エイルと最後の竜 第四章 マイオセール - 未曽有の危機

南の王国ルセール。その首都マイオセールは中央に王宮を配した、いびつな円状の城下町である。季節は冬に差し掛かっていたが、一年を通して気温の高いこの国では、比較的暖かな日差しが降り注いでいる。

手で顔を隠して振り仰ぐと、いつもと同じように空が晴れ渡っている。雲もなく、ハーディスがゆっくりと渡っていく真っ青な空。数羽の渡り鳥が高い声を上げながら飛んでいく。陽光の眩しさに目線を下ろすと、すらりとした足が乾いた土を踏んで歩いていく。

曲がりくねった路地を抜け、小さな広場をいくつか通る。街全体に路地と袋小路が張り巡らされたような作りのこの町は、慣れない者を道に迷わせる。だがここには長く住んでいたし、職業柄、迷うこともまずない。細い路地まで知り尽くしている。盗賊が道に迷うようでは話にならない。

道が広くなり、石畳になり、やがて大きな広場に出る。マイオセールの中央広場は人々の憩いの場でもあり、日用品を買う事の出来る商店も揃う。多くの建物が円形の広場を形作っていた。広場の東西の端には向かい合う形で二つの水場がある。その水場と水場の間に様々な色の天幕が広がるところを見ると、今日は月に一度開かれる大市場の日なのだろう。天幕式の店が、客のひしめく通路を挟んで立ち並ぶ。客を呼び込む声や人々のおしゃべり。のどかな風景はまるで一枚の絵のようだ。

日に焼けた肌、黒髪、大柄な男が多いのはルセール地方の特徴だ。かつて、名もなき町だったここマイオセールを、地下水脈の発見により大国の首都にまでした開拓の英雄マイオス。彼は北の出身には珍しく黒髪で背の高い男だったという。現在の城下町あたりにマイオスたちが辿り着いた時、彼らは水不足で全滅寸前だったという。地面に染み出した地下水が泉を作っていなければ、彼らの生命は文字通り枯渇こかつしていただろう。その事が、マイオスがこの場所に建国を決意した決め手になった。マイオスから数えて三十人余り、現在の王シュウスに至るまでマイオセールに水が絶える事はなく、それゆえにこの国も絶える事なく繁栄を続けてこられたのである。

黒髪が多い中で目立つ、青みがかった灰色の長髪。整った顔立ち。長い前髪の下からはいたずらな瞳がのぞく。細身で丈の短い洒落た服や大きな銀の指輪も、気障な見た目に良く似合っていた。リュークは自分でもその魅力をよく理解している。若い女に笑いかけては愛敬を振りまいていた。

市場では水や食料品を始めとして、様々な商品が売られている。遠くの地方から運ばれてくる海産物特有の臭みを感じながら、リュークは天幕と人々の間をすり抜けて歩く。軽く服が引かれて振り返ると、小さな女の子が花かごを持って立っている。その手に小さな銅貨を一枚握らせ、青い花束を買う。女の子は大袈裟に頭を下げると、また次の客の服を引っぱりにかかった。こんな光景も、マイオセールの日常風景だ。

広場の北側には、堂々たる大木が人々を守るように立っている。英雄マイオスの偉業を称えるために植えられたという、ラナの木。樹齢は既に二百年を経過しているはずだ。太い幹のそばにいくつか木製の長椅子が置かれていた。待ち合わせや、恋人同士が愛を語る場所としても使われる。そこに一組の恋人たちが寄り添っていた。若く美しい女と目が合ったリュークが、片目をつむって見せる。それから素早く近づいて花束を差し出す。極上の笑顔付きだ。

「なんだお前は」

そう言う男の方には目もくれず、リュークは彼女に向かって魅惑的な合図を送った。

「あなたの透き通るような瞳にはこの花が似合う。そして、こんな男より俺の方が、美しいあなたには似合うと思いませんか」

「ありがとう……お花、もらっておくわ」

「おいっ!」

男は怒りのあまり頭から湯気が出そうだが、リュークの目には映っていないらしい。女に手を振ると、にこやかな笑顔を残して身をひるがえした。見送る女の頬が紅く染まっている。

――いかんいかん。仕事だった。

いい女がいるとつい声をかけてしまう。この癖だけはなかなか治るものじゃない。そもそも治す気もないのだったが。

入り組んだ路地を抜け、どこにでもありそうな民家の前で立ち止まると、扉を叩くと中からの声が名を尋ねた。

「どちらさま」

「グレイだよ」

本名ではなく、いつものように通り名を名乗る。といってリュークというのも本名かどうかは分からない。捨てられていた時にそう書かれた札がついていたと言うだけの話で、それが彼の名前なのかどうかは誰も保証していない。

「合言葉を」

――あー面倒くせえ。

「えーと。あー……『太陽はその剣を熱して鍛え、月はその剣を冷やして鍛える。その剣をかざす男は、運命の神を父に持ち美の神を母に持つ勇者。多くの神々に見守られ、己の人生を歩き始める』……だったか」

「では『彼の前に立つ男』は?」

「時の神サキュレイアだ」

扉が開くと、満足そうな顔で微笑む男が立っていた。身体全体を覆い隠すローブのせいで、年齢や身体つきなどは判然としない。顔にかかる布と眼鏡で、顔つきを読み取るのも困難だった。しかしリュークはそれが誰だか知っていたし、その男も来客が誰なのか知っていた。

「その通り。どんな勇者も時を超えるわけにはいかないね。さあ入って」

「よお、ヴィト。しっかし長い合い言葉だよな、分からなくならないか?」

「君と同じにしないでくれるかな。その詩が入っている本は全部覚えているんだよ」

ヴィトの家はこざっぱりと片付いている。机につくとほぼ同時に、下働きの侍女が冷たくした甘蜜かんみつを持ってきた。この地方に多く生息する虫が好むラクレシという花があるが、甘蜜というのはそのラクレシから採った蜜を精製し、液体状に加工したものだ。暑い日には冷やして飲むのが美味しい。

白い前掛け姿の侍女に特上の笑顔を送ったが、彼女は目を伏せたままで杯を二つ、黙って机に置くと、奥の部屋に去ってしまう。リュークは「相変わらず躾が厳しいんだろ」とからかったが、ヴィトはその言葉を軽く無視した。リュークは肩をすくめると、甘蜜の杯を傾ける。渇いた喉に冷たい液体が心地よく流れ込んだ。半分ほどを一気に飲み干してから、黒く滑らかな手触りの布袋を取り出した。

「ガライって奴の依頼、完了したぜ。トーラスの屋敷からサファイアの首飾りを取り戻してきた」

「お疲れ様、ありがとう。報酬はガライからもらってあるよ。いつものように二割は私に。残りの八割が君だね」

ヴィト=キルヒアは、柔らかな声の持ち主だった。高すぎず低すぎず、その声は、とても柔らかく響く。ゆっくりとした話し方も手伝って、上品で優しげな雰囲気が醸し出されている。しかしリュークは心の中で「騙されねえぞ」と自分に言い聞かせた。

「情報の売り買いだけでも儲けてるんだろ? 仕事の依頼報酬まで取るんだからなあ。ヴィトお前、がめついぜ」

「心外だなあ。仕事を紹介したのも私じゃないか」

「そりゃまあ」

「あ、それから。ガライの依頼は完了したって言っていたけど、まだ終わってはいないな」

「おいおい。俺は盗賊だぜ。頼まれた首飾りを盗み出したんだからいいじゃねぇか」

「これをちゃんと城の宝物庫に戻しておくれ」

「嘘だろ。俺は盗む専門。戻すのは俺の仕事じゃねえよ」

リュークの返答を聞いて、ヴィトはおかしそうに笑った。まるで子供に諭して聞かせるように言う。

「ガライの弟が宝物庫でまた働けるようになるには、これが宝物庫に戻っていないとだめなんだよ。分かるだろう? 忍び込むのはお手の物じゃないか。大丈夫だよ、手はずはもう整っているから。城の地下水路が明後日、掃除されるんだ。その時に上手くもぐりこむといいよ」

「簡単に言ってくれるよ。俺はやらないぜ、そんな仕事」

「そう。腹をすかして倒れそうだった時、誰が飯を食わせてやったんだっけね、リューク?」

「ヴィト、てめえ……」

ヴィトが笑いをこらえている様子は手に取るように分かった。幼い頃、どれだけ世話になったか知れない。ヴィトがいなければ生きてはいられなかっただろう。だがそれのせいでいつもこうだ。面倒な仕事を押し付けられた回数は数えきれない。

「……くっそ、分かったよ!」

「あ、城へ入る門には近衛兵がいると思うから、くれぐれも気をつけて」

もう言葉もない。リュークは深く溜息を吐いて前髪をかきあげた。

「いつも心配しているんだよ」

「心配だけなら誰でも出来る」

「嫌だなあ、昔からの友人じゃないか。そうだろう?」

「友人、ね」

リュークはやれやれというように首を振り、残りの甘蜜を飲み干した。わざとらしく格好をつけた挨拶をし、ヴィトの家を出ていく。その後姿には、何度も同じ事を繰り返してしまう自分に対する諦めが見えた。

