「それじゃどうも」
「ありがとう、おじさん!」
「世話になったな」
「もう少しましな寝具を買っておけよ」
「はいはい。じゃあお前さんたち、気をつけてな。ラマカサまでは、急げば日暮れまでに着けるはずだ」
宿の親父は四人に向かって大きく手を振った。
四人がイルバを旅立ってから、半年以上の月日が流れていた。季節は冬。凍夜の月に入ってからというもの、頬に当たる風はかなり冷たくなっている。双子は肩の荷物を馬にくくりつけ、自分たちも馬にまたがった。すっかり慣れたものだ。シキは外套を馬の鞍に結んで固定する。そしてエイルを抱き上げると、その上に座らせた。
「いかがですか。多少は具合がいいかと思います」
「うん、そうだな。前よりはいい」
「滑りますので、十分にご注意くださいませ」
イルバではあれほど遠くに見えた山脈も、今はもう手が届きそうなほどだ。大陸を東西に分断するシンジゴ山脈。そのなだらかな稜線の先には見た事もない世界が広がっているのだろう。クリフは胸を弾ませた。手綱を握る両手に力を込める。山脈を越えた先もまだまだ旅は続くのだ。苦労も、辛いことも、恐ろしいこともあるだろう、だがそれは考えないようにした。物事を深く考えないのがクリフの長所である。それは時に、彼の短所にもなるのであったが。
明け方早くに宿を出発した四人は、こぢんまりとした村を抜けていった。緩やかに曲がりくねりながら続く街道は、僅かずつ上っている。イルバ付近ではあたり一面に田園風景が広がっていたが、ここらでは畑の面積はそこまで広くない。人家も徐々に減っていくようだった。今は平らな石が敷き詰められた街道があるからいいものの、馬に乗ったまま山を越えるわけにはいかないだろう。クリフが惜しむように馬の首を叩いていると、後ろからシキの声が届いた。
「すまん、止まってくれ」
クリフとクレオが振り向くと、シキが馬を降り、エイルを抱き下ろしているのが見えた。双子は顔を見合わせ、肩をすくめる。
「またかぁ」
「まだ全然進んでないって」
不満げに言いながら馬を戻らせる。エイルが休憩すると言い出したのだ。こういった、クリフたちにとって早すぎる休憩は、最早日常茶飯事となっていた。
長時間馬に乗っていると体が痛むのだ、というのがエイルの意見だった。それは双子にも共感できることだったし、正論ではあったが、問題は「長時間」という感覚が、クリフたちのそれとあまりにも違うことだった。馬を戻らせると、木陰でシキの外套に座っているエイルが目に入る。クレオの呆れ顔にもめげず、シキに手渡された水筒から水を飲んでいる。クリフはその愛らしくも小憎らしい様子を見ながら、昨夜よりはましかなぁ、と苦笑した。
「私はもう嫌だ」
断固とした口調で言い放った一人を除き、その場にいる全員が溜息を吐く。目の前には湯気の立つようなスープに焼きたてのパン、体を温める酒、瑞々しい果物、脂の滴る肉などが並べられていた。宿の主人が最後の夜だからと用意してくれた豪勢な食事である。エイルはその場の空気を気にもせず、言葉を続けた。
「もう旅立つなんて嫌だ。まだここにいてもいいではないか。そりゃ食事は質素だし、部屋は狭いし、布団は薄いが」
「おいおい、ひでぇな」
宿の親父の言葉にも構わず、エイルはさらに続ける。
「それでも私はまだここにいたいんだ。そんなに行きたいのであれば、もう、お前たちだけで行けばいい」
「あのねえエイル、わがまま言わないでくれる」
「クレオこそ、私に偉そうなことを言うな。私は、嫌だと、そう言っているのだ。もううんざりだ。馬の背に揺られるのも、埃っぽい道を歩くのも。食事だって満足に出来ぬではないか。いつまで続くのだ、どこまで行ったら終わるのだ」
「あのねえ! そもそもエイルのためじゃないの」
クレオはあまりの言葉に腹を立て、いつものようにお説教を始めた。が、エイルは目を閉じ腕を組んで、あさっての方角を向いている。苦笑するクリフには、エイルが文句を言う気持ちも分からないではなかった。もうずっと長い間、彼らは同じような毎日を繰り返しているのだ。双子は十五に、エイルは十三になっていた。
彼らはただひたすら、南へ向かって街道を辿る旅を続けている。シキとエイルを過去の世界へ送り返すだけの魔力を持った魔術師を探しての旅。シンジゴ山脈を越えて、遥か南東にあるという港町コーウェンに大陸一の魔術師が住むという。イルバの領主ダルケスが話してくれた情報を頼りに南へ向かってはいるが、それはいつ終わるとも知れぬ、果てしなき道程だったのである。
一日中馬に乗って、体中が痛くなるのも道理だ。しかもエイルは馬に乗り慣れていない。元々外出などほとんどしない生活だったのだし、稀に外へ出る時は柔らかな羽毛を敷き詰めた輿に乗るのである。そんな育ちのエイルがちょくちょく休みたがるのは仕方のない事だろう。街道沿いの村を辿りながら少しずつ進むしか出来ない旅に、疲れているのはクリフも同じだった。
「だからね、それがわがままだって言うのよ」
「無礼者め」
「はあ……いつまで言う気なの、それ。大体、みんな疲れてるのは同じじゃない。文句言ってるの、エイルだけよ」
「クレオ、ものの言い方に気をつけろ。いいか……」
「そこまでにしておきましょう」
静かな、しかし厳しい声がエイルを止めた。エイルは口を開きかけたところだったが、ぴたりと沈黙する。頬を膨らませたままではあるが。
「親父、騒がせてすまない。そうだ、ここから一番近い街は確かラマカサと言ったな。山の手前、最後の町だそうだが」
「あ、ああそうそう、ラマカサね。かなりでかい町だ。腕に自信のある者が集まるとこでね。あんたぐらいの剣士なら、いいとこ行くんじゃねぇかなあ。あんたらは山越えをして南へ行くんだったな。ラマカサから山までは街がないからしっかり金を貯めて、買い物も十分にしときな」
「ああ」
「しかしこの子、エイルな。育ちがいいか知らんけど、こういう子がいると旅も大変だろう」
「いやその」
「それにその二人もな、まあ見れば見るほどよく似てるよ。気持ちわりぃくらいだな」
「あーそれは」
「ま、俺っちにゃ関係ねぇけども。もう十五になるんだっけ? それならいっぱしの働き手だ。この宿屋の手伝いに欲しいくらいだぜ、はっはっは」
宿屋の親父はシキの相槌など構わずに、言いたいことだけ言うと、太った体を揺すって笑った。歯に絹を着せぬ性格と言おうか、正直すぎるきらいがある。最後の夜にと豪勢な食事を用意してくれたり、エイルの布団を二重敷きにしてくれたり、悪い人間ではないのだが。仏頂面のエイルと、うつむいてしまった双子を見ながら、シキは落ち着かない気持ちになった。
「いやしかし大変だなぁ、この顔ぶれで山脈を越そうとはね。どういう旅か知らねぇが、あんたの苦労は尽きないだろうね、ご苦労な事だ! そうだおい、出発は明日の朝でいいんだったな?」
「あ、ああ。世話になったな」
「いやこっちこそ楽しかった。エイルぼっちゃんにゃなんだかんだと言われたがよ、まああんたらも大変な旅をしてるようだしな、うん。シキさんの苦労が目に浮かぶってもんだよ。あ、そうそう宿代は明朝、出発する時でいいからな」
シキはもう何も言うまいと曖昧な笑みを浮かべたが、親父の言葉尻に内心落ち込んでいた。懐具合を思えばやむを得ない。宿代を払えば無一文に近くなる。旅の途中、立ち寄った村などで雑用を請け負ったりはしていたが、その稼ぎだけでは四人分の路銀に到底足りなかった。本来ならば毎晩の宿は夜空の下、すべて野宿で済ませるべきなのだが、王子と一緒ではそうもいかない。更に、エイルはいつでも清潔な格好でいたがる。服を毎日変えるというのは育ちのいいエイルにとって当たり前だったが、一般的には、それも旅人としてはかなり贅沢なことである。とは言えエイルの申し出をシキに断れるわけもない。食事や宿泊、服などにはシキが思った以上の支出が強いられ、金のほとんどを使い果たしていたのである。
――ラマカサにはしばらく滞在し、どうにかして金を稼がねばならんな。
王子に金の心配などさせるわけにはいかない。シキは気取られぬよう、小さく嘆息した。
イルバからこっち、退屈に思えるほどこの旅は安全だった。レフォアの街道は治安維持もしっかりなされており、危険な事はほとんどないと言っていい。出くわした危険と言えば野犬の群れと強盗くらいである。それも腕の立つシキの活躍で事なきを得た。
「どれだけレフォアが安全か、という事だ。この時代でも国がきちんと機能しているという証拠だな。この時代もレフォア王は良い統治をなさっているらしい。その点は安心だ。……いいか、旅をしていくというのは本来、そう簡単なものではないんだぞ」
退屈というのは幸せなことなのだ、とシキは何度も言って聞かせていた。クリフたちは、言われる度にうなずきはしたものの、やはり物足りなさは否めなかった。危険な目に遭いたいわけではないが、順調な旅は特に何も起こらず、ひたすら歩を進めるのみ。もう嫌だ、いつになったら終わるのか、そう素直に言えるエイルが、クリフはほんの少し羨ましい気もするのだった。
ハーディスが傾き始める頃、クリフたちは本日四度目の休憩を取る事にした。丁度分かれ道になっていて、角には目的地までの距離と方角を示す立て札が立っている。立て札を見て、クリフがシキを振り返った。
「これ、なんて書いてあるんですか?」
双子は旅に出るまで読み書きを習った事がなかった。というのは覚える必要がないからで、田舎の子供としてはそう珍しいことでもない。レフォア国全体の識字率は五割から六割程度である。クリフとクレオの母は子供のころきちんと教育を受けていたが、父親はきこりとして育ち、やはり字は読めなかった。だが、それなりの家庭の子供は読み書きや計算を習うし、貴族の子供であれば家庭教師がいるのが当然。王子であるエイルに至っては巨大図書館がある王宮に住み、専属の教師が十数人いるような環境で育った。エイルと双子との違いは大きい。
「読めないのだったな。困ったものだ、平民は」
「そういう言い方しないでよ。字が読めるからって偉そうに」
「字が読めるから偉いのではない。私は王子だから偉いのだ。もちろん、私は難しい学術書でも読める。勉強したからだ。お前は私より年が上なのに、勉強が足りぬ」
「私、シキに習ったからこのくらいなら読めるもん。えっと、ここから西へ行けばタースク、このまま南へ進めばシンジゴ山脈、その先ルセール。北へ向かう、つまり戻るとレフォアって書いてあるのよね」
「そうだ。よく勉強しているな」
シキの優しい声にクレオは頬を赤らめた。
「クリフはどうだ」
「僕? 僕は……勉強に向いてないみたいだから」
同じく頬を赤らめながら、クリフとクレオではその意味が違うようだ。
街道を辿っていると、旅人にもよく出会う。特に多いのが商人たちの交易隊だ。商人たちは旅の道中、互いの安全を高めるために馬や馬車などを何台も用意する。また彼らは、積み荷と商人の安全を守るために、金を出し合って傭兵を雇う。傭兵がいれば野盗も襲いづらいからだ。そうして大人数で移動する商人の団体は「隊商」と呼ばれていた。
今、クリフたちの前を通りがかったのも、そういった隊商の一つのようだ。タースク方面からやってきたその隊商は、どうやらここで南北二手に分かれるようだ。先頭に立っていた男が傭兵頭のようで、傭兵たちに指示を与えている。商人たちが荷物を積み直し、馬車が北行きと南行きに分けられる様子を見るともなしに見ていると、暇そうにしていた傭兵たちの一人が近づいてきた。くすんだ髪色の傭兵は青銅と革でできた軽装鎧を身に着け、安っぽい剣を腰に差している。
「よう、あんたらどっちへ行くんだ」
その粗野なしゃべり方は、四人にいい印象を与えたとは言えなかった。素早く立ち上がっていたシキが、さりげなくエイルを後ろにかばう。どんな人物とも知れぬ相手を主君に近づけさせまいとするのは、シキの習性になっている。いつでも無意識にやってのける行動だった。
「南へ行くが」
「じゃあ俺と一緒だ。え、どこまで行くんだよ」
「答える義務はないな」
「あぁん? なんだ、冷てぇなあ。別にいいじゃねぇか。なぁおい、何もついてこうってんじゃねぇんだしよ」
「……ラマカサまで」
「へーぇ、今からじゃ急がねぇと日が暮れちまうぜ、ひゃはは」
シキと向かい合うように立っていた傭兵はふと真剣な眼差しになり、腕を組んでじろじろとシキを眺め回した。
「ははぁ、あんた剣士だろ。いい体つきしてんなぁ。それにその剣、すげぇ値打ちもんだな、いや俺には分かるぜ。そんな長いの振り回せるってんなら、よっぽどの腕だね……ラマカサ行くっつったなぁ。んじゃ、闘技場で会うかも知れねぇ。そんときゃよろしく頼むぜ」
そう言ってにやりと笑う。後ろから傭兵頭の声がかかり、傭兵はお呼びだとばかりに去って行った。商人たちに合わせて傭兵たちも二手に分かれ、それぞれ馬にまたがる。四人の目の前を隊商が通り過ぎ、大きな馬車の音がゆっくりと遠ざかっていった。
「こちらもそろそろ出発しようか」
先ほどの傭兵が言った通り、この調子では、日が暮れる前にラマカサへ着けないだろう。しかし、出来る限り歩を進めておきたい。再び道のりを辿り始めた彼らの中で、クリフとクレオが首を捻っている。
「どうした」
