」

「構わないが」

二杯目も、そして三杯目も、同様に過ぎていく。シキはクレオの様子がおかしいことに気付いているだろう。だが何も言わずに付き合ってくれていた。

――どうしよう。なんで、何も言えないんだろう。

クレオは心の中で地団駄を踏んだ。言おうと思って用意していた言葉は、何一つ口にすることが出来ない。このままずっとお茶ばかり飲んでいるわけにはいかない。言わなくては。言わなくては……。その思いばかりが募り、けれど何も言えないまま、クレオは黙って座っていた。

「何か、言いたいことがあるのか」

心臓が、一瞬で破裂するかと思うほど跳ね上がる。

「ここしばらく様子がおかしいと思っていた。俺に何か言いたいんじゃないのか」

――わ、私の考えていることが全部分かっているのかしら……。

「クレオ」

「あ、あの!」

意を決してシキを見上げると、彼はこちらをまっすぐに見ていた。その視線に射抜かれ、頭が真っ白になってしまう。頬が急に熱くなった。

――ええい、もう言っちゃえ!

「私、シキが好きなんです!」

シキがどんな顔をするか、怖くて見られないだろうと思っていた。だが、実際には目を逸らすことも出来なかった。そして当のシキはというと、小さく微笑んだだけだったのである。

「……あの……駄目ですか……」

恐る恐る尋ねる。シキは、頭をかいて笑った。

「駄目かと聞かれても困ってしまうな。人を好きになってはいけないという決まりはない。クレオが好いてくれるのは、俺にとっても嬉しいことだ」

優しい響きのその言葉は、クレオを舞い上がらせはしなかった。

――相手にされてない……んだよ、ね。

クレオは落胆の色を隠せないでいる。そんなクレオの様子を見て取り、シキは困り顔で続けた。

「クレオ、その、俺はどうもこういう話が苦手なんだ。どう言えばいいか……。だが、きちんと応える必要があると思う」

その声音が真剣なものになり、クレオは再びシキを見上げた。シキは両手で顔を覆い、何か、考えをまとめようとしている。

「……俺には、心に決めた相手がいるんだ」

その言葉はクレオの心を打ち砕いた。やはりティレルなのだろうか。だが、シキが続けた言葉でそれとは違うということが分かった。

「俺が十九のときの話だ。もう……そうか、七年ほども前の話になるんだな。俺には生涯かけても守りたいと思う女性がいた。だが、彼女は……死んだ」

そう言った時のシキの表情を、クレオは死んでも忘れないだろうと思った。こんなシキは、今まで一度も見たことがない。目の前にいるのは、まるで知らない人のようだった。半年以上も一緒に旅をしてきた、強く優しい青年ではなかった。どうしてそう思ったのか、クレオには分からなかった。

――そうか、この人の心は今、ここにないんだ。

深い緑の瞳は遠くを見つめ、深く、想いを馳せていた。

「死ぬ間際……彼女は言った。自分のことは忘れろ、と。いや忘れないで欲しいけれど、思い出さなくていい、と。また誰か別の人を好きになって、その人と幸せになって欲しいのだと、彼女はそう言った。だが俺はいまだに彼女への想いを断ち切れずにいる」

クレオは何も言えなかった。シキがこんな話をするとは思わなかったのだ。元来が無口な方だと自分でも言っていたし、身の上話をするのが好きな人ではない。道中、自分の話をする事はほとんどなかった。生い立ちも、騎士としての暮らしも、クレオたちはよく知らない。だが今、シキは自らの過去をクレオに語っている。クレオは、それが不謹慎なことだと思いながらも、嬉しいとすら思っていた。

「いや、断ち切れないというのは少し違うな。俺はもう、彼女の死を受け入れている。彼女の言葉を守ろうとも思う。事実、心を通わせた相手もいる」

――ティレルのことだ。……ほかにもいるのかしら。

思ったより冷静でいる自分に、クレオは驚いていた。ついさっきまで、クレオは自分の想いで頭がいっぱいになっていたのに、今は、なんだか穏やかな気持ちでシキの話を聞いている。