ルセールでは、レフォアのように高い建物を建てない。レフォア城は高い塔をいくつも備えた堅牢な造りだが、ルセール王宮は二階建てである。全体の形は、城下町と同じくいびつな円形。上空を飛ぶ鳥からは、丸い城下町の中心に丸い王宮があるという光景が見えるだろう。王宮には大きな中庭とそれを囲むような回廊がある。

王宮の壁に沿って流れる川は水門へと向う。ルセールの陽射しは強くリュークを照らす。太陽神ハーディスは、山脈の北と南で随分性格が違うようだ。北の地方でのハーディスは温厚で、礼儀をわきまえた紳士である。しかし山脈より南の国々では情熱的な愛に満ちている。凍夜の月も中旬だというのに、日中は暑さを感じる。渡り鳥の高い鳴き声と、川の近くの涼やかさが冬であることをかろうじて感じさせる。

「さーてと。お仕事開始しますか。……ま、ここは楽勝なんだ」

水門のそばには鉄の門扉があり、その前に衛兵が立っている。二人とも軽装鎧を身につけ、兜をかぶり、手には長い棒を携えていた。「怪しい者は何人たりとも近づかせん」といった風情である。

「厳しいねえ」

リュークは小さく呟くと、特に躊躇いもなく堂々と近付いていった。リュークが真っ直ぐに歩いてくるのを見て、二人の衛兵は手にした棒を威圧的に突き出す。当然といえば当然の対応である。

「何者だ!」

「はあ。あの、掃除しにきたんでね。わし、遅刻してしまいよったんで、仲間は先に来てると思うんですが」

「なんだ、ギルドからきた掃除夫か」

「へぇ」

「ならば証明書を見せるがいい」

「これでさぁ」

「……よし、通れ!」

――証明書の偽造くらい、なんてことはないんだ。

掃除婦の格好のリュークは、難なく城の水路に侵入に成功した。

ひんやりした空気、まとわりつくような湿気と臭気。間隔をおいて、水滴が垂れる音が響く。リュークは外の明るさに慣れた目をしばたかせた。薄暗い水路の脇に細い通路が伸びているのが見える。その通路を奥へと進んでいく。

「あとは……城に入る直前に衛兵か。一人って話だったからな。ま、それはそれでなんとかなるだろ」

今度は掃除夫としてごまかすわけにはいかない。地下水路の掃除夫は、城内に入れはしないからだ。変装を解いたリュークがしばらく歩いていくと、大きな鉄の扉が見えてきた。水路の終わり、すなわち王宮への入り口ということになる。扉の前には門番らしき男と衛兵がいる。

――話が違う。二人じゃねえかよ。

少々苦労するかもしれない。リュークは息を整えると、腰の革帯に差した剣の鞘から細身の剣を抜いた。衛兵がリュークの姿を見咎め、素早く構える。

「剣を抜いて近づいてくるとはいい度胸だ、侵入者!」

衛兵は素早く剣を抜き放ち、切りかかってきた。その剣先を必死でかわす。剣がかみ合い、硬い金属音が水路に響いた。衛兵が門番に向かって叫んだ。

「何をぼやぼやしている! 城内に知らせろ!」

門番の男は、衛兵の大声に慌てふためいた。城に侵入者が忍び込むなど、彼の人生で初めての出来事だったのだ。門番はおろおろしながらも水路の脇の扉を開け、城内に姿を消した。

衛兵とリュークは剣をかみ合わせ、手に渾身の力を込め睨み合っている。額に汗の粒が浮いた。

――ちっ、強いじゃねえか。あーあ、ヴィト絡みの仕事はいっつもこうだ。簡単にいったためしがねぇ。

リュークは舌打ちをすると、相手の剣から弾き飛ばされるようにして後方に飛び退すさった。互いに隙を伺う。じりじりと時間が過ぎていく。

すぐにでも応援の兵が駆けつけてくると思ったが、しばらく経っても何も起こらない。呼びに行った門番が入っていったきり、門は僅かに開いたまま。それを不審に思わないでもなかったが、それどころではない。リュークは戦闘経験がないわけではないが、城の衛兵と正面切って戦って勝てるほどの技量でもない。形勢は不利。すると想定外の方向、つまり町の方から鎧のぶつかり合う音が小さく響いてきた。

――おいおい、そっちから増えるのかよ。勘弁してくれ。ここでやられたら酒場のミナちゃんに会えなくなるじゃねぇか。アリスもルイナも、宿屋のレジー、雑貨屋のカレン、ああ、一昨日ラナの木で会ったお姉さんにも名前聞いとくんだったな、あと……。

悠長なことを考えながらも、リュークは危機に直面していることを実感していた。街の衛兵が駆けつけてきたのだろう。そうこうしているうちに城からも兵が来るに違いない。そこまで人数が増えてしまえばもうどうしようもない。

――牢獄入りか。城の宝物庫にあるはずのサファイアの首飾りも持ってるしな。……打ち首の覚悟を決めないと駄目かもな。

衛兵たちは何やら大声で叫びながら走ってくる。鎧ががちゃつき、その音と叫び声が水路に反響して聞き取りづらいが、彼らが近づくにつれ、はっきりと聞こえるようになった。

「大変だ! 大変な事になった!」

「兵を集めろ!」

「伝令をっ!」

――あん? 侵入者を捕らえようってのとはちょっと違う雰囲気だな。

二人の兵士の表情は尋常なものではなかった。二人とも真剣な、いやむしろ顔面蒼白といった形相である。彼らは面当てを上げていたが、その中に見える顔には汗が幾筋も流れ、息が切れて肩が揺れていた。顔は緊張しきってこわばっている。

「俺は王にお伝えしてくる!」

「ああ一刻も早く」

「お、おい、どうしたというんだ。何があった」

リュークと対峙していた衛兵が慌てて尋ねる。

「詳しく説明している暇はない! とにかく兵をかき集めろ! 竜の被害がこれ以上大きくなっては」

「何だって?」

衛兵の声にリュークの声が重なる。走ってきた兵士たちはその声で初めてリュークの存在に気づいたとでもいうような顔をした。

「なんだ、こいつは。いやこんな奴に構っている暇はない、早く兵を集めるんだ! 俺は町に戻る。とにかく早く行ってくれ!」

「わ、分かった」

兵士たちは二手に別れ、それぞれ鎧の音とともに姿を消した。後には呆然と剣を持って立ち尽くすリュークが、たった一人で取り残されていた。

「……竜? 竜、って吟遊詩人の歌や伝説に出てくるような、あれか? まさかぁ……」

マイオセールは、未曾有みぞうの恐怖におののいていた。

人々は体の震えを押さえる事もせず、声を失い、ただそれを見つめている。そうする以外に、彼らは何も出来なかった。恐怖のために身動きも出来ず、ただ見ているだけだったのである。

広場に所狭しと建てられていた店の天幕はその多くが潰れ、まきあがった砂塵にまみれて埃だらけになっている。ラナの木のそばにあった長椅子は横倒しになり、水場の泉は栓が壊れ、水が噴き出していた。砕けた石畳にはそこら中に枝葉が舞い落ち、泥だらけになっている。目に入るのは土の茶色と埃の灰色ばかりで、ここに溢れているはずの、鮮やかな色彩はすっかり失われている。

大木ラナの木より高いものは、マイオセールにはない。家々は多くが平屋で、高くとも三階までだ。白い壁と色とりどりの屋根が連なる街並み。ラナの木だけがそれを凌駕している。王都マイオセールの、そしてルセール国の象徴と言えるラナの木。それは堂々とその高さを誇っていた。そしてマイオセールに住む人々は、ラナの木より高いものなど見た事がなかったのである。今の、今まで。

人々の眼前にそびえ立っているものは、ラナの木よりほんの少し高いだけだったかもしれない。そういう意味で言えば、高さは木とそれほど変わらないと言える。ただ、ラナの木とはあまりにも大きな差があった。「それ」は、自分の意志で動くのである。

先程まで大きく広げられていた翼は、今はそのなだらかな背に沿ってたたまれていた。その全身はどこも黒かったが、中でも大きな翼は、どこまでも黒い。まるで永遠の闇を象徴するかのような漆黒の翼。巨体には艶やかな鱗。太い足の先には鋭い爪を、家一軒よりも大きな胴体には長い尾を備えつけている。長い首の先には尖った顔。口は真っ二つに裂け、大きな牙がのぞく。爛々と光る血走った目が、人々を恐怖の底に陥れる。喉の奥から時折漏れるのは、疑いようもない、灼熱の炎だった。