「いえその……」
「さっきの人が言ってた、闘技場って何なのかなって」
サナミィのような田舎の村には大きな施設がまったくなかった。一番大きい建物と言えば、二階建ての村長の屋敷である。大きな街には闘技場がある場合も多いのだが、生憎あいにくクリフたちはいまだに見たことがなかった。田舎育ちの双子にとって、闘技場などというのは聞いたこともない単語だったのだ。素朴な疑問に、シキが答える。
「何というか……まあ簡単に言えば戦うところだ。一人対一人で闘い、勝った者に賞金が与えられる。俺の知っている闘技場と同じなら、の話だが。地方によっては賭けが行われるところもあるらしいな。勝ち進めばそれだけ儲かるわけだが、無論それだけの強さがなくてはな」
「それじゃ、シキが出れば絶対勝つんじゃない? 私たち、お金持ちになれるかな」
クレオが興奮気味に言うと、今まで黙っていたエイルが馬鹿にしたようにクレオを睨んだ。
「貴族が出るわけないだろう。あんなのは平民がやるものだ。まあ、見世物としては面白いけどな」
「何よ、えっらそーに。どうせあんたなんか出たって一回も勝てないから」
「なんだと」
馬上で睨み合う二人に、シキが仲裁に入る。
「貴族が出てはならんという決まりはないが、場違いというかなんというか……。騎士には王宮での正式な儀式や祭典がある。腕試しはそちらでやるものだ」
「そっか。……うーん、想像も出来ないなあ。今はこうして並んでるけど、シキもエイルも本当はお城にいてさ、俺たちなんか口も利けなくてさ……って、こういうのは外で話さない方がいいんだよね」
「まあ今はいいが、人のいるところではやめておいた方が無難だろうな」
シキはそう言って笑う。このところ、シキがよく笑うようになった気がする、とクレオは思った。レフォアの城下町やイルバで再会した頃は、シキはいつも考え込んでいて辛そうだった。しかし近頃は、こうして笑うことが心なしか増えたような気がするのだった。クレオは心の中でそっと呟く。
――笑ってる方がいいな。やっぱり。
「シキ、喉が渇いた」
と、クレオの思考に割り入った声の主は当然エイルである。体を捻ってシキに馬を止めるよう指示している。クレオは空を振り仰いだ。吐き出した息が、広々とした冬空に吸い込まれていく。
ひんやりとした夜が、ひそかに忍び寄ってきている。左手には広がる空に夕焼けが滲み、右を見れば地平線近くに小さな星が輝きだしていた。遥か遠くまで緩やかに続いていく丘、その間に畑や街道が見え隠れし、家々が寄り集まった小さな村もぽつんぽつんと見える。行く手には、シンジゴ山脈が黒々としたその姿を横たえていた。
「まだか。この私を寒空に放り出したままで」
天幕を張ろうとしているクリフとクレオに向かって言うが、返事が返ってこない。シキは薪を拾いに行っているし、双子は食事の準備や荷物の整理に忙しい。故意に無視されているようだ。構っている暇はないという態度が癪にさわる。しかしそういうことを口にするのもまた腹立たしい。
――別に、構ってほしいとかそういうことではない。
「まだ出来ないのかと聞いているのだ」
クリフもクレオも、聞こえない振りを装っている。エイルは、ひときわ声高になった。
「レフォアの王子たる私が、お前たちに合わせて野宿してやるというだけでも、大変な譲歩なのだぞ。これだけお前たちに合わせてやっているのだから、私の座る場所くらいさっさと提供したらどうなんだ」
それでも双子は答えない。負けてはならじと、エイルはいよいよ早口でまくし立てた。
「まったく、王子たる私が野宿だなんて。信じられないな! 土の上に寝るだなんて。机について食事もできぬ。ひどいものだ。ああ私は惨めだ。運命の神クタールよ、レフォアの守護神にして知恵者であるバダッフよ、こんな事が許されていいものなのだろうか」
「ちょっと!」
「なんだ」
「なんだ、じゃないでしょ。いくらなんでも言いすぎよ。辛いのはみんな同じだし、旅暮らしにもいい加減慣れてよ」
「分からんやつだな。みんな同じだと? 私とお前たちが同じでいいものか。そっちこそ、いい加減に階級というものを理解してわきまえろ。何も羽根の布団や絹の服を用意しろとは言わぬ。座る場所も用意せず、王子たる私の言葉を無視して放置するなど、言語道断だ」
「だからぁ……。何度言ったら分かるのよ。そんな暇ないの。座りたいなら、自分でやればいいでしょ。外套でもなんでも敷いて、座ればいいじゃない。大体あんたの休憩が多すぎるから結局野宿になったじゃない。こっちは食事や寝床の支度してて忙しいのよ、むしろ手伝いなさいよ」
「こ、こいつとはなんだ! この私に、なんという口の利き方だ」
「クレオ、まあいいじゃない。エイルは本当に王子様だもの」
「何言ってんのよ、クリフまで。偉いからって何言ってもいいって事にはならないわよ」
怒り心頭といった様子で、クレオは声を張り上げた。当のエイルはといえば、それを無視して出来上がった天幕の中にもぐりこむ始末。それを見たクレオは怒りに震えている。と、そこへシキが帰ってきた。
「クレオ」
「あ……シキ、お帰りなさい。あのね、えーっと、私」
しどろもどろに言い訳をしようとするクレオの耳に、シキは小さく囁いた。
「クレオの気持ちは分かる。実際、俺もエイル様の対応には手を焼くことがある」
驚いたように目を見開くクレオに、シキは片目を素早くつむって見せた。
「だが、王子としての誇りがそうさせる。エイル様にはエイル様の立場があり、それはクレオと同じではないのだ。分かってくれというのは難しいだろうが……」
シキの深い緑の目に見つめられると、どうにも落ち着かない。うつむいたクレオをのぞき込み、クリフが無邪気に慰める。
「何だよ、そんなに落ち込むなよ」
「……馬鹿っ」
「何で俺が馬鹿なんだよ?」
「いいの! ほら、薪に火をつけなきゃ」
慌てて食事の支度を始めるクレオである。クリフはなんだか良く分からないといった様子で肩をすくめて見せる。シキはその様子を見て微笑んだ。
――サナミィで初めて出会った頃はまったく見分けがつかなかったものだが……。
サナミィでの事が、もうずっと遠い昔のような気がする。子供の成長は早いものだ。相変わらずそっくりだが、双子はそれぞれに変化の兆しを見せていた。クリフはこのところ成長期なのか、よく食べるようになり、背も伸びた。シキが毎日欠かさない訓練も、一緒にやるようになった。クレオは野宿をする時の料理担当だ。限られた食料で様々なものを作る。王宮料理に馴染んだエイルですら、感心する事があるくらいだった。また破れた服を綺麗に繕ってくれたりもした。クリフやシキも繕い物や洗濯はしたが、クレオが一番器用なのは間違いなかった。
双子とは、イルバで再会してからずっと一緒に旅をしてきた。王子であるエイルに加え、旅慣れていない二人を連れての道中は当初、なかなかに大変だった。だが、クリフもクレオも良く働き、その成長も目を見張るものだ。近頃では十分な旅の戦力として役に立つようになり、シキは二人を頼もしく思うようになっていた。
エイルは天幕の中でくつろぎ、クリフとクレオは火を焚きつけるのに夢中になっている。それを見やって、シキは再び顔をほころばせた。質素であると同時に、無駄のない生活。旅の暮らしは楽ではなかったが、シキにとってはたいして辛くもない。レフォアヘ来る前、子供のころはずっとこうして旅をしていたことを思い出す。自分にはむしろ、宮廷暮らしよりも性に合っている気がする。冬の寒さが彼らを包み、焚き火のはじける音とともに夜は更けていった。
一本の街道が、レフォア城下町から南へと出発する。とりあえずの到達点はシンジゴ山脈だ。山脈を越えた向こうは砂漠、そしてルセールである。山脈付近は荒れ地で、人家もかなり少なくなる。ここに、旅人たちが必ず足を止める大きな街がある。それがラマカサだった。山脈のふもとにあるこのラマカサで、人々は旅の鋭気を養ってから山を越えるのである。
「わあ」
「綺麗!」
まるで大河のような幅の大通りが彼らの前に延びている。その光景を見ていると、今までの荒野が夢のように思えてくる。規則正しい建物の列と、等間隔に植えられた街路樹。均整の取れた美しい町並みが彼らの前に広がっていた。シキはひとまず安心し、双子は早速色々見て歩きたいと言い出した。いつもは仏頂面のエイルも、珍しくはしゃいでいる。
「シキ、ここにはしばらくいると言ったな? な?」
「そうですね。まずは宿を探さなくてはなりませぬ」
「よかろう。ではシキは私と宿を見聞に行こう。いい宿を探そうな」
「はっ。では、クリフたちは買い物がてら町を見物してくるといい。遅くとも日暮れの鐘までにここへ戻ってくるようにな。危なそうなところへは近づくなよ」
「はーい」
「もう子供じゃないから!」
レフォアでさらわれたことを忘れたか、とシキは苦笑する。だが確かに、今の二人ならそうそう簡単にさらわれたりはしないだろうという安心感もあった。手を振ると、二人もそれに応えて手を振った。
シキとエイルと別れると、クレオはすぐに服屋を見つけて入っていった。クリフは一緒に行こうかなとも思ったが、少し考えるとそれを止め、町の中心部へ向かって歩き出した。
――本当に、綺麗な街だなあ。
きょろきょろあたりを見回しながら歩いていると、うっかり誰かとぶつかった。相手がひらりと身をかわしたので、クリフは勢い余って転んでしまう。もんどりうったクリフに手を差し伸べたのは、革の胸当てを身に着けた女だった。
「前見て歩きなよね」
二十歳前後くらいだろうか。短く切った茶の髪は日焼けして、それが彼女によく合っていた。余計なものは身に着けていない格好。もう冬だというのにすらりとした腕や足が露出されていて、つい目を背ける。何故だか、見てはいけないもののように思えて気が咎めた。
「す、すみません」
「あたしはいいけどね。前見て歩かないと田舎もんってばれちゃうよ」
明るく笑う。悪い人じゃなさそうだな、とクリフは思った。軽く手を挙げて行こうとする彼女に、思い切って声をかける。
「あ、あの、俺こんな大きな町初めてで……だから何がなんだか……その、もしよければ案内してもらえませんか」
「やっぱり!」
「え?」
「い・な・か・も・ん!」
「……」
「あ、ごめんごめん! 馬鹿にしてるわけじゃなくって。知らないことを知りたいって思うのはいいことだし、そうやって人に頼めるのもいいことだよ。案内、喜んで引き受けるよ。さ、行こう」
さっぱりした口調で言うと、姿勢よくさっさと歩き出す。クリフは慌てて後を追った。追いついて初めて、彼女が自分より背が低いという事に気づく。
――背が伸びてるんだろうか。そういえばここんとこ、足が痛いと思ってたけど……。
夜、体のあちこちが軋きしむように痛む事がある。シキに相談すると、成長期にはよくある事だと言われた。考えてみれば、城下町では、人々の間から前が見えにくくて困った。けれど、今は視界が広い。自分の身体が確実に成長していることを、クリフは驚きとともに実感していた。
「……で、あの奥の大きな建物が闘技場よ。それでもってこっちの店を曲がると……ほら、さっきのとこに戻ってきた」
最初に二人がぶつかったところまで戻って来ると、彼女は両腕を腰に当てて「ね!」と笑った。サナミィのあるマグレア地方では見かけない顔立ちに、異国の香りがする。晴れやかな笑顔を見ていると、何だか自分まで笑顔になってしまう。彼女についていくつもの通りを歩いたが、朝から馬に乗り続けて疲れていたことを、クリフはいつしか忘れていた。それだけ彼女に案内されて街を歩くのが楽しかった。
「こんなとこかな。とにかくここは店も多いし、武器や防具を買っておいて損はないと思うよ。そうだ、武器で思い出したけど、あんたは仕事、何をやってるの?」
「仕事って……」
「職業さ。あたしは、もう言ったっけ? 戦士、武闘家って奴なんだけど」
「えっと」
「旅してきたんだよね。じゃあ仕事がないって事はないでしょ」
「……?」
「一緒に旅してるお兄さんが剣士なんだっけ。じゃあその人に頼りきりってとこ? まあしょうがないかな。見たとこ、まだ十五、六ってとこだしね」
そのままじゃこの先大変だよ、と彼女は続けた。クリフは何がなんだか分からずに鼻の頭をかく。年上なのは間違いなさそうだが、しかしそれほど変わらないだろうと思った彼女に子供扱いされてしまった。馬鹿にしているような調子ではないが、呆れているようではある。何を言えばいいのだろう。シキに頼り切っていたのは事実だ。父は狩人だったが、自分もそう言っていいのだろうか。職業としてどこかへ届けたりしたことはない。
何を言えばいいのか分からずにいると、日暮れを告げる鐘が鳴り始めた。耳に心地いい音が、暮れなずんだ茜色の空に響いている。
「日暮れには戻るって言ってたっけ。じゃあ一旦これで。食事を済ませたらそこの酒場へおいでよ。旅の心得とかについても話したげるから。どう?」
「う、うん。あ、いやその、よろしくお願いします」
「そんなかしこまらなくていいって! じゃ、また後で」
