ハーディスは徐々に輝きを失っていった。血のように赤黒く染まった岩肌が、不吉な予感を抱かせる。暮れ落ちる冬の夕陽は夏のそれよりもずっと早い。風が低く、強く、唸っている。闇は刻一刻と深くなり、空には黒々とした雲が流れていた。
道端の岩が影を落としている。四人は岩山を急ぎ足で、しかし一歩一歩を確かめながら注意深く歩いていた。足元は暗く、そこら中に転がっている石にいつ躓くとも限らない。山道があるとはいえ、大きな石をどかして多少歩きやすくしただけのものだ。少しずつ、あたりの景色が色を失っていき、山全体が闇に浸っていく。誰も口を利かなかった。足音と、荒い息遣いだけが聞こえる。
山を一日で越えるのは出来ない事だった。ラマカサを朝早くに出発しても、山頂近くにある宿場町に到着するのは夕方になる。四人が領事フォマーに追われ、ラマカサを出たのは今日の午後。今やハーディスは山陰に隠れ、夕焼けの残り香が西の空を赤く染めている。月の女神メルィーズが支配する時間が訪れようとしていた。
冷たい夜風を首筋に感じ、クリフは外套の襟を立てた。夜がどれだけ恐ろしいか、それはよく分かっている。夜は自然の力が増すのだ。闇の前に人間は屈服するしかない。まして、ここは安全な町ではない。暗くなってから出歩くのは危険すぎる。それは、サナミィの森でもこの山でも同じ事だ。クリフはそれを直感的に感じていた。夜が深まる前に、一刻も早くデュレーとかいう宿場町に辿り着きたい。その思いが列の先頭を行くクリフの足を早めた。クレオが持つ火影が揺れて続く。
双子のすぐ後ろで、エイルも口を閉ざして歩き続けていた。話す余裕などない。棒のようになった足を無理やり動かす。ラマカサの町外れからフォマーの屋敷まで走り、その後逃げ出すために走り、そして山道を上っている。エイルにとっては到底信じがたい行軍だった。開いた唇。苦しげに潤まむ瞳。文句を言う余裕もない。
一行の最後を歩くシキは、その様子を見て胸を痛めていた。少年王子にとって非常に酷なのは分かっていた。だが、夜だ。夜盗や獣もいると言われるこの山で野宿というわけにはいかない。細い足で懸命に歩くエイルを助けてやりたいとは思えど、この岩の多い道では王子を背負って歩くのは難しいだろう。エイルの肩が苦しそうに上下しているのを見ると、シキは自分も息苦しさを感じてならなかった。
シンジゴ山脈が、夜に沈む。視界が暗くなり、すうっと寒気が押し寄せる。じんわりとかいた汗が冷えていく。明かりなどまったくない山道を、四人はただひたすら先を目指して歩き続けている。彼らの他には誰もいず、何一つ、動く気配すらなかった。
いつの間にか、メルィーズが輝きを増していた。今日の彼女はほぼ完全な円形を描いている。星々で飾った夜空に君臨するメルィーズは、人々に畏敬の念を抱かせる女神であり、また同時に畏怖の対象でもある。その彼女をひときわ黒い雲が覆い隠した時、シキは何かの気配を察して立ち止まった。
「クリフ」
その声の鋭さに思わず足を止めたクリフは、シキを振り返った。シキは、じっと前方を見つめている。クリフは、進行方向の闇に目を凝らした。
「誰かいる……」
クリフの言葉に反応したかのように、強い風が吹き渡った。再びメルィーズが姿を現す。眩いまでの月光が、一人の男を照らし出した。
真朱色とでも言えばいいだろうか、深みのある赤い髪。柔らかという言葉にはおよそ程遠い、苦み走った顔立ち。だがそこから推察される年齢とは釣り合わない、若々しく強靭な体躯。太い眉の横には大きな切り傷が痕になっていて、あごは無精ひげで覆われている。シキは、男が腕の立つ剣士だと直感した。
「思ったより色男だな」
低く太い声でそう言いながら、岩肌に寄りかかっていた男はゆっくりと身を起こした。左手を剣の柄にかけ、近づいてくる。シキは既に三人を後ろにかばい、慎重に身構えていた。
「ひでぇ悪人だって聞いてたが……見た目じゃ測れねぇもんだな」
「何者だ」
「俺のことはいいんだよ。あんたがシキだな?」
「何故俺の名を」
「いいから抜けや」
男はそう言いながら、自らの曲剣を素早く抜いた。心当たりがなくとも、戦いは避けられないようだった。シキは覚悟を決めて、腰の長剣を抜き放った。相手の目は、ひたとシキに据えられている。クリフたちなどまったく眼中にない。それを見て取ったシキは、三人と距離を取った。彼らを巻き込む危険を避け、赤毛の男と対峙する。
メルィーズは戦いの行方が気になるのか、姿を隠すことなくあたりを照らしていた。闘技場での戦いとはまた違う緊張感が満ちていく。ハーディスに見守られた武闘大会は明るく、地面は平らだった。だが、ここは違う。道幅も狭く、足場も悪い夜の山道。わざわざここで待ち伏せしていたのなら、相手には地の利があるとも考えられる。
――早く終わらせたいが、そう簡単には終わらせてくれなそうだ。
シキは息を殺し、力を漲らせて時を待った。ほんの僅かな隙も見せられない。言葉には出来ぬ、強いて言うなら気迫ともいうべき熱気が二人の身体から立ち昇っている。お互いの視線はぴくりとも動かない。シキの長靴がずれ、砂利の小さな音がした。赤毛の男が、シキが、動く。常人の目では追い切れないほどの速さで、彼らは幾度も切り結んだ。湾曲した刀身と真っ直ぐな長剣がかち合うたびに青白い火花を散らす。
力量は、ほぼ互角だった。しかし赤毛の男が経験を生かしている分、シキが苦戦を強いられている。
「若い割に、やるじゃねぇか色男」
赤毛の男は、どことなく満足げな笑みを浮かべている。シキは言葉を発する事なく、ただ視線を返した。