最初の衝撃と恐怖から一旦その身が解き放たれると、誰しもが悲鳴を上げ、散り散りに逃げ出した。恐怖は伝播していく。町中の人々は顔を青く染め、女は失神し、男は女子供を抱えて家へと逃げ込んだ。それが何か役に立つとも思えなかったが、深く考えて行動出来る者などいはしなかった。半狂乱で髪を振り乱し、子供を呼ぶ母親の声。愛しい人を求める男女の声。恐怖にゆがんだ老人のしゃがれ声。泣き叫ぶ子供の声。人々の靴が石畳に叩きつけられる音と、木窓や扉が閉められる音。それらの上から、低い、唸り声にも聞こえる呼吸と、熱く湿った息が降り注ぐ。

一際大きな咆哮が人々の足をすくませた。耳を引き裂くようなかん高い音に人々は息を呑み、上空を見上げた。青く澄み渡った空を大きな影が遮り、高く振り上げた頭が大きく真っ赤な口を開いている。あたりに、熱気が満ちていく。

その場にいた者はみな、慌てふためいて走り出した。これから何が起こるのか、すぐに想像がつく。低い音が轟く。獣の吼え声よりも猛烈で、落雷よりも凄まじく、人々の恐怖という感情を存分に引きずり出すような咆哮だった。全速力で逃げる後姿を、轟音と炎が追う。人間が走る速さで逃げ切れるわけもない。数十人の被害者が、あっという間に火に飲み込まれ、のたうち回った。

炎と風が吹き荒れ、数える暇もない早さで大勢の人間が死ぬ。巨体の当たった家は崩れ、落ちた壁や天井の破片が土埃をまきあげる。ラナの木の枝もへし折れ、また飛び火した炎によって焦げてゆく。広場で倒れていた天幕の布に炎が燃え広がり、やがて炎は家々にも燃え広がっていった。

大きな足が人々を無造作に踏みつけていく。黒き破壊者にとって、人々は逃げ惑う虫けらと同じ存在だった。一人一人の人生や、今までの日常などは何の意味もない。目障りな、取るに足らない小さき者たちが足の下でうごめき、それを踏み潰す。ただそれだけなのだろう。その行為と、人が害虫を叩き潰すのとなんの違いがあったろうか。

人々に出来る事は何もなかった。立ち向かえる者など、いようはずもない。他人を押しやり、荷物を投げ捨て、誰もが我先にと走っている。転ぶ者を助ける余裕もない。炎で燃やし尽くされる者もいれば、走っているところへ壁が崩れてくる不運な者もいる。人々は逃げるのを止めようとはしなかった。ただ本能のままに彼らは走った。逃げる事しか頭になかった。それ以外はただ、恐怖だけがあった。

――逃げよう。逃げるしかない。早くこの場を去るのだ。早く! どこかへ行かなくては……!

さりとてどこへ行くというのだろうか。一体、どこへ逃げるというのか。マイオセールの周りには広大な荒地が広がっている。一番近くの村まででも、かなりの距離がある。用意もなしに町を出て行くことなど出来はしない。そしてこの巨大な黒い悪魔からは、どれだけ早く走ったところで逃げ切れるとも思えなかった。それでも人々は、ただ取り乱しては走り回った。

門扉は、開け放たれたままになっていた。注意深く中に入ると、そこは厨房のようだった。先ほどまで多くの人がいたような気配は残されていたが、まるで慌てて逃げだしたようにいくつもの鍋や調理道具が散乱し、桶が倒れている。不自然な静けさが漂っている。正面の扉から廊下へ出たが、やはり誰一人として姿が見えない。リュークは訝しげに目をきょろきょろさせた。

――誰も、いない?

突然、遠くで、恐らくは町の方だろう、聞いたこともないような咆哮が響いた。距離があるせいで明瞭には聞こえなかったが、それはリュークを腹の底から震え上がらせた。心臓の音が、ぐんと早まる。今まで自分が聞いたことのあるどんな獣の声とも違うその声に、若き盗賊はぞっとするほどの寒気を感じていた。更に、建物が崩れるような音、人々の叫び声などもかすかに聞こえてくる。

――何なんだよ、一体、何が起こってんだ。

壁に背中をつけるようにして、そろそろと歩を進めていく。目的は宝物庫だった。情報屋のヴィトがどこかから手に入れた地図を見せてくれたから場所は分かっている。厨房からはそう遠くない。しかし今となっては、頼まれた仕事を続ける必要があるのか、定かではなくなっている。先程の兵士の言葉や、恐ろしい咆哮などが気になって仕方なかった。リュークは不安に駆られながら、それでもゆっくりと歩き続けた。恐ろしい予感がしてはいたが、彼は歩みを止めなかった。恐らくは、彼自身の好奇心がそうさせたのである。

そのリュークの耳に小さな音が聞こえたのは、やはりもう引き返そうかという本気で考えだした頃だった。音に過剰な反応を示したリュークは飛びあがり、思わず剣を抜いた。冷たい汗が顔の横を伝う。

すぐ横の部屋だ。リュークは緊張して喉を鳴らし、そっと中を覗いた。やたらと広いが、部屋のしつらえからどうやら子供部屋らしいと思えた。用心しながら部屋の中に入っていく。もちろん剣は構えたままだ。

「だれ? セレストお兄ちゃま?」

突然、か細い問いかけがあった。あわや叫び声を上げてしまうところだ。破裂しそうな心臓を抑えて身構えたが、声の主は、この部屋の持ち主くらいであろうと思われる子供だった。大きなおもちゃ箱の後ろから、小さな頭が覗いている。

「お、俺か。俺はリュ、グ、グレイ」

「変な名前ね」

「いや、グレイだよ」

うっかり本名を名乗りそうになり、慌てていつもの偽名を口にする。

「……あんたは? この部屋の主か」

「あたし……えと、私はルセール王の娘、サーナ」

「こ、皇女様かよ!」

「しいいいいいいっ! 大きな声だしちゃダメ! お兄ちゃまが、静かに隠れてなさいって言ったんだもの!」

慌てた様子で両手を振っているのは、幼い少女だった。紫色を帯びた赤髪は腰のあたりまで美しく波打ち、細い金鎖で飾られている。すんなり伸びた褐色の手足が愛らしい。しかし何より印象的なのは、その可愛い顔からこぼれてしまいそうなほど大きい、紅色の瞳だった。光の加減によって紫にも、群青にも見える。その不思議な目で彼女はリュークを見つめ、手招きした。不審に思う気持ちを隠し切れずに、しかしそれよりも好奇心に打ち勝てず、リュークは剣をしまって少女の隣、大きな箱の陰に座り込んだ。

「で? なんで隠れてんだ」

「お兄ちゃまがね、『ここにかくれてなさい』って言ったの。それに、ダナステアが……あ、侍女よ。ダナステアがね、ようすを見てきますって。おへやから出ないでくださいって。町にりゅうがきたんだって、さっきへいたいが言ってたから……。ひじょうじたい? なんだって」

サーナは真面目な顔だ。何度も、大きな瞬きをする。長いまつげは、ぱちぱち、という音が聞こえて来そうだ。その瞳に邪気はない。リュークは、自分が少女の大きな瞳に見入っている事に気づいて苦笑した。

――俺は子供相手に……いや、それより竜だって? 嘘だろ。本当にそんなもの、いるのかよ。でもそうするってぇと、さっきの兵士が言ってたのは嘘じゃなかったんだな。どうもぴんと来ないけど、とにかく、とんでもねえ時にきちまったのは確かだな。

「ねえ、グレイはどこから来たの? お城の人じゃないよね。誰なの? どこから来たの? ねえねえ」

「問題は俺がどこから来たかより、これからどこへ行くかだよ」

「グレイ、どっかいっちゃうの?」

「昔の人は偉かった」

「え?」

「意外と学ぶ事が多いんだぜ。古人曰く、『三十六計逃げるにしかず』ってな」

軽く片目をつぶってみせる。そしてリュークは、サーナが再び口を開く前に部屋から姿を消していた。

「さんじゅーろっけい……って何?」

サーナはしばらく首を傾げていた。が、一人にされて不安になったのだろう、急にそわそわし始める。彼女が部屋を出ようかどうしようかと思案していると、姿を消したはずの青年が再び現れた。

「あっちはまずい、水路が崩れたのか、厨房近くが水浸しだ。ここも危険そうだぞ」

「で、でもお兄ちゃまがここにいなさいって」

「いや駄目だ。はっきり言うけど逃げた方がいいぜ。とんでもない事が起きてる。誰か……ていうか、なんで誰もいないんだ。皇女をほっとくってどういうことだ」

「たぶん……おかあさまが四ばんめ、で、あたしが十七ばんめだからかな」

どこか寂し気なサーナに、そういうことかとリュークは合点がいった。ルセールの王族は複数の妻をめとる。世継ぎを必要とするため、それは積極的に奨励されていた。サーナの母親は四人目の妻であり、自身は十七番目の子なのだろう。もしかしたら、さほど大事にされていないのかもしれない。

