エイルと最後の竜 第九章 アンワール - 墓標

レフォア歴七八五年、青葉の月。レフォアなら春から夏へ季節が移り行くころだが、南の王国ルセールでは長い乾季が続く。単調な日々は喉の渇きを呼ぶが、それでも馬を走らせていると風が心地よく感じられる。エイルは細い髪が絡まるのも気にせず風に散らし、背筋を伸ばして手綱を操っていた。サナミィを出立したのは、もう一年近くも前のことになる。一見して分かるほどに身長も伸び、健康的な頬は輝くようだ。やせ細った色白の少年だったあの頃とは別人である。

アンワールの町は、ルセール貴族アンワールの城に併設された宿場町である。南方は水気の少ない土地ばかりだが、ここには地下水が湧き、町を潤している。王都マイオセールからはさほど遠くない。エイルは近すぎてつまらないとすら思った。馬はいい。赤土が平らに続くこの平野を、このままどこまでも駆けて行きたい。想像すると身震いが走る。しかし遠目に見えていた町はぐんぐんと近づき、石煉瓦の屋根がくっきりしてきた。

町に入り、馬を預けた一行は、リュークの案内でサーナがいるはずのヴィトの家を目指した。

「ここだ」

リュークが示した家はくねるような坂道の途中にあった。小さな三階建てで、ひっそりたたずんでいるという言葉が似合う。石積みの壁には、つたが這っていた。木製の扉を拳で叩いても返事はなく、人が出てくる気配もない。二階の窓から一羽の鳥が飛び出て、くるりと旋回するとリュークの肩に舞い降りた。翼にくちばしを入れ、羽根繕いでもしているようだ。

「人に慣れているみたい」

微笑ましく見ていたクレオは、鳥がくちばしで羽根の間から紙片を引っ張り出したのを見て目を丸くした。鳥はそれを地面に落とし、小さな足に力を込めて飛び立つと、あっという間に姿を消した。

「外出中みたいだな。中に入って待っててくれってよ」

短い伝言が書かれた紙片を開いて見せると、リュークはこともなげに言った。驚きで口を開けたままでいる双子に、片目をつぶって見せる。

「驚いたか? あいつは、動物とかの扱いも得意なんだ」

そして、懐から小さな金具を取り出し、かんぬきにつけられた錠前に突っ込む。鍵を使って開けるのとそう変わらない時間で、内部の金属が音を立てて降参した。

「それ、鍵……?」

疑わし気に尋ねるクリフに向かって、リュークはにやりと笑った。

「そ。どんな扉も開く万能の鍵。俺の得意分野は、これさ」

家の中も外と同様、何の変哲もない民家だ。一階は台所と食堂、丸い机の周りに椅子がいくつか。壁沿いの棚には鍋や食器が並んでいる。特にこれといって目立つものもなく、こざっぱりと片付いていた。

「なんていうか……普通、だね。魔術師だっけ、精霊使いだっけ、とにかく、なんか、そういう人の家っぽくない感じ」

クリフが言えば、クレオも同感とばかりに続く。

「私もそう思った。なんか、普通」

「どんな部屋だと思っていたんだ?」

うなずき合う二人にリュークが質問を投げると、クリフとクレオは二人して肩をすくめた。

「え、いやまあ分からないけどさあ。魔術的な道具が並んでるとか?」

「本棚に難しそうな本がたくさん、とか」

「細かい模様が刺繍してある壁かけがあって、古い地図とか」

「謎の壺、樽、よく分からないけど……動物の剥製?」

想像を巡らせる二人が挙げるものを聞きながら、エイルが軽い笑い声を立てる。

「それはまるでジルクの部屋だ」

「え、そうなんだ」

「ああ。ジルクの部屋は恐らくお前たちが想像する部屋に近い。ごちゃごちゃしていて、色々なものが置いてあって。全然片付いていなかった。自分ではどこに何があるか分かっていると言っていたが、どうかな」

エイルとシキの脳裏に、あの日のジルクの部屋が思い浮かぶ。確かに現実だったはずだが、今はもう、なんだか夢だったようにも思える。帰りたい、とエイルは思った。あの部屋で、幼かったあの頃のように、ジルクの難しい本を眺めてゆっくり流れる時間を感じたい。平和だった。それがずっと続くと思っていた。エイルは、心の内でもう一度呟いた。帰りたい、と。

「ここは本当に普通の家って感じよねえ」

「魔術師が住んでるって言われても、信じられないよ」

双子の声で我に返る。リュークは勝手知ったるといった様子で湯を沸かし、茶の用意をしている。

野宿にも慣れたとはいえ、机について茶が飲めるのはやはりいいものだ。誰ともなく、深い安堵の息が漏れる。くつろいだ彼らが家主に会えたのはしばらく後であった。

帰宅したヴィトは、リュークより十歳以上年上と聞いていたが、とてもそうは見えなかった。かけている眼鏡のせいか学者然としているが、全体としてはとても若く見える。

「やあリューク、戻ったんだね。そろそろだろうと思っていたよ。運命の神には逆らえないということ、これで分かったろう?」

逆らえないのは運命の神なのか、それともヴィトなのかと思いつつ、リュークは小さく舌打ちをした。ヴィトは満足げな笑みを口元に浮かべ、上着を脱いで壁かけにかけた。

「あ、あの、勝手にお邪魔して……すみません」

顔を赤くするクレオに、ヴィトは手を振って気にしていないことを伝えた。

「初めまして。ご来訪いただけて嬉しく思いますよ」

そこで一度言葉を切り、ヴィトはエイルに向かうと、おもむろに床に膝をついた。

「殿下、お初にお目にかかります。ヴィト=キルヒアと申します。以後どうぞお見知りおきのほどを」

こういった対応をされたのは本当に久しぶりのことで、エイルはむしろ戸惑ってしまった。だがすぐに姿勢を正し、鷹揚にうなずいて見せる。

「丁重な挨拶、痛み入る。どうか皆と同じように接してほしい」

「ありがたき幸せ」

にこりと笑って立ち上がり、ヴィトはエイルの隣に腰かけた。クレオが注いだ茶を口に含むと、改まった様子で切り出す。

「さて。私はあなた方の来訪が分かっていました。リュークが共に戻ってくることも」

それは、予見の力があるということなのか。クレオは母のことを考えた。先のことを見る力。このヴィトという人は魔術師とか精霊使いとか聞いていたが、母と同じように司祭の素質もあるのかもしれない。

「ですが、あなた方四人のお名前、関係性、どうしてここへ来たのか、そういったことは分からないのです。よろしければお聞かせ願いませんか」

そうか。そうなのだ。エイルはヴィトの言葉にはっとした。先ほど膝をついて自分を殿下と呼んだが、名前は呼ばれなかった。王子であるということは分かっていて、それでいてヴィトは、エイルが何者なのかを知らないのだ。何とも不思議な感覚に包まれる。予見とは完全なものではない、とジルクが言っていたのを思い出す。いずれにせよ、自分たちが生きていた時代へ戻るには、この男の力を借りるほかないだろう。エイルは逸はやる気持ちを抑え、今までの経緯を簡潔に説明した。

