デュレーという町には、宿屋が乱立していた。さほど大きくはない宿場町だが、どの街路にも宿屋が一軒はあり、町の中央通りにはひしめき合っていると言っても過言ではない。
シンジゴ山脈のなだらかな峰から太陽神ハーディスが今日最初の光を投げかけ、早起きの鳥たちが一日の始まりを告げる。あたりは少しずつ、だが確実に明るくなってきた。真っ赤な朝焼けが東から広がり、夜空を飾った星々は西の空の彼方へと追われていく。空は徐々に、透明感のある青へと変わっていった。ふもとのラマカサに比べて気温も低く、明け方の今はまだ吐く息は白い。だが昼になれば鳥肌が立つような寒さも少しは和らぐだろう。
門の近くにも多くの宿が軒を連ねている。その内の一軒の扉が開き、下働きの女が姿を見せた。欠伸をかみ殺しながら、水を汲むための木桶を手にして通りを横切っていく。朝まだ早い通りには人影も少ない。
女の目に、何やら影が映る。入り口の方から、ゆっくりと歩いてくる大きな人影は、よく見ると何人かがかたまって歩いているようだ。ラマカサから来る旅人は夕方到着するのが通例である。明け方に誰かが到着するなんて、見たこともない。女は眉をひそめた。
一行は全員がぼろぼろの服を身にまとっている。かたまって歩いているのは、みなが中央の男を支えているからのようだ。彼らはふらついた足取りで、今にも倒れそうだった。
――まさか夜の間に山を登ってきたんじゃないだろうね。
そうだとしたら、気が狂っているとしか思えない。どう考えてもクルイークに襲われる。無事に山を登ってきたとは、なんという幸運だろうか。
声をかけようか。彼らはどう見ても疲れ果てている。いや、やめようか。見てくれからして、金に縁があるとは思えない。彼女を雇っている宿の主人も、貧乏人を喜びはしないだろう。しかし、さらによく見れば、中央の男は怪我を負っているようだ。
――面倒な事に巻き込まれんのは嫌だけどねえ……。
怪我人を見捨てるのも良心が咎める。女は四人に近づいていった。
「あんたたち、まさか山を登ってきたのかい」
「……あ、はい」
はしばみ色の髪と瞳の少年が答えた。
「この人、怪我してんだね? 無理にとは言わないけど、うちの宿で休むかい?」
なるべく深く関わらないようにしようと思いながら、そう言ってやる。と、中央でうつむいていた長身の男がゆっくりと顔を上げた。蒼白で生気がないが、美しい顔立ちの中に切れ長の目、すっと通った鼻筋、きりりと引き締まった口元。長い前髪が額にかかる。女は何気なく、崩れていた髪を手櫛で直した。
「ゆっくりしていきなよ。安くしておくからさ」
「ありがとうございます」
もう一人の少女が嬉しそうに言った。少年と同じくはしばみ色の髪と瞳。よく見ると、少年と少女はあまりにも似すぎている。女は頭の中で、「ちょっと気持ち悪いねぇ」と呟いた。一軒の宿を指し示す。
「うちの宿はすぐそこ、ほらあそこだよ。看板に『メイソンの宿』って書いてある。あたしは水を汲まないといけないから、先にお行きよ」
「世話になるぞ」
まだ声変わりしていない少年の声がし、くしゃくしゃに乱れた水色の髪が、三人の後ろから顔を出した。
――まあ偉そうな。
女は木桶を持ち直し、四人を再度宿の方へ促すと、井戸のある広場へ向かった。
看板の下、古ぼけた木の扉を押し開けると、中は食堂になっていた。清潔で広々としているが、席についているのは一人だけ。日に焼けた肌の青年だった。それも道理、食事を取るにはまだ早い時間である。部屋の片隅には勘定台が設けられ、どうやら店の主人らしい初老の男が座っている。四人が入ってきた物音に気付くと、おもむろに立ち上がった。
「おやおや、こんな時間にお着きになる人がいるとは」
言いかけて、四人の様子に気づいたのだろう、あたふたと勘定台から出てくる。メイソンは、人の良さそうな男だった。中肉中背で、柔和な顔にはしわが刻まれている。デュレーの住民はそのほとんどがルセールとレフォアの混血であり、メイソンも同様だった。縮れた黒髪はルセール南部の特徴だし、色素の薄い茶の瞳はレフォア人に多く見られる特徴だ。
「おお、これはひどい。ひとまず寝かせてあげなくてはならないようですな。……おーい、誰かいないか! この人を部屋へお運びするんだ」
メイソンの呼びかけに応えるように、二階へ続く階段から、下男が一人降りてきた。力強そうな大男である。
「なんですか、こんな朝早くから……客? 珍しい事もあるもんだ」
「マーシュか、この方を二階へお運びしろ」
メイソンに命じられ、下男は腕まくりをした。屈強な腕がむき出しになる。しかしシキも大柄である。マーシュ一人で運ぶのは容易ではなかった。その様子を見たクリフが慌てて進み出る。すると、後ろからその肩を叩いた者がいた。
「手伝うよ」
簡潔に述べたその声の主は、食堂で食事をしていた青年だった。ぱさついた砂色の髪を短く刈っている。日焼けした肌はどうやら元からの色黒でもあるようだった。にっと笑うと白い歯が顔の中で目立つ。青年はセサルと名乗り、下男のマーシュを手伝ってシキを二階へと運んだ。彼らは二階へ上がってすぐの廊下を真っ直ぐに進み、突き当たりの部屋に入った。こういった宿屋ではごく当たり前の大部屋で、床には木が張られ、乾いて清潔そうな部屋だった。寝台はなく、床に布団を敷いて寝る形式のようである。幾人かの旅人が朝から何事だという様子でこちらを見ている。
「剣は、ここでいいかな」
「ああ……近くに置いてくれ」
うっすらと意識を保っているシキに指示され、抱えていた長剣を寝台の脇に置いた時、クリフの腹が盛大に鳴った。
「下の食堂で食事が出来るよ」
セサルが言う。マーシュがにやにや笑いを浮かべて付け加えた。
「一人銅貨三枚だよ。今ここで払うかい?」
「まずは食事をした方がいい。俺は大丈夫だ」
シキの言葉に双子は顔を見合わせ、エイルに視線を送った。荷物はエイルが持っている。ラマカサから持ち出した荷物のほとんどはクルイークに襲われた時、失ってしまったが、大切な物が入っている袋だけはなんとか抱えていた。財布もその中にあった。
「エイル、財布を出して」
「ん?」
「食事代を払わなくちゃ」
「ああ、これか」
エイルはこの時初めて財布を触った。分かったような分からないような顔で、重い袋を差し出す。クリフは中をじゃらじゃらとかき回し、たくさんの金貨の中からようよう一枚の小さな銀貨を見つけて取り出す。目を丸くして見ていたマーシュは黙ってそれを受け取ると、そそくさと部屋を出ていった。
「じゃ、先に降りてるよ」
そう言うと、マーシュに続いてセサルも部屋を出て行った。それを見送りながらクレオが言う。
「あのねエイル、食事する度にお金はかかるのよ。エイルは食べるばっかりだから気づかなかったかもしれないけど」
「馬鹿にしているのか。そんなことくらい知っている」
「あ、そ」
疲れすぎている。クレオはエイルにそれ以上構わなかった。シキに断り、階下へ向かった。
「お疲れのご様子ですな。色々と事情もおありでしょうが、デュレーでゆっくり休んでください。お連れさんには痛み止めがお入り用ですね。ひとまずうちにあるものを使ってください。後で薬屋にご案内します」
食堂へ行くと、メイソンが笑顔を見せた。三人の顔には昨夜の疲労が色濃く浮かんでいる。
「旅の疲れが癒え、お連れさんの怪我が治るまで、どうぞ好きなだけ泊まっていってくださいよ」
宿の主人らしい申し出に、クリフは笑ってうなずいた。
恐ろしい夜は明け、ようやくデュレーに辿り着いたのだ。命の危険に晒されることはもうない。シキの怪我が懸念ではあったが、彼らはともかくも安心と安全を約束されたのである。と、クリフの腹が再び大きな音を立てた。
「これはこれは。まずは腹ごしらえからですな。早速ご用意しましょう。腕によりをかけますからね、きっと疲れなどすぐに飛んでしまいますよ」
メイソンは笑いながら彼らに椅子を勧め、自身は厨房へと向かった。どうやら彼が料理を作るようだ。席につくと、三人それぞれに安堵の溜息がこぼれた。
「ああ良かった。一時はどうなるかと思ったわ」
「うん、本当に良かったよ。エイルのお手柄だね」
「ま、まあな」
真っ直ぐに褒められ、エイルは思わずどもってしまった。
「ね、メイソンさんっていい人ね。ここがどんな宿かまだ分からないけど、見たとこはまあまあだし、お値段があまり高くなければ、シキが治るまでここにいない?」
「ん、俺もそう思ってた。シキはそんなすぐに治らないだろうし……。しばらくここに泊まろうか」
「シキに相談してから決めればいいだろう」
「そりゃそうね」
「あぁ、お腹空いた!」
先ほどより人が増えている。傭兵や商人風の者、旅装の者など、数組が食事をしていた。
「あ。さっきはどうもありがとうございました」
クリフの声にそっちを見ると、近くの席にセサルと名乗った青年が座っていた。一人のようだ。それでは食事もつまらなかろう、と席に誘う。青年はその申し出を想像していなかったのか、少し驚いたような表情を見せた。が、「さしあたって断る理由もなさそうだね」と言ってクリフたちの席に着いた。
「改めて。俺はセサル=イスク。砂漠の部族出身だ。成人の儀式を受けるために旅をしてる」
二十代くらいだろうか。日に焼けた肌に、白い民族衣装がよく似合う。快活な口調が気持ちよかった。小動物のような茶褐色の瞳は、どこか笑っているように見えて愛嬌もある。
「俺たちは、コーウェンって町に向かってるんだ。俺はクリフ。俺とクレオが兄妹で、エイルは、知り合いっていうか……」
クリフは上手く説明できずに言葉尻を濁したが、セサルはあまり気にしていない風で言った。
「コーウェンまでか。ずいぶん遠い道のりだ。さっき着いたばかりなら、夜の間に山を越えてきたってことだろ。大変だったんじゃないか」
興味津々という風ではなく、かと言って社交辞令という風でもなく、セサルはごく自然な疑問として聞いたようだった。確かに彼らの服はあちこちが破れ、泥や土埃でひどく汚れている。クレオは急に恥ずかしさがこみ上げ、せめて泣きじゃくった顔を洗いたい気持ちにかられた。クリフやエイルなら気にならないのにな、と不思議に思う。
「セサルはもうここに長いこといるの?」
クリフの問い返しに、セサルは軽く首を振ってみせた。
「いや一昨日からだ。前に泊まっていた宿が良くなかったんで、移ったんだ。デュレーには星の数ほど宿屋があるけど、良くない宿屋もやっぱりあってね。宿屋ギルドに加入してない宿屋だったらしい」
参ったよ、と小さく肩をすくめて見せる。
「宿はよく選んだ方がいいよ。実は昨日聞いたんだけど、ここもあんまりいい噂がないらしい」
「そうなの?」
「値段も相場よりちょっと高いみたいだしね。でもギルドには加盟してるし、食事もうまいし、今のところ俺は気に入ってるけど」
双子は顔を見合わせた。言葉は交わさずとも、お互いの言いたい事は伝わっているようだ。その様子をじっと見ていたセサルが、不思議そうな顔で尋ねる。
「なあ、君らは兄妹って言ったよな……?」
「ああ、よく似てるって言われるの。クリフ兄さんとは年も一つしか違わないし、そのせいだと思うわ」
慌てているクリフを横目で睨み、クレオはそつなく取り繕ってみせた。双子と聞けば良くない気持ちを抱く者も少なくない。旅をしてくる間に学んだ処世術であった。だがセサルは細かいことにこだわらない性格のようだった。そうなんだ、と軽くうなずいている。
エイルは、もう口を開くのも億劫といった様子で黙り込んでいた。シキを支えて歩いた双子も疲れただろうが、荷物を持って歩いたエイルも疲労困憊だった。荷物はほとんど残っていなかったとはいえ、シキの軽装鎧や長剣もあり、銀のさじより重いものなど持った事もないような少年王子には、かなり厳しい試練だったと言わねばなるまい。
下男のマーシュが朝食を乗せた皿を三枚持ってやって来た。待ちに待っていた食事である、クリフは早速パンにかじりついた。クレオは落ち着いて食べてよ、と言って顔を赤らめた。
「あの、聞いてもいい? セサルは一人で旅をしているの? 成人の儀式って言ってたけど、どんな事をするの?」
「ああ、俺の部落は砂漠にあるんだけど、一人で砂漠を越えなくちゃいけないんだ。儀式の期間は、自分で決める。部落へ帰って、自分がしてきた事を長老たちに話すんだけど、それで大人になったと認められればおしまい。まだ駄目だと言われたら、もう一度旅に出なくちゃいけない」
「大変そう」
クリフはうんうんとうなずいてはいるが、すっかり食事に夢中になっているようで、打っている相槌も適当だ。
「もう、クリフったら」
「だってお腹空いてたんだもん、仕方ないじゃないか」
潰し芋の塊を無理に飲み下しながらクリフが言う。クレオとセサルもスープやパンを口に運んだ。しかしエイルはパンを食べたきり、スープには手をつけていない。目の前に置かれた皿からスープを一口、それもほんの少し口に含んだだけで、さじを下ろしてしまった。