「とにかくここで待ってても……ダナステアだっけ、侍女さんが迎えに来るとは考えにくいな。安全なところへ逃げた方がいいぜ。俺は外へ出る。ここから一番近い出口はどこだ」

「……えと」

「早く教えろって」

「あ、えっと、出口ね、お外に出る……あ、じゃあここを出てすぐ左にまがって、その先のつきあたりを、えっと右にいって、中庭の向こうの……四つあるとびらの、左おくのをあけると長いろうかに出るから、そしたら三つめのかどを右にまがってね」

「おいおい、覚えきれねえよ」

リュークはこの状況に驚愕し、また慌ててもいたが、サーナの言葉に思わず笑ってしまった。身振りを加えて必死に説明するサーナの様子は、いかにもお姫様といった雰囲気で、愛らしい。リュークの返答ももっともだと思ったのか、サーナは首を傾げて提案した。

「サーナが連れてってあげる方がいい?」

「悪いがそうしてくれ。第一、お兄ちゃまがどう言ったか知れないが、もう状況が変わってる。お前も逃げた方がいい。さあ急ぐんだ」

「う、うん」

廊下に出ると、騒音が大きく耳に飛び込んできた。皇女サーナは怯えた表情を見せる。

「大丈夫、この俺様がなんとかしてやるって」

リュークが冗談めかして言うと、大きな目が彼を見上げた。片目をつぶって見せ、「大丈夫さ」と繰り返すと、震えながらもうなずく。小さな手が、リュークの手をぎゅっと握りしめた。

「あそこが中庭よ」

サーナと一緒に走っている途中、彼女が指さす先に目をやると、廊下の続きが庭に面した回廊になっているようだった。庭と言うだけあって、柱の向こうには明るい日差しが差し込んでいる。多くの人間の気配はするが、まだ遠い。何が起きているのかと小走りに歩を進めながら目をこらす。リュークの胸に不吉な影がよぎった。

何かが横倒しになっている。時折装飾として飾られている立派な石像が倒れでもしたのかと、リュークはつまづきそうになったそれの直前で踏みとどまった。

――なんだ? 黒い……。

柱のような、太く大きな円筒に見える。ルセール王宮では壁や柱は漆喰で塗られていることが多く、それらはみな白い。リュークは珍しい黒のそれが柱なのか石像なのかと根元の方である中庭へ目をやり、髪をかきあげかけた恰好のまま、凍りついた。青灰色の目が見開かれている。サーナも、小刻みに震えながら動けなくなっていた。中庭に面する回廊の一番端で、二人は恐怖そのものに対面しようとしていたのである。

ルセールの兵士たちは懸命に戦っていた。否、それは戦いと呼べるようなものではない。果敢に突きたてようとする槍も剣も通用せず、その硬く分厚い鱗に傷一つ付けることが敵わなかった。金属製の鎧も、鎖で編んだ帷子かたびらも、炎の前には役に立たない。

広い中庭をほぼ占拠している「それ」が長い胴体をよじると、リュークの足元から尾の先が消えた。その動きを思わず目で追う。尾は一度高く上がると、素早くたたきつけられ、石柱の砕ける轟音が響いた。飛びあがらんばかりに動転したサーナの唇がわななく。

二つの真っ赤な瞳が燃え上がり、大きく裂けた口に熱気がこもっていく。多くの兵士が本能的に身をひるがえして逃れようとしたが、次の瞬間、そのほとんどが炎の向こうにかき消えた。リュークたちは竜の背後にいてなお、顔を背けざるを得ないほどの熱が押し寄せる。気づくと、炭のような亡骸が中庭の奥に折り重なっていた。焦げくさい悪臭が鼻をつく。

「いやあ!」

サーナの甲高い叫びが、空気を切り裂く。大きな頭部がこちらを振り向く直前、リュークはサーナの口を押さえ、体を抱きかかえるようにして太い柱の陰に飛び込んだ。サーナの大きな瞳はより大きく見開かれ、頬を伝う熱い涙がリュークの手を濡らす。リュークは息を殺し、柱にぴったりを背中をつけて目を閉じた。

――頼む頼む頼む、見逃してくれ!

竜に頼みごとをするなど馬鹿げていると、頭のどこかで冷静に思いながらも、リュークは祈りを繰り返した。指先が凍るように冷たいことにも気づかない。ただひたすらに柱の向こうに神経を集中させる。切れそうに鋭い緊張感と、痛いほどの静寂があたりを支配している。

実際にはほんの短い時間だったのだろうが、リュークにとっては永劫と思えるほどの時間が過ぎた後のち、低く、呻くような唸り声が聞こえ、次いで翼を広げるような気配があった。

王都マイオセールに破壊と死をもたらした悪魔は鱗に覆われた体を震わせ、身悶えるようにして漆黒の翼を開いていった。体の上で大きく広げ、力を込めると、翼がゆっくりと揺らぎ始める。羽ばたきが大きくなると同時に、風がまき起こった。あたりに散らばっていた兵士の兜などが引きずられるように動き、騒がしい音を立てた。持ち主はもはや誰も生きてはいない。風とともに土埃が舞う。巨大な翼が力強く上下し、後ろ足が地面を蹴ると、風を切る音とともに巨体が宙に浮く。浮き上がる速さは増していき、十を数える間もない内に上空に達していた。何度か旋回すると、黒き破壊者はどことも知れず飛び去っていった。

そこまで動かずにいたリュークは、もう大丈夫だろうと思った途端、一生分のため息を吐き出した。同時に、ぎゅっと抱いていた幼い皇女を解放すると、サーナはそのまま地面に崩れ落ちた。

「お、おい」

頬を濡らした涙もそのままに、皇女は失神していた。長い髪がかかった顔は青ざめている。

出口さえ分かれば、後は安全な場所に彼女を向かわせようと思っていた。だが、安全な場所などあるのだろうか。城の者たちが生きているのか、どこにいるのか、何も分からない。王族なんかにこれ以上関わっていたいとは思わない。だが意識を失った皇女をこのまま置き去りにするのは躊躇われる。リュークは判断に苦しんだ。

城下町は悲惨な状態だった。町全体が損害を受け、家々はその一部や全体が崩れているものも多い。火はまだ燃えているところもあり、消し止められたところでも煉瓦の壁に焼け焦げた跡が残った。あたりには数え切れぬほど犠牲者の体が横たわり、ものの焼ける臭気が鼻をついて吐き気をもよおす。ラナの木や王宮も、炎に焼かれたその姿を無残にさらしている。いつもの渡り鳥の鳴き声も今はなく、遠く地平線が崩れた壁の向こうに見えていた。残された人々は一様に無気力である。ある者は家をなくし、ある者は家族や愛する人を失ったのだ。彼らは悲嘆か途方のどちらかにくれながら座り込んでいた。人々の間を縫って歩くリュークは、左手に少女の手を握りしめていた。

青年に連れられた幼い少女は明らかに人々と違った装いだった。リュークの上着をその肩にかけられてはいたが、注意深く見れば平民ではないとすぐに分かるはずだ。だが人々は自分たちの置かれた状況に対して、ただ、呆然としていた。誰も、目の前をとぼとぼと歩いていく少女が自分たちの皇女であるとは思わないようだった。

彼らの前に現れたものは、一体なんだったのだろうか。お伽話や幼い頃の寝物語、はたまた吟遊詩人の歌や語り部の伝説に出てくる「あれ」によく似ていた。まさか生きた、動いている「あれ」が目の前に出現したなどとは……。この日起きた諸々の出来事が現実などとは信じられない。けれど、それはやはり現実なのだろう。眼前に広がる光景を見れば、信じざるを得ない。人間の力が及ぶ範囲をはるかに超えた現象だった。惨憺たる城下町と多くの犠牲者が、それが現実であることを証明していた。

ヴィトの家の扉を叩いてみたが、中から名を問う声はなかった。鍵もかかっていない扉を開けると、家はもぬけの殻である。崩れかけた部屋に一瞬ぞっとはしたが、死ぬようなやつだとは思えない。よく、精霊があれこれ言っているだとか、私には分かっていただとか、そんなようなことを言うヴィトだ。こうなることも分かっていたのだろうか。いやさすがにそれは無理か。いずれにせよ、あいつがそう簡単に死んだりするはずがない。運が良ければ再会することもあるだろう。リュークはそう自分に言い聞かせた。

