LL index≫序章 第一章 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章 第七章 第八章 終章
リュークという青年は案内役であるはずだった。彼自身がそう言ったのだから。だが彼は、「チェジャの宿屋で会おう」と言い残して姿を消してしまった。シキたちはあっけに取られ、次に憤慨したが、リュークの姿は既にない。仕方がないので、彼らは相も変わらず四人のままで旅を続けるしかなかった。
デュレーの町を出発し、なだらかな山肌を数日かけて下りる。
高所から見ると、遠くに砂漠が霞んでいるのが分かる。そこには、何もなかった。ただ黄土色の砂が延々と波打っているだけである。地平線の先は遠く、かすかに揺らぐ蜃気楼。砂漠の民であるセサルに話は聞いていたものの、実際に目にした光景は、頭の中で想像していたものをあっさりと超えていた。
――あの先は不毛の土地だ。人が住めるところではない。
長い間、そう判断されていたのは当然だったろう。クリフは初めて見たこの景色に圧倒されていた。もちろんそれは彼だけではない。旅慣れていると自負していたシキですら、山脈以南に足を踏み入れたのは初めてで、砂漠の様相には少々気圧(けお)されていたのである。
「これは……覚悟が要るな」
そう呟くシキに、双子とエイルは無言のまま同意した。
山を下ったらすぐ砂漠と思っていた彼らの予想は裏切られた。緑生い茂る、というほどではないが、短い下草や低木がちらほらと生える荒れ地が眼下に広がっている。道行く旅人に聞くと、山を下りて砂漠までの間にはいくつかの町や村もあるという。
山脈と別れを告げ、平坦な道を辿っていく。迷うほどの道でもない。四人はそう難儀することもなく、チェジャへと入ることが出来た。
「白い町」と呼ばれるチェジャは、その名の通りのところだった。煉瓦や石を積み上げて造った平屋が続く町並みは、色素を失ったようだ。どこも同じように白茶けている。道路は、石を敷いてあることには敷いてあるのだが、石の半分以上は砂にまみれている。人々は一様に白い大きな布を頭からかぶり、黒々とした目だけをその奥から覗かせていた。旅人らしき者も見かけはするが、彼らでさえも町の人々と同じような布を頭から巻きつけており、それは一種異様な光景であった。山とは打って変わって、歩いていれば汗ばむほどの暑さではあるが、生活できぬほどの暑さではない。だが町には活気がなく、人々は来訪者への興味より、普段と変わらぬ生活を送ることに執心しているように見えた。
通りには、馬ではなく駱駝が行き交っている。商店は、露店を出してはいない。商品を日射しと熱から守るためだ。広場に唯一出ているのは大きな石造りの釜だけだった。それはパンを焼くための釜で、市民が共有して使っているらしい。井戸は見当たらず、聞くところによると、水を得るには町から一ロッカほど離れたところにある大井戸まで行かなければならないのだそうだ。そしてそれは女の仕事なのだという。確かに、大きな瓶(かめ)を頭に乗せた女が時折歩いている。若い娘から年を取った老女まで、みな一様に重そうな瓶を頭に乗せ、器用に平衡を保って歩いていた。
こうした独特な街の雰囲気は、やはり山脈以北の町々とは違う。異様とまでは思わずとも、見慣れない町の景色。四人は自分たちが異邦人であると実感させられていた。
とにかく、まずはあのリュークとかいう若者と合流しなければならない。確か彼は「チェジャの宿で待っている」、そう言ったはずだ。チェジャは、さほど大きな町ではない。聞けば宿屋は二軒しかないと言う。一軒はブリーという男が経営する宿。もう一軒はルゾーラという女が経営する宿だそうだ。どちらも客の出入りはそれなりにあるが、そんなに本格的なものではないらしい。さて、リュークはどちらの宿にいるのだろうか。
「ルゾーラというのは若い女か?」
シキにしては珍しい問いである。問われた男はにやりとした。
「いや、やせっぽちのばあさんさ。だが孫娘は美しいからな、一見の価値はあるぜ」
「そっちの宿だな」
「あの男の性格を考えると」
「間違いないでしょうね」
四人は頷きあってルゾーラの宿に向かった。
家々に扉はなく、入口には布が垂れ下がっているのみだ。木の扉がある家でも、隙間だらけである。風通しのためにそうしてあるのだろうが、そのせいで、どの家も砂が中まで入り込んでいる。ざらざらとした感触を布靴の底に感じながら、四人はルゾーラの宿に入っていった。宿はごく小さな造りで、一見するとそこらの民家と変わらない。家は奥に向かって長く伸びており、どうもそちらの方に客を寝泊りさせているようだ。
「いらっしゃい、四人さん?」
女主人らしき老婆が声をかけてくる。さすがに家の中でまであの大きな白い布を巻きつけてはいない。だが砂埃にまみれたような白茶けた服は、他の人々と同じく、どこか空とぼけたような印象を与える。妙にひょろっとした色黒の首が、服の上に長く突き出ていた。
「人と待ち合わせをしたいのだが……」
シキが尋ねると彼女は頷き、無造作に置いてある椅子を勧めてくれた。
「お連れさんは? まだ? じゃあ来るまでそこで待っているといいよ。何か飲むかい? たいしたものは出せないけど」
「冷たいものが飲みたい」
額の汗を拭ったエイルに、女主人は笑って首を振った。
「この町に冷たいものなんかないよ」
四人に、お世辞にも冷たいとは言えぬ茶を出し、年老いた女主人は一行をじっと観察した。少年と少女は仲が良さそうな兄弟だ。よく似ている。不思議な印象だ。二人は顔を寄せて何か話している。もう一人の少年は柔らかな巻き毛を汗に濡らし、愛らしい顔を暑さに歪めている。服に風を通しては、何度も息を吐く。可哀想に、慣れぬ暑さに参っているのだ。残る一人の青年が四人のまとめ役だろうと思われた。暑苦しさを感じさせない、涼やかな顔。だが、子供たちを連れての旅はさぞかし苦労も多かろう。
女主人はシキに近づき、椅子に腰掛けて話しかけた。
「あんたら、北から来たんだね」
「確かにそうだが、何故そう分かる?」
「南から砂漠を越えてきたならそんな格好はしちゃいないさ。この町の人々の格好を見たろう? 何も洒落めかして着てるんじゃない。必要に駆られて仕方なく着てるのさ。ここらの日射しは暑すぎて、肌をさらしてたら焼けちまうからね」
四人は暑さのため、半袖の上着を身につけていた。帽子や日除けも特に身につけてはいない。だが、言われてみれば確かに、肌に突き刺さるような日射しが、もはやうっすらと肌の色を変えている。エイルなどは元が色白なので、余計に目立つ。肌が赤くなり、痛そうだ。
「そのまんまの格好で過ごせるのはせいぜいここらまで。これより南へ行ったら、日焼けどころかただれちまうよ。それに体中が熱を持って、到底生きてはいけないね。砂漠を越えるなんてもってのほかさ。あんたら、南へ行くんならもっときちんと考えた方が……」
「なぁんだお前ら、まだ準備してなかったのかよ」
女主人の言葉に割って入ったのは、今しがた宿の入り口をくぐって入ってきたリュークだった。
「おいおい何してたんだ、悠長に茶なんか飲みやがって」
「そういう言い方はないでしょ、あなたが宿屋で待ってるって言ったんじゃない」
クレオが持ち前の気性で食って掛かる。だがリュークは聞いてもいないようだ。
「見たとこ、何一つ準備出来てないな。まあいい。何も知らないから大目に見てやるとして……んー、まずは駱駝だな。それからバージ……」
「バージって何さ」
「そこらじゅうのやつらが着てるだろ、あの大きな布のことだよ。熱よけ、暑さよけ、風よけ、砂よけ……夜にゃ寒さよけにもなる。ああ、毛布も要るな。それと水に食料を買い込まなきゃ。この人数だと駱駝が余計に一頭必要かもしれねえなあ」
リュークはつらつらと続けた。クレオはあっけに取られ、エイルは仏頂面で黙っている。だがリュークは彼らの視線やその意味をまったく分かっていないようだ。あるいは分かっていても気に留めていないのか。地図を取り出し、指さして各地点を示した。
「これがこの町の全体図だ。食料品はここで買える。ちゃんと値切れよ。水はここだ。革袋に入れてもらえ。あんまりあっても腐るだけだからな、数日分でいい。バージと毛布はここな。結構な値段するけど、枚数買うから安くしろってごねろ。この店のじじいは割としぶといが、長時間やってりゃ必ずあっちが折れるから諦めるな。あと必要なのは駱駝だが、これは俺が手配しとくから心配いらない。じゃ、行ってきな」
一息でこれだけを言うと、リュークは地図をシキに押し付けるようにして渡し、女主人へと振り返った。
「よおルゾーラ、孫娘は元気にやってるかい?」
「馬鹿お言いじゃないよ、この間あんたに振られてから泣きっぱなしさ」
「振ったつもりはないぜ。俺は彼女一人のものになれやしないって言っただけさ。世界中で俺を待っていてくれる女の子たちに会いに行かなくちゃいけないからな」
「まったくもう……。ま、女を泣かせるようじゃ、あんたもまだまだだってことだね」
「参ったな、ははは」
シキたちは呆れ返って言葉も出なかった。だが、とにもかくにも砂漠への準備をしなければならない。リュークという男は軽薄だけれども抜かりはないようだ。セサルも、案内役がいなければ砂漠は越えられないと言っていた。頼りになるだろう案内役の性格や行動に、逐一腹を立ててもいられない。結局四人は何も言わぬまま、ルゾーラの宿を後にした。
駱駝は六頭いた。思い思いの場所に立って水を飲んだり、膝を折って座ったりしている。リュークがどういう手段で手に入れたかは分からないが、みなおっとりとした顔をして四人を待っていた。シキたちが準備した荷物はちょっとした小山になって、駱駝たちの近くに積まれている。
駱駝を間近で見ると、思ったより大きい。短い毛は固く、ごわついている。こんな動物に乗っていくのかとエイルは目を回した。
「一人一頭だ。好きなやつに乗りな。六頭目に余った荷物を乗せていく」
リュークに急き立てられるようにして、彼らは乗ったこともない駱駝に押し上げられた。一番苦労したのはエイルである。馬にもまだ一人では上手く乗れないのに、馬より大きな駱駝を一人で操るというのは至難の業だ。だがリュークはシキのように甘くはなかった。エイルが下りる下りると騒いでも聞く耳を持たず、シキにも手を出させなかった。
「あんたが手を貸してちゃいつまで経っても乗れるようになんねえよ。何だって自分でやれるようになんなくちゃ生きていけねえだろ」