「……レフォア歴四三八年、ですか」

話を聞き終えたヴィトの目が、眼鏡の奥で興味深げに光っている。当然、簡単に信じられる話でもないだろう。

「信じられないと思いますが、我々が嘘を言って貴方を騙しているわけでは」

シキに最後まで言わせず、ヴィトは小さく笑って片手を上げた。

「事の真偽は調べればすぐ分かることです。そもそも、疑ってもいませんが」

「調べる?」

「レフォアの歴史をまとめた本がありますから」

それはイルバの町でダルケスと話していた時にも出た話だった。一般的に紙は貴重なもので、価格も高く、庶民が読むようなものではない。歴史書のような長期保管用の本ともなれば、城や神殿で所蔵されているものくらいである。ダルケスならそういった本を見られるという話だったが、エイルはそれを断った。

「今のこの世界における歴史は、我々の未来だ。私は未来を知りたくはない。それに我々の先に続く未来が今のこの世界に繋がるとも限らん」

道中、エイルが時折話していたこの話をクリフたちも今ではよく理解していた。最初、エイルが本当は三百年以上も昔の人間なのだということはなかなか想像できなかった。共に長い時間を過ごすうちに、その気持ちはさらに深まり、昔からの馴染みなのではと思ってしまう時もあった。だが今、改めてその話が出てクリフは、そうだ、本当にそうだったのだと、冷や水をかけられたような気持ちになった。

「なんと聡明な」

感心したようなヴィトに、エイルは首を横に振った。

「私はただ、怖いだけだ」

その言葉に続く短い沈黙を破ったのはシキだった。

「どうして我々が今の、この世界に来てしまったのか、それは分かりません。遠い地へ、とジルク殿は言っていた。もしかすると、ジルク殿の力が強すぎたのかもしれない。……ですが真実がどうあれ、結果として我々はここへ来た。そして、戻るべき世界へ戻りたい。それが間違いのない望みです。ですが、時を超えるといった大掛かりなことが行える術者はほとんどいないのでしょう」

シキの言葉に、ヴィトがうなずく。

「そうですね。四百年代でも簡単な術ではなかったでしょうが、現代では魔術はもはやほとんど廃れています。出来る者はまずいないでしょう。……我が師匠を除いては」

総毛だつような興奮が一瞬のうちに肌を巡り、クリフは熱を帯びた表情で身を乗り出した。イルバの領主ダルケスが言っていた。『大陸一の魔術師と呼ばれる者なら、そういったこともやってのけるかもしれん。噂に過ぎないが』と。だが噂ではなかった。リュークも言っていた通り、ヴィトの師匠こそが探していた人物だったのだ。コーウェンの魔術師は、本当にいたのだ。

「ですが」

ヴィトの声に、弾かれたように顔を上げる。

「師匠は、数年前から行方が知れません」

「そんなあ」

肩透かしを食らって中途半端だった姿勢ががくりと崩れる。クレオも言葉にならず、椅子に沈み込んだ。希望の明かりが目の前でかすめ取られたようだ。四人は暗い顔で口をつぐんだ。

「ひとまず、私はコーウェンの本宅へ行き、文献を調べてみましょう。過去の世界へお二人を送る方法について手掛かりがあるか、探してみます」

「おい」

それまで黙っていたリュークが、椅子を鳴らした。

「サーナはどうしてる」

「へえ、心配してたのか、リューク」

したり顔で言うヴィトから、ばつの悪そうな顔を背け、リュークは「別に」とかなんとか口の中で呟いた。

「元気にしているよ。昼寝でもしているのかな?」

「ここにいるのか」

「静かにお留守番ができるんだよ」

サーナは、以前よりずっと元気にしていた。失った声こそ取り戻してはいなかったが、肌艶も良く、頬には赤みがさしている。豊かに波打つ髪が小さな顔にかかっているのを寝ぼけながら手で払い、彼女は長いまつげをそっと上げた。群青にも紅にも色を変える不思議な瞳が部屋の壁を見つめる。そうか、ここは王宮の部屋ではなかった。ここで暮らすようになってからずいぶんと経つけれど、今でも王宮で暮らしていたころの夢を見る。目を覚ます度に、失われたものが指の間からすり抜けていってしまったことを、また確認する。その耳に、賑やかな会話が聞こえた。この家に客など滅多に来ない。ヴィトの他には、世話をしてくれる小間使いが出入りするくらいで、大人数の声がするような事はついぞあったことがない。細い首をかしげて、サーナは寝台から滑り下りた。階段から、恐る恐る階下を覗く。そこに懐かしい者の姿を見つけ、サーナは階段を駆け下りた。

「お、久しぶり」

どこか気恥ずかしそうにリュークが片手を上げる。サーナはリュークの服にしがみついた。顔をリュークの服に押しつけ、じっと動かない。

――寂しかったんだろうな。

その様子を見ながら、クリフは思った。リュークに聞いた話によれば、少女は王宮で竜が兵士たちを焼くところを見てしまったという。ここへ来る途中で見た王都。あの大きな都の王宮で、この少女は平和に暮らしていたのだ。なのに、ある日突然、何もかもを失った。それ以来心に傷を負い、言葉が出ないとも聞いた。さぞかし辛く、悲しかっただろう。その後リュークとも別れることになって、きっと不安だっただろう。ひどいことだ。なんでそんなことになったんだ。クリフは眉をきつく寄せた。この子は、何も悪くないのに。理不尽さに対する怒りが、腹の奥で燃え上がる。

「初めまして、サーナ皇女。私はクレオと申します。こっちが、兄のクリフです。ほら、クリフったら」

「あ? あ、そうです、ええと僕がクリフです、こっちが妹のクレオ」

「それは今、私が言ったでしょ」

「え、あ、そ、そうか、そうだったよね」

慌てるクリフを見て、サーナが笑った。クリフは顔を赤くして頭をかきながらも、少女が普通に笑えることに安堵した。

「私がエイル。後ろにいるのが私の従者で、名はシキだ」

サーナはこくりとうなずいて応えたが、手はリュークの服を握ったままだ。その様子に、クレオが両手を腰に当てる。

「ちょっとエイル、怯えさせてんじゃないの」

「そんなことはない」

二人が軽くにらみ合う横で、ヴィトが優しくサーナに告げた。

「サーナ様。私は所用が出来まして、コーウェンの家へ行って参ります。数日留守にしますが、いつものツィスカも参りますし、彼らも滞在してくれますので、お寂しくはないかと」

「俺はこれで」

そう言いかけたリュークに、ヴィトが視線を向ける。

「リュークもここにいればいい。旅の疲れを癒しておくれ」

「なんで俺まで。もう仕事は終わりだろ」

「強がることはないんだよ」

語調は柔らかいが、ヴィトの言葉はリュークに有無を言わせぬ力があるらしい。ぶつくさと文句を言いながらも、結局リュークは滞在を了承したようだった。

「皇女様。これからしばらくの間、お相手をさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」

クレオが微笑みかけると、サーナも嬉しそうにうなずく。エイルは眉を上げて、鼻をならした。

「同じ王族だというのに、私との初対面の時とはずいぶん違うではないか」

「あら、同じ王族だってのにサーナ皇女はどっかの誰かさんと違ってずいぶん丁寧よね」

「どういう意味だ」

「そういう意味でしょ」

「クレオ、お前な。先ほどは大目に見たが」

「なんのことか分からないわ」

いつも通り始まったやり取りに、サーナは驚いて目を白黒させた。喧嘩腰の会話にたじたじしていると、クリフが耳打ちする。

「本当は仲良しなんですよ」

そうなの? 本当に? とでも言いたげな顔で見上げるサーナに応えてうなずき、クリフはシキやリュークにも同意を求めた。二人がそれぞれに認めたのを見て、サーナはようやくほっとしたような顔になった。