「エイル、食べないの?」
「食欲がないし……それに、これは私の口に合わない」
「また始まった。エイルったらいっつもそんなこと言って。後でお腹空いたって言っても、いつもみたいにシキが用意してくれるなんて思ってないでしょうね?」
「うるさいな、そんな事は分かってる。だが、これは食べられない」
「美味しいと思うけどなあ」
セサルと双子は首を傾げた。しかしエイルはそれ以上口をつけようとはしなかった。疲れすぎているから食欲が出ないのか。クリフは自分の皿のものを腹に収めながら、エイルの皿を見つめた。
「どうしても食べないつもり?」
「このスープは変な匂いがする。さじのせいだろう。味もおかしい」
それは、エイルが常々言っている言葉だった。王宮での食事には、常に金や銀の食器が用意されていた。食材の味を損ねないために必要なのだと言うが、まさか現状でそんなものが用意出来るはずもない。エイルは食事をする度に顔をしかめながら、同じようなことを繰り返して説明するのである。
――いつものことだ。
いつまでも相手にしてはいられない、と双子は肩をすくめた。
「食べたくないなら食べなきゃいいわよ。お金が勿体無いけどね」
「大丈夫、俺が食べるから」
クリフは言うが早いか、エイルのスープ皿を取り上げた。エイルはそっぽを向いている。結局エイルはそれ以上、何も口にしなかった。
「それじゃ、さよなら」
食事を終えたセサルが、あっさりと言って席を立った。別れを告げるような態度にクレオは驚く。
「え? もうデュレーを立つの?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
特にこれ以上彼らと行動を共にするつもりもないので別れを告げただけに過ぎないようだ。セサルは物事にあまり執着しない性格だった。それが砂漠の民の性質なのか、セサル自身の持前のものなのかは判然としなかったが、ともあれ彼はクレオたちが淋しがっているとは気づかなかったようである。
「まだこの宿にいるなら、また会うよね」
「さよならじゃなくてさ、またねって言おうよ」
セサルはほんの少し首をかしげたが、双子の笑顔にその意味を見出したのか、ややはにかんだ。
「ああ。じゃあ、また」
セサルが軽く手を振る。エイルもセサルと目が合うと、軽く手を挙げてみせた。セサルが宿から出て行くのを、双子は扉が閉まるまで見送り、それから使った食器を片付け始める。エイルは食器を片付けようとしない。当然といった様子でクリフたちが片付けるのを眺めている。それに気づいたクレオがエイルに怒るも、クリフが手馴れた様子でたしなめる。こんな事も、もはや日常茶飯事だった。食器を下男のマーシュに手渡すと、三人は勘定台へ向かった。宿の亭主が厨房から顔を出し、前掛けで手を拭きながら出てくる。
「はいはい、食事はいかがでした?」
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
「そりゃあ何よりですね」
「それであの、シキがいる部屋に、私たちも泊まれますか?」
「ええ、ええ、もちろんですとも。四名様ですね。先ほどあちらには薬食と痛み止めをお届けしましたよ。何とか口にしていらしたようです。今頃はお休みになってると思います」
「そうですか、よかった」
シキの食事と薬の代金は宿代と合わせて払ってくれればいい、起きてからで構わないからとメイソンは太っ腹である。三人はその申し入れをありがたく受け入れ、とにかく体を休めようと二階への階段へ向かった。
「しかし、お前たちはよくあのスープが飲めるな」
「エイルったらまだ言ってる。もういいじゃない」
「お腹いっぱいになったら眠くなっちゃったな」
「ちょっとクリフ。シキが寝てるのよ、静かに開けて」
「あ、そっか」
「シキのことを忘れるとは」
「ごめんごめん」
部屋の扉をそっと押し開ける。部屋にはもう他の客はいなかった。木枠の窓はシキのためか閉められている。薄暗い部屋の奥でシキは寝息を立てていた。恐らく疲労と怪我の回復のためだろう、昏々と眠っている。
「しー……」
三人はそっと部屋に入り、それぞれの布団に腰を下ろした。布団が敷いてあるのは硬い木の床ではあるが、安心して座っていられることが有難い。ようやく人心地がついたといったところだ。
「あーあ、疲れたね」
「そりゃそうよ、一晩中歩き続けたんだもん。本当に、とんでもない夜だったね」
「私たちが助けに行った時、クレオは大泣きだったな、子供のようだったぞ」
「な、何よ、エイルだって泣いてたじゃない」
「私がいつ泣いたというのだ。馬鹿なことを言うな」
「もう忘れたの? エイルったら『シキ〜起きて〜』って泣いてたくせに」
「そんなこと言ってない……!」
「しーっ!」
クリフが指を唇に当てる。声を荒げかけたエイルは、慌てて黙り込んだ。三人は思わずシキを振り返ったが、動く気配はなかった。寝息は安らかだったが、時折痛むのか、うめき声を上げている。冗談や軽口交じりの明るい雰囲気は打ち消されてしまった。
「……どのくらいで治ると思う?」
「出血が激しかったから、熱が出るだろう」
「どうして分かるのよ」
「若い騎士が大怪我をした時、ジルクやシキに聞いた。切り傷などで大怪我を負うと、高熱が出るものらしい」
「そうなの……」
「熱が下がればひとまずは大丈夫だと思う。だが完全に治るには半月か、もっとか……分からない」
「きっと大丈夫だよ。シキは強いもん。な、エイル」
「うん」
――何よ、クリフには随分素直じゃない。
クリフの言葉にうなずくエイルを見ると、口にこそ出さなかったが、クレオは何だか面白くなかった。崖から落ちた後、二人に何があったのか聞く余裕もなかったが、あれからクリフとエイルは妙に仲がいい。どんな事があったら、あんな生意気なエイルが素直に言うことを聞くようになるのだろう。
「ああ、お腹いっぱいだあ」
クリフが欠伸をかみ殺している。
「そうだね、私も眠い……。やっぱり疲れてるんだわ。寝た方がいいね」
荷物の確認、シキの怪我の治療、この先の相談、情報収集……やらねばならない事は山のようにある。しかし今は何より、体力の回復が重要だった。三人はうなずきあうと、早速それぞれの布団にもぐりこむ。
薄暗い部屋の、冷えた空気が心地いい。部屋の外は明るいハーディスの光に満ち溢れているのだろう、木窓の隙間から幾筋かの光が差し込んでいる。窓越しに通りを行き来する人々のざわめきが聞こえているが、それすらも子守唄のようだ。夢にまで見た布団にくるまると、今までの疲れが一時に攻め寄せてくる。そうして三人は、ひきずりこまれるように眠りに落ちていった。
部屋は静かだった。自分がいつ目を覚ましたのか分からなかったが、エイルは気分よくまどろんでいた。窓の外の音に耳を済ませたが、雑踏や人声は聞こえない。部屋の中では宿に泊まる人々の寝息が聞こえている。
――すっかり日も暮れたようだ。随分と寝てしまった。しかしさすがに腹が減ったな。
朝食をろくに食べなかったせいで、エイルは空腹を覚えていた。しかしここで双子を起こすわけにはいくまい。腹が減ったなどと言おうものなら、クレオが勝ち誇った顔で言うに違いない。「それ見たことか。だから食事をしろと言ったのに、これだからエイルは」と。そんなことは我慢ならない。布団を顔まで引き上げ、腹が鳴らないよう祈る。三人が眠りについた時刻からかなりの時間が経っているのだ、遅かれ早かれ二人も目を覚まし、食事をしようと言うだろう。
――それにしても……この先どうなるのだろうか。
静かな部屋で布団にくるまりながら、エイルは天井を見上げた。自室で寝ていた時に見えた景色を思い出すと、何だかもう遠い昔のような気がする。柔らかな鳥の羽毛をいっぱいに詰めて、絹でくるんだ軽く柔らかい布団。いくつも並べてある、頭を置くと埋もれてしまう絹の枕。見上げれば天蓋から吊るされる薄布の透かし模様が見える。寝るときは侍女がよく眠れる香を持ってきた。ここでは木の床に薄い布団。枕はないので上着を丸めて頭を乗せている。エイルはその落差に思わず溜息を漏らした。城での暮らしはもはや夢の中の出来事だったかのように思える。
――あれから半年以上、か。コーウェンとやらいう町まであとどのくらいかかるか知れないが、きっとまだ遠いのだろうなあ。
クリフのおかげで命拾いをしたとはいえ、あんな恐ろしい目に遭うのは二度とごめんだ、とエイルは思った。城にいた時は命の危険など、それについて考えたことすらなかったというのに、一体これはどういうことだろう。何がどうしてこんなことになってしまったのだろうか。
――コジュマールだ。
コジュマールは、エイルにとって叔父にあたる。エイルの父、つまりレフォア国第十三代の王であるエイクスの弟。エイクスは長男で、弟と妹が三人ずついる。コジュマールは下から二人目の弟であり、レフォア軍を率いる大将軍でもあった。それが反乱を起こし、圧倒的な軍事力をもって城へ攻め入った。そしてエイクス、その妻にしてエイルの母親であるマードリッド、エイルの異母兄であるシエルまでを葬り去ったと、そう、シキは言った。エイルにとって、シキが言うことは自分の目で見た事実と同じか、それ以上の重みを持っている。エイルには、もう二度と両親や兄に会えないという事実を、受け入れる以外に手段がなかった。容易く納得出来たわけではない。ただ突然変わった環境への対応に迫られていたので、悩む暇もなかったのである。
――ジルクは今頃どうしているだろうか。
あれから三百年余が経っているとは、エイルはいまだに信じがたかった。三百年前と今の世界は色々な部分で違っているのだろうが、レフォア城から出たことのない王子にとっては、その差はよく分からない。現在と過去の差を感じるより前に、貴族と平民の生活の差を感じ、驚愕するばかりだった。……このまま何とか順調に旅し、コーウェン近郊で大魔術師を見つけることが出来、過去の世界に帰ることが出来たとして。あの時のレフォアに帰れたとして。そこに何が待っているかといえば、勝ち誇るコジュマールとその軍ではないだろうか。もしそうならば、シキとエイルに何が出来るだろうか。ほんの一瞬、いっそこのままこの世界で暮らしたい、という考えがよぎる。しかしエイルはその考えをすぐに打ち消した。
――私が住む世界はここではない。レフォアが反逆者に乗っ取られているならば、なんとしてでも正統な王位を取り戻す。それが王家に生まれた私の使命だ。叔父上、いや反逆者コジュマール。王位はあなたのものではない。父王陛下の、シエル兄殿下の……でなければ私が王位継承者だ。
エイルは両手の指を合わせて握りしめた。どうすればいいかは分からない。自分は今、何も持っていない。しかし彼は確かに「王の息子」だった。エイルは唇を固く噛み締め、なんとしても過去のレフォアへ帰ることを、そしてレフォア国に正統な王位を取り戻すことを胸に誓ったのである。
しかしどれだけ高潔な誓いとて、空腹には勝てなかった。エイルは思わず握り締めていた両手を自分の腹に当てる。ぐっと押さえたが、腹はあえなく切ない音を立てた。
――クリフたちはまだ起きないのか。
恐らく、もう真夜中といっていい時刻だろう。時を告げる鐘の音も、もう随分鳴っていないようだ。日の入りを告げたのを最後に、次に鳴るのは日の出の時刻だが、エイルが目を覚ましてから一度も鳴っていない。エイルは何度目かの寝返りを打った。
何かが軋む音がした。古い木造の宿は、家鳴りすることがある。建物のどこかが、何かの拍子に音を立てるのだ。しかし天井を睨みつけて空腹に耐えているエイルの耳に届いたその音は、家鳴りとは違うように思えた。確かに木がしなって鳴る音ではあったが、それはゆっくりながら規則的で、しかも徐々に近づいてきている。
――誰かが廊下を歩いている……?
エイルは思い、不安に駆られた。こんな時刻に誰が宿の廊下を歩くというのだろうか。自分たちはさておき、デュレーの町に限って夜間に到着する客はそうそういないはずだ。
――まさか、盗賊か。
宿の客を狙う賊はどの街にもいる。こそどろは寝ている客の荷物をこっそりと漁って金や武具などを盗んでいく。中には客が起きて騒ぐ前に殺してしまえ、というような物騒な盗賊もいるだろう。だが、稀である。エイルは、だからまさかそんなことはあるまい、と思った。がしかし、恐怖を拭い去ることはできない。足音は止まることなく、確実にこの部屋へと近づいている。
もし起きているのがシキであれば、剣を手繰り寄せ、息を殺して待つだろう。クリフやクレオだったらどうするだろうか。自分がすべき事はなんだろうか。エイルは必死で考えた。もちろん、足音の主がこの部屋を目標にしているとは限らない。しかし、もしそうだったら?