リュークは、エイルが本来は一国の王子だと知っているはずなのだが、本当には信じてはいないのか、あるいはわざと無視しているのか、攻撃の手を緩めることはなかった。もちろん、当人は攻撃しているつもりなど毛頭ない。子供の頃から一人で生きてきたリュークにとって、エイルは単なる甘ったれた子供に見えるのであって、そのわがままは聞き入れられるものではないのだった。リュークは物心ついた時から、自分一人の力を頼って生きてきたのである。二人の育ってきた環境は、まったく違った考え方を二人にもたらしていた。
――大体、周りの奴らも甘すぎるぜ。コーウェンまでに俺がきっちり躾(しつ)けてやる。
リュークには、エイルの甘えの原因はシキにもあると思えるのだった。甘やかしていては何も出来るようにはならない。一度や二度駱駝から落ちたところで、死にはしないのだ。その言葉にシキは目をむいた。だがリュークは、「エイルが王族だろうがなんだろうが知ったこっちゃない」と続ける。
「ここらのガキはお前よかずっと小さな奴だって、上手に駱駝を操るぜ。王族だろうとなんだろうと、お前に出来ないわけがない」
リュークの偉そうな口の利き方には腹が立つエイルだったが、リュークが自分を子供扱いしないことだけは嬉しかった。
「いいか、俺は甘くねえ。だが、砂漠とくらべりゃ大甘だ。砂漠じゃ、どんなやつでも自分の世話をするので精一杯になる。誰もお前の面倒なんか見ちゃくれねえ。何でも自分でやるんだ。いいな」
リュークの言葉に、エイルは殊勝にも黙って頷いた。自分は砂漠になど行ったこともないし、セサルに話を聞いただけで、砂漠のことなど何も知らぬに等しい。だがリュークは何度も渡っているのだ。経験者の意見は聞くべきだと、小さな頃からジルクに口うるさく言われたことを思い出す。
――この際、口の利き方が悪いのは許してやろう。特別に、だ。
エイルはそう自分を納得させた。文句を言うより、大きな駱駝の手綱を操る方が忙しいというのも事実だったが。
砂漠は、いきなり始まるものではない。線が引いてあって、ここからこっちが生活圏内、ここからあっちは砂漠、となっているわけはない。砂はチェジャの町中にも飛来する。かといって町中を埋め尽くすほどではない。また、町自体にも明確な境界はない。人々は砂と共生しているのだ。
まばらに家が建つあたりを過ぎると、いつしか町を出ていた。暑く乾燥した土地を踏みしめて六頭の駱駝が行く。双子はもう器用に駱駝を操り、エイルもまだ緊張してはいるものの、何とか駱駝をまっすぐ歩かせることに成功していた。もちろん、シキが横から援護している。リュークは一番前を、荷物を載せた駱駝のひもを引きながら、こともなげに進んでいく。さすがに慣れているのだということは、誰の目にも明らかだった。
みな、バージと呼ばれる大きな布をかぶっていた。複雑な形をした布で、上手く巻くと頭からすっぽりと隠すことが出来る。視界を確保するために両目だけを出し、肩から下は体全体を覆い隠す。分厚い布なのでまとった最初は暑いと思うのだが、日射しを避けるので、しばらくするとかぶっていた方がまだましということが分かるのだった。
町を離れてしばらく歩いていると、あたりの景色が徐々に変わっていく。そこらに何本も生えていた低木が減り、家畜や野良犬などの姿も減った。遠くに見えていた砂丘が少しずつ近づき、ふと振り返れば町の家並みは遠く、小さくなっている。そしていつの間にか、ふと気づくと彼らは砂ばかりが続くヤーデの真ん中にいるのだった。前後左右、どちらを向いても砂、砂、砂……。
砂漠には砂しかない、というわけではない。荒涼とした岩石地帯や、山岳地帯、フィーピー割れた大地などが続くと思えば、小さな泉が湧く休息の地もある。だが、大部分はやはり延々と連なる砂丘から成り立っているのだった。
遥か彼方、地平線には水が波打っているように見える。まばゆい日射しの降り注ぐ中、クリフは目を細めてそれを見つめた。ゆらゆらと移動しているようにも見えるが、右へ行っているのか左へ流れているのか、あるいはただそこにたゆたっているだけなのか、定かではない。それより、砂漠というのはどこまでも乾燥した土地だと聞いていたのに、何故あんなところに川があるのだろう。
「リューク、あれは何なの? 川?」
すぐ斜め前を歩いているリュークに問いかける。リュークは駱駝の歩みを緩め、クリフの横に並んだ。
「地平線に見えるやつか。あれは逃げ水ってやつだ。本当の水じゃない。蜃気楼さ」
「どういうこと?」
「さあな。俺もあれが見える理屈は分からない。でもこういう暑いところじゃ時たま見かけるもんだ。つられて行くと道筋を見失うぜ。砂漠にはヤーデって神様がいるそうだが、俺はかなり意地の悪いやつだと思うな。何しろ、砂漠に出る蜃気楼ってやつは人を惑わす。そんでもって惑わされた奴は大抵死んじまうんだ。神様ってのはいい奴もいるようだが、悪い奴もいるもんだな」
「ふぅん……」
ヤーデという名も、砂漠の蜃気楼の話も、北部の森で生まれ育ったクリフにとっては初めて聞くものであり、興味深く思えるものだった。ここまでの旅で、色々な経験をしてきたクリフだったが、自分にはまだまだ知らない世界があるのだと、自分が思い描いていたより世界はさらに広いのだと思った。クリフはなんだかわくわくして、砂漠の暑さもほんの少し和(やわ)らいだ気がした。
実際、出発したころは到底我慢出来るものではないと思った砂漠の暑さも、徐々に薄らいで来ているように感じられる。
セサルは、涼しい時間を選んで距離を稼げと言っていたし、リュークも同様の事を言う。一行は午後の遅い時間に町を出発したのだったが、とにかく最初はひどかった。照りつける日差しが体力を奪い、体中の水分があっという間に蒸発するように思えた。バージをまとっているにもかかわらず、砂漠の熱気と日射しが体を火照(ほて)らせる。息をするのも苦しく、鼻の穴の奥まで焼け付くようだった。まるで、かまどで蒸している鍋の中にいるようだとクレオは思ったのだ。
それが、今は多少過ごしやすいと思えるようになってきた。それは彼らが環境に慣れたせいもあるのかも知れない。だが温度が低くなっているのも確かだった。日はまだ沈んでいないが、先ほどまでのあの強い日射しはもうない。
それでも、エイルは休憩したいと騒ぐ元気すらないようで、駱駝が歩くに任せてうなだれている。そんな彼の辛そうな様子を思いやったというわけでもなさそうだったが、リュークがようやく休憩を宣言した。シキがあたりを見回している。近くにはいくつか大きな岩があった。
「これくらいでは道しるべにならんと思うのだが、どうやって目標を見定めているのだ?」
「安心しろよ、俺は慣れているからな」
答えになっていないリュークの言葉に、シキは不満そうな顔を見せた。リュークは駱駝に水をやりながら鼻歌を歌っている。シキは心配そうに重ねて尋ねたが、リュークは水を入れた布袋に手をかけているクレオに話しかけた。
「水は生命線だからな、飲んでもいいがほんの少しずつにしろよ。ごくごく飲んでも、またすぐに喉が乾くから意味がない。ちょっとずつ、乾いた喉をちょっと潤すだけにするんだ。あとは駱駝の影に入ってゆっくり休んでな」
「少しずつ、ね。いっぱい飲んだら足りなくなっちゃうしね……分かった」
残念そうな顔で頷くクレオ。リュークはクリフやエイルにも同じようにしろと仕草で示してから、シキに向き直った。
「あんたはまだ体力ありそうだな。夕食を取りにいくから付き合えよ」
リュークはこのあたりで一般的に扱われる、先の曲がった短剣を投げてよこし、扱えるかと聞いた。
「初めて使う剣だが」
シキはそう言いながらそれを手の中で回したり、ひねってみたりしている。だがしばらくして、「大体分かった」と言った。
「さすが剣士さまだねえ、もう極めちまったか」
リュークの言葉に軽く手を振って否定の意を示したが、冗談めかしたリュークに対してシキは何も言いはなかった。二人は他の三人を残して歩き出す。
「砂漠では、何を食事とするんだ?」
干し肉やパンなど、保存に適している食料をいくらか買い込んではきたものの、毎食栄養たっぷりの食事が出来るというほどの量ではない。恐らく砂漠で何か手に入れるのだろうとは思っていたが、それが何か、シキには分からなかった。
「運よく見つかればの話だが、大きな砂漠蜥蜴(とかげ)がいるんだ。焼いて食うと肉汁がたっぷりで美味いぜ」
「なるほど」
「なんだ、驚かないな? 蜥蜴を焼いて食う料理なんて、貴族さまは見たことも聞いたこともないと思ったけどな」
「……お前に詳しく語るつもりもないが、俺は貴族の生まれじゃない。昔は各地を回る旅団の一員だった。食い物がなくて困った時は、何でも食べたんだ。蜥蜴くらいで驚きはしないさ」
「へえ、見た目は完全に立派な貴族さまなのにな。割と複雑な過去がありそうじゃねえか。面白いな、もっと聞かせろよ」
「詳しく語るつもりはないと言った」
「つまんねえ奴だなあ。旅は道連れ、世は情けって言うだろ。せっかく縁あって知りあったんだ、もうちょっと仲良くしようぜ」
「……ではお前は?」
「あん?」
「最初に会ったとき、本名はリュークだ、通り名がグレイだと言ったな。何故に偽名を使う? 後ろめたいことがあるのではないのか」
「ちぇっ、細かいことを覚えてやがる。小さいことを言う男はもてないぜ?」
「話したくないのだろう。別に俺も無理に聞こうとは思わないが。それと同じことだ。多かれ少なかれ、誰しも語りたくない過去くらいある。無理にそれをこじ開けようとしないでくれ」
「そうか……そうだな。悪かった」
意外と素直に謝るリュークに、シキは唇の端をかすかに上げた。
「まあ、せっかく旅の道連れになったのだから、いがみ合う必要はない」
「先はまだ長いしな」
二人は視線を合わせて頷きあった。
フルカという、砂漠特有の植物がある。色はさまざまだが主に緑で、物によっては黒く見えるものもある。珍しいのはその形状で、丸みは帯びているものの平らな面が四つある、つまり四角い植物なのである。枝葉はほとんどなく、棒状に突っ立っているだけという奇妙な植物だ。細いものは人の腕ほど、太いものでも両腕で抱えられるほどの太さにしかならず、背もそれほど高くはない。あまり大きくないフルカだが、群生していれば砂漠の中でも見つけやすい。
「これだこれだ。ようやく見つかったぜ!」
嬉々とした声でリュークが指し示したのは、五本ほどが集まって生えているフルカだった。シキは初めて見る植物に触れ、その皮の固さに驚いた。リュークはさもありなんといった顔である。
「剣で傷つけてみな。あんただったら少しは傷がつけられるかも知れない」
「それほどか」
「やってみなよ」
シキは短剣を鞘から抜き、皮を切り取ろうと試みた。一度目はまったく歯が立たず。二度目はかなり力を入れたが、表面にかすかな跡が残っただけで、切れはしなかった。少々むきになったのか、シキは腰の長剣を抜いた。
