Legend of The Last Dragon −第六章(5)−

一般的な宿は一階が食堂兼酒場になっていることが多く、食事時、特に夕食時は大いに賑わう。だがそれも時刻が遅くなるにつれて静まり、定められた時間を過ぎれば明かりを消す。それが町の平和と秩序を守るための決まりだった。だが、中には営業許可を取って遅くまで店を開けているところもある。ティレルの宿も月に数回、そういう日を設けていた。客の男たちが楽しみにしているのはこの宿の看板の文言――食事と布団と素晴らしき調べ――である。

店の中央にある丸い大きな机は、屋根を支える大きな柱を取り巻くように作られていた。大胆なにもその机に乗った女が、太い柱に寄りかかって歌っている。丸い果物を縦に割ったような形の、ウードと呼ばれる弦楽器を抱(いだ)き、力強くかき鳴らす。固く目を閉じ、その綺麗な眉根を寄せて歌っているのは、英雄の歌だ。早く、力強い曲調が男たちを興奮させる。次第に早くなっていく手拍子。男たちのがなり声にも負けぬ張りのある歌声が高らかに響き、それがまた男たちの心に火をつける。これ以上ないほどに盛り上がった曲が終わると、割れんばかりの拍手が店に満ちた。

矢継ぎ早に次の歌の注文が飛ぶ。歌姫が選択したのは、故郷を想う歌だった。先ほどとは違う調子で、物悲しく歌い上げる。今度はウードを横たえ、静かに鳴らした。故郷の幼馴染と遠い町で再会し、恋に落ちる女の歌。店の誰もがうっとりと聞き惚れる。

歌姫の声は、いつも客を陶酔させた。透き通るような、それはまるで山の澄んだ風のような声だった。彼女は歌い続ける。ハーディスの賛歌や収穫の歌、旅人の歌、労働の歌、また恋の物語を。汲めど尽きせぬ泉のように、歌は止めどもなく溢れた。一曲終わるたびに、惜しみない歓声と喝采が送られる。

客がみな聞き入っているので、クリフたちも仕事がない。食堂の隅、ナールとエイルのところへ来て、クレオが言った。感動しているのか、目が少し潤んでいる。

「なんて言ったらいいのか分からないけど、本当に素敵な声……」

「本当に。上手とか、そういう言葉じゃ足りないね」

少し前に盆を下げにきていたクリフが続ける。エイルも素直な賞賛を口にした。

「私も様々な歌い手を見た事があるが、その中でも十指に入る。素晴らしい」

「歌には力がある」

滅多に口を開かないナールが呟いた。双子とエイルの視線を受け、彼ははにかんだような顔で続けた。

「昔から、ティレルはよく歌っていた。だが、母が死に、宿をやるようになってから、どんどん上手くなっていった。歌うことで、母の死を癒していたのかも知れない」

ナールがこれほど多く、続けて口を利くのは初めてである。双子やエイルは驚き、ナールに視線を注いだ。

「お母さんも上手だったの?」

「ああ、とても。俺たちの父は旅人で……俺は会った記憶もない。小さい頃は淋しくて、夜はなかなか眠れなかった。でも、母が歌ってくれると、すぐに眠れた。嫌な事があった時も、悲しかった時も、母と一緒に歌えば楽しくなった。俺も、ティレルも、母の歌が好きだった。本当に、歌には、力があるんだ」

「ティレルの歌を聴いていると活力っていうか……元気が湧いてくるよ。だからこうして多くの人が訪れるんだね」

「私がいた頃、王宮には専属の歌い手が幾人もいたが、こういう力を持つ者は少なかったぞ」

クリフとエイルは手放しの誉めようである。

伸びやかな歌声が酒場に響く。それは黄金の波のように艶やかに、柔らかく、人々を包み込んだ。クレオが放心したように呟く。

「歌には力があるって、本当ね……」

夜の深い黒色に染まった山肌。その闇に溶け込むように、デュレー全体が眠りに沈んでいる。家々の壁につけられた松明(たいまつ)の灯りが、獣が入らぬよう見張りをしているだけで、通りを行き過ぎる人の姿はない。