――しかし……皇女、か。俺の手には負えねえんだけどな。

冷たい表情でサーナを振り返る。だがリュークはその顔を歪めた。

「仕方ねえ。俺も、お前さんをほっとけるほど堕ちちゃいねえよ」

夕刻。町のあちこちから、細い煙が立ち昇っている。普段ならそれは夕餉の支度のものであり、平和の象徴でもある。だが今は、大切なものを失った人々の涙すら吸い取るかのような悪夢の煙だった。嵐が通過した後と見まごう町に、焼け焦げた木の匂いと埃っぽい空気が漂っている。その背景には、割れた水がめや横倒しになった荷馬車、風で飛ばされた扉代わりの厚い布などが散乱している。家の庭先で果樹が折れ曲がり、道端には壊れたつぼがいくつも転がっている。マイオセールの惨状を示すそれらの上に、ハーディスは一日の最後の光を注ぎかけていた。煙や埃に陽光が当たってきらめく。皮肉にも、その光景にはある種の美しさがあった。

そしてまた、そこには人々の強さが徐々に浮き上がってきていた。マイオセールの民はようやく衝撃から醒め、自分が出来る事に手をつけ始めている。傷を癒せる者のところへは治療を求める者が次々と訪れ、もう二度と目覚めることのない犠牲者は台車に乗せられ、街の外に運ばれていく。男たちは崩れた家々をなんとか修復しようとし、女たちは食料の確保や片付けに追われていた。彼らの目は、悲しみを浮かべながらもやらねばならぬ仕事に向けられ始めていた。

マイオセールは、平坦な荒野に作られた円形都市である。家々の集まる市街地から離れるにつれて家はまばらになり、町の大通りがそのまま街道となって街の外へと続いている。ルセールが建国されてから、大掛かりな軍隊などに攻め入られた事がないからこそ、この作りのままで問題がなかった。

首都マイオセールから北、南西、東に向かって、わずかな水路を辿った三本の街道が整備されている。この街道以外を旅人がやってくる事はない。水もなく、気温も高い荒野を旅するだけで体力のほとんどは消耗してしまうのだ。果てしなき荒野は、その存在だけでマイオセールを外敵から守っているとも言える。

幼い皇女は、ある日突然現れた男に手を引かれ、歩いていく。今までの短い人生のすべてを、彼女は王宮の中で過ごしてきた。自らを守る術は何一つない。ほとんど何も知らない相手ではあったが、今の彼女に出来る事は、この青年についていくことだけだった。冷涼な夜風が顔をなでる。星が、広い空に瞬き出している。皇女はうつむいていた顔を初めて上げ、空を見つめた。涙が流れてしまうだろうか。そう思って一瞬たじろいだが、不思議な事に彼女の瞳は潤まなかった。サーナは顔を元の位置に戻し、小さな顔にまとわりつく髪を手で払った。目を伏せ、何を見るともなしに足元に視線を向ける。足のすぐ先を、小さなトカゲが素早く通り過ぎていった。普段の彼女なら悲鳴を上げて侍女に飛びつくところだが、今のサーナはそれを虚ろな瞳で見つめるだけだった。

幸い、そこまで寒くはない。ハーディスが地平線の向こうにその姿を隠してからも、リュークとサーナは歩き続けた。だがしかし、馬も無しに強行軍で、というわけにはいかなかった。幼い皇女の歩みは遅々として進まない。サーナの足がもつれて転んだのをきっかけに、リュークは腰を落ち着けることに決めた。

灌木の根元の小石を取り除き、なんとか居場所を確保する。リュークは腰から肩にかけて結んだ紐を外し、背負っていた袋の口を開けた。干し肉のかけらと水筒代わりの木筒を取り出すと、サーナにそれらを渡し、口にするように言う。リュークは自分でも干し肉にかじりついた。サーナはしばらくその様子を見ていたが、やがて恐る恐る、干し肉に口をつけた。初めて食べる、固い肉。その固さと塩辛さに眉を寄せながら、サーナは懸命にそれをかじった。

そこらの木切れを使って火を起こすと、リュークは言葉少なに眠るよう指示した。野宿という初めての体験に戸惑っていたのか、サーナはしばらくその大きな瞳でリュークを見つめていたが、やがて疲れが彼女を眠らせた。焚き火の向こう、紫紅色の瞳がゆっくりと閉じられていく。

「お前、これからどうする……?」

リュークは小さく呟く。それは眠りかけた幼い皇女に対する問いかけなのか、それとも自分自身への問いかけなのか。

マイオセールから離れてしまえば、目に入るのは所々に背の低い木が生えているだけの果てしもない荒野である。明日からの旅程を思い、リュークは嘆息した。遠く遠く、かすかな波の音が聞こえる気もする。火の晩をしながら、リュークは自分の考えに深く沈んでいった。

悩みを抱えたまま、リュークは街道を辿っていた。当面の問題は、皇女をどうするかである。盗賊の仕事をして生きていくのに、これほど扱いに困るものはない。信頼できるヴィトも見失ってしまった。首都マイオセールは混乱に沈んでいる。まずは先立つものが必要だ。幸い、城の宝物庫に戻すつもりだった首飾りがある。売り払うには城下町でない方がいい。徒歩でも、一両日あればアンワールの町に着ける。あそこなら盗賊ギルドがある。知り合いもいる。当面落ち着ける場所を見つけられるはずだ。

リューク達の移動はゆっくりとしたものだった。皇女がすぐにへたり込んでしまうからである。休み休み歩いてはいたが、サーナの白魚のような小さな足は赤くなり、まめが出来て、皮がむけて血が滲んでいた。引きずって進むわけにもいかない。彼女を背負っていくらか歩いてはみたが、そうそう進めるものでもなかった。八歳の少女は、何時間も背負ったまま歩けるほど軽くはない。若き盗賊は足を止めるたびに、肩をすくめた。少女はそれに対し、悪びれた風もない。ただ目を伏せ、足を押さえて座り込む。そして無表情のまま、黙りこくって目を逸らすのだ。一旦こうなると、リュークがなだめても怒っても、どうしようもなかった。

大陸南部を東西に繋ぐ街道筋にはいくつかの小国やルセールの自治領があり、それぞれの領主が城を中心とした土地を統治していた。追いはぎや野盗などとは滅多に遭遇する事のない、安全な街道。リュークがこの街道を選んだのは、そういった理由からだった。だが思ったよりずっと時間がかかり、アンワールの町の入り口に立った時には三日が経過し、なおかつ濃い夕闇があたりを染め始めていた。尽きかけた食料を思い、リュークはようやく安堵の息をついた。

ルセールの首都マイオセールから南東にあるこの町は、ルセールの貴族であるアンワール=サルヴィの城と宿場町のある土地である。町には地下水の泉が湧き、水にはそれなりに恵まれている。アンワールはここで自領地を治めながら、街道筋の治安維持に努めている。とは言え、最近のアンワールは私腹を肥やすのに忙しいようだというのがもっぱらの噂であった。

「おい、頼むぜ? 俺が帰ってきた時、この子がもし……」

「いやぁねリュークったら。あたしがあんたの言いつけ守らなかった事ないじゃない。ね?」

「分かってるって。念を押しただけさ」

「でもリューク、どのくらいで戻ってくるのさ? こんな小さな子、娼家にそう何日もおいてやれないわよ」

「それも分かってるよ。一仕事してくるだけだ」

「それならいいけど。その代わり、帰ってきたらあたしと」

「もちろん、俺はお前に会いに来たんだから。この子は口実さ」

首や手足に宝石付きの飾りをつけたジェラシュ地方の女は満足そうに微笑んだ。ゆったりとした服に革製の帯をきつく巻いているので、細い腰がより際立っている。髪は艶々と美しく、浅黒い肌には香油が塗られていた。部屋の床には柔らかな敷物が敷き詰めてあり、壁には透けるような布が幾重にも垂れ下がっている。サーナは香炉から立ち上る煙と、きつい脂粉しふんの香りに顔をしかめていた。

大きな町の歓楽街や、この町のように旅人が行きかう宿場町には娼家が多い。一般家庭では滅多に見ることが出来ない風呂に入れるのが特徴で、ひいては大衆的な娯楽場ということでもある。多くの奴隷が召し抱えられていて、客の食事の相手をしたり、様々な世話をしたりする。更に上級の女奴隷もいて、多いところでは十数人以上が寝泊りしている。彼女らは奴隷ではあったが、特に「遊女ラハブ」と呼ばれて珍重された。扱われ方は非常に丁重で、個室を与えられ、気に入った客を部屋へ呼ぶ事も出来る。客がいくら誘っても、気に入らなければ首を振ればいい。ここでは、男の客よりラハブの方が優位なのだった。今リュークがいるのは、そういった個室の一つである。

「ふふ、嬉しい。リュークは滅多に来てくれないから」

「俺も忙しくてな」

「そんなこと言って、本当は」

女に最後まで言わせはしない。女の腰に手を回し、同時にもう一方の手を女のあごにかける。しかしそこでサーナの事を思い出した。いかん、子供に見せるもんじゃない。リュークは立ち上がると、額に落ちた長い前髪を右手で軽くかきあげた。