エイルは素早く、しかしなるべく音を立てないように布団から降りると、クリフに近づいた。シキは怪我をしているし、今一番頼りになるのはクリフだ、という判断である。とにかく、自分一人でいたくはなかった。しかしいくら揺すってもクリフは寝息を立てているばかり。耳元に口を寄せ、小声で呼んでみたが反応がない。足音はどんどん近づいてくる。エイルはそこを離れクレオの寝台に近づいたが、結果は同じだった。緊張が高まり、エイルは唾を飲み込む。足音が止まった。恐らくは、エイルたちの部屋の前で。
エイルは慌てて自分の布団にもぐりこんだ。寝た振り以外に、何が出来るだろうか。他には何も思いつかない。布団を鼻までひきあげ、唾を飲み込んだ。嫌な汗がじわりと滲む。
扉がかすかに鳴り、開いた。やはりこの部屋が目的だったのだ。部屋はまっ暗だったが、ずっと目を開けていたエイルの目は、闇に慣れている。足音の主である、二つの影が部屋に入ってきたのが、布団のふちから見えた。高鳴る鼓動が彼らの耳に入るのでは、と思う。息が苦しくなったが、咳払いも、喉を鳴らすことさえ、怖くて出来なかった。
彼らはやはり盗人であるようだった。人々の間を、気配を殺してうろついている彼らが一番欲しがるのはやはりこれだろうな、とエイルは手に力を込めた。汗が滲んだ手には、金貨や銀貨が入った袋が握られていた。寝る前に、「大切なものだから、肌身離さず持っていろ」と双子に言われ、布団の中に引っ張り込んでいたのである。
――まさか私の布団をはいだりはしないだろうな。
残忍な盗賊が布団をはぎ、袋を取り上げて剣を振りかざしているところを想像する。エイルは思わず身震いした。まさかとは思えど、不安は拭いきれない。とにかく最初に客を殺そうとするような輩ではないようだが、この後どうなるのかエイルには分からなかった。二人の影が、低い声で言い交わし始める。大柄な方が、小柄な方に文句を言っているようだ。
「ないじゃねぇか、どうなってんです?」
「うるさいぞ、よく探せ。第一、あいつらが金貨をたんまり持ってると言ったのはお前だぞ」
「そうそう! 袋にじゃーらじゃら……」
「大きい声を出すんじゃない」
「どうせこいつら起きやしねぇよ、特製スープでぐっすりおねんねだ」
「ああ、俺が作ったんだからな。それは確かだ、そうさ、お前の言う通りだよ。だがな、いいか、他にも客はいるんだ。分かったら静かにしろ」
「ちっ」
――まさか。
忍び込んできたのは下男のマーシュと宿主メイソンだった。物音に敏感なシキやクリフが起きないのは、メイソンの料理に細工がしてあったからなのか。怪我や疲労だけでなく、人為的な策略があったのだ。おかしな味がすると思ったのは間違いではなかった。味にうるさいエイルの舌は、敏感にその違いを感じ取っていたのである。エイルは、怒りに燃えた。何と非道な、と布団の中で身じろぐ。マーシュとメイソンは荷袋をさぐり続けている。
「ああ、これはどうです? 金貨じゃねえけど、いい剣だぜ」
「どれどれ……ほお、なかなかの品だ。金になるのは間違いないな。よし、これをいただくか」
マーシュが見つけたのは、シキの布団のそばに置いてあった長剣だった。メイソンが漏れ入る月の光にそれをかざして見ている。
レフォア王エイクスがシキの働きに対して与えたその剣は、そんじょそこらで手に入るような品ではない。それは、一介の剣士が持ち歩く剣としては充分すぎるほどに意匠を凝らした、立派なものだった。飾るための剣ではないゆえにごてごてとした装飾がされているわけではないが、しかしそれでも、宝飾品といって差し支えないほどの美しさである。二人がうなずきあってそれを手に取った瞬間、甲高い声が部屋に響いた。
「それを奪うことまかりならん!」
制止の声に、二人の男は凍りついた。しかし慌てて振り返ってみれば、一人の少年が立ち上がっていた。怒りに燃えた瞳が二人を睨みつけている。
「その剣はシキの命にも等しいものだ、お前たちになぞ渡すものか」
二人は呆れたようにエイルを見つめた。その視線でエイルは、自分が何をしているのか、ようやく気づく。武器も何も身につけていない、無防備な少年である自分が、寝台の上で賊に指をつきつけているのだ。あまりの驚きと怒りに立ち上がってしまったが、この先どうすればいいのかまったく分からない。
「何でぇ、眠り草で寝てるはずじゃなかったんですかい?」
あきれ返ったような声で、マーシュが尋ねている。メイソンは首をすくめて、知らん、と言い捨てた。
「そんなことより、あの大事そうに抱えてる袋だ」
「あれが財布だ、間違いない。……おい小僧、なぜ起きてるか知らねえが、その袋をこっちへよこしな。いい子だから大人しく、な」
「お前一人じゃ何も出来やしねえ。いいから黙ってよこしな」
たかが少年一人と高をくくっているのだろう。二人は手を伸ばして詰め寄った。その顔には馬鹿にしたような薄ら笑いが浮かんでいる。それを見た瞬間、恐怖より腹立たしさがエイルを支配した。
「渡すものか!」
袋を胸にひしと抱きしめ言い放つと、やおら扉に向かって走り出す。
「ま、待てこら!」
「いい機会だ、この剣の試し切りといこう」
メイソンは残忍な表情で剣を持ち、一足先に部屋を駆け出したマーシュを追った。エイルは必死に廊下を駆け抜け、階段に辿り着こうとしていた。先回りしようとするマーシュをするりとよけて、階段を転がるように駆け下りる。大柄なマーシュは追いかけようとした拍子に、階段の低い天井に頭をこすりつけてうめいた。
「マーシュ、そこをどけ!」
言いながら、体の小さなメイソンは階段に飛び込んだ。マーシュが後に続く。メイソンは振り向きもせず、階段を降りてくる下男をなじった。
「こんな小僧一人に何を手こずることがあるんだ、馬鹿め、早く来い!」
叱責されたマーシュは首をすくめ、怖い怖い、と小さく呟いた。メイソンは狂気じみた光が目に浮かび、分厚い唇はひしゃげている。善人にしか見えなかった昼間とは別人のようである。
食堂は暗い。夜半であるからして、当然静まり返っている。しかしエイルが逃げ回るのと、二人がそれを追い回すのとで、椅子や机が音を立てた。メイソンたちは「騒ぎを聞きつけられては」と、思うように動けない。そのおかげで何とか捕まらずにすんではいたが、このままでは遅かれ早かれ捕まるだろうことは想像に難くない。
「く、来るな!」
二人に詰め寄られたエイルは、机を背に虚勢を張った。メイソンがにやりと笑う。その時、エイルの目の端に、皿が積み上げられているのが映った。
「やめ……!」
メイソンが止める前に、エイルは勢いよく両手で机の上の皿をすべて払い落とした。たくさんの皿が床に叩きつけられる音が耳に刺さる。マーシュとメイソンが思わず目を強くつぶった隙に、エイルは身をひるがえしている。マーシュが怒りをあらわにして駆け寄り、メイソンはシキの長剣を引き抜いた。それを目にして、恐ろしさに身がすくむ。しかし震える足を何とか押さえ、エイルは口早に叫んだ。
「私がお前らなどに負けるものか!」
扉を開け放つ。怒り狂ったメイソンたちの手があと一歩で届く、というところですり抜け、エイルは裸足のまま、通りへと駆け出した。
「くそがきめ!」
マーシュの叫びと共に彼らはエイルを追って大通りへと飛び出した。あたりを見回したが、大通りのどこにも少年の姿はない。
「逃がすわけにはいかないぞ、早く追うんだ!」
「ふざけやがって、あの野郎」
「マーシュ、お前はあっちだ。俺はこっちへ行く」
怒り狂った二人の男は、大通りを駆け出す。と、誰もいなくなった宿の入り口で、扉の影からエイルが姿を現した。
「こういうのが……そうだ、灯台下暗しというのだ」
高鳴る動悸を抑えながらも、エイルは小さく笑った。しかし、遅かれ早かれメイソンたちはここへ戻ってくるだろう。その前に何とか手を打つ必要があった。クリフたちは恐らく、目を覚まさない。例え起きたとしても、怪我人のシキを移動させるのは難しい。エイルは、自分の弱さを改めて痛感した。
「くそっ」
思わず、王子にあるまじき言葉を吐き出す。しかしその時、突然いい考えがひらめいた。宿の裏手へと走る。メイソンの宿の裏にあるのは、やはり宿屋だった。その隣は古道具屋で、更にその隣はまた宿屋である。エイルはその最初の宿屋の扉を、思い切り大きな音を立てて叩き始めた。
「開けろ! 泥棒だ! 扉を開けるんだ!」
思いつくままに叫びながら、エイルは扉を叩き続けた。しかし夜中であることが災いしている。反応は返ってこない。焦ったエイルは隣の古道具屋の扉へと走った。そこでも同じように叫びながら扉を叩く。中から物音がした。が、それとほぼ同時に通りの向こうからマーシュの、そしてメイソンの声が聞こえてきた。
「あそこだ! 騒ぎ立てやがって」
「今ぶっ殺してやるからそこで待っていろ」
エイルは、当然だが、大人しく待ってはいなかった。メイソンが言い終わる前に、更に隣の宿屋へと走っている。
「泥棒だ! いや人殺しだ! ここを開けろ、私を助けろ!」
手が痛むのも構わず、エイルは必死で扉を叩いた。メイソンとマーシュが駆け寄ってくるのが目のふちに映る。恐怖したエイルが再び走り出すのを、メイソンは許さなかった。剣を思い切り振り上げる。エイルは扉に背を押しつけ、ここまでかと息を呑んだ。しかしメイソンは思った以上に重いその長剣を、片手ではうまく操れないようだった。剣が振り下ろされる。エイルは目を見開き、死に物狂いで避けた。長剣はエイルの上着と肩先をかすめたに過ぎず、結果、メイソンの怒りは更に高まった。エイルは、衝撃と熱さにも似た痛みが走った左肩を抑えて座り込んでいる。
「マーシュ、この小僧を押さえつけろ!」
メイソンは下男に向かって怒鳴ると、再び、今度は両手で剣を振り上げた。と、宿の扉が開く。エイルの襟首を掴もうとしていたマーシュと、剣を持ち上げたメイソンは、そのままの姿勢で凍りついた。
「随分と物騒ね」
扉を開け、美しい声をこわばらせて言ったのは、背の高い女だった。豊かな黒髪が波打ち、卵型の美しい顔を縁取っている。意志の強そうな瞳には瑠璃色がきらめきを放つ。こんな時間まで起きていたのか、寝巻きではなく、胸の部分をゆったりと大きく開けた丈の長いコットを腰ひもで止めている。エイルは慌てて彼女の後ろに隠れた。
「人殺しだ!」
エイルが指差しているのはメイソンが手にしている長剣である。メイソンとマーシュはそこで初めて、我に返ったようだった。
「ティ、ティレル」
「あんたたち、いよいよ本性を現したってわけね」
「いやっ、違うんですよ」
メイソンは慌てて剣をマーシュに押しつけ、両手を広げて敵意のないことを示そうとした。いつもの柔和な笑顔に戻ってはいるが、額に汗が浮いている。剣を振り回して少年を殺そうとしていた事実をどう誤魔化そうか、この場をどう言い抜けてくれようか、とメイソンは物凄い勢いで考えていた。エイルがティレルの後ろから勝ち誇ったように叫んだ。
「そいつらは私を殺そうとしたのだ。しかもその剣は私の連れのものだぞ」
「そりゃあ大変だわ」
「そ、そ、そんな子供の言うことを信じてもらっては困る、何を根拠に……まさかそんな、あるわけがないでしょう、善良な宿の主人が子供を……なんて、そんな、いいですかティレル」
メイソンが必死で言いかけた時、ティレルがすっと何かを指し示した。マーシュとメイソンがつられて振り向くと、そこには人々が集まり始めていた。エイルが大声で叫んだのは無駄にならなかったようだ。近隣の家々には明かりが灯され、寝間着姿の人々が戸口に姿を見せていた。メイソンの宿の窓も開けられいくつも顔が覗いている。彼らは一様に、不審そうな顔でこちらの様子を伺っていた。ティレルの宿の近くには、十人以上の人が集まっていた。さっきエイルが呼んだ古道具屋の主人や、その隣の宿の夫婦の顔もその中にある。
「あんたら、そんなもんを振り回して、一体何をやってるんだい?」
「いや、その、これはですね……」
メイソンは焦り、マーシュは頭を抱えている。
「そやつは部屋に忍び込み、我々の金を奪おうとした。あまつさえ、私を殺そうとしたのだ」
エイルの声に人々はどよめいた。その肩に血が滲んでいるのを見て、ティレルは眉をひそめている。彼女は「手当てをしなくちゃね」と言うと、宿の中へ姿を消した。
「いや皆さん聞いて下さい、事情があるんですよ」
メイソンが流暢に話し出す。彼は動揺する心中を顔に出さぬようにしようと、必死だった。
「すべてはその子の勘違いなんですよ。彼らの一行は私の宿に泊まっているんです。客の持ち物を盗むなんて真似を、私がするわけないじゃないですか。お連れさんが怪我をなさってるんで様子を見に行ったんですよ、私とマーシュは。もちろん親切心です。それを何か勘違いされたんでしょうね」
「夜中にこっそり忍び込んで、金が見つからないって言ってたくせに」
「嫌ですね、人聞きの悪い。そんなことを言うわけがない」
「シキの剣を盗んだじゃないか!」
エイルは怒りのあまり興奮して叫んだ。人々の視線がメイソンとエイルを行ったり来たりしている。メイソンは冷静を装い、丁寧な口調で言った。
「私がこの剣を盗んだ? 人聞きの悪い……これは私の者ですよ。第一、盗んだなんて証拠がどこに?」
一部始終を見ていたエイルはあまりの言葉にあきれ返った。が、しかし証拠と言われれば自分の目しかない。言葉が喉につまる。シキの長剣は、エイルの父エイクスがシキに与えた物だ。しかしそれを証明する事は、エイルには出来なかった。レフォア王家の刻印は入っているが、そういう剣は他にもある。素晴らしい品で、マーシュやメイソンのような階級の者が持っているようなものでないのは確かだが、絶対に持っていないとは言い切れない。エイルは唇を噛んだ。
「それはあんたのものじゃない、シキって人のものだよ」
張りのある声がし、人々はその声の主を振り返った。
「セサル!」
「今朝、その剣を見たよ。彼らの部屋で。それはシキのもの。確かだ」
エイルは驚きと喜びの入り混じった顔でセサルを見つめている。セサルは茶褐色の目を片方だけ、素早くつぶってみせた。エイルの肩を清潔な布で覆うように結んでいたティレルが、溜息とともに言う。
「私が出た時、あんたは剣を振り上げてたわね。この子に向かって振り下ろそうとしてた」
「そ、それは、いやその……」
一旦は何とか逃れられるかと思っただけに、メイソンの慌て振りはひどいものがある。状況はメイソンに有利になるどころか、ますます深みにはまっていくようだった。額を拭きながら、メイソンは何とか言い訳しようと口を開け閉めした。近所の宿の主人が、隣の宿の夫婦と話している。
「メイソンとこは、客が金を持ってないからって身ぐるみはいで追い出すっていう噂だな」
「ああ。だが噂じゃなかったようだね。それだけだって十分あくどいが、追い出された客が本当に金を持ってなかったか……怪しいもんだ」
「夜中に客の金品を盗んでおいて、それで翌朝、金がなきゃ荷物を置いて出て行けっていうわけね」