酒場の看板を示すと、もう歩き出している。クリフは軽く手を挙げている後ろ姿を見ながら、彼女の名前すら知らない事に気づいた。さっぱりとした性格としゃべり口はクレオにちょっと似ているかもしれない。けれど、クレオとはやはり違う。クリフは首を傾げてしばし考えたが、よく分からなかったので諦めた。待ち合わせの門のところへ戻ると、クレオが手を振っている。
「エイルがお腹空いたとか言ってさ、もう食事始まってんのよ。わがままよね」
「しょうがないさ。俺もお腹空いたなー」
「そうだね、早く行こ!」
「うん!」
腹を満たす食事に暖かい部屋。エイルに言わせれば「野宿よりはまし」という程度らしいが、その宿はとても清潔で綺麗だった。クリフやクレオは人間らしい生活に大満足といったところである。
大抵の宿は、大部屋にみんなで泊まる形式だ。安い宿ともなれば老若男女に関係なく、薄い毛布一枚を渡されて土の床がむき出しの部屋に通される事もある。しかしエイルが探してきたこの宿には、小さいながらも個室があった。老夫婦が、結婚して出て行った息子たちの部屋を貸し出しているのだという。クレオは本当に久しぶりに自分たちで寝られる事になり、喜びを溢れさせた。だが、しかし。
「あのさ、俺、ちょっと出かける」
夕食後、幸せそうに布団に顔を埋めていたクレオは、突然の言葉に驚いて顔をあげた。
「え? 何、クリフ。こんな時間からどこに行くって言うの? もう外まっくらだよ」
「あ、うん。大丈夫。あの、ちょっと……えっとね」
隣の部屋にいたはずのシキが部屋の入り口で笑い声を立てる。
「クレオ、クリフにも事情があるんだろう。行かせてやればいいじゃないか。なあ、クリフ。大事な用じゃ仕方ないよな?」
「そんな、大した用事じゃないけど……」
クリフはもごもごとくちごもる。
「本人が言いたくないことを無理に聞くのは良くない事だな、クレオ?」
「そりゃそうだけど、でも……だって」
「クレオ、俺さ、そんなに遅くならないと思うし」
「どこに行くの、って聞いただけじゃない」
「それは、ちょっと、その辺。……とにかく、すぐ帰ってくるから」
そう言うとクリフはシキの脇をすり抜けて、そそくさと出て行ってしまった。階段を降りて行く足音が遠ざかり、部屋にはシキとクレオが残された。
「何よ、クリフってば。今まで私に隠し事なんかしなかったのに」
「その内きっと話してくれるさ。あまり気にしすぎない事だ」
シキはしばらくクレオをなだめていたが、エイルのお呼びがかかって隣の部屋へと戻っていった。シキの言葉に少しは落ち着いたものの、クレオはどうも納得がいかない。布団の上で、膝を抱える。今までにない、クリフの表情や言葉に戸惑いが隠せなかった。それでなくても最近、クリフの背が伸びている事に気づいていた。シキと訓練をしているからだろうか、腕や足に筋肉がついてどんどん男らしくなっていくクリフ。自分はといえば、腕やなんかは細いままなのに、胸と腰が丸みを帯びてきている。
「ずっと、一緒だったのにな……」
小さく息を吐いたら、突然悲しくなってきた。知らず、頬に一筋涙が伝う。
幼い頃から二人は互いの半身だった。同じ顔で同じ時に生まれてきた子供など、聞いたことがない。姿も顔も声も同じで、どっちがどっちか分からなかった子供の頃。服を取り替えて親を驚かせた事もあった。きっと自分たちは一人で生まれるはずだった、これから先もずっと二人で生きていこうと話し合った。誰も自分たちの間には入り込めないし、お互いがお互いの事を一番理解している。はずだった。
「私たちは二人で一人だって言ったじゃない……お兄ちゃんのバカ……」
クリフの方が兄ということになってはいるが、普段は名前で呼んでいる。しかし今日は、クリフが自分を置いて大人になった気がしていたのだろうか。思わず口をついて出た「兄」という言葉に、彼女自身は気づいていなかった。
「いいよ、もう! 知らないからっ」
そう言うと、クレオはいらいらと布団をかぶってしまった。
夜の街は刺激的だ。暗い街路に少ない人通り。酒に酔って千鳥足の人。薄暗い路地では、露出の高い女が客の袖を引いている。昼間と同じ道のはずなのに、クリフには全然違う場所に思えた。
自然と顔がにやける。クレオに隠し事をしているという後ろめたさはあったが、それよりも、誰にも知られないでいけない事をしているような興奮が彼の足を弾ませていた。自分一人で酒場へ行くなど、クリフにとって初めての経験である。田舎者に思われぬよう背筋を伸ばし、きょろきょろしないようにして歩いていく。
約束した店を見つけると、少し躊躇ったが、思い切って扉を押す。外は寒いが、中は人々のざわめきと熱気が渦巻いていた。喧噪の中、屈強な傭兵や、遊び人たちが煙草の煙と酒の匂いにまみれている。男どもの間から、時折甲高い笑い声が聞こえる。酒場女たちだ。クリフはその雰囲気に面食らいながら、半ば必死で見覚えのある女性を探した。
彼女は、奥まったところにある席に座っていた。横から二人の男に話しかけられているが、面倒くさそうに手を振って追い払おうとしている様子だ。クリフが来たのに気づくと、笑顔で手招きする。クリフはほっと胸をなでおろした。
「迷わなかった?」
ミコルという酒を注文しながら、彼女は再びクリフに笑いかけた。
「うん。あの、実は名前を聞き忘れてて……」
「あ、そうだったっけ? やだ、ごめんね。私はアゼ。本当はアゼミルイーナなんだけど、長いから、みんなアゼって呼ぶの。あんたは?」
「クリフ」
「じゃあクリフ、二人の出会いに乾杯。なんてね」
出された二つの銅杯には、うっすら赤色のついた濁った酒が注がれている。「それほど上品な飲み物じゃないから、酔っ払わないように気をつけなよ」と言いながら、アゼはそれを一気に飲み干した。
「強いお酒なんじゃなかったの?」
クリフが指摘すると、声を立てて笑う。
――よく笑う人だなあ。
そう思いながら、クリフもつられて笑ってしまう。アゼは、筋肉がついてはいるが、戦士という職業についている割には細いと思える腕や足だった。額に巻いた布は腰紐と同じ柄で合わせてある。前髪が少し額にかかっていて、時折頭を振ってそれを跳ね上げる仕草が印象的だった。朗らかに、声を上げて笑うけれど子供っぽくはなく、クリフには何故か眩しく見えた。
再会を祝し、杯を交わす。それからクリフは仲間や旅のことをアゼに話した。四人でコーウェンに行こうとしている事、出会えるか分からないけれど大陸一の魔道士を探している事。自分たちが旅立ったのは運命だった、と言ったところで、アゼが大きな声を立てて笑った。クリフはむっとして、自分の母の予見に間違いはないと主張した。
「そっか、笑って悪かったよ」
一転、アゼは神妙な顔をして謝る。クリフは慌てて「い、いいんだ」と両手を振った。
「そっかあ……。仕事、職業に関してあんまり知らなかったっての、うなずけるわ」
「サナミィにいた時は、そんなこと考えもしなかったよ。あ、そういや母さんは昔、司祭だったって言ってたな。今はやめたのかな? 良く分からないけど」
「へえ、司祭! すごいじゃない。司祭って特別なのよ。認定されるには技術だけじゃなくて、何か特別な条件が必要らしいって話を聞いたことあるな。詳しくはよく分からないけど」
「そういう職業って誰が決めてるの? どっかに届けたりするの?」
「ギルドよ。ここラマカサにもあるけど、ちょっと大きな町なら必ずある。大陸共通の試験を受けて、領主のサインが入った技術認定書ってのをもらうの。戦士とか剣士とか、そういう職につきたいなら闘技場で。魔術師とか僧侶になりたいなら魔法ギルドで。商人とか職人とか、それぞれあるよ。私は詳しくないけど。試験はどれも難易度が高くて、認定されれば、武器とか自分の職業の物が安く買えるようになる。それに宿屋にも安く泊まれるし、身分も保証されるし……旅をするなら、何でもいいから職業につく方がいい。分かった?」
「そうなんだ。全然知らなかったなぁ」
「もう分かったんだから大丈夫でしょ。そのシキって人は認定書持ってるの?」
「うーん、良く分からない」
「誰も認定書なしじゃあ、お金だって大変だろうに」
「さっきも話したけど、そういうのは全部シキがやってくれてて……シキは、大丈夫って言ってるけど」
「あのね。お金は、使ってれば、いつかはなくなるのよ。大丈夫なわけないじゃない。あんたも、いつまでも人に頼ってばかりじゃ駄目だよ。そのエイルだとか、妹も守ってあげなくちゃね。闘技場は認定書をもらえるだけじゃなくて、がんばればお金も稼げるから、ちょっとはかっこいいとこ見せてあげなよ」
「うん」
綺麗な目でまっすぐにこちらを見る少年を見て、アゼは満足げに笑った。それを見たクリフも、嬉しそうに笑う。酒場の小さな窓からは、メルィーズが白く輝いているのが見えていた。
酒場の夜は長い。もう真夜中だと言うのに、人々の熱気は静まる事がないようだった。それどころか、あちこちで議論に火がつきはじめている。クリフは真剣に彼らの話に聞きいっていた。アゼも、自分の知っている話や最近聞いた噂話を交えて熱い議論を繰り広げている。所詮推測の域を出ない話も多いのだが、それでも色々な情報を得ることが出来た。「酒場は情報交換の場でもあるわけよ。全部信じるわけにはいかないけど、利用しなきゃ損だから」とアゼがめくばせする。クリフもそれにめくばせを返す。自分も大人の仲間入りをしたような気がして嬉しかった。
と、少し離れた場所で怒号が響いた。どうやら酔っ払いが喧嘩を始めたようだ。酒場の喧嘩はしょっちゅうの事、周囲の者も面白がって見物している。しかし酒場の従業員にとっては大問題だ。酒を運んでいた男が、物が壊れてはと間に割って入ったが、もののはずみで弾き飛ばされる。その身体が大柄な男の背に当たって、そいつは頭から酒を浴びた。ゆらりと立ちあがる男。その顔が赤いのは酒のせいと怒りのせい、両方だ。そこでも掴み合いの喧嘩が始まる。たちまち騒ぎは店全体に広がり、クリフがそれに気づいた時にはあちこちで大きな物音や怒声が重なり合うように響いていた。すぐ近くで、背が高くて細い男と商人風の太った男が互いにまくし立てている。
「てめぇ、俺の酒をどうしてくれんだ!」
「何言ってやがんでぇ! そんなとこで飲んでんのがいけねーんだ、このでくの坊っ!」
「何だと、このつるつる頭!」
「き、き、貴様、言っちゃなんねぇことを言ったな」
そこへ店の主人が飛び込んで叫ぶ。
「止めてくれって言ってんだよ、店が壊れるじゃねえか」
「こんなチンケな店一つでぐだぐだ言うな!」
「この野郎、俺の店をなんだと思ってんだっ」
ついに店の主人までが殴り合いを始めてしまった。こうなるともうどうしようもない。しまいには剣を抜く者まで現れて、店中が混乱を極めた。クリフはアゼを見失って、とにかく暴力の嵐をかいくぐっていた。そこへ、何かにぶつかって跳ね返りでもしたのか、小さな短剣がくるくると回りながら飛んできた。あたりは耳を押さえても無駄なほどうるさく、クリフも気づかない。あわやというところでアゼが椅子を振り上げた。短剣はそれに当たって床に落ちる。
「こんなとこにいられないよ、さっさと出なきゃ駄目!」
椅子をその場に投げ捨てながらアゼが叫ぶ。叫びでもしないと、隣にいてもよく聞き取れないのである。クリフは焦ってうなずき、二人は店の出口に向かって突進した。だが、かなり遠い。扉に辿り着くまで、大勢の人間に絡まれ、騒ぎに巻き込まれる。クリフも必死で応戦しようとしたが、とても敵いそうにない男たちばかりがかかってくるように思える。その度にアゼが大声で啖呵たんかを切ってクリフをかばった。
「女子供に向かって剣振りかざすなんて、男の風上にも置けないよ! そこをどきなよ! ええい、どきなったら!」
ついにアゼは目の前の男の腹に肘を叩きこみ、鼻面を蹴り上げた。倒れた大柄な男をひょいと飛び越え、クリフに向かって親指を立ててみせる。
――俺、アゼに守ってもらってるんだ……くそっ、ソルよ、どうか俺にも力を与えてください。
戦いの神ソルはクリフの願いを叶えている暇はないようだった。ようやく二人が店を抜け出した時には、クリフはそこかしこに傷やあざを作り、アゼとともに息を切らして肩を揺らしていた。
「あーあ、こりゃひどいわ。血が出てるじゃない。大丈夫?」
腕の傷が痛くてたまらなかったが、クリフは平気な振りを装い笑顔を作って見せた。
「もちろんさ。平気だよ。アゼこそ、怪我はないの?」
「あたしの職業忘れたの? こんな事くらいじゃ何ともないよ」
彼女はそう言って笑う。アゼとクリフは服をはたいて、埃を落とした。店の中からはまだ大声が聞こえている。
「さてと。そろそろ帰った方がいいんじゃない。思ったより遅くなっちゃったね。みんな心配してるかも」
「分かってる。もう帰るよ。……アゼ?」
「ん?」
「まだこの街にいるの?」
「それは、また会いたいって意味かな」
アゼは、意地悪そうに笑ってクリフの顔を覗き込んだ。短い髪がクリフの顔にかかるくらいまで、彼女の顔が近づく。さっきまで埃っぽい店の中で暴れていたというのに、その髪はなんだかいい匂いがした。クリフは顔を赤らめて、横を向く。
「残念だけど、明日あたりここを立つんだ。あたしもやる事があるし」
「そうなんだ。どこへ行くの」
「バシェスの、旦那のとこに帰るんだよ。彼は傭兵でさ、海の向こうへ戦いに出てたんだけど、やっと帰ってくるからね。あたしもバシェスに帰るのさ」