「じゃ、頼んだぜ。ギルドにも顔を出さなきゃなんないしな」

「商人ギルド?」

「ああ、まあな」

盗賊ギルドだよ、と言う言葉を飲み込んで、リュークは部屋の扉を後ろ手に閉めた。後に残されて不安げなサーナは、ラハブと視線を合わせぬようにして膝を抱える。部屋の隅で小さくなっている少女を眺めやったラハブは、面倒そうに鼻を鳴らした。

夕暮れ時の町には、むっとするような熱気が満ちていた。レフォア歴では冬だが、ルセールでは収穫季でもある。この鬱陶しい湿気さえなければ非常に良い季節だ。北のような豊かな四季はないが、ルセールの収穫季は乾季に比べてずっと過ごしやすい。

――一年中収穫季だったらな。

晴れ渡る空を見上げて、リュークは笑った。ラハブと会ったリュークはほっとしたのか、ほんの数日前に起こった事件も、もはや過去のことと言わんばかりだ。切り替えは早い。小さく歌を口ずさむほどだ。

その路地を知っている者は、余程火急の用事でもない限りここを通らない。危なくて近寄れやしないからだ。路地の半ば程にある建物近くには、物騒にも短剣を弄んでいる男が立っていた。二本の短剣を投げ上げては持ち替え、時折服で磨いたりするところは、いかにも扱いに慣れているごろつきといった風体だ。その眼光の鋭さは、男が只者ではない事を予感させた。その男にリュークは軽やかな足取りで近づいていく。リュークに気がついた男が短剣を利き手に持って身構える。が、次の瞬間その相好が崩れた。

「なぁんだ、リュークの兄貴じゃないっすかぁ。珍しいですねぇ」

「ようイヴン。ギルド長はいるかい?」

「ゼルアルの親父だったら、今は忙しくてギルドなんかでゆっくりしてる暇はないっすね」

「どういうこった」

「ワリードさんが来てますから、詳しくは下でどうぞ」

地下へと続く薄暗い階段を降りると、ごく狭い通路で男が椅子に座っていた。壁ぎわに置いた椅子に腰かけ、壁に上げた足が通り道を遮断している。体つきはがっしりしていて、むき出しの腕もリュークの倍は太そうだ。波打つ硬そうな黒い髪の下から、やはり黒い目がぎろりと見上げる。

「……何か用か」

「ああ、ワリードに話があるんだ」

「俺はあんたが誰か知らねぇし、通していいって話も聞いちゃいない」

「そりゃ困ったね」

リュークは口を歪めて笑い、前髪をかきあげた。それからおもむろに大声を張り上げる。

「ワリード! リューク様のお出ましだぜ!」

「てめぇ……」

のっそりと立ち上がった男はリュークより頭一つ以上大きく、低い天井に頭がつきそうだった。しかしリュークはお構いなしだ。男の両腕がリュークを捕まえようとしたが、それを軽くかわして再び大声を張り上げる。通路の向こうに並んでいる木の扉がいくつか開き、興味あり気な顔がのぞいた。扉が開くと、騒々しいざわめきが通路に流れ出す。多くの部屋ではごろつきどもが呑んだくれているようだ。通路の一番奥、突き当たりの扉が開き、猫背の男が姿を現した。大きな帽子がその頭に乗っている。男は見張りの男のところまでやってくると、その肩に優しく手をかけた。

「こいつはな、一匹狼だとかきどっちゃいるが、ゼルアルの古い知り合いさ」

「きどってるって何だよ」

「よおリューク、久々だな。ご機嫌かい?」

ワリードと呼ばれた男は、のんびりとした口調でリュークに笑いかけた。眠たげな目はどこに焦点があるのかいまいち定かではない。火傷の跡も生々しい右手で、見張りに座るよう指示する。男は不服そうな顔をしながらも、再び椅子に腰掛け、向かいの壁に足を上げた。

「どうかな。こっちこそ、最近はどうなんだい? アンワールの旦那は相変わらず?」

リュークがにやりと笑って見上げると、ワリードはそれに応えてゆっくりと頷いた。

「ああ、ご領主様は相も変わらず抜け荷さばきにご執心だよ。ちょっと前にマイオセールから早駆けが来た時も、兵を集めることすらしやがらねぇ。そうそう、なんでもマイオセールに正体不明の化け物が現れたらしいぜ」

「知ってるよ。たかだか三日前に死にそうな目に遭ったばかりでさ。おかげで今も面倒な事に巻き込まれてるんだ」

「一匹狼って奴は、やっぱり色々と大変そうだな。ギルドの助けがあった方が、お前も仕事が楽なんじゃないか? ……で、今日は何の用だ。ギルド嫌いのお前が珍しいじゃないか」

「用でもなきゃこんな女っけのないとこにゃ来ねぇからな。実は、売りさばいて欲しい品があってさ。ゼルアルに頼もうと思って来たんだけど……あの親父、忙しいんだって?」

「ゼルアルはここんとこ寝る暇もねぇくらいだよ。王都がやばくなっちまったんで荷物が溜まってな、それの処理が大変なんだよ」

「組織って奴は、やっぱり色々と大変そうだな。一匹狼の方が楽だな」

ワリードの仕草を大仰に真似て、リュークは笑った。ワリードは肩をすくめている。

「さて、どうする? ギルド長はいないし……品物、俺が預かろうか?」

「急ぎじゃない。ゼルアルが落ち着いた頃、また来るさ」

リュークはにこやかに笑うとワリードに背を向けて階段を上がっていく。ワリードはそれを笑顔で見送っていたが、リュークの姿が消え、扉の閉まる音が聞こえると、階段を睨みつけて呟いた。

「ちっ、あの野郎……」

一方のリュークも苦虫を噛み潰したような顔で歩いていた。

――ワリードなんか信用出来るかってんだ。あの野郎、言う事とやる事が一致した試しがねぇ。

情報以外には何も得られなかったせいでいらいらする。ワリードの人懐こい笑顔を思い浮かべ、舌打ちをもらした。ふと、美しい女がその目に留まる。一見したところは、一人旅の女剣士と言ったところだ。リュークは途端に笑顔になる。

「こんにちは。アンワールは初めてかな。宿をお探しですか?」

素早く女の前に回ると、微笑をたたえて話しかけた。これで笑顔にならなかった女はまずいない。リュークは自信満々だった。しかし女は突然現れた男を不審げに睨んだ。そういう感じか。リュークはすぐに戦法を変える。後ろ頭をかきながら、照れくさそうに笑った。

「驚かせたかな、ごめんよ。でしゃばりだとは思うんだけど、宿を探しているならと思ってね。ああ失礼、俺はグレイ。よければ君の名前を聞かせてくれないか」

「宿を探してるわけでもないし、名前を言う必要もないわ」

リュークの予想と裏腹に、女は素っ気無く言った。結い上げた深い藍色の長髪は美しく、眉毛をきつく寄せた顔は整っている。小さな唇を引き結んでいるのできつい顔つきになっているが、微笑めばさぞや華やかだろうと思われた。細身の剣を両腰に差し、無駄のない軽装鎧を着ている。リュークの目にかなう美女ではあったが、その素振りは取り付く島もないといった様子だ。短い拒否の言葉に思わず立ち止まりかけたリュークを振り返るでもなく、早足でそのまま立ち去ろうとしている。

――それで追い払えると思っちゃいけないな。

「あんたなんかに用はない、ってところ? だけど……」

「あんたなんかに用はないわ」

真っ直ぐに前を見据えたまま、うんざりした顔で言い放つ。しかしリュークも引かない。彼女の言葉も聞こえていないかのように追いかける。なんのかんのと言いながらついてまわり、追いかけ、追いかけられながら、二人は徐々に早足になっていった。

「ほっといてよ、ついてこないで」

「俄然、興味が出てきたな」

「私は興味ないわ」

「俺はある」

「ついてこないでって言ってるでしょ!」

「そういう態度はいつか痛い目に合うぜ」

ついにはお互いに大声を出しながら小走りになった二人は同時に角を曲がる。お互いにらみ合っていて、曲がった先を見ていない。案の定と言うべきか、角から出てきた人物を避けきれず、リュークは相手ともつれてぶつかり合った。転びはしなかったものの、均衡を崩してよろける。女剣士は転びそうになったリュークにぶつからぬよう身をかわし、つんと顔を背けて歩き去った。

「ちっ、あの女……」

リュークとぶつかったのは、長い外套をまとった男だった。押し殺すような笑い声が聞こえる。リュークは改めてそいつに向き直った。男は手で口を覆って笑いをこらえているようだ。