「お、本気を出すか? 手がしびれるぞ〜」
からかうような口調のリュークに一瞥(いちべつ)をくれ、シキは腰を入れて剣を叩き付けた。重く鈍い音がし、剣はフルカにしっかりと刺さった。が、切れはしない。それでもリュークは驚きを隠さなかった。
「おお、すげえ……さすがだな!」
シキは剣を取り去ることが出来ずに四苦八苦している。リュークが笑いながら手を貸し、何とか二人がかりで剣をフルカから外すことに成功した。シキは感嘆してフルカを眺めている。
「いやこれは本当に固い」
「だろ。そんでほらここ、傷のついたとこを見てみな」
シキが触ってみると、刀跡がついたところからじゅくじゅくと樹液が染み出している。それはどんどんと増えていき、しばらくするとシキの手をしっとりと濡らすほどになった。
「これが砂漠での貴重な水分になるんだ。栄養もあるんだぜ。だけど、試して分かったろ? そう簡単には手に入らない。で、さっき言った砂漠蜥蜴さ。あいつらはものすごく丈夫な歯を持ってて、フルカを傷つけて樹液を吸うんだ。それであいつらは丸々と太ってやがるのさ」
「このフルカがあるところに蜥蜴もいるというわけだな」
「そうそう、そういうこと。奴らがかじった跡から染み出す樹液もしっかりもらう。つまり、フルカと蜥蜴を見つければ素敵な食事が楽しめるってわけ」
「なるほどな」
「よし、じゃあ蜥蜴が来るまでちょいと待つか」
気温は確実に下がっていく。二人はそれを感じながら動かずに待った。しばらくして、二匹の蜥蜴が砂の中から姿を現した。
「来た。あれだ」
リュークが囁き、あごの動きで指し示す。
「普段は砂に潜ってるんだ。何しろ暑いからな。……いいか、フルカに食いつくまで待ってろよ。やる時は首の後ろを一突きに」
「分かった」
二匹の蜥蜴はあたりを警戒しながらフルカに近づいてくる。シキとリュークは自らを岩のように見せかけ、バージに包(くる)まって待った。蜥蜴たちはなかなかフルカに噛み付かない。滴る汗を拭うこともせず、二人は息を殺し、辛抱強く待ち続ける。そしてついに蜥蜴がフルカに食いつき、樹液を吸い始めた。
「今だ」
リュークの合図に、シキが無言で動き、素早い動作で剣を叩きつける。一匹の蜥蜴は瞬時にその命を失い、もう一匹は突然の事に驚いてフルカを離し、その太く短い足でよたよたと逃げ始めた。が、リュークの短剣がその首に刺さり、やはりすぐに絶命した。
「思ったより簡単にいったな」
「ああ」
一抱えほどもある蜥蜴二匹を腕に抱き、二人は豪華な夕食が手に入った事を喜んだ。
一方のクリフたちは大岩と駱駝の影で体を休めていた。
涼しい風が彼らの体力を回復させ、暮れなずむ砂漠の雄大な景色が彼らの心を大いに安らがせている。大岩の影が長く伸び、夜が近づいていると教えていた。
「砂漠は暑いばかりだと思い込んでいたけど、夕方は過ごしやすいんだね」
「そうね。夜はすごく寒いらしいけど、今は気持ちいいくらい」
双子もエイルもバージを脱いでいる。風がなぶる髪を手で押さえ、クレオは沈みゆく夕陽を穏やかな心で見つめた。彼女はデュレー以来、傷心を抱えて辛く悲しい気持ちでいたのだったが、広大な砂漠の景色や美しい夕陽が、彼女の悲しみを洗い流していくようだった。
そんな妹の顔が妙に大人びているように思える。クリフは、様々なことに思いを巡らせているらしいクレオの顔を見つめた。今、自分はどんな顔をしているだろうか。クレオと同じように大人っぽい顔だろうか。それとも違うだろうか。双子だけれど、村を出た頃のようにまったく同じ存在だとは思えない。お互いに無言でも分かり合えるという時はあるが、今のように、相手が何を考えているか分からない時もある。これから先、自分たちはどう変化していくのだろうか。クリフは、いつの間にか自分がクレオと同じような顔で遠くを見つめていることに気づいてはいなかった。
「シキたちはまだかな」
エイルの言葉に双子は我に返った。シキとリュークが消えていった方角を、クリフが指で示す。
「ちょうど帰ってきたみたいだよ」
「本当だ。クリフは目がいいな」
クリフが示す先に、ぽつんぽつんと二つの影が見える。小さな黒い影が段々大きくなり、リュークとシキだと分かるようになった頃、彼らが背に何か動物を背負っているのも見えてきた。クレオがぞっとした顔で言う。
「あれ……何?」
「なんだろうね」
「あまり気持ちのいいものではなさそうだな」
エイルの言葉通り、それはあまり気持ちのいいものではなかった。特に、クレオにとっては。彼女はリュークが蜥蜴を捌(さば)くところを青い顔で見つめていた。だが、焼いた肉を恐る恐る口にした途端、クレオは目を丸くして叫んだ。
「美味しい!」
単に火であぶっただけのものだったが、きめ細かい肉は非常に柔らかく、香りも良く、くどさはない。
「鳥の肉のようだ。しまっているが、さっぱりして美味い」
エイルも初めて食べたその肉を賞賛している。クリフはいつも通り、とにかく腹が満たされれば、という感じである。五人は蜥蜴の肉とともにフルカの少し甘い樹液も飲み、大満足の夕食を終えることが出来た。既に夕闇が足元まで迫ってきている。
「これからは急に寒くなるぞ。バージにしっかりと包(くる)まっておけよ」
リュークの言葉に、双子は慌ててバージを体に巻きつけた。
上空を振り仰いで寝転がると、丸みを帯びた空が視界いっぱいに広がる。西の方にはまだ赤みが残っているが、太陽神ハーディスは既にその姿を消している。夜と闇とを司る女神ナウラが多くの星々を引き連れ、東から空を宵闇に染め始めていた。
暗さが増すと同時に、リュークの言った通り急激に寒くなった。見る見るうちに暗くなり、気温もそれに連れて下がっていく。真昼の暑さが嘘のようだ。涼しくて気持ちがいいなどと言っていられたのも束の間、しばらくすると、歯ががちがちと音を立てて鳴り出した。布から出ている顔の部分、特に鼻先が凍るようだ。だが、大きくて分厚いバージや毛布の中に埋もれていれば、なんとか寒さもしのげる。夜の間に距離を進めた一行は、夜更けをだいぶ回ったころ、ようやく駱駝たちと、彼らの食べる藁の山に寄り添うようにして眠りについた。
頭上には満天の星々と細身の月神メルィーズが輝いている。雲は一つとして流れていない。
――そういえば、昼の間も雲を見なかったな。
クリフはふと疑問を持った。昼の間、陽光は常に降り注いでいた。空の神マオラは息継ぎをするためのほんの小さな日陰すら、彼らに与えてはくれなかったのである。何も遮るものがないので、今も空は頭上いっぱいに広がっているが、そのどこを見ても雲は一片も見当たらない。
――砂漠には雲が出ないんだろうか。
リュークに尋ねると、眠そうな声がバージの下から返ってくる。
「ああ、砂漠にゃ雲はねえよ。うん? 何でかなんて俺が知るもんか……」
最後は欠伸と一緒になったらしい。声はそのまま途切れてしまった。晴れ渡る空を眺めて、クリフは何故雲がないのかと考えを巡らせた。だが彼もいつしか、静かな眠りに落ちていった。
クリフが疑問に思ったとおり、この砂漠、ヤーデでは雲を見ることがほとんどない。雲は、水蒸気から出来る。つまり雲になるだけの十分な水気がなければ雲は出来ないのである。数えるほどのオアシスしかないこの砂漠では、雲は滅多に見られなかった。
さらに、夜空には砂埃が漂い、大きく明るい星以外はあまり見えない。旅人はその大きな星たちを目印として旅をするのだ。星の位置関係からは様々な情報が読み取れる。道といえるものすらない砂漠で、旅人達が頼りにするのはその星たちだけだった。星々の配置や角度から方向や位置を考える「星読み」も今は体系化され、砂漠地図なるものも発行されているので、季節によって変わる星空も読むことが出来る。砂漠地図はその昔、一人の若者が考案したのだという。初めて砂漠を渡ったマイオス。南の王国ルセールを建国した勇者である。
レノア王宮。その一室で会議が行われている。大きな円卓の周りに十人ほどの男が座っていた。胸にいくつもの勲章をつけ、顎髭を蓄えた大柄な男が声を張り上げる。
「ご報告申し上げました通り、アルヴェイス、そうつまり例の竜ですが、その活躍たるや凄まじく、かの者が吐き出す炎の激しさはまさに……」
「端的に言いたまえ」
冷淡な声で遮ったのは、長髪を結い上げた美しい青年だった。
「し、失礼しました」
血統主義のレノアにあって、王族以外で宰相の地位にまで上り詰めたのはクラインただ一人である。若くして大国の宰相に就いたクラインは、流行病がレノアを襲い、王族が次々と倒れる中で、王代理として慌てることなく政治を施してきた。王都が開放された今、その手腕は城下町の人々だけでなく、広くレノア国内で評価を高めていた。だが、彼はどこまでいっても王族ではない。決して王の代理以上になることはないのである。
武官長は小さな咳払いをして、声を整えた。
「では、改めてご報告申し上げます。北の隣国アシュクシュ、東の二小国であるイーソスとグロールはアルヴェイスによってその戦力のほとんどを失いました」
「おお、すごいではないか、よしよし!」
手を叩いたのは、中央の大きな椅子に体をうずめるようにして座っているやせっぽちの男だった。声を上げるまで、誰も気付いていなかったのではないかというほど、小柄で、存在感の薄い男である。だがこの男こそが、第三十八代レノア国王なのだった。無邪気に喜ぶ王に、誰もが曖昧な笑顔を浮かべて頷く。
「それで、民の死傷者数は」
クラインが場を仕切りなおすように問いかける。
「一般市民はほとんど傷ついておりません」
「それは重畳。被害は最小限に留めなくてはならない。ではまず竜の出現に驚き、恐怖している人心の乱れを治めてもらおう。王、手段についてはお任せ下さいますか?」
「ああ、うんうん、宰相に任せるとしよう」
「光栄に存じます。……町や城に修理が必要なように、人々も傷つき、その心は壊れている。何よりもまず人々の不安を取り除かねば」
「竜の恐怖で絶対的な力を見せつけ、その後でまた改めてレノアの偉大さを理解させる、ということですな」
「レノアの大いなる庇護のもとに、人々は平和を取り戻すでしょう」
「さすがは宰相、お考えが深い」
「自明の理だ」
「いや、ご謙遜を」
「では早速、そのように取り計らいましょう」
まだ青年と言えるほどの若さだが、宰相としての威厳は将軍や文官長をも従わせるほど堂々たるものである。クラインは会議を終えて部屋を出て行く人々に笑顔を向けていたが、その瞳の奥底が暗く光っていることに気づいた者は、一人もいなかった。