「だが……まだ、誰かと幸せになろうとは思えない。自分のことを考える余裕がないとも言えるかな。エイル様のこと、レフォアのこと、これからのこと……俺にはすべき事が多くある。自分一人の幸せを追求している暇はない。誰かを幸せにしてやる余裕もないんだ。だから、クレオの気持ちは有り難いんだが……」

「……」

「すまん」

「いえ、いいんです」

両手を振って、クレオは素直にそう言った。笑顔さえ浮かべられそうだった。

「クレオ」

「私、言いたかったんです。私が思ってること、知って欲しかったんです。それでどうしようとか、どうして欲しい、とか……そんなの全然考えてなかった。シキの気持ちとかも考えてなくて……ごめんなさい」

「いや」

「聞いてくれて、嬉しかった。ちゃんと話をしてくれて、本当に嬉しいの。いつか……今度のことが全部決着したら、元の、昔の、世界に帰るわけで……帰った時、何がどうなっているか分からないけど、とにかくすべてが終わって、平和になったら……そしたらシキも幸せになろうって、そう思うかもしれない。私は、シキにそう思って欲しい」

「……」

「私はその、シキの好きだった人を知らないけれど、その人もきっと本当にシキのことが好きで、幸せになって欲しいって思ってたんだと思う。私も……シキが幸せでいてくれたらいいと、本当にそう思います」

「クレオはいい子だな」

クレオは黙ってうつむき、首を横に振った。自分の意思とは無関係に涙が浮かんでくるのを、シキに知られたくはなかった。さっきまで穏やかだったのに、今は体が震えている。何故自分が泣きそうなのか、自分でも分からない。胸は苦しくて、呼吸は細切れになっていて、目をしばたいても涙を止めることは出来そうになかった。

「私、寝ます。見回り、気をつけて」

一生懸命にそれだけを言うと、クレオはシキに背を向けて分厚い布に包くるまった。これなら顔を見せずに済む。シキはパージの上から二度、優しく叩き、「行ってくる」と言った。シキが剣を取り、パージをまとって出て行く気配を感じながら、クレオは目を閉じ、じっと動かずにいた。

エイルは、夢を見ていた。何の夢かは分からないが、同じ夢を見たことがあるような気がする。夢の中の自分と、それを見ている自分とを感じ、不思議な感覚の中で揺られながら、不安に襲われる。そうだ、これは前にも見た夢。あの、反乱の朝だ。

――殿下、殿下。

――ここだ。どうした。

――ここはもう駄目です。さあ、お急ぎください。

――嫌だ、怖い。

――大丈夫です。母君も、みんな一緒です。

おかしいな。エイルは違和感を持った。あの朝、母上はいなかったのに、と。

――お早く。殿下。アルヴェイス殿下。

誰だ。私か? いや違う。けれど、呼ばれている。自分を呼ぶ声が、次第に大きくなってくる。確か、前にもこんなことがあった。

エイルはぼんやりと目を開けた。薄絹が吊ってある天蓋……ではなく、ちょっと変な匂いのごわついた毛布が目に入る。冷たい夜風を鼻先に感じ、砂と小石の混じる地面を見て、エイルはここが砂漠だったと思い出した。よろよろと起き上がると、シキが優しげな瞳で笑っている。