「もしそれが本当なら、ひどい話だ」
「嘘です、嘘に決まってます、そんなのは単なる噂話! 子供の言う事を信じるなんて、あんたらはどうかしてるんじゃないですか? え? 子供の戯言を信じるなんて」
メイソンは両腕を振り回して抗議したが、最早それに耳を貸す者はいなかった。古道具屋の老人がしわがれ声を張り上げる。
「おいメイソン! あんたがどんな商売をやろうと、私にゃあ関係ない。だがな、子供を傷つけるなんて事は許さんぞ」
「そうだ! それに、盗みは重大な罪だぞ!」
人々の中からメイソンを非難する声が次々と上がり、メイソンはのどを詰まらせたように黙り、目を白黒させた。
「そうだ。許される事じゃない」
再び人々の間から声が上がる。集まっていた人々は、ひときわ大きな声を上げたその男を振り返った。男は小柄だが肉付きのいい体格で、頭は見事なまでに禿げ上がっている。後ろ手に両手を組んだ男は、人々をかき分けて進み出た。その堂々たる様子に、人々は彼が話すのを待って、静まり返っている。
「お前のやっていた事は、罪だ。そうだろう?」
男は繰り返すと、首を傾けてメイソンを見た。
「これはデュレー全体の宿にも影響する事件だ。メイソン、お前は宿屋ギルドの裁判にかけられるだろう」
「ま、待ってくれ、ドロヘッジ」
「メイソン」
「い、いやドロヘッジさん! ギルド長! ちょっと待って下さいよ、そんな馬鹿な話があるものですか、私は善良な……」
「親愛なるメイソン、お前とは長い付き合いだ。これまで、お互い上手くやってきた。お前が少々あくどい商売をやろうとも、私たちの関係にひびは入らないと思ってたんだ。しかし私は甘かったようだな。友人として忠告すべきだった。きちんと罰は受けるんだ。罪は罪だよ、メイソン」
メイソンは間抜けな、信じられないという顔で突っ立っていた。宿屋ギルドの長、ドロヘッジが続ける。
「お前はいつも、考えが浅いんだ。……少しばかりね。今回の事は私も非常に遺憾に思う。お前がしでかしてしまった事は、もう取り返しがつかない。諦めるんだな」
首を振って、「残念なことだ」と付け加える。集まっていた人々は、安心感を持ってドロヘッジに任せることにしたようである。ドロヘッジは宿屋ギルドの長であると同時にデュレーの宿の多くを経営している町の実力者だった。この町はラマカサの領地であり、領主はフォマーではあったが、これまでにも町で起こった色々な問題を解決してきたのはドロヘッジであり、事実上、彼がデュレーの町を取り仕切っているといえる。彼の言葉に反対する者はいなかった。
「皆さん、この男は私が責任を持って預かりましょう。我々宿屋ギルドの裁判にかけ、公平な裁きを下し、必要であればそれなりの処分を言い渡します。それでよろしいですね?」
「ああ、ギルドで決めるのが一番だ」
「そうだな、後はドロヘッジさんに任せるのがいいだろう」
ドロヘッジは人々の承認を得ると、メイソンから剣と鞘を取り上げ、扉の脇でティレルに隠れるようにして立っていたエイルに手渡した。シキの長剣は、エイルの肩に届く長さである。剣を鞘に収めることが出来ないので、仕方なくエイルは右手に剣、左手に鞘を持ってドロヘッジにうなずいた。
「ドロヘッジとか言ったな、礼を言うぞ」
「これはこれは……。まるで貴族様のような物言いだな。少年、頭ぐらい下げたらどうだ」
エイルは、その言葉にはっとした。頭を下げるなど、思いつきもしなかった。しかしドロヘッジの言うことが間違っているわけではない。助けてもらったのだから礼を言う、頭を下げるのが当たり前なのだ。
エイルは悩んだ。この場にいる人々から見れば、自分は平民の少年に過ぎない。貴族でもなく、ましてや王族でもない。誰一人として、エイルが王子だなどとは思わないだろう。彼がどれほど主張したところで、何の根拠もない。やはり、頭を下げなければならないのだろうか。王子である自分が、この、自分を見下ろしている男に……。愕然として、エイルは黙り込んでいた。時間にすればほんの数秒間だったが、エイルの頭の中で、相反する二つの考えが目まぐるしく入れ替わった。
「ふむ、躾がなってないな。まあいい。……ティレルさんを始め、お集まりの皆さん、夜中に騒がせて申し訳なかった。それでは私はこれで」
エイルに背を向け、ドロヘッジは人々に一礼した。人々はそれをきっかけに、三々五々帰っていく。古道具屋の老人はエイルの肩に手を置き、怪我を大事にしろよ、と言い残していった。ドロヘッジも、メイソンとマーシュについてくるよう促して、メイソンの宿の方へ歩き去った。家々の扉が閉まると、デュレーに夜の静寂が戻ってきた。後に残っているのは、複雑な表情のエイルと、ティレルだけだった。
「メイソンたちと宿に戻るのが嫌だったの?」
ティレルは両手を腰に当てて言った。エイルはティレルを見上げ、尋ねた。
「お前も、私の躾がなっていないと思うか?」
思わぬ問いかけに、ティレルはその少年をまじまじと見つめた。寝癖のついた髪に、寝間着姿。靴すらはいていない。どこからどう見てもひどい格好で、事情を知らなければ「だらしない」としか言いようのない格好ではあった。しかし少年の透き通るような瞳と、一文字に結ばれた唇ははっきりとした意思を持ち、生まれながらの性質は確かに平民とは違う風格を備えていた。ティレルは少年をしばらく見つめ、それから真顔で言った。
「そうは思えないわ」
「そうか!」
「だけど、人に礼を言う時はやっぱり頭を下げるものよ」
エイルは歓喜の色をありありと浮かべたが、ティレルの言葉に再び沈黙する。エイルは、葛藤していた。そしてようやく出した結論を自分に納得させ、大きくうなずいた。長剣とその鞘を地面に寝かせる。それからエイルはティレルの瑠璃色の目を真っ直ぐに見た。
「ティレル、助けてくれてありがとう」
城にいる時、礼法や教養の教師にうるさく言われて嫌だった、正式なやり方を思い出す。かかとを合わせ、背筋を伸ばし、最高の礼儀を持って、エイルはティレルに頭を下げた。
「どういたしまして」
ティレルは少年の礼を見て微笑み、長いコットをつまんで膝を曲げた。
「……さて、このままここで立ち話というわけにもいかないわね」
「うむ。私の連れをあの宿に置いておく訳にもいかん」
「うちも宿をやってるのよ。よかったらこっちへ移る? メイソンのところよりは良心的だと思うわ」
ティレルが微笑むと、少しのあどけなさが見える。エイルはティレルの申し出にうなずき、彼女と連れ立ってメイソンの宿へと向かった。
そして翌朝には、シキたち四人と彼らの荷物はすべてティレルの宿へと移された。ドロヘッジの提案により、メイソンも含めた宿の人間全員が引っ越しを手伝った。下男のマーシュはいつの間にか姿を消しており、メイソンはその目に悔しさを燃やしていた。
空は高く、穏やかな町並を象徴するかのようにすっきりと晴れ渡っていた。シンジゴ山脈の峰々に囲まれた町、デュレー。南北を行き来する旅人たちで賑わう他は、目立って特徴のある町ではない。平野の町々のように堅固な城壁があるわけでもなく、特産物もこれと言ってない。宿場町としては有名だが、それ以外はいたって平凡な町であった。
時を告げる鐘が長く、二度、鳴る。家々の屋根から朝食の準備の煙が立ち上り、町の中心部では市場が賑わっている。
旅人たちが行き来する周辺、特に多く宿屋が集まる街の北区画の一角にティレルの宿はある。木の看板には「食事と布団と素晴らしき調べ」と彫りつけられていた。ティレルの母親が宿をやっていた頃に作られたものだという。石造りの二階建て。周囲の宿屋に比べてずっと大きい事を除けば他となんら変わりない、素朴な建物だ。二階の窓のいくつかが開けられ、中から少女の声が聞こえてくる。
「何度言ったら分かるのよ!」
鼻息も荒く、両腰に拳をあてる。睨みつけているのは目の前にいる少年。少年は巻き毛をかきあげ、わざとらしく両手で耳を塞いだ。
「うるさいなあ。分かっていると言っているじゃないか」
「分かってないから言ってるんじゃないの」
「そんな大声を出すと、シキの怪我が悪化するぞ」
「なんですってぇ!」
火に油とはまさにこのこと。言ってから「しまった」と思ったが、エイルは大仰に肩をすくめるだけに留めた。なんと言えばいいか分からなかったからだ。
――クリフはまだかな。
喧嘩の仲裁役はいつもクリフの役目だ。エイルもクレオも、お互いにちょっとやりすぎたかと思う事はあるのだが、どう納めればいいか分からなくなる。ついつい喧嘩が加熱していく。クリフがいれば「二人とも落ち着いて」と間に入ってくれる。だがそのクリフは、早朝訓練に出たきり、まだ帰らない。
エイルは、クレオと二人きりでいるのが少々気詰まりだった。クレオとは、喧嘩したくてしているわけではない。けれど、何故かいつも言い合いになり、最後にはクレオが顔を真っ赤にして怒る。今日もまたそういう事になりそうな気がして、エイルはお茶でも飲もうと二階へ上がったのだった。だが、シキの部屋へ入ろうとしたところで、クレオに声をかけられたのである。シキを起こしてはいけない、というのがクレオの配慮だったのだが、腕をひっつかまれて隣の部屋へ押し込まれたエイルにしてみれば、乱暴されたの一言である。そうしてまた、いつもの言い合いが始まってしまったのだった。
「シキはあんたのお茶入れ係じゃないんだから」
「だから、それはもう分かっていると言っているだろう」
「じゃあなんでシキの部屋に行くのよ。シキはさっきようやく寝たばっかりで、それでも傷が痛んで、寝つけないでいるっていうのに」
「だから! お前に言われんでも分かっている。茶を入れるくらい、私は自分で……」
「あんたがそばでがちゃがちゃしてたら起きちゃうわよ。そしたらシキは手伝おうとして立ち上がっちゃうでしょ」
シキの足の怪我を思い、足が痛んでも自分のためにお茶を入れようとするであろうシキを思う。苦虫を噛み潰したような顔のままだが、エイルは黙っていた。口答えしないエイルを見て、クレオは満足そうに吐息する。冷静になって、ふと思う。急に腕を引いたのは、強すぎたかしら。
「腕、痛かった?」
「別に」
「あの、ごめんね」
「ふん。珍しい事もあるものだ」
照れ隠しに、エイルはそっぽを向いた。
「人が謝ってるのに、そういう態度はないでしょ」
「悪いと思うなら、最後までその態度を崩すな」
「大きなお世話よ、ほっといて!」
「何を! お前、私を」
「『誰だと思っているんだ』、でしょ。もう聞き飽きたわよ。……それより、そこの廊下にある箱。下へ運んでってティレルに言われているの、頼んだわよ」
「なんで私が」
エイルは目をむいたが、クレオは既に姿を消している。扉から顔を突き出し、階段を下りて行くクレオの後頭部に向かって舌を出した。と、はしばみ色の髪が見える。クレオが戻ってきたのかと慌てたが、階段を上ってきたのはクリフだった。
「なんだ、びっくりした」
「何が?」
「いや別に、何でも。……そうだ、クレオがこの箱を下へ運べと言っていた」
「衣装箱か。結構重いんじゃないの、これ」
「そうか」
「うーん、これは確かに重いけど、エイルでも一人で運べると思うな」
エイルが口を尖らせると、クリフは爽やかな笑顔を浮かべた。
「大丈夫、エイルには出来るよ」
手伝え、と言うつもりだった。もちろん、シキなら手伝うどころか、代わりにやってくれる。けれどクリフには手伝うつもりもないようだ。反論しようとしたエイルは、クリフの目の中にいたずらそうな光を見つけた。
「出来るだろ?」
さきほどのクレオと同じ格好。両手を腰に当て、クリフは楽しそうだ。エイルは肩をいからせる。
「このくらい、私には簡単な事だ」
『私たちはあなたの家来でもないし、小間使いでもないの』
ティレルの宿に移ってすぐ、クレオが口にした言葉だ。イルバで再会した時、従者として仕えることを許す、とは言ったものの、本当はそういう扱いではいけないとエイルにだってもう分かってはいた。クリフやクレオは自分の召使ではない。これまではそれをうやむやにしてきたが、クレオははっきりと言葉にして、エイルにもそれを認めさせようとしていた。シキが怪我で起き上がれないのだから、エイルは自分で自分の世話を焼かねばならないのだと。
エイルは生まれてこの方、着替え一つにしても一人でやった事はない。良いも悪いもなく、それが当たり前だった。一度、五歳くらいの頃だったろうか。廊下で侍従が物を散乱させているのを見たことがある。たまたま一人だったエイルは、ごく自然にそれを手伝おうとした。だが、侍従は顔をひきつらせて断った。
「エイル様、おやめ下さい」
後になって、教育係が教えてくれた。
「そういう時は、見てはなりません。侍従の失敗だと分かればその者が罰せられるのですよ」
エイルはその侍従がわりと好きだったが、その後城で見ることはなかった。どこへ行ったのかは分からない。だがエイルのせいだということは分かった。ジルクに聞くと、教育係の言うことは正しいと言ったうえで、さらにこう言った。
「物を運ぶのはその侍従の仕事ですからね。エイル様が手伝えば、その者の仕事を取ることになりますし、殿下にそんなことをさせたとあらばそれも咎になりましょう。良いですかな? エイル様は人の上に立つ方です。優しいお気持ちはきっとその者に伝わったでしょう。けれど、皆が同じ仕事をするのではないのですから……。その者にはその者のやるべき事があり、殿下には殿下のやるべき事があるのです」
王族には王族の立場があり、臣下には臣下の立場がある。お互いに、それを越えてはならない。エイルにとって、着替えや食事は「自分でやってはならない事」だったのである。それに慣れていたエイルは、自分のことは自分でやれ、と言われること自体が理解しづらかった。だが、今は侍従も侍女も小間使いも、誰もいないのだ。こちらへ来てから何でもやってくれたシキは、怪我で動けない。すべて自分でやらねばならない。それは分かっていた。シキの怪我を思えば胸が痛むし、いつも頼ってばかりいたのだから、たまには安心させてやらねば、とも思うのだった。だがどうしても戸惑う。やろうとしても、上手くはできない。不満も募る。そして何より、「何も出来ない足手まといだ」と思われる事が、エイルには我慢ならないのだった。自分でも、妙だと思う。当初は何も気にならなかった。自分は「出来ない」のではなく、「やらない」。そのはずだった。だが本当は「自分には出来ない」のだ。自分は非力だ。そう思うことが、エイルの誇りを傷つける。
「大丈夫。エイルには出来るよ」
クリフの言葉が、そんなエイルの気持ちを救っていた。獣に追いつめられた時、あれだけ怖がっていても、火をつけることが出来たじゃないか。クリフはエイルにそう言った。だから大丈夫。エイルはその言葉に勇気づけられていた。
「こういう箱はさ、斜めにすると下に手が入るから、そしたらこうやってさ」
クリフが箱の持ち上げ方を説明してくれている。
「ほらやってみなよ。重いと思うけど、腰に力を入れて……そうそう、そうやって持てば大丈夫」