薄暗い、誰もいなくなった酒場。すべての椅子を机に上げ、床を拭き終わったティレルが満足げに息を吐く。

「ようやくこれで綺麗になったわね」

一つ椅子を下ろし、腰掛ける。気分良く歌っていたが、今日は思ったより遅くなってしまった。ナールには先に寝ていいと言って、彼女は最後の片づけをしていたのだが、もう夜中だ。

手にした布巾で、拭くともなく机をなでる。自然と、柔らかな旋律が唇からこぼれた。どんなに疲れていても歌が出る。不思議なものだ。

母がいつも歌っていた子守唄。他に歌っている人を聞いた事がないから、母が適当に作ったものかも知れない。ティレルにとってはとても特別で、一番好きな唄と言ってもいい。客の前では決して歌わない、自分だけの大切な唄。それをティレルは優しく繰り返した。

階段の踏み板が軋んだ音を立てる。振り返ると、涼やかな視線があった。

「綺麗な歌だ」

聞き慣れているはずの賛辞に、ティレルは顔を赤らめた。

「ありがとう。……怪我は大丈夫なの?」

「ああ。歩く程度なら痛みもない」

シキは階段を下り、ティレルの座る机までゆっくりと歩いた。

「まだ本調子じゃないが、動かないと鈍(なま)ってしまうからな」

「そうね。でも、無理はしないで」

「ああ」

凛々しい顔に笑みが浮かぶ。ティレルは染まった頬を自覚し、隠すようにして立ち上がった。豊かな黒髪が揺れる。

「何か、飲む?」

「そうだな。じゃあ、ミコル酒を」

棚から酒瓶を取り出す。杯を用意する。それにミコル酒を注ぐ。シキはそんなティレルの動作をじっと見つめていた。その視線に気づいていたが、ティレルは顔を上げなかった。

「やはり、俺は避けられているようだな」

小さな溜息と共にシキが言う。

「え、どうして? そんなことないわよ」

ティレルは目を合わせぬまま、笑顔を作ってみせた。シキは再び嘆息する。

「……じゃあ、私も、ちょっと飲もうかな」

ちらと横目でシキを見ると、真っ直ぐな視線に射抜かれた。鼓動が高まる。ティレルは自分の顔が赤らんでいると知りつつ、今度はその嬉しさを隠せなかった。

二つの杯が重なり、ミコル酒の透き通った赤い色が揺れる。しばらくの間、沈黙が流れた。

「さっきの……」

「シキは……」

「あ、いや」

「いいえ、あの」

同時に口を開き、二人は目を合わせて笑った。ティレルのどうぞ、という仕草に、シキが改めて口を開く。

「さっきの歌は、何という題名なのか聞こうと思ったんだ」

「名前は知らないの。母が歌ってくれた子守唄よ。……母が残してくれたのは、この宿と、歌だけ」

「母上はご病気で亡くなったそうだな」

「ええ、もう十年以上も前にね」

「父上は?」

「父は、旅人だったの。私は数回しか会った事がないわ」

「そうだったのか」

「幼い頃は、そりゃあ淋しかった。母は平気だと言っていたけれど、私にはどうしてそう言うのかが分からなかった。本当は淋しくて死にそうだったんじゃないかと思うわ」

シキは黙っている。ティレルはこんな風に言ってはいけないと強く思いながら、だが勢いは止まらず声を高くした。

「旅人と恋に落ちるなんて、幸せになれるとは思えないわ。だってそうでしょ? 母はこの村で育ったし、宿屋もあるし、ここを離れられないわ。この村の女はみんなそうよ。でも、旅人は必ずまた去って行くわ。父が旅立ってしまったら、もう二度と会えないかも知れないのよ? 寂しいでしょう?」

シキは何も言わなかった。だがその顔に浮かんだ感情を、ティレルは一瞬のうちに理解し、そして目を背けた。自分は、旅人に恋などしない。ティレルは子供の頃からそう決めていた。