「お目覚めですか? 夜中に申し訳ないのですが、交代の時間ですので」

「あ、ああそうだったな」

「何かお飲みになりますか?」

「うん。あ、いや、自分でやる」

「私にやらせてください」

そう言って笑ったシキは手際よく茶を淹れ、暖かな茶で満たした杯をエイルに手渡してくれる。薪にはすっかり火が戻り、暖かな炎がちらちらと燃えていた。

「見回りは済ませました。特に何もありませんでしたので、ご心配なく」

「そうか、ご苦労だった」

「これからしばらく、次にリュークを起こすまでは火の番ですね」

「うん。もう夜明けもそう遠くはなさそうだな。薄明るくなってきたらリュークと交代しよう」

「私もお付き合いしましょうか」

「いや、一人で出来る。……まあその、眠くないなら少し話でもするか」

「はい」

シキは微笑み、エイルは照れくさそうに額をかいた。その額に金冠はない。金冠はこれまでずっと、外す事なくはめていた。淡い水色の髪の下で光る金冠は、エイルにとってある種の自己証明だったのだ。けれど今、彼は金冠にこだわらなくなっていた。

砂漠の乾いた風に吹かれて、エイルの柔らかかった髪もぱさついてしまった。前髪を上げておく方が楽だと気づいたエイルは金冠を外し、頭に布を巻きつけて、上げた髪を留めるようにしたのである。それは部落の少年たちと同じ格好だった。肌の色も顔立ちも違うので彼らとは明らかに見分けがつくが、服装や髪型などが近づくだけで、ぐっと似るものだ。エイルはそれを喜んでさえいた。

「エイル様は……大人になられましたね」

「うん? どういう意味だ」

「この一年で、大きく成長なさいました。驚くばかりです」

「そんなことは、ない。私はまだ子供だ」

「子供は、そうして己の未熟さを認められないものです。以前のエイル様なら、『そうだ、私は成長した』などと仰ったかもしれませぬ。でも今は、まだまだ成長の余地があると分かっておられる」

「……」

「十分に成長し、立派な大人と言われる人間でも、弱さや未熟さは持っているものですよ。それを認め、克服したいと努力し続けることが大事なのです」

「うん、きっとそうなんだな」

エイルの言葉にうなずき、シキは夜空を見上げた。

「私は今まで、エイル様を少し甘やかしていたのかもしれません。王宮にいた時も、この旅に出てからも。双子やリュークはエイル様が王宮にいた頃を知らず、そのせいもあって無礼なことも言いますが、彼らとの出会いがエイル様にもたらしたものは大きかったと思います」

「私もそう思う。以前は分からなかった、いや知ろうともしなかったことを、この旅の間にずいぶんと学んだ気がする。金を稼ぐこととか、食事を作ることとか、生きていくためにはしなければならないことが山のようにある。……城では、私が欲しいものは言えばすぐに用意された。嫌だと言えばすぐに目の前から消えた。それがどういうことなのか、私は知らなかった。私一人のためにどれだけの人間が動いているか、想像もつかなかった」

「周りが知らせようとしませんでしたから」

「私は大いなる庇護の元に育ち、世間というものを知らず、傍若無人であったようだ」

「エイル様。それを反省なさることはありません」

「何故だ。私は人に与えられるばかりで自分では何一つ出来ないのだぞ」

興奮した声を出し、エイルは立ち上がった。悔しさに顔が赤くなり、両の拳が握り締められている。シキは寝ている者を起こさぬようにと、指を立てて唇に当て、エイルを座らせた。

「エイル様、あなたは統治者となられるお方です。王族として生まれついたあなたの、それが運命です。多くの物を与えられていると知ったなら、それを返せばいいだけ。それは、あなたが良き治世をするということです」

「それは……」

「今の状態からは何とも言えませんが、いずれ、元の世界に帰れたとしましょう。恐らく、反乱が起きた事実は変わりません。ですが反乱を平定し、レフォア国に平和が戻ったとして、誰が国を治めますか」

「それは父上が」

「陛下も、シエル殿下もいらっしゃらなければ」

「……私だ」

「そうです。あなたが、レフォアの王になるんです。もし、陛下やシエル殿下がご生存であったとしても、国は荒れているでしょう。反乱のために政治は乱れ、流通、交易を含めた経済も滞り、民は疲弊しています。その時、王として、あるいは王族の一員としてエイル様がすべきことは何だとお思いですか」