――ヴァシーリーほど力はないが、技量では勝るとも劣らない。剣は恐らく独学……だが恐ろしく強い。こんな男、城にいては見える事もなかっただろう。負けられんな。
シキの口の端にかすかな笑みが浮かぶ。それは、シキにとって滅多にない事だった。自分より強い者などいくらでもいる。実際に、今まで何人もの強者と戦った。しかし自ら望んで戦ってみたいと思ったことは、そして倒したいという感情に駆られたことはまずなかった。シキは、ごくりと唾を飲み込んだ。戦いを楽しんでいる自分に驚く。
緊張感の中、時は過ぎていく。二人はともに精神力を消耗していた。これ以上は。シキがそう胸の内で呟いた時、赤毛の男が低い声で言った。
「そろそろ勝負つけるか」
メルィーズの月光が、二振りの剣の刃を白く閃ひらめかせた。剣戟が岩山に響く。刃を跳ね返そうとしたが、ヴァシーリーの剣でつけられた膝の傷が疼いた。踏みしめたはずの膝が思うようにとどまらず、足が岩の上を滑る。
「くっ!」
見守っていた双子とエイルが息を飲む。シキが見せた隙は決着をつけるに十分だっただろう。しかし、赤毛の男は剣を振り下ろさなかった。踏み込もうとした足を引き、シキが体勢を整えるのを待つ。すぐに持ち直したシキは、再び剣を構えた。二人はお互いの力量と、正しい戦いが続くことに満足しているように見えた。
その時。今までずっと天空に輝いていたメルィーズが雲に覆い隠され、光が消えた。何もかもが影の中に飲み込まれる。その場の誰もが動きを止めた。
暗闇に残されたのは、ほんの小さな灯りだった。宿屋の老婦が持たせてくれた火種を入れた手提げの灯火である。クレオが持っていた金属の筒から漏れる明かりだけが、ほのかに浮かび上がっていた。
「あっ!」
突然の悲鳴と同時にクレオの姿が見えなくなった。暗闇で目が利かない。必死で神経を尖らせ、クレオを探し、伸ばしたクリフの手が空を切る。
「……!」
ひやりとした汗がクリフの背中を伝った。
「クレオ、クレオ!」
「ひゃーっはっはっは!」
この場にいるはずのない男の笑い声が、少し離れたところから聞こえた。クリフはその声に聞き覚えがあった。気まぐれな風がメルィーズを再び空に出現させる。クリフの思った通りの男が、クレオの首に短剣を突きつけていた。
「クレオ!」
「クリフ……」
男は片腕でクレオを羽交い絞めにし、短剣をその首に添わせていた。手入れのされていない金茶髪を揺らし、男は再び下品な笑い声を上げる。それからやおら冷淡な表情になるとシキに向き直った。やぶ睨みの目を更に細めて睨みつける。
「よお、シキ」
「お前は……イマネムか」
「十連勝のお祝いも、武闘大会優勝のお祝いも言ってなかったからよぉ」
イマネムの目は言葉と裏腹に、強い復讐を望んでいる。シキは、イマネムに向かって剣を構え直した。
「その子を離せ」
「けっ、あんたの相手は俺じゃねぇ。なぁハザムの旦那」
ハザムと呼ばれた赤毛の男は剣を下ろしていた。その様子は、先程までと違っている。シキと戦っている間、彼の目は楽しげにすら見えたのだが、今はあからさまな侮蔑の色を浮かべている。それに気づかぬイマネムが、大声を張り上げた。
「何をぼーっとしてやがんでぇ! 早くシキをやっちまってくれよ」
「人質なんか取る必要ねぇだろ、イマネム」
「有利にしてやってんだろうが。早くそいつをぶち殺せ!」
イマネムは焦ったように言ったが、ハザムはそれに答えず剣を持ち直す。
「さては、こいつらが悪いんじゃねぇな」
「ちっ、変なとこで正義感出しやがって……。どうでもいいだよ、んなこたぁ。お前との約束はその男を倒すってことだ。俺はそれを手伝ってやろうってんだぞ」
「卑劣な真似しがって。女の子に手を出すなんて、下衆な真似はよせ」
「下らねぇな」
呆れ果てたハザムは一歩踏み出した。
「今すぐ離さねぇと」
「俺をやろうってのか。お前相手でも人質が役に立つぜぇ、ひゃーっははは」
イマネムはクレオをますます強く締めつけ、クレオが苦しそうなうめき声を上げる。その目に涙が滲んでいるのを見て、クリフは唇を噛んだ。
「汚い野郎だ」
言葉とともに、ハザムは唾を吐き捨てた。その目が鋭く光る。ハザムとシキの視線が交差する。次の瞬間、二人がいた場所には影も残っていなかった。左右に分かれた、その早すぎる動きを捉えきれずにイマネムはたじろぐ。ハザムの投げた短剣が空を切って飛び悲鳴が上がる。腕の力が緩んだおかげでクレオは逃げ出し、イマネムがはっと気づいた時には刃が浅黒い肌に食い込んでいた。
「ひぃっ」
至近距離に真顔のシキが迫り、イマネムの顔が引きつる。
「こ、こっ……」
声が掠れる。シキは無言のままイマネムを睨みつけていた。左手でイマネムの胸倉を掴み上げ、右手の長剣は今にもイマネムの首を切りそうに力が込められている。
「お、お、俺が悪かった……ここ、殺さないでくれ」
イマネムは喉を鳴らして訴えた。
「……殺す価値もない」
そう呟くとシキは左手の握力を緩めた。イマネムの身体が崩れ落ちる。近付いたハザムが自分の腰紐でイマネムの両手を縛り上げながら、億劫そうな顔つきで嘆息した。
「こいつとは顔見知りでな。昨日、町で話を持ちかけられたんだが……どうやら俺は人間を見る目がねえらしい。八百長試合を頼まれ、わざとシキに負けたとか言ってたが、そもそも勝てるような力量じゃねえよ」
「まあな」
「こいつ、あんたが報奨金泥棒だ、俺の物になるはずの金を盗んで逃げた汚い野郎だ、って言いやがったんだぜ。まあ俺はあんたが強いってのを聞いてたから、理由はともかく引き受けたんだけどな」