ようやく箱を持ち上げ、エイルはよろめきながらも歩き出した。
「足元に気をつけて。階段あるからね」
「わ、分かっている。大丈夫だ」
首だけ振り返り、こくりとうなずく。一歩一歩、確かめるように前進し、エイルは階段を下りていった。それを見送り、クリフは汗でよれよれになった服を見下ろした。洋服の枚数は多くない。すぐに洗わなくちゃ。そう思って脱ぐ。だが、どうにも脱ぎにくい。
――なんでこんなきついのかなあ。
服の下から、しっかりと腹筋のついた腹が現れる。肩幅も広くなり、首にも、腕にも、きちんと筋肉がついていた。
――そっか。服が小さいんじゃなくて、俺が大きくなっちゃったんだな。大きな服を手に入れないと。
腹が空腹を訴える。訓練前に朝食を済ませ、帰ってきてからパンをつまみ食いしたにも関わらず、である。
――今日の昼食は何かな。
着替えに腕を通していると、階下から声がかかった。
「クリーフ! 買い物に行くの、一緒に行かない?」
「食事してからなら付き合うよ。今、降りて行く」
靴に足を突っ込みつつ、妹の声に快く答える。着替えを終えて部屋を出て、階段を勢いよく駆け下りた。だが、靴紐を結び忘れた事に気づいていない。右足が左の靴紐を踏み、足がもつれ、体が前にのめり……そして彼は駆け出した時より勢いよく、階段を転がり落ちる羽目になった。幸いにして階段の途中で止まったが、手すりにぶつけた額が赤くなっている。
「いってぇ」
クリフは苦笑しながら額をさすった。
ティレルの部屋は一階、階段のすぐ脇にあった。逆の隣は弟、ナールの部屋で、さらにその奥が厨房である。厨房には、宿泊している客の食事を作るための立派な設備が揃っている。大きな鍋では、今夜のためのスープが煮込まれていた。浮かんだり沈んだりする鶏骨の匂いが、たまらなく食欲をそそる。ティレルはそれをかき混ぜながらクレオを振り返った。クレオは山盛りになった芋の皮をむいている。
「手伝ってもらって助かるわ。下ごしらえは時間かかるから」
「それなら良かった。お料理は好きだし、手伝うのも楽しいの。それに、こっちこそ助かってるわ。宿代と食事代をまけてもらってるんだもの」
「彼の怪我が治るまではまだまだかかりそうだしね」
「……そう、うん。でも、宿代って意外とかかるのね。知らなかった。今まではシキが全部払ってくれてたし」
「大変だったでしょうね」
「まあ、うん、そうだと思う。ラマカサの闘技場でいっぱい稼げたからいいけど」
「でもそのせいでメイソンに狙われちゃったわけだ。あいつも懲りないね」
「懲りないって?」
「前にもあったのよ。証拠があがってないから、ドロヘッジさんも捕まえられないでいたみたいだけど、どう考えてもあいつの仕業だろうって事が、何度かあって。初めてデュレーに来た旅人は事情を知らないからね。かなりの人が被害に遭っているはずよ」
「ひどい話ね」
「あんたたちを助けられて良かったわ。でも彼が稼いだお金をうちで使い続けたんじゃ、勿体ないものね。宿の仕事を手伝ってもらえれば私も助かるし、一石二鳥って奴よ」
「……なるべく早く治るといいけど」
クレオは、溜息とともに言った。そしてふと思い出したように首をひねる。
――クリフはどうしたのかな。
買い物に行こうと言ったのに、と思いながら、台所の扉を開ける。階段を黒い影が勢い良く転がってきて、大きな音とともに手すりにぶつかった。
「いってぇ」
「ちょ、ちょっと大丈夫?」
物音に驚いたティレルが、クレオの後ろから顔をのぞかせる。
「いつもの事なの。クリフったらそそっかしいんだから」
「最近、転ぶのも上手くなってきちゃってさ、怪我もしてないよ」
服をはたいていたクリフはそう言って笑い、残りの数段を軽やかに降りた。
「食事は帰ってきてからにしてよ。パンを買いに行くの。果物や野菜も買わなきゃ」
クレオはクリフに説明しながら、外套を手に取った。腹を減らしたクリフは唇を尖らせ、仕方なしに受け入れる。
ゆっくり目を開けると、天井が目に映る。屋根の形そのままに傾斜している天井。薄暗い部屋。感覚では昼ごろだろうか。起き抜けの体は軽く麻痺している。体を起こそうとしたが、長時間横になっていたためか、思ったように動けない。それでもなんとか両腕をついて上体を起こす。寝台の上に座り直そうとした時、右腿に激痛が走った。
「つぅ……!」
何気なく動かそうとしたのだったが、足は思うように動かず、シキはしばらくその痛みに耐えた。部屋の左手にある扉が静かに開き、一人の女性が姿を現した事にも気づく余裕がない。
「ちょ、ちょっと」
彼女は慌てて走り寄り、シキが再び体を横たえるのに手を貸した。
「何やってるの、まだとてもじゃないけど起きられないわ」
「……いや、つい」
凛々しいその顔を歪め、シキは苦笑した。
「窓を開ける?」
頼む、とうなずいたシキに応えて、ティレルは寝台の脇にある窓を開けた。ガラスを板状に加工するのは高度な技術が必要だ。一般的な家で窓にガラスがはまっているなど、見たことがなかった。やはり数百年も経つと変わるものもあるのだと、シキは内心驚いていた。ティレルがその窓を手前に開け、向こう側の木窓を外へ開く。完全に開け放つと、山独特の、冷気を含んだ風が入ってきた。
「涼しいな」
「そうね。山が初めての人には寒いでしょう」
「まあな。だが、目が覚めていい」
「ふふ、そうかもね。慣れると、この冷たさが気持ちいいのよ」
窓枠に両手をつき、上体を外へ乗り出す。風がティレルの黒髪をなびかせ、彼女は嬉しそうな顔で目を閉じた。シキの深い緑の目に、雄大な山の景色とティレルの横顔が映っている。まるで一枚の絵のようだ。シキはその風景に何かを思い出しかけたが、軽く頭を振ると、ティレルに向かって尋ねた。
「みんなはどうしている?」
「クリフとクレオは買い物に行ってくれているわ」
「エイル様は? あ、いや、あの、その」
寝起きだったことが影響したのか、シキはついうっかり、敬称をつけたままエイルを呼んだ。普段は本人にもよく言い含め、「エイル」と呼び捨てにしているのである。親戚の子、ということになっていた。そしてその事にもみんながようやく慣れてきたというのに……。つい癖で「エイル様」と呼んだことに気づき、シキは慌てて取り繕おうとした。が、単語にならない言葉を発してしまい、頭を抱える。
「嘘のつけない性格ね」
ティレルは、その大人びた容貌とはそぐわないほどに可愛らしい笑い声を立てた。
「いや、違うんだ、その」
「何か事情があるのね。そうだと思ったわ。最初にあの子を見た時ね、殺されかかっていたのに、凛としていた。もちろん怖がって取り乱していたけれど、でも気品ってもんを感じたわ。上流貴族か……少なくとも私たちのような平民じゃないと思った」
「……」
「ああいいのよ、言わせようっていうんじゃないわ」
ティレルは笑って手を振る。
「旅人にはみなそれぞれ事情があるわ。私が知っても仕方のないことよ。……ねえ、それよりあの子ってよく寝るのね」
エイルの寝起きの悪さを思い起こし、ティレルは笑みを浮かべた。
「いつだって最後まで寝てるのよ。食事の時間だって起こすまでね」
「すまん」
「あらいいのよ。あなたが謝ることじゃないでしょ?」
シキは、自分が謝った理由について説明することなく、黙って微笑んだ。
「貼り薬を交換しましょうか。……痛みはどう?」
普段はクレオがやっているのだが、買い物を頼んでしまったから、と、ティレルはシキの太腿の貼り薬を手際よく交換した。
「大きく動かさなければどうという事もないが……」
「仕方ないわ。手を貸せば起きあがれそうね。食事は? 何か食べたいものがあれば作るけど」
「あまり食欲がないんだ」
「体を動かしてないからかしら」
「だろうな。しかし食べないというわけにもいかん」
「パンと、野菜のスープぐらい?」
「充分だ。ありがとう」
シキは優しい笑顔でうなずいた。
――この人は自分の魅力を分かっているのかしら。
この笑顔で顔を赤らめない娘はまずいないだろう。だが、シキが自覚をもってやっているとは思えなかった。
――罪作りな人ね。
そう思ったことを気取られぬよう、ティレルは髪を直す振りをして部屋を出た。
デュレーの建物は石造りの、三階建てのものが多い。がたついた石畳の細い道が、縦長の建物の合間を縫うように入り組んでいる。ティレルの宿を出て北を向けば、坂の向こうにラマカサへの山道があった。のどかで、夜の山とは比べ物にならぬほどの平穏。村の入口に獣の侵入を防ぐための大きなたいまつが置かれていることだけが、すぐ近くの山々に恐ろしい獣がいることを思い出させる。
陽は高く昇っていた。雑踏が通りの賑わいを作り、人々の話し声がそれを彩っている。そこかしこで買い物をする人々や、荷物を乗せて運ぶ小さな馬や山羊の姿が見られた。道に面した店が、軒先にも品を並べて売っている。山越えに欠かせない毛布や敷物を売る店、雨避けにするための油をしみこませた外套などを売る店、旅行用の鞄や袋を売る店。保存食料の専門店もある。旅人向けの商品が多いのはデュレーならではというところだ。店の集まる通りを抜けてしばらく行くと、中央市場に出る。こちらは生活必需品が主な売り物で、青物屋、肉屋などが軒を連ねている。双子は、その店同士がひしめきあう中でパン屋を見つけて買い物を済ませた。
一年の最後の月、凍夜の月は、その名の通り凍りつくような寒さになる。特に標高の高いこのあたりではかなり冷え込む。だが、春が近づいてきたこの季節、それも昼の鐘がなる今時分なら、外套なしというわけにはいかないまでも、凍えるほどではなかった。クリフは澄んだ山の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「いい天気だねえ、クレオ」
ところが、相槌がない。少し後ろを歩いている妹を振り返ると、クレオはうつむいて暗い表情だった。
「クレオ? どうしたのさ」
「あ、うん、何でもないけど」
「何か考え事?」
のんきそうに尋ねるクリフに、クレオは軽く嘆息する。
「クリフって……悩み、ないの?」
想像以上に深刻そうな口ぶりである。クリフは思わず言葉に詰まった。
「ないこともないけどさ……。クレオは、何か悩んでるんだね?」
「うん……」
「俺にも言えないようなこと?」
「そういうわけじゃないけど」
どうも歯切れが悪い。自分が何か、怒らせるような事をしただろうか。クリフは思い当たる節があるかどうか、考えを巡らせた。それよりはエイルかな。でもいつもの事だしな。そんな風に考えているクリフには構わず、クレオは重い口を開いた。
「あのね、今朝台所でティレルと話していた時……」
朝食の後片付けの時だった。
「クレオ、悪いんだけど、後で買い物に行ってくれない?」
水場で大量の食器と格闘していたティレルが、そう言った。洗われた食器を片端から拭いていたクレオは、もちろん、と快く引き受ける。ありがたいわ、とティレルが礼を言う。
「さっき食事してた団体さんがいるでしょ? あの商人の」
「ものすごい勢いで食べてた人たちね」
食事の前は賑やかにおしゃべりをしていたのに、食事が出された途端食べることに集中していっぺんに静かになった。その様子を思い出すと笑えてしまう。
「そう。彼ら、もう一泊していくっていうの。嬉しいんだけど、突然言われると困るのよね。七人も増えたら、夕食が間に合わなくなっちゃうわ」
ぼやくティレルの後ろから、弟であるナールが無言で台所に入ってきた。両腕に抱えた食器を置くと、ナールは無言のまま台所を出て行く。再び積み上げられた皿に、ティレルは大げさにぞっとした顔をしてみせた。布巾を絞って干すと、クレオは暖かな湯気が立ち上る鍋を覗いた。昨晩の鶏料理で残った骨から出汁を取っている寸胴の大鍋が二つ。
「肉料理はあるんでしょ? スープ、これで足りない?」
「スープはいいんだけどね。パンがないの。あと野菜も買ってこなくっちゃ」
「そっか。何がどれだけいるの?」
「えーっとそうね、黒パンと白パンを二十ずつ。野菜はウィッタ芋と、ソーフルを大袋でお願い。重いだろうから、クリフに手伝ってもらったらいいかもね。さっき帰ってきたみたいだし。あ、そうだ、あとキャラカ入りの麦パンがいるわ。シキはキャラカが好きだから」
「……なんで知ってるの?」
「え? この前シキにそう聞いたんだけど」
キャラカは小さな木の実で、少々苦味があり、焼くと香ばしい匂いがする。そのまま食べるというよりは、パンなどに練りこんで焼く事が多い木の実だ。シキはこのキャラカが好きで、麦パンに練りこんであるものを特に好んで食べる。パン屋でシキと買い物をしている時に、嬉しそうに手に取っていたので、その後よく気をつけていると、選んで食べている、と気づいたのだった。シキは好き嫌いなく何でも食べるし、食の好みを口に出す事はなかったので、エイルもクリフも気づいていないだろう。シキのキャラカ好きは、料理担当のクレオだけが知っているはずだったのである。だから、それをティレルも知っていて、なんだか複雑な気持ちになった、と、クレオは話し終えた。
「そっかぁ。知らなかったなあ、シキがキャラカ好きだったなんて」
「クリフったら、問題はそこじゃないでしょ。なんでティレルが知ってたかって事よ」
「シキに聞いたって言ったんだろ?」
「だから、そうじゃなくて……」
じれったそうな顔と、訳が分からないといった顔がお互いを見合う。
「それにティレルったら、シキを……『彼』って呼んだのよ」
「え? それが何か」
「もう! 分からず屋ね。『彼』なんて、馴れ馴れしいじゃないの」
ついに爆発したクレオは、顔を真っ赤にして声を張り上げた。すれ違う人が思わず振り向いていく。クリフはかぶっていた帽子のつばを下げた。
「なあ、パンも野菜も買ったし、宿に戻ろうよ」
クレオはキャラカの麦パンが入った袋を持ち直すと、肩をいからせた。
「野菜とか果物も買うって言ったでしょ。もうちょっと付き合ってよ」
頬を膨らませ、早足で歩き出しながら、クリフはまったく分かっていない、と思う。話の流れが分かっていないし、自分の気持ちが通じない。今までこんなことはなかった。どうして通じないんだろう? クレオは首を傾げた。
――「宿に戻ろう」だなんて、まるで上の空みたい。大体、すぐに分かるじゃない。ティレルはまだ知り合って間もないのに、馴れ馴れしいわ。もちろん助けてくれたわけだし、感謝はしているけど……。
クリフに理解されないことに対して怒っていたはずだったが、文句の矛先は段々にティレルへ向かっていくようだ。
ティレルは優しく、とても友好的だった。余計な詮索はしないし、色々と面倒も見てくれる。エイルもすっかり懐いてしまったようだ。もちろん、クレオも彼女が嫌いなのではなかった。そう、決して嫌いではない。だが、何故か苛立ちや腹立たしさを抑えられない。クレオが買い物に行くから自分がシキの様子を見に行くと言っていた。自分が出かけている間、彼女はシキの部屋にいる。看病してくれているわけだし、何も悪いことはない。だが、クレオはそれがどうしても嫌で仕方なかった。