「そ、そっか」
「クリフ。こうやって人と人は出会い、そして別れていくんだね。あたし、あんたに会えて楽しかったよ。また会えるか分からないけど……」
「もし会えたら、その時にはきっと認定書を見せるよ。俺、弓が得意なんだ」
「ん、楽しみにしてる。……じゃね」
軽く手を振ると、アゼはクリフに背を向けた。そして彼女らしく早足で、姿勢良く歩いていく。角を曲がって行ってしまうまで、振り返る事はなかった。クリフはその後姿から目をそらさずに立ち尽くしていたが、ふいに何かが胸に込み上げた。それを振り切るように走り出す。痛い腕の傷など、思い出しもしなかった。クリフはそのまま宿まで、一度も立ち止まらずに走って帰った。
まだ朝もやが残る頃、シキはそっと布団を抜け出した。エイルが起きぬよう、音を立てずに支度をすると階下へ降りる。老夫婦は既に起きていて、朝食を作ってくれた。彼らにことづけを頼み、木の扉を押して通りへ出ていく。
――気分がいいな。
腕を伸ばして、大きく伸びをした。ずっと携帯しているエイルと自分の鎧を含め、重い物はすべて宿に置いてきた。鍛えているとはいえ、常に大荷物を運んで旅をするのはやはり疲れる。いつも身に着けている軽装鎧なら重くはない。しばらくは身軽な状態でいられそうだ。深呼吸をすると朝の冷たい空気が肺に満たされる。空を見上げたが、ハーディスはまだ顔を見せていなかった。まだ朝も早いというのに、交易商人たちの荷馬車が通りを行き交っている。
――こんなに朝早くから出かけるのか。
感心しながらしばらく歩いていくと、大きな荷台に野菜かごを山と積んで、それを懸命に引いている男とすれ違った。
「おはようさん。早いねえ」
「ああ、そちらも早くから精の出ることだな」
深いあごひげをたくわえ、骨ばった手の男は台車をゆっくりと引いていった。車輪が地面に沈む重そうな音が、次第に遠のいていく。シキは町を把握するために朝早くから出歩いているわけだが、朝もやも残る時間、人通りは少ないのが道理だろう。そう思ったが、何故か次々と人にすれ違う。
次に大通りを歩いてきたのは、長い外套に身を包んだ数人の旅人だった。彼らは一様に楽器と思われる箱や入れ物を抱えている。吟遊詩人たちの集まりだろうか。先を急いでいるのか早足で歩いてくる。すれ違う時に挨拶すると、数人が帽子を少し持ち上げて挨拶を返してきた。
「よい旅を」
「ありがとう、よい旅をね」
軽く笑うと箱を持ち直して去っていく。次の町へ、人々を楽しませに行くのだろうか。そう思いながら歩き出したところへ、大勢の足音が近づいてきた。朝もやの向こうから旅人の一団が姿を現す。商人や護衛の傭兵たちの他に、紺の外套を身に着けた者が数人混ざっている。アステミカの神官たちである。
ミュルク地方のアステミカという町には、質素な造りの神殿がある。それなりに大きな神殿だが、ここに常駐する信者は少ない。アステミカの神官は旅行の神アステを信仰し、大陸中を旅して回っているという女神アステへ祈りを捧げるために、彼ら自身も放浪の旅に身を投じているのである。アステミカの神殿は各地にあり、信者はそこへ辿り着くとしばらくの間、無料奉仕をする。そして再び旅立ち、他の神殿を目指すのである。大陸中を旅して回るのは容易な事ではない。しかし、各地の神殿をどれだけ回ったか、というのがアステへの信仰の深さを示すので、信者たちは懸命に旅を続けるのだった。
神殿はそれぞれの地で、有力者の寄付によって建てられ、また運営されている。寄付する事が彼らの名声を上げるので、金持ちはこぞって神殿に寄付をする。神殿では教育や医療などが無料で受けられるため、誰もが自分の町に神殿を建てたがる。こうしてアステミカの神殿はその数を増やし、信者たちが行くべき場所も増え続けているのであった。
もちろん、ラマカサのような大きな街には必ずと言っていいほどアステミカ神殿がある。彼らも恐らくラマカサの神殿で働いていたのだろう。そしてその進む方角からして、先程の吟遊詩人らと同じように、また別の町へと旅立っていくようだった。彼らはみな紺色の大きな外套に身を包み、特有の図案を象ったしるしを胸に飾っていた。
「おはよう。この町ではみなこんな朝早くから旅立つのか。女神アステは早起きなのかな」
シキが話しかけると、信者たちは愛想よく足を止めた。
「ここラマカサでは、南へ行く旅人はみな朝早く旅立ちます。訳があるんですよ」
「というと」
「南へ行くにはシンジゴ山脈を越えなければなりません。この先は馬車などが使えないので歩いていくしかないわけですが、次の町デュレーまではかなり距離があるんですよ。早朝に出ても、着くのは日が暮れてからですね。ここらは治安も悪いそうですから……」
「そういうことか。道理で先程から、すれ違う人がみな急いでいると思った」
「旅慣れている者であれば、夜が明ける前に出発するでしょう。我々は遅い方です。それではこれで……。あなたにアステ神のご加護を」
信者はそう言うと、右手を軽く揺らした。彼らアステミカの信者たちは、出会った人々に必ず、旅行の神アステの加護を祈る。シキは微笑んでうなずいた。
「よい旅を。ハーディスの光があなた方を照らしますよう」
南の空にはメルィーズがかすかにその姿を写し、町にはハーディスの眩しい光が差し込んできている。町の鐘が時を打つ。多くの人が活動を始める時間帯だ。家々の煙突からは煙が立ち昇り始め、大通りを歩く人々も増えてきた。いつの間にか、そこらの店もいくつか開いている。朝もやも、最早すっかり晴れている。町に朝の活気が溢れ出していた。
「さて……そろそろ闘技場も開くかな」
少し癖のある黒髪を手で軽くかきあげ、シキは再び歩き出した。
円形のすり鉢状になっている闘技場は、その中央に大きな石舞台が設置されており、それは四ヶ所に分けられていた。各競技が舞台のそれぞれの場所で行われるのだ。闘技場に入るには表と裏、二つの入り口がある。表の一つは見物のための入り口、裏の一つは出場者のための入り口になっていた。
中央通りの突き当たりにあるその巨大建築物を見上げ、クリフは眩暈がするようだった。今までに見た事のあるどんな建物よりも大きい闘技場は、十五歳の若者を威圧するのに足る大きさである。つたの絡まる石塀が彼の目の前に立ちはだかっていた。
――認定試験をやってるってアゼが言ってたの、ここだよなぁ……。
クリフは自分がいかに小さな存在であるかを思い知らされたような気がして、足がすくんだ。屈強な体つきの戦士が自分を追い越していく。その体格は、自分とはとても比べ物にならない。太い首や腕、足……まだ若いクリフは怖気づいた。
――で、でもこのままってわけにいかないんだ。
自分にそう言い聞かせる。勇気を振り絞り、クリフは闘技場の中に足を踏み入れた。入り口の立て札に「出場受付は裏口へ。今月の認定試験は二十四日、武闘大会は二十五日」と書いてある。しかしクリフには数字くらいしか分からない。立て札の前で立ち止まりはしたものの、読めないものはどうしようもなかった。
――考えててもしょうがないよな。聞けば分かるだろ。
闘技場の裏手へ回る。裏口から踏み込んだ出場者受付の部屋は薄暗く、無作法者がそこここにたむろしていた。広い部屋だが明かりが少ないせいか、むしろ狭苦しい印象がある。汗臭く、剣や鎧がすれ違う音と低いざわめきが満ちている。人の波を遮って部屋の奥へと向かうのは困難だった。何人かの戦士が並ぶ列の最後尾につくと、場違いだという気分が余計に高まってきた。最近体が大きくなったと思っていたのに、ここにいるとその考えは泡になって消えた。クリフの番になると、机の上に脚を上げている男がぶっきらぼうに尋ねる。
「おう、何の用だ」
クリフは深呼吸をしてから、大きな声を出す。
「あの! し、しゅ、試験受けたいんですけど!」
「あぁ?」
「え、いやあのぅ……」
左目に黒い眼帯をつけた男が呆れた顔でクリフを見ている。クリフが大きな声を出したせいで、受付をしていた周りの男たちが振り返ってこちらを見ている。首をかしげる者、ばかにしたような笑いを浮かべている者、その視線にクリフは、自分の顔に血が集まるのを感じた。
「いや、その、あの、し、職業の、認定試験ってここでやってるって、その、聞いたんです」
「確かにやってるけどよ。今日は十四日だろ? 試験は十日後だぜ」
「えっ」
男の呆れたような顔が焦りをかきたてる。後方から聞こえる「世間知らずなガキだ」という声に縮み上がった。いたたまれない。
「あの、すみませんでした」
クリフは小さな声でそれだけを口にすると、まるで逃げ出すように駆け出した。一刻も早く闘技場から遠ざかりたい一心である。後ろから彼らの嘲笑が追いかけてくるような気がした。
――ああ、俺の馬鹿!
目をつぶって足に力を込めた時、突然目の前に影が現れた。避ける間もなく、クリフと影は正面から衝突し、まるで前を見ていなかったクリフは、あっと思う間もなく地面に転がっていた。
「いって……」
腰をさすりながら見上げると、そこに立っていたのはシキだった。
「大丈夫か」
「う、うん。ごめん」
「いや俺は何ともない。それより、こんなところで何をしてるんだ」
「な、何でも……。えっと、シキこそなんで闘技場に?」
「ちょっと、金稼ぎをな」
「え! だって、シキは」
貴族は闘技場で力試しをしない、王宮騎士として城でやるとかなんとか言っていたはずだ。なのに、闘技場で金稼ぎをする? 目を丸くしたクリフに、シキはいたずらっぽい目つきで、唇に軽く指を当ててみせた。
「エイル様には内緒にしておいてくれ。俺が闘技場で戦うと知れたら、また怒られそうだからな」
そう言いながらも、シキは妙に楽しそうな笑顔を浮かべている。二人は改めて受付へ戻った。クリフは先程の醜態を思うとほんの少し気が引けたが、元来、物事を深く考える性格ではないので、シキについていった。幾人かの列に並んだ後、クリフの時と同じように、眼帯の男がシキに尋ねる。
「何の用だ」
「武闘大会に出場したい」
男の対応は、クリフの時とまるで違った。それが当然とでも言うような態度で受付を始める。クリフはそれを見て、胃のあたりが焼けるような気持ちがしたが、何のせいなのかは考えないようにした。
「前に出場した事はあるかい」
「いや初めてだ」
「じゃあ教えてやるが、ここラマカサの闘技場では出場には銀貨一枚が必要だ。勝てば倍になって返ってくるぜ。連勝すれば更に倍だ。試合は一日に一回だけ。一勝すると勝利の証、三勝で剣闘士の証、七勝すりゃ勇者の証が与えられる。次の大会は二十五日だ。それまでに五勝すれば出られるぜ。分かったら名前と身長を言いな。今までの戦歴もあれば聞かせてもらうぜ」
「名前はシキ=ヴェルドー。身長は九サッソ。戦歴は……そうだな、特になしと書いておいてくれ」
「へっ、嘘をつくなよ。そんな風には見えないぜ。まあいいや。試合にはいつから出る?」
「いつでも」
「そうかい、やる気十分だな。……よしっと。じゃあ、中央通りに闘技場専門の武器屋があるから、剣を買ってくれ。準備が出来次第、戻ってきな。すぐに試合だ。相手はラズー、剣闘士の証を持ってるぜ。せいぜい死なない程度に頑張りなよ」
眼帯の男はそう言うと、口の端を歪めて笑った。欠けた歯がちらりと覗く。
ラマカサの闘技場は技術認定試験と武闘大会、両方の会場を兼ねているようだった。認定試験は生国や親の名、生年月日などが届出と一致している者だけが出場出来、武闘大会は前大会から今大会までに五勝した者だけが出場出来るという仕組みである。
「だからシキは職業認定試験を受けられなかったんだね」
「そうだ。身分を証明できないからな」
教えられた武器屋で、闘技場専用の長剣を手に取りながらシキはどこか寂しげに口にした。エイルとシキは、第十三代レフォア王の時代の王と騎士である。エイルに父親の名を問えば、エイクス=ヨルン=シュレイス=レフォアと言うだろうが、第三十七代レフォア王の現在、それが通用するはずもない。シキに至っては、そもそも出生が不明である。子供のころに曲芸団に拾われ、その仲間の中で育ってきたシキは、両親も生まれた場所も分からないのだった。
「時代は変わったのだと実感するよ。俺が生きていた時代は戸籍とやらがここまで整備されていなかったし、だから身分証明などここまで問われなかった」
シキの言葉を聞き、クリフはやはり自分がやるしかないと決意を新たにした。
「試験は俺が受けるよ。弓は得意だもん。試験は難しいって聞いたけど……でもきっと受かってみせる」
「クリフは急に大人になったみたいだな」
「そうかな」
「何かあったのか?」
「え、うーん……。あのさ、クレオには秘密にしておいてくれる?」
そう前置きして、クリフはアゼとの出会いと酒場での事を話した。アゼのことを一生懸命に話すクリフの頬が、かすかに染まっている。思わず笑いたくなるのをこらえながら、シキは最後までじっと聞いた。
「いい経験だったな」
「今度いつ会うか分からないけど、その時までに認定書を取っておきたいんだよ。だから俺、試験を受けたいんだ」
「そうか、頑張れよ。ただあまりクレオを放っておくと、淋しがるんじゃないか」
「それはシキだって同じでしょ」
「ん?」
「エイルさ。きっと今日も怒ってるよ」