エイルは何も言わず、自分を守り続けてきた青年を見返した。

「あなたは、反乱で乱れたレフォアという大国を、治めなくてはならないのです。そのためにはもちろん多くの人手がいるでしょう。多くの知恵者、武者に助けられ、それでも国には王が必要です。反乱を起こし、国を乱した者では王になれません。平和な治世が必要なのです。民は、平和な暮らしを、そしてそれを保証してくれる王を求めます」

「レフォアの民に報いるために……私が出来る事、か」

「……王族、それに我々貴族も、民から納められた税金で暮らしています。ですから金を稼ぐ必要はない。食べ物も、着る服も、豪華な城も、すべて民の稼いだ金から出来ています。その恩をどう返すかと言うなら、彼らが安心して暮らせる社会を作ること。それが王族としての務めです」

「そうだな……。今はまだ何も出来ぬが、いずれその時が来たなら、私はレフォアの民のために尽力しよう。そのためには骨身も惜しまん」

「素晴らしい。王族の鑑ですね」

「そう褒めるな。当然のことだ」

「はは、エイル様らしいお言葉ですね」

シキに寝て良いと言い、エイルはその後も一人で火の番を続けた。そしてメルィーズがすっかり傾き、夜明けが近づいた頃。

「そろそろだな。……おい、リューク」

「うーん……」

「時間が来たぞ」

近づいて耳打ちしたが、リュークは目を覚ましそうにない。エイルは「まったく……」と呟きながらもう一度呼びかけた。が、返事はない。パージ越しに肩や腰を揺すってみるが、たいした反応は見られなかった。すっかり寝入っているようだ。

――いい加減にしろ、この寝ぼすけ。

心の中で毒づき、パージから突き出ているリュークの鼻をぎゅっとつねる。

「いって……! な、何だよ、何だってんだ……」

寝ぼけた顔でリュークはあたりを見回していたが、エイルの仏頂面を目にしてようやく事情が呑み込めたらしい。

「そうかそうか、見張りをするんだったな。ちぇっ、せっかくいい女の夢を見てたのに」

「素敵な時間を邪魔して悪かったが、もう夜明けも近い時間だぞ」

エイルに起こされ、リュークは不機嫌そうな顔である。くしゃくしゃになった前髪を無造作にかきあげ、大きな伸びをした。

「眠気覚ましに茶を一杯……」

「私に淹れろとでも?」

「いいじゃねえか、たまにはお前も淹れろよ。お前のためにもなるわけだし」

「本当にしょうがない奴だな。なんだかんだと言って、自分が手を抜きたいだけじゃないか」

「ははっ、ばれたか」

リュークは軽い笑い声を立てた。エイルは茶を入れリュークに杯を渡す。焚火を前に並んで座ると、リュークはエイルに問いかけた。

「夜中に起きてたことなんてないんだろ? どうだった」

「うーん……寒かったな」

「まあ、それはそうだろうな。お疲れさん。火を絶やさぬようにしながら、一人でぼーっとしているのはつまんなかったか?」

「いや、考え事をしていたからな」

「へえ。何を考えてた?」

「まあ色々と」

「例えば」

「そうだな……リュークの生い立ちとか」

「嘘つけ」

片手で打ち消すような仕草を見せるリュークに、エイルは笑って言った。

「興味があるのは事実だぞ。リュークは私と違う。どんな育ち方をしてきたのか、どんな人間なのか、私は大いに興味があるんだ。この世には、私の知らなかったことが多くある。私は今、もっと色々なことが知りたいのだ」

リュークは感心したような顔でエイルを眺めた。

「王子様ってのは偉そうに踏ん反り返ってるだけじゃねえんだな」

「……まあ、以前は私もそういう感じだったが」

「よっし。あんまり綺麗な話じゃねえけど、俺の話をしてやるよ」

そうは言ったものの、これまで人にそういった話をしたことなど滅多にない。リュークはどこから何を話したものかとしばらく思案した。指をあごに当て、視線を宙に彷徨さまよわせる。

