Legend of The Last Dragon −第二章(5)−

部屋は薄暗く、湿っぽい匂いがした。土はぬかるんでいて冷たく、裸足なのがとても辛い。左右の足を交互にさすってはいたが、いつまで経っても温まらなかった。部屋には小さな椅子が一脚置いてあったが、それには妹を腰掛けさせていたので、兄はもうずっと長い間立ちっぱなしだ。べたべたとしている土の床に座る気には、到底なれない。部屋の壁は三面が煉瓦で、残る一面が鋼の格子だ。顔を出す事も出来ない幅で埋め込まれている鋼の棒。外を覗くと、暗く狭い廊下を隔てた向かいにも同じような部屋があり、小さな子供が壁に寄りかかっているのが見えた。

「ねえ……いつになったらここから出られるのかな」

妹が、これまでに幾度もした質問を繰り返す。兄も、同じ答えを返すしかなかった。

「そんなの……分かんないよ」

彼らは、それほどひどい取り扱いを受けたわけではなかった。むしろ子供たちは、労働力として扱われる奴隷たちに比べれば、ずっと良い扱いだったと言わなければならない。しかし、今までの生活とは比べるべくもない。言うまでもなく、彼らは売られる立場になった事がなかったのだ。

子供たちは恐怖に怯えながら、ただ何かが起こるのを待つばかりだった。はしばみ色の瞳が、他の子の瞳と同様に揺れている。時間は無駄に経過していき、言い知れない不安が子供たちの上に重くのしかかっていった。

突然、長い廊下の突き当たりにある、重い鉄の扉が音を立てた。不安に駆られた多くの瞳が吸い寄せられる。姿を現したのは背中の曲がった男だったが、扉の向こうが明るいせいで表情は分からない。男は扉を半分ほど開け放したまま、のそのそと廊下を歩いてくる。子供たちの緊張が高まる。唾を飲み込んだ音がやけに大きい気がする。心臓の音が、男の足音と相まって響く。

男は一番奥の牢屋まで来ると、格子越しに手を突っ込んだ。不恰好な手が、袋から取り出した硬そうなパンを握っている。

「ほれ、これでも食え」

牢の中の兄妹はしばらく顔を見合わせ、一人が小さく頷くと、もう一人が進み出てそれを受け取った。おずおずと礼を言って、頭を下げる。

「ど、どうもありがとう」

「言われる筋合いじゃねぇ。言われた仕事やってんだけだ。夜まで大人しくしとれ」

「あの……」

「あんだ?」

「……俺たち、これからどうなるの?」

「ああ、心配だか。売られんだよ、すげえ金持ちにな。きっと可愛がられるさぁ。ええ服着せられて、ええもん食えるさな。ま、おいらは頼まれたってごめんだがなぁ、ふぇっふぇっふぇっ」

気持ちの悪い、掠れた声で笑うと、男は隣の牢へ行ってしまった。そして同じようにパンを格子に突っ込んでいく。やがて全ての牢屋に粗末な食事を届け終えると、男は腰の鍵束をがちゃつかせながら去っていった。外の明かりが差し込んでいた廊下は、男が鉄の扉を閉めると共に、再び薄暗くなる。子供たちの緊張は解けたが、扉の閉まる音にいくつもの溜息が重なった。一番奥の牢の中では、同じ顔の兄妹が、他の全ての子供たちと同じように悲嘆に暮れていた。

デルファーナの酒場の一番奥には扉があり、大きな錠前がかけられていた。主人に合い言葉を言えば案内されるという仕掛けだが、錠前を開けてもらうためにはもう一つの難所がある。リンのいる小部屋である。彼女の許しがなければ扉の内へ入るわけにはいかない。「デルファーナの蛇」と呼ばれる女は、その細い目で客を眺める。「奥」へ入る資格があるかどうか、客の品定めは彼女の仕事だった。