そうして打ち解けた彼らが共に時間を過ごし、ヴィトの帰りを待つ時間は、その後の人生で彼らが思い出す記憶の内でもとても幸せなものの一つになった。クリフとクレオはサーナの兄と姉のようで、二人はサーナが高貴な身分だと分かっていながらも、新しく出来た愛らしい妹にたくさんの愛情を注いだ。エイルは相変わらずクレオと口喧嘩に花を咲かせながらも、一緒に料理をしたり、クリフと馬に乗ったり、シキに戦術を習ったりしていた。リュークは自由気ままに姿を消したり、またふらっと帰って来たり。不在の間どこで何をしているか、誰も聞かなかった。聞いても仕方のないことだったし、大体の想像はついた。そうして、穏やかな時はゆるゆると流れていった。

言葉を話せないサーナは、黒い石板に白亜石のかけらで字を書き、簡単な意思を伝達していた。幼い少女であったが、ルセール語のほかに大陸共通語としてのレフォア語もかなり習得していたのである。クリフは、読めない字や分からない言葉などをいちいちエイルに聞いてはうんざりされ、サーナに字を習うことにした。年下の少女が、兄のようなクリフに物を教えているのは、なんだか滑稽なところもあったが、二人とも真面目に取り組んでいた。クリフも、一度は諦めた勉強が、サーナとやっているうちに楽しく身についていくのを実感していた。

そして青葉の月も半ばになった頃、ようやくヴィトが帰ってきた。

「レフォアの歴史をまとめた本はかなり分厚いものですが、四百年代中盤に、殿下の名前が確かにありました」

ヴィトの報告に、エイルは胸が詰まった。自分たちが過去から来たことが、これで証明されたことになる。今までは、恐らくそういうことだろう、それならつじつまが合うのではないか、そういった推測に過ぎなかった。だが、ヴィトの言葉によってそれが真実になったのだ。

ヴィトは「あの事件」の後に起こったことを知ったことになる。王弟コジュマールは王位に就いたのか。その後レフォアはどうなったのか。両親や兄は本当に亡くなったのか。転移させてくれた後、ジルクはどうなったのか。そして『第二王子エイル』のその後についてはどう書かれているのか……。気になることは確かだったが、ヴィトに知りたくないと言った手前、聞きはしなかった。

「あの本からすれば、殿下は確かにあの時代に生きていた方。今ここでお会いできているなんて夢のようです。司祭長であったジルク殿の力は、ちょっと信じられないほど強大だったのでしょうね。魔術が衰退している現代で、二人もの人間を、時空を超えて転移させるなどということは現実的じゃありません。私も調べてはみましたが、手掛かりと言えるようなものはほとんどありませんでした。もし出来るとしたら、確かに、師匠くらいしかいないかもしれません」

「でも、行方不明なんですよね」

「残念ながら」

ヴィトが気の毒そうに肩をすくめる。と、何か音がした。誰かの足が机にぶつかりでもしたのかと、クリフが机の下を覗こうとしたとき、全員の耳にその人の声が聞こえた。

『私に用があるようだね』

驚いたクリフは頭を机に勢いよくぶつけてしまった。こんな声の女性はいなかったはずだ。どこから声が聞こえてくるのか。

『そこにはいないんだよ』

その声は部屋のどこにいても聞こえていたが、どこにいる誰が発しているのかは分からなかった。立ち上がったヴィトが、どこともつかぬ方向に話しかける。

「お師匠様、今どこにいらっしゃるんですか」

『ちょっと忙しくてね。まだしばらく帰れそうにないから、話だけでも聞いておこうと思って』

「私にも聞きたいことがたくさんあります」

『そうだろうね』

どこか笑ったような声音は、深く、落ち着きのあるものだった。どこか遠くから声だけを届けているのだろうか。エイルは驚きを隠して声を上げた。

「私はエイル=エルラート=レフォア。お見知りおきを、と言っても私が見えているのか分からないが」

『こっちからは見えている。あなたがエイルか。私はアメリ=コルディア。ヴィトの師だ』

この声の主が、旅の目的なのか。そう思うと、身震いする思いだった。エイルは上ずってしまいそうな声を抑えるために咳ばらいを一つすると、今までの経緯を手短にまとめ、ヴィトがレフォア史を確認してくれたことと合わせて説明した。

「そんなわけで、私と、ここにいる私の従者を、我々が生きるべき時代へ送ってもらいたいのだ」

『なるほど』

声は一旦途切れた。顔が見えないので、アメリ=コルディアが何を考えているかは分からない。ややあって、声が再び聞こえた。

『簡単なことではない。色々と調べなくてはね。準備も必要だ』

「てことは、簡単ではないけど、出来るってことですか」

興奮したクリフが大きな声を出す。

『やってみなければ分からない。私は今、手が離せなくてね。大国レフォアはもちろん、大陸各国の当主と竜対策に追われているので』

突然告げられた竜という言葉に、一同はそれぞれに顔を見合わせた。マイオセールが竜に襲われたという話は聞いていたが、やはり本当にいたのだという驚き。各国の当主と竜対策をしているという事態の重大さ。夢で見た竜の恐ろしさを思い出す。凶悪で、残忍で、容赦なく人々を焼く炎を吐いていた。対処できる方法など、クリフやクレオには思いつかない。だがアメリ=コルディアは国王たちとこれ以上の被害を出さないために対策を練っていると言う。二人はなんだか、めまいがするようだった。

「お師匠様、数年前から連絡を絶っておられたのはこのためだったのですか」

ヴィトが尋ねている。

『違う。調べてほしいことがあると、ミチロ皇国から依頼を受けてね。あの時はすぐ戻るつもりだったし、わざわざ知らせるほどのことではないと思っていたんだよ。……やはり話しておこうか。ヴィトには以前、狂信者の会について話したことがあったね』

「ああ、ありましたね。異形の者を盲信する、おぞましい宗教団体だと」

『そう。そこに何か動きがあったとかで、私に調査依頼があったんだよ。ところが調べていた矢先に竜が出現したんだ。その存在自体は、お伽話などではないと以前から話が合った。なので調査が進められていたんだよ。だがまさか、狂信者たちが凍結した竜の群れを見つけ、蘇らせるとはね。私としたことが、手を打つのが間に合わなかった。マイオセールで大規模な被害が出てしまったことには責任も感じている。だから、この件が片付くまでは手が離せないんだよ。エイルたちにはもうしばらく、ヴィトの元で待っていてもらいたい』