「そんなの、悲しいわ」

呟くように言い、沈黙する。シキも黙ったままだ。やがて、雰囲気を変えるように、シキが柔らかく言った。

「さっきの歌は本当に綺麗だった。歌もいいが、歌い手がいいからだな」

「意外と口が上手いのね」

「本当のことを言っただけだ」

シキは恥ずかしげもなく言う。ティレルは耳の近くの髪をいじった。

「で、ティレルが言おうとしていたのは何だったんだ?」

「ああ、うん。その、シキの事を」

聞こうと思ったんだけど、と続けようとして、ティレルは口をつぐんだ。「あなたの事を知りたい」と正面切って口にするのは難しい。第一、旅人の事を詮索してどうするというのか。

――やめておこうと思ったばかりよ。

旅人に恋はしないと決めた。心の中で繰り返す。再び沈黙が酒場を満たした。

「……俺の怪我も、もうすぐ治る」

「そうね」

「治れば、出発だ」

「……そうね」

「寂しくなるな」

ティレルは何も言わず、シキの顔を見つめた。シキはティレルから目をそらさない。ティレルはうつむき、しばらくして、静かな歌を口ずさみ始めた。

旅を続ける男に恋焦がれる女。「もう二度と戻っては来ないの」と問いかけ、「どうしてこんなに愛してしまったの」と嘆く。だが女はそれでも愛し続け、いつかもう一度男に会える日を夢見ている。本来は速く、情熱的に歌う曲だが、ティレルはどこまでも静かに、感情を抑えて歌った。それを聴くシキの体に細かな震えが走る。歌い終えたティレルが顔を上げた。僅かに潤んだ瑠璃色の瞳の中で、立ち上がったシキの姿が揺れる。ティレルはつられるようにして立ち、一歩踏み出した。

メルィーズの月光に照らされて、冷たい石畳が白く輝いている。通りに連なる建物は、白い石畳を引き立てるように黒く染まっている。その通りに、いくつかの影がうごめいた。影から影へと伝い、それらはティレルの宿に近づいてくる。細い影が、大柄な影に宿を示した。いくつもの影がそれに続く。

……宿の灯りは消えている。

ここのところ毎晩、クレオは寝付けないでいた。いびきをかくクリフを横目で見ながら、溜息を吐いてばかりだ。今夜も、窓の外で夜空に凛と輝くメルィーズを見上げて、クレオは何度目かの溜息を、大きく吐き出した。

――眠れない……。

寝ようと思っても、胸が苦しい。寝返りを打つのにも疲れた。もう一度、更に大きな溜息を吐いてから、クレオは布団を抜け出した。同室のクリフを起こさないよう静かに寝台を下り、部屋を出る。

階下から話し声が聞こえる。無意識で階段に近づく。下を覗かずにはいられない。何故か、姿を現してはいけない、という警鐘が頭に響いていた。

明らかにシキと分かる背中が見え、その首に細い手が巻きついている。その手首を飾っている装飾品にクレオは見覚えがあった。シキの肩越しに黒髪が波打つのが見える。だが、そんなものを確認せずとも、それが誰か、クレオには瞬時に分かった。逞しい腕が相手の腰に回っている。クレオは目眩を感じた。二人が階段脇の部屋へ入るのを、ゆっくり見てはいられない。目を強く閉じ、背を向ける。

階段から離れ、廊下の反対側に向かってよろよろと歩く。廊下の突き当たりにある窓を思いきって開け放つと、冷たい夜の空気が流れ込む。夜空にはメルィーズが、白く細い姿を輝かせていた。

並んだ部屋の扉が一つ開き、クリフが顔を覗かせる。

「クレオ?」

「……」

「……泣いてるの?」

声にならないクレオは、黙って首を横に振った。

「クレオ」

クリフが慌てて駆け寄ってくる。以前は同じ高さだった肩が、今は少し高い。心配そうに覗き込む双子の兄にもたれかかり、クレオは声を出さずに泣き続けた。

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