「俺は親の顔を知らないんだ。どこで生まれたのか、国も町も分からねえ。草っぱらで凍えてたのが最初の記憶かな。多分、誰かに拾われたんだろうけど、覚えちゃいねえ。奴隷として売られたようだった。ひどい目に遭ったぜ。なんとか逃げ出して、ガキの時分はルセールの王都の下町で暮らしてた。多分、五つかそこらだったと思う」

「五歳で?」

「ああ。残飯をあさったり、人の財布をかっぱらったりしてな」

「……」

「善悪なんて誰も教えなかったからな。金を稼ぐ手段もないし、生きていくためには人の物を盗むしかなかった。それが当たり前だった。俺の住んでたあたりは下町の中でも貧民ばっかが住むところで、みんなそうやって生計を立ててたんだ。毎日、食うことしか考えてなかった。服なんかいっつも同じ。風呂も当然入れやしない。みんな臭かったなあ」

そんなことを、それでもどこか懐かしそうな顔で話すリュークに、エイルは言葉もなかった。出会った時の彼は、長い髪を綺麗にまとめ、洒落た旅装に身を包んでいた。エイルは昔のリュークを想像しようとしたが、どうにも思い描けなかった。

「毎日腹を減らしてた……あんな生活は二度とごめんさ。もっと綺麗な服を着たかったし、ちゃんとした飯を食いたかった。周りの奴らは最初はなっから諦めてたけど、俺はいつかこんなとこ出てくって思ってた。そんでヴィトに会って、飯を食わせてもらった。十四くらいだったかなあ。色々仕込まれて……盗みの技術も上がった。そんで盗んだ金を貯めたのさ。その金で初めて、ちゃんとした買い物をしたんだ。服や靴を買って、散髪した」

「さぞかし気持ち良かっただろうな」

「いやあ、どうかなあ。さっぱりしすぎて居心地悪かったぜ」

「そんなものか」

「垢が落ちて寒かったんじゃねえか? なんてな。だがまあ『これでようやく普通の人間になれた』とは思ったよ。それまでは人間として認められてないようなもんだったからな。ずいぶんひどい扱いだったぜ。奴らは俺らをいじめるのが楽しみみたいなもんで、汚ねえ、邪魔だって蹴られたり、石を投げられたりしても文句言えなかった。貴族街には近づけもしなかったしな」

「……」

「あそこにいる限り、俺らは人間じゃなかった。汚いどぶねずみさ。でもそれが当たり前だったし、嫌だろうが何だろうがそういうもんだから受け入れるほかなかった。んで……盗賊ギルドに入った。仕事として盗みを引き受ける組織さ。だけど、どうもそういう人間関係とか組織とかってもんに馴染めない性格なんだな。ギルドも嫌になって抜け、有り金全部を持って貧民街を出た。その時はもう、本当にいい気分だったな。それから一人で旅をして……まあ今でもそうやって暮らしてるってわけ」

エイルは何と言えばいいか分からないでいた。あまりにも自分と違いすぎるその生い立ちを、エイルはただ黙って聞いているしかなかった。

「ヴィトには世話になったんだ。面倒だし、変な奴だけど、色々と教えてもらって。字も読めるようになったしな。その後あいつはコーウェンで師匠とかって人と出会ったらしくて。まあ俺もよく分かんねえけど、とにかくすごい人らしい」

「その師匠という人は、力のある魔術師なのだろうな」

「だと思うぜ。俺は会ったことないけど、ヴィトは、自分が絶対に敵わない人だって言ってた。そういう事はまず言わないやつなんだけどな。……お前ら、過去の世界から来たって言ったよな?」