そうして声が消えると、一種の緊張状態にあったのか、口々に深いため息が漏れた。

「ヴィトの師匠ってのは、なんだ、本当に、人類の存亡にかかわるような仕事をしてたんだな」

感心したようなリュークの言葉に、ヴィトも驚きを隠せないといった様子で、自分も初めて知ったことだと言った。

「なあ、リューク。リュークは本当に、竜を見たんだよな」

クリフが固い声で尋ねる。リュークはサーナにちらと視線を投げたが、クリフの真剣な視線に応えてうなずいた。

「竜って、倒せるようなものなの」

重ねての質問に、顔を歪め、長い前髪をかきあげる。無言が否定を意味していた。

「そうだよね……。でも、このままにしておくわけにはいかない。またきっと悲劇が起こる。なんとかしなくっちゃいけない。俺にも何かできたらいいのに」

居ても立ってもいられないというようにクリフは立ち上がり、シキに向かって剣の稽古でもしようかと持ち掛けた。その傍らで、クレオが唇を引き結んで首をかしげている。

「どうしたの、クレオ」

「え……あ、ううん、なんでもないの。ただ……」

「なんだよ」

「ううん」

「気になるだろ。言いたいことがあるなら言えよ、クレオらしくない」

たたみかけるクリフに促され、クレオは仕方なく口を開いた。

「竜って、どうしても倒さなきゃいけないのかなーって」

「は?」

クリフの目が丸くなる。同じ、はしばみ色の瞳がちらりとクリフを見て、また床に落ちる。

「何言ってんだよクレオってば。当たり前だろ。竜を倒さなくてどうすんだよ」

「竜は、倒すべき敵、なの?」

「決まってんだろ!」

思わず声を荒げたクリフに、サーナがびくっとする。クリフはクレオの言っている意味が分からず、苛立った。

「なあクレオ、たくさんの人が殺されてるんだ。マイオセールの街を見ただろ。建物だってたくさん焼けて……サーナの家族だってさ」

手を広げてサーナを示すと、少女の体が縮こまっているのが目に映った。慌てて謝り、クリフは再びクレオに向き直る。

「とにかくさ、竜は倒さなきゃならないに決まってるだろ。これ以上被害を出しちゃならない。ほっといたらまた」

「でも、あれ以来何もないんでしょ」

「そういうことじゃないだろ。クレオ、自分が言ってること分かってるの? おかしいよ、どうしちゃったんだよ」

「どうもしてないわ。クリフの方こそ、もっとよく考えてよ」

「はあ?」

「よーく考えて」

「待てよ、俺が考えなしだって言うの? 分かり切ったことをぐちゃぐちゃかき回して分からなくしてるのはクレオだろ」

眉をひそめたシキが話に割って入ろうとしたが、クリフがその手を振り払う。

「大体、クレオはそうやっていつも俺を馬鹿にするけど、俺だって色々考えてるし」

「馬鹿になんかしてなんかないわ、ただもっとよく考えてって言ってるの」

「同じだよ。この話はどう考えたって俺が正しい。クレオこそ、被害に遭った人の気持ちをちゃんと考えろよ!」

「大きな声出さないでよ!」

そういうクレオの声も、クリフと張り合うほどのものだったが、彼女自身はそれに気づかないようだ。

「獅子はうさぎを殺すわ。食べるためよ」

「もう、何の話だよ」

突然変わってしまった話についていけない。クリフは髪をかきむしった。

「竜は、人を、食べるために殺すの? 私たちは、竜を食べるために殺すんじゃないわ」

「ちょっと待ってよクレオ。何言ってんだか、全然分からない」

「なんのために竜はマイオセールを襲ったのかってことよ。私はその理由を知りたいの」

「理由? 理由ってなんだよ。そんなの分かるわけない。ていうか、そんな、理由なんてそんなこと関係ない。もう二度とあんなことが起こらないように、竜は殺さなきゃ。害獣と一緒だよ。人を襲う狼や熊や、畑を荒らす動物を殺すのと同じだろ。だから、ヴィトのお師匠さんとか偉い人たちとかが一生懸命考えてるんじゃないか。とにかく殺すしかない。選択肢はそれ以外ない」

「私が言いたいのはそういう単純な話じゃないの。クリフには分からないかもしれないけど、竜が」

「俺には分からない?」

クレオの言葉に、クリフが気色ばむ。

「最後まで話を聞いてよ」

「竜のことなんて理解したくないね!」

「クリフ!」

大きな音を立てて立ち上がったクリフは、クレオを睨みつけた。

「どうせ俺には分からないよ!」

頭の奥がじんじんと痺れる。息が苦しい。

「クレオは人間の味方なのか? 竜の味方なのかよ!」

「え? そんなこと話してないわ」

「竜に何か納得できる理由があったら、人間は殺されても仕方ないって言うのかよ」

「そ、そうじゃないけど」

「そういうことだろ。クレオは人間より竜のが大切なんだろ!」

そう言い放つと、クリフは荒い息で肩を揺らした。頭が痺れている。体中の血液が沸騰しているようだ。サーナは大きな目を潤ませて唇を噛んでいる。それを見れば、サーナの気持ちは、彼女が言葉を発さなくても手に取るように分かった。不思議なほどに。なのに、クレオのことは理解できない。今まで、クレオのことは自分が誰よりも理解していた。ずっと一緒に育ってきて、一心同体で、ずっとずっと……何でも分かる、言わなくても通じる、そういう間柄だった。二人の気持ちはいつでも一つだった。なのに。

「クリフ。稽古に行こう」

大きな手が、優しくクリフの腕を取った。見上げると、シキが外に出ようと促している。燃えるような熱さの顔を両手で乱暴にこすると、クリフは大股で外へ出て行った。ヴィトがサーナの肩を抱き、二階に消える。リュークは両手を広げて肩をすくめ、クレオの肩を軽く叩くと、「よくあることさ」と言って家から出て行った。食堂には、エイルとクレオだけが取り残された。

「……クレオ」

「……ごめん。私、どうしたらいいか……」

顔を覆った手の内側から、震える声でクレオが言う。エイルはしばらく逡巡したが、やがて言葉を選びながら慎重に話し出した。

「クレオが私に謝ることは何もない。お前たちは双子だが……親兄弟でそれぞれ違う意見があることもあるだろう」

「クリフと意見が違ったことなんて、一度だってなかったわ」

改めて考えると、本当にそうだったな、と思う。クリフとクレオが意見の相違で仲違いすることなど、今まで一度もなかった。改めて双子の強い絆を感じる。だが、それでもエイルは言った。

「クレオはクレオだ。クリフと違う意見があってもいい」

「……」

「色々な考え方がある。みながそれぞれ違う考えを持つことは、悪いことではないはずだ。もちろん、話し合えば理解できると決まったことでもないが。残念なことにな。争いというのは、考え方の違いを相手に押しつけることから始まる」

そう、ずっと昔から、恐らくずっと先の未来まで、それは変わらないだろう。エイルは小さく嘆息した。

「それでも、みなが同じ意見である必要はない。私はそう思う。新たな意見が出ることで、気づかされることもある。世界が広がることもある。私も、こちらへ来てからたくさんのことを学んだ。それぞれの考えは、違って当たり前なんだ。そして、違うということを知るのは、いいことだと思う」

「エイル」

顔を上げると、エイルが自信たっぷりといった顔で微笑んでいた。

「そうだね。エイルは全然違う世界から来たんだった。……うん、うん、そうだね」

クレオは何度かうなずくと、涙を拭きとり、少しだけ笑った。

「さっき、クリフが言ってたでしょ? 竜は害獣と同じだって。私たちの村でもよくあったわ。畑を荒らしたり、人を襲ったりする獣を殺すこと。私、当たり前だと思ってた。でも、その獣だって生きていて、生きるためには食べなくてはいけないし、子供を守るために人を傷つけたこともあったかもしれない。人からすれば獣がひどいことをしているように見えるけど、あっちからしたら人の方がひどい仕打ちをしているように見えるかもしれない、って。でもそれは別に竜の味方とかじゃないし、人が死んでもいいとか思ってるわけじゃないの」

