Legend of The Last Dragon −第五章(3)−

手に持っていたはずの灯火が、いつの間にかなくなっている。何度も転んだせいで服の裾は破れ、手足にも擦り傷がいくつも出来ていた。風が鳴る音と、切れ切れの息遣いが聞こえる。ただし、聞こえる息遣いは一つだけ。自分の呼吸音だけだった。

「……っ」

幾度となく拭った涙が、再び頬を伝う。汚れた顔に、再び涙の筋がついた。重い足は、もう動かない。前後左右を見回しても、誰の姿も見えず、もう何の音も聞こえなかった。しゃくりあげる自分の声が、やけに大きく響く。堪えきれず、クレオはしゃがみこんだ。

「もう嫌……どうすればいいの、怖いよ……」

頭を抱えて目を閉じても、悪夢は醒めない。どこまでも続くかのような山道、ごつごつとした岩肌、吹き渡る夜風。サナミィの村にいた頃はあれほど優しく見えたメルィーズも、今は冷酷なまでに白く、冷え冷えとした光を投げかけている。彼女は見知らぬ山中で、独りきりだった。耐え切れず、嗚咽(おえつ)が漏れる。一度泣き出したら、もう、駄目だった。次々と涙が溢れ、身体の震えは止まらない。

「誰か……助けて……助けてよぉ!」

小さく叫んだ声は、どこまでも虚しく響く。押し寄せる孤独が今や彼女を完全に支配し、押し潰そうとしていた。誰でもいい、誰かがそばにいてくれたら……。そんなクレオの希望は叶えられる事なく、助けが来る気配もなかった。クレオは独りきりで、取り残されてしまったのである。

クレオが孤独に苛(さいな)まれている、その場所から半ロッカほど離れたところにクリフとエイルはいた。

「ク、クリフ……どうするんだ、どう、どうすれば……」

「しっ」

二人は、切り立った岩壁を背にしていた。左側も岩が切り立っていて、右側は崖が落ち込んでいる。そして正面には、二頭のクルイークが歯茎をむき出し、よだれをたらしていた。一頭はクリフの正面で、もう一頭はその斜め後ろで、頭を低くして身構えている。クルイークたちは歓喜の唸り声を上げながら、いつ飛び掛ろうかと算段しているように見えた。一歩でも動いて逃げようとすれば、たちまち飛び掛ってくるだろう。

まさに絶体絶命、といった状況である。普通の人間ならば目を背けて震える。事実、エイルはクリフの影に隠れるようにして目をぎゅっとつぶっていた。しかし、クリフは違った。ラマカサで買った鋼の弓を左手に携え、両足を開いてしっかりと立っている。岩壁を背にしてクルイークたちと向かい合った瞬間から、クリフはそうしてぴくりとも動かなかった。

――目を逸らしてはいけない。

その言葉を、何度言われたか知れない。サナミィの森で狩りをする時でも、危険な目に遭う可能性はあった。実際に、猪と対峙した事もある。父は息子に厳しく言い聞かせていた。どんな獣に出くわした時でも、相手を恐れずに睨め。決して目を背けてはいけない。怯えた様子を見せてもいけない。大声を出して騒いでもいけない。目を見て、時を待つのだ。父はそう言った。それから、決して諦めてはいけない、とも。

怖がっている様子を相手に悟られるわけにはいかない。そう思い、ともすれば震えだしそうな両足を踏みしめる。助けは、来ない。シキが来るなどとは、クリフは考えようともしなかった。

――俺がやらなくちゃ駄目なんだ。

ほんの一瞬でも、隙を見せたら全てが終わる。クルイークたちは嬉々として襲いかかり、柔らかな獲物を牙で裂き、骨まで食い尽くすだろう。彼らは低く唸りながらも、今はまだ近寄ろうとしない。睨み合いはいつまで続くのだろうか。長い時間が経てば、結局はやられてしまう。精神力を消耗し尽くさないうちに、何か手を打たなければならなかった。