資格ありと認められた人間はようやく扉に手をかける事が許され、地下へと続く廊下に出る事が出来る。廊下には油の燃える臭いが漂い、先へ進めば酒場の喧騒も遠くなっていく。徐々に下っていく坂道は何度も曲がりくねって客を導く。「一体どれほど歩いたのだろうか」と心配になるほど長い間、客はその静かな廊下を歩いていくのだ。やがて、その目に分厚い金属製の扉が映る。それこそ、選ばれた客のみが辿りつける「市」への入り口だった。

扉に鍵はかかっていない。しかしそれを開けるのは一筋縄ではいかなかった。その厚みと重みが、何よりの障害となるからだ。客を案内してきた護衛兵が渾身の力を込めて扉を引く。すると、人々のざわめきと杯や食器がぶつかり合う音が耳に飛び込んで来る。

部屋はさほど広くはない。低い天井は壁から続く煉瓦造りで、ところどころ焦げたような跡がある。丸い部屋を囲んでいる壁にはいくつかの窪みがあり、それらはアルコーブと呼ばれていた。部屋の明かりはアルコーブの中まで照らさない。机に置かれた小さな蝋燭(ろうそく)が、そこに座る人々の影を壁に映し出していた。部屋中に広がる煙草の煙は、明るいはずの室内を煙らせて視界を遮り、あちこちで焚かれている香の煙が鼻につく。

乱雑に置かれた机や椅子。男たちがその大半を埋めて座っている。彼らは肌の色も、瞳や髪の色もまちまちだったが、共通しているのはその雰囲気だった。昼間の陽光の元ではどんなに正直そうに見える事だろう。しかし夜中のこの場所では、どう親切に見ても、善良な商人には見えなかった。彼らはひそひそと低い声で商談を取り交わし、油断のない目をあたりに配っている。強欲な高利貸し、暴利を貪(むさぼ)る悪徳商人、多くの奴隷を酷使する大地主などなど、まっとうな生活をしている者はここにはいない。身につけているものはどれも高級そうなものばかりで、大抵は横に奴隷をはべらせていた。ひどい者になると、奴隷の首にひもをくくっている者までが平然と座っている。しかし誰もそんな事を気にも留めない。ここは人道という言葉が存在しない地獄だった。

壁のアルコーブに身を沈めている者たちが、更に怪しげな空気を作り出している。大抵は豪奢な色とりどりの服を着ていて、大きなマントを身にまとっている。宝石を縫いつけた仮面などで、顔の半分以上を覆っている者も多い。彼らは暗く沈んだ影の奥から目を光らせている。顔を知られてはならない身分の者たち。側仕えの奴隷がアルコーブを出入りし、食べ物や酒の注がれた杯を運んでいる。

机や椅子はきちんと整列されておらず、人々は好き勝手に陣取っていた。その隙間を縫うように奴隷が忙しく立ち働いている。部屋の奥の方には丸い台が設置されていた。今ちょうど浅黒い肌の男が壇上に上がってきたところである。男が指を鳴らすと、台の奥の通路から肌もあらわな二人の女性が現れた。彼女たちが台の上で踊りだすと、その手で鳴らされる鈴つきの太鼓が派手な音を立てた。客がその音で台を注視すると、待っていたかのように踊り子たちはひっこみ、司会の男が台の中央で口上を始めた。

「続いて参りましょう。次の商品でございます。皆様もご存知でしょう、伝説の狂王と名高いレガリアル二世。彼が使っていたとされる金杯でございます」

言い終わると、先ほどの踊り子が赤い布に包まれた商品を捧げて壇上に上がる。わざとらしくもうやうやしい様子で布を取り除くと、客の間から溜息と賞賛の声が漏れた。金で作られた杯の表面には大粒の宝石がいくつも埋め込まれ、燦然(さんぜん)と光り輝いている。客の中には壇のそばへ寄ってよく見ようとする者もいたが、大柄な護衛兵に押し留められる。