「またクレオと言い合いでもしているかもな」
二人はその様子を想像して笑い合った。
「毎度どうも! 試合、頑張ってくださいよ」
若い店員の元気な声に送られ、シキとクリフは武器屋を出た。闘技場まで、先ほど歩いてきた道を引き返して歩く。
ラマカサは東側が貴族の住居区、西側が平民地区という区分けになっている。その境がこの広い中央通りだった。突き当たりに闘技場がそびえ立つこの通りは、ラマカサで一番人通りの多い場所でもある。中央通りを縁取る街路樹が美しい。きちんと等間隔に植えられている街路樹は、その葉の多くが散り、色づいた葉が、二人の足元で風に踊っていた。立ち並ぶ家々の外観は様々だが、屋根は統一して煉瓦作りだ。落ち着いた茶褐色の屋根が、高くなり低くなりして連なっている。
「今日が十四日だから……大会まで、あと十一日ってこと?」
「いや、確か大会前日が技術認定の試験日になっているはずだ」
「そうだっけ。じゃあ、あと十日の間に五勝しないと大会には出られないってことだね? シキなら楽勝なの?」
「さあな、やってみなければ分からん。何とか大会に出たいものだな」
「そうだね! よっし、俺は認定試験に向けて猛特訓しよう! うん、頑張るぞっ!」
クリフは言葉とともに、握り締めた右手を勢いよく突き出した。そのこぶしが、通りすがりの男の腕に当たる。
「あっ」
「いってぇなぁ」
大袈裟に腕を押さえ振り返った男は、一見して町のごろつきといった風体だった。短い上着に腰布をだらしなく巻きつけ、腰には安そうな剣を下げている。髪はくすんだ金茶で、目はひどいやぶにらみ。男は斜に構え、シキの顔に見入っていた。クリフの事など、まるで眼中にないようだ。
「おぉ、あんたはこないだの!」
男は突然思い出したかのように指を鳴らすと、にやついた笑いを浮かべて近寄ってくる。クリフはようやく、ラマカサに来る前の分かれ道で出会った傭兵だと気づいた。シキはあからさまに不快そうな様子である。
「闘技場へ行くんだな、ええおい。やっぱしな、来ると思ってたんだよ。俺も今、受付済ませたとこさ」
「……」
「相変わらず無愛想だな、あんた。そう冷たくすんなよ、え? お互い、めいっぱい稼ごうじゃねぇか! ひゃはははは! ……けどあんた、ラマカサの闘技場じゃ見かけたことねぇな」
「初出場だ」
「あぁん、初めてだぁ? なんでぇ、名のある剣士かと思ったのによ。なぁおいあんた、大会出場とか狙ってんのか? ええ、そうだろ、なっ! でもよ、そう簡単にゃいかないぜ」
「そうか?」
「おいおい分かってるのか? 十日で五勝だぞ? ラマカサは強い奴らが集まってっからよぉ、剣闘士の証を取るのも一苦労さ。まあ、せいぜい頑張るこったなぁ。あんたなら結構いけるかも知れねぇよ。ま、俺は二十日間で七勝した勇者だ、俺にはまず勝てねぇだろうけどな、ひゃーっはっはっは!」
傭兵は言うだけ言うと腹を抱え、下品な声を立ててひとしきり笑った。しかし、その目にふっと強い光が宿る。やぶにらみを余計細めて、値踏みするような目つきで男はシキを眺めた。
「そうだな……俺の見たとこ、あんた三連勝くらいはするんじゃねぇかと思うぜ、正直な話だ」
「三連勝か」
「へへへへ、勝てば勝つほど金が入る。ひゃーっはっはっは、たまんねぇなぁおい! まっ、そう上手くいくとは限らねぇ。世間を舐めてると痛い目に遭うぜぇ。俺様が遭わせてやるってなぁ! ひゃははははっ」
「名前くらい聞いておこうか」
「へっ、偉そうに言うじゃねぇか。そっちが名乗らねぇ内にこっちの名を聞こうってのかよ」
「……シキだ」
「シキ、ね。あんまり強そうな名じゃねぇな。俺はイマネム。へへ、試合場で会えんのを楽しみにしてるぜぇ」
そう言うと、イマネムは野卑な笑いを浮かべたまま、肩を揺らして去っていった。一部始終を黙って見ていたクリフが、息を大きく吐き出して緊張を解く。
「あー怖かった。変な人だけど……やっぱり強そうだよね」
もう一度溜息を吐いているクリフを眺めやり、シキは爽やかな笑顔を見せた。
「まあ見ていろ」
闘技場の見物席は、無料席と有料席とに分けられていた。当然、有料席の方が舞台に近く、よく見える。金を無駄に出来ないと思ったクリフは仕方がなく無料席に回り、何とか席を確保した。四つに分けられたそれぞれの試合場で、白熱した試合が行われている。
しばらくすると、司会の声がすり鉢状の闘技場に響いた。闘技場の客席自体が拡声器のような仕組みになっているせいか、司会の声も、客席の一番後ろまで届くようだ。
「次の試合を行います。出場者は現在までに五勝しているラズー。対するは、初出場のシキ。両者、位置へ!」
その声に導かれるようにして、闘技場の石扉が開けられる。四つの試合場の一つに、二人の男が上がった。クリフの位置からでは、彼らの表情などは分からない。しかし、背の高いシキは、遠くの席からでもそれと分かるほどに目立っていた。
――どうなんだろう、余裕あるようなこと言ってたけど、油断してたら負けちゃうのかも……?
クリフはまるで自分が試合に出るような気分だった。緊張して、両手の指を組み合わせたり離したりしている。
当然のように、既に五勝して大会出場を決めているラズーの方が人気は高いようだ。闘技場では四つの試合場でそれぞれ試合を行っている。長剣部門は勝敗が決まっているとでも言うかのように、人々は他の三ヶ所の試合に意識を向けている。ラズーは、それが気に食わないのか唾を吐き捨てた。
ラズーの目に映っているのは、それなりに身体は鍛えてあるようだが、癖のある長めの髪に綺麗な顔つきの優男である。観客席の女どもがはしゃぐのが癪に障る。ラズーは、有料席の客が顔をしかめるのも気にせず、再び唾を吐いた。目の前で剣の柄に手をかけている黒髪の剣士を睨みつける。
――ちっ、こんなやつに負けてたまるか。
しかし試合終了の声がかかったのは、開始から十数えるかどうか、といったころだった。人々が長剣部門で何が起こったのかと目を凝らした時には、既にシキの剣がラズーの喉元に突きつけられていた。
観客席からどよめきが湧き上がる。試合を見逃した客は、お互いに何があったと言い合った。クリフは拳を握り占めている。司会がシキを指差し、大声を張り上げた。
「勝者シキ! これで一勝! 敗者ラズー!」
人々の間から再び大きなざわめきが起こった。ラズーは名のある強者であり、賭けの対象としても人気の選手である。半分ほど埋まっている観客席からは、シキを称える声が上がり始めていた。シキは乱れた髪もそのままに、投げ捨てた鞘を拾い上げている。剣を振り上げて勝利を誇示するでもなく、客に向かって手を振るでもなく、さっさと選手控え室に帰っていく。後には、ラズーが冷や汗を浮かべ、呆然と座り込んでいるだけだった。
ラマカサの領事でもあり、賭けの胴元でもあるフォマーが闘技場での事を聞き逃す訳もなかった。人々を圧倒する強さを持った剣闘士が現れたという話は、その日のうちにフォマーの元へと届けられたのである。フォマーは広い執務室に響き渡るような声で怒鳴った。
「ラズーを瞬殺だと? 何を馬鹿なことを言っておる、あやつは大会出場権も獲得しておる強者だぞ」
「しかし、それが真実なのです、フォマー様。私も見ておりましたが、いやぁ強かった」
フォマーの腹心の部下であるザッツは惚れ惚れとするような表情を浮かべた。フォマーはそれを小馬鹿にしたような目つきで眺め、鼻を鳴らしている。
「ふん、まあよいわ。ラズーも足を滑らせたか何かで、不覚をとったのだろう。で、名前は何と言った?」
「シキ=ヴェルドーだそうです」
「よそ者だな、聞いた事もない」
「どうやら毎日出場するつもりのようです。登録所の男にそう言い残して帰ったそうで」
「所詮は血気にはやった痴れ者であろう。しばらく放っておけ。私は忙しいのだ、そんな些細な事に構ってはおれん」
そう言ったフォマーは、実際すぐにこの話を忘れてしまった。自分のお抱えの選手たちが負ける訳がないと信じていたからか、それとも賭け試合の金勘定に忙しかったからか、彼の頭からよそ者の剣士の噂は消えてしまったのである。その間、彼の申しつけ通り、シキは放っておかれ、誰にも邪魔されることなく試合を続けていった。
武闘大会が迫ったある日。フォマーは珍しくも闘技場へ足を運んだ。試合の視察という名目を掲げ、大会の掛け金が集まっているかどうかの確認に、である。
フォマーは常に踵の高い靴を履いている。精一杯背を高く見せようとしているからだが、おかげで彼はいつでもぐらぐらと揺れていて、それが余計に人々の失笑を買っているのだった。今日もフォマーは口ひげをひっぱりながら、ぐらつく足を踏ん張っている。背筋を伸ばしてふんぞり返っているが、それでも部下のザッツの方が明らかに高かった。ラマカサ領事館には、フォマーと話す時は誰でも膝を曲げなければならない、そんな暗黙の決まりがある。
「今日も試合に出るのか? その、例の、何とか言う奴は」
本人だけが重々しいと思っている口調で、すぐ横に立っているザッツに尋ねる。
「はい、確か第三試合のはずです」
「相手は誰だ」
「イマネムかと思われます」
「イマネムと言うと……おお、しばらく前に勇者の証を与えた男だな。ふむ、奴であれば間違いはないだろう。で? 調子はどうなんだ、ほら、あの、ほら」
「シキですか」
「そうだ。そやつは何勝くらいしてる?」
「は、十四日から連日戦っていまして、今日は二十三日ですので……」
「何だ、はっきり言わんか」
「ただいま九連勝中であります」
「ぬ、そうか。……なっ、何だと! まさか、あれからずっと勝ちっぱなしなのか」
「仰る通りです。余程の戦士ですな。毎日戦う者自体、滅多におりません。それが連日、それも毎回圧勝で。三日で剣闘士の証、五日で大会出場権、七日で勇者の証を獲得しております」
「そそ、そんな事より九連勝ということは」
「今日勝てば十連勝。褒賞の銀貨は千二十四枚ですから、金貨百枚と銀貨二十四枚ということになりますね。恐らくはこの闘技場始まって以来の快挙かと」
やけに冷静な口調の部下を睨みつけながら、フォマーはわなわなと震えるこぶしを握り締めた。何故それをもっと早くに言わんのだ、と怒鳴りつけてはみたものの気分は収まらない。このままよそ者の男が勝ち進み、お抱えの選手がどんどん負けては笑い者である。額に脂汗を滲ませて思案したが、あまりいい考えは浮かばなかったようだ。フォマーは舌打ちをした。
「いいか、十連勝など到底許されん! 次の対戦者は誰だ、イマネムか、ではイマネムに言うんだ、負ければ今までの褒賞はすべて取り上げだとな。いいな、分かったな!」
口角泡を飛ばして叫んだフォマーに、ザッツは眉を上げただけで対応すると、軽く一礼して歩き去った。フォマーは必要以上に大きな声を出したせいか、肩で息をしながら特設の椅子に歩み寄る。転ばぬように細心の注意を払いながらその椅子、闘技場の石舞台がよく見えるように高く作られた椅子に腰かけた……というよりも、よじ登った。椅子に座るとフォマーの足は宙に浮いてしまう。両足をぶらぶらとさせながら、彼は突き出た腹の上で短い指を組んだ。それからようやっと落ち着いた表情でひげを引っ張り、闘技場を見渡す。
「そいつがどれほどの腕前か知らんが、イマネムには敵わんだろう、うむうむ」
最前列の席は、試合運びはもちろんの事、選手の表情までが手に取るように見えるほどの距離である。フォマーは満足げにそれを眺め渡し、再度「うむうむ」とうなずいた。
試合は予定より少々遅れて始まり、シキとイマネムはそれぞれに剣を抜いた。闘技場で使われる剣は刃を丸くしてあるので、鋭く切れるような事はない。安全な剣とは言え、当たれば痛いのは当然だ。陽光が刃にきらめけば、緊張感は弥が上にも高まっていく。むき出しの筋肉に力が漲みなぎる。観客達は、身を乗り出すようにして試合に見入った。
相手を軽んじていたイマネムは、すぐにその甘い考えを打ち消した。剣を交えた相手の力量が分からぬほど弱い男ではないようだ。
――ラズーが一瞬で負けたとか、連日圧勝だとかってのはガセじゃなかったんだな。
小さく舌打ちする。口の端に浮かんでいた、人を馬鹿にしたような笑いは消え、鈍い光が両眼に宿っている。二人は互いに隙を見せぬよう、ゆっくりと間合いを取った。そしてそのまま動きを止める。無料席にいるクリフの、また多くの観客の喉が、ごくりとなった。
ようやく二人が動き、交わった剣の固い音が響き渡った。その音ごとに、フォマーの満足げな表情が間の抜けたものに変わっていく。余裕の表情は消え失せ、口はぽかんと開き、両目は瞬きもせずに石舞台を見つめている。口ひげと両手のこぶしがわなわなと震えていた。
ついにシキの剣がひらめき、イマネムの顔前で剣がかみ合った、と思うと、イマネムの剣は弾かれ、その胴に剣がめり込む。二つに折れ曲がった体を何とか立て直し、剣を構えようとしたイマネムの手に、再び剣が打ち下ろされた。イマネムは剣を取り落とし、体勢を崩したその首元にシキの長剣が突きつけられている。
観客席から闘技場全体を揺るがすような歓声が上がった。興奮した司会が張り上げる大声も、観客の歓声にかき消されんばかりである。