一頭倒せても、その間にもう一頭に襲われる。エイルだけを逃がそうか、という考えが頭をよぎった。けれどクリフ一人で二頭を倒し、エイルを追わないようにするなどという事が出来るだろうか。仮にエイルが逃げられたとしても、一人で崖を登り、クレオやシキと出会う事が出来るだろうか。クリフは、頭の中に見え隠れする「死」という単語を、必死に打ち払った。後ろから、エイルのか細い声が聞こえる。

「ク、クリフ」

エイルは、立っているだけで精一杯だった。早鐘(はやがね)のように高鳴る心臓と、乾き切った唇。大きな瞳を満たす涙で視界が霞む。喉が詰まったようになり、息もろくに出来ない。クリフの肩越しに見える獣は、実際の数倍も大きいように思えた。その鋭い爪、牙、光る目……巨大な牙から唾液が滴っている。エイルは思わず失神しそうになった。腰から下がなくなってしまったように、力が入らない。何もしていないのに、苦しい呼吸はどんどん早まっていく。怖がっていると思われたくはないが、もうすっかり泣き顔である。

「クリフ、あ……あれを何とかしろ」

当然の事だが、クリフはその言葉に振り向きもしない。文字通り、微動だにしなかった。エイルはそれについ苛立つ。がくがくと揺れる膝を押さえ、エイルは欠片(かけら)ばかりの威厳を保とうと躍起(やっき)になった。相変わらず背中に隠れたまま、早口に言う。

「ど、どうするつもりなんだ……。このままというわけにはいかないんだぞ。あれは、あれは私を襲うつもりなんだろう」

「分かってる。今、考えてる。獣は手負いにしたら余計危険だ。一頭を確実に殺した直後にもう一頭も殺さなくちゃいけない」

「え……あれを、こ、殺すのか」

「じゃなきゃこっちが食われる」

あまりにもあっさりと口にするクリフに、エイルは絶句した。何かを殺すという事も、自分が死ぬという事も、幼いエイルには非現実的すぎて受け入れられなかった。このままでは恐ろしい事になる、死んでしまうかも知れない。漠然と、そう思ってはいた。しかしあの巨大な獣に自分が食べられるなどと言うのは、この状況になってさえ、エイルには考えられなかった。まざまざとした死を想像して、エイルの全身から力が抜ける。

「そんな……そんなの、嫌だ」

「一撃で倒さなくちゃ駄目なんだ」

クリフの耳には、エイルの言葉が届いていないようだった。隙を見せぬようにして、矢筒に手を回す。クルイークをしかと睨みつけたまま、ゆっくりと二本の矢を引き抜く。獣たちの唸り声が、ぐっと高まった。

「クレオが……エイルは火をつける魔法を知ってるって言ってた。これを火矢に出来れば勝てる可能性がある」

そう言って一本を後ろ手に渡す。目の前に突き出されたそれをこわごわ受け取ったが、エイルはすぐに首を振った。

「で、出来ない」

「出来なくても、やるしかないんだ」

「だって、も、燃やすものが、何もないし、こんな状態じゃ、集中出来ない……」

「やるんだ。早く」

「でも……でも無理だ。出来な……」

「いい加減にしろ!」

クリフの鋭い声に、エイルは息をのんだ。出来ない、と言いかけた口が開いたままになり、大きな瞳が食い入るようにクリフの後頭部を見つめている。クリフは前を向いたまま、早口で続けた。

「やらなきゃ死ぬんだ。早くやれよ!」

今まで身じろぎもしなかった一頭のクルイークが、姿勢を変える。すぐ後ろのクルイークは、徐々に距離を詰め始めた。二頭は、獲物を逃がさぬように攻撃態勢を整えている。

クリフはゆっくりと矢を番(つが)え、狙いを定める。瞬き一つしないはしばみ色の目が、言葉にならぬ迫力をもって獣たちに据えられていた。

その後ろで、エイルが何かを唱えている。矢に右手をかざし、小さな声で必死に念じるが、何事も起こらない。両手はじっとりと汗ばみ、水色の瞳はきつく閉じられていた。単語を組み合わせた短い言葉を、何度も何度も口にする。永遠とも思える時間が、砂時計の砂が流れ落ちるように、ゆっくりと過ぎていった。