慣れた旅人の代表とも言えるリュークを案内人として、四人は砂漠の旅を続けた。シキは、自分たちだけでは到底踏破することは出来なかっただろう、と痛感していた。リュークという人物自体は軽薄で、信用出来ない面もあったが、シキたちを確実に導いているようではあった。だが、この旅が彼に何をもたらすのだろうか。砂漠を越えて旅をするのは、彼にとっても簡単なことではあるまい。何が彼をそうまでさせるのか。シキはまだ訝しんではいたが、彼が一行にとってなくてはならない存在であることは確かだった。
照りつける太陽と戦う昼、凍える寒さに耐える夜。一日を通して、快適さを与えてもらえる時間はほんの僅かだった。だが彼らはそれでも過ごしやすい時間を選び、歩調を緩めることなく進んでいった。周りは砂ばかり。会話も少なく、駱駝が静かに歩くだけの日々だったが、エイルに文句を言う余裕があるわけもなく、彼らは順調に距離を稼いだ。
やがて、単調な景色に変化が現れ始めた。駱駝の足が砂ではなく、固い地面を踏むようになってきたのである。そればかりか、これまではまったく見られなかった低木や下草が時折生えている。ひどい乾燥は変わらないが、あたりは確実に今までと違う様相を呈してきた。
「もう少しだ」
リュークが示す方向を見ると、遠くにいくつかの三角が見え、その間から煙が見える。そちらに近づくと、木の数も増え、ちらほらと小動物の姿も見られるようになってきた。
「ヤーデにゃいくつか部落があるが、ここはそのうちの一つでケイズリーってとこだ。普通の旅人は滅多に来ない部落だな。普通ならもうちょっと楽で、でも遠回りな道を行くんだ。今回は、早くてきつい道を選んだから」
「部落はオアシスのそばに作られる、ってリューク、言ってたよね? この近くにもオアシスがあるの?」
クリフの問いに、リュークは軽く頷く。
「ああもちろん。部落の人間にとっても、ここらに住む動物たちにとっても大切なオアシスさ。そうだなあ、俺も砂漠全部を知っているわけじゃないが、合わせて十くらいはオアシスがあるって話だ。ここのは小さいようだが」
「じゃあ部落も小さいの」
「ああ。だから旅人もこっちを通ったりはしねえんだ。ま、ここの奴らも悪い人間じゃないんだが、どうにも付き合いにくくてな。いやそれより何より、俺好みの娘がいないんだよなあ。こう……若くてぷりぷりっとして、潤いのある娘がいねえんだ」
勝手なことをぼやきつつ、リュークは駱駝から下りて近くの木につないだ。シキたちもそれに習う。
「ここで食糧と水を補給させてもらうつもり……なんだが」
リュークにしては歯切れが悪い。「ともかく行くか」と歩き出すリュークに、エイルと双子は首をかしげつつ後に続いた。シキはあたりを注意深く観察しながら殿(しんがり)を歩いていく。
大きな天幕といえばいいのか、下部は石積みで上部は布張りになっている建物が、無造作な位置関係で建てられている。リュークによれば、彼らがツギと呼ぶところのそれらが家らしい。一つのツギには、十人以上の大家族がみんな揃って住んでいるという。
「多分、百人ちょっとは住んでるんじゃねえかな」
村というには少なすぎる。だが、生き物の存在とて感じられない砂漠を歩いてきた身にとって、ここは大きな生命の息吹が感じられる場所だった。地面は相変わらず砂と土だが、下草も生えているし、背の高い木が所々に気持ちの良い木陰を作っている。
「あ、山羊だ」
「いや羊だろう」
「山羊でしょ」
「羊だ」
エイルとクレオが言い争っている。山羊というには少し大きく太っていて、羊というほどには毛が多くない、四足の動物が何頭かそこらを歩いている。
「あれはクーヤンってんだ。乳を取ったりする家畜さ。太らせたやつは肉も食うし、皮をはいで加工したりもする。町へ売りに行けば金にもなるし、素敵な動物さ」
リュークの声に気づいたのか、近くのツギから少年が出てきて、クーヤンたちをまとめ始めた。少年に、リュークが声をかける。
「よお。イカルだったっけ?」
「……」
少年は無言のまま、こちらを見ている。
「あれ、違ったっけ? えーっとじゃあ……」
「何の用だ」
短く、鋭い声で少年が問う。
「そう、つんけんすんなって。この間も来たろ。同じこった」
「また食料を分けろと言うんだな」
「まあ、そういうことだな」
「そいつらは誰だ」
「ああ、えっと、旅の連れさ」
「……」
少年はしばらく黙っていたが、きびすを返すと集落の奥の方へと歩き出した。あごで「ついて来い」とでもいうような仕草を見せる。五人は愛想なしの少年について、大きなツギの間を縫って歩いていった。いくつかの興味深げな顔がツギから覗いたが、視線が合うとすぐにひっこんでしまう。興味は持たれているようだが、歓迎する雰囲気ではなさそうだった。
他と比べて少し小さめのツギに着くと、少年が木の扉を叩く。中からくぐもった返事が返ってくるのを確認して、扉を開けた。
天井部分に明り取りがあった。そのおかげで中はそれなりに明るい。十人くらいなら寝泊りできるほどに広く、思ったより快適な空間が広がっていた。石造りの部分が寝台や収納などを形作っている。床には毛布が何枚も重ねてあり、ツギの中央には太い柱が立っていた。布張りの部分をそれで支えているようだ。柱の向こうに一部、土がむき出しになっているところがあり、その中心には石のかまどがあった。長老然とした老人と険しい顔つきの青年がかまどの前に座っている。
「またお前か」
長老の声は聞き取りにくく、クリフには異国の言葉のように聞こえた。だがよく耳を傾けると、どうやら大陸共通語のようである。どうやらひどく訛っているようだ。
「今度は道連れがあるんじゃな」
「ああ」
「一体、何用で砂漠に来た」
「用事はない。単に通過するだけさ」
「……」
「あなた方に害をなすつもりもないし、砂漠で何かしようというつもりもない」
シキが言う。だが頑なな長老の態度は変わらなかった。
「北から来て、このまま南へ抜けたいが、準備してきた食糧も水ももうないのだ。ここで助けてもらわねば飢え死にだ」
「……」
長老は、怪しむ目つきで睨んでいるだけである。青年も長老と同じ気持ちなのだろう。黙ったままだ。
「もちろん、もらうだけというのは一方的だ。我々に出来ることがあれば、何でもしよう」
シキの言葉に、長老の隣に座っている男が口を開いた。
「長老、遺跡の見張りをさせては」
その提案に、長老が小さく頷く。
「うむ。良かろう。……旅人よ、ここからしばらく歩いたところに大きな遺跡がある。我々砂漠の民にとって、非常に神聖な場所じゃ。ところがこのところ、遺跡を荒らす者がおるようなのじゃ」
「ふうん」
リュークの目が興味深げに光る。
「何か、荒らされちゃ困るようなもんでもあるのかい?」
「……」
長老は何も答えない。代わりに、青年が鋭く言った。
「黙って聞け」
「へいへい」
肩をすくめたリュークをじろりと睨み、長老は再び話を始める。
「奴らが来るのは夜じゃ。だがいつ来るかは分からん。そこで毎日、遺跡の近くで夜営をし、見張りをしておるのじゃ。が、村の男たちにはしんどいのじゃ。夜に寝られんと、昼の仕事に支障が出る。そこで……」
「我々に頼みたい、と」
シキが言葉を引き継ぐと、長老はゆっくり頷いた。
「少しばかりだが、食料などはその都度、村の者に運ばせる。くれぐれも遺跡には足を踏み入れないように。入り口近くに火を焚き、時折、遺跡の周りを見回るだけで良い」
青年は手短に説明し、あとは長老とともに口をつぐんでしまった。クレオが、クリフの袖を引いている。
「ね、ここケイズリーだって、さっきリュークが言ってたわよね。セサルにもらったあれ……」
クリフはその言葉で思い出したらしい。神妙な顔で懐を探る。取り出したのは、デュレーの町でセサルにもらった、ヤーデの首飾りだった。
――彼らは外部の者を警戒するけど、俺の知り合いだって分かれば歓迎してくれると思う。
セサルの言葉を思い出し、勇気づけられたクリフは、その首飾りを持って前に進み出た。これできっと彼らの緊張も解けるだろう。そう思ったクリフの顔は期待に満ちていた。だが、その期待は見事に裏切られた。
「それがセサルのものだという証拠はない」
「仮にあの子の首飾りだとしても、奪い取ったものかもしれん」
「そんな!」
「そんな事、するわけありません!」
双子は抗議したが、主張は受け入れられないようだった。長老は目を閉じ、青年ももう何も答えてはくれない。
「『もう行け』ってさ。見張りをやるしかねえな」
リュークが再び肩をすくめている。一行はその言葉が的を射ていると悟り、諦めてツギを出た。
最初に遭遇した少年――リュークが言った通り、イカルという名だった――が、遺跡まで案内するという。小さな体でどうやったのかと思うほど素早く駱駝に乗り、イカルは無言のまま駱駝を進ませ始めた。日に焼けたその横顔はどこかセサルと似ているようにも思える。少年はどんどん部落を離れ、駱駝を歩ませる。慣れているのか、少年の操る駱駝は足を砂に埋もれさせることなく、さっさと歩いていく。リュークでさえもついていくのは容易ではなかった。
遺跡と彼らが呼ぶところのそれは、どうやら大きな石が連なる一帯であるようだった。古代王国の都市の遺跡だそうだが、最早、都市の面影はとどめていない。柱の一部分だったと思われる長い石が地面から突き出ていたり、元が何なのかも分からない大きな岩のような塊が斜めに埋もれていたりするが、そのどれも表面は砂に削られてぼろぼろになっている。何か彫刻が施されていたのかも知れないとは思うが、今となっては何の痕跡も残されてはいなかった。遠い昔に崩れ、風化し、砂に埋もれてこのような姿になったのだろうが、それにはどれだけ長い年月が必要だったろうか。古代都市が栄えていたころには一体どのような姿だったのだろうか。エイルが呟いた。
「私たちが生きていたはずの時代にもあったのだろうか……」
「山脈以南は未開の地でしたから、もし存在していたとしても交流はありませんでしたね」
「そうだな。いや恐らくもっともっと昔の建造物なんだろう。想像もつかないな」
彼らはそれぞれに思いを馳せ、大石郡を見つめた。
「こっちだ」
イカル少年の高い声が彼らの思いを断ち切り、夜営の場所を示した。
「あっちの方向にしばらく行くと薪が拾える。こっちへ行くとオアシスがあるけど、夕方は風が強くて方向を見失いがちだから気をつけろ。夕食の頃になったら食事を届けに来る」
少年はそれだけ言うと、ひらりと駱駝に飛び乗り、振り返りもせずに歩き出した。取り残されたシキたちは顔を見合わせ嘆息するしかなかった。
「仕方がない。ともあれ天幕を張ろうか」
「じゃあ俺、手伝います」
「私は薪を取りに行って来るね」