「フォマーに追われたのは私兵になれという話を断ったからだ」
「そんな事だろうと思ったぜ。……じゃ、こいつは俺がラマカサにしょっぴいてくか」
「悪いが頼めるか」
「任せろ」
強面のハザムだったが、笑うと意外に愛嬌がある。恐怖から解放されたクレオに目を向け、安心させるようにうなずいてみせた。くくり上げたイマネムのひもを確認する。そして、すくと立ち上がった。今の今まで浮かんでいた穏やかな笑みは姿を消し、シキに向き直った表情は真剣そのものだ。赤い前髪の奥で、双眸が不敵な光を湛えている。
「じゃ、続きをやるか」
「……俺も、決着をつけたいところだが、このままでは山で野宿だ」
「乗ってくると思ったが、子供連れじゃしょうがねえか」
どこかしら通じ合うところがあるようだ。二人はお互いに剣を触れ合わせ、いつか再戦することを誓った。小さな虫が羽根をすり合わせる音がかすかに聞こえている。ふと、クリフがあたりを見回した。
「どうしたの?」
「何か……聞こえたんだ」
「何かって、何」
クレオがそこまで言いかけた時、彼女の耳にもそれがはっきりと聞こえた。低く抑えたようなそれが何の音なのかを理解すると、双子は顔を見合わせた。クリフがエイルに目を走らせ、咄嗟に突き飛ばす。間をおかず、巨大な濃灰色の影が岩陰から飛び出し、エイルが今の今まで立っていた地面に、鋭い爪が食い込んだ。エイルが、声にならない悲鳴を上げる。
「走れ! 早く!」
クリフがエイルの腕を掴み、三人は無我夢中で走った。駆け寄ったシキとハザムが三人を挟むように立ちはだかる。五人が集まった時には、既に獣たちが彼らを囲んでいた。クルイークと呼ばれる巨大な獣が、それも十数頭の獰猛な獣が、よだれを垂らして炯々と目を光らせている。
それは山犬、もしくは狼によく似ていた。だが、似ても似つかないとも言える。クルイークは、大きさだけで言えば熊ほどもあった。四つ足をついているが、クリフの背よりも頭の位置が高い。見上げる両眼は赤く光り、大きく裂けた口にはしまい切れないほどの牙。二本の犬歯は異様なまでに発達していた。
「……ちっ、ここまで気づかなかったとは」
ハザムが舌打ちをし、シキがそれに同意する。
「不覚だったな」
エイルは恐怖のあまり、目に涙を浮かべて硬直している。その肩に優しく手を置きながら、シキはなるべく緊張が伝わらないことを願って言った。
「エイル様、ご安心を。私がお守りします」
クレオは双子の兄の腕にしがみついていた。足に力が入らず、小刻みに震えている。クルイークが唸ると、彼女はより一層クリフに身をすり寄せた。
「ど、どうしよう、どうしようクリフ……」
「大丈夫だよ、クレオ」
妹の名を口に出すと、身体の震えが治まった気がした。クレオが震えれば震えるほど、クリフは落ち着きを取り戻していくように見える。クリフは、興奮を抑えてシキを見上げた。
「剣や弓だけで、何とかなるかな」
シキはすぐに答えず、口をつぐんでいる。その間にもクルイークたちはじりじりと輪を縮めてくる。と、ハザムが落ち着いた声で言った。
「集まってちゃまずいかもな」
「ハザム」
「俺とあんたがいりゃ血路くらい作れる」
「そうだな」
「お、俺も戦うよ」
慌てるクリフに、シキはゆっくりと言い聞かせる。
「いいか、クリフ。後ろを見ないで走るんだ。二人を守れ。デュレーへ行くんだ。分かったな」
刹那、クリフの頭にアゼの言葉がよみがえった。
――エイルだとか、妹も守ってあげなくちゃ。
俺が守るんだ。妹を。エイルを。二人を連れてデュレーへ走る。後ろを見ないで。クリフは唇を引き結んでうなずいた。
クルイークたちは、獲物を徐々に追い詰めつつあった。唸り声を響かせ、よだれをたらして大きな牙をむく。いつでも飛びかかれるよう腰を落とし、四肢に力をこめて、彼らは今や攻撃態勢を万端に整えていた。後は、きっかけを待つだけである。
エイルに限界が近づいていた。潤んだ水色の瞳が恐怖におののき、乾いた唇が震えている。高まる緊張に耐え切れなくなったのだろう、彼は突如、悲鳴ともつかぬ叫び声を上げた。
「い……嫌だ嫌だ怖い!」
錯乱したその声がみなの心臓を握りつぶす。クルイークたちが一斉に動いた。咆哮を上げ、凄まじい勢いで獲物たちに襲い掛かる。シキの長剣が素早く最初の一頭の足を払い、ハザムの曲刀がその頭にめり込む。クリフはエイルの腕を掴んでクレオとともに走り出していた。ハザムとシキが作った隙間が見える。死に物狂いでそこに飛び込み、駆け抜ける。短剣を振り回し、追ってこようとする一頭を必死で退ける。そのクルイークは、ハザムの剣によって苦悶の叫びを上げた。
「エイル様を頼んだぞ!」
シキが叫ぶ声を後ろに聴きながら、クリフは振り返ることなく走り続けた。
その場に残った剣士たちは、息つく間もなく剣を振るい続けた。大型獣相手に自分の身を守るだけでも困難だというのに、逃げた三人をクルイークたちが追わないようにしなければならない。
ついに最後のクルイークがどうと倒れ、二人の荒い息使いだけがその場に残った。倒れているクルイークは、まだ痙攣しているものもあるが、すべて息絶えている。
「よお、大丈夫か」
「……」
シキの答えがないことを不審に思ったハザムは、爪痕の残る左腕を押さえながらシキに近づいた。シキは無言のまま、長剣を支えに立ち尽くしている。だが、まるでぴんと張っていた糸が切れるように、その身体が突如、沈んだ。
「お、おい!」
シキの正面に回り、慌てて抱き起こす。その目に、鮮やか過ぎる色彩が飛び込んできた。右足の膝上あたりがえぐれている。