「ああ……」

「多分その師匠って魔術師なら、時間を越えるような魔法も使えるんだろう。きっと元の世界に帰れるさ」

「だといいが」

「この先、まだまだ大変だとは思うが、頑張れよ。俺は案内くらいしか出来ないけどな」

「十分、頼もしいと思うぞ」

「王子様に褒めていただき、光栄に存じます」

大仰な格好で深々と一礼すると、リュークはパージを手に取った。

「ちょいと話し込んじまったな。そろそろ見回りに行かなきゃ。お前ももう寝ろよ」

「ああ、そうさせてもらう」

エイルが毛布に包まり、リュークが見回りに出かけると、動くものの気配はなくなった。

砂漠の夜が白々と明けようとしている。東の地平線に金の線が走ったかと思うと、その中央から眩まばゆい光が広がり、ハーディスがその大きなかんばせを地上に現した。徐々に盛り上がるハーディスは、やがてその黄金の光で砂漠を染め、大地を満たす。じりじりと焼け付くような熱気があたりを覆い始めた。

昼は暑さを避けて木陰で過ごし、夜は見回りと火の番をするだけの日々が繰り返されていた。朝と夕方、部落からイカルとスナイが食事を運びに来る以外、訪れる者もなく、ただただ静かな時間が過ぎていく。遺跡荒らしと称される者も、一向にその姿を現さないようだ。情報を求めようにも、イカルたちはいつもそそくさと帰ってしまうし、彼らが何か重要なことを知っているとも思えないのだった。

「なあ、もうやめようぜ」

ついにリュークがそう言い出した。

「いい加減長すぎる。冗談じゃねえよ、いつまでやりゃいいんだ」

「そうは言っても……」

「食糧をもらうためでしょ?」

クリフは困惑気味である。クレオも、自分の答えに自信がなさそうだ。

「見張りをしたからって食糧を分けてくれるとは限らないんだぜ。何の約束もしてねえからな」

「そう言うな」

苦笑しながら言ったのはシキである。

「もしや今晩にも夜盗などが現れ、遺跡を荒らすかもしれん」

「あんたはそう言うが、何の根拠もないじゃないか。昨日も、一昨日も、その前も! なーんもねえ! 明日以降も続くさ!」

「それは……」

口ごもるシキに、リュークは口早に畳み掛けた。

「いつ現れるかも分からん遺跡荒らしを捕まえなきゃ、この仕事は終わらねえ。いや、いつになっても終わりゃしねえよ。第一、元からあいつらの策略かもしれないじゃないか」

「何が言いたい」

「嘘だってことだよ。遺跡荒らしとか何とか、全部さ。外部から来た俺たちをはめたんだ」

「まあ、そうだな。そうかもしれん」

「だろ? だとしたらやる意味なんか……」

「だが我々をはめて、彼らに何の得がある」

「……」

「毎日、朝晩と食事を届けてくれているんだぞ。簡単なものだが、五人分の食事だ。もう十日以上になる。我々をここに足止めしたいだけなら、彼らがそんな犠牲を払うだろうか」

「私が思うに」

エイルが口を挟む。

「恐らくこれは試練なのだろう」

「試練?」

双子が口を揃え、同時に首を傾げた。

「つまり、彼らは私たちを試しているのだ。理不尽な要求にどこまで耐えるか、と。私たちがもう止めたいと言い出せばそれで終わり。もちろん食糧などはもらえない。部落を追い出され、砂漠の真ん中で飢え死にするだけだ。勝手に逃げ出したところで結果は同じだな」

「じゃあ、あいつらに認められるまでここにいろってのか」

リュークが飽きれ返った顔で髪をかきあげる。冗談じゃない、といった様子だ。シキが慰めるように言って聞かせる。

「我々は、彼らの信用を得なくてはならない。そのためにはまず我々が相手を信じることが大切だ。理不尽な要求にせよ、誠実に応えれば気持ちは通じるものだ。このままここにいても死ぬわけでもない。どうあっても急がねばならんという事情があるわけでもない。我慢しよう、リューク」