「くっくっく、リュークも失敗するんだね」

「……ヴィトじゃねぇか!」

「やあ」

男は眼鏡をかけた顔をさらした。細い金髪が風に揺れる。

「『やあ』じゃねぇよ! なんでこんなとこにいるんだ。マイオセールの家にゃ誰もいなかったぞ」

「精霊たちが前々から教えてくれてたんだよ。禍々まがまがしい気配が近づいてくるって。私の方こそ、君は死んだものとばかり思っていたな」

「死の直前までは行ったさ」

「君が王宮に忍び込む日と、精霊達が教えてくれた日が一致していたんだけどね。言うのをすっかり忘れちゃったんだな」

まるで借りた本を返しそびれた、とでもいうような気軽さだ。軽い笑い声をあげたヴィトに怒りを覚える。

「お陰で俺は危うく死ぬとこだったんだけどな」

「ごめんごめん。ついうっかり忘れていたんだよ。悪かったね」

「ついうっかりで片付ける気かよ」

リュークは積年の恨みも込めてヴィトを睨みつける。しかしヴィトは微動だにせず、笑顔も絶やさなかった。眼鏡の奥の表情は読み取れないが、浮かべた笑顔に変化はない。リュークは、今までの経験を思い起こし、「失敗したかな」と思い始めた。そして、しばしの沈黙の末、ヴィトは言った。

「悪かったと、謝っただろう?」

その口元には笑みが浮かんでいるが、目は笑っていない。静かな、しかし冷え冷えとするような響きを持った言葉に、リュークは思わずたじろいだ。リュークが怯える必然性は全くないはずだった。だがヴィトの有無を言わせぬ迫力に気圧されてしまう。もはや謝りたいくらいだった。

「……いいよ、もういい」

「許してくれる? 良かった」

途端にヴィトは極上の笑顔に切り替える。

――全く、逆らえやしない……。

「何にせよ、再会出来たのは喜ばしいね。記念の祝杯でも挙げに行こうか」

「いや、実は連れがいてさ。人に預けてあるんで、そうそう長くは留守に出来ねぇんだよ」

「珍しいね、リュークが誰かを連れて歩くなんて」

「俺だって出来ればほっぽり出していきたいけどな、そうもいかない相手なんだよ。長くなるけど……いいや、歩きながら話そう」

二人は頷き合うと歩き始めた。リュークは人通りの多い街路を好み、ヴィトは逆に裏通りを好んだが、娼家へは結局大通りを通った方が分かりやすい。リュークは人込みをすり抜けるようにしながら、ヴィトを娼家へと案内していく。もちろん、ヴィトがいようがいまいが関係なしだ。相も変わらず、まるで寄せては返す波のように、ヴィトと様々な女の間を行き来している。混雑した場所が苦手なヴィトは嘆息していたが、突然、何かを思い出したようにくすくすと笑い出した。

「何だよ?」

「さっきの事を思い出したんだ。珍しいものを見せてもらったよ。面白かった」

「あの女か。それほど俺の趣味じゃなかったさ」

「そう? それにしては随分しつこく付きまとっていたみたいだったけど」

「別にそういうわけじゃない」

そう言いながら、上着を少し開けてみせる。その内側には膨らんだ財布がいくつも納まっていた。

「仕事してただけさ」

娼家の広間には、富を象徴するかのような噴水があった。ルセール地方でこうして水を流し続けるというのは随分と豪勢なことである。それほど大きくはないが、噴水は昼夜を問わず湧き出していた。広間というより中庭的な作りで、天井は吹き抜けだ。床には分厚いじゅうたんが幾重にも敷きこまれている。四つ角に高い柱が建てられ、二階の回廊を支えていた。二階も一階と同様に回廊型だ。どっしりとした柱には、手の込んだ彫刻が彫られている。これもまた富を誇示する意味合いがあるのだろう。

大勢の客が広間でくつろいでいる。男女の奴隷が食事や酒などを運ぶために、客の隙間をぬって歩いていた。ラハブたちも幾人か広間に出てきて、客とともに食事をしている。ここでは時間の概念があまりない。客は、昼も夜もなく来る。外は暗闇が支配していたが、気温はそれほど低くはなかった。むしろ昼より夜の方が、広間へ出るには適していると言えるかも知れない。湿り気のある涼やかな空気と香水の甘い匂い。灯火があたりを柔らかく照らしている。吹き抜けから見上げる空にはメルィーズが多くの星々を従えて輝いていた。

「リューク、本当にここに預けたのか、皇女様を?」

「そうだけど」

「私は遠まわしに『考えなしだ』と言っているんだけどね」

「余計なお世話だ。……あれ?」

リュークの目に、先程サーナを預けたはずのラハブが横たわっているのが映っている。彼女の傍らには、事もあろうに領主であるアンワールとその側近たちが座り込んでいた。他にも幾人ものラハブが寝そべったり、客にもたれかかったりしておべっかを使っている。宴は今や最高潮といったところで、他の客は広間の隅の方で遠慮がちに飲み食いしているばかりだった。

「察するところ、彼女に預けたわけだね。あの状態では話を聞きだす事もままならないんじゃないかな。で、サーナ様は今どうしていらっしゃるだろうね?」

髪をかきあげながら目を逸らすリュークを、ヴィトは呆れ顔で眺めた。

「しょうがないね、リュークは。昔から、最後は私が始末をつけてあげなくてはならないのだから」

「ぎりぎりまで自分の手を汚すのが嫌いなだけじゃねぇか」

「言うようになったね、リューク。……本当に、随分成長したよ。昔はよく泣いていたのにね」

眼鏡の奥でヴィトの目が意地悪く笑っていたが、リュークは聞こえない振りを装って立ち上がった。酒の注がれた杯を運んできた少年奴隷に小さく耳打ちをして、アンワールの集団を指し示す。渋り顔の少年に銅貨を数枚握らせると、少年は軽く頷いた。そのまま盆を片手に、何気なく宴に近づいていく。

しばらくその近くをうろうろとしている様子はあからさまに盗み聞きをしているようで、リュークは人選を失敗した、と頭を抱えたが、アンワールたちはそんな些末な事は気にもならぬようだった。ラハブに気に入られようと金をばらまき、必死でおだて上げているようだ。ラハブたちの間からしばしばあがる嬌声が、吹き抜けを通って夜空に吸い込まれていく。サーナを預けたラハブも、まるで女王様気分で、男たちに気前よく笑顔を配っていた。

少年奴隷は食器を山ほど抱えて戻って来ると、リュークにひそひそと囁いた。リュークがもう一度銅貨を握らせたので、少年は満足したようだ。再び食器を抱えて店の奥へと姿を消す。

「相手は領主だし、とても席を外せなそうだってさ。酒に酔って絶好調だとよ」

「見れば分かるよ。その程度の事で金を使って勿体ない」

「あいつ、サーナから目を離すなって言っといたのに……」

「それより彼女の案内なしでどうやって個室へ行くつもりなのかな?」

ラハブたちの個室は、広間よりずっと奥まったところ、もしくは二階にあった。ラハブと一緒でなければ、客は個室へ入れないのが道理である。広間の柱と柱の間には衛兵たちが立っていて、勝手に個室へ行けないように見張っていた。しかしリュークは今までの失態回復とばかりに意気込んでいる。

「ヴィト、俺の職業を忘れたのか? 裏口で待っててくれ、すぐに行くよ」

空は美しく晴れ渡り、細いメルィーズが浮かんでいる。夜のしじまが優しくヴィトを包んでいた。このあたりは裏通りになっていて、この時間になれば人影もない。娼家の右隣は油屋、左隣は織物や絨毯を売る店で、今はどちらの裏口も閉められていた。通りは細く、すぐ先で曲がっている。

ヴィトは娼家の裏口から少々離れた木戸の脇に立っていた。身にまとった、長く黒い外套が彼の姿を闇に溶かしている。今日のような夜が、ヴィトは好きだった。少し湿っていて、暖かく、静かで、優しい夜。彼はリュークを待ちながら、物思いに耽っていた。

と、建物の中で騒ぎが起こった。何かが倒れる音、大勢が走る音、男たちの喚き散らす声が一緒くたになって湧き上がる。それまでそこに鎮座していた静寂は一瞬にしてかき乱され、ヴィトはメルィーズを見上げて嘆息した。騒音が急に大きくなったかと思うと、扉を開け放った音が響く。続いてすぐそばの木戸が大きな音を立て、リュークが飛び出してきた。その腕に少女を抱えるようにしている。リュークはヴィトの合図に気づいてほんの少し足を止め、早口で告げた。

「最後でちょいと欲が出ちまった。ヴィトも早いとこ逃げた方がいいぜ。北の門で落ち合おう」

「待ちやがれ!」

「この悪党! ただじゃおかねぇぞ!」

娼家の裏口から数人の男たちが走り出て来た。リュークは彼らの姿を確認する前に駆け出している。その腕に抱えられたサーナは、何が起こったのか分からぬまま、目をきょろきょろさせるばかりだ。二人の姿は衛兵たちが木戸を出る前に路地の角を曲がって消えている。出てきた護衛兵たちはヴィトに目もくれず、口々に悪口雑言を吐きながらリュークを追っていった。ヴィトは再び溜息を吐き、首を横に振る。それから皮肉な笑いが口の端に浮かんだ。