「やられたな。意識はあるか?」
「あ、ああ。すまん、暗くなって……」
「血が足りなくなったんだろうな。あーあ、こりゃひでぇ。一生ものの痕が残るぜ」
「そんな事はいい。それより彼らが心配だ。数頭取り逃がしたから……つぅっ」
「馬鹿だな、そんな足で走れるわけねぇだろうが。まずは止血だ」
言いながら服の袖を素早く引きちぎり、更にそれを二つに裂く。二枚の布を繋いで、シキの足の付け根にきつく縛りつけた。そこを縛れば血が止まる事を知っている者の、慣れた手つきである。
シキも、傷の近くの布地を裂いていた。血で汚れた布地を捨て、まだしも綺麗な部分で傷の周辺を拭う。その表情だけ見ているならば、どれほどの苦痛に耐えているか、それ程分からないだろう。しかし、額や首筋には大粒の汗が噴き出していた。
「これで何とか歩けるだろうが」
その言葉に、シキは痛みを抑えてうなずく。ハザムはその傷を眺めやりながら、息を吐いた。
「俺がここで待ってろと言っても、お前はあの子らを追うんだろうな」
「もちろんだ」
「若いな。……まあいい。あの馬鹿はどうしたかな」
「生きてるのか?」
その問いは最もだ、と言うようにハザムは片眉をあげた。クルイークの死体を乗り越え、少し離れたところに転がっているイマネムを見に行く。だがすぐに肩をすくめて帰ってきた。
「色々と手間が省けたみたいだぜ」
「……」
「なんだ、同情してるのか? ああいう奴にふさわしい末路だと思うがな」
「いや、イマネムの事はいい。それより俺はもう行く」
「そうだな。俺も一緒に行ってやりたいとこだが……今はメルの城主に雇われてるもんでな」
「構わん。……世話になった」
「決着がつけられなかったこと以外は忘れてくれて構わねぇよ」
シキはそれに応えてかすかな笑みを浮かべると、剣の血を拭ぬぐって鞘に収めた。ハザムが再び、深く息を吐く。
「そういや、きちんと名乗ってもいなかったな。俺はハザム=イル=ジード。ちんけな傭兵だ。あんたは?」
「シキ=ヴェルドーだ。レフォア騎士、だった。大昔の話だ」
「へっ、妙に説得力がありやがるぜ。……じゃあな、次に会うまで死ぬなよ」
「お互いにな」
シキは、ハザムが立ち去るのをゆっくり見てはいなかった。満足に動かない右足をかばうことすらせず、山を登り始める。メルィーズはその頭上高く、何もなかったかのように輝いていた。
風が鳴る。岩の間を吹き抜ける風は強く、メルィーズの明りだけが頼りである。灯火はイマネムに叩き落されてしまって、とうにない。何度も転んだせいで服は破れ、手足にも擦り傷がいくつも出来ている。切れ切れの息遣いだけが聞こえる。クレオは、見知らぬ山中で独りきりだった。
「……っ」
幾度となく拭った涙が、再び頬を伝う。汚れた顔に、再び涙の筋がついた。それを服の袖でこすると、クレオは必死で歩を進めた。だが、どちらへ向かったらいいのか。進むべきなのか、それとも戻るべきなのか。眼前には岩肌が広がり、今、自分が山を登っているのか下っているのかも定かではない。
「もう……嫌……」
デュレーへ行くんだ。なんとしても行かなければ。歩みを止めてはいけない。けれど、本当にこうして歩き続けていていいのか。こっちの方角で合っているのか。今どこにいるのかも分からないのに、このまま進んでいいのだろうか。クレオには分からなかった。風が止むと、恐ろしいまでの静寂に襲われる。また先ほどの猛獣たちが出てきたら……恐怖で体が震える。
「怖い、よぉ」
しゃくりあげると、やたら大きく響く気がした。重い足を動かし続けるのにも限界がある。クレオはついに立ち止まった。左右を見回しても、どこも同じに見える。道はなく、坂が続く岩山、吹き渡る夜風。夜空に輝くメルィーズも、サナミィの家にいた時はあんなに優しく見えていたのに、今は冷酷にすら感じる。頭を抱えて目を閉じても、現実は変わらない。目を開けても、同じ光景。頬をつねっても悪夢は醒めない。耐え切れず、嗚咽が漏れた。
「っ……うぅっ」
一度出てしまうと、もう止められなかった。何とか泣き止もうと試みたが、鼻をすすっても涙を拭いても、胸に何かがこみ上げ、後から後から涙が溢れる。両腕で肩をぎゅっと抱きしめてみても、体の震えを抑えることは出来なかった。
「誰か……助けて……助けてよぉ……」
クレオの小さな声に応えるものはいない。聞こえるのは、うめき声をあげる夜風ばかり。クレオの孤独を救うものはない。寒さと恐ろしさに責め立てられる。クレオはしゃがみこんで泣き声を上げた。誰か来て。そばにいて。クリフ、エイル……シキ。
けれど彼女の願いが叶うことはなく、シキが颯爽と助けに現れることはなかった。クレオは一人、泣き続けた。やがて疲れ、涙も途切れる。それでも、何かが変わるわけではない。幼いころ母が効かせてくれた物語のように主人公に幸福な結末が舞い降りてくることはなかった。クレオは力なく立ち上がり、よろめきながら再び歩きだした。
「デュレーへ……行かなきゃ」
誰も助けには来ない。自分で何とかしなければいけないのだ。座って泣いていても、獣に食われるしかない。クレオは、恐らく山頂だろうと見当をつけ、よろよろと歩いて行った。
その場所からそう遠くはないところに、しかしそれとは決して分からないところに、クリフとエイルはいた。崖の下である。
「ク、クリフ……どうするんだ、どう、どうすれば……」
「しっ」