クリフが乾いた唇を湿らせた時、背後で小さな音が聞こえた。それは火がつく時の、あの特有の音だった。

「貸せ!」

クリフの声と、ほぼ同時だった。一頭のクルイークが咆哮を上げる。クリフの身体に震えは走らなかった。飛びかかってくる巨体を真っ直ぐに見、しっかりと定めた狙いに向かって火矢を射る。力強く引かれた鋼の弓が鳴り、矢はクルイークの喉元深くに突き刺さった。魂切(たまぎ)る絶叫が闇を切り裂く。間髪いれず、小指に手挟(たばさ)んでいた二の矢を放つ。それがもう一頭の目に命中したのを見ながら、素早く矢筒から次の矢を引き抜いた。のた打ち回る獣を狙うのは困難だったが、三の矢は見事にその首に刺さった。クルイークは激しく痙攣(けいれん)し、やがて、動かなくなったのである。

いつでも使えるようにくわえていた矢を口から外し、大きく息をつく。脱力感を感じながら後ろを見ると、エイルが呆然と座り込んでいた。声をかけるべきかどうかためらう。クリフは一度エイルに背を向けると、息絶えているクルイークの死体に近づいた。

もう二度と動かない事を確認し、太い前足を乗り越える。自分の何倍もありそうな頭。大きく開いた口と、光を失ってどんよりと濁(にご)った目。だらりと垂れた舌は、二サッソ以上もありそうだった。口を覗くと、その奥に矢が深く突き刺さっている。それを抜くのは諦め、もう一頭の目から矢を引き抜いた。喉に刺さった矢は折れている。結局、一本だけを手にしてクリフはエイルのところへ戻ってきた。

「大丈夫?」

しゃがみこんでエイルの顔を覗きこむ。さっきまでの姿勢のまま、エイルは視線だけをクリフに投げた。力が入らず、動けないようだ。

「その、さっきはごめん。王子様なのに……」

そう言いながら、クリフは頭をかいている。反省しきりといった様子は、凛として矢を放ったクリフとは別人のようだった。エイルは口を半分開けたまま、その顔を見つめている。

「あ、いやその、申し訳ありませんでした」

慌てて膝をつき、エイルの表情を伺うように見るクリフ。だがエイルは、小さく首を振った。

「いいんだ……。誉めてとらせる……いや、違うんだ……」

か細い声で言うと、エイルはうつむいてしまった。クリフが立ち上がり、座り込んでいるエイルに手を差し伸べる。

「立てますか?」

「……うん」

「クレオとシキを探しに行きましょう」

「クリフ……敬語は、いい」

「え?」

「……さっきは、本当に死ぬかと思ったんだ。だけど、助かった。クリフが、やったからだ。その、お前のおかげで、助かったから……だからその、なんて言えばいいんだ? 誉めたいんじゃないんだ、その……」

「『ありがとう』でいいと思うな」

見上げると、クリフは母親譲りの優しい笑みを浮かべている。

「あ、ありがとう」

「こっちこそ! エイルが火をつけてくれたから、助かったよ。ありがとう」

エイルは顔を赤くして立ち上がり、服の埃をはたいた。クリフは持っていた矢を矢筒にしまう。それから二人は揃って背後の崖を見上げた。彼らはこの上の山道から滑り落ちてきたのである。エイルが、恐る恐る口を開く。

「ここは登れないだろう。どこか上に行ける道を探さねば」

「そっか、そうだね。よしっ、早いとこ道に戻ってクレオを探そう」

二人はクルイークの死体をまわりこむようにして、岩壁伝いに歩き始めた。

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