「これだから、詰めが甘いと言うんだ」

続けて何やら小声で呟き、右手で不思議な形を作る。すると、いくつもの淡い光が手の上で踊った。まるで、夜の闇に溶けていたものが、ヴィトの右手に触れて光を持ったかのようだ。やがてその光の動きが収まると、そこに小さな精霊たちが姿を現わしていた。彼らは人の姿に似ていたが、その姿の半分ほどは透けていて、顔はやけに小さく、目が光っている。ヴィトの手の上で踊っていた光は、彼らの小さな目だった。

「私の頼みは分かっているね?」

光の精霊たちは互いに頷き合うと、僅かな光の筋を残して飛び去っていった。ヴィトはそれを見届け、歩き出す。全身を覆う外套を身につけた姿は黒く、闇色に染まっていた。

「……とまあそういうわけで、連中、何故だか俺が見つからなかったらしい。見当違いなとこを探してたのかな。馬鹿な奴らだ」

「それは何より」

精霊たちが捜査を攪乱させたことは言う必要がないので、ヴィトはただ黙って微笑んだ。半月形の、それほど広くはないが居心地の良さそうな部屋である。壁を埋め尽くすように並んだ本棚は勿論のこと、机の上や、果ては床にまで本がうず高く積まれている。ヴィトの性格なのか、非常に明るく清潔ではあったが、とにかく物凄い量の本である。

革張りの椅子に浅く腰掛けたリュークが問う。

「今、ここに住んでるんだって言ったな」

「まあ、間借りみたいなものかな」

「へぇ。ま、何でもいいけどな。本当に預けてっていいのか?」

「構わないよ。というより、むしろ預けていって欲しいね。君に連れまわされたんじゃ、皇女様が気の毒だからな」

いつも通りの辛口だが、その声は飽くまでも柔らかく、優しい。内容的にも反論のしようがない。ヴィトはいつでも冷静だった。リュークは軽く肩をすくめる。

「ま、お姫様を連れて歩いたら仕事にならねぇからな。預かってくれりゃ助かるよ」

サーナは先ほどからリュークの隣に座り込み、目を伏せたまま黙りこくっていた。小さな右手はしっかりとリュークの服の裾を掴んだままだ。ヴィトがその顔を優しく覗き込んだが、何の反応も示さない。

「サーナ皇女、正式に自己紹介もしておりませんでしたね。私の名はヴィト=キルヒア。リュークの古くからの知り合いです。これからしばらくの間、私がお相手つかまつります。快適とはいかないかも知れませんが、我慢していただけますか?」

少女の前にひざまずく。しかしサーナはうつむいたまま、一言も口を利かない。ヴィトの眉が寄った。

「リューク、皇女様は無口な性格なのか?」

「いや。最初に会った時はよくしゃべったよ。まあ……あんな事があっちゃ誰だって無口になるさ」

「それはそうだろうな。とは言え、私は会った時から一回も口を利いて頂いてないんだ。いくらなんでもおかしいだろう」

そう言われれば、とリュークの顔にも不審そうな表情が浮かぶ。

「考えてみれば、俺ももうずっと口を利いてねぇな?」

いつからしゃべらなくなったんだ? と思いながら、サーナを見つめる。少女はじっと空を見つめているばかりだ。ヴィトは、と見返ると、机に向かって何やら探し物をしている様子である。

「ちょっとばかり試させて頂こう」

その手に小さな水差しを携え、ヴィトは再びサーナの前にひざまずく。水差しにはねじれた棒のようなものが数本入れられていた。その内の一本を右手に取ると、左手で空に文字を書くような仕草を見せる。

「何をするつもりなんだ?」

「私は本来精霊使いだからね、こういった術法はあまり得意じゃないんだけど」

「答えになってねぇよ」

「黙って見ていてくれないか」

軽くいなされ、リュークは眉を上げた。こういう時のヴィトはこっちの話に取り合ってはくれない。見守るしかない。ヴィトは眉根にしわを寄せ、何かを念じてでもいるようだ。しばらくすると、先ほど空に書いた文字らしき何かががほのかなゆらめきを持ってその姿を現した。煙のようなそれをねじれ棒で絡めとるようにしたが、すぐに霧散してしまう。ヴィトはその棒をサーナに握らせた。

「サーナ皇女、何か、お言葉を」

サーナはその棒を握ったまま、首を横に振った。ヴィトはしばらく待っていたが、諦め顔で立ち上がり、道具を机に戻す。

「駄目だな」

「何が駄目なんだよ」

「術法は上手くいったのだけどね。どうやら彼女は言葉をくしてしまったようだよ」

「しゃべれねぇってのか」

愕然とした問いに、ヴィトは黙って頷いた。サーナの幼く可愛らしいしゃべりを思い出す。兄や侍女が隠れていろと言ったから、と怖がっていたサーナ。王宮から脱出する道を一生懸命説明してくれたサーナ。だが今は表情もなく、うつむいて首を振るくらいしかしない。王宮兵士がまとめて火だるまにされる場面を目の当たりにした衝撃のせいかもしれない。

「一時的なものかもしれないから、しばらく様子を見てみるよ」

ヴィトの言葉に、サーナは首を傾げた。そして不安そうにリュークを見上げる。リュークは、彼女を安心させようと、自分でも知らぬ内にその頭にそっと手を置いた。

目の前に広がる炎。その向こうに、都の惨状が広がる。逃げ惑う人々。崩れる家々。侍女や兄の姿が炎にかき消されていく。飛び起きると、全身に汗をかいていた。息を切らしたサーナはその小さな胸に手を当てる。動悸を感じ、ぎゅっと目を閉じた。しばらくしてから、ようやく深い溜息を吐く。激しく瞬きをしてみたが、結局止めようもなく後から後から涙が溢れ出す。嗚咽を漏らすこともなく、黙ってサーナは泣いていた。

しばらくすると、気持ちが落ち着いたのか、周りを見渡す。小さな部屋だ。昨日ここで寝るように言われた。寝台の横に小さな窓があり、それが明かり取りになっているようだった。もう昼に近いのだろうか。寝なれない布団だったからか、体のあちこちが痛み、こわばっている。

と、窓から一羽の黒い鳥が飛び込んできた。布団の上に止まると、たたんだ翼にくちばしを入れて整える。そっと手を伸ばすと慌てたように羽を広げたが、危害を加えられるわけではないことを悟ったのか、窓のふちに止まり直した。サーナは唇の端にほんの少し笑みを浮かべて、その様子を見守った。王宮の中庭にも似たような鳥が何羽も来ていた事を思い出す。まだそれほど時間が経ってはいないのに、もうずっと昔のように感じられた。浮かんだ微笑は消え、彼女は物思いに沈んでいった。

「サーナ、お前は僕が守るよ。僕はどうせ王にはなれない。だからずっとお前のそばにいるよ。ねえサーナ、いつかはお前もどこかの皇子様と結婚する日が来るんだろうね。でもね、それまでは僕がお前を守る。どんなことがあっても、僕がいるから大丈夫だよ」

サーナには七人の兄と九人の姉がいる。すぐ上の兄は同じ母から生まれた唯一の兄弟で、サーナは慕ってやまなかった。滅多に顔を見ることもない父王や母よりも、その兄セレストともう二度と会えないのかもしれないと思う方が辛かった。彼女の頬に、再び涙が伝う。

部屋の扉が叩かれる音がし、彼女は慌てて涙をぬぐった。

「起きていらっしゃいましたか。お腹が空く頃合かと思いまして」

姿を現したヴィトの声に応えるかのように、サーナの腹が音を立てる。サーナは赤く染まった顔を恥ずかしげに背けた。

「お腹が空くのは良い事ですよ。さ、食事にしましょう」

そう言って微笑むヴィトを見ると、少しは気が晴れてくる。サーナは食事の準備がされている部屋に向かったが、そこにリュークの姿はなかった。サーナは小首をかしげて、ヴィトの服をひいた。言葉を発することが出来ない彼女の気持ちを察したのか、ヴィトが無言の問いに答える。

「リュークがいないのが不安ですか」

サーナは、首を縦に振った。

「頼みごとをしたのですが、ヴィトの仕事はもうごめんだとか言って、姿を消してしまったんです。皇女のことは頼む、と。無責任な男ですね。まあどうせ引き受けることになるんですよ。私には分かっています。ああもちろん、皇女様は私がお世話をさせていただきます。どうぞご安心ください」

首を傾けたサーナに、ヴィトは眼鏡の奥で目を細めた。

「きっと大丈夫ですよ。あなたに出来るのは、待つ事です。希望を捨ててはいけません。いいですね」

それがどういう意味かは良く分からない。けれど今のところサーナは他にどうしようもなかった。小さくうなずくと、サーナは食卓について食事をとった。

Copyright©, 1995-, Terra Saga, All Rights Reserved.