二人は、切り立った岩壁を背にしていた。左側にも岩肌が続いており、右側はさらなる崖が落ち込んでいる。そして正面には、二頭のクルイークが歯茎をむき出し、よだれをたらしていた。一頭はクリフの正面で、もう一頭はその斜め後ろで、頭を低くして身構えている。クルイークたちの唸り声が喜びの色を帯びているように思える。一歩でも動いて逃げようとすれば、たちまち飛び掛ってくるだろう。
絶体絶命とはこういう時に使う言葉なのだろう。普通の人間ならば目を背けて震えおののく。事実、エイルはクリフの影に隠れるようにして固く目をつぶっていた。しかし、クリフは違った。ラマカサで買った鋼の弓を左手に携え、両足を開いてしっかりと立っている。岩壁を背にしてクルイークたちと向かい合った瞬間から、クリフはそうしてぴくりとも動かなかった。
――目を逸らしてはいけない。
その言葉を、何度言われたか知れない。サナミィの森で狩りをする時も、危険な目に遭う可能性はあった。実際に、猪や熊と対峙した事もある。父は息子に厳しく言い聞かせていた。どんな獣に出くわした時でも、相手を恐れずに睨め、決して目を背けてはいけない、と。怯えた様子を見せてもいけない。目を見て、時を待つのだ。父はそう言った。それから、決して諦めてはいけない、とも。ともすれば震えだしそうな両足を踏みしめる。
――誰も助けてはくれない。俺がやるしかないんだ。
ほんの一瞬でも、隙を見せたらすべてが終わる。クルイークたちは嬉々として襲いかかり、柔らかな獲物を裂き、骨まで食い尽くすだろう。彼らは低く唸りながらも、今はまだ近寄ろうとしない。睨み合いはいつまで続くのだろうか。長い時間が経てば、結局はやられてしまう。精神力を消耗し尽くさないうちに、何か手を打たなければならなかった。
一頭倒せても、その間にもう一頭に襲われる。エイルだけを逃がそうか、という考えが頭をよぎった。けれどクリフ一人で二頭を倒し、エイルを追わないようにするなどという事が出来るだろうか。仮にエイルが逃げられたとしても、一人で崖を登り、クレオやシキと出会う事が出来るだろうか。クリフは、頭の中に見え隠れする「死」という単語を、必死に打ち払った。後ろから、エイルのか細い声が聞こえる。
「ク、クリフ……」
エイルは、立っているだけで精一杯だった。早鐘のように高鳴る心臓。涙で視界が霞む。喉が詰まったようになり、息もろくに出来ない。クリフの肩越しに見える獣は、実際の数倍も大きいように思えた。その鋭い爪、牙、光る目。巨大な牙からは唾液が滴っている。無理だ、と頭に誰かの声が響く。思わず失神しそうになる。腰から下がなくなってしまったように、力が入らない。何もしていないのに、苦しい呼吸はどんどん早まっていく。怖がっていると思われたくはないが、クリフの服を握りしめていることで十分伝わっているだろう。
「クリフ、あ……あれを何とかしろ」
当然の事だが、クリフはその言葉に振り向きもしない。文字通り、微動だにしなかった。エイルはそれについ苛立つ。揺れる膝を押さえ、エイルは欠片ばかりの威厳を保とうと躍起になった。相変わらず背中に隠れたまま、早口に言う。
「ど、どうするつもりなんだ。このままというわけにはいかないんだぞ。あれは、あれは私を襲うつもりなんだろう」
「分かってる。今、考えてる。獣は手負いにしたら余計危険だ。一頭を確実に殺した直後にもう一頭も殺さなくちゃいけない」
「え……あれを、こ、殺すのか」
「じゃなきゃ食われる」
あまりにもあっさりと口にするクリフに、エイルは絶句した。何かを殺すなどという事も、自分が死ぬという事も、エイルには非現実的すぎて受け入れられなかった。このままでは恐ろしい事になる、死んでしまうかもしれない。そう、漠然と思ってはいた。しかしあの巨大な獣に自分が食べられるなどと言うのは、この状況になってさえ、エイルには考えられなかった。まざまざとした死を想像して、エイルの全身から力が抜ける。
「そんな……そんなの、嫌だ」
「一撃で倒さなくちゃ駄目なんだ」
クリフの耳には、エイルの言葉が届いていないようだった。隙を見せぬようにして、矢筒に手を回す。クルイークをしかと睨みつけたまま、ゆっくりと二本の矢を引き抜く。獣たちの唸り声が、ぐっと高まった。
「クレオが……エイルは火をつける魔法を知ってるって言ってた。これを火矢に出来れば勝てる可能性がある」
クリフがそう言って、目線は動かさぬまま一本の矢を後ろ手に渡してくる。目の前に出されたそれをこわごわ受け取ったが、エイルはすぐに首を振った。
「で、出来ない」
「出来なくても、やるしかないんだ」
「だって、も、燃やすための火種が、何もないし、こんな状態じゃ、集中出来ない」
「やるんだ。早く」
「でも……でも無理だ。出来な……」
「いい加減にしろ!」
小さな、しかし鋭いクリフの声に、エイルは息をのんだ。出来ない、と言いかけた口が開いたままになり、大きな瞳が食い入るようにクリフの後頭部を見つめている。クリフは前を向いたまま、硬い声で続けた。
「やらなきゃ死ぬんだ。早くやれよ」
一頭のクルイークが、ゆっくりと姿勢を低くする。後ろにいるクルイークも距離を詰め始めた。二頭は、獲物を逃がさぬように攻撃態勢を整えている。クリフは矢を握り、それらを睨みつけた。瞬き一つしないはしばみ色の目が、言葉にならぬ迫力をもって獣たちに据えられている。その背後で、エイルが何かを唱えていた。矢に右手をかざし、小さな声で必死に念じるが、何事も起こらない。両手はじっとりと汗ばみ、水色の瞳はきつく閉じられていた。単語を組み合わせた短い言葉を、何度も何度も口にする。永遠とも思える時間が、砂時計の砂が流れ落ちるように、ゆっくりと過ぎていった。そして、ようやく――。クリフが唇を湿らせた時、背後で小さな音が聞こえた。それは火がつく時の、あの特有の音だったのである。