シキと双子が手際よく準備を始めるのを見て、エイルはどうしようかと思案した。と、リュークがその腕を掴む。
「俺らも行こうぜ」
「え、えっ」
「水を汲みに行くんだよ。ほら早くしな」
目を白黒させるエイルを引っ張り、駱駝に押し上げる。エイルは何がなにやらといった表情のままだ。リュークがエイルを振り返り、片目をつぶって見せた。
「お前もみんなの役に立ちたいだろ?」
オアシスはそれほど遠くもなかった。だがイカルの言っていた通り、風が強く、駱駝も横に流されがちである。風で飛んでくる砂で、目が痛い。目を細めるせいで視界も狭まり、ちょっと間違えば道を外れてしまうそうだ。エイルはリュークが上手に駱駝を操っていく、その後をついていくのが精一杯だった。
しばらく歩くと、リュークの肩越しに緑が見えてきた。オアシスは「楽園」と呼ばれるほど素晴らしいものだ、と聞いていた。だからエイルは、緑溢れる豊かな地を想像していた。だが実際に目にしたのは、何本かの木が生えていて、小さな泉が湧いているだけの場所だった。楽園とまで言うほどのものでもない、とエイルは思った。
「もっと素晴らしい場所かと思っていたのに」
「それは違う。馬鹿だな」
リュークがエイルの言葉を一蹴する。馬鹿という言葉に、エイルはかっとした。だがリュークの言葉の続きを聞いて、神妙な顔つきになる。
「俺らは今、それほど喉が渇いてない。部落から来たから、どのくらいの距離か分かっているから、だからどうってことないように見えるのさ。マイオスを知ってるだろ? 彼は前人未到の砂漠を踏破したんだぜ。どこまで行ったら終わるのかも分からない砂漠を北からずーっと歩いてきて、部下のほとんどを失い、食糧も水も底を尽き、精も根も尽き果てようってとこでようやくオアシスを見つけたんだ。この泉かどうかは分からないけどな。ただ、その時の気持ちは計り知れないものがあるさ」
「……」
「部落の連中も、ここらに住む動物も、このオアシスなしには生きていけないんだ。この泉の水が生命をつないでいるんだ。本当なら、俺やお前なんかが軽く飲んでいい水じゃねえんだからな」
リュークの言葉はエイルにとって重く、深かった。不躾な態度も、不遜な言葉遣いも、不思議と気にはならない。
――水……生命をつなぐ水……。
エイルにとって、飲み物は侍女に申しつけ、しばらく待っていれば勝手に運ばれてくるものだった。だが、ここでは違う。こんな小さな泉に、動物も人も、命をかけて辿りつくのだ。辿りつけなければ、死ぬしかない。自分が飲んでいた城での茶や酒は、一体どのように、誰が、自分のために用意したものだったのか。侍女がどこで準備するのかすら、エイルは知らなかった。
――生きるというのは、簡単なことではないのだ。
言葉にはならない、何か不思議で重たい感覚をエイルは味わっていた。
「何、ぼーっとしてんだ。さあ、水を汲んで帰ろうぜ」
リュークとエイルは分厚い皮袋に水を汲み、小さな樽にも汲んで駱駝に積んだ。
二人が何とか迷わずに野営地に帰り着いたころ、既に天幕は張られていた。クレオが集めてきた薪に火がつけられ、冷たい風が夜の訪れを告げている。シキと双子のほかにもう二人ほど、姿が見える。どうやら夕食を届けに来てくれたらしい。一人は先ほどのイカル少年で、もう一人は少女だった。
「シーメ、帰るぞ」
「もう?」
シーメと呼ばれた少女はイカルより一回り小柄で、どうやらイカルの妹のようだった。イカルに帰りを急かされたが、何か心残りがあるようだ。踵(きびす)を返したイカルにちらっと目をやり、少女は慌ててクレオに話しかけた。
「あの、本当にセサルに会ったの?」
「え、ああうん、そうよ。デュレーの町で色々助けてもらったりしたの。それで仲良くなって、砂漠を越えるって話をしたら、首飾りをくれたのよ。きっと私たちの身を守ってくれるって」
「シーメ! 早くしろ!」
イカルの鋭い声が飛んだので、シーメはそれ以上何も言わず、イカルと駱駝の方へ走っていった。だがその顔にどこかほっとしたような色が浮かんだのをクレオは見逃さなかった。
――みんながみんな頑なってわけじゃないんだ。
リュークはともかく、初めて見る顔が何人もいて、しかも素性が知れない。それが突然現れて五人が数日食べられるだけの食糧をよこせ、などと要求したのだ。部落には、いつでも食糧がたっぷりというわけでもないだろう。
――警戒されるのも当たり前よね。
クレオは改めて自分たちの図々しさを恥じた。シキも同じようなことを考えていたらしい。視線が合うと、黙って頷いた。
「さて、夜の見回りと火の番だが、どの順にしようか」
シキが言ったのは、薪を囲んで簡単な夕食を済ませた後のことである。クリフがすぐに手を挙げた。
「俺が見回りに行きます。クレオは女の子だから行かせられないし」
「あら、私だって見回りくらい出来るわ」
「ええ? 盗賊とか遺跡荒らしが出たらどうするのさ」
「走ってみんなを呼びに来るわ」
「追いつかれちゃうよ。それに、ずっと遠いところだったら?」
「それは……」
「クレオには、火の番をしてもらう」
シキがクレオに「納得してくれ」と続けた。クレオは少し不本意そうだったが、頷いて同意する。
「じゃあまずクリフが見回りをして、しばらくしたらクレオと交代。その次は俺が見回りに行こう。とすると次はリュークだな」
「私はその次か?」
エイルが尋ねる。シキは面食らって、エイルの言葉を否定するように手を振った。
「まさか。エイル様は天幕でお休みを」
「冗談じゃない。一人で朝まで寝てろと言うのか? クレオは火の番をするのだろう。クレオに出来て、私には出来ないとでも?」
「いえそういう意味では……」
「いいんじゃねえの? エイルにもやらせろよ。いつまでも子供扱いしてたら逆に可哀想さ」
リュークの言葉に、エイルがうんうんと頷いている。双子もリュークに同意しているようだ。
「四対一、か」
そう苦笑しながら言うと、両手を上げて見せた。
「完全に私の負けですね」
「うむ。火の番くらいは私にだって出来る。その代わり、遺跡荒らしどもを倒すのはシキに任せたぞ」
エイルがにこにことして言う。
「ではエイル様には私の次に火の番をして頂くことにして、その次はリュークがまた見回りに行く、ということでいいかな」
「承知」
リュークが親指を立てて笑った。
日が暮れ、急速に温度が下がっていく。砂漠の夜である。クリフが見回りに出たので、残された面々はバージや毛布をかぶって床についた。
遺跡の周りを一周し、足跡や妙な痕跡がないことを確かめる。特に異常はなく、ほっと安心して夜営の場所に戻ってきたのはしばらく経ってからだった。寒さに凍えながら走って帰ってきて、薪を確認する。火は消えているものの、赤くくすぶった木片が残っていた。
「良かった。これならすぐにまた火がつく」
そう言うと、小さな木のかけらを足し、息を吹きかける。思った通りすぐに火は元通りになり、赤々と燃え上がった。新しい薪をくべる。炎で照らし出される皆の寝顔を見て、クリフは自分が一つの仕事を達成した喜びを感じた。
「クレオ、クレオ」
他には誰も起こさぬようにと注意を払いつつ、妹の肩を揺さぶる。バージに埋もれるようにしていたクレオが目を開けた。
「……あ、クリフ。もう帰ってきたのね」
「うん。遺跡は何ともなかったよ。人の気配どころか動物の気配も何もなくて、怖かったくらいさ。まあメルィーズが明るかったから助かったけど」
「そっか……良かった」
もぞもぞと起き上がりながら、クレオは安堵した顔を見せる。
「一日目からいきなり何かが起こるとも思ってなかったけど、でも、分からないもんね。何もありませんようにって祈ってたの」
「ありがと。でも何もなくてちょっと拍子抜けするくらいだね」
「クリフったら」
「一番困るのは寒さだよ。ほんっとに寒かった! 何か飲もうかな」
「お茶を淹れようか。私も飲みたいし」
クレオが淹れてくれた茶を飲み、二人は同時にほっと息を吐いた。
「こういう時、息を合わせたわけでもないのに同時にするよね。こういうところが双子なのかなあ」
クレオが言う。「どうなんだろうね」と返すクリフは、クレオと同じ仕草で茶を飲んだ。
「また同じ!」
クレオが笑う。クリフもつられて笑い出した。エイルが「ううん」と寝返りを打ち、慌てて声を抑える。ふと、クリフが真面目な顔つきで尋ねた。
「クレオ……その、あの、いきなり変なこと聞くけど……」
「え?」
「いやあの、俺さ、えっと……その、上手く言えないんだけど」
「何よ、クリフったらはっきり言えば?」
「あの……シキのこと……」
クリフの言葉に、クレオは凍りつく。
「デュレーで、泣いてたじゃんか。シキがティレルと……」
「言わないで!」
「ご、ごめん」
「……」
クレオは唇を噛みしめている。明るい雰囲気が急に消え、冷たい夜風がさらに冷たく感じられた。クリフはどうしていいか分からず、所在なげに視線を泳がせたまま黙っている。双子の妹だけれど、自分にはその胸中が分からないのだと、クリフは今、痛感していた。それは淋しいことでもあり……だが何故か、それが当然なのだという気もした。
「クリフは、人を好きになったこと、ある?」
「え、えっと」
クリフの頭にアゼミルイーナの顔がよぎる。何と言おうかとクリフが迷っているうちに、クレオは続けて口を開いた。
「私、シキが好きなの。でも、まだ言ってないの」
「うん……」
「シキは私なんか好きじゃないかも知れない」
「そんな」
「ううん……」
「だってクレオは優しいし……。俺と同じ顔なのにこんなこと言うの変だと思うけど、その、可愛いと思うし」
「ありがと、クリフ。……こんな事言ったら、シキに、何て思われるかな。すごく怖い気がする。でもやっぱり……私はシキを好きだって、言ってみようと思うの」
「……」
それでもクリフは何を言えばいいか分からなかった。肯定も否定も出来ず、ただ曖昧に頷く。
「ごめんね、クリフ。変な話して」
「いやそんな、いいよ。その、大事な話だろ」
「ありがとう」
「俺、良く分からないけどさ……人を好きになるっていいことだと思うし、クレオの気持ちが通じるといいと思うし、その、だから……」
クリフが必死で力づけようとするのを見て、クレオは素直に笑った。
「ありがと、お兄ちゃん」
クリフが寝た後も、クレオは火の番をしながら物思いに耽っていた。次に見回りに出るのは月があのくらいの位置に来てから、とあらかじめ取り決めてある。
――メルィーズがあそこまで来たら、シキを起こさなきゃ……。
まだしばらくかかりそうだ。だがクレオは気が重くなって溜息を吐いた。