「どうぞ」

司会が言うと同時に部屋のあちこちから檄(げき)が飛んだ。イルバの町で行われる通常の競りとはまったく違う形式の、闇競りと呼ばれるやり方である。通常、競りというのはごく静かに行われる。人々は黙って、決められた仕草を示すだけだった。しかしここではそんな上品な取り決めはない。彼らは口々に金貨の枚数を言い合い、叫び合った。アルコーブの中の者は黙ってその様子を見物し、彼らの代表となる者が台の近くで戦うのが通例だった。声は少しずつ減ってゆき、最後は数人の戦いになる。レガリアル二世の金杯は、右隅の机に座っている男が競り落としたようだ。最後まで粘っていた太りすぎの商人は、舌打ちをして背を向ける。

「繰り返しますが、商品はどれも明晩のお引き渡しとなっております。必ず仰った額だけの金貨をお持ちになって、再度ご来店下さいませ。……では引き続いて参りましょう。次は薬でございます。遥か海を越えて伝わりました貴重品。ガゾックの根をすりおろしまして粉末に致しました」

司会の言葉に商人たちはざわめきたった。

「ガゾックの粉か! 熱病ならどんなものでも治すという」

「いやいや、飲みすぎれば猛獣バークーンをも殺すそうではないか」

「扱い方を間違えれば持ち主も危ないと言うな。そのガゾックの粉に、こんなところでお目にかかれるとは」

「これは是が非でも落とさなくてはな。いくらで売れるかと考えただけでも……」

騒ぎが収まるのを待って司会の男が再び口を開く。

「皆様もご存知の事と思いますが、ガゾックは非常に高価なものでございます。今回は運良く手に入れる事が出来ましたが、次はいつになるやもわかりません。それを計算に入れた上でお値段をどうぞ」

値段はあっという間に吊り上った。客はみな上限を知らぬほどに熱狂し、高価な薬を競り落とそうとしている。

レノア金貨が一枚あれば、かなり高額の品が手に入る。馬一頭は、金貨が二枚もあれば買える。それが今や、たった一袋の粉に対して何十枚という単位で上がっていくのである。既に手を引いた末席の商人たちは、口の端を吊り上げ、その様を見ていた。恐ろしい事になってきたと小声で言い交わしながらも、彼らの目は事の成り行きを楽しんでいる。

結局、どこかの貴族が競り落とす事に成功したようだ。かなりの代償だったのだろう。同じ席についている女性が慌てた表情を浮かべている。が、彼は満足そうな笑みを見せた。彼がそれをどう使うのか、それは今夜ここに集まった客には興味のない事。彼らは既に次の商品に目を向けている。

「さて、いよいよここからが本番でございます。どなた様もご注目下さい。他では手に入らぬ最上級品をご用意致しました!」

踊り子が八人に増えて、鈴と太鼓をせわしく鳴らした。身体をなまめかしくくねらせて、彼女たちは踊る。台の奥の通路から、滑車に乗せられた檻が運ばれてきた。踊り子たちは一層激しく腰を振り、客の熱気を煽る。人々は身を乗り出して壇上の檻に入っているものを眺めた。その目はどれも食い入るように、檻の中に吸いつけられている。

それは、子供の入った檻だった。最初に出された檻の中には、透けるような白い肌の幼女が座り込んでいる。流れるような緑の髪はこの世の者とも思われぬほど美しく、その怯えきった表情が、それにまた華を添えているとも言える。彼女はまるで陶器で作った人形のように綺麗で、儚げだった。

客は先ほどよりも更に熱くなって競りにかかった。最初の「商品」を競り落としたのは大富豪の男で、舌なめずりをしている。彼女の行く末に、正常な人間なら身の毛もよだつだろう事が待っているのは明白だった。

次々と少年や少女が引き出され、競り落とされていく。当然、公の奴隷市なら、子供を檻に入れて競りにかけるなどという事は許されていない。しかしここでは、それはさも当たり前のように行われていた。疑問や後悔、また怒りを覚える者は誰もいない。

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