「貸せっ」
クリフの声と、ほぼ同時だった。一頭のクルイークが咆哮を上げる。クリフの身体に震えは走らなかった。飛びかかってくる巨体を真っ直ぐに見、しっかりと定めた狙いに向かって火矢を射る。力強く引かれた鋼の弓が鳴り、矢はクルイークの喉元深くに突き刺さった。魂切る絶叫が闇を切り裂く。間髪いれず、小指に手挟んでいた二の矢を放つ。それがもう一頭の目に命中したのを見ながら、素早く矢筒から矢を引き抜く。のた打ち回る獣を狙うのは困難だったが、三の矢四の矢と放つ。矢が獣の首に刺さった。クルイークの体が跳ねあがり、どうと倒れ、痙攣する。
クリフはようやく大きく息をついた。脱力感と共に振り返ると、エイルは呆然と座り込んでいた。クリフは一度エイルに背を向けると、クルイークの死体に近づいた。
足で思い切り蹴っても動かない。太い前足を乗り越える。自分の何倍もありそうな頭。大きく開いた口と、光を失ってどんよりと濁にごった目。だらりと垂れた舌は、べっとりと濡れている。口の中を覗くと、その奥に矢が深く突き刺さっていた。それを抜くのは諦め、もう一頭の目から矢を引き抜いた。喉に刺さった矢は折れている。もう一本放ったはずだが、それはどこかへ行ってしまったようだ。結局、一本だけを手にしてクリフはエイルのところへ戻ってきた。
「大丈夫?」
なるべく優しく聞こえるように気をつけながら、しゃがみこんでエイルの顔を覗きこむ。さっきまでの姿勢のまま、エイルは視線だけをクリフに投げた。力が入らないのだろう。
「その、さっきはごめん。王子さまなのに」
そう言いながら、クリフは頭をかいている。反省しきりといった様子は、凛として矢を放ったクリフとは別人のようだった。エイルは口を半分開けたまま、その顔を見つめている。
「あ、いやその、申し訳ありませんでした」
慌てて膝をつき、エイルの表情を伺うように見るクリフ。だがエイルは、小さく首を振った。
「いいんだ。ほ、褒めてとらせ……いや、違う……」
か細い声で言うと、エイルはうつむいてしまった。クリフが立ち上がり、座り込んでいるエイルに手を差し伸べる。
「立てますか?」
「……うん」
「クレオとシキを探しに行きましょう」
「クリフ……」
「え?」
「さっきは、本当に死ぬと思った。だけど、助かった。クリフのおかげで、助かった、から……だからその、なんて言えばいいんだ? 褒めたいんじゃないんだ、その……」
「『ありがとう』でいいと思うな」
見上げると、クリフは母親譲りの優しい笑みを浮かべている。
「あ、ありがとう」
「こっちこそ! エイルが火をつけてくれたから助かったよ。ありがとう」
エイルは顔を赤くして立ち上がり、服の埃をはたいた。クリフは持っていた矢を矢筒にしまう。それから二人は揃って崖を見上げた。彼らはこの上の山道から滑り落ちてきたのである。エイルが、恐る恐る口を開く。
「ここは、登れないだろう? ……どこか上に行ける道を探さなくては」
「そうだね。よしっ、早いとこ道に戻ってクレオを探そう」
二人はクルイークの死体を回り込むようにして、岩壁伝いに歩き始めた。
あれから、どれほどの時が経ったのだろうか。クレオは放心したように、岩のくぼみに座り込んでいた。時折すすり上げるが、もう声を上げて泣く元気すらない。山の空気は澄んでいて、頬を撫でる夜風は凍るように冷たい。凍夜の月とはよく言ったものだ。そんな月の名前の由来をこんなところで実感したくはなかった。クレオはより小さく体を縮め、うずくまった。何とか山道を見つけたものの、もう、独りで歩き続ける気力も、体力も、ない。
まるで幼い子供のように膝を抱えていた彼女が顔を上げたのは、道を踏みしめる、ゆっくりとした足音が聞こえたからだった。はっとして山道を見つめる。もしかしたらクルイークが……そう思うとぞっとする。くぼみの内側に体を隠すようにしてじっと見ていると、やがて足音の主が山道をやってきた。
「……!」
慌ててくぼみを飛び出す。文字通り、倒けつ転びつ走っていく彼女の目には、負傷した青年が映っていた。足を引きずり、歩くのもやっとといった様子で、長剣を支えにしながら少しずつ前に進んでいる。
「シキ!」
走り寄ると、シキは真っ青な顔に笑みを浮かべた。
「良かった、無事だったか」
「あ、わ、私は大丈夫です。私なんかより、シキの、あ、足が……怪我を」
「最後の最後で不覚だった。俺もまだ甘いな。……それよりクレオ、エイル様とクリフはどこにいる」
クレオの唇がきつく結ばれ、はしばみ色の目に大粒の涙が浮かぶ。
「分かんないの……クルイークに追われて、走っていたんだけど、エイルが足を踏み外して……」
「馬鹿な!」
「ご、ごめんなさい」
シキの声の大きさに驚き、クレオの体がすくみ上がる。
「い、いや、すまん」
「……暗かったし、よく分からなかったけど、崖っていうか、こう、坂になってたみたいなの。それで、エイルを追ってクリフが降りていったんだけど、私はクルイークに吠えられて、夢中で走って……気づいたら、もう独りだった……」
先ほどまでの恐怖が蘇る。枯れたかと思っていた涙が頬に伝う。その様子を見て、シキが荒い息の下から言った。
「クレオは、悪くない……怖かったろう、もう、大丈夫だからな」