「ちっ、馬鹿馬鹿しい」

リュークはそう吐いて捨てたが、それ以上何かを言う気もないようだった。力なく丸太に腰掛け、地面に唾を吐いた。

そんなやり取りがあってから、さらに数日。

まともにやる気もないリュークが、見回りと称した朝の散歩から帰ってくると、天幕のそばに駱駝が三頭立っているのが目に入った。いつもならもう少し遅い時間、それもイカルとスナイが乗ってくる駱駝は二頭のはずなのに、と目を凝らす。

「女だな」

その服装から、どうやら女性らしいと見当がつく。だが、リュークはつまらなそうに嘆息した。女性と見れば元気が出るはずのリュークだが、彼らしくもない。

「どうもなあ……砂漠の民の女ってのは潤いが足りなくて」

非常に無礼な言葉を呟きながら、リュークは天幕のあたりへ戻っていく。どうやらシキたちも起き出して、彼らの存在に気づいたようだ。

「朝早くからすまないね」

イカルとスナイが食事を用意している横で、もう一人の女が言った。頭と顔に巻いた白い布から、黒い綺麗な瞳が覗いている。

「昨日まで所用で町へ行っていたんだけど、帰ってきたらセサルの知り合いらしいのが来てるって聞いてさ。話を聞かせてもらおうと思って来たんだ」

語気は強いが、瞳から伺える表情は柔らかく、若々しい。どこか、そわそわしているようにも見えるが、部落で話をした男たちのように他人を嫌がる様子は感じられなかった。

「もしかして、レザ、さん?」

クリフの問いに、驚いたような色が浮かぶ。彼女は巻いていた布を外し、その顔を外気にさらした。硬そうな髪が、彼女もまた砂漠の民であることを思わせる。

「なんで知ってるの」

「やっぱり! そんな気がしたんだ」

クレオもクリフと同じことを考えていたのだろう、嬉しそうに手を叩いた。

「セサルに聞いたの。彼、元気でやってるわ。レザに会ったらそう伝えてって言われてたの」

「俺らはデュレーで会ったんだけど、これからまだ北へ行くって言ってたよ。もっと色々な経験をしなくちゃって。成人の儀式だからって」

「セサルがそう言ってたの……。じゃあやっぱりあんたたち、セサルと知り合いだったんだね。第一、悪い人間には見えないよ。長老たちは頭が固いからな」

レザはそう言ってくすりと笑った。スナイが嬉しそうな顔を見せる。

「じゃあ、もう終わりでいいの?」

スナイの言葉は、これは彼らによって試されているのだというエイルの読みを裏付けるようなものだったが、リュークもそれを咎めはしなかった。「助かったぜ」と言って伸びをしている。イカルは相変わらず無愛想だったが、それは彼の生来の性格によるところも大きいようだ。朝食を終えた一向は、無言のまま案内するイカルに従って村へと戻った。夜営を始めてから、半月近くが経っている。レフォアの暦では花の香月も終わらんとしていた。

村へ戻ると、すぐに長老のボロスへ案内された。中ではこの前と同じように長老がかまどの前に座っている。隣の青年が自分の兄だ、とレザが耳打ちする。彼らは相変わらず険しい顔つきではあったが、当初のような攻撃的な視線は向けられなかった。