――私、なんでこんなにいらいらしてるのかな。
ふと、疑問に駆られる。
――優しくしてくれるんだし、いいのに。……でも。ううん、何でかしら。
今朝のやり取りや、シキの部屋にいるティレルを見た時の事を思い出してみると、なんだか、息苦しいような気がする。
――もしかして……。
クレオの頬が紅く染まる。
――そんな、そんなことないわ、だって……でも……ううん、でも……。
青物屋の前で立ち止まったクリフにも気づかず、クレオは歩みを止めない。クリフは、訳がわからないといった顔でクレオを呼び止めた。
「ちょっと、クレオ」
「……え?」
「果物とか野菜も買うんじゃなかったの」
親指で店を指し示すクリフに、クレオは慌てて戻ってきた。
「あ、うん、ごめん。ちょっと考え事してて」
色々な商品が軒先の箱に並べてある。緑で不恰好なクナートや、大きくて丸いヤッカなど、色とりどりの果物も山積みされている。若者が一人で店番をしていたらしく、クレオたちが眺めていると、外へ出てきた。
「いらっしゃい。何がお入用で?」
「これとこれを……あ、このクナートは食べごろ? あと、シナックも欲しいのだけど」
いくつかの果物を袋に入れてもらってから、クレオは店内へ入っていく。支払いを済ませて出てくると、クリフが空を示した。
「見て。雨雲だ」
「本当だ。でも、あっちはこんなに晴れているのにね」
すっきりと晴れ渡っている空は、まるで雨など知らぬかのような顔で澄ましている。が、北の空には確かに黒い雲が流れていた。
「レーヴェの機嫌が悪いのさ。山の天気は変わりやすいって言うしな。さ、早く帰ろう」
しばらくすると、小さな滴が落ちてきた。道行く人々の中に、まさか、と顔を上げる者がいる。雨の女神レーヴェは泣き虫なので、すぐに泣き出すという。宿に着く頃には本格的に降り出すだろう。双子は人々の間をすり抜け、宿へと向かって走り出した。
シキは最近、不思議に思っていることがある。ティレルは部屋に長居しないのだ。怪我の様子を見たり、食事を運んだり、部屋へ来る回数は多かったが、目を合わせまいとしているような気がする。今日も食事を持ってきてくれたが、空気の入れ替えをすると、そそくさと出て行ってしまった。宿に来た当初は食事が終わるまでいたものだが、とシキは訝しんだ。
――エイル様のことで、何か気にしているのだろうか。
この間エイルの素姓の話をして以来のような気がしてそう思ったが、どうやらそういうことでもないらしい。聞くと、「何でもないのよ。忙しいから」と、はぐらかすような口調である。ティレルとの会話が減ることは、想像以上にシキを悩ませていた。
「食事は終わった?」
声と共に扉が開く。ティレルかと思ったのだが、クレオだった。
「やあクレオか」
そういえばクレオとゆっくり話すのも久しぶりかも知れない。シキが微笑むと、クレオはまるで硬直したようになった。こちらを凝視している。シキは不思議そうな顔をし、それに気づいたクレオは慌てて、首を横に振った。
「な、何でもないの。気にしないで。食事が終わったんだったら、お皿を下げてもいいかしら」
クレオが皿を片付けているのを眺めながら、シキは優しく声をかけた。
「美味かったとティレルに伝えてくれ」
気持ちをほぐそうと笑顔で言ったのだが、クレオの顔はまたも引きつってしまった。
「クレオ?」
「いえ、何でも……。あの、伝えておくね」
そう言い残し、クレオは皿類をすべて持つと、そそくさと立ち上がった。扉のところでそっと振り返ったが、シキは窓の外を眺めていて気付かない。クレオは静かに扉を閉めた。
皿を台所に運ぶと、ひとまずする事がないと見て取り、自室に戻る。クリフとエイルの姿は見えない。一人になりたかったクレオはほっとし、寝台に腰掛けて大きく息を吐いた。
――「美味しかった」って……「ティレルに」って……。
シキの言葉をティレルに伝えることは出来なかった。台所で忙しそうに立ち働くティレルに一声もかけられぬまま、クレオは背を向けてしまった。台所を出る時、ティレルの弟ナールとすれ違い、唇をかんでいるのを見られた。頭をぽんと優しく叩かれたが、ナールはいつもの通り何も言わなかった。
――シキ。
頭の中で、シキの笑顔がぐるぐると回る。息苦しくて、もう一度大きく深呼吸をしたが、胸の痛みは治まらなかった。怪我をしているシキ。寝台に横たわっているシキ。食事をしているシキ。「上半身だけでも鈍らないように」と、剣を振って鍛えているシキ。次々と思い浮かぶ。どうすればいいのだろうか。どうすれば、苦しくなくなるだろうか。
――シキの怪我が、早く治りますように。
怪我が治ればこの宿を出られる。私たちは旅人だ。いずれはここを旅立つ。優しいティレルとナール。デュレーを離れれば、この気持ちのいい姉弟とはお別れだ。そう思うのは、何とも言えず淋しかった。だが、そうなればシキとティレルも、もう二度と会うことがないだろう。
――何を考えているんだろう、私。
月光が部屋に差し込んでいた。階下の喧騒を遠くに聞きながら、エイルは窓からメルィーズを眺めていた。食堂兼酒場の客が増え、宿屋に泊まっている客も帰ってきて、今が一番忙しい時分である。邪魔をしないのが一番であろうとの判断に基づき、エイルは自室でゆったりとした時間を過ごしていたのである。シキの様子を見に行こうかとも思ったが、寝ているようなのでやめておいた。クリフもクレオも手伝いに借り出されている。こういうとき、考える事はいつも同じだった。
逗留は続いている。ここは居心地がいいが、かと言って、いつまでもというわけにはいかない。南へ。どこにいるかも、本当にいるのかどうかも分からない魔術師を探し、どうにかして元の世界へ戻る。そんな事が可能なのか、不確定なことが多すぎる。不安が常に付きまとう。だが、何としてもエイルは自分の世界へ戻りたかった。どんな目に遭おうと、どれだけ苦労しようと。自分の生まれ育った地を踏み、悪人に蹂躙されているなら、それを取り戻したかった。
――ここへ来て、もう十日は過ぎた。シキの怪我も、大分良くなったと思うのだが。
小さく嘆息する。木を叩く固い音がし、「開けていい」とも言わぬ内に扉が開いた。
「ごめん、エイル、ちょっと手伝って」
慌てた様子で顔を覗かせたのはクリフである。
「お客さんが多くて、てんてこまいなんだ。エイルにも手伝ってもらわなきゃ」
「私に客の相手をせよと言うのか」
「いや違うよ。ただその、ナールが皿や杯を洗うのが間に合わないって……」
「皿洗い!」
目をむいて一言そう言うと、エイルは二の句が継げなかった。
「ま、まあまあ……ティレルとナールには世話になってるし、宿代も安くしてもらってるんだ。少しくらい手伝っても罰は当たらないよ。とにかく頼む!」
呆れ果てた顔のエイルを残し、クリフは去った。これ以上説得する手間も時間も惜しい、といった様子である。
「信じられんな、まったく! レフォアの王子が、宿の皿洗いか」
エイルは憤慨した様子で首を振った。それからがくりと肩を落とし、深く溜息を吐く。有り得ない事が、次々と起こる。少しは慣れたつもりでいたが、それでも毎日のように思いつきもしない事が降ってわく。城にいた頃が懐かしく思い出される。だが、どうしようもないのだ。
「やるしかないか」
諦めたように呟くと、意を決して上着の袖をまくりあげた。
「ふん! 私ほどの者になるとだな、皿洗いくらい、何てことはないのだ」
勇ましく言うと、階段へ向かった。下りて行くと、二階の廊下ではかすかだった階下の喧騒がぐっと大きくなった。食堂は旅人や町の人々で埋まり、熱気がものすごい。料理と酒の匂い、それに煙草の煙が階段近くまで充満している。空気が白く霞んでいるほどだ。エイルは思わず顔をしかめた。
階段の踊り場で立ち止まり、双子の姿を探す。二人は皿の積みあがった盆や盃を手に、店中を飛び回っていた。騒がしい店内のあちこちから彼らを呼ぶ声が上がる。客の注文を受け、料理を運び、また空いた皿や杯を片付ける。客たちは彼らの忙しさに構いもせず、それぞれの話に花を咲かせている。
台所の入り口に面した背の高い台の内側には酒の瓶が所狭しと並べられ、ナールが酒を注いでいた。客はそれぞれの席からふらりとやってきては酒を注文し、金を払って、杯を持っていく。ナールは客に酒を注いでやりながら、洗い物もしていた。到底手が足りない。それはエイルも見て分かった。エイルが台の内側に入ると、ナールはほっとしたような顔をした。
「助かる」
元来口数の少ない彼は短く言った。エイルは肩をすくめて尋ねる。
「クリフに手伝えと言われて来たのだが、私はどうすればいいのだ」
「洗って」
簡潔にして明瞭な答えが返ってくる。数えるのも嫌になるほど杯や皿が重ねられている。どうやらそれらをすべて洗わねばならないらしい。ナールがひっきりなしに客の相手をしているのに目をやる。これ以上の説明を求めても無駄のようだ。さて、まずは何をしたものか。
――とりあえず水で濡らす、のかな……?
エイルが慣れない手つきで洗っている間も、客が途切れることはなかった。それはもちろん、宿が繁盛しているということに他ならなかったが、エイルにはそんなことを考える暇もない。次から次へと運び込まれる杯を洗うのに必死である。
客は目まぐるしく入れ替わり、酒を注文して待つ間もしゃべっていた。酒で満たした杯を持ってしゃべっては飲み、また注ぎ直すように言う客もいた。クリフとクレオが汚れた食器を持ってきては、また新しい料理の皿を持って出て行く。冬の夜、彼らの額には汗が浮いていた。
しばらくの間、一生懸命に洗ったおかげで、エイルの目の前に積まれた洗い物はそれなりに減ってきた。時間が経てばまた増えるのは分かっていたが、とにもかくにもエイルは少し息をつくことが出来てほっとした。ナールとエイルのいる台の向こうでは相変わらず荒くれ男たちが酒を煽っている。彼らは席に戻らず、立ったまま噂話をしていた。その中の一人、鬚面の中年男が口にした言葉に、エイルは思わずのけぞった。
「本当なんかい? レフォアが世界征服に乗り出したってのは」
少し若い男が口早に答える。
「そうらしいぜ。何しろマイオセールが滅ぼされたって言うんだからな」
周りの男たちも、興味深そうに身を乗り出してくる。
「それ、レフォアの仕業なのか? 遠すぎるだろ。むしろミチロ皇国とかエルマーナじゃないのか」
「俺が聞いた奴らの話だと、竜が現れたって言うぜ」
「笑わせるなよ」
「いやいや、それが本当なんだってよ。俺も最初は疑ったがな。見てた商人が言うんだから本当さ。マイオセールから飛んでく竜を見たって言うんだ」
「嘘だ嘘だ、いるはずがねえ」
嘘ではないだろう。結局誰にも話さぬままでいるが、ラマカサで見た、飛び去っていく禍々しいものは、間違いなく「お伽話に出てくる竜」だった。長い尾と大きな翼を持ち、黒々として……。思い出してもぞっとする。
「竜かどうかはおいといてよ、マイオセールがどうなったって?」
「かなり死んじまったみたいだな。王家の人間もだーいぶ死んだって」
「じゃあ大混乱だろうな。久々に酷い話を聞いたぜ。今後はどうなるんだろうな。やっぱりミチロとかに乗っ取られるんかな」
「貴族たちが跡目争いでしばらくごたつくだろうな」
「王都以外の街は何ともないらしいし、領主の自治があるからな。でもマイオセールはしばらく駄目かな」
そんな会話を聞きながら、エイルはそっと嘆息した。
――我がレフォアはどうなったのだろうか。コジュマールはどんな施政を行ったのか。今の私には……何の力もない。
怒りは悔しさに、そして哀しみに変わっていく。エイルは己の身の上を嘆いた。過去に戻り、そこから三百年の時が流れたら、レフォアは、大陸はどうなっていくのだろう。今のこの世界は、自分が王権を取り戻し、その子孫が作った歴史が繋がっているのか。もしかしたら、今の王はコジュマールの子孫かもしれない。いやそれとも三百年の間にまた別の者が王権を取ることも考えられる。そもそも、自分が過去の世界に戻り、何をするとしても、それがこの世界に繋がっているとは限らない。エイルは単調な仕事を続けながら、深い考えに沈んでいった。
食堂も兼ねている宿は、夕食時など大いに賑わう。時刻が遅くなるにつれて静まっていき、夜分になればひっそりと灯りを消すが、中には遅くまで営業している店もある。ティレルの宿も、今夜はまだ客が残っていた。近所に住む男たちも集まっている。彼らが楽しみにしているのは、看板の文言――食事と布団と素晴らしき調べ――のためだった。
店の中央にある丸い大きな机は、屋根を支える大きな柱を取り巻くように作られている。大胆な格好で机の上に乗ったティレルが、その柱に寄りかかり歌っている。丸い果物を縦に割ったような形の、グードと呼ばれる弦楽器を抱き、力強くかき鳴らす。目を閉じ、その綺麗な眉根を寄せて歌っているのは、英雄の歌だ。早く、力強い曲調が男たちを興奮させる。次第に早くなっていく手拍子。男たちのがなり声にも負けぬ張りのある歌声が高らかに響き、それがまた男たちの心に火をつける。これ以上ないほどに盛り上がった曲が終わると、割れんばかりの拍手が店に満ちた。
矢継ぎ早に次の歌の注文が飛ぶ。歌姫が選択したのは、故郷を想う歌だった。先ほどとは違う調子で、物悲しく歌い上げる。今度はグードを横たえ、静かに鳴らした。故郷の幼馴染と遠い町で再会し、恋に落ちる女の歌。店の誰もがうっとりと聞き惚れていた。
歌姫の声は客を陶酔させる。透き通るような声は、まるで山の澄んだ風のようだった。彼女は歌い続ける。ハーディスの賛歌や収穫の歌、旅人の歌、労働の歌、また恋の物語を。汲めど尽きせぬ泉のように、歌は止めどもなく溢れた。一曲終わるたびに、惜しみない歓声と喝采が送られる。
客がみな聞き入っているので、クリフたちも仕事がない。食堂の隅、ナールとエイルのところへ来て、クレオが言った。感動しているのか、目が少し潤んでいる。
「なんて言ったらいいのか分からないけど、本当に素敵な声……」
「本当に。上手とか、そういう言葉じゃ足りないね」
少し前に盆を下げにきていたクリフが続ける。エイルも素直な賞賛を口にした。
「私も様々な歌い手に会ったことがあるが、群を抜いて素晴らしいぞ」
ナールは口元に笑みを浮かべている。やはり姉が誉められるのは嬉しいのだろう。
「母も上手かった」
滅多に口を開かないナールが呟いた。双子とエイルの視線を受け、彼は恥ずかしげに続ける。
「母が死んでから、ティレルはどんどん上手くなっていった。歌うことで、母の死を癒していたのかもしれない」
ナールがこんなにしゃべるのは初めてである。
「お母さんも上手だったのね」
「ああ。いつも歌っていた。俺たちの父は旅人だったそうだが、俺は何も覚えてない。母が一人で育ててくれた。小さい頃はよく子守唄を歌ってくれて。母が歌ってくれると、すぐに眠れた。俺も、ティレルも、母の歌が好きだった。本当に、歌には、力があるんだ」