――起こしたら何て言おう。それとも何も言わずに送り出してさっさと寝ちゃおうかな。でもせっかく二人になれるんだし……ああ、やっぱり話したいことがいっぱいある。
クレオはシキに目をやった。精悍な顔は半分くらいバージの陰に隠れている。静かな寝息を立てて焚き火に照らされているシキは、とても安らかそうだ。いつもあたりに気を配り、皆の安全を確かめるために神経を尖らせているシキも凛々しくて素敵だと思っていたが、こうして無防備に寝ているところは子供のように可愛く思える。十も年上だというのに、クレオはシキの寝顔が愛しくてたまらなかった。
――やだ、私ったら……。
じいっと眺めていた自分に気づき、クレオは急に恥ずかしさを感じて顔を赤らめた。
メルィーズと多くの星々は、目で見ていても分からぬほどゆっくりと、だが確実に夜空を渡り、やがてメルィーズが打ち合わせしていた場所に差し掛かってきた。高まる胸の鼓動を必死で抑えようとし、同時にそんなことは絶対に無理だと思う。
「シキ……あの、時間だけど」
ほんの一声でシキは目を開け、二、三度瞬きをすると、寝ぼけた様子も見せずに起き上がった。
「何か異常はなかったか」
「はい」
「そうか。無事で良かった」
緊張した面持ちで無事を確かめたが、クレオがいつも通りだと分かると爽やかな笑顔を見せる。シキの表情が変わる度に、クレオの気持ちは激しく揺れ動いた。
「では見回りに行くとしようか」
立ち上がるシキ。クレオは慌てて、一緒に立ち上がってしまった。
「ん? どうした」
「あ、いえあの、その、で、出かける前にお茶でも飲みませんか!」
自分でも、声が上ずっていると分かる。もう少しでひっくり返りそうだ。あからさまに変な様子だと、シキも気づいたのだろう。怪訝な顔で笑いながら、もう一度腰掛けた。
「じゃあ、一緒に飲もうか」
「は、はい」
茶を淹れて飲む間、クレオはシキと視線を合わせることも出来ないまま固まっていた。シキはそんなクレオをじっと見守っているだけである。そのまま時間が流れていく。クレオがあっと思う間に金属製の杯は空になってしまった。
「あ、あの、もう一杯……駄目ですか?」
「構わないが」
二杯目も、そして三杯目も、同様に過ぎていく。シキはクレオの様子がおかしいことに気付いているだろう。だが何も言わずに付き合ってくれていた。
――どうしよう。なんで、何も言えないんだろう。
クレオは心の中で地団駄を踏んだ。言おうと思って用意していた言葉は、何一つ口にすることが出来ない。このままずっとお茶ばかり飲んでいるわけにはいかない。言わなくては。言わなくては……。その思いばかりが募り、けれど何も言えないまま、クレオは黙って座っていた。
「何か、言いたいことがあるのか」
心臓が、一瞬で破裂するかと思うほど跳ね上がる。
「ここしばらく様子がおかしいと思っていた。俺に何か言いたいんじゃないのか」
――わ、私の考えていることが全部分かっているのかしら……。
「クレオ」
「あ、あの!」
意を決してシキを見上げると、彼はこちらをまっすぐに見ていた。その視線に射抜かれ、クレオは頭の中が真っ白になってしまう。顔が急に熱くなるのが分かる。
――ええい、もう言っちゃえ!
「私、シキが好きなんです!」
シキがどんな顔をするか、怖くて見られないだろうと思っていた。だが、実際には目を逸らすことも出来なかった。そして当のシキはというと、小さく微笑んだだけだったのである。
「……あの……駄目ですか……」
恐る恐る尋ねる。シキは、頭をかいて笑った。
「駄目かと聞かれても困ってしまうな。人を好きになってはいけないという決まりはない。クレオが好いてくれるのは、俺にとっても嬉しいことだ」
「……」
優しい響きのその言葉は、だがクレオを舞い上がらせはしなかった。
――相手にされてない……んだよ、ね。
クレオは落胆の色を隠せないでいる。そんなクレオの様子を見て取り、シキは困り顔で続けた。
「クレオ、その、俺はどうもこういう話が苦手なんだ。どう言えばいいか……。だが、きちんと応える必要があると思う」
その声音が真剣なものになり、クレオは再びシキを見上げた。シキは両手で顔を覆い、何か、考えをまとめようとしている。
「……俺には、心に決めた相手がいるんだ」
その言葉はクレオの心を打ち砕いた。やはりティレルなのだろうか。だが、シキが続けた言葉でそれとは違うということが分かった。
「俺が十九のときの話だ。もう……そうか、七年ほども前の話になるんだな。俺には生涯かけても守りたいと思う女性がいた。だが、彼女は……死んだ」
そう言った時のシキの表情を、クレオは死んでも忘れないだろうと思った。こんなシキは、今まで一度も見たことがない。目の前にいるのは、まるで知らない人のようだった。半年以上も一緒に旅をしてきた、強く優しい青年ではなかった。どうしてそう思ったのか、クレオには分からなかった。息を呑んでシキを見つめる。
――そうか、この人の心は今、ここにないんだ。
深い緑の瞳は遠くを見つめ、深く、想いを馳せていた。
「死ぬ間際……彼女は言った。自分のことは忘れろ、と。いや忘れないで欲しいけれど、思い出さなくていい、と。また誰か別の人を好きになって、その人と幸せになって欲しいのだと、彼女はそう言った。だが俺はいまだに彼女への想いを断ち切れずにいる」
クレオは何も言えなかった。シキがこんな話をするとは思わなかったのだ。元来が無口な方だと自分でも言っていたし、身の上話をするのが好きな人ではない。道中、自分の話をする事はなかった。だが今、シキはその過去をクレオに語っている。クレオは、それが不謹慎なことだと思いながらも、話してくれること自体が嬉しいと思えてならなかった。
「いや、断ち切れないというのは違うな。俺は、彼女の死を受け入れている。彼女の言葉を守ろうとも思う。事実、その、心通わせた相手もいる」
――大勢いるのかしら。ティレルも含めて?
思ったより冷静でいる自分に、クレオは驚いていた。ついさっきまで、クレオは自分の想いで頭がいっぱいになっていたのに、今は、これ以上ないというほどに穏やかな気持ちでいる。何故なのだろうか。
「だが……まだ、幸せになろうとは思えない。自分のことを考える余裕がないとも言えるかな。エイル様のこと、レノアのこと、これからのこと……俺にはなすべき事が多くある。自分一人の幸せを追求している暇はない。誰かを幸せにしてやる余裕もない。だから、クレオの気持ちは有り難いんだが……」
「……」
「すまん」
「いえ、いいんです」
両手を振って、クレオは素直にそう言った。笑顔さえ浮かべられそうだった。
「クレオ」
「私、ただ、言いたかったんです。私が思ってること、知って欲しかったんです。それでどうしようとか、どうして欲しい、とか……そんなの全然考えてなかった。シキの気持ちとかも考えてなくて……ごめんなさい」
「いや」
「聞いてくれて、嬉しかった。ちゃんと話をしてくれて、本当に嬉しかった。いつか……今度のことが全部決着したら、元の、昔の世界に帰るわけで、帰った時、何がどうなっているか分からないけど、とにかく全てが終わって、平和になったら……そしたらシキも幸せになろうって、そう思うかも知れない。私は、シキにそう思って欲しいです」
「……」
「私はその、シキの好きだった人を知らないけれど、その人もきっと本当にシキのことが好きで、幸せになって欲しいってすごく思ってたんだと思う。私も……シキが幸せでいてくれたらいいと、本当にそう思います」
「クレオはいい子だな」
クレオは黙ってうつむき、首を横に振った。自分の意思とは無関係に涙が浮かんでくるのを、シキに知られたくはなかった。何故、自分が泣きそうなのか、自分でも分からない。けれど胸は確かに苦しくて、呼吸は細切れになっていて、目をしばたいても涙を止めることは出来そうになかった。
「私、寝ます。見回り、気をつけて」
一生懸命にそれだけを言うと、クレオはシキに背を向けて分厚い毛布に包まった。これなら顔を見せずに済む。シキは毛布の上から二度、優しく叩き、「行ってくる」と言った。シキが剣を取り、バージをまとって出て行く気配を感じながら、クレオは目を閉じ、じっと動かずにいた。
白く輝くメルィーズが、彼らを見下ろしている。
エイルは夢を見ていた。何の夢かは分からないが、同じ夢を見たことがあるような気がする。夢の中の自分と、それを見ている自分とを感じ、不思議な感覚の中で揺られながらエイルは気持ちよく眠っていた。……どこかで誰かが呼んでいる。そしてその声が、次第に大きくなってくる。
――確か、前にもこんなことがあった。
そう思いながら、エイルはつと目を開けた。薄い絹が吊ってある天蓋つきの寝台……ではなく、ちょっと変な匂いのごわついた毛布が目に入る。冷たい夜風を鼻先に感じ、砂と小石の混じる地面を見て、エイルはここが砂漠だったと思い出した。よろよろと起き上がると、シキが優しげな瞳で笑っている。
「お目覚めですか? 夜中に申し訳ないのですが、交代の時間ですので」
「あ、ああそうだったな」
「何かお飲みになりますか?」
「うん。あ、いや、自分でやる」
「たまには私にもやらせて下さい」
そう言って笑ったシキは手際よく茶を淹れ、暖かな茶で満たした杯をエイルに手渡してくれる。薪にはすっかり火が戻り、暖かな炎がちらちらと燃えていた。
「見回りは済ませました。特に何もありませんでしたので、ご心配なく」
「そうか、ご苦労だったな」
「これからしばらく、次にリュークを起こすまでは火の番ですね」
「うん。もう夜明けもそう遠くはなさそうだな。薄明るくなってきたらリュークと交代しよう」
「私もお付き合いしましょうか」
「いや、いい。一人で出来る。……まあその、もし、眠くないなら……少し話でもするか」
「はい」
シキは微笑み、エイルは照れくさそうに額をかいた。その額に金冠はない。金冠はこれまでずっと、外す事なくはめていた。淡い水色の髪の下で光る金冠は、エイルにとってある種の自己証明だった。けれど最早、彼は金冠にこだわっていない。砂漠の乾いた風に吹かれて、エイルの柔らかかった髪もごわごわとしてきた。前髪を上げておく方が楽だと気づいたエイルは金冠を外し、頭に布を巻きつけて、上げた髪を留めるようにしたのである。それは部落の少年たちと同じ格好だった。顔立ちなどが違うので彼らとは明らかに見分けがつくが、服装や髪型などが近づくだけで、ぐっと似るものだ。エイルはそれを喜んでさえいた。
「エイル様は……大人になられましたね」
「うん? どういう意味だ」
「この半年で、すっかりご成長されました。驚くばかりです」
「そんなことは、ない。私はまだ子供だ」