「敗者イマネム、勝者シキ! シキは破竹の勢いで十連勝、なんと十連勝です! 恐らく史上初ではないでしょうか! 明日は認定試験、武闘大会は明後日です。賭けるならお早めに!」
舞台上にいるイマネムは金茶の髪を乱し、石舞台に膝をついて息を切らしている。その唇を噛み切らんばかりにシキを睨みつけていた。
「ば、馬鹿な……イマネムは三大会連続で入賞した男だぞ! あの男、何者だ!」
フォマーはそう叫ぶと、息も荒く、乗り出した体を椅子に深く沈める。目の前で繰り広げられた光景を、よく見れば何かの見間違いだったということになるとでも思っているのか、何度も目をこすってみる。が、金髪の傭兵が膝をつき、黒髪の剣士が堂々と剣を鞘に収めているのが目に入るばかりだ。フォマーはしばらくの間、信じられないというように首を振っていたが、やがて力なく息を吐き出した。
「……」
放心したような表情が、徐々に元に戻っていく。フォマーは、悪巧みをするときの癖で、口ひげをせわしなく引っ張り始めた。その目が怪しく光っている。
「……よし、こうなればヴァシーリーを出す。強い相手がいないとほざいておったからな。思う存分戦わせてやろうじゃないか。……おい」
短い指を弾き、ザッツを呼び寄せる。ザッツは、そんな格好つけた事をせずともすぐ横にいるのに、と肩をすくめた。
「ヴァシーリーに使いをやって大会に出場するように言え。出る気がないなどと言うだろうが、強者が現れたと言うんだ。十連勝したとな!」
「はい」
「それともう一つ。大会の組み合わせに手を入れろ。どうあってもヴァシーリーとシキで決勝戦をやらせるんだ」
「分かりました」
命令している間も、フォマーは何かを考え込んでいるような表情で石舞台を見つめている。ザッツが去ると、フォマーはその唇を歪めて、にやりと笑った。
目を覚ました時、クレオは何かが始まろうとしているような、そんな予感がした。飛び起きるようにして、勢いよく窓を開ける。途端に、ひやりとした風が部屋に流れ込んできた。小さな窓から路地が見下ろせる。ちょうど、時計塔から澄んだ朝の鐘が聞こえてきたところだ。青く広がる空に白い雲が浮かび、肌が引き締まるような朝の空気が心地いい。
「ほら、起きなさいよクリフ! 今日もこんなにいいお天気だよ」
「うーん、寒いってばクレオ……窓、閉めてよ……」
「何言ってんの、もう朝だもの、起きなくちゃ」
そう言いながら振り返ると、奥の寝台で毛布のかたまりがもぞもぞと動いているのが目に入る。クレオは両手を腰に当てると、鼻を鳴らした。つかつかと歩み寄り、勢いよくクリフの布団を取り上げる。
「おっはよ!」
「むー……」
ようやく起き上がったクリフはぼさぼさ頭のまま、寝ぼけ眼をこすっている。クレオはさっさと服を着替え、髪に櫛を通し始めた。いつも通りの朝の光景である。ラマカサに着いてからというもの、クリフは訓練に余念がなかった。夜遅くまで起きているからか、朝はなかなか起きられない。肩をすくめるクレオを横目に、クリフは両腕を伸ばして大きな欠伸をしている。
「あーお腹空いた」
「もう、昨夜あんなに食べたくせに。最近クリフってばちょっと食べすぎじゃない?」
「なんだかさ、食べても食べても腹が減るんだよ」
「育ちざかりって奴?」
「うん、シキが言ってたよ。体が急に大きくなってるんだってさ。……あ、今日って二十四日だよね」
「そうよ、何で?」
「うわ、どうしよう! 試験始まっちゃうよ!」
クリフは突然慌てだし、身体に絡まった布団から抜け出そうともがいている。
「どうしたの? 試験って何?」
「闘技場で認定試験があるんだ。俺、弓使いの試験を受けたいんだよ。受付は朝の内だから、早く行かないと……あっ」
服に片足を突っ込んだところで、クリフは勢いよく寝台から転げ落ちた。布団と服とに絡まれながらもがくクリフを見て、クレオは呆れ顔である。
「そんなんで大丈夫なの? クリフったら」
何とか着替えを済ませたクリフだったが、胸元で結んだ服のひもがねじれたまま、今度は靴が片方見つからないと大騒ぎをしている。クレオと一緒になって探した靴は、布団のかたまりの中からようやく発見された。乱暴に足をねじ込み、もどかしそうに靴ひもを結ぶ。クレオが肩をすくめていると、シキとエイルが部屋の入り口に顔を出した。
「おはよう」
「あ、おはよう!」
「クリフが闘技場で試験受けに行くって言ってるの。エイルやシキも、応援に行く?」
「弓の認定試験か。そうだな、応援に行こう。エイル様もどうですか、ご一緒に」
「シキは毎日訓練に行っていたそうだが、今日はいいのか? そうか、では一緒に行こう。私の応援があればこそ、クリフも試験に受かるというものだろう」
「何それ」
「あはは、そうだね、エイルの応援があればきっと受かるよね」
呆れたような顔のクレオに対して、笑顔のクリフである。
「あまり緊張はしていないようだな。その調子で、力を抜いてやるといい」
「うん。頑張るよ」
シキの励ましに、クリフは気を引き締めてうなずく。目を閉じて深呼吸をすると、真剣な表情でもう一度、力強くうなずいた。
「じゃ、行って来るよ!」
太陽神ハーディスが、宿から走り出したクリフを眩しく照らす。清々しい朝の空気と、活気に満ちた町の匂いがクリフを包む。体のどこか奥の方から、ぞくぞくするような何かが湧き上がってきて、クリフは震えた。
――これは武者震いって奴だ。
すらりと伸びた両足が力強く石畳を蹴る。体が軽い。どれだけ走っても疲れない気がする。旅立った頃には肩までの長さだったはしばみ色の髪は、今はもう風になびく程長くなっている。背中に背負った矢筒が小さく鳴る音を聞きながら、クリフは弓を握る手に力を込めた。
この地に住むすべての人々を守り、慈しむハーディスが頭上高くに輝いている。冬の風が吹きつけ、冷たさを感じはするが、ハーディスのおかげで心地がいい。ぽかぽかとした陽気の中、クレオとシキ、それにエイルは連れ立って闘技場へとやって来た。
「まだエイルには話してないんですか?」
クレオがシキにそっと耳打ちする。
「闘技場で稼いでいる事か? ああ、話していない。クリフと訓練で町の外へ行っていることになっている。まあ、明日が大会だからな。町の広報板に名前が出れば分かってしまうかもな」
「……勝てそう?」
「ん? まあ、やってみないと分からないさ」
「怪我なんか、しないでくださいね。あー、私も回復魔法くらい使えるようになりたいな」
それを聞きつけたエイルが口を挟む。
「なんだ、魔法の一つも使えないのか?」
「そんな簡単に言わないでよ、じゃああんたは使えるって言うの?」
「馬鹿にするなよ。私ほどになるとな、火の魔法だろうが水の魔法だろうがお手の物だ」
「へえ、すごいんだ。じゃ、やってみてよ」
「これだから困る。お前が考えるほどお手軽じゃないのだぞ、魔法というものは。集中力が要るし、簡単な魔法と言えど、何も準備なしに出来るほど甘くはない」
「なーんだ、出来ないんだ」
「違う! 出来ないんじゃない、やらないだけだ。やろうと思えば火をつけるくらい、この場でだって出来る。私にはたいした手間ではない。だがな、なんで私がお前に見せなきゃいけない?」
「何よ、偉そうに。結局エイルはさ」
「そんな事より、どこの席に座るんだ? よく見える席がいいぞ、私は。シキ、有料席とやらがあるようではないか、切符を手に入れよう」
「かしこまりました」
「もう……」
快晴の空の下、技術認定試験は淡々と進められていく。競技ごとに、毎回二、三十人の挑戦者が出てきては、いくつかの決められた課題をこなしていった。
闘技場で行われるのは、戦闘系の技術認定ばかりである。体力的にも充実した二十代の若者が多く、そのほとんどが鍛えた身体を持っている者たちだった。一回で試験に通ることはあまりない。多くの者が、再び自らを鍛え直す事を余儀なくされる。
まだ十五歳に過ぎないクリフは、他の挑戦者たちに比べて体が大きいとも思われない。しかし彼はもうそんなことを気にしてはいなかった。その全身にやる気を漲みなぎらせ、今、的当ての指定位置に立ったところである。的は遠く、体の幅ほどしかないその的に、十本中何本の矢が当てられるかという競技である。隣の男はクリフより一回り分厚い胸板と、鍛えた筋肉の持ち主だった。が、緊張して唾を飲んでいる。彼はもう三度目の認定試験なのだった。しかしいまだ、この的当てが苦手種目である。ええいままよ、とばかりに矢を放つが、それはあえなく的の端にかすった。
――目を離しちゃ駄目なんだけどな。
見ていたクリフはそう思いながら、自分も弓を構えた。
競技場であろうが、サナミィの森であろうが、彼にとっては同じ事だった。弓を構え、狙いをつけると周りの音がすうっと小さくなる。意識の範疇にはあるし、聞こえているが、気にならなくなるのだ。クリフは幼い頃から狩りをしていた。子供とはいえ、弓を放つのは、いつだって真剣勝負だった。隣の男が「あ、まずい!」と言ったのも、更にその向こうの男が矢を放ったのも、クリフの動作を止める要素にはなり得なかった。凛とした仕草で、彼は矢を放つ。空気を切る矢音が鳴り、小さな競技用の矢は彼が思った以上の威力を持って、的に突き刺さった。観客席から賞賛の拍手が聞こえ、クリフは初めてその顔に笑みを浮かべた。
クリフは次々と矢を番え、同じように放った。二本は外したが、結局クリフは八本の矢を的に当てる事に成功したのである。観客からは惜しみない拍手が与えられた。一番驚いているのは、クリフ自身だったかも知れない。自分が思っていた以上に、体は鍛えられていたようだ。弓を支える力も、矢を引く力も、サナミィの森で狩りをしていた頃に比べてずっと強くなっている。
クレオは、他の挑戦者に紛れることなくクリフを見つけられた。石舞台のどこにいても、クレオにはクリフの姿がすぐに目に止まる。しかしエイルは一つの種目が終わってクリフが移動する度に、その姿を見失う。
「クリフはどこだ」
「あそこよ、ほら走ってる」
「ああ、あれか。おや、あそこに張り紙があるぞ、種目が書いてある。ほほぅ、色々やるのだな」
「ちょっと、読んでくれない?」
「何故私が……仕方ないな。えーと、鋼の弓を引けたら四十点、砂時計の砂が落ちるまでに闘技場を一周出来たら五十点、的に十本中一本当てれば二十点、二本なら三十点……ええいもう面倒くさいな」
「最後まで読んでよ、エイルってば」
二人がそんなやり取りをしている間にも、競技は進む。認定試験は、簡単なものではなかった。どの競技も、挑戦者に要求される事は多い。弓の場合、それは基礎的な体力、力強さ、精確さ、素早さなどだった。クリフは腕力の試験では周りの青年たちに一段劣るものの、足の速さでは誰にも負けなかった。それに矢を射る速さと精確さでも、群を抜いた技術を見せた。出場選手の中でも若い方に類されるクリフだったが、好成績を収めているようである。
クレオにとって、こんなに誇らしいことはなかった。サナミィの田舎から出てきた、世の中の事など何も知らない自分の半身が、観客の声援を受けている。いくら足が速くても、弓を射るのが上手くても、あんな田舎では程度が知れている、とクリフはよく言っていた。世の中には自分より上手い者がいくらでもいる、と。それは嘘ではないだろうが、それでもクリフは今、ここにいる大勢の人々に認められ、誉められるだけの技術を持っている。クレオにはそれが嬉しかった。と同時に、「自分はどうだろう」と思う。体力もなく、これといった特技もない。旅をするのに女の身では何かと不都合なこともある。シキは気にするなと言ってくれるが、実は面倒だと思われているのかも知れない。急に息苦しくなった気がして、クレオは胸を押さえた。
すべての競技が終わると、闘技場の片づけが始まり、採点と認定の作業が行われた。その間、選手たちは一時休憩である。観客席のクレオを見つけて戻ってきたクリフを、クレオは精一杯の明るい笑顔で出迎えた。
「すごかったじゃない、クリフ! 私も鼻高々だよ」
「なかなか見事だったぞ。誉めてやる」
「疲れただろう、よく頑張ったな。発表が終わったら豪勢な夕飯といこう」
エイルとシキも口々にねぎらう言葉をかける。
「あんまり緊張しなかったんだ。他の人が緊張してるの見たら、なんかおかしくなっちゃってさ」
「そっかあ。とにかく良かったね」
「応援してくれてありがと、クレオ」
「ううんそんな。お兄ちゃんを応援するの、当たり前じゃない」
「クレオの声聞こえたから、嬉しかった。やっぱりクレオがいて良かったなーって」
「そ、そう?」
「それでは、私は必要ないとでも言うつもりか?」
「え、いやそうじゃないよ、エイルの応援も嬉しかったってば」
憤慨するエイルに、焦って言い訳するクリフを見ながら、クレオは思わず笑っていた。応援して良かった、と思う。何もかも同じだったはずの双子の兄が、一人で先へ行ってしまったとしても、自分も一生懸命追いつけばいい。ただそれだけのことだ。立ち止まっていてはどんどん差がついてしまうけれど、自分も歩いていけばいい。必要なら走ればいいんだ。
「弓使いの証、もらえるといいね。クリフならきっと大丈夫だよ!」
クレオは勢いよくクリフの背を叩いた。