「……よく耐えたことじゃ」

長老がくぐもったような声で言う。シキが応えて頭を下げ、双子は「やっぱり」と嬉しそうに顔を見合わせた。リュークとエイルは二人してそっぽを向いている。

「レザが、間違いなくセサルの知り合いだと言うでな。これ以上疑うことはなかろうという話になった。……途中で嘘だとは思わんかったか?」

リュークが小さく何かを呟く。それにちらと目をやり、シキは首を振った。

「真実でも、嘘でも、同じことです。頼まれた仕事を放り出すわけにはいきません」

「うむ。やはり悪い人間ではなさそうじゃな。……遺跡荒らしの話自体は嘘ではなかった。が、まあここ一年ほどは姿を現しておらん」

「やっぱりな」

舌打ちをするリュークを、レザの兄がじろりと睨む。リュークは小さく舌を出した。

「しかしよく見張りを続けてくれた。この半月、お前たちがこの部落の安全を守っていたのは確かなことだ。我々はお前たちを客人と認め、食糧を分け与えると約束しよう」

約束通り、彼らが砂漠を出るまでに足る食糧はすぐに用意され、彼らは丁重に礼を言った。レザは申し訳なさそうな顔だ。

「長い間、足止めをさせてしまって済まなかったね。私がもう少し早く帰っていれば……」

「レザのせいじゃない。何にせよ、会えて良かった」

「セサルが無事にやってるって分かって良かったよ。ありがとうね」

「彼が帰ってきたら、結婚するの?」

クレオの問いに、レザは日焼けした頬を赤く染めた。

「うん、そういう約束だから。待っているのは辛いけど、それもこの部族の女の務めなんだ」

「早く帰ってくるといいね」

「ありがとう。あんたたちも気をつけて行きなよ。王都へ行くのかい?」

レザの問いに、リュークがうなずいて応える。

「目的地はコーウェンだが、街道を通って行くのが早道だからな。まずはマイオセールだ」

「ヤーデの加護がありますように」

部落の者たちは部外者たちが入ってきても出て行っても変わらない。幼い子供たちは興味深そうにこっちを見ていたが、イカル少年はいつも通りユマの世話をしていた。見送りはレザとスナイだけだった。

砂漠の始まりがどことは線が引けないように、終わりもまたはっきりと分かるわけではない。砂上をのそり、のそりと歩く駱駝の足が徐々に埋もれなくなり、固い大地を踏むようになってくる。景色は少しずつ移ろい、砂漠の様相が様変わりしていく。やがて隊商宿の大きな白い建物と、多くの馬と駱駝が囲いの中にいるのが目に入った。長く付き合った駱駝たちとも、ここでお別れである。そしてこの隊商宿から南、王都マイセールへ向かって、石畳の街道が再び始まる。あれだけあった砂も姿を消し、乾燥してひびの入った大地が広がる中を、街道は王都へと続いていく。振り返れば、ヤーデの向こうにシンジゴ山脈が霞んでいた。

エイルは一人で馬に乗ると言い、シキもそれを喜んだ。マイオセールまでは馬で数日かかるという。野宿を繰り返しながら、暑い大地を行く。辺りに村や町はなく、ひたすら荒野が続くばかりだ。

ルセールの王都、マイオセール。その昔、勇者マイオスがこの砂漠を踏破し、生き残ったほんの僅かな人々と作り上げた街である。水源から湧き出る水を発見しなかったら、ルセール建国の夢も潰えただろう。勇者マイオスは力を備え、人望もあり、そして何より運命の神クタールに魅入られていたのである。

そのマイオセールは今もまだ、痛ましい姿を晒していた。修繕された建物もあるが、あちこちに焼け焦げた跡が残っている。人々は竜の襲撃直後に比べれば気力を取り戻し、生活を立て直しつつあったが、統治者のいなくなった都はいまだ混乱の最中さなかにあるようだった。

馬を走らせて荒野を抜けてきた一行は、その様を目にして言葉を失っていた。

「治安も乱れているのだろうな。早くまつりごとが復活し、機能するといいが」

エイルの呟きに、リュークが冷たい声で応える。

「生き残った王族がどれだけいるかな。心に傷を負って、言葉を失った少女が一人いるのは知ってるけど」

「……」

「あ、でも姻戚関係がある地方領主なら結構いそうだな。まあ、そいつらで王権の取り合いだとか内戦になるかもしれねえなあ」

マイオセールの、ルセールの未来はどうなるのだろうか。以前と同じような活気を取り戻し、都市がきちんと復興するまでにどれだけの時間がかかるのだろうか。そこには想像もつかないほど多くの苦難が待ち受けているだろう。

「まあそんなの、俺たちには関係ないこった。さ、補給して次、行くぜ」

リュークは短く言い、馬の手綱を引く。アンワールは、王都マイオセールから東へ馬で一両日だ。

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