「ティレルの歌を聴いていると活力っていうか……元気が湧いてくるよ。だからこうして多くの人が訪れるんだね」
「上手いということと、心に響くものがあるということは、また別のことなのだな。ティレルの歌は私の心を打つ」
クリフもエイルも手放しの誉めようである。伸びやかな歌声は酒場に、人々の心に、響く。それは黄金の波のように艶やかに、柔らかく、誰しもを包み込んだ。クレオが放心したように呟く。
「歌には力があるって、本当ね……」
夜の深い黒色に染まった山肌。その闇に溶け込むように、デュレー全体も眠りに沈んでいる。松明の灯りが見張りをしているだけで、通りを行き過ぎる人の姿はない。
誰もいなくなった酒場。すべての椅子を机に上げ、床を拭き終わったティレルが満足げに息をつく。
「ようやく綺麗になったわね」
一つの椅子を下ろし、腰掛ける。気分良く歌っていたせいか、今日は思ったより遅くなってしまった。ナールには先に寝ていいと言って、彼女は最後の片づけをしていたのだが、もうすっかり夜も更けてしまった。手にした布巾で、拭くともなく机をなでる。自然と、柔らかな旋律が唇からこぼれた。どんなに疲れていても歌が出るのは不思議なものだと思う。
母がいつも歌っていた子守唄。他に歌っている人を聞いた事がないから、母が適当に作ったものかもしれない。ティレルにとってはとても特別な、一番好きな唄だ。客の前では決して歌わない、自分だけの大切な唄。それをティレルは優しく繰り返した。
階段の踏み板が軋んだ音を立てる。振り返ると、涼やかな視線があった。
「綺麗な歌だ」
聞き慣れているはずの賛辞に、ティレルは顔を赤らめた。
「ありがとう。……大丈夫なの?」
「ああ。歩く程度なら痛みもない」
シキは階段を下り、ティレルの座る机までゆっくりと歩いた。
「まだ本調子じゃないが、動かないと鈍ってしまうからな」
「そうね。でも、無理はしないで」
「ああ」
凛々しい顔に笑みが浮かぶ。ティレルは染まった頬を隠すようにして立ち上がった。
「何か飲む?」
「じゃあ、ミコル酒を」
棚から酒瓶を取り出し、杯にミコル酒を注ぐ。シキはそんなティレルの動作を見つめていた。その視線に気づいていたが、ティレルは顔を上げなかった。
「やはり、俺は避けられているようだな」
小さな溜息と共にシキが言う。
「どうして? そんなことないわ」
ティレルは目を合わせぬまま、笑顔を作ってみせた。シキが小さく嘆息する。
「……じゃあ、私も、ちょっと飲もうかな」
ちらと横目でシキを見ると、真っ直ぐな視線に射抜かれた。鼓動が高まる。ティレルは自分の顔が赤らんでいると知りつつ、それを隠せなかった。
二つの杯が重なり、ミコル酒の赤い色が揺れる。しばらくの間、沈黙が流れた。
「さっきの……」
「シキは……」
同時に口を開き、また同時に譲り合う。二人は目を合わせて笑った。ティレルのどうぞ、という仕草に、シキが改めて口を開いた。
「さっきの歌は、何という題名なのか聞こうと思ったんだ」
「名前は知らないの。母が歌ってくれた子守唄よ。……母が残してくれたのは、この宿と、歌だけ」
「母上はご病気で亡くなったそうだな」
「ええ、もう十年以上も前よ」
「父上は?」
「……父は、旅人だった。数回しか会った事がないわ」
「そうだったのか」
「母は一緒にいなくても平気だと言っていたけれど、私は母がどうしてそう言ったのか、分からないの。本当は淋しくて死にそうだったんじゃないかと思うわ」
シキは黙っている。ティレルはこんな風に言ってはいけないと強く思いながら、だが勢いは止まらず声を高くした。
「旅人と恋に落ちるなんて、幸せになれるとは思えないわ。だってそうでしょ? 母はこの村で育ったし、宿屋もあるし、ここを離れられないわ。この村の女はみんなそうよ。でも、旅人は必ず去って行くわ。父が旅立ってしまったら、もう二度と会えないかもしれない。寂しいでしょう?」
シキは何も言わなかった。けれど、その顔に浮かんだ感情に胸を打たれ、ティレルは口元を手で覆った。自分は、旅人に恋などしない。ティレルは子供の頃からそう決めていた。
「そんなの、悲しいわ」
呟くように言い、そのまま黙る。シキも黙ったままだ。やがて、雰囲気を変えるように、シキが柔らかく言った。
「しかし、さっきの歌は本当に綺麗だった。歌もいいが、歌い手がいいからだな」
「意外と口が上手いのね」
「本当のことを言っただけだ」
シキは恥ずかしげもなく言う。ティレルは耳の近くの髪をいじった。
「で、ティレルが言おうとしていたのは何だったんだ?」
「ああ、うん。その、シキの事を」
聞こうと思ったんだけど、と続けようとして、ティレルは口をつぐんだ。「あなたの事を知りたい」と正面切って口にするのは難しい。第一、旅人の事を詮索してどうするのか。
――やめておこうと思ったばかりよ。
旅人に恋はしないと決めた。心の中で繰り返す。
「いいの。何でもないわ」
「……俺の怪我も、もうすぐ治る」
「そうね」
「治れば出発だ」
「……そうね」
「寂しくなるな」
ティレルは何も言わず、シキの顔を見つめた。シキはティレルから目をそらさない。ティレルはうつむき、しばらくして、静かな歌を口ずさみ始めた。
旅を続ける男に恋焦がれる女。「もう二度と戻っては来ないの」と問いかけ、「どうしてこんなに愛してしまったの」と嘆く。だが女はそれでも愛し続け、いつかもう一度男に会える日を夢見ている。本来は速い曲調で情熱的に歌う曲だが、ティレルはどこまでも静かに、感情を抑えて歌った。それを聴くシキの体に細かな震えが走る。歌い終えたティレルが顔を上げた。かすかに潤んだ瑠璃色の瞳に、立ち上がったシキの姿が映っている。ティレルはつられるようにして立ち上がり、一歩踏み出した。
メルィーズに照らされて、冷たい石畳が白く輝いている。通りに連なる建物は、白い石畳を引き立てるように黒く染まっている。その通りに、いくつかの影がうごめいた。影から影へと伝い、それらはティレルの宿に近づいてくる。細い影が、大柄な影に宿を示した。いくつもの影がそれに続く。
宿の灯りは消えている。
ここのところ毎晩、クレオは寝付けないでいた。今夜も、寝返りを打っては嘆息するばかりだ。シキの布団が空になっていることには気づいている。
――眠れない。
寝ようと思っても、胸が苦しい。寝返りを打つのにも疲れた。もう一度、更に大きな溜息を吐いて、クレオは布団を抜け出した。他の人を起こさないよう、静かに部屋を出る。
階下から話し声が聞こえ、無意識で階段に近づく。下を覗かずにはいられない。姿を現してはいけない、という警鐘が頭に響いていた。
明らかにシキと分かる背中が見え、その首に細い手が巻きついているのが目に入った。その手首を飾っている装飾品には見覚えがある。シキの肩越しに豊かな黒髪が波打つ。そんなものを確認せずとも、それが誰か、クレオには分かっていた。逞しい腕が相手の腰に回っている。クレオは目眩を感じた。二人が階段脇の部屋へ入るのを、ゆっくり見てはいられなかった。目を固く閉じ、背を向ける。
階段から離れ、廊下を歩く。突き当たりに部屋の扉、その横の窓を思いきって開け放つと、冷たい空気が流れ込む。夜空にはメルィーズが、白く細い姿を輝かせていた。部屋の扉が開き、クリフが顔を覗かせる。
「クレオ?」
「……」
「……泣いてるの?」
声にならない。クレオは、黙って首を横に振った。
「クレオ……」
クリフが慌てて駆け寄ってくる。以前は同じ高さだった肩が、今は明らかに高い。心配そうに覗き込む双子の兄にもたれかかり、クレオは声を出さずに泣いた。
当然のことだが、宿の扉には鍵がかかっていた。
黒い影の男たちは力づくでそれを壊そうと試みたが、思ったほど簡単にはいかないようである。頑丈な鍵に侵入を阻まれ、男たちはいらだちを隠せない。ついに、一際大きな影が剣を抜き、振り上げた。
「やめろ、馬鹿者」
路地から影が飛び出し、振り上げた剣を下ろさせる。ラマカサ領事フォマーの手下、ザッツだった。
「先走るなと言っておいただろう。勝手に行動を起こしてもらっては困る」
「すみません……ちょっとばかり気が焦って」
答えたのはギルド長のドロヘッジだ。
――ちっ、なんでばれたんだ。
ザッツがラマカサの領事から逮捕の指示を持ってきた時、ドロヘッジはその相手がメイソンと揉めた四人の客だとすぐに見当がついた。ザッツに情報提供を求められ、適当に答える。こちらも捜索中だと言っておいた。もちろん、わざわざ教えることはないのだ。報奨金はすべて自分の手に。そう思ったドロヘッジは、メイソンを従え、ほかにも数人の男を雇ってティレルの宿へ向かったのだった。だがザッツは思ったより優秀な男であったらしい。彼らの行動は見透かされていた。あるいはわざと泳がされていたのか。
「あの、鍵が頑丈なんですよ。どうしましょう?」
メイソンの言葉に、ザッツはうんざりした顔を見せた。
「だからお前らには任せておけんと言うんだ」
そう言うと、連れて来た男を前に押し出す。
「マーシュ!」
「鍵を開けるのが得意だと言うから雇ったのだが、知り合いか?」
メイソンの宿の下男だった。メイソンがエイルたちの荷物を盗もうとした晩から姿を消していた。おかげで、俺一人が恥をかいたのだ、とメイソンが睨みつける。マーシュは知らぬ振りで視線をそらし、早速と言わんばかりに扉の前にしゃがみこんだ。
「恩知らずめ、ずっと雇ってやっていたのに、一人で逃げやがったな」
「……」
「この野郎、何とか言ったらどうだ!」
「うるさい」
「大声を出すな」
ザッツとドロヘッジに同時に叱りつけられ、メイソンは小さくなった。マーシュにまで嘲笑され、メイソンは唇を噛んでいる。しばらくの間マーシュは錠前に先の曲がった金属棒を突っ込んでいじくっていたが、ついに錠前が外れた。にわかに緊張感が走る。
「よし」
ザッツが静かに扉を開ける。酒場は静まり返っている。かすかな月明かりの中に浮かぶ物影の間を、男たちは手探りで進んだ。
「奴らの部屋は二階のはずだ。階段を探せ」
「奥にあったはずです」
ドロヘッジが示し、彼らは階段へ向かってそろそろと移動し始める。
「どこへ行くつもりだ」
突然、誰のものとも知れぬ声が彼らの足を止めた。
「だ、誰だ」
メイソンが暗がりをのぞき込む。
「間抜けた質問だな。誰だとは、こちらが問いたい」
シキが呆れた声で言った。腕を組み、階段脇の部屋の扉を背にしている。
「ひっとらえろ!」
ザッツの鋭い声が飛び、雇われた男たちは我に返った。剣を鞘から抜く音がする。
「足だ、右足を怪我していたはずだ」
メイソンが後ずさりしながら喚く。足の怪我はまだ治っていないだろう。男たちはシキを取り囲み、一斉に剣を突き出した。が、そこに目標となる相手の姿はなかった。
「どうも戦い慣れていないようだな」
「て、てめえ、いつの間に」
洗練された身のこなしである。男たちが暗闇の中で要領を得ないのに対し、シキは全員の位置を素早く掴んだ。闇雲に振り回される剣を、一つ一つ受け流している。が、やはり右腿の痛みが動きを鈍らせていた。一人の攻撃を受けた拍子に均衡を崩し、机にかけられた椅子に手をかける。椅子はシキの体重を支えきれず、大きな音を立てて机から落ちた。
「くっ」
転びはしなかったもののシキの体勢は大きく崩れ、そこへ、ここぞとばかりに複数の剣が振り上げられた。と、その時。何かが空気を切り裂いた。
「ぎゃあっ!」
男が両手で目を押さえ、もんどりうって倒れた。階段の上、踊り場で灯りを持った少女を背中に、少年が弓を構えている。クリフは、立て続けに何本もの矢を放った。酒場にいた男たちは騒然と逃げ惑う。ザッツは、素早く机の後ろに身を隠していたがメイソンは何とか逃れようと慌てている。周囲を見回し、階段脇の部屋の扉に手をかけた。
「よせ!」
それを見たシキが声を上げる。だが、メイソンはそんな声にお構いなしで扉を勢いよく開けた。止めようとしたシキに、次々と男たちが打ちかかる。一人にこぶしを打ち込むと、男は昏倒したが、その間に振り下ろされた剣がシキを襲う。短剣で受けたものの、そいつを押しやるには足を踏ん張る力が足りない。シキは押された。さらに新たな剣が迫る。
「シキ!」
クレオが叫び声を上げた。その時、メイソンを突き飛ばすようにして、中から人影が走り出てきた。ティレルだった。短剣ごと突進する。混迷を呈した状況で、勢いよくぶつかったティレルは、シキともう一人を巻き込んで転倒した。机や椅子が大きな音を立てる。暗闇に目が慣れたザッツが、ここが絶好の機会と、シキに縄を投げかけた。
「エイル、あいつだ」
クリフの声の直後、階段から小さな炎が空を切って飛んだ。炎がザッツにまとわりつく。ザッツは喚きながら倒れてのた打ち回った。
「ま、間に合った……」
階段の上でほっとしたように息を付いたのはエイルだった。髪は寝癖で崩れているが、目は魔術を成功させた喜びできらきらと輝いている。
シキは肩にかかった縄を払い、すぐに立ち上がってティレルの姿を探した。目が慣れたとは言え、ティレルがどこにいるか、すぐには掴めない。短い叫び声ともに、ティレルが床に倒れこむのが見えた。ドロヘッジの投げた短剣がティレルの背に刺さっていた。
「ティレル!」
クリフたちは慌ててティレルに駆け寄り、その傷が致命傷ではないことを確かめる。シキはその目に怒りを燃やし、机の後ろからドロヘッジを引きずり出した。
「貴様、どういうつもりだ!」
剣を突きつけられたドロヘッジは目を白黒させた。何か話そうにも、シキの剣幕に口を開く余裕もない。
「くそっ、ようやく消えたか」
一方、ようやく火を消し止めたザッツは、焼け焦げた服にしかめ面をしている。火傷はさほどひどくない。
「ザッツさん!」
シキに取り押さえられたドロヘッジが呼んでいるが、ザッツは助ける気もない。メイソンはとみると、宿の男に縛り上げられているところだった。雇った男たちは、ほとんどが姿を消している。ザッツはやれやれと肩をすくめた。
「無様な結果になったものだ」
クリフとエイルがティレルの部屋に彼女を運び入れ、その間にクレオが火種から灯りをつけていく。少しずつ明るくなると、ようやく状況がはっきりした。ドロヘッジを縛りながら、シキがザッツを見やった。
「お前は……確か、フォマーの部下だな。ラマカサで見た記憶がある」
「ああ」
乱れた髪をかきあげ、ザッツは嘆息した。
「やはり、こいつらを手下に使ったのが失敗だったな」
「ザッツさぁん、助けてくださいよお」
メイソンが情けない声を出す。それには応じず、ザッツは事の次第を吐露し始めた。
「フォマーはやたらと怒っていてな。あんたらが南へ行ったと知り、逮捕しろと騒いで、まあ俺が派遣されたわけだ。一晩待ってこのデュレーまで来て、そこのギルド長に聞いたら、心当たりがあると言いながら、報奨金欲しさに先走りやがって……。俺としたことがこの様だ。やってられん。俺はもう降りる。あんたには悪かったが、これ以上危害を加える気はないから安心してくれ」