闘技場の片づけも終わり、技術認定試験の出場者たちは、石舞台の上で整然と列を成している。その前には領事であるフォマーが台の上でふんぞり返っていた。禿げ上がった頭にハーディスの光が当たって眩しい。フォマーはいかにも偉そうに聞こえる声で次々と名前を読み上げていった。小男がひげを捻りながら眉をぴくぴくとさせている様子を見ると、クリフは吹き出しそうになった。厳粛な様子を装ってうつむき、笑いを堪えていると、周囲の男たちも多かれ少なかれ同じことを考えているようだ。目を合わせては苦笑する。
「……ザーランド、レフォア国メンフォン地方ラマカサ出身、二十三歳。クリフ、レフォア国マグレア地方サナミィ出身、十五歳。以上の者五人に弓使いの証を与える。えー次……」
フォマーの、妙に甲高い声が言っているのを、クリフはまるで他人事のように聞いていた。しばらくして顔が跳ね上がる。唇を薄く開けたまま、クリフは数回瞬きした。それから顔が緩み、安堵の溜息が漏れる。突然、あまりの嬉しさに飛び跳ねて大声を出したい衝動に駆られたが、発表はいまだ続いている。クリフは再びうつむき、ただ両手の拳こぶしを強く握り締めた。
ラマカサの武闘大会は一年に十回行われる。凍夜の月の大会は第十回目にして一年で最後の大会だ。それだけでも盛り上がるのだが、今回はいつに増して大盛況だった。客の入り方からして段違いである。クリフたちは有料席を確保したから良かったものの、無料席は席が取れるどころか、詰めかけた立ち見客がひしめきあっていた。
シキという、今までまったく無名であった剣士の出現に、ラマカサの人々の興味は大いにそそられていた。大会の優勝者はフォマーの息がかかった者たちに偏りがちで、興醒めといった雰囲気が否めなかったのである。そこへ来て、このシキという選手が今まで誰一人としてなし得なかった、十連勝という偉業を達成した。それは人々の闘技場への気持ちを駆り立てるものだった。さらにもう一つ、人々を熱狂させる原因があった。ヴァシーリーである。
ヴァシーリーは頑強な体躯の巨漢で、領事フォマーの大のお気に入りだった。外の大陸出身であり、元は千死将軍と異名をとるほどの軍人であったと言う。この異名は、遠くの国で戦乱があった時、僅か数十人の部隊を率いて千人以上の敵を全滅させたところからついたという説である。それが真実かどうかは分からねど、ヴァシーリーが恐ろしい、情け容赦もない剣士である事は確実だった。彼はこのラマカサの闘技場で戦うようになってから、既に四人を殺しているのである。闘技場での殺生は禁止されていたが、戦闘中の彼を止められる者はいなかった。不幸な対戦者たちは決勝戦で彼に挑んでは、儚くその命を散らしていったのだった。領事フォマーはヴァシーリーの凄まじいまでの腕力と戦闘力に魅せられた。相手を殺すこともあるやり方に眉をひそめもせず、規則違反には体のいい言い訳をこじつけ、ヴァシーリーには広い屋敷を与えたのである。
武闘大会に出れば優勝するのは決まりきっているので、賭けが成立しない。いくらヴァシーリーがお気に入りとはいえ、フォマーにとって毎回それでは困るといったところなのだろう。ここのところ出場はあまりしなくなっていた。強き者にしか興味がないというヴァシーリーは、己の肉体を鍛える事にのみ時間を費やしているという。
――ヴァシーリーが出場するという事になれば、シキだって勝てはすまい。
――さあそれは分からない、シキほどの強者は見た事がないぞ。ヴァシーリーと言えど、あの鋭き剣先を避けきれるものか。
――いやもしかすると他の者が抜けてくるかも知れん。シキとヴァシーリーとが潰し合いをすれば、分からんぞ。
――だが、ヴァシーリーの今までの戦績を考えてみろ。何しろ千死将軍だ、負けるはずがあるまい。
人々は口々にどちらへ賭ける方がいいか話し合い、興奮できる試合展開に期待していた。賭けが盛り上がれば盛り上がるほど、フォマーの儲けも大きくなる寸法である。フォマーは予想通りの展開にほくそ笑んでいた。
今回の出場者は十六人と少ない。円形闘技場の石舞台を四つに分け、同時に四試合を行う方式だった。一回戦、二回戦は午前中いっぱいかけてやり、準決勝戦以降は午後に行われる。シキが勝ち進んでいく間、まさかこんな事になっていると露ほどにも知らなかったエイルは、ただ唖然と口を開けたままで座っていた。エイルは、シキが闘技場などで金を稼いでいるとは、夢にも思わなかったのである。
「やっぱり、事前に言っておいた方がよかったんじゃない?」
「シキは黙ってていいって言ってたけど……」
両脇に座ったクリフとクレオは気まずそうにしている。黙っていろと言われたものの、試合が終わった後でエイルが何と言うかと思うと、双子は少々憂鬱になるのだった。
決勝戦は夕方になってから行われることになっていた。フォマーの思惑通り、シキ対ヴァシーリーである。人々は石造りの席に詰めあって座り、試合の開始を今か今かと心待ちにしている。その誰もが、どちらが勝つかと興味津々だ。大きな銅鑼が鳴らされ、観客席から大きな歓声が上がった。石舞台の上には司会の男と二人の選手が上っていたが、すらりとした高身長のシキと、それよりさらに大きなヴァシーリーに挟まれた司会は、まるで子供のように小さく見える。
「それではこれより、七八四年第十回武闘大会決勝戦を始めます。まずは選手紹介をいたしましょう。こちらがシキ=ヴェルドー選手、何と初出場で十連勝を飾った勇者です! これまでに彼が獲得した報奨金は金貨にして百枚以上。この決勝戦でも勝てば、与えられる金額は計り知れません」
観客席からはシキに対する声援や女性客の黄色い声が上がる。シキの勝利に賭けている男たちは、何が何でもヴァシーリーを破って欲しいと叫び、その精悍な面立ちに魅せられた女たちは賭けなど関係なく、シキの勝利を願って止まなかった。騒ぎが一旦収まるのを待ち、司会が再び口を開く。
「対するは、これまた無敗の男ヴァシーリー! この闘技場に現れてからというもの、千死将軍はまだ一度たりとも敗北を喫しておりません。それでは試合規則をご説明しましょう。試合に使われるのは剣一本、時間は無制限です。どちらかが舞台から下りるか、敗北を宣言するか、あるいは意識を失えば勝敗が決まります! さあ、準備はよろしいですか?」
司会がシキとヴァシーリーとに目をやる。シキは気迫のこもった表情で小さくうなずき、ヴァシーリーは不敵な笑みを浮かべた。
「始めっ!」
対峙すると、ヴァシーリーの強さが改めて分かる。戦闘経験の浅い未熟者ならまだしも、幾度となく強者と剣を交えた事のあるシキには、その強靭さが恐怖すら伴って伝わってくるのだった。そびえ立つような巨体と鋼のような筋肉だけではない。隙のない動きや眼光の鋭さが、獣にも似た野生の強さを感じさせていた。捕まってはならぬと間合いを取る。油断なく相手を見据え、ゆっくりと移動する。ヴァシーリーはあざ笑うような表情で、構えた剣をゆらゆらと動かしている。緊張感が高まっていく。観客たちはみな息を呑んでその様子を見守っている。ただ、時間だけが過ぎていった。
動いたのはヴァシーリーとシキ、ほとんど同時だった。掛け声と互いの剣がかち合う音が響き渡り、数瞬の内に観客たちが目で追えない速さの動きが繰り広げられる。位置を変え、再び剣を構えたままで二人の男は睨み合った。
「いいねぇ、倒し甲斐があるぜ」
その目に嬉しそうな光を揺らして、ヴァシーリーが呟く。シキは視線を動かす事なく、喉を鳴らした。ヴァシーリーが獲物を捕らえようと猛烈に切りかかるのを紙一重で避け、脇腹に剣の柄をめりこませる。そんな攻撃は利かないとばかりに再び剣を振り上げるヴァシーリーと、それをかわすシキ。しばらくの間、そんなやり取りが続けられた。観客の間から、興奮した声が幾つも上がる。
「なんだなんだ、逃げるなよ!」
「ほらそこだ! やっちまえ」
「逃げてばっかじゃ勝てねぇぞ!」
――好き勝手な事を言ってくれる。
巨人の太い腕から繰り出される剣戟を必死でかわしながら、シキは舞台上を舞うように動き回っている。ヴァシーリーは真正面から突っ込んでくるだけの男ではなかった。力もさる事ながら頭も切れる。ついにシキは舞台の端に追い詰められてしまった。かみ合わせた剣と剣は動かず、かすかに震えている。
――このまま力比べをしていては、立ち位置からしてもこちらが不利。
シキの額には濡れた髪が張り付いている。腹に力を込め、より一層の力を持ってヴァシーリーの剣を押し返そうと試みながら、ごく間近まで迫ったヴァシーリーの顔をきつく睨み返す。
――そんな睨んだって意味ないぜ。このまま押せば勝てる、殺せないまでも舞台から突き落とせば俺の勝ちだ。
ヴァシーリーの目が光る。その瞬間、シキは力を抜いた。勢い余るヴァシーリーの大きな身体を素早く避けて回り込むと、ヴァシーリーの方が逆に舞台を背にして落ちそうな形になった。が、ヴァシーリーはこれを踏ん張って耐え、怒りの形相をあらわにして再び剣を振り上げた。
この時、既に形勢は逆転していたのである。シキの迅速な動きが、怒って己を忘れたヴァシーリーに勝利したとも言えるだろう。これまで敗北した事のなかった男は、剣で足を突かれ、あえなく舞台から足を踏み外したのだった。観客席からひときわ大きな歓声が上がる。人々は興奮の渦に巻き込まれていった。
しかし、ヴァシーリーの最後の足掻きがシキを強襲した。舞台から落ちながらも、彼は手にしていた剣を、渾身の力を込めてシキに投げつけたのである。クリフが身を乗り出し、クレオが顔を覆ったのと、観客席の女たちが悲鳴を上げたのとは同時だった。司会がシキに駆け寄る。
「勝者、シキ!」
ヴァシーリーの剣が当たった左膝を押さえていたシキだったが、すっくと立ち上がり、大丈夫だと人々に応えた。ハーディスの光が剣にきらめき、勇者をひときわ輝かせる。観客は口々にシキを褒め称え、幾度も歓声を上げた。
ラマカサは、翌日も晴天だった。広場では鳥たちが羽を休め、子供たちが遊びまわっていた。人々は仕事に精を出し、平和な日常の生活を営んでいる。その広場を抜け、整備された町並みをエイルは珍しくも一人で歩いていた。シキは領事の館に報奨金を受け取りに行っているのだ。凍夜の月にしては暖かく、のどかな一日だが、エイルにとってはそんなことはどうでもよかった。
「何たる事だ、何たる! 許しがたい!」
文句を言いながら、エイルは速足で歩いている。れっきとした貴族が、闘技場で一般市民に交じって金を稼いでいたとは。
「貴族としての誇りはどうした。信じられない。しかも、しかもこの私に内緒で! クリフやクレオが知っていて、どうして私には言わないのだ」
どうやら自分だけ知らされなかったことの方が、エイルにとっては重大なようだ。闘技場で試合を見ている間は口をぽかんと開けていただけだったが、試合後、四人で宿に帰るや否や、彼は怒涛の勢いで文句を言いたてた。今朝もシキが出かけた後、まだ治まらなかった怒りゆえにクレオと言い争い、最終的には怒りに任せて宿を飛び出してきたのである。どこへ行くという当てもなしに歩いていたが、気づくと街外れまで来ていた。あたりはなだらかな丘になっており、その丘を登っていく道はゆるやかにシンジゴ山脈へと続いていく。エイルは短く嘆息すると、道の端、乾いたあたりを見つけて腰を下ろした。膝を抱え、もう一度、今度は大きく息を吐いた。
――シキが私に黙っていたのは……私が役に立たないからだろうか。
小さなころから勉強が好きで、本もよく読んだ。第一王位継承権を持つ兄ほど厳しく王道教育を施されたわけではなかったが、とはいえエイルも第二位である。幼いころから多くの教師がやってきては外交、経済、歴史、音楽、礼法、言語など多くの学科を学ばされた。乗馬や剣、水泳など運動よりも本を読む方がずっと好きだった。エイル自身が、学ぶことの楽しさを知っていたのである。城の図書館の本やジルクの部屋の大量の本など、とにかく読める者は片っ端から読んだ。特に好きだったのは博物学で、植物には大変詳しい。その知識はなまじの大人に負けぬどころか専門の学者をうならせることすらあった。だが、それはあくまで本を読んで得た知識に過ぎない。本を読んで知ることと、実際に体験することとは、全然違う。
こちらの世界へ来てからは面食う事ばかりだ。平民と王族。その暮らしは大きく違った。服も、食事も、何もかも。考え方や価値観が根本から違うのである。エイルは、王族としての誇りを持てと言われて育った。人は自分に仕えるものであり、自分はそれを上手く使う術を覚えなくてはならない。尊厳を持ち、相応のふるまいをせよ。それがエイルに課せられた仕事であり、責任でもあった。親兄弟を失い、城を失い、国を失った今でも、エイルは王族である誇りを忘れるわけにはいかないと自分に言い聞かせていた。この旅を通して、自分が役に立たないことは痛いほど分かった。しかしそれに屈してはいけない。人の上に立つ人間として、誇りを失ってはいけない。そう思う自分は間違っていない。決して間違ってはいない……はずなのだったが。
「はぁ」
溜息を吐いて、空を見上げる。と、その透き通った青い目に、何か影のようなものが映った。
「何だあれは? 何か……」