「子供は、そうして己の未熟さを認められないものです。以前のエイル様なら、『そうだ、私は成長した』などと仰ったかもしれません。でも今は、まだまだ成長の余地があると分かっておられる」
「……」
「十分に成長し、立派な大人と言われる人間でも、弱さや未熟さは持っているものですよ。それを認め、克服したいと努力し続けることが大事なのです」
「うん、きっとそうなんだな」
エイルの言葉に頷き、シキは夜空を見上げた。
「私は今まで、エイル様を少し甘やかしていたのかもしれません。王宮にいた時も、この旅に出てからも。双子やリュークはエイル様が王宮にいた頃を知らず、そのせいもあって無礼なことも言いますが、彼らとの出会いがエイル様にもたらしたものは大きかったと思います」
「私もそう思う。以前は分からなかった、いや知ろうともしなかったことを、この旅の間にずいぶんと学んだ。金を稼ぐこととか、食事を作ることとか、生きていくためにはしなければならないことが山のようにある。……私が欲しいものは一言で用意された。嫌だと言えばすぐに目の前から消えた。それがどういうことなのか、私は知らなかった。私一人のためにどれだけの人間が動いているか、想像もつかなかった」
「周りが知らせようとしませんでしたから」
「私は大いなる庇護の元に育ち、世間というものを知らず、傍若無人であったようだ」
「エイル様。それを反省なさることはありません」
「何故だ? 私は人に与えられるばかりで自分では何一つ出来ないのだぞ」
興奮した声を出し、エイルは立ち上がった。悔しさに顔が赤くなり、両の拳が握り締められている。シキは寝ている者を起こさぬようにと、指を立てて唇に当て、エイルを座らせた。
「エイル様、あなたは統治者となられるお方です。王族として生まれついたあなたの、それが運命です。多くの物を与えられていると知ったなら、それを返せばいいだけ。それは、あなたが良き治世をするということです」
「それは……」
「今の状態からは何とも言えませんが、いずれ、元の世界に帰れたとしましょう。恐らく、反乱が起きた事実は変わりません。ですが反乱を平定し、レノア国に平和が戻ったとして、誰が国を治めますか」
「それは父上が……」
「陛下も、シエル殿下もいらっしゃらなければ」
「……私だ」
「そうです。あなたが、レノアの王になるんです。もし、陛下やシエル殿下がご生存であったとしても、国は荒れているでしょう。反乱のために政治は乱れ、流通、交易を含めた経済も滞り、民は疲弊しています。その時、王として、あるいは王族の一員としてエイル様がすべきことは何だとお思いですか」
シキの言葉は重い。エイルは何も言わず、自分を守り続けてきた青年を見返した。
「あなたは反乱で乱れたレノアという大国を、治めなくてはならないのです。そのためにはもちろん多くの人手がいるでしょう。多くの知恵者、武者に助けられ、それでも国には王が必要です。反乱を起こし、国を乱した者では王になれません。平和な治世が必要なのです。民は、平和な暮らしを、そしてそれを保証してくれる王を求めます」
「レノアの民に報いるために……私が出来る事、か」
「……王族、それに我々貴族も、民から納められた税金で暮らしています。ですから金を稼ぐ必要はない。食べ物も、着る服も、豪華な城も、すべて民の稼いだ金から出来ています。その恩をどう返すかと言うなら、彼らが安心して暮らせる社会を作ること。それが王族としての務めです」
「そうか……。分かった。今はまだ何も出来ぬが、いずれその時が来たなら、私はレノアの民のために尽力しよう。そのためには骨身も惜しまん」
「素晴らしい。王族の鑑ですね」
「そう褒めるな。当然のことだ」
「はは、エイル様らしいお言葉ですね」
シキに寝て良いと言い、エイルはその後も一人で火の番を続けた。そしてメルィーズの姿が薄らぎ、夜明けが近づいた頃。
「そろそろだな。……おい、リューク」
「うーん……」
「時間が来たぞ」
そっと近づいて耳打ちしたが、リュークはまったく目を覚ましそうにない。エイルは「まったく……」と呟きながらもう一度呼びかけた。が、返事はない。毛布越しに肩や腰を揺すってみるが、たいした反応は見られなかった。すっかり寝入っているようだ。
――いい加減にしろ、この寝ぼすけ。
心の中で毒づき、毛布から突き出ているリュークの鼻をぎゅっとつねる。
「いって……! な、何だよ、何だってんだ……」
寝ぼけた顔でリュークはあたりを見回していたが、エイルの仏頂面を目にしてようやく事情が呑み込めたらしい。
「そうかそうか、見張りをするんだったな。ちぇっ、せっかくいい女の夢を見てたのに」
「素敵な時間を邪魔して悪かったが、もう夜明けも近い時間だぞ」
エイルに起こされ、リュークは不機嫌そうな顔である。くしゃくしゃになった前髪を無造作にかきあげ、大きな欠伸をした。
「眠気覚ましに茶を一杯……」
「私に淹れろとでも?」
「いいじゃねえか。こういうのが、お前のためにもなるわけだし」
「本当にしょうがない奴だな。なんだかんだと言って、自分が手を抜きたいだけじゃないか」
「ははっ、ばれたか」
リュークは軽い笑い声を立てた。
「夜中に起きてたことなんて初めてだったんだろ? どうだった」
「うーん……寒かったな」
「そうか、そうだろうな。お疲れさん。火を絶やさぬようにしながら、一人でぼーっとしているのはつまんなかったか?」
「いや、考え事をしていたからな」
「へえ。何を考えてた?」
「まあ色々と」
「例えば」
「そうだな……リュークの生い立ちとか」
「嘘つけ」
片手で打ち消すような仕草を見せるリュークに、エイルは笑って言った。
「興味があるのは事実だぞ。リュークは私と違う。どんな育ち方をしてきたのか、どんな人間なのか、私は大いに興味があるんだ。この世には、私の知らなかったことが多くある。私は今、もっと色々なことが知りたいのだ」
リュークは感心したような顔でエイルを眺めた。
「王子様ってのは偉そうに踏ん反り返ってるだけじゃねえんだな」
「……まあ、以前は私もそういう感じだったが」
「よっし。あんまり綺麗な話じゃねえけど、俺の話をしてやるよ」
そうは言ったものの、これまで人にそういった話をしたことなど滅多にない。リュークはどこから何を話したものかとしばらく思案した。指をあごに当て、視線を宙に彷徨わせる。
「……俺は、親の顔を知らないんだ。どこで生まれたのか、国も町も分からねえ。草っぱらで凍えてたのが最初の記憶かな。多分、誰かに拾われたんだろうけど、覚えちゃいねえ。奴隷として売られたようだったけど、ひどい目に遭ったんで逃げ出した。そんでガキの時分はルセールの王都マイオセールの下町で暮らしてた。あれは多分、五つかそこらだったと思うけど、よく覚えてない」
「五歳で?」
「ああ。残飯をあさったり、人の財布をかっぱらったりしてな」
「……」
「善悪なんて誰も教えなかったからな。金を稼ぐ手段もないし、生きていくためには人の物を盗むしかなかった。それが当たり前だった。俺の住んでたあたりは下町の中でも貧民ばっか住むところで、みんなそうやって生計を立ててたよ。毎日、食うことしか考えてなかった。服なんかいっつも同じ。風呂も当然入れやしない。みんな臭かったなあ」
そんな事を、それでもどこか懐かしそうな顔で話すリュークに、エイルは言葉もなかった。出会った時の彼は、長い髪を綺麗にまとめ、洒落た旅装に身を包んでいた。エイルは昔のリュークを想像しようとしたが、どうやっても思い描けない。
「毎日腹を減らしてた……あんな生活は二度としたくねえな。もっと綺麗な服を着たかったし、ちゃんとした飯を食いたかった。周りの奴らは最初っから諦めてたけど、俺はいつかこんなとこ出てくって思ってた。そんで盗んだ金を少しずつ貯めてたのさ。……十四くらいのときだったかなあ。その金で初めて、ちゃんとした買い物をしたんだ。服や靴を買って、散髪した」
「さぞかし気持ち良かっただろうな」
「いやあ、どうかなあ。さっぱりしすぎて居心地悪かったぜ」
「そんなものか」
「だがまあ『これでようやく普通の人間になれた』とは思ったよ。それまでは人間として認められてないようなもんだったからな。ずいぶんひどい扱いだったぜ。奴らは俺らをいじめるのが楽しみみたいなもんで、汚いとか言われて蹴られたり、石を投げられたりしても文句言えなかった。貴族街には近づけもしなかったしな」
「……」
「あそこにいる限り、俺らは人間じゃなかった。汚いどぶねずみさ。でもそれが当たり前だったし、嫌だろうが何だろうがそういうもんだから受け入れるほかなかった。十五で、俺は盗賊ギルドに入ってたんだ。仕事として盗みを引き受ける組織さ。だけど、どうもそういう人間関係とか組織とかってもんに馴染めない性格なんだな。ギルドも嫌になって抜け、有り金全部を持って貧民街を出た。その時はもう……本当にいい気分だったな。それから一人で旅をして……まあ今でもそうやって暮らしてるってわけ」
あまりにも自分と違いすぎるその生い立ちを、エイルはただ黙って聞いているしかなかった。
「旅に出てから一番長く住んだのがコーウェンで、それでも二年か。その頃、ヴィトと知り合った。変な奴だけど、色々と教えてもらって字も読めるようになったし、仕事も手伝ってもらったんだ。その後あいつはマイオセールに移り住んだんだけど、この前の事件でまたコーウェンへ戻った。お師匠さんとこに住まわせてもらってるらしいな」
「その師匠という人が、力のある魔術師なのだろうな」
「だと思うぜ。俺は会った事ないけど、ヴィトは、自分が死んでも敵わない相手だって言ってた。そういうことは絶対言わないやつなんだけどな。……お前ら、過去の世界から来たって言ったよな?」
「ああ……」
「多分その師匠って魔術師なら、時間を越えるような魔法も使えるんだろう。きっと元の世界に帰れるさ」
「だといいが」
「この先、まだまだ大変だとは思うが、頑張れよ。俺は案内くらいしか出来ないけどな」
「十分、頼もしいと思うぞ」
「王子様に褒めていただき、光栄に存じます」
大仰な格好で深々と一礼すると、リュークはバージを手に取った。
「ちょいと話し込んじまったな。そろそろ見回りに行かなきゃ。お前ももう寝ろよ」
「ああ、そうさせてもらう」
エイルが毛布に包まり、リュークが見回りに出かけると、動くものの気配はなくなった。
砂漠の夜が白々と明けようとしている。
やがて東の地平線に金の線が走ったかと思うと、その中央から眩(まばゆ)い光が広がり、ハーディスがその大きな顔(かんばせ)を地上に現した。徐々に盛り上がるハーディスは、やがてその黄金色の光で砂漠を染め、大地を満たしていった。そして、じりじりと焼け付くような熱気があたりを覆い始める。