エイルはゆっくりとうなずいた。

「クリフも、落ち着けば大丈夫だ」

「ん……。害獣にせよ、竜にせよ、放っておけるものじゃないって分かってるわ。やっぱり被害が出たら困るもの。サーナの気持ちも分かってるつもり。ただ私……。ごめん、なんだか頭がぐちゃぐちゃになってきちゃった」

「言いたいことは分かる。つまり、正義と悪について絶対的な指針が揺らいだということだな」

納得したように言うエイルだが、クレオにはその言葉が難しかった。 困ったようにもじもじと姿勢を変え、きまり悪そうな顔で笑った。

「シシンってなんだっけ……でもありがとね。話、聞いてくれて」

クレオは珍しくも素直な言葉を口にする。エイルはそれに気づかなかったものか、腕を組んで何事かを考えている。

「……竜は確かに大きな被害をもたらした。人々にとってみれば、敵であることに間違いない。クリフが言うのは、敵は悪であり、害がある敵は倒すべきであり、それこそが正義だということだ。それも、間違いではない。クレオもその考え自体を否定するつもりはないだろう」

「う、うん」

「だが害獣が自分の利益のために、あるいは大切なものを守るために行動するなら、それは我々と同じであり、悪と断じることは出来ない。駆除しようとする我々が、彼らにとっての悪となる。善と悪は立場によって見え方が違う。そういうことだな」

「そう、そうなの! そういうことよ!」

興奮して手を叩いたクレオに、エイルは満足そうにうなずいた。

「竜がマイオセールを襲ったことに、どんな理由があるのか。……確かに気になるな。特に理由もなく暴れただけなのか、人々を食料にしようとしたのか。竜の考えを知るなどということが出来るのだろうか。そしてそれが分かったところで、今後人々への被害がなくなるためにはどうすればいいかはまた別の話だ」

「そうよね……。今、竜がどこにいるかも分からないし」

「アメリ=コルディアたちは知っているのだろうか。だとしても、我々一般市民には教えてもらえないだろうな」

エイルが、自分たちを一般市民と言ったことに、クレオは驚きを覚えたが、エイルは意に介さず独り言を続けている。

「例えて言うならば、竜は活火山のようなものだと言える。いつ噴火するか分からない、巨大な脅威だ。居場所が分かったとしても、非常線が張られ、近づくことすら規制されているだろう」

「なるほどね。そうかもしれない。まあ、竜に近づけたとしたって、どうしてだったのって聞いて教えてもらえるもんでもないだろうしね。第一、竜って人と同じ言葉をしゃべるのかしら?」

「分からないことだらけだな」

――ああ、バダッフよ。私に出来ることはあるのでしょうか。

ため息を吐いたエイルは天井を見上げ、レフォアの守護神である知恵の神に祈りを捧げた。

何も手につかない。クレオと喧嘩したことがないとは言わないが、ちょっとした言い合いみたいなものばかりで、こんなに大きなぶつかり合いは初めてだった。そして、こんなに長い時間クレオと口を利かないのも初めてだった。

『大丈夫?』

サーナが石板に書いたものをそっと見せてくる。今日はサーナの部屋で字の勉強でもしようと言っていたのだが、あの喧嘩からずっと他のことは考えられないでいるクリフは、実際には何もせずに寝台に腰かけているだけだった。いつもなら場を盛り上げてくれるリュークはあれ以来不在で、夕食時にはみなと顔を合わせるものの、誰もほとんど口を利かず、何とも言えない重苦しさだった。

「大丈夫です」

サーナを安心させようと、クリフはなるべく明るい調子で言った。

あの後、外へ出たシキとは、一緒に剣を振っただけで、ほとんど会話をしなかった。考えがぐちゃぐちゃになっていたし、黙って付き合ってくれるのがむしろ嬉しかったし、体を動かすことですっきりした。落ち着いて考えれば、クレオにひどいことを言ったなと反省も出来た。今はもう、クレオの言いたかったことがなんとなく分かるような気がしている。けれど、自分の考えが間違っているとも思っていない。どう伝えたらいいかは分からないままだ。

サーナは不安そうな顔で石板を布で拭き、再び何かを書きつけている。

『クリフもクレオも元気ない。私も悲しい。どうすればいいの?』

少女に気を遣わせていることに気づき、クリフは自分を恥じた。

「あーえっと……ごめんなさい、心配させて。……クレオとはずっと一緒だったし、考えが違う事なんてなかったから、ちょっと困ってしまって。いつだって、クレオの気持ちは俺が一番分かってたんです。言葉にする必要もなくて、手に取るように分かってた。それが、少しずつ……分からないなって思うことが増えて。ただあんなに言い争ったのは初めてだったから」

ため息とともに漏れる言葉が、サーナの心に降り積もっていく。サーナはそっとクリフの手を握った。何も言わなかったのは、言葉を失ったからではない。

「ありがとうございます。でも俺、いつかはこうなるんだって、なんか分かってたような気もするんです。うまく言えないけど。俺、馬鹿だからな」

サーナが眉間にしわを寄せて勢いよく首を振る。クリフは照れ笑いをした。

「皇女様に心配させて、駄目ですね。俺が守ってあげようと思ってたのに」

綺麗な色の瞳に疑問の色が浮かぶ。

「あ、えっとつまり、その……被害に遭った人たちを助けたいなって思って」

どう言えばいいのか迷ってしまう。日に日にサーナを守りたいという気持ちが強くなっていくことには、自身でも気づかない振りをしていた。

『ありがとう』

サーナが石板に書いた言葉を嬉しそうに見せる。

「いやそんな。こっちこそ、ありがとうございます。聞いてもらって良かったです。悩むのはもうやめます。こんなの、俺らしくないし」

寝台から飛び降り、クリフは振り返ると、大きく口を開けて笑った。サーナをこれ以上心配させたくなかった。

階下へ行くとヴィトとエイルが、台所で食事の下ごしらえか何かをしていた。クレオの居場所を知っているか聞くと、洗濯物を干しに外へ出たと言う。裏口から庭に出る。確かに物干し台のところにクレオが背中を向けて立っていた。足元のかごには洗濯しただろう服が半分ほど入っている。

「クレオ」

声をかけると、その体が強張るのが分かった。背中越しで顔が見えなくても、彼女の緊張や迷いといった感情が伝わってくる。今までのようにクレオの気持ちが分かることに、クリフは安心した。なるべく明るい声で、緊張しなくていいと言外に気持ちを込める。

「今ちょっといい? 仕事の邪魔かな」

「……干しながら聞くんでもいい?」

「もちろん」

どう言おうか一瞬迷ったが、もう考えないことにする。大きく息を吸うと、真っすぐに誤った。

「この間はごめん!」

「……ううん」

クリフがこうして謝ってくるような予感はしていた。だがクレオはどう対応していいか分からず、洗濯物を干す手を止めずに黙って仕事を続けた。でも、クリフがこんな風に話しかけてきてくれて、心底嬉しのだった。自分から謝ろうと思ってもどうしても言えず、顔を見ると避けるようにしてしまっていた。それがクリフから話しかけてきてくれた。クレオはそれが嬉しかった。

「えっと、俺さあ」

「ごめんね!」

クリフが話し始めた瞬間、クレオは振り返って謝罪の言葉を投げた。顔を上げると、幼いころ見分けがつかないと言われた、自分と同じ顔が驚いたような表情でこちらを見ている。