安心させるつもりで口にしたが、その言葉が信じられないくらいシキの端整な顔は歪んでいた。右足の痛みはもはや全身に広がり、強靭な身体は疲労と苦痛に侵されていた。少しでも気を抜いたら倒れてしまいそうな痛みに耐え、山道を登ってきたのである。双子を心配する気持ちはもちろんだが、何よりもエイルに対する忠誠心ゆえである。そのエイルを、我が身より大切に思う主君を守れなかった事に対する自責の念は、足の負傷とは比べ物にならぬほどにシキを傷つけていた。
その思いを推し量る事は容易だった。クレオはシキの傷と表情を見比べて、どうしようもない苦しさを感じていた。エイルは今頃どこにいるだろうか。クリフはどうしているのだろうか。二人の生死も定かではない。シキにとっても、クレオにとっても、かけがえのない相手を失ってしまったのかもしれないのだ。全身に寒気が走る。クレオは頭を振ってその考えを打ち消した。
「あの……大丈夫?」
「ああ、何とか、な。……すまんが、肩を貸してくれ」
「は、はい」
シキとクレオでは、頭一つ分以上もの身長差がある。長身のシキを支えるのは楽な事ではなかった。肩の下にもぐりこむようにして、その背中に左腕を回す。ずっしりとかかる重みが、シキの苦痛を感じさせた。クレオは必死に歯を食いしばり、泣くまいと耐えた。
――今は、何も考えちゃ駄目。とにかくデュレーへ行かなくちゃ。早く、傷の手当てを……。
何も考えるな、と言い聞かせても、どうしても罪悪感が渦巻いてしまう。自分は何も出来ない。シキや、ハザムと呼ばれていた傭兵のように、獣と戦うことも出来ない。自分は彼らに助けてもらい、逃げ出したのだ。クリフと同じ速度で走ることも出来なかった。エイルを助ける余裕もなかった。隣を走っていたエイルが足を踏み外し、必死に手を伸ばすのを、息を呑んで見ているしかできなかった。何も見えない崖の下が怖くて、立ちすくんだ。自分が走り寄るより先に、クリフは崖を降りていった。クリフには、何の躊躇いもなかった。自分に助けを求めるエイルの大きな瞳と、呼び止める間もなく駆け降りていったクリフの横顔が、頭の中で交錯する。
――私、どうして……どうして、ここにいるんだろう。連れて行って欲しいなんて、何で言っちゃったんだろう。何も知らなかった。何も出来なかった。こんな私なんか、いても足手まといになるだけなのに、何で……。
突然、左肩が急激に重くなった。支えていたはずの大きな身体がずり落ちてくる。
「あ、ちょ、ちょっと……」
クレオが言っている間に、シキの身体は完全に崩れ落ちた。支えきれず、引きずられるようにして膝をついてしまう。腕の下から這い出すようにして離れ、慌ててシキの顔を覗き込んだクレオは、思わず両手で口を覆った。
「シキ……!」
シキの両目は閉じられ、顔面は完全に蒼白で、冷や汗が滴り落ちている。息は、していないようだった。
「そんな、お、起きて……目を開けて! 嫌、そんな、嘘よ!」
クレオは叫び、シキの体を揺らした。何度揺らしても、何の反応も返ってこない。ふと目をやると、右足の付け根に結ばれていたはずの布が緩んでいる。シキの右足は、腿のあたりを中心にして半分以上が朱に染まっていた。開いた傷から血が溢れ、地面までを濡らしている。
頭から足の先までが何かに縛られたように痺れている。クレオはまるで自分の血がそこに流れているかのように青ざめた。こんなひどいことがあるだろうか。あれほど強く、雄々しく、何者にも屈しなかったシキは、今、自分の眼下に打ち伏している。その顔は染める前の麻布のように白く、もはや何の表情も見て取る事が出来なかった。クレオはあまりの衝撃に、顔を覆ったままうつむいた。
「……」
聞き取れないほどの小さな声が、クレオを呼んでいる。クレオは気づかない。シキの右手がごくゆっくりと動き、クレオの服の裾をひく。かすかな声が、途切れ途切れに何かを伝えようとしていた。ようやくそれに気づき、クレオは慌ててシキの口元に耳を寄せる。彼の言葉をひとつも聞き漏らすまいと、唇を噛み締める。聞き取るのがやっとというほどの小さな声で、シキはいくつかの単語を切れ切れにこぼした。
「……すまない」
最後にそう言うと、シキは再び自らの意識を投げ出した。
クレオは、しばらくじっと動かなかった。しかしついに、その肩が大きく、ゆっくりと、上下に動く。深い息を吐き出した彼女は力を込めて立ち上がると、ぐいと顔をこすった。もう一度大きく息を吸い込み、それをすべて吐く。胸の中にあった何かを吐き出したクレオの目には、強い光が宿っていた。
腕まくりをする。シキが身にまとっていた軽装鎧を、何とか外す。血を見ると首筋が冷たくなったが、頭を振って気を取り直した。手が血で汚れるのも構わず、右足の付け根に布を縛りなおす。そしてぐったりと力を失ったシキの下にもぐりこむと、クレオは、全身の力を込めて立ち上がった。
一歩、また一歩。クレオは足を踏み出す。しかしほんの少し進んだだけで、耐え切れずに膝をついた。下履きに血が滲んだが、それをものともせず、クレオは再び立ち上がる。すぐに汗が頬を伝い始めた。しかし震える膝を叱咤激励しながら、彼女はまた次の一歩を踏み出した。
息が切れる。腕にも足にも力が入らない。これ以上は無理だ。何度もそう思いながら、それでもクレオは諦めなかった。……一歩、そしてまた、一歩。クレオはシキを背負ったまま進んでいく。
それは、何度目かに倒れそうになった時だった。いや、確かに彼女は倒れた。重みに耐えきれず両手と両膝を地についたのである。しかし、両肩がふっと軽くなった。驚き、顔を上げたクレオの目に、彼女と同じ顔が映った。
「クリフ……! エイル!」
二人が、シキの腕と肩を支えている。クリフは半分泣き出しそうな顔で笑っていた。クレオはよろよろと這い出し、シキの体を横たえているクリフに抱きついた。