昼は暑さを避けて木陰で過ごし、夜は見回りと火の番をするだけの日々が繰り返されていた。朝と夕方、部落からイカルとシーメが食事を運びに来る以外、一人として訪れる者もなく、ただただ静かな時間が過ぎていく。遺跡荒らしと称される者も、一向にその姿を現さないようだ。情報を求めようにも、イカルたちはいつもそそくさと帰ってしまうし、彼らが何か重要なことを知っているとも思えないのだった。
「もうやめようぜ」
ついにリュークがそう言い出した。
「いい加減長すぎる。冗談じゃねえよ、いつまでやりゃいいんだ」
「そうは言っても……」
「食糧をもらうためでしょ?」
クリフは困惑気味である。クレオも、自分の答えに自信がなさそうだ。
「見張りをしたからって食糧を分けてくれるとは限らないんだぜ。何の約束もしてねえからな」
「そう言うな」
苦笑しながら言ったのはシキである。
「もしや今晩にも夜盗などが現れ、遺跡を荒らすかもしれん」
「あんたはそう言うが、何の根拠もないじゃないか。昨日も、一昨日も、その前も! なーんもねえ! 明日以降も続くさ!」
「それは……」
口ごもるシキに、リュークは口早に畳み掛けた。
「いつ現れるかも分からん遺跡荒らしを捕まえなきゃ、この仕事は終わらねえ。いや、いつになっても終わりゃしねえよ。第一、元からあいつらの策略かも知れないじゃないか」
「何が言いたい」
「嘘だってことだよ。遺跡荒らしとか何とか、全部さ。外部から来た俺たちをはめたんだ」
「まあ、そうだな。そうかもしれん」
「だろ? だとしたらやる意味なんか……」
「だが我々をはめて、彼らに何の得がある」
「……」
「毎日、朝晩と食事を届けてくれているんだぞ。簡単なものだが、五人分の食事だ。もう十日以上になる。我々をここに足止めしたいだけなら、彼らがそんな犠牲を払うだろうか」
「私が思うに」
エイルが口を挟む。
「恐らくこれは試練なのだろう」
「試練?」
双子が口を揃え、同時に首を傾げた。
「つまり、彼らは私たちを試しているのだ。理不尽な要求にどこまで耐えるか、と。食事を提供しているのだから、見張り自体にも意味はあるのだろうが、恐らくそれ以上に試練の意味合いが強いと思う。私たちがもう止めたいと言い出せばそこで終わり。当然、食糧などはもらえず、部落を追い出され、砂漠の真ん中で飢え死にするだけだ。勝手に逃げ出したところで結果は同じだな」
「じゃあ、あいつらに認められるまでここにいろってのか」
リュークが飽きれ返った顔で髪をかきあげる。冗談じゃない、といった様子だ。シキが慰めるように言って聞かせる。
「我々は、彼らの信用を得なくてはならない。そのためにはまず我々が相手を信じることが大切だ。理不尽な要求にせよ、誠実に応えれば気持ちは通じるものだ。このままここにいても死ぬわけでもない。どうあっても急がねばならんという事情があるわけでもない。我慢しよう、リューク」
「……馬鹿馬鹿しい」
リュークはそう吐いて捨てたが、それ以上文句を言う気はないようだった。力なく丸太に腰掛け、大きく息を吐く。
そんなやり取りがあってから、さらに数日後が経過した。
まともに見回りをする気もないリュークが、見回りと称した朝の散歩から帰ってくると、天幕のそばに駱駝が三頭立っているのが目に入った。いつもならもう少し遅い時間、それもイカルとシーメが乗ってくる駱駝は二頭のはずなのに、と目を凝らす。
「女だな」
その服装から、どうやら女性らしいと見当がつく。だが、リュークはつまらなそうに嘆息した。女性と見れば元気が出るはずのリュークだが、彼らしくもない。
「どうもなあ……砂漠の民の女ってのは潤いが足りなくて」
非常に無礼な言葉を呟きながら、リュークは天幕のあたりへ戻っていく。どうやらシキたちも起き出して、彼らの存在に気づいたようだ。
「朝早くからすまないね」
イカルとシーメが食事を用意している横で、もう一人の女が言った。頭と顔に巻いた白い布から、黒い綺麗な瞳を覗かせている。
「昨日まで所用で町へ行っていたんだけど、帰ってきたらセサルの知り合いらしいのが来てるって聞いてさ。話を聞かせてもらおうと思って来たんだ」
語気は強いが、瞳から伺える表情は柔らかく、若々しい。どこか、そわそわしているようにも見える。部落で話をした男たちのように頑なな様子は感じられなかった。
「もしかして、レザ、さん?」
クリフの声に、驚いたような色が瞳に浮かぶ。彼女は巻いていた布を外し、その顔を外気にさらした。硬そうな髪と日焼けした肌が、彼女もまた砂漠の民であることを思わせる。
「なんであたしの名前を知ってるのさ」
「やっぱり! そんな気がしたの!」
クレオもクリフと同じことを考えていたのだろう、嬉しそうに手を叩いた。
「セサルに聞いたの。彼、元気でやってるわ。レザに会ったらそう伝えてって言われてたの」
「俺らはデュレーで会ったんだけど、これからまだ北へ行くって言ってたよ。もっと色々な経験をしなくちゃって、成人の儀式だからって」
「セサルがそう言ってたの……。じゃあやっぱりあんたたち、セサルと知り合いだったんだね。第一、悪い人間には見えないよ。ま、長老たちは頭が固いからな」
レザはそう言ってくすりと笑った。シーメが嬉しそうな顔を見せる。
「じゃあ、もう終わりでいいの?」
彼女の言葉は、遺跡荒らしが存在しないと裏付けるようなものだったが、リュークもそれを咎めはしなかった。「助かったぜ」と伸びをしている。イカルは相変わらず無愛想だったが、それは彼の生来の性格によるところも大きいようだ。朝食を終えた一向は、無言のまま案内するイカルに従って村へと戻った。夜営を始めてから、半月ほど経っている。レノアの暦ではそろそろ年が明けようという頃だ。
村へ戻ると、すぐに長老のツギへ案内された。中ではこの前と同じように長老がかまどの前に座っている。隣の青年が自分の兄だ、とレザが耳打ちする。彼らは相変わらず険しい顔つきではあったが、当初のような攻撃的な視線は向けられなかった。
「……よく耐えたことじゃ」
長老がくぐもったような声で言う。シキが応えて頭を下げ、双子は嬉しそうに顔を見合わせた。リュークとエイルは二人してそっぽを向いている。
「レザが、間違いなくセサルの知り合いだと言うでな。これ以上疑うことはなかろうという話になった。……途中で嘘だとは思わんかったか?」
リュークが小さく何かを呟く。それにちらと目をやり、だがシキは首を振った。
「真実でも、嘘でも、同じことです。頼まれた仕事を放り出すわけにはいきませんから」
「うむ。やはり悪い人間ではなさそうじゃな。……遺跡荒らしの話自体は嘘ではなかった。が、まあここ一年ほどは姿を現しておらん」
「ち、やっぱりな」
舌打ちをするリュークを、レザの兄がじろりと睨む。リュークは小さく舌を出して横を向いた。
「しかしよく見張りを続けてくれた。この半月、お前たちがこの部落の安全を守っていたのは確かなことだ。我々はお前たちを客人と認め、食糧を分け与えると約束しよう」
約束通り、彼らが砂漠を出るまでに足る食糧はすぐに用意され、彼らは丁重に礼を言った。レザは申し訳なさそうな顔だ。
「長い間、足止めをさせてしまって済まなかったね。私がもう少し早く帰っていれば……」
「いや、構わぬ」
「レザのせいじゃない。何にせよ、会えて良かった」
「セサルが無事にやってるって分かって良かったよ。ありがとうね」
「彼が帰ってきたら、結婚するの?」
クレオの問いに、レザは日焼けした頬を赤く染めた。
「うん、そういう約束だから。待っているのは辛いけど、それもこの部族の女の務めなんだ」
「早く帰ってくるといいね」
「ありがとう。あんたたちも気をつけて行きなよ。王都へ行くのかい?」
その問いに、リュークが頷いて応えた。
「ああ、目的地はコーウェンだが、街道を通って行くのが早道だからな」
「ヤーデの加護がありますように」
部落の男たちは部外者たちが入ってきても出て行っても、いつもと変わらない。イカル少年もクーヤンの世話をしている。見送りはレザとシーメだけだった。
砂漠の始まりがどことは線が引けないように、終わりもまたはっきりと分かるわけではない。砂上をのそり、のそりと歩く駱駝の足が徐々に埋もれなくなり、固い大地を踏みしめるようになってくる。景色はゆっくりと移ろい、砂漠の様相も緩やかに様変わりしていく。やがて隊商宿の大きな白い建物と、多くの馬と駱駝が囲いの中にいるのが目に入った。長く付き合った駱駝たちとも、ここでお別れである。そしてこの隊商宿から南、王都マイセールへ向かって、街道が再び始まるのだった。あれだけあった砂はいつの間にか姿を消し、乾燥してひび割れた大地が広がる中を、石畳の街道はまっすぐ王都へと続いていく。振り返れば、ヤーデの向こうに山脈が霞んでいた。
エイルは一人で馬に乗ると言い、シキはそれを許した。マイオセールまでは馬で数日の距離である。野宿を繰り返しながら、暑い大地を行く。辺りに村や町はなく、ひたすら荒野が続くばかり。一行は口数も少なく、ただ馬を走らせ続けた。
ルセールの王都マイオセール。
その昔、勇者マイオスがこの砂漠を踏破し、生き残ったほんの僅かな人々と作り上げた、南の王国の首都である。水源から湧き出る水を発見しなかったら、ルセール建国の夢も潰えただろう。勇者マイオスは力を備え、人望もあり、そして何より運命の神クタールに魅入られていたのである。
だが、そのマイオセールは今、荒れ果てた姿を晒していた。修繕された建物もあるが、王都のあちこちには焼け焦げた跡がまだまだ残っている。人々は竜の襲撃直後に比べれば気力を取り戻し、生活を立て直しつつあったが、統治者のいなくなった都はいまだ混乱の最中(さなか)にあるようだった。
馬を走らせて荒野を抜けてきた一行は、その様を目にして言葉を失っていた。エイルが呟く。
「治安も乱れているだろう。犠牲になるのはいつも民だ。早く王国が復活し、機能するといいが」
それに、リュークが冷たい声で応えた。
「王族で生き残ったのはサーナ一人。心に傷を負い、言葉を発することも出来ない八歳の少女一人だ」
「……」
マイオセールの、そしてルセールの未来はどうなるのだろうか。以前と同じような活気を取り戻し、都市がきちんと復興するまでにどれだけの時間がかかるのだろうか。そこには想像もつかないほど多くの苦難が待ち受けているだろう。八歳の皇女には過酷すぎる重責が課せられている。
「急ぐぞ。まだ先は長いんだ」
リュークは短く言い、馬の手綱を引く。港町コーウェンは王都からはるか東。目的地はまだ、遠い。
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