「私、ひどいこと言ったと思って。そういう……つもりじゃなかったんだけど。私も混乱しちゃってたし」

「いっ、いいよいいよ! 全然気にしてない。俺の方こそ、クレオの言いたいことちゃんと分かってなくて、ひどいこと言ったよな。竜の方が大事なのか、みたいなさ。多分クレオは、一方的に決めつけちゃ駄目じゃないかって言いたかったんだろ」

「クリフ」

「ちゃんと分かってるか分かんないけど分かる……って俺、何言ってんだろ、変だな」

恥ずかしそうに笑うクリフは、クレオが良く知っている顔だった。固まっていたものがほろりとほどけたのを感じ、クレオは安堵のため息をついた。

「多分、俺もクレオも間違ってはないんだよね。ただ、違うこともある。双子だって、同じ人間ってわけじゃないし」

「そうだね」

「それはそれでいいんじゃないかな。いろんな人がいる方が面白いもんな。俺もさ、いろいろ考えたんだから!」

必死で説明しようとしているのが、クリフらしい。そして、エイルと同じことを言っているのも面白かった。クリフとエイルはこの旅の中でとても良い友人になっている。そのことも、クレオはとても嬉しかった。

「俺ね、本当に色々、色々考えたんだ。なんて言えばいいのか分からないけど。あのさ、俺たちの目的って、エイルとシキが元の世界に帰れるように手助けするってことだったろ? でも、俺自身はどうなのかなって。俺には何ができるのかな、とか」

「どういうこと?」

「んっと、俺はシキみたいに強くないし、エイルみたいに頭がいいわけでもない。魔法も使えないし。俺は何の役に立つのかなって思って」

「そんな!」

クリフが役立たずだなんて一度たりとも思ったことはない。クリフがいなければ、ここまでやってこられなかった。旅の道中ずっと、クリフが支えだったし、頼りにしていた。クリフがいてどれだけ心強かったか。サナミィへ戻る途中で奴隷商人に捕まり、イルバの町で閉じ込められていた時、クリフがいなければとても耐えられなかっただろう。ラマカサで免許を取ってくれたから、身分証明も出来て、資金繰りもずっと楽になった。夜の山中では獣と戦ったと聞いた。エイルの魔法で助かったんだとクリフは言ったが、エイル自身はクリフがいなければ死んでいたと言う。意識を失ったシキを運ぶのだって、クリフがいなかったら到底無理だった。数えればきりがない。クリフが、自分は何の役に立つのかなんて、そんな疑問を持っていたなんて信じられなかった。

「私の方こそ、何も技術とかないし、力もないし、役立たずよ」

「そんなことないよ」

その声は、聞いたことがないほど優しかった。

「料理とかさ、そういうのももちろんだけど、クレオがいなかったら、俺、やってこられなかったよ。あ……同じなんだね」

「うん。同じことを考えてたね、私たち」

向かい合って立つ二人に、柔らかな風が吹く。長く伸びた髪が、同じように揺れる。変わってしまったと思っていたけれど、何も違わなかったんだ。クレオは体がふわりと軽くなるような気がした。ハーディスの投げかける陽光が、急に世界を輝かせた気がした。

「ありがとう、クリフ」

「うん。クレオも、ありがとう。……竜のことが無事に済んで、ヴィトのお師匠様が帰ってきてくれて、上手いこといって、エイルとシキが元の世界に戻れるといいね」

「そしたら……私たちの旅も終わるんだね」

「ん。まあ、いつになるか、分からないけど」

「確かにね」

声を揃えて笑い合う。子供のころと変わらない二人の間の空気が、ことさら愛おしく思えた。

アメリ=コルディアからの声が再び届いたのは、珍しく雨が降った日の夜だった。湿り気を帯びた空気が満ち、蒸し暑さでやや息苦しい感じもする。食後に食器を洗っていると、木が割れるような、金属同士がぶつかるような音が小さく聞こえ、それに続いて焦るような響きの声が聞こえた。

『エイル、私だ。突然で悪いが聞きたいことがある』

そこにいないと分かっていても、つい振り返ったり、あたりを見回したりしてしまう。ヴィトだけは落ち着いていて、みなに座るよう勧めた。エイルは、いきなりなんだろう、と首をかしげている。もちろんエイルだけでなく、誰もが突然のことに驚きを隠せないでいた。

『急いでいるので単刀直入に聞くけれど、ホベック地方へは行ったことがある?』

ホベック地方といえば、レフォアの南東部である。エイルは、行ったことはないがと言い置いて、つながりはあると続けた。

「私の母がチェナドル城の出身だからだ」

チェナドルはホベック地方の城の一つで、イーソスとグロールという二つの国の境に接している。この二国は争いが絶えず、チェナドルはレフォアの統治下で、混乱がレフォアに及ばぬよう目を光らせる、重要な辺境の地であった。城主ネルツォンはエイルの父であるエイクスの信頼厚き騎士のひとりであり、その地に赴任して以来、鉄壁の守りを貫いていた。ネルツォンには美しい姫がおり、エイクスは、病で亡くなった妃の後添いにその姫はどうかと周りに薦められていた。エイクスには既にシエルという息子がいたものの、より多くの血筋を産むために新たな妃を迎えるべきであるという世論が絶えなかった。エイクスは周りの助言を受け入れ、ネルツォンの娘であるマードリッドという十七歳年下の姫を娶り、その後エイルが生まれたのだった。

『なるほど。では、もしかしてこのような歌に聞き覚えがないだろうか』

そう言ってアメリ=コルディアが口ずさんだ旋律は、エイルにとって昔懐かしい歌とよく似ていた。

「私が知っている曲とは少し違うようだが、三百年の間に変わってしまったのかもしれない。もし私の知っている曲と同じならば、チェナドルの祭などでよく歌われたものだと思うが」

『素晴らしい』

アメリ=コルディアの声に熱がこもった。

「では、詳しい歌詞を覚えている? 口伝なので、文字としては歌詞が残っていないそうなんだ。しかも、伝承されていくうちに曲だけでなく歌詞も変わってしまったらしい。今はもう誰も元の歌を知らないというのだ。だがエイル、あなたなら分かるかもしれないと」

クリフもクレオも、エイルの記憶力がいいことをよく知っている。ずっと前に読んだ本の内容や、人に聞いた話などをよく覚えていると何度も思ったものだ。二人は顔を見合わせてうなずき合う。二人の思った通り、エイルは意外なほど上手い歌声と共にその歌をすべて披露してくれた。

「私が覚えている限りだが、こういう歌だ。母上が歌ってくれたのを覚えている」

『素晴らしい』

再び感嘆したように言うと、アメリ=コルディアは歌を確認するように小声で呟きだした。

「どうしてこの歌を知りたいのだ」

シキが問うと、呟きが止まった。それから吐息の漏れる音がする。

『この件は極秘事項なんでね』

「協力したではないか」

不満げなエイルが鼻を鳴らすと、アメリ=コルディアは再び嘆息した。

『仕方ないね。他言は無用だよ』

「分かった」

『刀匠ロフグスト。その名を聞いたことはあろう』

「ああ。私の時代でもすでに伝説と呼ばれていた。刀鍛冶だな。そうか、確か彼はホベック地方の人間だったな」

『ロフグストはかつて数多あまたの名剣をこの世に送り出したが、剣が人々の争いを呼ぶことを嘆き、いつしか山に籠って剣を打たなくなったという。その彼が作った剣の最後の一本は、竜殺しの剣と呼ばれ、他に比類なき剣であったそうだ。どうやらロフグスト本人の手で封印されたようだが、その所在はもはや分からない。本当に存在したのかすら定かではない。ただ、もしあるなら、それこそが竜を滅する一手になり得ると思ってね』