「クリフ! クリフ! クリフ……!」
それ以外の何を言えばいいのか、分からなかった。体が熱い。喉と唇が震えて、クレオは上手く喋ることが出来ないまま、幼い子供のように泣きじゃくった。クリフも泣いていた。汚れた顔をくしゃくしゃにして、泣いているのか笑っているのか分からないまま、二人は抱きあった。互いの半身を失くしたかもしれないという恐怖から開放され、座り込んだまま、喜びに打ち震える。
「シキ」
双子の兄妹は小さな声で我に返った。横たわったシキの横で、エイルが膝をついている。それは、本来ならば有り得ない状況だった。エイルは今まで、シキが寝ているところなど見た事がなかった。旅をしている間中、シキはエイルより後に就寝し、エイルが目覚める時には既に目を覚ましていたからだ。しかし今、シキはぐったりと目を閉じたまま、固い地面に寝ている。エイルは震える声で、再度呼びかけた。
「シキ、目を開けろ……シキ」
クリフがその肩に手を置き、隣へ座る。クレオは、シキを挟んだ向かい側にしゃがみこんだ。
「ちょっと前……気を失ってしまったの。その時、とにかく村へ行って、人を呼んでくれって言われたわ。自分の体力が回復したら絶対に二人を見つけるから、諦めちゃ駄目だって。それから、エイル様に謝らなければって言って……」
「なら! それなら、今すぐに起きて謝れ!」
シキを見つめて、透き通った青い瞳を潤ませて、少年は大きな声で言い放った。
「早く目を開けるんだ、私に謝る事があるのだろう! それなら……いつまでも寝ているんじゃない!」
「エイル……」
「私の命令だぞ、目を開けろ! 開けろったら!」
シキの身体に乗りかかるようにして、エイルは何度も叫んだ。溢れてしまった涙を拭う事もしない。いやそんな事には気づいていないのかもしれない。浅く息をしてはいるものの、横たわるシキの表情は、安らかとはいい難い。傷は深く、出血はなんとか止まっているが、放っておいて治るものではないだろう。クリフとクレオは何も言えずに黙り込んでいたが、ふとクレオがエイルを見つめる。エイルはしゃくりあげながら、激しく目をしばたいた。
「エイル、ねえ、こういう時のための魔法はないの? 傷を治すとか、そういう魔法があれば、シキは助かるわ」
「……そんな、魔法はそんなものじゃない」
涙で汚れた顔をこすりながら、エイルは説明した。
「傷を治すなんて、自然の力に反していることが簡単にできるわけない。魔法は元々、自然の力に術者の力を加えてより大きな力を出すものだから、自然に反することは出来ないんだ。それに、術法を唱える者にはとてつもない負荷がかかる」
「フカ、って?」
クリフが首を傾げる。
「つまり……とにかく、ものすごく大変だって事だ。火をつけるのも、風を起こすのも、人間の能力を超えていることだろう。自然の力を術で無理やり引き出しているんだ。やり方を知ってるからと言って、簡単に出来る事じゃない」
「そう、なんだね」
「じゃあどうすればいいの……」
「……あっ」
「エイル? 何か思いついたの?」
「うん……いや、ちょっと待て。……よし、そうだ、いや……うん、だとすれば……そうだな、出来るかも知れない」
両眼を中空に据えたまま、エイルは必死に考えをめぐらし始めた。そしてついに、何かを決意したような顔を双子に向ける。
「やってみないと分からない。でも、出来るような気がするんだ」
「僕らに手伝える事はある?」
「私が魔法を唱えている間、シキを呼んで欲しい。眠っている意識に声が届けば、目を覚ましやすいから。それから、もし上手くいってシキが目を覚ましても、痛みは消えない。意識を呼び戻せるかも知れないというだけだから。怪我を治す魔法はないんだ。でもクレオが止血してくれたから……みんなで歩くのを手伝えば、なんとかデュレーまで行けるだろう。二人にも手伝って欲しい、頼む」
「分かった!」
必死に言ってから、エイルは気づいた。人に何か頼みごとをするのは、これが初めてだということに。それは命令でも、指示でもなかった。彼は心から、二人に懇願していたのである。まさか自分がそんなことをするなんて、という戸惑いにはまったく気づかず、双子はエイルの頼みに間髪入れずうなずいた。二人の力強く、迷いのない様子にエイルは震えが込み上げた。なんとかこらえ、平静を装う。
「シキの意識に呼びかけながら、衝撃を与える術法を同時にやろうと思う。やったことがないし、可能なのかも分からないが……出来るかもしれない。今はそれしか思いつかない。やるしかない」
シキの額にかかった黒髪をどけ、右手の中指をそっと置く。左手もそこへ添えた。両手をやりにくそうに組み合わせ、複雑に形作る。何度も深呼吸をして、小さな声で呟く。エイルは、ゆったりとした長い詠唱と、歯切れのよいいくつかの単語を交互に口にしていった。一生懸命なエイルと、呼吸もほとんどしていないようなシキを見比べながら、双子はシキに呼びかけ続ける。
「お願い、目を覚まして。シキ、目を開けて」
「戻ってきて下さい、お願いだから……」
何も起こらずに時間が経っていくのは、例えようもなく怖かった。しかし三人の誰もそれを口にはせず、ただ自分が出来る事だけを根気強く、延々と繰り返した。クリフとクレオは、シキを呼んでいる。何度も、何度も。エイルは、何かを唱え続けている。集中力を途切らせぬよう、必死で。三人とも、願いはたった一つである。
東の空が、薄ぼんやりと白み始めていた。
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