エイルは立ち上がると、黒い影の方へ走り出した。とても大きな、禍々しい黒いものが空で渦巻くように飛んでいる。鳥ではない。あんな飛び方をする鳥はいない。慌ててあたりを見渡したが、人の姿はなかった。エイルは再び空に目をやると、じっと目を凝らした。東の空へ飛び去るその姿をよく見定めた時、背筋に戦慄が走った。右往左往していたが、やがて決心したように走り出す。街中へ駆け戻ったエイルは、彼にとって最高の速さで領事の館を目指した。
盛大に生けられた花が、花瓶から溢れんばかりに咲き乱れている。領事の館の執務室は、広い空間に机と椅子が一組置かれているだけで、後は多くの本棚が並べられていた。恐ろしく天井の高い部屋に作り付けの本棚は、フォマーの背に合わせて低いものばかりである。執務室の簡素な机には似つかわしくないほど大きな花瓶に近寄り、フォマーは花の香りを楽しんだ。いつものように背の高い長靴を履き、更にめいっぱい背伸びをしないと花まで届かないのだが。
「ふむ、いい香りだ。さてシキと言ったな、昨日の戦いは見事であった。褒めてつかわす」
「光栄です」
「早速褒美をとらせよう、これ執事!」
太く短い指で、机の上に置かれている鐘を鳴らした。高価なガラスで出来た鐘は、軽やかな音で屋敷に響く。すぐに執事が現れた。その両手に白い麻袋を捧げ持っている。執事は黙って進み出ると、その袋をシキに手渡した。
「それが闘技場で稼いだ分すべてだ。ずっしりと重かろうな、はっはっは。……そこでものは相談だが」
言葉だけで笑ったフォマーは、シキににじり寄った。近くまで来ると、その身長差はひときわはっきりする。シキを見上げる形になったフォマーは、眉を寄せて小さく舌打ちした。シキに背を向け、さっさと執務机に戻ると背の高い特注の椅子によじ登った。
「あー、相談と言うのは他でもない。シキ、わしのために働かんか。お前程の力があれば、立身出世も思いのままだ。当然報酬もそれっぽっちの金貨ではなくなるぞ」
「光栄ではありますが、旅の途中ですので」
「断ると言うのか? 自分に損な選択をすると後悔するぞ。わしが取り立ててやれば、いずれレフォア城の騎士にだってなれるかもしれないのだぞ」
「はあ……。申し訳ないとは思いますが、やはり辞退させていただきます」
「わしの申し出を、飽くまで断ると言うのだな」
「お断りします」
「……旅をしていると言ったな。一人か? どこの誰ぞと一緒か」
「知り合いと」
「どこへ行く? 何が目的の旅だ」
「言わねばならぬ道理がありますか」
「貴様、それ以上無礼な口を利くと罪人扱いになるぞ。わしはラマカサの領事であり、判事でもあるのだからな。素直に答えろ、さもないと」
フォマーがそこまで言いかけた時、扉を叩く音がした。フォマーが荒々しい声で応答すると扉が開き、執事が現れた。
「旦那様、表に何やらお客様が参っておりますが」
「客? 誰とも約束などしておらんぞ」
「そう申し上げたのですが……その、こちらのシキ様のお知り合いだと」
「水色の髪の少年か?」
シキが尋ねると、執事はうなずいて同意した。
「どう致しましょう」
「わしは知らんな。礼儀知らずめ、このシキとやらといい勝負だな。捕らえておけ」
「そんな事は俺が許さん」
シキの表情が一変する。その威圧にフォマーは焦った顔を見せたが、すぐに勝ち誇った態度を取り戻した。ふんぞり返って机を叩く。
「なんだその顔は。よもやこのわしに手を出そうと言うのか? やれるものならやってみい、その子供とやらがどうなるか」
その言葉を最後まで聞く事もせずに、シキはフォマーに背を向けた。
「おい、どこへ行く。その男を止めろ! 衛兵、衛兵!」
フォマーの慌てた声に、衛兵が数人執務室に駆け込んでくる。シキは無言のままだ。衛兵たちはシキを取り囲むようにして短剣を抜いた。彼らに向かって、シキは怒りを抑えつつ口を開く。
「命が惜しいなら剣をしまえ」
「な、何を言うか」
「そこを動くな!」
「昨日の武闘大会を見ていた者はいないのか」
シキの低い声に、衛兵たちが息を呑んだ。目の前で剣に手をかけているのは、初出場で十連勝した男。あのヴァシーリーを倒した男。千死将軍、無敗の男とあだ名されたヴァシーリーに勝った男だ。武闘大会での出来事を知らぬ者などいなかった。昨夜は号外が町に舞ったのだ。怒りに満ちた緑の瞳が衛兵たちを射抜く。彼らの身体に寒気が走った。衛兵たちは萎縮し、知らず後ずさって道を開けた。シキは屋敷の玄関へと向かってゆっくりと歩き去った。
「お、お前たち、何をやっとるんだ、捕らえろと言うのが分からんのか! 追え、奴を行かせてはならん! 子供と一緒に捕らえて牢へぶち込め! わしを侮辱した罪で捕らえるんだっ!」
フォマーは執務机についたまま、口から唾を飛ばしてわめいた。その声で我に返った衛兵たちは、怯えながらも慌ててシキの後を追った。
「だから、何度言ったら分かるのだ、この様な扱いは心外だ! 許さんぞ、貴様ら」
「あーもう小うるさいガキだな。今、旦那様にお伺い立ててるんだから少し黙ってろよ」
あまりに騒ぐので後ろ手を捕まえられているエイルは、黙ることなく騒ぎ立てていた。
「私は流言蜚語など言っているわけではない、本当に竜を見たのだ! だからシキに知らせようとこうしてやって来たのに、話を聞く事もしないとは! 不作法だ、非礼にもほどがある、私を誰だと思っているんだっ!」
「うるせえなぁ」
下男がうんざり顔で耳をかいていた時である。シキが玄関に姿を現した。その後ろから衛兵が追いかけてくる。最も、追いついてどうこうしようという気でもないようだったが。
「シキ!」
「すぐにここを出ましょう」
シキは短く言うと、下男を押しのけた。押しやられた下男が抗議しようとその肩に手をかけたが、振り向いたシキの表情に凍りついた。
「いや、お、俺は……その、あの」
エイルは手首をさすりながら愛らしい顔を歪ませている。それを見やって、シキは下男のむなぐらを掴み上げた。衛兵たちが剣を構えるのも構わず、両腕に力を込める。
「その面、二度と俺の前に出すな。……と、領事に伝えろ」
「は、はいっ」
「おい、待て! フォマー様のお言いつけだ。そ、そのまま、う、動くな!」
衛兵の一人が言ったが、見るからに腰が引けている。シキはそれを無視して玄関の扉を開ける。
「おい待て、おい!」
衛兵たちも追って外へ出たが、それ以上は追うつもりがないようだった。振り返ったシキの目には、たじたじとした彼らの、情けない姿が映っている。
「あんなくだらぬ領事に仕えるのはよすんだな。でないと命を落としかねないぞ」
それだけを言い残し、シキはエイルとともに屋敷を後にした。
「お帰り、クリフ。いい弓は買えた?」
「うん、ほらこれ。本当に弓使いの証があると、随分安いんだよ。俺びっくりしちゃった」
「うわあ、大きいんだね。重ーい。こんなの使えるの?」
「もちろん! 店で試し引きさせてもらったしね。強弓だもん、遠くまで力強く飛ぶよ。早く慣れなくちゃね」
「すごいなぁ。……なんか、クリフばっかり大人になっちゃう感じだね」
「そんな事ないよ。クレオだってエイルに字を教えてもらってるんだろ? すぐに本も読めるようになって、きっと回復魔法とか使えるようになっちゃうんじゃない? そしたらすごいよね、俺は読み書き諦めちゃったもんな」
「ありがと、クリフ」
「へへ」
その時、階下で何やら話し声が聞こえ、二人は顔を見合わせた。宿屋の老夫婦だろうか、かなり慌てた声のやり取りである。
「何だろうね」
「さあ……」
すぐに階段を上がってくる軽い足音がし、二人の部屋の扉を開けて宿屋の老婦が入ってきた。顔色が悪い。双子は再びお互いの顔を見合わせ、眉をひそめた。普段ならはきはきと元気のいい人が取り乱しているのだ。何か悪い事が起きたに違いない。
「あんたたちね、早いとこ荷物を作ってお逃げなさい」
「え?」
「領事がシキさんとエイル君を追っているってお触れが回ってるよ」
「そんな」
「なんで!」
「そうとも。あの人たちが悪事なんか働くもんかね。あたしは信じてるよ。あのフォマーって男はなにか企んでるんじゃないかね。自分のお気に入りがシキさんに負けて悔しいんだろうよ。ここにいたらあんたたちも捕まっちまう。さ、早く荷作りをおし」
二人は慌てて動き出した。クレオは急いで荷物を袋に詰め始め、クリフは隣の部屋のものをまとめようと部屋を飛び出した。老婦はクレオの荷作りを手伝いながら、顔を曇らせている。
「南へ行くって言ってたね。じゃあ南門から行くしかないよ。けど……今から町を出ると、山越えは夜になってしまう。気をつけてお行き。山には野盗も出るって言うし、それより怖いクルイークがいるからね」
「クルイークって?」
「ここらで一番恐れられてる獣だよ。すごく大きな狼みたいなもんでね。あたしゃ見た事もないけど、今まで多くの人間が山越えの途中に食われてるんだ。奴らは夜行性だからね、旅人はみな昼の間に山を越えようとするんだけど……」
「そ、そうなの」
「ああ、でもクルイークだって獣だからね、火を絶やさなけりゃ近づきっこない。火種をあげるから、しっかりと消さないように持っていきな」
「おばあさん……ありがとう」
「いいんだよ。短い間だったけど、孫が出来たようで嬉しかった。いつか、また寄っておくれね」
「クレオ! こっちは荷物出来たよ!」
「あ、クリフ。こっちももう大丈夫。……じゃあ」
乱暴に木の扉を叩く音が、階下から響いてきた。三人は一瞬凍りつき、それからあたふたと荷物を抱える。階下へ降りると、声を荒げた兵士と宿の老亭主とのやり取りが間近に聞こえた。
「ですから、彼らはもうここには居りませんので」
「嘘をつくな! 弓屋の主人がここへ向かったと言ってたんだ!」
「いえ、ですから……」
老亭主の声を聞きながら廊下を通り過ぎ、三人はそっと台所へと向かう。台所の勝手口まで来ると、クリフとクレオは老婦に向かって頭を深く下げた。
「本当にありがとうございました」
「シキさんとエイル君にもよろしく伝えておくれ」
「はい」
「さ、早くお行き」
双子は同時にうなずくと、もう一度頭を下げてから扉を抜け、裏通りへと走り出した。が、すぐに兵士が歩いてくるのが目に入り、慌てて建物と建物の間に飛び込んだ。
「どうしよう、このままじゃその内見つかっちゃう」
「クレオ、あれ見て」
クリフが指差したのは、干草を山のように積んだ荷車だった。持ち主だろう男は近くの壁に寄りかかって一服しているようだ。兵士がいなくなったのを見計らうと、クリフとクレオは急いで駆け寄った。男は少し戸惑ったようだったが、二人の話を聞くと親身になってうなずいた。
「ああ、お触れなら俺も聞いたよ。まったく、今までに無実の罪で捕まった人がどれだけいることか……ひでぇ話だよ。シキさんが悪事なんかするもんか」
「そうですよね!」
「ああそうともさ。大体な、フォマーの奴はいっつも好き勝手ばかりやってやがるのよ」
「それであの、俺たち南門まで行きたいんです」
「そこで待ってれば、二人とも来ると思うんです」
「よっしゃ、そういう事なら俺が南門まで運んでやらぁ。ほれ後ろに荷物と一緒に乗り込め」
安堵に胸をなでおろし、クリフとクレオは干草の間に紛れ込んだ。四人分の荷物も、上から干草をかければなんとか隠せた。荷車に乗っていく間、忙しそうに走っている兵士たちとすれ違ったが、姿が見られて咎めだてされる事はなかった。
「あ! ごめんなさい、ちょっと止めてください。あそこにシキが」
懸命に荷車を引いていた男はクリフの声に足を止め、シキの姿を確認して呼びかけた。
「シキさん! 無事だったんだな」
「何者だ」
「いや俺は怪しいもんじゃねぇ。そうだな、善意の運び屋ってとこだ」
男は胸を張って親指を立てた。荷車の後ろ、干草の間から双子が頭を出し、シキはそういうことかとうなずいた。エイルはと言えばようやくシキに追いついて、膝に両手をつき、肩を揺らしている。こんなに走ったのは生まれて初めてだった。シキは男に礼を言うと、双子に近づいた。
「よかった、心配していたんだ。……すまん、こんな事になってしまって」
「何だか分かんないけど、大丈夫だよ。宿の荷物もなんとか持ってきた!」
「早くラマカサを出ないと」
双子の頼もしい言葉に、シキは笑顔を見せた。
「俺っちの荷車じゃ、四人は積めねぇなあ、残念だが」
「ああ。ここまで双子を連れてきてくれて助かった。感謝するよ」
「え、いやぁ、シキさんのお役に立てて何よりで……。あの、握手してくれますかね?」
「は? あ、ああ構わんが」
男は、昨日のシキの戦いぶりにめっきり惚れ込んでいるようだった。重ねて礼を言うシキに、図体に似合わずもじもじと照れている。
「フォマーなんてちんけな小男ですよ。気にしやしません。シキさんを助けたって言ったら、俺ぁ町の英雄になれますよ、へへ」
得意げに言う男に見送られ、シキとエイル、そして双子の兄妹はラマカサの南門をくぐった。一刻も早く山を越えなければならない。衛兵一人一人はシキの相手ではないが、数が多ければ無事では済まないだろう。守るべきエイルもいる。シンジゴ山脈へ向かう足取りを緩めるわけにはいかなかった。既に、ハーディスは傾き始めている。目指す山脈はすぐ間近まで、その長い影を伸ばしていた。
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