「手入れもしないで何百年もだなんて、とっておけないんじゃないかな」

クリフが囁くと、エイルも「保管状況にもよるが」と囁きで答えた。

『それで私はホベック地方を訪ねた。チェナドル城からは少し遠いが、鉄鉱の採掘を今でもしている町があって、そこには鍛冶屋がたくさんある。そこでロフグストの子孫だという人に会った。その人によれば、ロフグストは、封印した剣のことを歌にして子孫に伝えようとしていたと』

「それが、さっきの歌?」

『どうもそうらしい。文献や、集めた情報と考え合わせれば、隠された場所や封印の解き方も分かると思われる。ただ詳細な歌詞が分からなくて困っていたんだ。古い歌だからね。で、エイルのことを思い出したんだよ。三百年前の人に直接聞けるとは思わなかったね。歌を知っていてくれて、覚えていてくれて、有り難い。助かったよ』

笑ったような気配があった。

「役に立てたなら何よりだ」

『刀匠ロフグストは、己が鍛えた剣を子供のように大切にしていたという。封印されている剣は、彼の作った最後の作品だ。恐らく今でも切れ味鋭く、その名の通り竜を殺すことが出来るだろう』

「あの……竜の居場所って、分かってるんですか」

クリフが遠慮がちに声を上げた。だが、部外者に詳しいことは教えられないと冷静に返答され、意気消沈する。自分も何か役に立てれば。そう思っていたクリフだったが、できることは何もなさそうだった。どうにも歯がゆく、クリフは机を両拳で叩くとうつむいた。

『ではこれで失礼する。事は急を要するのでね。あの人たちがいつまでもつか』

「あの人たち?」

『いやなんでもない。では、急ぐので』

アメリ=コルディアの気配が消えると、一同は息をついた。彼女との会話が疲れるのか、魔術的な何かがあるのか、体が少しだるく感じる。

「我々にはなす術すべもないな」

シキが肩をすくめる。気づけば既に夕闇は濃く、蒸し暑さも治まりつつある。彼らは言葉少なにそれぞれ寝支度を整え、眠りについた。

レフォアを始めとする各国の長が率いる軍勢は、もう長い間まんじりともせず過ごしていた。何もない、砂漠の丘陵を眺めて早半月以上が経過している。見張り以外には何もすることがない。兵士たちの士気は下がり、欠伸とともに怠慢が広がり、酒や食料の消費量は上がりつつあった。

「このままではまずい」

「そんなことは言わずとも分かっておる!」

駐留しているのは、多国籍軍である。北の大国レフォアからは、大陸最強の騎士団を統率する武官長が、一個大隊を山脈の北側から送り込んできていた。現在でも魔術研究が盛んな皇国ミチロからは大神官や魔術師の軍団が来ている。一番の被害者である南の大国ルセールは、国王を欠いて国内の政治が乱れているものの、自慢の大砲を揃えた軍隊の人数は一番多い。他にも中小国の領主たちが兵と共に集っている。いまだかつてないほどの軍勢だが、砂漠ヤーデの過酷な環境で無為な時間を過ごしているのだった。彼らの目的はたった一つ。突如として大陸に現れた「脅威」を駆逐することである。だが、毎日無駄な会議を繰り返すだけの日々。会議をするにしても、もはや話すことなどなかった。

「向こうに動きはないのだな」

「はっ、そういった報告は入っておりません」

天幕の入口に立つ兵士が何度も答えたことをまた答え、指揮官たちの口からは舌打ちと失望のため息が漏れる。彼らは活躍の場を欲していたが、事態の変化は見られない。コーウェンの魔女と呼ばれる当代随一の魔術師であるアメリ=コルディアが竜殺しの剣を探しに出てからというもの、膠着こうちゃく状態のまま、彼らはただ待っているしかなかった。

「あの女はいつになったら帰ってくるのだ」

「どこにあるかも分からないというのに、何が伝承の歌だ、伝説の剣だ。そんなものあてになるのか」

鎧に身を包んだ騎士が不満げに鼻を鳴らす。

「その通りだ。大体、どんなすごい剣か知らないが、一本あったところで竜を倒せるわけがない。うちが用意した大砲の数を見ろ。あれが火を拭けばいくら相手が大きいといったところで敵うわけがない」

「魔術師軍団も揃っております。敵に近づく必要などない」

誰も、竜という言葉を口にはしたがらなかった。それは彼らが本心ではいまだその存在を認めていないからに違いなかった。砂漠の砂煙の向こうに大きな体が丸まっていることを、遠くから確認はしたものの、まだ実際に動いたところは見ていない。子供のお伽話に出てくる「それ」が本当にいるとは、どうしても信じ難かったのである。

「あの魔女は本当に戻ってくるのか」

「さあな。いや、もしかしたら、剣が見つからないなどと言って逃げようとしておるのかもしれん」

「アメリ=コルディア様はそんな方ではありませんが……」

ミチロ皇国の大神官は自分が紹介した手前、アメリ=コルディアを擁護するしかなかったが、心の底では戻らない可能性もあると思い始めていた。それに、戻ってこなくても大丈夫なのではないだろうか。ミチロから進軍してきた中には、何百人という魔術師がいる。一人一人の力では到底かなわずとも、その力を結集すればアメリ=コルディアよりも強大な魔力になろう。その力をぶつければ、相手がどんなに巨大で強くても、倒せないはずなどない。彼はアメリ=コルディアが一本の剣にこだわる理由を図りかねていた。

ルセールの騎士団長には、誰の目にも明らかな野望があった。王不在の今、彼はルセールにおいて最も力のある男である。生き残った皇子たちは幼いものが多く、年齢からしても実績からいっても、頼りないことこの上ない。各地に散らばる貴族たちも王権を狙っているだろうが、血の濃さを考えればみな遠い。自分も王の血を引く一人だ。騎士団長でもある自分が、統治者として一番いい人材だ。ここで王都を襲った敵を倒し、人々に感謝されれば、一番年かさの王子が成人するまで、あるいはその後も実権を握り続けることができるだろう。魔女に手柄を奪われてはならない。

それぞれの胸の内に、それぞれの思惑がある。それを秘めたまま、時は、過ぎていく。

レフォアの武官長が、立ちあがった。鼻息荒く、鎧に包まれた胸を張る。

「このままでは、兵士の士気も下がる一方。糧食も減る一方だ」

「そうだ、その通りだ!」

「もう待ちきれん!」

彼に呼応するように、周りの者たちも次々と立ちあがった。

「我らの力をすべて合わせれば負けるはずがない!」

「そうだ!」

「この大陸中の武力すべてが、今ここにあるのだ。どんな敵であろうと負けるわけがない!」

「そうだ、そうだ!」

「負けるはずがない!」

「総攻撃を仕掛けよう。皆様、ご準備を!」

待ちかねた命令だった。歓喜の色すら滲ませた叫喚があたりに溢れ、抜き放たれて掲げられた剣がきらめいた。

しかし彼らの勢いは、「それ」が実在していることを目の当たりにするまでのことだった。ゆらりと動いた山のような巨体は、長い首をもたげると、二倍にも三倍にも感じられた。ただでさえ熱い砂漠の大気が歪むほどの熱気が膨れ上がっていく。広げられた翼が陽光を遮り、広々とした砂漠で彼らは闇に包まれた。それは、絶望そのものだった。