「どうするつもりだ」
シキが尋ねると、ザッツは冷めた目で答えた。
「さっさと逃げるさ」
「自分の主人を裏切るつもりか」
「はっ、馬鹿らしい。フォマーが忠誠を誓うような相手か? ちょうど、近い内に暇を出そうと思っていたところさ。もう次の働き口は見つけてあるんだ」
「沈みかけた船を見捨てるねずみのようだな」
「褒め言葉と受け取ろう。俺は世渡りが上手いんだ。……ま、フォマーのところにはもうろくな人材がいない。あんたも今後、ラマカサの闘技場にさえ行かなきゃ安全だろう。それじゃあな」
身をひるがえすザッツに、ドロヘッジとメイソンが泣きつく。
「そんな!」
「私らはどうなるんですか!」
「さあ、知らん。そいつの剣にかかって死ぬってのはどうだ」
「じょ、冗談でしょう」
ドロヘッジとメイソンの二人が同じような顔で青ざめる。
「いずれにせよ、俺は衛兵が来る前に消えるとしよう」
そう言うと、ザッツは裏口からさっさと姿を消した。
「俺はお前たちを殺したりはしない」
シキの言葉を聞き、ドロヘッジたちはほっと息をつく。が、次の瞬間、メイソンが飛んだ。丸い体が壁にぶつかり、派手な音をたてて床に落ちる。
「ティレルの怪我のお返しだ。いや、これじゃ足りないか。大体、やったのはお前だったな」
ドロヘッジを睨む。先ほどまでザッツが味方に付いていると思って強気な表情だったドロヘッジは、手の平を返すように卑屈な態度である。
「いーやいやいやいや! もう十分です! 申し訳ない! もうしませんから!」
「当たり前だ。まだ何かするようなら、今度は遠慮なく斬る」
「ひぃ」
ドロヘッジは床に頭をこすり付けるようにして目をつむった。メイソンは床に転がったまま白目を剥き、口から泡を吹いている。少し前から、誰かが繰り返し外の扉を叩いていた。我に返ったナールが開けると、警備隊の隊員が数名立っていた。
「物騒な物音がするという通報があり、急ぎ駆けつけた」
「このような夜更けに何の騒ぎか」
警備兵が酒場を見渡すと、ギルド長が縛り上げられている。太った男が床に転がっている。客らしき者が数名。今の今まで乱闘していたことは間違いない。
「こいつらが宿に忍び込んできて、襲われた。我々はそれを撃退したまで」
警備兵の問いに、シキが冷静に答える。
「まさか、誰がそんなみっともない真似をするものですか。私はギルド長ですよ。彼らが嘘をついているんです」
釈明を始めたドロヘッジにエイルは怒り心頭である。
「ちょっと頼みますよ、このふざけた縄を解いてください」
素知らぬ顔でドロヘッジが警備兵に声をかける。ドロヘッジは長年宿屋ギルドの長として働いてきた人物だ。信用もある。うろたえる衛兵を見て、これはいけると踏んだのか、ドロヘッジがさらに畳みこんだ。
「私が何故彼らを襲わなきゃなんないんです? ねえ」
と、顔を上げたドロヘッジは、シキの凍りつくような視線をまともに受けた。
「い、いや、その……あの……」
「そいつらが襲ってきたのは確かだ。だが、証人の大部分は逃げてしまった。……余所者の言うことは信用ならないだろうが」
「いやまあ、そういうわけではないが」
シキの迫力に、衛兵たちはたじたじとお互いの顔を見合せた。本当に、ギルド長がそんな事をするものだろうか。どちらを信用したものか。
「この人の言うことは間違っていない」
ナールが進み出た。無言で部屋の中のティレルを示す。それ以上何も言わないナールを見て、クリフが説明を始めた。
「あの人は、この宿をやってるティレルさんです。そこの、ドロヘッジってやつが短剣を投げて、怪我をさせられたんだ。背中に剣を投げたんだ。剣はそいつのものだと思う。回復すれば、彼女も証言するはずだ」
「何と」
警備兵たちは再び顔を見合わせ、ついに隊長らしき人物が口を開いた。
「ともかく、二人には同行願おう。悪いが君らも詰め所に来てくれ。事の真偽を確かめる必要がある」
シキたちが了承すると、警備兵たちはドロヘッジとメイソンを連れ、怪我をしたティレルと看病を引き受けたナール以外の全員で詰所へ向かった。
柔らかな冬の日差しが道行く人々を照らしている。店員が客とやり取りする快活な声が飛び交っていた。餌を求めて町へ出てきた山鳥たちが、道端で何がしかをついばんでいる。
「とまあ、そういう訳だったんだよ」
クリフが興奮気味に両手を広げてみせる。話し相手は茶褐色の瞳を興味深げに輝かせた。
「俺も参加したかったなあ」
「やだ、セサルったら。大変だったのよ」
死ぬかと思ったんだから、と言うクレオに、青年は自信あり気に笑って見せる。砂漠の民が身につける大きな布を頭からかぶり、砂色の髪を短く刈った青年は、メイソンの宿で一緒だったセサルだった。
「早いとこ審議が決着して良かったね」
「そうだね。もうドロヘッジたちも悪さは出来ないと思うよ」
「当分の間は、でしょうけどね」
クリフの言葉に、クレオが肩をすくめながら付け足す。
「ティレルの怪我はその後どうだい?」
「それほど深い傷じゃなかったんだ。もう歩けるよ」
「でもまだ完全には治っていないわ。私たちも色々手伝ってはいるけど……」
「そうか、それで買い物に来てたんだな」
「セサルが荷物を持ってくれて助かったよ」
ティレルの宿の扉を開けると、木の札が軽い音を立てた。扉に下がっている、注意書きの札だ。
『宿はお休みしています
お食事は出来ます』
「いらっしゃい……ああ、お帰り」
事件以来、ナールは少し言葉数が増えた。彼なりに努力しているらしい。若干不自然ながら、笑顔も見せていた。
「頑張ってる?」
厨房に入ったクレオが笑顔を向けたのは、エイルだった。驚くべきことに、エイルはクレオに料理を習い始めたのだ。元々興味があったからか、簡単な食事くらいならすぐに作れるようになった。クレオに言わせれば「まだまだ」だそうだが、エイルはそれに怒ったりもしない。クレオが今まで作っていた食事がどれだけ工夫したものだったか、費用も時間も調理器具も限られた状況で、彼女がどれだけ一生懸命作ってきたか、エイルは思い知った。それに自分がどんなに文句を言ったのか。自分で料理を作ってみて、エイルは初めて本当にクレオに感謝を覚えたのだった。
「やっと帰ったか。遅いぞ」
ごめんごめん、と謝るクリフに、エイルは笑って見せた。背が低いために踏み台に乗り、真っ直ぐで奇麗な姿勢を保っている。何かを炒めているようだ。
「お前たちが遅いから、もう全員分の昼食を作ってしまったぞ。今日はウィッタ芋の卵包みに挑戦してみた」
「わぁすごい、綺麗に出来ているじゃない!」
尊大な態度は相変わらずといったところもあるが、額に汗して客の食事を作っているエイルは、一回りも二回りも成長して見える。
「これにパッソンを振って出来上がりだ。ふふ、クレオと違って、私は見た目にもこだわるのだ」
「そういう一言がなければ、もう少し褒めてあげてもいいと思うんだけど」
「褒めて欲しいなどと頼んだ覚えはない」
「可愛くないわね」
「ふん」
舌を出しながら最後の一皿を盛り付ける。と、声がかかった。
「三人前、追加をお願いします」
シキである。怪我も治り、店に立てないティレルの代わりに、ナールと客の相手をしているのだった。意外にも白い前掛けが似合っている。
「分かった。すぐ出来るから」
エイルはシキに応えて火の入ったかまどにパン種を放り込み、野菜を煮込んでいる鍋のスープを味見した。
「うむ、素晴らしい」
大仰な仕草でうなずき、愛らしいその顔で満足そうに笑う。
仕事が一段落したエイルたちは、遅い食卓についた。せっかくだから一緒に、と誘われたセサルも加わっている。クリフの前に積まれた山のようなパンがみるみる減っていく。クレオはウィッタ芋の卵包み焼きを口にし、驚いた表情を見せていた。
「意外と美味しいじゃない」
「意外と、とは何だ」
「あらごめんなさい。怒った?」
「私はそんな事で怒るほど子供ではないからな」
「でも本当に美味しいわよ」
「そんなの当然……」
言いかけたエイルは、クリフの視線に気づく。シキを見ると、シキも意味ありげな顔でエイルを見ていた。エイルは二人の顔を何度も見比べる。シキとクリフは、エイルに期待している。それを理解したエイルは眉を寄せ、顔を赤らめた。
「あ……」
「? 何よ、エイル。『あ』って。そんなに口を開けて、変な顔。クリフとシキは何を笑ってるの?」
クレオ一人が、首をかしげている。エイルがもう一度口を開けた。
「あ」
「だから、何だっていうの?」
「……あ、あ、ありがとう」
「はあ?」
「間抜けな顔をしているな! そんなに口を開けて、馬鹿面に見えるぞ。料理を褒められたから礼を述べたのだ。この私がお前ごときに礼を述べたのだぞ、分かっているのか? 恐縮して恐れ入ったらどうだ。本当に、私を誰だと思っているのだ、失敬な!」
まくしたてたエイルの頬が一段と赤く染まっている。クレオはまだ目をぱちぱちさせながら呆気に取られていた。クリフたちは声を殺して笑っている。エイルは、もうその話題は終わりとばかりにセサルに向き直った。
「セサルは、いつまでデュレーにいるのだ?」
「ああ、いや実はもうそろそろと思っていたのさ。少し長居しすぎたよ。その代わり、面白いもの、見せてもらったけどね」
にやっと笑って、片目をつぶる。
「明日にでも出発するよ。山を越えて、北へ行く。俺も、もっと色々な事を経験しなくちゃ。……ところで、君たちはどうするつもり? 確か、魔術師を探しているんじゃなかったっけ」
「そうだ。コーウェンという町にいるという噂だが、実際のところは分からんしな。もちろん名前も知らないし、困っている」
「コーウェンの魔術師ってのは聞いたことあるよ。でも、詳しくはなくて」
「気にするな。旅の途中で知っている者に出会うかもしれないし」
「そうだね、近くなればもっと色々分かるだろうさ。いずれにせよ、南へ行くなら、砂漠を越えるってわけだ」
「やっぱり、大変よね?」
クレオが不安げな顔を見せる。セサルは大きくうなずいた。
「そりゃそうさ。砂漠には一度も行ったことがないんだろ? じゃあものすごく大変だ。道案内の人を雇わないと。絶対迷うよ。間違いない。昼間は死ぬほど暑いから、厚手の布を頭からかぶってじっとしていなくちゃ駄目だ。動くのは夜がいい。凍っちまいそうに寒いけど、距離が稼げる。後はそうだな……時々、竜巻がくるんだ。布を顔に巻かないと息が出来なくなるから気をつけて」
セサルの助言はこの他にもたくさんあった。そのすべてを、よく頭に叩き込むようにとセサルは何度も繰り返した。
「少しは役に立てたかな。君らが無事に砂漠を越えること、心から祈ってる。それじゃ、俺はそろそろ行くよ」
食事の代価を机において立ち上がる。
「明日の朝は早くに出発するつもりだから、君らともここでお別れだな。……そうだ」
首に下げていた金属の飾りを外し、セサルはそれをクリフに渡した。
「これを持っていきなよ。砂漠の神ヤーデの首飾り。きっと君らを守ってくれる」
「ありがとう、セサル」
「もしケイズリーという部落に立ち寄ったら、それを見せてやって。外の人は警戒されるけど、俺の知り合いだって分かれば大丈夫と思う。それから……レザという女性に会ったら、セサルは元気でやってるって伝えてくれないか」
クリフが笑顔で答える。
「きっと伝えるよ。君の家族? 友達?」
「いや、その……婚約者っていうか。儀式が終わって部落へ帰ったら、結婚するつもりなんだ」
鼻の頭をかいて、セサルは照れくさそうに笑った。
「それじゃあ、元気で」
「セサルもね」
「北へ行くなら、昼のうちに山を下りろよ。クルイークに出会わぬようにな」
「ああ、ありがとう。気をつけるよ」
シキたちはそれぞれに別れの言葉を口にし、宿から出て行くセサルを見送った。
「さて……俺たちはどうする?」
クリフが、誰にともなく問うた。エイルが即答する。
「ティレルの怪我が治ったら出発する。それしかないだろう」
「今のところ手がかりは一つきり。やはりコーウェンという町を目指す、か」
「道のりは遥か、というところね」
クレオが呟く。彼女の心の痛手は癒えていないようだが、努めて明るく振舞っている。あの夜、泣きながらクレオが話してくれたこと。ティレルとシキがいい仲になっていたなんてクリフは全然気づいていなかった。それより、クリフには妹が心配で仕方なかった。シキはクレオの様子に気づいているのかいないのか。一体、シキはクレオをどう思っているんだろう、と、横目で盗み見る。だがその表情から、クリフは何も読み取ることが出来なかった。
レフォアでは冬の終わりを告げる南風が吹いて春になり、同時に、新しい年が始まる。そしてレフォアの暦に合わせて大陸全土が年を改める。春風の月が一年の始めの月だ。彼らがデュレーを離れる頃には、その春風の月もそろそろ終わろうとしていた。
四人が階段を下りてくると、ティレルとナールが彼らを待っていた。怪我はまだ完全に治ったとは言えない。
「行くのね」
ティレルは、シキを見て言った。シキの返答はない。クレオは視線を床に落とす。シキがどんな顔をしているか、怖くて見ることが出来ない。クリフが申し訳なさそうに口を開いた。
「俺たちのせいでこんな事になってごめん。宿をまた始めるまで手伝おうと思っていたんだけど……」
「大丈夫よ。もう仕事出来るわ。宿もすぐに再開する」
クリフを励ますように、ティレルは笑顔を浮かべる。寂しさを口にする気はなかった。だが、もはや彼女の言葉を聞かずとも、その心は伝わっている。この宿に滞在した日々は、彼らの心を十分に近づけていた。ティレルの瞳の奥に隠れた想いは、容易に汲み取れる。
「無理はするな」
深意はあるのかもしれないが、シキもまた、余計な言葉を言いはしなかった。どこまでも深く、優しさに満ちた緑の瞳が、ティレルを真っ直ぐに見つめている。
「ありがとう」
そう言ったティレルの声は、いつも通り艶やかだった。
「私、この宿が好きよ。宿の仕事も好き。そして歌も。これからもずっと、歌いながら宿をやっていくわ。……私ね、母の気持ちが少し分かった気がするの。多くの旅人が訪れ、また去っていくこの町に、ずっと留まった母の気持ちが」
「そうか」
「母は……きっと、幸せだったんだと思う」
シキは何も言わなかった。クリフもエイルも黙っていた。そして、クレオも。
「もしまたここを通ることがあったら、必ず寄ってちょうだいね」
四人はそれぞれにうなずき、ティレルとナールの姉弟もそれに応えて微笑んだ。
「さあ、行こう。山を下り、ルセール領へ。砂漠を越えて、コーウェンへ!」
クリフの宣言とともに彼らは再び旅人となった。
エイルははるか遠くの祖国に思いを馳せて。
シキは過去を振り返ることなく。
クリフは高く昇ったハーディスに顔を向けて。
クレオは切なさを胸に秘めて。
そして運命の神クタールは、彼らの行く末をただ黙って見守っていた。
Copyright©, 1995-, Terra Saga, All Rights Reserved.