「ひっ、退くな! 恐れるでない、突撃ぃ!」

声が震えぬよう必死に抑え、指揮官たちは己の軍隊を鼓舞した。だが、何十発と打ち込んだ大砲の粉塵が消えたあとにあった変わらぬ鱗の輝きが、大勢の魔術師たちが力を結集して作り出した巨大竜巻を打ち消したその尾の素早さが、兵士たちの心を折り砕いた。いなないて逃げる馬に振り落とされた騎士たちがうめき声をあげて地面に這いつくばっている。吐き出された炎を少しでも避けるため、兵士たちは走り出し、互いがぶつかって鎧や武器の騒がしい金属音が響く。その音に、魂切る絶叫が重なる。あたりには阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっていた。

「やはり間に合わなかったか」

突如その空間に現れたのは、一人の女性だった。恐怖に逃げ惑う兵士たちをどうやってかき分けたものか、いつの間にか最前線まで来ると、美しくまとめ上げた髪に軽く手をやり、整え直す。

「やれやれ。待っていろと言ったのに」

呆れたような、嘆くような顔で、「どうせ待てはしないだろうとは思ったが」と続けて呟くと、彼女はさらに炎を吐こうと首を振り上げた竜の直前に進み出た。真っ赤に燃えるその瞳が、ほっそりした一人の女性を捉える。上品な、裾の長い細身のドレス。顔は薄布で覆われている。そして、白い革手袋をつけた手に一振りの剣を持っていた。

「もうやめなさい」

その女性、アメリ=コルディアは竜に向かって言った。

「もう、いいのです。私には分かっています。あなたが誰なのかも。そして今、何を望んでいるのかも」

竜は喉の奥からうなり声を絞り出した。

「私の言葉が分かるのね」

アメリ=コルディアが静かな声で言う。竜は炎を喉に蓄えるのを止め、ゆっくりと翼をたたんだ。

「エイルという少年を、知っていますね」

竜の瞳から赤い色味が失われていく。暗い目の奥から湧いたものに、太陽神ハーディスの光がきらめいた。

エイルは、夢を見ていた。どこか遠くから、誰かに呼ばれる。そんな気がした。同じ夢を何度も見たことがある。自分がすべてを失ったあの朝。夢の中の自分と、それを見ている自分を感じる。誰かが呼んでいる声がする。

――殿下。

――殿下。

呼ばれているのは、夢の中の自分か。それとも、それを見ている自分なのか。判然としないままでいるエイルは、自分が白いもやの中に立っていることに気付いた。そしてもやの向こうにも、誰かが立っている。

「あなたが私を呼んだのだろう」

そう言うと、もやの向こうの誰かが言った。

――お前は、誰だ。

「私はエイル。亡国の王子だ。あなたはアルヴェイス。そうだな」

エイルは、自分の口から流れ出すその言葉に驚いた。アルヴェイス。以前に聞いた名だった。どこで聞いたのだったか。だが、もやの向こうに立つ相手が自分と同じだと、エイルは確信していた。

「あの朝、目覚めた時、私はすべてを失った」

――……私と同じだ。

「そうだ。家族も、国も、何もかもを失い、私は逃げ出した。あなたと、同じ」

――そうだ。私たちは同じ思いを抱き、その思いは共鳴し、互いを呼んだ。

そうだったのか、とエイルは思った。アルヴェイスに呼ばれてここへ来たのか。

――ずっと、平和だった。長き時を、私たちは平和に過ごしていた。

アルヴェイスが語り始める。

――私は若い王子で、王国に何が起こったのか、詳しくは分からない。ある時から、小さき者が我々の牙や爪や鱗を武器や防具として使い、覇権を争うようになったと聞いた。小さき者はその数を増やし、魔術を進化させ、技術を磨き、体の大きな我らを眠らせて殺すようになった。そうして、多くの仲間が死んだ。

深いため息とともに、アルヴェイスは悲しみを吐き出した。

――打つ手もなく、王国の行き先は滅亡必至。遠い未来に一縷いちるの望みをかけて、王族をみな隠し、凍結させる、と老術者は言った。小さき者の寿命は短い。彼らが互いに争い、全滅する可能性もある。長き眠りにつき、いつか目覚めたその時、どうか再び我らの王国を復興させて欲しいと言われた。私は平和を乱した小さき者どもを呪った。

しばしの沈黙があたりに染みわたる。エイルは唇を引き結んだまま、アルヴェイスが再び話し出すのを待った。

――目が覚めた時、私の足元で小さき者どもが狂喜乱舞していた。そいつらが何をしたのかは分からない。あたりを見回すと、そこには私の家族の亡骸が折り重なっていた。氷は溶け、すべてが、腐って……。

白いもやがゆらめき、その向こうでアルヴェイスが苦渋に身をよじるのが分かった。

――そやつらを踏み潰して外に出てみると、かつての王国はなく、一面の砂に変わっていた。少し飛ぶと、小さき者どもが寄り集まっている場所があった。私は怒りにまかせてその巣のような場所を踏み荒らし、小さき者どもを蹴散らし、炎を吐いた。意味のないことだと分かっていた。すべては戻らぬ。家族も、仲間も、誰ひとりいない。この広い世界に、私は、ただ一人だった!

エイルは震えながら立っていた。何も、言えなかった。やがて静かな時間が訪れると、アルヴェイスは再び口を開いた。

――エイル、と言ったな。……お前に頼みがある。

「私に?」

――我らの王国の復興はもう望めない。私は一人だ。この世界は既に小さき者のものだ。もはや私は、死を待つのみ。だがそれにはまだ長い時がかかろう。生きていれば腹も減る。一人で苦痛に耐えるのは辛い。どうか、私の時を終わらせてくれないか。

エイルは息を呑んだ。

「死を、望むのか」

――そうだ。私にはもう希望はない。早くこの絶望を終わらせたいのだ。我らの牙で作られた剣なら、私の頑丈な鱗も突き通せるはずだ。首元に一枚だけある、逆さになった鱗の内側が急所だ。

「……。アルヴェイス。あなたの想いは受け取った」

――エイル、貴殿も私と同じ亡国の王子だと言った。

「そうだ」

――あなたの王国は復興するだろうか。

「……分からない」

――希望があるなら、それが叶うよう、祈っている。

エイルが目を開けると、顔が濡れていた。

「私たち人間の繁栄が、あなたたちの破滅の結果であっても……?」

板張りの天井に向かって問いかける。そこには白いもやも、その向こうにいた亡国の王子の姿もない。エイルは長い間、寝台の上で動けずにいた。

エイルはこのことを誰にも話さずにいた。アメリ=コルディアと二人で話がしたい。そう思ったが、良い方法はなかなか見つからない。若き少年王子は強い決意を秘め、しかし決してそれを語ろうとはしなかった。シキたちは何かあると察してはいたものの、自ら語ろうとはしないエイルを追求することはなかった。

アメリ=コルディアから連絡があったのはその日の夜だった。エイルは二人だけで話をさせてくれ、と願い、全員がそれを受け入れた。しばらくして部屋から出てきたエイルには、誰も話しかけられなかった。

そうして、すべては終わったのである。大石群と化した竜の王国の遺跡には、アルヴェイスの亡骸とともに伝説の刀匠ロフグストの剣が立っていた。それはまるでアルヴェイスの墓標のようであった。

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